
夫婦のこと
夫婦というものは、もっと分かり合えるものだと思っていた。
同じ家に帰り、同じ食卓につき、言葉を交わさなくても、どこかで安心できる存在になるのだと。
けれど現実は、思っていたよりずっと「個」だった。
同じ部屋にいるのに、遠いと感じる瞬間がある。
会話は途切れなく続いているのに、肝心の気持ちだけが、すり抜けていく。
何も大きな事件が起きているわけではない。
それなのに、日々は静かに消耗していく。
小さな違和感は声を持たないまま、気づかぬうちに積もっていく。
夜、一人になると空気が変わる。
音が減るだけで、世界はこんなにも軽くなるのかと思う。
張りつめていたものが、ゆっくりと自分の中に戻ってくるような感覚がある。
その静けさに触れたとき、安心と同時に、わずかな戸惑いが残る。
なぜ私は、安心できるはずの場所で、こんなにも息を潜めていたのだろう。
よその夫婦が羨ましく見えることがある。
喧嘩をするたびに思う。
私が欲しかったものは、正しさではなかった。
勝ち負けでもなかった。
ただ一言でよかったのだ。
「そうか、そんなにつらかったんだね」と。
それだけで、ほどける何かがあったはずなのに。
夫婦という関係は、分かり合うことそのものよりも、分かり合えなさとどう共に生きるかに重心があるのかもしれない。
夫とは、出会ってからもう十年になる。
最初の頃は、たしかに通じ合っていたように思う。
けれど、子どもが生まれたころから、少しずつ何かがずれていった。
決して、子どものせいにしたいわけではない。
むしろその存在は、愛おしさのかたまりのようで、何度でも言葉にしたくなるほど、ただただ、かわいい。
それでも気づけば、私は「妻」である以前に「母」としてそこにいて、
その二つの輪郭が、微妙に重なりきらないまま日々が過ぎていく。
妻である自分と、母である自分が違う気がしてなんだかうまくいかない。
ある人に相談したとき、私たちは占いでいう「相互天中殺」という関係だと聞いた。
強く惹かれ合いながら、同時に、簡単には理解し合えない組み合わせなのだという。
愛情があるのに、なぜか苦しさが混ざる関係。
そんなものを、わざわざ選び取るようにして結婚し、家族になり、人生は進んでいく、そこには「学び」があるのだと言われた。
逃げてもまた同じ課題に出会うかもしれない、とも。
その言葉に、救われたような気もしたし、縛られたような気もした。
正直に言えば、何度も離婚は考えた。
何度も話し合い、子どもが大きくなるまでは、この形を続けていくことになった。
逃げられないのか、と悟った。
では私は、この関係の中で何を学ぶのだろう。
それは、相手を変える方法ではなく、自分を保つ術なのかもしれない。
あるいは、完璧な理解を諦めることで、ようやく見えてくる「他者」としての夫の姿なのかもしれない。
いつか子どもが巣立ち、再び二人きりの静寂が訪れるとき、私たちはどんな顔で向き合っているのだろう。
夫婦の課題とやらを乗り越えた先の私たちは、幸せなんだろうか。
その答えはまだ、分からない。
「いつか温かい家庭を築くのだ」と信じていたあの頃の自分は、いまもどこかにいる。
その願いが思うような形で叶わないことだけが、静かに胸の奥を曇らせていく。
人生には、近道も、保証された正解もないのだと、知ってしまった。
それでも日々は続いていく。
言葉にならない違和感を抱えたまま、ただ静かに、続いていく。