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「こんなことをするためにテレビ局に入ったんじゃない」〜仕事の意味は、その最中にはまだ完成していない

    はじめに

    日本映画を代表する巨匠、市川崑監督が目の前にいた。

    映画監督になることを夢見てテレビ局に入った僕にとって、本来なら胸が高鳴るはずの制作発表記者会見だった。

    ところが、その日、僕がしなければならなかったのは、映画について質問することではなかった。

    主演女優の恋愛スキャンダルを追及することだった。

    「僕は、こんなことをするためにテレビ局に入ったんじゃない」

    20年以上前、若かった僕は本気でそう思った。

    あれからテレビ局を辞め、フリーランスになり、ロンドンで2年間クリエイターとして修行した。

    そして2026年の今、僕は生成AIを日常的に使いながら仕事をしている。

    そんな僕が、最近になって何度も思い出す場所がある。

    皮肉なことに、それは当時もっとも行きたくなかった、ワイドショーの現場だ。

    あの頃の僕には遠回りにしか見えなかった仕事が、今も自分の仕事の芯に残っている。

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    第1章 映画監督になりたかった僕が、ワイドショーに配属された

    僕がテレビ局を目指した理由の一つは、いつか芸術性の高い映画やドキュメンタリーを撮りたかったからだ。

    まずテレビの現場で10年ほど経験を積み、その先に映画監督という仕事がある。若い頃の僕は、そんな漠然としたキャリアを思い描いていた。

    だから入社後に希望していたのも、アート系の番組やドキュメンタリー、あるいはドラマ部門だった。

    ところが配属されたのは、ワイドショーだった。

    僕がいた当時のワイドショーは、2時間ほどの番組だった。

    芸能スキャンダルや事件、スポーツ、政治、健康情報などを扱う5分から10分ほどのコーナーが、次々に続いていく。

    僕たちディレクターは、その日の出来事に合わせて、一つひとつのコーナーをつくっていた。

    当時の僕には、それが映画やドキュメンタリーとはずいぶん遠い仕事に見えた。とりわけ芸能スキャンダルには、ほとんど興味がなかった。

    市川崑監督の制作発表で感じた居心地の悪さは、そんな僕の気持ちを象徴する出来事だったと思う。

    憧れていた映画の世界にようやく触れられたと思ったら、そこで僕が担っている役割は、作品について語ることではなく、主演女優のプライベートを追いかけることだった。

    憧れていた監督の新作発表の場を、自分が汚しているようにすら感じた。

    いま振り返れば、ずいぶんナイーブだったと思う。

    配属されてしばらくしてから、5分、10分という短いコーナーを高速で何本もつくる経験が、テレビ局のディレクターを鍛える訓練でもあると聞いた。

    企画を考え、調べ、必要な相手にアポイントを取り、取材日程を組む。

    現場で取材・撮影し、持ち帰った大量の素材を選び、構成し、決められた放送時間までに一本の商品として完成させる。

    しかも、予定通りに進む仕事ばかりではなかった。状況が変われば、その場で判断し、限られた時間の中でつくり方そのものを組み直す必要があった。

    「なるほど。これはディレクターを鍛える仕事なのかもしれない」

    少しずつ、そう思うようになった。

    それでも当時の僕には、まだ本当の意味はわかっていなかった。

    そして何より、ワイドショーで変えられたのは仕事の技術だけではなかった。

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    第2章 「くだらない」と思っていたのは、僕の方だった

    若い頃の僕には、無意識のうちに仕事や文化への序列があった。

    映画やアートには高い価値があり、ドキュメンタリーやジャーナリズムには社会的な意味がある。それに比べれば、芸能スキャンダルはくだらない。

    口に出してそう言っていたわけではない。

    でも、心のどこかではそう思っていた。

    なぜ、誰と誰が付き合っているとか、別れたとか、結婚するとかしないとか、そんなことを毎日のようにテレビで取り上げる必要があるのだろう。

    僕自身がほとんど興味を持てなかったからだ。

    ところが毎日ワイドショーをつくっていると、少しずつ違うものが見えてきた。

    僕には興味のない芸能ニュースを楽しみにしている人がいる。
    誰かの結婚を自分のことのように喜び、不倫のニュースに怒り、別れの話に胸を痛める人がいる。


    その数分間を見て笑うことが、一日のちょっとした息抜きになっている人もいる。

    考えてみれば、僕が映画館で一本の映画に心を動かされることと、テレビの前の誰かが芸能ニュースを見て感情を動かされることを、単純に上下で並べることなどできない。

    ワイドショーが扱っていたのは、表面的には芸能人や事件、スポーツのニュースだった。

    けれど、その奥にあったのは、誰かを好きになり、嫉妬し、成功を羨み、失敗に同情する人間の感情だった。

    喜怒哀楽や欲望が、毎日のようにむき出しになっていた。

    もちろん、いまの僕が芸能スキャンダルの報じ方をすべて肯定しているわけではない。

    プライバシーをどこまで扱っていいのか。誰かの失敗をどこまで娯楽にしていいのか。そこには今でも考え続けるべき問題がある。

    ただ、そこで初めて気づいたことがある。

    「僕にとって価値がない」と「価値がない」は、同じ意味ではない。

    若い頃の僕は、その二つを混同していた。

    自分が面白いと思うものを上に置き、興味を持てないものを下に置く。
    それを美意識や知性だと思っていた部分さえあったのかもしれない。

    けれど仕事では、自分と同じ価値観を持つ人だけを相手にしているわけではない。

    自分には理解できないものを面白いと思う人がいる。その人はなぜそれを面白いと思うのか。なぜそこに怒り、なぜそこに救われるのか。

    そう考えるようになってから、ワイドショーの現場は少し違って見えるようになった。

    自分とは違う人が、世界をどう見ているのかを想像する。

    その訓練は、僕がやりたくないと思っていた仕事の中ですでに始まっていた。

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    第3章 嘘をつかなくても、人の見え方は変えられる

    ワイドショーで身につけた技術の中で、今の仕事に最も深くつながっているのは、編集かもしれない。

    テレビの5分や10分という時間は、とても短い。

    取材で集めた映像、過去の資料、写真、インタビュー、記者会見の発言など、手元にある素材のほとんどは放送では使えない。

    当然、大量に捨てることになる。

    だから当初は、編集とは「いらないものを削って、わかりやすくする技術」だと思っていた。

    けれど、実際に自分で編集するようになると、それほど単純な仕事ではないことがわかってきた。

    たとえば、ある人物について紹介するとする。

    その人が笑っている映像を選ぶのか、険しい表情をしている映像を選ぶのか。それだけでも、視聴者が受け取る印象はかなり違う。

    どちらも本人の本当の表情だ。

    嘘ではない。

    それでも、編集する側がどちらを選ぶかによって、その人の「見え方」は変わる。

    発言も同じだった。

    ある言葉の前に何を置くか、後ろに何を置くか。それだけで、同じ一言が違った意味を持ちはじめることがある。

    映画では、二つの映像をどうつなぐかによって、元の素材にはなかった意味を生み出すことができる。それは表現の力でもある。

    しかし報道やワイドショーで実在する人間を扱うとき、その力には別の重さが加わる。

    嘘をつかなくても、人の見え方を変えることはできる。

    これは、編集を覚えるほど怖くなったことの一つだった。

    何を残して、何を捨てるのか。どの言葉を使い、どの表情を使わないのか。

    そこには必ず誰かの判断が入る。

    「事実を伝えているだけ」と思っていても、その事実のどこを切り取るかを決めた瞬間に、すでに編集は始まっている。

    編集とは、単に素材を短くする作業ではなかった。

    何を残し、何を画面の外に置くかで、視聴者に見える世界そのものが変わる。

    そのことを知ってから、編集で迷ったときは「面白いか」「わかりやすいか」だけではなく、「この見せ方で本当にいいのか」を考えるようになった。

    この感覚は、テレビ局を辞めてからもずっと残った。

    写真を選ぶときも、映像を構成するときも、文章を書くときも、「何を見せるか」と同時に「何を見せなかったのか」を考えるようになった。

    当時の編集室で身につけたこの感覚が、まったく別の形で再び重要になったのが、生成AIを使うようになってからだった。

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    第4章 2026年、AIが増やしたのは「つくる力」だけではなかった

    僕はいま、クリエイティブディレクターとして映像や写真、音楽、イベント、現代アートなど複数の領域を行き来しながら、日常的に生成AIを使っている。

    そこで、ときどき妙な既視感を覚える。

    「ああ、これ、ワイドショーの現場と似ているな」と思うのだ。

    もちろん、使っている技術はまったく違う。

    でも、予定していた前提が突然崩れ、その場で判断し直さなければならない感覚がよく似ている。

    ワイドショーでは、大きな事件や芸能スキャンダルが飛び込めば、その朝まで準備していた企画が突然飛ぶこともあった。

    ニュースは昼間だけに起きるわけではない。深夜でも早朝でも、番組の予定は簡単にひっくり返った。

    それでも放送時間は待ってくれない。

    新しい状況を短時間で理解し、必要なら取材先も構成も一から組み直す。数時間後には、放送できる形にしなければならなかった。

    生成AIを使った今の仕事でも、似たことが起きる。

    昨日までできなかった表現が、新しいモデルの登場で突然できるようになる。それまで最善だと思っていた制作方法を、途中で捨てることもある。

    僕自身、映像をつくっている途中で方法そのものを変えたり、生成された画像を見て企画から考え直したりすることが珍しくない。

    最初に立てた計画を守ることより、目の前で起きている変化を見て、前提から組み直す。

    20年以上前、ワイドショーの現場で毎日のようにやっていたことだった。

    当時は、それを「変化への対応力を鍛えている」などとは考えていなかった。ただ次の放送に間に合わせるために必死だった。

    でも今になってみると、あの経験は、正解そのものが次々に変わる環境で仕事をするための訓練でもあったのだと思う。

    ただ、当時と2026年では、決定的に違うことがある。

    あの頃は、素材を集めること自体に時間もお金も人手も必要だった。

    今は生成AIを使えば、一つのアイデアから次々に別の案を試すことができる。

    それは大きな自由だ。

    同時に、少し厄介でもある。

    まだ別の案があるのではないか。もう少し良くなるのではないか。

    そう思えば、いつまでも次をつくり続けることができるからだ。

    けれど仕事には、どこかで止める瞬間が必要になる。

    もう一案つくるのか。それとも、いま目の前にあるものを選び、手を入れ、完成させるのか。

    その判断までAIが引き受けてくれるわけではない。

    かつての編集室では、限られた素材の中から何を残すかを考えていた。

    2026年の今は、ほとんど際限なく増やせる素材を前に、何を残すかだけでなく、どこで増やすのをやめるかまで決めなければならない。

    技術は大きく変わった。

    それでも最後に残る仕事は、どこか似ている。

    何を使い、何を使わず、どこで「これでいく」と決めるのか。

    そして、その判断には、20年以上前の編集室で知ったもう一つの問題がついてくる。

    責任だ。

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    第5章 仕事の意味は、その最中にはまだ完成していない

    テレビ局で仕事をしていると、自分がつくっているものが単なる映像ではないことを、何度も意識させられた。

    たとえば、ある事件で亡くなった人が10人なのに、15人と放送してしまったとする。

    「数字をひとつ間違えただけ」では済まない。

    だから情報源を確認する。本当にこの数字で正しいのか、この映像を使っていいのか、この表現で誰かを不当に傷つけないかを考える。

    テレビ局という看板を背負って世の中に情報を出す以上、「知らなかった」「勘違いしていた」では通らない。

    生成AIを使うようになって、この感覚を以前より頻繁に思い出すようになった。

    AIは、とても自然な文章で間違ったことを答えることがある。存在しない事実を、いかにも本当らしく説明することもある。

    画像や映像なら、現実には存在しなかった場面を、本当に起きた出来事のように見せることさえできる。

    けれど仕事で間違いが起きたとき、「AIがそう答えたので」と言えば責任が消えるわけではない。

    考えてみれば、これも編集と同じだった。

    素材そのものが、自分で文脈を決めるわけではない。何を選び、何と何をつなぎ、どんな形で人に見せるのか。その判断をした側が、最後は引き受けることになる。

    僕はそれを、テレビというメディアの中で学んだ。

    当時は、もっと芸術的な仕事がしたいと思っていた。もっと深いものをつくりたいし、自分が価値を感じられる仕事をしたい。そんなことばかり考えていたと思う。

    けれど今振り返ると、ワイドショーの現場で学んでいたのは、企画の立て方や編集技術だけではなかった。

    自分とは違う価値観を持つ人の立場を想像し、予想外の出来事に対応し、大量の情報の中から本当に必要なものを選び取る。

    そして、世の中に出す直前に「本当にこれでいいのか」と立ち止まる。

    そんな習慣を、僕はあの現場で身につけていた。

    僕が映画監督への道から外れたと思っていた場所で、その後の仕事を支えるものをずいぶん身につけていたことになる。

    でも今は、それだけがこの経験から得た気づきだとは思っていない。

    もっと大きかったのは、自分の物差しそのものを疑うようになったことかもしれない。

    当時の僕は、ワイドショーを「自分がやりたい仕事ではない」と考えていた。

    そこまでは間違っていなかったと思う。

    問題は、その先だった。

    「自分がやりたくない」を、「価値がない」に変えてしまっていた。

    そして編集をするようになって、もう一つ知った。

    自分が選んだものだけを人に見せれば、それがその人にとっての世界になることがある。

    自分の物差しで価値を決めることと、自分の物差しで世界を切り取ること。

    この二つは、思っていたより近い。

    だから僕は今、AIが何十、何百という答えを出してくれる時代になっても、「最後は人間が選べばいい」と簡単には言えない。

    大切なのは、人間が選ぶことそのものより、選んでいる自分の物差しを、ときどき疑えることなのだと思う。

    市川崑監督の目の前で主演女優の恋愛スキャンダルを質問しながら、「こんなことをするためにテレビ局に入ったんじゃない」と思っていた若い僕の気持ちは、今でもよくわかる。

    あの仕事を好きだったことにする必要もないし、芸能スキャンダルの報じ方を、今になってすべて正しかったと言うつもりもない。

    ただ、あの頃の僕が間違えていたことが一つある。

    その仕事の意味まで、当時の自分の物差しだけで決められると思っていたことだ。

    仕事の意味は、その仕事をしている最中には、まだ完成していないのかもしれない。

    時間が経ち、別の仕事をし、別の人に出会い、社会や技術が変わったとき、同じ経験がまったく違う意味を持ちはじめることがある。

    20年以上前に遠回りだと思っていた場所は、今も僕の仕事の中に残っている。

    AIが生み出したものを選ぶとき、自分とは違う価値観の人に向き合うとき、何かを世の中に出す前に「本当にこれでいいのか」と考えるとき。

    そんな瞬間に、あの編集室で身につけた感覚が顔を出す。

    あの日の僕は、自分が望まなかった場所で、未来の仕事をしていた。

    そしてたぶん、未来の自分から見れば、2026年の今の僕もまだ、自分の仕事の意味を全部は知らない。

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