メインコンテンツへスキップ
見出し画像

歌姫 #6

     璃子りこは父を知らない。
    もちろん、大原将生おおはら まさきという父親が存在していたことは知っているし、写真に残るその顔を見れば、それが自分の父だという判別もできる。
    ただ、記憶も曖昧な幼い頃に父は病で亡くなった。
    癌だったと聞いている。

    父を失って以後、母が女の細腕でひとり必死に璃子を育ててきた。
    生きる為、璃子を育てる為に出来ることは何でも必死にやっていたことを、幼いながらも璃子は理解していた。だから璃子も自分なりに出来ることは必死にやってきたつもりだ。
    勉強も人一倍、いや二倍、三倍やってきたから成績もほぼ学年トップの位置にいたし、苦手を無くす為に運動だって手は抜かなかった。

    そして目標の一つ、歌手になるという想いも捨てずにやってきた。
    今、その夢は達成されて想像よりも大きな現実となっている。
    図らずも歌姫とまで称されるほどの成果を上げ、これまで正に身を切り刻み続けてきた母を、やっと幸せにしてあげられる力を持つことができた。

    大学を卒業したら、本格的に歌手として専念しようと考えている。本来であればすぐにでも歌に専念するべきだろう。時間に余裕のある練習生ではない。
    プロの世界、中でもトップアーティストとなれば、その世界は生易しいものではないのは容易に想像できる。
    楽曲の制作、レコーディング、トレーニング、振付け、取材や撮影、打ち合わせも細かなものを含めれば数えきれず、分単位のスケジュールが押し寄せる。
    それでも何とか出来ているのはマネージャーの宮越みやこしの手腕が大きく、彼女無くしてカシムは存在し得なかっただろうと璃子も十分に理解してた。

    アーティスト、学生という過密なスケジュールは負担が大きかったが、それでもすぐに大学を中退し歌手業に専念しなかったのには理由がある。
    もしかしたら、その後は失ってしまうかも知れない普通の生活を満喫したかったし、もし凋落ちょうらくし全てを失ったとしても生きていくことのできる力と強さも身に付けておきたかったのだ。

    人の生は栄枯盛衰えいこせいすい、最高の時がいつまでも続く道理は無い。今の栄華も数年後には人の記憶から忘れ去られることだって大いにありえる。だからこそ今のうちに、出来ることはしておく必要があると考えていた。

    その話はもちろん母にもした。
    母はすべての話を黙って聞いて、最後にあなたの好きなようにしなさいと言った。
    ただし、貴女のすることは貴女自身の為だけに行いなさいと、そうも言った。
    この人は本当に強い女性なのだと、この時痛感したのだった。

    その日は大学の講義のあと、ボイストレーニングの予定だった。
    声の基盤となるものなのだが、これまでは我流でやってきたこともあって璃子としては専門のトレーナーが付いてくれるこの時間が楽しみでもあった。だからと言って講義をいい加減に過ごすつもりも無い。

    大学では心理学を専攻している。
    当然ながらその道を選んだ理由として少女の存在が与えた影響は大きかった。
    少女は一般的に幽霊と呼ばれる存在か否か。
    心理学において霊のようなものを考える場合、超心理学の分野ということになる。
    しかし、実際に問題だったのはこれを学べる大学自体多くないということだった。

    希望する大学に入る為に必死に勉強して入学したことも考えれば、どんな講義も決しておざなりに出来ようもない。
    特にその日の講義はとても興味深いものだった。
    もし少女が霊だと仮定するならば、それは『霊姿現象れいしげんしょう』ということになる。
    『霊姿現象』は世界各地で目撃事例があり、国籍、人種、宗教、教育、性別、年齢に関わらない。また個人に限らず集団で目撃されることもある。

    教授がスクリーンにスライドを表示する。

    「霊視現象については様々な説が存在していて、例を挙げるならば暗示錯覚説あんじさっかくせつ、暗示幻覚説あんじげんかくせつ、磁場説じばせつ、電圧効果説でんあつこうかせつ、ESP幻覚説イーエスピーげんかくせつ、因果関係説いんがかんけいせつ、などがあります」

    教壇に立つ教授の張りの無い声が続ける。

    「まずは暗示錯覚説。恐怖感による自己暗示から、壁の染みを見違えるなど、何かを見間違えるというケース。パレイドリア現象、またはシミュラクラ現象ともいわれます。これは有名な話ですが、人間はそもそも顔に似た配置のものを顔と認識しやすい。これはコミュニケーションを取ることで外敵や危険を察知するために、視界の中にある顔に似た配置を『顔だ』と認識するように進化してきたからです。これは脳の高度な情報処理ですが、疲労や恐怖などで誤認識へと繋がることもある」

    瞬間的なものではない少女の存在には適合するとは思えない。
    ノートにバツを付ける。

    「次に暗示幻覚説です。睡眠不足などで意識レベルが低下し、自己暗示による自己催眠状態で幻視を見るというものですがーー」

     暗示錯覚の上位互換といったところだろうか、睡眠不足などの意識レベル低下が無くとも璃子には見えている。そんな状態が璃子の普通だとはとても思えない。

    「磁場説では――」

    スライドが切り替わり、波紋のような磁界の図が映し出される。
    磁力の乱れが脳に影響を及ぼし、神経回路を流れる微弱な電波に影響して幻覚を引き起こしたというケース。

    「これは一般的には磁場を発生させる磁鉄鉱が含まれる岩などが周囲に存在し、それが影響するともいわれ、ある条件がそろった場所とされることが多い。磁場による影響と言われることがあるのはこれが理由です」

    そうなると、時と場所を選ばず現れる少女には当てはまらない。
    ノートにバツを付ける。
    電圧効果説はどうか。これも磁場説に近いものがある。

    「これは前述の磁場説に近いですが、電気による磁場の発生が原因とされ、現代社会においてはテレビ、電車、電子レンジ、踏切、スマホなど影響がありそうなものは多い。そういう意味で影響を及ぼす範囲は非常に広いと言えます」

    一人の生徒が手を挙げた。

    「その条件下において『霊姿現象』が観測されるのであれば、もっと多く同様の目撃事例があっていいんじゃないですか? でも僕は見たことないです」

    確かに現代にはありふれた条件である。本当にそれが理由なら、実際にはもっと多くの霊の目撃談があるべきだ。教授もそれに同意した。

    「次はESP幻覚説です。これは複数名の集団に於いて、ある一名に発生した幻覚などが本人の持つESP(超感覚的知覚)、つまり精神感応・予知・透視などの総称で、いわゆるテレパシーのようなもので他のメンバーに共有されるというものです」

    これはESP能力が前提となり、それ自体の証明さえ難しく非常に無理のある説でもある。

    「超能力って、オカルトじゃん」
    「いや、それ言っちゃったら幽霊だって」

     生徒たちの囁きと小さな笑いが起こる。「はい、静かに」と教授は手を叩いた。
    璃子は一人の時にも見ているから、外部から影響を受けている訳ではないと思う。
    仮に璃子自身にそんな力があったのだとして、そもそもこの説の根は幻覚であるのだからESPの介在する余地は無い。

    最後の因果関係説はどうなのか。

    例えば心霊スポットのような場所で、亡くなった人の思念が強い電磁波としてその場に残留し、その電磁波の影響で何かを見るというケースだ。
    これも磁場説に近いものがあるが、場所という縛りが存在していることで少女の存在には符合ふごうしない。

    「様々な説はありますが、未だ明確な原因が分からない以上肯定も否定もできないというのが現状です。もちろん角度を変えれば今日お話しした説以外にもまだまだ仮説はあります。我々はこれらの現実的な可能性が、人の精神状態にどのような影響を及ぼすのかをデータとして集め、検証を続ける必要が――」

    教授の声が遠くなっていく。
    少女の存在を示す説は今回の講義の中には無かったように思う。
    そんなに簡単に霊の存在を証明できるなら誰も苦労しないのだから仕方のないことだ。
    急いで少女の存在を解明したいという訳ではないし、期待があった訳でもない。
    気長にいこうと璃子はノートを閉じた。
     
    講堂から出て噴水の脇を抜け、正門へと向かった。
    お昼なので周囲のベンチには弁当を開いて食べているグループも何組か見えた。天気も良いし室内よりよほど気持ちいいだろう。
    紅葉は遅いが銀杏いちょうは色づいて周辺に黄色いカーペットを作り出していた。
    もう少し寒くなれば紅葉も赤みを増してくるだろう。
    紅葉のあの赤い色はアントシアニンの色なのだそうだ。ブルーベリーとかの色素だ。もっと色付いたなら母も連れて紅葉狩りに行くのも良いかも知れない。忙しくとも一日くらい何とかなるだろう。

    そういえばあの川辺も紅葉の時期ならさぞ綺麗だったろうと思い出に意識を馳せた。

    刹那、風が強く吹いた。
    銀杏の葉が大舞台の紙吹雪のように黄落こうらくしていく。

    美しくも、どこか物悲しい寂しさのある眺めだった。


    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門


     
     
    イリーの小説投稿用です。 頭の中のものをもっと吐き出していきたい。 妄想と現実のジレンマに挟まれたまんまの人。 コーヒーに関する記事も書いているのでよかったら覗いてみてください! https://note.com/noted_zinnia8000

    あなたへのおすすめ