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CD売上58.6%増。僕は、その「1枚」が気になった。

    はじめに 58.6%増という数字

    9月1日、ロイター通信で気になる数字を見つけた。

    2026年上半期、アメリカのCD売上高が前年同期比58.6%増えたという。

    僕が引っかかったのは、その伸び幅だった。

    誰が、何のために、これほどCDを買っているのだろう。

    すぐに思い浮かんだのは、一部の若い世代がCDやレコードをファッションやコレクションとして楽しむ動きと、アイドルやK-POPの推し活による複数購入だった。

    僕は学生時代の終わり頃からクラブDJとして活動を続け、その後は音楽プロデューサーとしてインディーズレーベルも運営してきた。

    だから、その二つの現象に驚いたわけではない。

    それよりも、数字を見ているうちに別のことが気になり始めた。

    僕たちが「CDが一枚売れた」と言うとき、その「一枚」は、本当に同じ一枚なのだろうか。

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    第1章 日本では、CDとレコードが逆方向へ動いている

    同じ2026年上半期、日本ではCDの売上が前年同期比11%減った。一方、アナログレコードは42%増えている。ストリーミングも伸びた。

    ここから「アメリカではCD、日本ではレコード」と国別の違いを論じても、それほど面白くない。

    僕が気になったのは、同じフィジカルメディアであるCDとレコードさえ、同じ方向には動いていないことだった。

    「フィジカル回帰」という一言では収まらない。

    同じ音楽でも、人があえて物として欲しがる理由は一つではない。

    そう考えていて、十年以上前にDJ機材ショップで受けた衝撃を思い出した。

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    第2章 「CDJ」から、CDを入れる場所が消えた

    2014年、世界中のクラブでPioneer DJブランドの機材が定番になっていた頃、同社はXDJ-1000を発売した。

    見た目も操作感も、それまでのCDJシリーズを踏襲している。ただ、大きな違いが一つあった。

    CDを入れる場所がない。

    僕はDJ機材ショップで初めて実物を見たとき、かなり衝撃を受けた。

    当時も、レコードを使ってプレイするDJは一定数いたし、パソコンの音源をターンテーブルで自在に操るDJも珍しくなかった。

    DJの世界がCDだけで成り立っていたわけではない。

    僕は長いあいだ、CDJを使ってDJプレイをしてきた。

    XDJ-1000にも、見慣れた大きなジョグダイヤルがある。ディスプレイもあり、触った感覚も馴染み深い。

    なのに、CDを差し込むスロットだけがない。

    「もうCDを使わなくてもいい」ではなく、「ついに、DJプレーヤーからCDそのものが消えたんだ」と感じた。

    単に新しい機材を見たという感覚ではなかった。長年使ってきた道具から、当たり前だったものが一つ抜け落ちている。

    その後も「CDJ」という名前は残った。

    2020年に登場したフラッグシップ機CDJ-3000にも、CDを入れる場所はない。

    CDは消えたのに、「CDJ」は残った。

    いま振り返ると、この名前と中身のずれは、その後のCDをめぐる変化を少し先取りしていたようにも見える。

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    第3章 棚は、僕の記憶の地図になっている

    僕はいまも、1万枚を超えるCDやレコードを所有している。

    本も同じで、五千冊を優に超える本が、CDやレコードと一緒に壁を埋め尽くしている。

    合理性だけで考えれば、ずいぶん無駄な空間の使い方なのかもしれない。

    それでも僕は、あの壁を無駄だと思ったことがない。

    「あの壁の右側、三段目あたりにあのCDがある」と思えば、その中の三曲目に、美しいイントロから始まる曲が入っていることまで浮かんでくる。

    その隣のラックのいちばん下には激しいトランスが並び、反対側にはベートーベンやショパンのピアノソナタがある。

    僕にとって、あの壁は物をしまうだけの場所ではない。

    そこには、音楽を聴いていた時間や、その頃の自分までが重なっている。

    その音楽を聴いていた場所や、一緒にいた人、その頃の自分まで、物の位置と結びついている。嬉しかったことも、腹を立てたことも、失ったものも、棚のどこかに引っかかっている。

    今では曲名を検索すれば、音だけなら数秒で見つかる。

    けれど、僕の部屋にある一枚には音だけではなく、記憶と身体と喜怒哀楽が、物の位置にまで結びついている。

    だからといって、「フィジカルは温かく、デジタルは冷たい」と言いたいわけではない。

    僕自身、いまは日常的に配信で音楽を聴くし、昔の不便さへ戻りたいとも思わない。

    ただ、再生するために必要だった物が、再生には必要なくなったあとも残るとき、その物には別の役割が生まれる。

    いま、透明な筐体の中で回転するCDを見せるプレーヤーが、インテリアやアートのように売られている。

    かつて中身の音を聴くために買った円盤が、いまは円盤そのものを「見る」対象にもなっている。

    僕の壁にある一万枚と、若い世代が部屋に飾る一枚では、そこに置かれる理由が違う。

    同じCDでも、もう同じ仕事をしていない。

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    第4章 一枚のCDが、一回分の抽選券になる

    推し活の世界へ行けば、同じ円盤にさらに別の役割が加わる。

    イベント応募用のシリアルナンバーが封入され、一枚買えば一回応募できる。複数枚を購入すれば、そのぶん当選の機会が増える仕組みもある。

    ここではCDは音楽作品であると同時に、推しとの関係へアクセスするための単位にもなる。

    僕は、この仕組みそのものを単純に批判したいわけではない。

    僕自身もプロとして音楽を作り、売る側にいた。

    好きなアーティストを応援したい、会いたい、その成功に自分も参加したいという感情が音楽産業を動かすことも分かっている。

    だからこそ、この違いが気になる。

    僕の棚では、一枚のCDが何十年分もの記憶と結びついて残っている。

    一方、別の場所では、一枚のCDがイベントに応募するための「一回」分になる。

    今年8月、日本武道館とその周辺で、アイドルグループのCDが不法投棄される問題が起きた。

    捨てられたCDがすべて特典や抽選を目的とした大量購入によるものだったとは確認されていない。だから、ここから「推し活がCDをゴミにした」という単純な話へ進むつもりはない。

    それでも僕は、あの光景を見て考えてしまう。

    手元に残したくて買われる一枚がある。

    別の価値を取り出したあと、円盤そのものが不要になる一枚もある。

    その二つが、市場では同じ「CD一枚」として数えられる。

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    第5章 その「1」は、本当に同じ「1」なのか

    最初の58.6%へ戻ろう。

    アメリカのCD販売増加には、K-POPによる複数購入やコレクション需要が大きく寄与している。一方、別の調査では、K-POPを除いても販売枚数は増えている。

    つまり、一つの理由だけでは説明できない。

    ただ、ここまで来ると、僕は原因をさらに細分化すること自体にはあまり興味がなくなっていた。

    もっと手前にあるものが気になったからだ。

    僕たちは「CD売上高」と言った瞬間、何を同じものとして数えているのだろう。

    作品として買われたCDも、ジャケットや円盤そのものを所有したくて選ばれた一枚も、イベント応募のために買われたものも、市場ではすべて同じ「CD」というカテゴリーに入る。

    統計としては何もおかしくない。

    物として同じCDなのだから、同じ一枚として数える。

    しかし、その「1」が人間にとって意味するものは違う。

    僕の壁の右側、三段目にある一枚も、誰かがイベント応募のために買った一枚も、売上統計では同じ「1」になる。

    そこで初めて、58.6%という数字が僕には少し奇妙に見えた。

    数字が間違っているのではない。

    正確に数えれば数えるほど、その「1」の中にある違いは消えていく。

    そして推し活では、さらに逆方向のことまで起きている。

    本来、誰かを応援したいという感情には単位がない。昨日より今日の方が好きだからといって、「好き」が1.3倍になったとは普通は言わない。

    ところがCDを一枚買えば、売上には「1」が加わる。一枚につき一回応募できるなら、会いたいという気持ちは一口の抽選権になる。

    もちろん、購入枚数が愛情の大きさを示すわけではない。

    むしろ興味深いのは、本来は数えられない「感情」と、市場が扱える「数字」とのあいだに、一枚のCDが置かれていることだ。

    かつてCDは音楽を記録するメディアだった。

    いま一部では、人間の関係や感情を「1」へ変換する役割まで担っている。

    僕の棚では逆に、その一枚が数字には戻せない記憶を抱えたまま残っている。

    同じ円盤の上で、数えられるものと、どうしても数えられないものが交差している。

    9月1日に58.6%という数字を見たときの違和感は、たぶんここにあった。

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    第6章 「CD」という言葉の方が、現実から遅れている

    ここまで考えると、「なぜCDが売れているのか」という問いそのものが少し違って見えてくる。

    問題は答えだけではない。

    問いの中に最初から置かれている「CD」という言葉の方だ。

    CDに束ねられていた役割が分かれていく流れは、十年以上前から続いてきた。

    かつて一枚買えば、音源を手に入れ、作品を所有し、ジャケットを楽しみ、好きなアーティストを支えるという複数の行為が、一つの商品にかなり自然にまとまっていた。

    その後、音を聴く場所は配信へ移り、アーティストとの関係を結ぶ方法もライブやファンクラブ、グッズなどへ広がった。

    ところが、「CD」という名前は残っている。

    2014年に僕がXDJ-1000を見たときも、似たことが起きていた。

    CDを入れられないDJプレーヤーが登場しても、その系譜には「CDJ」という名前が残った。

    中で起きていることの方が先に変わり、名前だけが昔の境界線を保っている。

    考えてみれば、これはCDに限ったことではない。

    僕たちは世界を理解するために、名前をつけ、分類し、数字にする。それがなければ社会も市場も動かない。

    ただ、名前が便利であることと、その名前がいつまでも現実を正確に切り分けてくれることは同じではない。

    現実の方が先に変わってしまうことがある。

    そのとき、古くなるのは物だけではない。

    物を見るために使っていた言葉の方が、先に現実から取り残されることもある。

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    終章 僕の壁の一枚は、「1」では終わらない

    2014年、DJ機材ショップでXDJ-1000を初めて見た。

    見慣れたDJプレーヤーの形をしているのに、CDを入れる場所だけがなかった。

    「ついに、DJプレーヤーからCDそのものが消えたんだ」と感じた。

    それから十年以上が過ぎた。

    2026年、今度はロイター通信で、アメリカのCD売上高が58.6%増えたという数字を見ている。

    あの頃、僕が目の前で見ていたのは、CDが担ってきた一つの役割の終わりだったのだと思う。

    円盤そのものが終わったわけではなかった。

    物が残れば、人間はそこへ別の意味を載せることができる。

    僕が最近「アート思考2.0」と呼んでいる考え方では、目の前の問いに新しい答えを出すだけではなく、その「問いを成立させている前提」まで戻って考える。

    今回なら、「なぜCDが58.6%も売れたのか」と考えているあいだ、僕自身も「CD」という一語の中には同じものが入っていると、どこかで思い込んでいた。

    でも、僕の壁の右側、三段目にある一枚と、誰かがイベントへの一回分として買った一枚では、人間との関係がまるで違う。

    同じ円盤であることは間違いないし、同じ「CD」と呼ぶことにも問題はない。

    危ういのは、一つの名前を与えた瞬間に、一つの現象として分かった気になることだ。

    いまも僕の周りには、一万枚を超えるCDやレコードと、数千冊の本がある。

    ふと壁の右側へ目をやれば、三段目にある一枚から、その三曲目の美しいイントロが頭の中で鳴り始める。その近くには激しいトランスがあり、反対側にはベートーベンやショパンがいる。

    ケースを手に取らなくても、棚を見るだけで音楽の向こう側にあった時間まで戻ってくる。

    市場なら、それを一枚と数える。

    それでいい。

    市場は僕の記憶まで数える必要はない。

    ただ僕まで、その一枚を「1」だと思う必要はない。

    市場では一枚のCDにすぎない。でも僕の部屋では、再生ボタンを押す前から、もう鳴っている。

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    AIやアート、社会について、実際に見て、つくって、関わるなかで生まれた違和感を書いています。

    簡単には答えの出ない問いを、これからも考え、書いていきます。フォローしていただけたらうれしいです。

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