メインコンテンツへスキップ
見出し画像

「えっと……」と言葉を探したまま、ホワイトボードの前で無言の時間が流れていた。

    研修講師としての役割を考えるとき、いつも心に浮かぶ景色があります。

    決められた時間の中で、用意した図を完成させること。あるいは、受講者の方に「満足感」を持ち帰ってもらうこと。

    どれも大切に思えますが、わたしは先日、自分の中で「未完成」のまま終わらせたと記憶していた研修が、思いがけない果実を連れて戻ってくるという経験をしました。

    そんな出来事について、書き留めておこうと思います。



    研修講師をしていて、「これは、うまくいったな」と思える回数は、正直それほど多くありません。


    むしろ記憶に鮮明に残っているのは、「もっと別のやり方があったのではないか」と、後から何度も反芻してしまうような回です。そんな、わたしの中では「未完成」だったはずの研修が先日、思いがけない形で戻ってきました。


    ■「うまくいかなかった」はずの研修が、つないだ縁


    ある日、かつての受講者から一通のメールが届きました。

    「グループ会社の社長に当時の資料を見せながらVEの話をしたところ、『ぜひ、うちでも研修をお願いしたい』と依頼されました。どう進めればよいでしょうか?」


    わたしの伝えたことが受講者の手によって、新たな場所へ広がろうとしている。その事実に胸が熱くなると同時に、不思議な感覚に包まれました。


    「あの研修の、どこがそんなに響いたのだろう?」

    「たしか、あまりスムーズには進まなかったはずだけれど……」


     ■ホワイトボードの前で、ペンが止まった瞬間


    その研修は、マンツーマンで行われました。

    受講者の方に実際の業務課題を出してもらい、一緒に「機能系統図」を書き進めていく。ところが、途中でペンが完全に止まってしまったのです。


    適切な動詞が出てこない。ペン先が宙に浮く。

    受講者もわたしも「えっと……」と言葉を探したまま、ホワイトボードの前で長い無言の時間が流れました。講師にとって、この沈黙は時に恐ろしいものです。


    わたしの頭の中では、激しい葛藤が続いていました。


     ■「答えを回収したい自分」との対話


    「それらしい動詞」をわたしが置いてしまえば、図は形になり、矢印もつながります。研修としての“進んだ感”も出るでしょう。


    (でも、それはしてはいけないことだよね)

    わたしに言い聞かせます。けれど、もう一人の自分がささやくのです。

    「このまま止まったらどうするの?」

    「時間が足りなくなるよ」

    「受講者が『できなかった』という感覚のまま終わってしまうよ」


    “相手のため”という言葉を隠れ蓑にして、実は“講師として体裁を整えたい”というエゴが混じり合う。

    そこで、わたしは踏みとどまりました。


    「何のために?」「どのようにして?」

    その問いの答えをわたしがすべて回収してしまったら、受講者の手元に残るのは、単なる「わたしの答え」になってしまう。


    わたしが研修で届けたい価値は、それではなかったはずだ、と。


     ■「待つ」という選択、未完成という結果


    受講者の口から言葉が出てくるのを、待つ。

    「何のために?」を、自分の言葉で定義できるまで、待つ。

    わたしも一緒に、その場に立ち止まる。


    答えを渡してはいけない。けれど、答えに近づくための「問い」だけは投げ続けたい。

    「次に背中を押すために、どんな言葉を贈ればいいだろう?」

    頭の中をフル回転させながら、ひたすら機が熟すのを待ちました。


    結局、研修時間内に機能系統図は完成しませんでした。

    こうしたケースは決して珍しくありません。しかしこの時は、「ちゃんと“気づき”の場所まで伴走できただろうか」という問いが、いつまでも心に残っていました。


     ■あの「沈黙の時間」に宿っていたもの


    あの一通のメールをきっかけに、「事業計画と現場の仕事をVEでつなぐ」という新しい研修が実現しました。一人の受講者の想いから、さらに多くの人々へVEの考え方を届けることができたのです。


    正直に言えば、受講者の方にとって、あの時間の何がそこまで響いたのかは今も分かりません。


    ただ一つ思い当たるとしたら、ホワイトボードの前で共に立ち止まっていた、あの時間そのもの。あの「進まなかった時間」の中に、何か大切なものが宿っていたのかもしれません。


    「……かもしれない」

    今は、そうとしか言えません。


    答えは、まだ聞いていません。

    だから今度、そっと尋ねてみるつもりです。


    この受講者との縁で実現した研修のお話は、こちら。


    この記事が参加している募集

     
     
    大手料理教室2社で講師歴約20年。現在は企業で社内教育を担当しながら、VEスペシャリストとして、“見えにくい価値”をどう言葉にするかを考えています。“当たり前”として見過ごされる違和感。教えることと、余白を残すこと。仕事と暮らしのあいだから、思考の記録を書いています。

    あなたへのおすすめ