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AIが30秒で生んだ画像を、最大1週間レタッチした。それは誰の作品なのか。

    ウクライナ人ファッションデザイナー・ナタリアさんとの1000点を超える共同制作から考える、AI時代の「作者」とは。

    AIがその画像を生成するのにかかった時間は、おそらく30秒ほどだった。

    でも、その画像を僕が「作品」と呼べる状態にするまでには、何日もかかった。

    はじめに

    これは2023年頃の話だ。

    たった3年前だけれど、画像生成AIを取り巻く環境は、2026年の今とは驚くほど違っていた。

    Photoshopで画像を数十倍まで大きく拡大する。時には1ピクセル単位まで。

    ペンタブレットの上ではデジタルペンシルを右腕のように使い、ときにはiPad ProとApple Pencilに持ち替える。

    目や瞳の光は、それが命の輝きを放つまで大幅な修正を施す。

    髪の毛は一本一本のレベルまでディテールにこだわって加筆する。

    肌は、毛穴が見えるほど拡大して質感を整える。

    そして、特に大変だったのが「指」だった。

    2023年頃の画像生成AIを使っていた人なら、「生成AIの指問題」と言えば思い出す人も多いと思う。

    どれだけプロンプトを工夫しても、ネガティブプロンプトを重ねても、指が6本になったり、不自然に曲がったり、爪の形が崩れたりする。

    「爪先まで美しい手」を一つつくるために、指だけで1〜2時間修正レタッチすることも珍しくなかった。

    何度も、

    「これならモデルを雇って撮影した方が楽なんじゃないか」

    と思った。

    それでも自分だけでは直し切れないときには、大赤字を覚悟して、美大を卒業したデジタルアーティストにレタッチを依頼することまであった。

    この文章も、いま撮影スタジオで書いている。

    写真撮影の合間、次のカットの準備を待ちながら、少しずつ言葉をつないでいる。

    目の前にはカメラがあり、照明があり、モデルがいる。

    そんな現実の撮影現場にいながら、3年前にAIが30秒で生み出した画像のことを思い出している。

    花びらを整える。

    衣装の輪郭を描き直す。

    光を変える。

    AIが30秒で生み出した画像の上を、今度は僕自身の手が何時間も、何日も往復する。

    いったん完成したと思っても、ウクライナ人ファッションデザイナーのナタリアさんに見せると、また議論が始まる。

    短い作品でも約6時間。

    長いものでは最大1週間。

    一枚の画像と、ひたむきに対峙し続けた。

    そのとき、僕は何度も考えた。

    これをつくったのは、いったい誰なのだろう。

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    第1章 1000点を超える「ウクライナの女神」

    2023年初頭から2024年末まで、僕は「ウクライナの女神」シリーズとして7冊のKindle作品集を出版した。

    『ウクライナの女神』
    『ウクライナの女神 Earth』
    『ウクライナの女神 FANTASY』
    『ウクライナの女神 VOGUE』
    『ザ・プリンセス HOPE』など。

    ありがたいことに、7冊すべてがベストセラーになった。

    1冊に約150〜200作品。合計すると1000点を超える。

    その約9割には生成AIを使った。

    残りの約1割は、僕自身が撮影した実写写真とAIを融合した作品だ。

    その中には、AI生成を使わずゼロからデジタルペンシルで描き起こした作品や、人物の「目」だけに僕が撮影した実写を使い、生成された身体と融合させた作品もある。

    ただし、AIから出てきた画像をそのまま作品として掲載したことは、ほとんどない。

    僕にとってAIが画像を生成した瞬間は「完成」ではない。

    そこからが制作だった。

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    第2章 僕は写真をやめて、AIに移ったわけではない

    生成AIを使った作品を大量に発表するようになって、思いがけないことも起きた。

    「本当に写真も本業なの?」

    そう思われることが増えたのだ。

    SNSだけを見ていれば無理もない。

    実際、僕自身もかなりの数の作品に生成AIを取り入れてきた。

    でも僕にとって生成AIは、写真を捨てて乗り換えた新しい職業ではない。

    もう10年以上前のことになる。

    かつて僕はテレビ局を退職したあと、「クリエイター武者修行」のつもりでロンドンへ渡った。

    そこで2年間、寝ても覚めても写真を撮り、ビデオを撮り、英語を勉強した。

    帰国後は、長年住み慣れた東京を離れ、出身地ではあるものの、ほとんど知り合いのいなかった大阪へ拠点を移した。

    「テレビ局の看板」に頼らず、フリーランスとして映像ディレクター、フォトグラファー、作曲家、クラブDJなど、いくつもの表現領域を横断して仕事をしてきた。

    今で言えば、それらをつなぐ「クリエイティブディレクター」という肩書が一番近いのかもしれない。

    だから生成AIを使い始めたときも、

    「写真からAIへ移った」

    という感覚はまったくなかった。

    数テラバイトに及ぶ、自分が撮影してきた数万枚を超える膨大な写真たち。

    ミュージックビデオ制作のために培ってきた映像と編集技術。

    音楽プロデューサーとして、CubaseやPro Toolsを使い、作曲から編曲まで磨いてきたスキル。

    学生時代から、DJイベントのフライヤーをつくるために蓄積してきたデザイン感覚。

    光。

    色。

    構図。

    映像。

    音。

    それらは僕の中では、最初から別々のものではなかった。

    その延長線上に、突然AIという「新しい素材」が現れただけ。

    僕にとっては、それだけのことに過ぎなかった。

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    第3章 2023年、プロンプトを書くこと自体が「制作」だった

    2023年と2026年では、画像生成AIを取り巻く風景がまるで違う。

    ナタリアさんも僕も、花が大好きだ。

    ところが彼女の母国では、戦争によって家々やビルだけでなく、花や樹々までが燃やされ、枯れていく場所が広大に広がっている。

    だから「ウクライナの女神」シリーズのほとんどの作品で採用したのが、

    「無数の花に身体を覆われた、美しいウクライナ女性」

    というイメージだった。

    尊厳を奪われた人々の希望と、戦火に傷ついた大地の再生、
    そして何よりウクライナの平和を願いながら。

    もしこれを実写で撮ろうとしたらどうなるだろう。

    モデル。

    ヘアメイク。

    衣装。

    スタジオ。

    大量の生花。

    複雑な照明。

    台座や背景を含めたセット。

    僕の撮影現場での感覚では、一枚撮影するだけでも最低10万円程度はかかったと思う。

    場合によっては、もっとコストがかかる。

    つまり生成AIによって、それまで「予算がないから実現できない」と諦めていた頭の中のイメージを、初めて形にできるようになった。

    僕が2023年に衝撃を受けたのは、そこだった。

    ただし、当時の画像生成AIは今ほど簡単ではなかった。

    頭の中にある一枚へ近づけるために、半日かけて数千字に及ぶ英語のプロンプトと格闘することもあった。

    ただ言葉を変えるだけではない。

    文節や単語の順番を変える。

    花の種類や色彩を変える。

    服の質感やファッションデザインを、布の種類にまでこだわって言語化する。

    カメラの機種、レンズ、焦点距離、開放値(f値)まで指定する。

    照明についても、それまでの撮影経験を頭の中で再現しながら、光源の位置、方向、強さ、硬さや柔らかさまで細かく言語化する。

    もちろんネガティブプロンプトも書く。

    生成する。

    違う。

    書き直す。

    また生成する。

    また違う。

    さらに書き直す。

    今では少し不思議に感じるけれど、当時は「プロンプトを書くこと自体が、新しい表現技法になるのではないか」と本気で考えられていた時代でもあった。

    実際、文化庁でもAI生成物について、人間の「創作意図」や「創作的寄与」をどう考えるかが議論され、プロンプトによる具体的な指示も、その判断要素になり得るという整理が行われていた。

    プロンプトそのものが芸術になるのではないか。

    僕自身も、かなり本気でそう考えていた。

    たった2〜3年前の話だ。

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    第4章 その「技術」は、あっという間に特別ではなくなった

    ところがAIは、想像を遥かに超えて、加速度的に進化していった。

    ChatGPT、Gemini、Claudeに代表される対話型AIが急速に賢くなるのと並行して、画像生成AIも猛烈な勢いで進歩していった。

    2025年頃には、日本語でかなり簡単な指示を出すだけでも、驚くほど美しい画像が出てくるようになった。

    2023年に僕が半日かけていたことの一部が、数分、場合によっては数十秒でできる。

    もちろん、それは素晴らしいことでもある。

    予算も専門知識もない人に、表現する力が渡った。

    でも僕の中には、奇妙な空白が生まれた。

    必死になって身につけていた技術の一部が、わずか数年で「特別な技術」ではなくなってしまったからだ。

    誰でも美しい画像をつくれるなら、

    僕は、なぜつくるのだろう。

    これが、僕が画像生成の世界やKindle出版から約2年間遠ざかることになった最大の理由だった。

    僕自身の関心も、世の中の熱気も、次第に画像生成AIから動画生成AIへと移っていった。

    でも今振り返ると、僕は画像生成に飽きたのではなかったのだと思う。

    「美しい画像を生成できること」そのものに、以前ほど価値を感じられなくなったのだ。

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    第5章 時間をかけた人が「作者」なのか

    それでも僕は、

    「AIは30秒。でも僕は1週間レタッチした。だからこれは僕の作品だ」

    と言えばいいのだろうか。

    それも違う気がする。

    時間をかければ作者になれるわけではない。

    100時間かけた作品が、1時間で生まれた作品より優れているわけでもない。

    現代アートの歴史を振り返れば、そのことはよく分かる。

    マルセル・デュシャンの代表作《泉》は、既製品の男性用小便器を「作品」として提示したものだった。

    彼自身が手を動かして、その形を一からつくり上げたわけではない。

    物理的な制作時間だけを基準にするなら、限りなくゼロに近い。

    それでも《泉》は、「何をつくるか」だけではなく、「何を作品として差し出すのか」という問いを美術の中心へ持ち込み、その後の現代アートに決定的な影響を与えた。

    作品の価値は、そこに費やされた時間の長さだけでは決まらない。

    ならば、時間の長さを「作者であること」の証明にするのも、どこかおかしい。

    僕が一枚の画像に1週間を費やしたという事実だけでは、「僕が作者だ」という答えにはならない。

    そもそも「ウクライナの女神」は、僕一人の頭の中から生まれたものではなかった。

    僕たちが出会ったのは、僕自身が設立に関わったウクライナ支援団体「桜と向日葵」の関西支部が主催した、ウクライナ避難民支援イベントの会場だった。

    戦争によって蹂躙される祖国から逃れ、日本へ避難してきたばかりの人たちを支援するための場だった。

    そこで僕はナタリアさんと出会った。

    意気投合し、クリエイティブな領域について話し合うようになり、やがて一緒に作品をつくるようになった。

    彼女はウクライナ避難民である。

    でも、それだけではない。

    一人のプロフェッショナルなファッションデザイナーであり、高校生の娘を育てるシングルマザーでもある。そして、美について自分自身の揺るぎない考えを持った人だ。

    日本へ避難してきたとき、娘さんはまだ中学2年生だった。

    それが今では、高校3年生。半年後には大学受験を控えている。

    あれから、もうそれだけの時間が流れたのだ。

    僕はこの文章を書きながら、改めて時間の速さに驚いている。

    戦争はニュースの中では「何年目」という数字で語られる。

    けれど、その同じ時間の中で、子どもは中学生から高校生になり、進路を考える年齢になる。

    時間は流れている。

    それでも、戦争はまだ終わっていない。

    僕が支援活動の中で感じたこと。

    彼女がウクライナ人として感じていること。

    ファッション。

    愛する娘。

    花。

    美。

    戦争。

    故郷。

    人間が失うもの。

    それでも失わないもの。

    そんな話を何度もした。

    そこから僕が着想し、数千字の英語プロンプトを書く。

    AIが画像を生成する。

    僕がPhotoshopで修正する。

    ナタリアさんに見せる。

    彼女が批評する。

    僕が直す。

    またディスカッションする。時には激しく。

    そして、また直す。

    そうやって完成した作品が何百点もある。

    だったら、ナタリアさんは作者ではないのだろうか。

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    第6章 「支援する人」と「支援される人」の境界線が消えた

    僕にとって、この共同制作にはもう一つ重要な意味があった。

    「支援する側」と「支援される側」という関係が、制作の場では崩れていったことだ。

    支援には、どうしても非対称な関係が生まれる。

    助ける人。

    助けられる人。

    支援する日本人。

    避難してきたウクライナ人。

    もちろん、現実には支援を必要とする場面がある。

    でも、その関係だけで相手を見続けてしまうと、その人が持っている専門性や思想、美意識まで、「支援される人」という一つの言葉の中に閉じ込めてしまう危険がある。

    制作の場では違った。

    ナタリアさんは僕の作品を批評する。

    僕の案に反対する。

    僕が思いつかなかった視点を持ってくる。

    そして僕の考えが変わる。

    そこでは、「どちらが支援する側か」など、ほとんど意味を持たなかった。

    僕は、共同制作とは作業を50%ずつ担当することではないのだと思う。

    相手と出会ったことで、一人なら絶対につくらなかったものが生まれること。

    相手の視点によって、自分自身まで変えられてしまうこと。

    それもまた、共同制作なのではないだろうか。

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    第7章 ウクライナを「美しい作品」にしていいのか

    そして僕自身にも、ずっと残っている問いがある。

    日本人である僕が、

    「ウクライナの女神」

    という作品をつくっていいのだろうか。

    いかに「収益をウクライナ支援に寄付」するという前提があったとしても。


    戦争。

    避難。

    祖国を離れること。

    そこで生きている人々。

    それらと結びついたウクライナという題材を「美しい作品」に変える行為には、当然危うさがある。

    僕がウクライナ支援活動をしているから、何を表現しても許されるわけではない。

    善意があれば、作品も正しくなるわけではない。

    むしろ善意は、ときに自分自身への批評を鈍らせる。

    だから僕にとって、ナタリアさんとの対話は単なるアイデア交換ではなかった。

    僕一人の想像だけで「ウクライナ」を語らないためでもあった。

    それでも、僕たちの作品が完全に「正しかった」とは思っていない。

    たぶん、表現にそんな完成地点は存在しない。

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    第8章 作者は、作品より先に存在するのか

    ここまで考えると、いくつかの答えはすぐに思いつく。

    作者は、一人でなくてもいいのではないか。

    作品とは、人と人、人と技術、社会や歴史との関係の中から生まれるものではないか。

    作者性そのものが、僕、ナタリアさん、AIへと分散しているのではないか。

    そして、どれだけ作者性が分散したとしても、最後には人間がその表現を引き受けるべきではないか。

    どれも僕には重要な考え方だと思える。

    実際、「ウクライナの女神」をつくった経験を振り返れば、そのどれにもかなり強くうなずける。

    でも今回は、そこで思考を止めたくない。

    なぜなら「作者は一人ではない」と言っても、そこにはまだ、作品より先に「僕」「ナタリアさん」「AI」という独立した存在があり、その間に作者性が配分される、という前提が残っているからだ。

    20世紀フランスの哲学者ジルベール・シモンドンは、「個体」を最初から完成して存在するものではなく、「個体化」という生成のプロセスから生まれてくるものとして考えた。

    この考え方を僕の制作に重ねると、少し奇妙な景色が見えてくる。

    作品をつくる前から、「作者として完成した僕」が存在していて、その僕がナタリアさんと話し、AIを使った。

    本当にそうだったのだろうか。

    さらに、日本ではまだあまり名前を知られていないかもしれないが、理論物理学者で思想家のカレン・バラッドは、量子物理学を足場に、独立した存在同士が後から関係するという発想そのものを問い直した。

    彼女が使うのは「interaction」ではなく、「intra-action」という言葉だ。

    かなり単純化して僕なりに言えば、

    まず僕がいる。

    ナタリアさんがいる。

    AIがある。

    そして三者が出会う。

    のではなく、

    その関係の中から、「僕」「ナタリアさん」「AI」という境界さえ立ち上がってくる。

    もちろん、僕たちの共同制作を量子力学で説明したいわけではない。

    僕が惹かれるのは、その発想の反転だ。

    ナタリアさんと制作したことで、僕自身が変わった。

    変わったのは、僕の「美」の基準だけではない。

    「支援する日本人」として彼女の前に立っていた僕自身の位置も、共同制作を重ねる中で少しずつ組み替えられていった。

    僕は彼女を変えようとして作品をつくっていたわけではない。

    けれど気がつけば、その関係によって、僕の方も変えられていた。

    同時に、AIから予想もしなかった像が返ってくることで、僕の「美」の基準も揺さぶられた。

    作品が変わると、僕のウクライナを見る目も変わった。

    そして、人間と人間の関係だけではない。

    そこにAIという技術が加わることで、何を美しいと思うのか、何を作品と呼ぶのか、そして自分自身を何者だと考えるのかまで、少しずつ揺さぶられていった。

    つまり僕たちは、作品だけをつくっていたのではない。

    作品をつくるという出来事の中で、「僕」という作者そのものも同時につくり変えられていた。

    だとすれば、

    「作者は誰なのか」

    だけでは足りない。

    「作者性はどこに分散しているのか」

    でも、まだ足りない。

    作品が生まれる以前から、「作者」という存在は、本当にそこにいたのだろうか。

    それとも制作という出来事そのものが、その都度、

    「作者としての僕」

    を生み出しているのだろうか。

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    最終章 つくるたびに、僕もまたつくられていく

    「ウクライナの女神」シリーズは、7冊すべてベストセラーになった。

    もちろん、うれしかった。

    ありがたいことに、毎回何十件もの好意的なレビューがつき、中には「人生観が変わった」とまで書いてくださった人もいた。

    そこまで作品を受け取ってくれた人がいたことは、つくり手として今でも本当にうれしい。

    ただ、何冊売れたか。

    何位になったか。

    星がいくつついたか。

    それだけで作品のすべてを測れるとも思っていない。

    作品が何年後まで誰かの中に残っているのか。

    ナタリアさんと僕の関係をどう変えたのか。

    そして僕自身を、どう変えたのか。

    そうしたものは簡単には数字にならない。

    AIはこれから、もっと速くなる。

    もっと賢くなる。

    先ほど触れた「プロンプトの芸術性と、その急速な陳腐化を経験したこと」が、まさにその好例だ。

    僕がかつて最大1週間かけていた作業の多くも、いつか数秒でできるようになるかもしれない。

    そこで、

    「人間にしかできないことは何か」

    と問いたくなる。

    でも、その問いさえ、もう少し疑ってみたい。

    AIによって、アートはどう変わるのか。

    この数年、僕たちはそれを繰り返し話してきた。

    では逆はどうだろう。

    アートによって、AIという技術をどう変えられるのか。

    効率よく美しい画像を大量生産するためだけの技術ではなく、

    人間と人間が出会い、自分一人では見えなかった世界を見るための技術へ。

    僕とナタリアさんの共同制作に意味があったとすれば、それはAIで1000点を超える美しい画像をつくったことだけではない。

    「支援する人」と「支援される人」だった二人の関係そのものが、制作によって変わった。

    そこにAIが存在した。

    ならばAIという技術の意味もまた、使う僕たちとの関係によって変わるはずだ。

    最後の「ウクライナの女神」を出版してから約2年。

    2026年後半、僕は8冊目のKindle本を出そうとしている。

    今度は画像作品集ではない。

    文章だ。

    2023年の僕は、数千字の英語プロンプトを書いて、一枚の画像を生み出そうとしていた。

    2026年の僕は、その数千字を、今度はAIへの命令ではなく、人間に読んでもらうために書こうとしている。

    これは画像をやめて文章へ移った、という話でもないと思う。

    写真。

    映像。

    音楽。

    デザイン。

    AI。

    そして言葉。

    僕はずっと同じ「作者」のまま、道具だけを取り替えてきたのだろうか。

    それとも、新しい表現や技術と出会うたびに、それらによって僕自身も少しずつつくり変えられてきたのだろうか。

    AI時代に本当に問うべきなのは、

    「人間に何が残るのか」

    ではないのかもしれない。

    この新しい技術と出会ったことで、

    僕たちは、何になり得るのか。

    ここまで書いたところで、スタジオから声がかかった。

    次の撮影が始まる。

    僕は文章の画面から撮影用の画面へ戻る。

    数枚シャッターを切るたびに、カメラからMacへ写真が転送される。

    ピントを見る。表情を見る。光を見る。必要ならその場でセッティンングを一部修正する。

    Macの画面には、さっきまで書いていた「作者とは誰か」という文章の代わりに、今撮ったばかりの写真が現れる。

    ファインダーの向こうには、AIではない、一人の人間がいる。

    でも、その人を見ている「僕」も、3年前とまったく同じ僕ではない。

    AIと出会った。

    ナタリアさんと出会った。

    1000点を超える作品をつくった。

    そのたびに、僕自身も少しずつ変わった。

    だからたぶん、作品に完成形がないのと同じように、

    作者にも完成形はない。

    AIが30秒で生んだ一枚の画像から始まった問いは、

    3年経った今、

    「それは誰の作品なのか」を通り越して、

    「つくっている、この僕はいったい誰なのか」

    というところまで戻ってきた。

    そして、その問いにも完成形はない。

    つくるたびに、

    僕もまた、つくられていく。

    さて、撮影に戻ろう。

    ───

    AIやアート、社会について、実際に見て、つくって、関わるなかで生まれた違和感を書いています。

    簡単には答えの出ない問いを、これからも考え、書いていきます。フォローしていただけたらうれしいです。

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