【雲間月怪異譚】 第38話
【雲間月怪異譚】第38話 消された種目
※注意※
本作『雲間月怪異譚』には、
怪異・都市伝説・因習・和風ホラー表現が含まれます。
薄暗い話や、
“じわりと嫌な感じ”のする話が苦手な方は、
どうか無理をなさらず回れ右でお願いします。
それでも覗いてくださる方は――
どうぞ、雲間の怪異譚へ。
=====================
四年に一度、夏季オリンピックがあり、そして冬季オリンピックがある。
世界に通用する選手たちは、その舞台を目指し、日々過酷な練習を積み重ねている。
しかし、開催国が変わるたび、採用される競技や種目は見直される。
新たに加わる種目があれば、静かに姿を消していく種目もある。
時代の流行であったり、競技人口であったり、政治的な事情であったり。その理由は様々だ。
だが、選手にとっては理由など関係ない。
オリンピックを目指せる時間は驚くほど短い。
その一度きりの頂点へ身体を仕上げることも難しく、代表選手に選ばれること自体が奇跡だと言われている。
その年、次回の冬季オリンピックに向けた競技種目の見直しが行われた。
そして、一つの種目が姿を消した。
「……どうして」
若い女性選手は、発表された資料を何度も見返した。
「何故なの……」
次の大会では、ようやく女性部門が新設される。
そう言われ続け、誰もがそれを信じていた。
彼女も、その日だけを夢見て練習を続けてきた。
だが、待っていたのは新設ではなく、種目そのものの廃止だった。
その知らせは、多くの選手から未来を奪った。
引退した者。
別競技へ転向した者。
諦めきれず、誰もいない施設で一人練習を続けた者。
その中でも、特に才能に恵まれながら、一度もオリンピックの舞台へ立てなかった女性がいた。
彼女は毎晩、同じ言葉を呟いていたという。
「あと四年待てば……私は出られたのに」
翌年。
彼女は夜間練習中の事故で命を落とした。
新聞には、コース脇の防護設備を越えて転落した事故だと書かれていた。
しかし、彼女を長年指導してきたコーチだけは首を横に振った。
「あの子が、あんな初歩的なミスをするはずがない」
世界大会でも転倒は数えるほどしかない。
風の流れも、雪面や氷の変化も、人一倍敏感に感じ取る選手だった。
それだけに関係者の間では、「本当に事故だったのだろうか」と囁く声が消えることはなかった。
もちろん証拠はない。
警察は事故として処理し、やがて世間も彼女のことを忘れていった。
ただ一つだけ、不思議な証言が残っている。
事故の前夜。
施設の管理人が見回りをしていた時のことだった。
誰もいないはずのスタート地点で、彼女は一人、静かにスタート姿勢を取っていた。
「もう遅い。今日は帰りなさい」
そう声を掛けると、彼女は振り返ることなく答えた。
「明日が最後だから」
管理人は大会前の調整だろうと思い、それ以上は何も言わなかった。
だが翌日、彼女は帰らぬ人となった。
それ以来、その施設では奇妙な現象が起き始める。
深夜になると、誰も操作していないスタートゲートが静かに作動する。
ピッ……
ピッ……
ピーッ!
電子音が静寂に響くと同時に、誰もいないコースを何かが滑り降りる音だけが聞こえる。
監視カメラには何も映らない。
それなのに計測器だけは正確に反応し、ゴール地点には世界記録を大きく上回るタイムが表示される。
しかし、その記録は夜明けを迎える頃には跡形もなく消えてしまうという。
やがて施設関係者は、一つの共通点に気付いた。
その現象が起きるのは、決まって「本来ならオリンピック決勝が行われるはずだった日」だった。
彼女は今もなお、存在しなかった決勝の舞台を滑り続けているのだ。
さらに、施設にはもう一つの噂があった。
若い女性選手が夜、一人で練習をしていると、どこからともなく声が聞こえるという。
「あなたなら行ける」
その声を聞いた選手は、不思議なほど実力を伸ばす。
自己ベストを次々と更新し、代表候補にまで名を連ねる者もいた。
だが、大会を目前にすると、必ず大怪我を負う。
骨折。
靱帯断裂。
ある者は二度と競技へ戻れなかった。
彼女は、自分の代わりを探しているのではない。
誰にも、あの舞台へ立ってほしくなかったのだ。
自分だけが立てなかった場所へ。
夢を奪われたまま終わった、その場所へ。
「その施設は、今でも使われているんですか?」
僕が尋ねると、取材相手は少しだけ困ったように笑った。
「使われていますよ。ただね……」
そこで言葉を切ると、それ以上は話そうとしなかった。
帰り際、一枚の古い集合写真を見せてもらった。
笑顔で並ぶ選手たち。
その輪から少し離れた場所に、ゼッケン姿の若い女性が一人、こちらを見つめて立っていた。
「この人ですか?」
僕が写真を指差すと、相手は不思議そうな顔をした。
「……誰です?」
「え?」
「その年の強化選手は十七人だけですよ」
もう一度写真を見直す。
それでも僕には、十八人目の彼女が、はっきりと見えていた。
「僕が取材して聞いてきた話なんだけどね」
保は湯飲みを手に、小さく息をついた。
「怖いというより……切ない話だったよ」
囲炉裏の火を見つめていた雲外鏡爺が、静かに口を開く。
「夢ほど、人を化け物に変えるものはない。叶わなんだ夢は、時に妖より恐ろしい」
囲炉裏の薪が、ぱちりと音を立てて弾けた。
その音だけが部屋に響き、誰も次の言葉を口にする者はいなかった。
