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透明なきみ

    2つの台風が列島に接近した、ある週末の午後。
    マンションの窓に横なぐりの雨が打ち付け、パシンパシンと小石が当たるような音を立てていた。
    私はキッチンへ向かい、お気に入りのコーヒー豆を挽き、愛用の木製マグにゆっくりと淹れた。
    本当は何もしたくない。
    ただ、ボーッとしていると、考えなくていいこと・思い出したくないことにあれこれ思考を巡らせてしまうので、何かに集中して気を紛らわせたかった。
    キッチンから部屋へ戻ると、更に勢いを増した雨が、激しく窓を叩いていた。
    まるで誰かが助けを求めてノックしているかのように、バンバン・バンバンと切羽詰まった響き。
    ひょっとして、先日のようにまた近くの川が氾濫して、本当に救助が必要な人が窓の外にいる、なんてことは……あるはずないか。
    突拍子もない発想に苦笑しながら、私はカーテンの端を少しだけ開いた。
    雨水がシャワーのようにザーザーと窓をつたって落ちている。
    これは今日どころか、週明けの出社時間帯まで降り続きそうだ。
    早く上がるといいのだけれど、そう思ってカーテンを閉じようとしたとき、窓の外で何かがゆらりと動いた気がした。
    雨煙?
    窓に顔を近づけ目を凝らすと、輪郭の見えない塊がふわふわと漂っていた。
    何ともおかしな表現だ。
    だが、この状態をどのように説明すればいい?
    幼い頃、山に登って雲を掴もうとしたことがあった。
    距離を取ると目で捉えることができるのに、近付くと消えてしまった雲。
    この塊は、存在は感じるものの目に見えない雲といったところか。
    ってことは、これはただの気体?
    これは何が元となって起こっているのだろう?
    平地でも条件が整えば、雲ってできるのだっけ?
    台風が2つも近付くと、気圧変化で珍しい現象が起こったりするのだろうか?
    呆然として動けない体とは裏腹に、私の頭は納得できる結論を導き出そうと必死に働いていた。

    ―ねえ、
    突然、雨音から声が聞こえた気がして、私は思わず後ずさった。
    こんな薄暗い日に、心霊体験とかまっぴらだ。
    いや、カンカン照りだったとしても、絶対に起きて欲しくない現象なのだけれど。
    すぐにカーテンを閉め、何かに祈りたい気持ちになった私に、
    ―ねえ、ぼくのこと、わかる?
    か細く頼りなげな声が語り掛けてきた。
    迷子の子どものような憂いを含んでいる。
    分かる?と尋ねるということは、つまり、声の主はこの塊?
    こういう状況が起こったら、私は腰を抜かしたり気を失ったりすると思っていた。
    でも、ちゃんと立っているし意識もある。
    それに、不思議ともう怖くはなかった。
    「分かる、ます」
    恐怖は感じなくなったものの、しっかり動揺しているようだ。
    ―ぼく、さむい?さみしい?
    これは塊自身のことなのか、それとも私に問うているのか?
    「きみ、寒いの?中に入る?」
    私は何を言っているのだろう?
    落ち着きを取り戻したどころか、訳の分からない物体(これに特定の形や質量はあるのだろうか?)を、室内に招き入れようとするなんて。
    危険だと信号を発する思考を押しのけ、私はカーテンを大きく開いてみせた。
    すると、私の提案を受け入れるかのように、その塊は空気中をふわふわと漂い、すぅ~っと窓に寄って来た。
    私が自分の肩幅・塊が通れると思える程度に窓を開けた途端、雨が部屋の中に吹き込んできて、一瞬で床を濡らした。
    「早く入って!」
    私の言葉に応じたように、塊はするりと室内に入って来た。

    勢いで招いてしまったけれど、さて、ここからどうしよう?
    目に見えないのに存在を感じる塊を横目に、私はバスルームからタオルを2枚持ってきた。
    1枚は濡れた床を拭くため。
    もう1枚は、先ほど塊が発した‟さむい”という言葉から、ひょっとしたら塊も濡れたり風邪を引いたりするのかも知れないと思ったからだった。
    「きみは?濡れてない?」
    ―ぼく、ぬれてない?ぼく、さむい?さみしい?
    タオルを差し出した私に、塊は先ほどと同じように、自問か他問か分からない口調で答えた。
    「えっと、それはどういうことかな?きみは何をして欲しいの?」
    この問いかけに、塊がきゅっと縮んだ、気がした。
    ―ぼく、ぼくのこと、わからない?
    声がまた憂いを帯びている。
    これは、自分でも自分のことがよく分かっていない、ということなのかも知れない。
    「きみ、名前は?って、名前とかあるのかな?どこから来たの?」
    ―ぼく、なまえ、ない?どこからきた、わからない?
    「えっと、それじゃあ、きみの仲間っていうの?きみは誰かと一緒じゃなかったの?」
    ―ぼく、なかま、いた?いっしょに、いた?
    「仲間がいたのね!仲間はどこへ行ったの?」
    ―ぼく、なにも、できない?なかま、できること、ある?だから、できるところ、いった?
    「仲間はできるところに行った?どういうこと?きみたちは、何をしているの?」
    ―なかま、ここで、やくにたつ?
    「役に立つ?ここって、この場所?」
    ―なかま、ちきゅう、やくにたつ?ひと、いき、すえる?からだ、げんき?
    「それは、酸素や免疫力ってこと?」
    ―なかま、はなやつち、そだてる?
    これは、水蒸気が雨になって植物を潤し、微生物が土壌を豊かにしているということだろうか。
    ―なかま、せいかつ、べんりに、できる?
    今までの塊の言葉からすると、電気やガスなどの生活インフラのことを示しているように思われる。
    ―なかま、ちきゅう、まもる?
    地球を覆う磁力は、方角を示したり、バリアを形成して放射線から地球を守っている。
    「つまり、きみやきみの仲間は、目に見えないけれど私たちの側にあって、役に立ってくれている地球上の存在ってことなのかな?」
    私が導き出した答えに、塊がぎゅぎゅっと圧縮されたかのようにまた縮んだ、ようだった。
    ―なかま、やくに、たつ?ぼく、なにも、できない?ぼく、やくに、たてな……
    塊のか細い声が、雨音にかき消される。
    何もできないとは、どういうことだろう?
    もし仲間が地球上の目に見えない存在なのだとしたら、この塊は何に属しているのだろう?
    「ねえ、きみ、どうして窓の外にいたの?雨の中にいたってことは、きみは水に関する存在なのかな?」
    ―ぼく、さむい?さみしい?
    これは塊が最初にも言っていたことだ。
    塊は体感的に寒いと感じているのだろうか?
    寂しいとは?
    「ねえ、寒いとか寂しいって、どういうこと?」
    パタリと雨音が止み、塊がほんの少し膨張した、ように見えた。
    ―ひと、こころ、さむい?ひと、こころ、さみしい?ぼく、さむい?ぼく、さみしい?
    ああ、そうなのか。
    私の心が寒そうだったから。
    私の心が淋しそうだったから。
    塊はそれを感じ取って、ここへ来てくれたんだ。
    きみは何もできなくなんかない。
    「きみの言葉、分かりづらいね。でも、きみが来てくれて、私は寒くも、淋しくもなくなったよ」
    塊がさっきよりふんわりと膨らんだ、と感じた。
    「きみ、名前がないって言ってたよね?それなら、きみの名前、‟透明なきみ”って、どう?そのまんまで、センスゼロだけど」
    塊が笑っているように、ふるふると体を揺らした。

    ※静かにやさぐれているとき、自分の機嫌を自分で取るために書いてみました。
    静かにやさぐれていたときの記事はこちら↓

    週明けからまた頑張る!


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    タイトル写真は、パリのハンガリー研究所前の銅像

    最後までお読みいただきありがとうございました。

     
     
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