
勝率四割|結章「最初の電話」
前の話 → 第十一話「違う選択」
結章 最初の電話
翌朝、ホテルの部屋。窓の外に、五月の光があった。
僕はノートパソコンを開いた。未決の案件が三件、フォルダに入っていた。五件目の会社、六件目の会社、そしてC社の継続案件のドラフト。C社は、清水社長から先日「来期の追加支援を」と非公式の打診が来ていた。正式な見積もりを、今週中に提出する予定だった。
C社の過去の提案書を、参考のために開いた。二十三ページ目。欄外は、空白だった。
空白の欄外を、僕は見た。
そこに、書けることがあった。いまでも、頭の中にはあった。「清水社長はA判定案件に集中しすぎており、C判定の一割はデータ更新漏れの可能性が高い。四半期ごとの再評価推奨」。過去二年間の支援で、僕が十一のチームに対して書いてきた一行と、構造は同じだった。
カーソルを、欄外に置いた。
書こうとした。
指が、止まった。
止まった指を、僕は見た。指は、震えていた。
震えていた。
二度目だった。一度目は、先週の朝、東京駅のホームで震えた。千葉の町工場の社長との電話が切れた直後だった。あのときの震えは、手首に伝わる前に止まった。今朝の震えは、止まらなかった。
半年前、黒田の個室で電子署名をした指は、震えなかった。震えなかったことの意味を、そのときの僕は、気に留めなかった。
今朝の指は、震えていた。
二年半前の午前三時、AIに「なぜ売れないのか」と打ち込んでいた指と、同じ震え方だった。
僕は指を画面から離した。
欄外のカーソルを、閉じた。
空白のまま、保存した。
保存した画面を、しばらく見た。
見たあとで、僕はノートパソコンを閉じた。
CRMアプリを開いた。
自分の顧客リスト。独立以来、二年半分。百二十二社。Aランクが十二社。Bランクが四十七社。Cランクが六十三社。
いつもなら、この画面を開いた朝、僕はCランクの一番上にカーソルを合わせた。Cランクの一番上から、電話をかけるのが、二年半分の僕の習慣だった。AI判定との四十八回目の衝突は、いつもCランクから始まった。
今朝、カーソルはAランクの一番上にあった。
カーソルを、僕は自分で合わせた。
合わせたことを、僕は意識していた。意識していた、ということは、これまでの二年半と、今朝が違う、ということだった。
違うだけではなかった。Aからかける方が、朝の仕事は軽かった。相手は出やすい。話も早い。次の見積もりにそのまま繋がる。数字が崩れにくい。今日一日を、守りやすい。Cからかければ、相手の事情を拾ってしまうかもしれない。拾ったものを、またどこにも残せないかもしれない。残せないまま抱えるかもしれない。今の僕は、その朝を避ける方法をもう知っていた。知っていて、Aにカーソルを合わせた。
Aランクの一番上は、マツダイラだった。
関口の会社。
三週間前、僕が千葉の町工場を含む二十三社の取引終了を設計した会社。関口は「このまま進めます」と言った。進めた結果を、僕はまだ確認していなかった。
電話番号をタップした。
三コール目で出た。
「関口です」と関口が出た。
「柏木です。ご無沙汰しております」
関口は三秒、黙った。三秒の意味は、この朝の電話口では、分からなかった。
「柏木さん」と関口は言った。「先日の設計書の件、実行に入っています。二十三社のうち、十七社には通知を出しました。残り六社は、来週です」
「千葉の町工場は」
「通知済みです」
「先方の反応は」
「電話が一本入りました。社長からでした。『分かった』とだけ言って、切られました」
分かった、とだけ。
「そうですか」
「今日は、何のお電話ですか」
「来期の、マツダイラ様の支援契約について、ご相談でした」
「ああ、そうでしたか。ぜひお願いします。見積もり、お送りいただけますか」
「今週中にお送りします」
「ありがとうございます」
関口は、電話を切った。
僕はスマホを握ったまま、一分、動かなかった。
一分後、ノートパソコンを開いて、見積書のフォーマットを開いた。フォーマットの顧客名欄に、マツダイラと打ち込んだ。金額欄に、過去の月額六十万より高い、月額七十万と打った。独立以来、自分から値上げ提案をしたのは、初めてだった。
七十万、という数字を見たとき、胸の奥に小さな納得があった。今のやり方なら、ここまで来られる。Cから電話をかけ続けていた二年半では、たぶんここに届かなかった。そう考えた自分を、僕は否定できなかった。否定できないことが、少しだけ心地よかった。少しだけ心地よかったあとで、その心地よさに気づいてしまった。気づいてしまったが、金額欄は打ち直さなかった。
見積書を保存した。保存したファイル名は、「20260515_マツダイラ_来期見積_v1.xlsx」。
フォルダの中に、同じ日付の別のファイルが並んでいた。C社のドラフト、五件目の会社の初回訪問資料、六件目の会社のRFP回答案。どれも、この一週間で作ったものだった。
どのファイルにも、欄外の手書きは、入っていなかった。
先日、大阪出張の朝、千葉の町工場の社長と電話で話したことを、僕は関口に伝えなかった。「関口さんに、俺は二年は商売を続けると伝えてくれ」と社長は言った。伝えることを、僕は承知しました、と答えた。その承知を、僕は今朝、果たしていない。果たすかどうかを、決めなかった。
見積書を先に送った。見積書の送信ボタンを押した指は、震えなかった。
震えなかったことに、僕は気づいた。伝言を残したままでも、先に見積を送れる。順番をそう並べる方が、今の僕には自然になっていた。自然になっていた、という事実だけが、送信完了の画面より遅れて胸に落ちた。
送信が完了したあとで、僕はメール画面を閉じた。町工場の伝言を関口に送るための新規メッセージは、下書きのままにした。
紙のノートは、鞄から出さなかった。表紙の裏は、空のままだった。二年半前のレシートは、鞄の奥のポケットに入ったままだった。
CRMアプリのプライベートメモ欄を、今朝は開かなかった。B社から半年、削除を指示された一行を密かに写してきた場所だった。最近の二ヶ月、指はアイコンに触れていない。
この朝、僕が伝えなかったことが、また一つ、僕の中で増えていた。
増えたことを、誰にも伝えないまま、僕は次の案件のフォルダを開いた。
最初の電話は、Aランクからかけた。
「勝率四割」——おわり
前の話 → 第十一話「違う選択」 | 全話マガジン → https://note.com/noahchi_817/m/m13954be986af