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勝率四割|第十一話「違う選択」

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    第十一話 違う選択


     マツダイラの設計書を納品した週の金曜日、黒田からメールが届いた。定例の月次確認、来週木曜日、十時、二十八階の個室。「定性面での状況確認を兼ねて」と前回と同じ文面だった。

     木曜日。前回と同じドア、同じ絨毯、同じ窓の外の海。海は先月より、少し青かった。春だった。
     「お座りください」と黒田は言った。
     僕は座った。
     黒田は、前回より少しだけ疲れて見えた。目の下に薄い影があった。椅子の背に、前回より深くもたれていた。背筋は伸びていたが、前回の角度ではなかった。
     「今日は、定性面のご確認をさせていただきたいと」と黒田は言った。
     タブレット端末を滑らせた。画面に、僕がこの数ヶ月で書いた提案書の、二十三ページ目が五枚並んでいた。A社、B社、C社、マツダイラ、もう一件、四件目の終盤で別途走らせた小さな案件。
     「二十三ページ目の欄外です」と黒田は言った。「初期の案件では、欄外に手書きの一行が入っていました。直近三件では、空白になっています」
     僕は、画面を見た。見たことは、黒田はすでに知っていた。
     「もし必要であれば、先方のシステム側を調整して、欄外の手書きを本文に統合できる形に変更することは、可能です。当方で先方に提案することもできます」
     黒田は、戻す選択肢を、また僕の前に置いた。置くことを、黒田は自分の仕事だと決めていた。
     「戻す、必要は」と僕は言った。「感じていません」
     そう言った瞬間、自分の声が思ったより平らだったことに気づいた。強がりではなかった。本当に、今の僕はそう感じていた。欄外に一行を足さない方が、提案書は早く通る。説明も減る。消される心配もない。誰かに削除を頼まれる前に、自分で空白のまま出してしまえば、夜にノートへ写す必要もない。朝が軽くなる。次の案件にすぐ入れる。仕事が、流れる。半年前の僕なら、その流れの良さを怖がったはずだった。今の僕は、その流れの良さに一度身体を預けてしまっていた。
     「そうですか」
     「一行を足さなくても、提案書は通っています」
     「通っています」と黒田は言った。「通過率は、前期比で八ポイント改善しています。先方からのご評価も、一定以上」
     「数字としては、問題ありません」
     「数字としては」
     黒田は、そのあと一秒、沈黙した。一秒、と僕は数えた。黒田が沈黙を一秒取る場面を、僕はこの半年で二度目撃していた。一度目は、半年前、署名の日にタブレット端末を閉じた直後。二度目が、今日だった。
     「柏木さん」と黒田は言った。「通ることと、残ることは、同じではない、という話を、前にどこかで聞いた気がします」
     その言葉を、前にどこかで自分が書いた気がした。どこだったかは、今日の僕には思い出せなかった。
     僕は息を止めかけた。止めなかった。止めなかったことを、自分で確認した。
     「誰から聞いたかは、覚えていません」と黒田は続けた。「メモにも残っていません。ただ、そういう区別を、誰かがどこかで言ったのを、聞いた気がします」
     僕は答えられなかった。
     黒田はタブレット端末を閉じた。閉じた端末を、膝の上に一度下ろした。手が端末から離れかけた。離れかけて、また持ち直した。前に一度、この個室で、黒田が同じ動きをしたのを、僕は覚えていた。
     「柏木さん」と黒田は言った。「前にいた方は、最後まで一行を足す方でした」
     僕は黒田を見た。黒田は僕を見ていた。
     「あの方の痕跡を制度から抜くには、外の方の署名が要りました。半年前、私に残されていた手は、それでした」
     黒田は一秒置いた。
     「柏木さんは、違う選択をされましたね」
     違う選択、と黒田は言った。評価ではなかった。非難でもなかった。事実を確認する声だった。だが、その一言のあとでは、こちらが何を言っても言い訳に近づく気がした。黒田の前では、言葉の順番そのものが黒田の側にある。僕はそのことを、もう知っていた。
     「それ以上は、申し上げません」
     そこで終わると思った。だが黒田は、椅子の背から少しだけ身体を起こし、言葉を継いだ。
     「ただ、一つだけ」
     僕は黙って待った。
     「今の選び方の方が、長く働けます」
     黒田の声には熱がなかった。熱がないぶん、妙に正確に聞こえた。
     「毎回、見えない一行を拾って、残す理由を探して、消されたあとで自分の中に抱え直すやり方は、続きません。人は、続かないやり方では組織を支えられない。今のやり方の方が、通ります。疲弊も少ない。再現性も高い。生活も崩れにくい」
     黒田はそこで止めた。説得をやめたのではなかった。必要なだけ言って止めた、という止まり方だった。
     「戻すべきだと思われたら、いつでも言ってください。こちらで調整します」
     「……今は、必要ありません」
     言いながら、僕は自分の中にある小さな安堵を認めていた。戻さなくていい。もう一度、あの欄外に言い訳のような一行を書き、その一行の行き先を気にしなくていい。提案書を出した夜に、自分だけのメモ欄を開かなくていい。翌朝、どのC判定に電話するかを迷わなくていい。今のやり方なら、仕事は進む。関係者に感謝される。次の案件が来る。値段も上げられるかもしれない。そこまで考えて、僕は一度だけ喉を動かした。
     黒田の言っていることは、正しいだけではなかった。救いだった。少なくとも、今の僕にとってはそう聞こえた。見えない一行を拾うたびに、自分の中のどこかを削って、それでも何も残せない夜へ戻らなくていい。仕事を続けるために、自分を燃やし続けなくていい。そういう働き方が本当にあるのだとしたら、そちらへ寄りたくなるのは自然だった。自然だと思ってしまったことを、その場では否定できなかった。
     「分かりました」と黒田は言った。
     黒田は立ち上がった。
     「今後も、ご協力のほど、よろしくお願いします」
     僕は頷いた。頷いて、椅子から立った。
     ドアに向かう僕に、黒田は追加の言葉を言わなかった。前回の個室退出時には、僕の背中に一言、声をかけた黒田だった。今日は、黙って見送った。黙って見送ることが、黒田の今日の判断だった。黒田の仕事は、今日、そこで終わっていた。

     エレベーターで一階に降りた。
     一階のロビー。半年前、黒田と初めて会った場所だった。紺のスーツ。タブレット一枚。他には何も持っていなかった。エレベーターに戻る直前、黒田の右手はポケットで何かを握っていた。握っていたものが何かは、あのとき、ドアで見えなくなった。
     今日の僕は、ロビーに立って、自分のスーツのポケットに手を入れた。入れた手は、何も握らなかった。ポケットの中は、空だった。鞄の中にも、紙のノートはあったが、ポケットには何も入っていなかった。
     半年前、黒田の手が何を握っていたのかを、今日の僕は、もう問わなかった。問う代わりに、自分のポケットが空であることを、静かに確認した。空でいる方が軽い、とそのときの僕は思ってしまった。思ってしまってから、思ったこと自体を打ち消さなかった。それが、今日の僕の、唯一の記録だった。

     ホテルに戻って、僕は鞄から紙のノートを出した。ノートの表紙の裏は、先月、三年前の顧客の夜に、空にした。空のまま、三週間が経っていた。
     僕はノートを開いた。
     ペンを握った。
     書こうとした。
     書かなかった。
     書かないまま、ノートを閉じた。


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    生成AIの実務活用を、現場で使える形にして発信したり、ときどき物語やエッセイも書いています。 2026年5月より note創作大賞2026 お仕事小説部門に、対句構造の連作2作品『資本業務提携の前日』『勝率四割』を順次公開します。

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