メインコンテンツへスキップ
見出し画像

AIが答えも、問いも、作品もつくる時代に〜2026年8月、「アート思考」をもう一度定義する

    はじめに〜創造性から、知覚・注意・共存・責任へ

    「アート思考」という言葉を、覚えていますか?

    2017年から2021年ごろ、日本では「アート思考」という言葉をよく耳にした。

    山口周さんの『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』が話題になり、佐宗邦威さん、秋元雄史さん、若宮和男さん、末永幸歩さん、吉井仁実さんらによる書籍が相次いで出版された。

    日本で「芸術思考」という言葉そのものが研究され始めたのは、それより前だ。

    けれど、2017年以降に一般への認知が一気に広がり、2019年前後から関連書籍が本屋に並び始めた、という流れは、僕個人の記憶によるアート思考史ともおおむね一致する。

    「正解のない時代には、アート思考が必要だ」

    「論理だけでは、イノベーションは生まれない」

    「自分だけの問いを持とう」

    そんな言葉が、ビジネス誌にも本屋にもあふれていた。

    ところが2026年のいま、「アート思考」という言葉そのものを耳にする機会は、当時よりずいぶん減ったように感じる。

    ブームは終わった。

    では、アート思考も役目を終えたのだろうか。

    僕は、むしろ逆ではないかと思っている。

    ただし、2019年ごろに語られていた「ビジネスに創造性を持ち込むためのアート思考」を、そのまま復活させたいわけではない。

    2026年の僕たちを取り巻いている環境は、わずか数年前とはまるで違うからだ。

    生成AIは文章を書く。

    画像をつくる。

    音楽をつくる。

    動画をつくる。

    企画を考える。

    そして今では、人間に代わって「問い」まで提案してくる。

    だから、僕がいま考えたいのは、こういうことだ。

    AIが答えをくれるから、アート思考が必要なのではない。

    AIが答えも、問いも、アイデアも、作品さえ大量につくれるようになったからこそ、人間は「自分は何を感じ、何を見て、何を問うのか」を取り戻す必要があるのではないか。

    ここから、2026年8月の「アート思考」を、もう一度考え直してみたい。

    画像

    第1章 そもそも、アート思考とは何だったのか

    実は「アート思考」には、一つの確定した定義があるわけではない。

    世界的によく知られた考え方の一つが、エイミー・ウィテカーの『Art Thinking』だ。

    ウィテカーは、既知のA地点から既知のB地点へ効率よく移動するのではなく、まだ存在していない「ポイントB」そのものを発明することをアート思考として説明している。

    そして、すぐには答えの出ない大きな問いについて考えるための「余白」を持つことも重視する。

    日本でも、アート思考はさまざまな方向へ展開していった。

    秋元雄史さんは、アーティストが既存の常識を疑う力を「野生の眼」と表現した。

    吉井仁実さんは『〈問い〉から始めるアート思考』で、「問い」は時として「答え」以上に大きな力を持ち、人にそれまでとは違う世界を見せることがあると論じた。

    末永幸歩さんの『13歳からのアート思考』は、作品について用意された「正解」を覚えるのではなく、自分なりのものの見方から、自分だけの答えをつくることを多くの読者に伝えた。

    こうして振り返ると、2017〜2021年ごろの日本のアート思考には、

    「自分はどう考えるのか」

    「自分は何をつくりたいのか」

    「自分はどんな問いを持つのか」

    という、自分の内側から価値を生み出す力が強く期待されていたように思う。

    もちろん、それはいまでも大切だ。

    でも2026年には、そのさらに手前を問う必要が出てきた。

    その「自分」は、本当に自分の目で世界を見ているのだろうか。

    画像

    第2章 デザイン思考、クリティカルシンキングと何が違うのか

    アート思考を語るとき、よく比較されるのが「デザイン思考」と「クリティカルシンキング」だ。

    この三つを、

    デザイン思考=問題解決
    クリティカルシンキング=論理
    アート思考=自由な発想

    と単純に分けてしまうのは、少し乱暴だと思う。

    デザイン思考にも、「そもそも何が問題なのか」を問い直し、問題そのものを再定義する段階がある。

    クリティカルシンキングにも、自分自身の思い込みや推論を疑い、必要なら修正する力が含まれている。

    そのうえで、あえて違いを整理するなら、僕はこう捉えている。


    画像

    ただし、どれが上という話ではない。

    むしろ、

    アート思考で前提や問いを揺らす。
    クリティカルシンキングで検証する。
    デザイン思考で社会に実装する。

    この三つは循環できる。

    違いがあるとすれば、アート思考には時として、

    「問題を解決しない」

    という選択肢があることだと思う。

    ある違和感を、すぐ説明しない。

    矛盾を、すぐ整理しない。

    「分からない」という状態を、しばらくそのまま持ってみる。

    これは、あらゆるものを短時間で要約し、分類し、答えへ変換してくれる生成AIとは、かなり違う態度でもある。

    画像

    第3章 AIが創造できるなら、人間の創造性とは何なのか

    ここで、一つ便利な逃げ道を塞いでおきたい。

    「AIは所詮、人間の作品を組み合わせているだけだ。創造性は人間だけのものだ」

    という説明だ。

    2026年現在、この断言はかなり危うくなっている。

    AIの創造性については研究によって結果が異なる。

    人間が優位な課題もある。

    一方で、AIの方が高く評価される課題も出てきた。

    少なくとも、「完成した出力だけを見れば、人間とAIを簡単には区別できない」という領域が急速に増えていることは確かだと思う。

    だから2026年のアート思考を、

    「AIには創造できない。だから人間は創造性を磨こう」

    という話にしてしまうと、少しつまらない。

    今年、もっと面白い研究が出ている。

    6月に発表された「ヒューマン・クリエイティビティ・ベンチマーク」という研究は、クリエイティブ領域で専門家の評価が一致しないことを、単なる「ノイズ」として消してはいけないと提案している。

    1万5000件の専門家判断を分析すると、技術的な正確さや視覚的階層などでは評価が収束しやすい一方、美的方向性や概念的リスクなど、いわゆる「趣味・美意識」に関わる部分では、専門家の判断が正当に分かれるらしいのだ。

    これは、とてもアート的な話だと思う。

    人によって答えが違うことは、必ずしも問題ではない。

    むしろ「違っている」という事実そのものに、情報がある。

    効率化やAI評価では、一つの最適値へ収束させることが好まれる。

    でも文化や芸術、そして人間社会には、

    収束させてはいけない違い

    が存在する。

    ここに、2026年のアート思考の入り口がある。

    画像

    第4章 「何を見るか」の前に、「何に注意を向けるか」

    今年7月、末永幸歩さんは『「いまを生きる力」を取り戻す 感性の教室』を刊行した。

    2020年の『13歳からのアート思考』から6年。

    新刊では「自分だけの答え」よりさらに手前にある、自分の感性をどう取り戻すのかが大きなテーマになっている。

    僕はここに、2020年から2026年への大きな変化を感じる。

    考える前に、感じる。

    言語化する前に、見る。

    見るだけではなく、聞く。

    触れる。

    匂う。

    温度を感じる。

    身体の変化を感じる。

    そして「なんとなく変だ」と感じたものを、すぐ意味のある言葉へ変換しない。

    今年アメリカで刊行された『Attensity!(アテンシティ!)』も、まったく別の方向から、同じ問題に近づいている。

    「フレンズ・オブ・アテンション」というアーティスト、思想家、活動家たちの集団は、人間のアテンション=注意そのものが商品化されていると考え、注意をもう一度、自分たちの手へ取り戻そうと呼びかけている。

    これは単なる「スマホをやめよう」というデジタルデトックスではない。

    僕たちは一日の中で、

    何を見るか。

    何を無視するか。

    どこに時間を使うか。

    誰の言葉を聞くか。

    何を重要だと思うか。

    それを、本当に自分で決めているだろうか。

    アルゴリズムが選んだニュース。

    SNSが選んだ投稿。

    AIが選んだ答え。

    レコメンドされた音楽。

    「あなたにおすすめ」の動画。

    それらを浴び続けるうちに、世界の「見方」以前に、世界のどこを見るのかまで、外部に決めてもらっているのかもしれない。

    2026年のアート思考に必要なのは、創造性だけではない。

    注意の主権を取り戻すこと。

    僕には、そう思える。

    画像

    第5章 「摩擦ゼロ」の世界で、アートは摩擦を取り戻す

    生成AIは、とても便利だ。

    僕自身も毎日のように使っている。

    だから、AI否定論を書きたいわけではない。

    むしろ問題は、AIがあまりにも便利になったことなのだと思う。

    2026年、「認知的降伏(コグニティブ・サレンダー)」という概念が議論され始めている。

    AIが単純な作業を代行すること自体ではない。

    AIが出した判断を十分に吟味せず、いつの間にか自分の判断として採用してしまう。

    その状態を問題にしている。

    一方では、AIを「摩擦をなくす存在」ではなく、あえて人間を立ち止まらせる**「フリクション・エージェント=思考に摩擦を起こす存在」**として設計できないか、という研究も出ている。

    AIがすぐに答えを返すのではなく、

    「なぜそう思うの?」

    「別の可能性はない?」

    「その前提は本当に正しい?」

    と問い返してくる。

    これは、かなり面白い。

    ここで僕は、現代アートを思う。

    現代アートの展覧会を訪れる人には理解していただけると思うが、優れた作品は、ほとんどが不親切だ。

    意味が分からない。

    居心地が悪い。

    美しいのか醜いのかも分からない。

    「これは何なんだ?」

    と立ち止まらされる。

    ときには、自分が何を見ているのかすら分からなくなる。

    でも、その「引っかかり」のせいで、展覧会を出たあとも何度も考えてしまう。

    数日後、あるいは何年後になって、ふと思い出す作品すらある。

    言い換えれば、アートはしばしば、

    思考に摩擦をつくる装置

    なのではないか。

    AIやデジタルサービスが「摩擦をなくす」方向へ進化しているからこそ、僕たちには逆に、適度な摩擦が必要なのかもしれない。

    画像

    第6章 考える前に身体がある──知覚は頭の中だけでは起こらない

    2026年の研究には、もう一つ興味深い流れがある。

    知覚を、単に「目や耳から入ってきた情報を脳が処理するもの」と考えない立場だ。

    AI研究者として世界的に知られるリチャード・サットンらによる今年の研究では、「エナクティブ・コグニション」という考え方をAIへ導入しようとしている。

    少し難しい言葉だが、要するに、

    知覚とは、身体を動かしながら環境とかかわることで成立する

    という考え方だ。

    世界を一方的に「受信」するのではない。

    歩く。

    触れる。

    振り返る。

    距離を変える。

    他者と出会う。

    そうした身体と世界とのやり取りの中で、僕たちが「見ている世界」そのものが立ち上がってくる。

    別の研究でも、知覚は身体・環境・学習の継続的な相互作用から生まれるものとして考えられている。

    ここで、現代アートとの線が一本につながる。

    オラファー・エリアソンの作品。

    今や日本のみならず世界的にムーブメントを起こし続けているチームラボが掲げてきた「ボディ・アクティブ・パーセプション」。

    高谷史郎やダムタイプが扱ってきた、身体とテクノロジー。

    そして2025年大阪・関西万博で、中島さち子さんが展開した「いのちの遊び場 クラゲ館」(万博については後述)。

    そこでは、世界を理解することが「説明文を読むこと」だけではなかった。

    身体を動かす。

    光を見る。

    音を聞く。

    触れる。

    他人と遊ぶ。

    偶然に出会う。

    つまり、

    五感で感じること自体が、思考の一部だった。

    2026年のアート思考は、頭の中だけで完結する「思考法」であってはいけないのだと思う。

    画像

    第7章 大阪・関西万博は、巨大な「アート思考」の実験だったのではないか

    昨年の大阪・関西万博については、すでに膨大な記事が書かれた。

    だから、ここで改めて「おすすめパビリオン」を紹介したいわけではない。

    僕が2026年から振り返って面白いと思うのは、8人のテーマ事業プロデューサーによる8つのシグネチャーパビリオンが、まったく異なる「世界の感じ方」を提示していたことである。

    僕なりに、一言ずつ圧縮してみたい。

    宮田裕章=共在と共鳴。

    自分だけの幸福ではなく、多様な人や環境が共鳴しながら生きるとは何か。

    石黒浩=人間/AI。

    身体を持つ人間とアンドロイドの境界が揺らいだとき、「いのち」とは何なのか。

    中島さち子=五感と遊び。

    考える以前に、身体で感じ、即興し、他者と遊ぶ。

    落合陽一=曖昧な境界。

    物質とデジタル、自分と世界、実在と虚像。その境目そのものを揺らす。

    福岡伸一=動的平衡。

    生命を固定された「物」としてではなく、壊れながら生成し続ける「流れ」として見る。

    河森正治=非人間中心。

    人間だけを中心に置かず、他の生命や生態系の側から世界を見る。

    河瀨直美=対話。

    答えの一致を目的にせず、異なる人生を持つ他者と話す。個人的には、ベストパビリオンのひとつだった。

    小山薫堂=日常の異化。

    「食べる」という当たり前の日常を、生命との関係として見直す。

    僕はこれらを体験し、あとからこう思った。

    2025年大阪・関西万博は、一つの未来を教える場所ではなく、複数の世界の見方を同時に身体化した巨大な実験だったのではないか。

    もちろん、これは万博の公式な定義ではない。

    僕自身の解釈だ。

    でも少なくとも、8つのパビリオンが同じ答えに収束していなかったことは重要だと思う。

    未来とは一つではない。

    世界の見え方も一つではない。

    それを「説明」するのではなく、「体験」させる。

    この発想は、2026年のアート思考を考えるうえで、大きなヒントを残している。

    画像

    第8章 エコーチェンバーの反対は「反対意見を読むこと」なのか

    ここから少し、社会的分断の話へ進みたい。

    SNSではエコーチェンバーやフィルターバブルによって、人間が自分に都合のよい情報ばかりを見るようになった、とよく言われる。

    ただ、研究を見ると、話はそれほど単純ではない。

    エコーチェンバーの存在や影響については、何を測るかによって研究結果がかなり違う。

    だから、

    「アルゴリズムのせいで僕たちは分断された」

    とだけ書くのは正確ではない。

    人間自身にも、自分と似た人や、自分が信じたい情報を選ぶ傾向がある。

    では、どうすればいいのだろう。

    「反対意見も読みましょう」

    だけで十分なのか。

    僕は、そうは思わない。

    反対意見を読んで、

    「やっぱりこいつらは間違っている」

    と思えば、むしろ自分の確信が強くなることだってある。

    ここで2026年の研究に登場するのが、

    「知的謙虚さ」

    という考え方だ。

    これは自分を卑下することではない。

    「自分の知識や信念も、間違っているかもしれない」と認めること。

    今年発表された二つの事前登録実験、計1035人を対象にした研究では、自分と異なる政治的立場をとるAIとの対話によって、意見の極端さが弱まり、条件によっては知的謙虚さや相手への感情、再び対話する意思にも変化がみられたらしい。

    ここには、とても面白い逆説がある。

    AIは、僕たちをエコーチェンバーに閉じ込める道具にもなれる。

    でも設計次第では、

    自分とは違う立場から問い返してくる「他者」

    にもなれる。

    つまり、

    「AIか、人間か」

    ではない。

    重要なのは、

    AIとどんな関係を結ぶのか

    なのだと思う。

    画像

    第9章 分断の反対は、全員が同じ答えになることではない

    ここで僕は、アートから社会へ、一つの考え方を持ち込んでみたい。

    美術館で同じ作品を10人が見たとする。

    10人全員が、まったく同じ意味を読み取ることが「成功」なのだろうか。

    たぶん違う。

    「希望に見えた」

    「不気味だった」

    「政治的に感じた」

    「何も感じなかった」

    それぞれ違っていい。

    むしろ、その違いから、

    「なぜ、あなたにはそう見えたの?」

    という対話が始まる。

    先ほど触れた「ヒューマン・クリエイティビティ・ベンチマーク」が示した、創造領域では評価の不一致そのものに意味があるという発想も、直接政治を研究したものではないにせよ、ここでは一つのヒントになる。

    社会についても、同じなのではないだろうか。

    僕たちは「分断」という言葉を使うとき、人々の意見が異なること自体を問題だと思ってしまいがちだ。

    でも民主主義社会で、人間の価値観が違うこと自体は異常ではない。

    問題なのは、

    自分とは違う世界を見ている人間を、「同じ社会に存在してはいけない人」として扱い始めること

    ではないだろうか。

    だから僕は、こう考えたい。

    分断の反対は、同じ答えを持つことではない。

    違う世界を見ている人と、違ったまま同じ世界に居続けられることなのではないか。

    アート思考が社会に貢献できるとすれば、ここなのかもしれない。

    画像

    第10章 「自分の目で見る」ことには、責任が伴う

    ここまで書くと、

    「自分の感性を大切にしよう」

    「自由に感じよう」

    という話に聞こえるかもしれない。

    でも僕は、2026年のアート思考を、そこで終わらせたくない。

    今年6月、宗教家であり、宗教・科学・社会を横断して長年思索を続けてきた三宅善信さんが、『AIと人間 知の責任について』を出版した。

    本書が問うのは、AIによって人間の知識が拡張されていく一方で、判断と責任までAIへ明け渡してしまわないかという問題だ。

    「AIがそう言ったから」

    「アルゴリズムがおすすめしたから」

    「みんながそう言っているから」

    それで僕たちは、自分の判断の責任から逃れられるのだろうか。

    2026年には、人間とAIが共同で意思決定するときの「責任」についても、実証研究が始まっている。

    ある4つの実験、計1801人を対象にした研究では、AIと組んだ人間は、人間同士で判断した場合より、むしろ強く責任を帰属されたという。

    少なくとも僕たちは、

    「AIがいたから、人間の責任は軽くなる」

    とは単純には感じていないらしい。

    ここで、アート思考に最後の一つを加えたい。

    自分の目で見ることは、自由であると同時に、責任でもある。

    世界を見た。

    感じた。

    違和感を持った。

    問いを持った。

    知った。

    ならば、知る前とまったく同じ場所には戻れない。

    僕たちは、その知識と判断をどう引き受けるのか。

    2026年のアート思考には、この「責任」まで必要なのだと思う。

    画像

    最終章 2026年8月、「アート思考」をもう一度定義する

    2019年前後に広まったアート思考は、僕たちに大切なことを教えた。

    正解は一つではない。

    自分の問いを持つ。

    常識を疑う。

    まだ存在しないものを生み出す。

    その価値は、いまも失われていない。

    ただ、AIが答えも、問いも、アイデアも、画像も、音楽も、文章も生み出す2026年には、もう一段先へ進む必要がある。

    僕はいま、アート思考をこう捉えてみたい。

    AIが答えも、問いも、作品もつくる時代のアート思考とは、「何を生み出すか」という創造術ではない。

    何に注意を向け、五感で何を感じ、どんな違和感をすぐ消さず、何を問い、どの判断を自分で引き受け、異なる見方を持つ他者とどう共存するか──その一連の実践ではないか。

    整理すると、

    知覚
    ↓
    注意
    ↓
    違和感/認知的摩擦
    ↓
    問い
    ↓
    探究
    ↓
    知的謙虚さ
    ↓
    共存
    ↓
    貏䝝

    となる。

    これは、学問上確立された「アート思考」の定義ではない。

    僕自身が、さまざまな書籍や研究、アーティストの実践に触れ、アートや社会について考えてきた中から導いた、2026年8月時点の一つの仮説にすぎない。

    だから、この文章自体も「正解」である必要はないと思っている。

    むしろ読んだ人に、

    「いや、アート思考とはそうじゃない」

    と思ってもらってもいい。

    「そもそもアート思考なんて必要なのか?」

    でもいい。

    そこから、新しい問いが始まるからだ。

    AIは、これからもっと賢くなるだろう。

    僕よりずっと多くのことを知り、僕より速く答え、僕が思いつかなかった問いさえ提示するようになるかもしれない。

    それでも最後に、

    何に注意を向けるのか。

    何を美しいと感じるのか。

    何に違和感を覚えるのか。

    その違和感を、すぐに消さず考え続けられるのか。

    自分とは違う世界を見ている人と、それでも一緒にいられるのか。

    そして、

    自分が見て、知って、選んだことに責任を持てるのか。

    そこまでAIに決めてもらう必要はない。

    もしかするとアート思考とは、AIに勝つための人間の能力ではないのかもしれない。

    AIと共に生きる時代に、人間が自分自身であり続けるための、小さな抵抗なのかもしれない。

    ───

    AIやアート、社会について、実際に見て、つくって、関わるなかで生まれた違和感を書いています。

    簡単には答えの出ない問いを、これからも考え、書いていきます。フォローしていただけたらうれしいです。

    次に読む


     
     
    フォローすると、世界を見る角度がひとつ増えます。AI・現代アート・社会を、実体験からアート思考で問い直します。写真・映像・音楽を横断して制作。元テレビ朝日D/音楽P・クラブDJ/ウクライナ支援ネットワーク「桜と向日葵」代表/Kindle7冊連続ベストセラー。

    あなたへのおすすめ