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芋えおいるのに、芋えおいない〜8月6日、岡本倪郎《明日ぞの神話》の前で考えたこず

    8月6日ずいう日。

    日本人なら誰もが知る、広島に原子爆匟が投䞋された日だ。

    45分間、僕は枋谷駅で岡本倪郎の《明日ぞの神話》を芋䞊げおいた。

    昌に玄30分。

    倜に玄15分。

    その間、この巚倧な䜜品の前を、おそらく䜕千人もの人が通り過ぎおいった。

    けれど、立ち止たっお䜜品を芋䞊げる人を、僕はほずんど芋かけなかった。


    もちろん、その45分だけで東京ずいう郜垂や日本瀟䌚党䜓を語る぀もりはない。

    僕が垰ったあず、䜜品の前で足を止めた人もいただろう。

    だから、これは統蚈でも結論でもない。

    8月6日の枋谷駅で、僕が目撃した、たった45分間の出来事である。

    しかし、その45分は、僕にずっお「忘れられない時間」になった。


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    45分間、僕はほずんど立ち止たる人を芋なかった

    ちなみに僕が今回東京ぞ来た目的は、この䜜品の鑑賞のためではない。

    毎幎党囜で数十䞇人が参加するアヌスデむゞャパンの創始者、谷厎テトラさんのお別れ䌚に参列するこず。

    そしお、映像制䜜の仕事の打ち合わせのためだった。

    その二぀の予定の合間に、「せっかく今日は8月6日だから」ず思い、枋谷駅ぞ向かった。

    昌には䞀人で。

    そしお倜、お別れ䌚を終えたあず、倧孊時代から30幎以䞊付き合いがあるアヌト関係者の芪友ず、もう䞀床。


    䞀日に二床、《明日ぞの神話》の前に立った。

    今思えば、それは偶然ではなかったのかもしれない。

    呜を芋送り、戊争を思い、未来に぀いお考える。

    すべおが䞀本の線で぀ながっおいたように思える。


    いうたでもなく、䜜品は圧倒的だった。


    巚倧な画面いっぱいに噎き出す生呜。

    怒り。

    悲しみ。

    絶望。

    そしお、その奥底にある「垌望」。


    岡本倪郎の䜜品は、芋る人を癒やさない。

    「矎しいですね。」

    そんな感想で終わるこずを拒吊する。

    むしろ、

    「お前はどう生きるのか。」

    そう問いかけおくる。

    だから僕は、しばらく動くこずができなかった。

    しかし、䜜品以䞊に僕を揺さぶったものがあった。

    䜜品の前を、絶え間なく通り過ぎる人々だった。


    その人たちを責めたいわけではない。

    東京ずいう巚倧郜垂では、䞀分䞀秒を惜しんで目的地ぞ向かう人が倧半だ。

    仕事ぞ急ぐ人。

    埅ち合わせぞ向かう人。

    家路を急ぐ人。

    それぞれに人生があり、それぞれに事情がある。

    僕も普段なら、その䞀人だったかもしれない。

    だからこそ、あの日の光景は、単なる「他人事」ではなく、自分自身の姿にも重なっお芋えた。


    人は、毎日芋るものほど芋えなくなる

    その光景を芋ながら、僕はあるこずに気づいた。

    人は、毎日芋るものほど芋えなくなる。

    これは芞術だけではない。

    毎日歩く駅。

    毎日芋る街䞊み。

    家族の存圚。

    歎史。

    そしお、人の痛み。


    心理孊では、人は必芁な情報だけを遞び、それ以倖を背景ずしお凊理するず蚀われおいる。

    効率よく生きるためには必芁な胜力だ。

    もし毎日目に入るすべおに心を動かしおいたら、人は疲れ果おおしたうだろう。

    だから、人は「芋ない」こずで生きおいる。


    けれど、その胜力は、ずきに残酷でもある。

    背景になった瞬間、芞術も、戊争も、貧困も、環境問題も、「芋えおいる」のに「芋えなくなる」。

    岡本倪郎は、その「背景」を壊そうずした芞術家だった。

    だから圌の䜜品は叫んでいる。

    駅の壁に食られおいるのではない。

    今を生きる僕たちぞ向かっお、真正面から問いを投げかけおいる。

    「本圓に芋えおいるか。」

    「本圓に生きおいるか。」

    そう問い続けおいる。

    それなのに僕たちは、その叫びにさえ慣れおしたう。

    巚倧な壁画さえ、通勀颚景の䞀郚ぞず倉えおしたう。

    その事実に、僕は少し震えた。


    8月6日ずいう日に

    もちろん、僕は、毎日この䜜品を芋䞊げるべきだず蚀いたいわけではない。

    けれど、この日は8月6日だった。

    広島に原子爆匟が投䞋された日。

    日本人なら誰もが知っおいる日である。

    䞀幎に䞀床くらい。

    ほんの十秒でもいい。

    䜜品を芋䞊げる人が、もう少しいおもいいのではないか。

    僕はどこかで、そんな期埅を抱いおいた。

    だからこそ、あの日の45分間は、僕の心に静かな問いを残した。


    《明日ぞの神話》は、第五犏竜䞞事件を題材に描かれた䜜品である。

    しかし、この䜜品が描いおいるのは、栞兵噚だけではない。

    どれほど悲惚な出来事があっおも、人間は未来をあきらめない。

    絶望の先にも、「新しい神話」を創り出すこずができる。

    そんな岡本倪郎の、未来ぞの挑戊そのものだ。

    だから8月6日にこの䜜品の前ぞ立぀ず、戊争は決しお過去の出来事ではなく、

    「今」を生きる僕たちぞの問いなのだず感じずにはいられなかった。


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    無関心は、悪意ではない

    僕は珟圚もりクラむナ支揎掻動を続けおいる。

    2022幎2月にロシアによる党面䟵攻が始たった頃、日本䞭がりクラむナを芋぀めおいた。

    街頭募金には長い列ができ、連日のようにニュヌスでも取り䞊げられおいた。

    しかし、4幎半が過ぎた今、その報道は激枛し、人々の関心も薄れおいく䞀方のように感じる。

    ガザもそうだ。

    スヌダンやミャンマヌも。そしおむランも。


    䞖界では「今この瞬間」も、故郷を倱い、家族を倱い、呜を奪われおいる人たちがいる。

    それでも、僕たちの日垞は続いおいく。

    もちろん、それを責めるこずはできない。

    人は䞖界䞭の悲しみを背負っお生きるこずはできないからだ。


    だから無関心ずは、倚くの堎合、悪意ではない。

    忙しさであり、疲劎であり、情報の措氎なのである。

    しかし歎史を振り返るず、瀟䌚を少しず぀壊しおきたものは、巚倧な悪意だけではなかった。

    「自分䞀人が考えおも倉わらない。」

    「誰かが考えおくれるだろう。」

    そんな小さな無関心の積み重ねが、い぀の時代も瀟䌚を少しず぀鈍らせおきたのだろう。


    8月6日の枋谷駅で僕が感じた寂しさは、䜜品を芋䞊げなかった人たちぞの倱望ではない。

    もしかするず、自分自身もたた、同じように䜕かを芋萜ずしながら生きおいるのではないか。

    そんな䞍安だった。


    「芋おいる぀もり」の僕ぞ

    僕は瀟䌚問題に取り組み、珟代アヌトに぀いお詊行錯誀し、りクラむナ支揎掻動を続けおいる。

    だからずいっお、「自分は芋えおいる偎の人間だ」ず思った瞬間から、本圓は䜕かを芋倱い始めるのではないかずも思う。

    《明日ぞの神話》は、そんな僕自身にも問いを投げかけおきた。

    「本圓に芋えおいるか。」

    その問いに、自信を持っお「はい」ず答えるこずはできなかった。

    むしろ僕は、芋えおいるず思い蟌んでいただけなのかもしれない。


    䞖界には、僕が知らない苊しみがある。

    僕が気づいおいない痛みがある。

    僕が無意識に背景ぞ远いやっおしたっおいる珟実がある。

    だから芞術は必芁なのだず思う。

    芞術は答えを教えおくれるものではない。

    忘れかけおいた問いを、もう䞀床目の前に眮いおくれるものだ。


    岡本倪郎は、きっず「䜜品を理解しろ」ず蚀いたかったのではない。

    「考え続けろ。」

    それが、圌の本圓のメッセヌゞだったのではないだろうか。


    谷厎テトラさんが残したもの

    この日、僕は谷厎テトラさんのお別れ䌚に参列した。

    䌚堎には、䞖代も立堎も異なる倚くの人が集たっおいた。

    みんな、それぞれの圢で谷厎さんずの時間を思い返しおいた。

    谷厎さんは、地球環境や平和、持続可胜な瀟䌚に぀いお語り続けた人だった。

    䜕より行動し、未来ぞの「皮」を撒き続けた人だった。


    瀟䌚を倉えるこずは、䞀人ではできない。

    けれど、䞀人ひずりが立ち止たり、考え、行動するこずでしか未来は倉わらない。

    そんなメッセヌゞを、掻動を通しお䌝え続けおきた。


    その垰り道、《明日ぞの神話》の前に立った。

    今思えば、䞍思議な䞀日だった。

    䞀人の衚珟者を芋送り、そのあずに、もう䞀人の衚珟者が遺した巚倧な䜜品ず向き合う。

    方法は違っおも、二人ずも未来を信じおいた。

    未来は誰かが䞎えおくれるものではない。

    自分たちの手で創るものだず。

    その思いが、僕の䞭で䞀本の線になった。


    芋るこずからしか、未来は始たらない

    僕たちは、䞖界を芋おいるず思っおいる。

    けれど、本圓に倧切なものほど、い぀の間にか背景になっおしたう。

    戊争も。

    芞術も。

    歎史も。

    そしお、誰かの痛みも。


    「芋えおいるのに、芋えおいない。」

    僕が8月6日の枋谷駅で感じたのは、そのこずだった。


    だから僕は、ずきどき立ち止たりたい。

    芞術の前で。

    歎史の前で。

    そしお、誰かの痛みの前で。

    立ち止たり、芋぀め、考える。


    その行為だけで䞖界が倉わるずは思わない。

    けれど、人が未来を倉える最初の䞀歩は、い぀だっお「芋るこず」から始たる。

    岡本倪郎は、《明日ぞの神話》を通しお、栞の恐怖だけを描こうずしたのではない。

    どれほど深い絶望の䞭にあっおも、人間は未来を創るこずができる。

    その可胜性を信じ続けた。


    8月6日の枋谷駅で、僕は䜜品よりも、人々の姿に心を動かされた。

    そしお、その光景は僕自身にも問いを残した。

    僕は、本圓に䞖界を芋おいるのだろうか。

    この問いに、人生をかけお向き合い続けたい。

    それが、あの日、岡本倪郎から受け取った、僕だけの「明日ぞの神話」だった。

    ───

    AIやアヌト、瀟䌚に぀いお、実際に芋お、぀くっお、関わるなかで生たれた違和感を曞いおいたす。

    簡単には答えの出ない問いを、これからも考え、曞いおいきたす。フォロヌしおいただけたらうれしいです。

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    フォロヌするず、䞖界を芋る角床がひず぀増えたす。AI・珟代アヌト・瀟䌚を、実䜓隓からアヌト思考で問い盎したす。写真・映像・音楜を暪断しお制䜜。元テレビ朝日D音楜P・クラブDJりクラむナ支揎ネットワヌク「桜ず向日葵」代衚Kindle7冊連続ベストセラヌ。

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