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    <title>イリー＠小説</title>
    <description>イリーの小説投稿用です。
頭の中のものをもっと吐き出していきたい。
妄想と現実のジレンマに挟まれたまんまの人。

コーヒーに関する記事も書いているのでよかったら覗いてみてください！

https://note.com/noted_zinnia8000</description>
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    <copyright>イリー＠小説</copyright>
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    <lastBuildDate>Wed, 07 Oct 2026 09:18:18 +0900</lastBuildDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン #27</title>
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      <description><![CDATA[<p name="98d49beb-3869-4381-a4e8-97111c2d9226" id="98d49beb-3869-4381-a4e8-97111c2d9226">　わたしは兄の部屋を出た。<br>　正美がリビングのソファーで眠っていた。<br>　夏とはいえ山間の田舎、雨が降れば日も陰り寒くなるので、タオルケットを持ってきて正美にかけてやった。<br>　窓の外を見た。雨はじきに止みそうなくらい弱まっている。<br><br>　気分は最悪だった。<br>　わたしは結局、兄の日記を開いたのだ。<br>　日記に綴られていたのは苦悩だった。<br>　兄はこの世界のあり方に疑問を持っていた。<br>　その想いと否定のための実験、そして失敗と挫折。<br>　兄は窓辺からただ外を眺めていたのではない。<br>　世界を眺め、否定しようとしていたのだ。<br>　その壮大すぎる悩みと苦悩は、到底わたしのような凡人には計り知ることの出来ないものであった。なぜこれ程までに兄は苦しまなければならなかったのか。<br>　そして、日記の行き着いた先、それこそが今わたしにとって最悪のものだった。<br>　日記は沙耶ちゃんが亡くなる前日で途切れ、最後の一日で終わる。<br>　最後の一日は、兄が姿を消した日の前日の日付だった。<br><br>　気分転換にわたしは外に出た。<br>　空を見上げると黒い雲が、異様な速さで形を変えながら流れていくのが見えた。<br>　遠くに村の中心を走っていく複数の大型車の姿があった。<br><br>「なんだあれは？　随分と仰々しいな」<br><br>　トラックのみならず何か重機のようなものを積んだ車や、田舎の村の景観には不釣合いなコンテナなども見えた。</p><p name="ae1fb159-b3a5-49e7-a088-fdb01a97f0e2" id="ae1fb159-b3a5-49e7-a088-fdb01a97f0e2">「桐崎のトラックだねぇ」<br><br>　母がいつの間にか隣に立ってそう呟いた。<br><br>「桐崎？　あぁ、なにか研究しているっていう。遠野で聞いたよ」<br><br>　母はトラックから視線も逸らさずに困り顔になった。<br><br>「おっきな企業だし心配はないんだろうけどねぇ、何だかわからないとねぇ」<br>「不安にはなる、か」<br><br>　桐崎エナジーコーポレーションといえば、エネルギー開発分野においてここ数年で大きく躍進した企業である。専門分野の人間でなくとも名前くらいは聞いたことがあるほど有名な会社だ。<br>　しかも、社長の桐崎洋二はまだ四十前という若さである。<br>　二代目だが起業した先代の脛かじりということはなく、むしろ現在の桐崎ＥＣＰを創り上げたのはこの桐崎洋二の功績が大きい。<br>　太陽光発電を初め、メタンハイドレートやバイオエタノールなどあらゆる新エネルギーに着目して動き続け、現在のエネルギー業界に措いて肩を並べられる企業はそう多くは無い。<br>　新たなエネルギーに対して貪欲なまでの行動力、未来の道を模索する企業の理念は好感が持てる。<br>　その一方で、強引な土地の売買や企業買収なども見え隠れし、世間の評判は善し悪し真っ二つに割れている。<br>　その桐崎ＥＣＰがこんな片田舎で何をしているのか。<br><br>「ちょっと様子を見に行ってくる。また車借りるけどいいかな」<br>「それはいいけどね。気をつけてよ。雨上がりで道もぬかってるから」<br><br>　あぁと返事をして車に乗りこみ、トラックを追うように車を走らせた。<br>　しばらく行くと山道に入った。舗装路ではないからかなり揺れる。砂利を踏み鳴らしながら、薄暗い山林を掻き分けるように進んだ。<br>　木々の隙間は黒く塗りつぶされて怪しげな雰囲気である。小石を踏み鳴らす音が響く車内は、妙に心を落ち着かせた。<br>　坂道を上がり始めると林を抜けた。<br>　小高い斜面からは周囲の林と、それらの先には赤海山が見える。<br>　そこまで行くと道が二股に分かれ、一方には金属の門とフェンスが架けられているのが見えた。<br>　フェンスの上部には有刺鉄線が張られている。<br><br>　門の近くに車を止めて降りた。<br>　雨は霧雨になっていて、傘はいらない程度だ。<br>　わたしは門の傍まで歩いていった。<br>　門には立ち入り禁止の標が下がっている。フェンスにも看板が掲示され、桐崎ＥＣＰのロゴと、私有地の為立ち入りを禁ずるという記載がされている。<br>　人も少ない田舎の山中ではあるが、そこは確りと警備態勢も整えているのだろう、監視カメラも見える。<br>　しかし、それ以外に情報は無く、当然ながら何を行っているかなど分かりようもなかった。<br>　周囲を眺めてみるが特別な建物は見えない。<br>　暗いということもあるが灯り一つ無く人影もない。広がるのは山林ばかりだ。<br>　時間はまだ五時にもなってないが、先刻まで雨を落し続けた曇天は未だに空を覆っていて辺りは暗い。じきにもっと暗くなる。雨に濡れた土くれの道を戻るのも危険が増す。<br><br>　これ以上ここにいても仕方がないと車に戻ろうとした時だった。<br>　視界に何か違和感が映りこんだ。<br><br>　なんだ？　今のは。<br>　わたしは今、何を見た？<br>　見えてはいけない、否、見えるはずの無いもの。<br>　勘違いか？　きっとそうだ、そうに違いない。<br><br>　わたしは見間違いを証明する為にもう一度、視線を戻した。<br>　目の前にはフェンス、その向こうに暗い木々が立ち並ぶだけだ。<br>　意識しすぎて見間違いをしただけのことだ、と言い聞かせようとしていた。<br>　だが、見間違いなどではなかった。<br><br>　木々の隙間をすっと通り抜ける白い影。<br>　見間違いなどでは決して無い。<br>　女が森を歩いていた。<br>　見覚えのある姿だった。<br> <br>　あれは、沙耶ちゃんだ！<br> <br>　死んだはずの沙耶がそこにいた。<br>　彼女は木々を縫うように、流れるように赤海山の方へと進んでいる。<br>　周囲を見回したが下に降りられそうな道は無い。<br>　迷わずフェンスを登った。<br>　有刺鉄線など気にしてはいられない。<br>　必死によじ登る。<br><br>　彼女が行ってしまう！<br>　何とか、何とかしなくては。<br>　待って、行かないでくれ！<br><br>「沙耶ねぇちゃん！」<br><br>　わたしに出来ることは叫ぶことだけだった。<br>　声は<br>　<br>　届いた。<br>　<br>　彼女が振り返る。<br>　沙耶は、わたしを見た。<br>　<br>　直後、バランスを崩したわたしはフェンスから落ち、急勾配の坂を転がり落ちた。<br><br>　激しく回る世界に入り混じる兄と沙耶ちゃんの顔。<br><br>　兄が何かを言っている。<br>　葬儀の日、沙耶の隣で兄が呟いていた。<br><br>　不意に何か、まるで天啓のように記憶が蘇る。<br>　兄が横たわる彼女に何か言っていた。<br>　パズルのピースが嵌まるように<br>　言葉が口の動きに重なっていく。<br><br>――わたしがころした。<br><br>　そして兄は<br>　<br>　笑ったのだ。</p><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/n1a14255ff297'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Tue, 06 Oct 2026 23:34:00 +0900</pubDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#26</title>
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      <description><![CDATA[<p name="926c7a5a-6339-4da2-9f44-d0ef73a1c110" id="926c7a5a-6339-4da2-9f44-d0ef73a1c110">　夕日がその切れ目からオレンジの刃を差し込み始め、段々と薄曇が夕焼けへとその姿を変えていきます。<br>　紅と影の黒が鮮烈なコントラストを描き出す美しい世界にありながら、あたしは恐怖に全身を包まれていました。手に持つ傘の取っ手を強く握り締めて堪えます。<br><br>「確かに、俄かに信じられることではない」<br><br>　普通は。<br>　そう言って彼はまた一歩あたしの方へと歩み出ます。<br><br>「来ないで！」<br><br>　それでも彼は止まりません。<br>　逃げよう。<br>　そう思った直後でした。<br>　男は言ったのです。<br><br>「自分のその力の正体を、あなたは知りたくはありませんか？」<br>「正体……？」<br><br>　あたしは身動きが取れなくなりました。<br>　それでも必死に踏み止まり、彼に目を向けます。<br><br>「あなたの言っていることの意味はまったく分かりませんが、あなたは今、その力は強い直感や感性だと言っていたじゃないですか。なら正体は知れているのじゃないですか」<br>「それは、力そのもののことです。でも、あなたは自分が一体何を見ているのか気がついていない。僕が言う正体とはそういう意味での正体ですよ。それとも、あなたは自分の見ているものが一体なんなのか分かっているのですか？」<br><br>　あたしは何も答えられませんでした。<br>　それが何なのか分からないのは、誰よりもそれが見えてしまっているあたし自身なのです。<br><br>「あなたにはそれが何か、分かっているというのですか？」<br>「そうですね。限りなく正解に近いものを、ですが」<br><br>　影に埋もれて表情はまったく分かりませんでしたが、彼は小さく微笑ったのではないかと思います。<br><br>「じゃあそれは、分からないと言っているのと同じことですよね」<br>「貴女は面白いですね。昔、同じように僕にそう言った女性がいました。だからこそ僕は答えを求め続けてきたのですがね。しかし、その頃とは違います。今の僕はもう答えに手が掛かっている」<br><br>　男は歩き出します。今度はあたしを避けるように緩やかな弧を描きながら。<br><br>「それが証明できるのはもうじきです」<br>「今教えてはくれないんですね」<br><br>　あたしは怖さを堪えて訊き返します。<br>　弧を描く彼の動きに身体をずらしながら一定の距離を保ちます。<br>　しかし、彼がもうあたしに近づこうとしていないのは分かりました。<br><br>「今はその時ではありません」<br><br>　彼が立ち止まりました。<br><br>「つかぬ事をお伺いしますが、この村にはお盆の間いらっしゃるのですか？」<br>「それに答える必要はないとは思いますが、今のままではあたし、とても失礼なままの気がしますので、はい、とだけお答えします」<br><br>　貴女は本当に面白い、と男はあたしの方を向きました。<br><br>「随分と影が濃いようですね、これでは僕の顔も見えなかったでしょうに」<br><br>　そう言うと男はフードを外しました。<br>　その時には立ち位置は入れ替わっていたので、西日が彼の顔を照らしました。<br>　年齢は多分初老に差し掛かる位でしょうか？<br>　もっと若いようには見えるのですが、これまでの会話の印象からその位だと思ったのです。<br>　彼は妖しげな印象から受けた想像よりもずっと柔和な、穏やかな印象の顔立ちです。<br>　ただ、異質だったのは髪の毛でした。<br>　真っ赤なのです。<br>　つまり、夕日に染まった彼の髪の毛は白髪だったです。<br>　初老と判断した上でも白過ぎる髪はあまりに異質でした。マンガやアニメ、フィクションの世界ではよく見かけますが、実際に目の当たりにすれば、やはりそれは奇異に映るのです。</p><p name="e371efe8-903e-429f-96f7-05de50a21dfd" id="e371efe8-903e-429f-96f7-05de50a21dfd">　不思議だったのは、彼の顔を見た瞬間、何故か落ち着いたことでした。<br>　もちろん、何だか分からないものがその形を見せれば安心はします。それもあったとは思いますが、それだけではない何かがありました。それが何かは分かりませんが、もしかしたら寂しそうに見えるその瞳が、そう思わせたのかも知れませんでした。<br><br>「貴女は聡明な方だ。僕が何をしなくても、いつかきっとその力の持つ意味に辿り着けることでしょう。寧ろ辿り着かねばならない」<br>「あなたは一体誰ですか？」<br><br>　そう問わずにはいられませんでした。<br>　しかし彼はそれには答えません。<br><br>「不思議なものです。貴女とは妙な縁を感じる。またいつかお会いしましょう」<br><br>　それだけを言うと、男は一礼をして背を向け立ち去りました。<br>　あたしは誰もいない夕暮れの校庭に立ち尽くしていました。<br>　周囲には何もありません。<br>　先程見えたアレも今はどこにも見えません。<br>　太陽が山の稜線に消えかけ、次第に夜が満ちてきます。<br>　<br>　もう、音は聴こえなくなっていました。</p><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/naf74fc5709c3'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 02 Oct 2026 22:54:06 +0900</pubDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン #25</title>
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      <description><![CDATA[<p name="fc36c121-127c-4d36-a140-82ebcbb1a9b7" id="fc36c121-127c-4d36-a140-82ebcbb1a9b7">　酷く悲しいしい音が聞こえてきた先。<br>　そこは学校のようでした。<br><br>　日が大分落ちてきていて薄暗くなりかけています。<br>　誰の気配も無い、日暮れのしんとした学校の様子は、どこでも同じように不可思議な怪しさを漂わせているものです。<br><br>　雨は止んでいました。<br><br>　校門を抜けると緑の葉を立派に湛えた大きな銀杏の木が広場の中心にそびえています。<br>　その奥には木造の二階建ての校舎が建ち、一階部分に渡り通路があります。どうやらその先に校庭があるようでした。<br><br>　音は校庭の方から聞こえてきます。<br><br>　あたしは校庭の方へと進みました。<br>　校舎は大きくありませんが、校庭は不釣合いな程に広く、校庭の先には茂みがあり、その奥は川原のようです。<br>校庭の真ん中に櫓が見えました。線が延び提灯が括りつけられています。<br>音はその櫓の辺りから聞こえているようです。</p><p name="51e9e8e4-9ea3-4937-aa94-345854bcd666" id="51e9e8e4-9ea3-4937-aa94-345854bcd666">　人影がありました。<br>　櫓のすぐ手前。<br>　櫓を眺めているのか顔は見えません。<br>　黒いレインコートのフードをかぶった背中だけが見えています。<br>　誰も居ないものと思っていたあたしは驚いてその場で立ち止まりました。地元の人にしては、ただ立ち尽くすその後ろ姿があまりにも異質なものに感じたのです。<br><br>「どなたですか？」<br><br>　その声にあたしは一歩、後ずさりました。<br>　人影は振り向くでもなく、あたしの存在に気がつき声をかけてきたのです。<br>　聞き覚え無い男の声は、警戒心を抱くのに十分すぎました。<br>　距離は五十メートル以上離れているのは間違いありません。<br>　しかし、その声は叫ぶでなく、寧ろ静かに落ち着いた声音で響いたのです。<br>　男が静かに振り向きました。<br>　しかしフードに翳っていてその顔は見えません。<br><br>「見ない顔ですね」<br><br>　そう言った男の言葉に訛りはありません。<br>　その時、またあの音が聞こえました。<br>　あたしは周囲に目を走らせます。<br>　もう一度鳴りました。<br>　音は、男の方から聞こえているようでした。<br><br>「ほぅ」</p><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/nba1fb494191d'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 20 Sep 2026 22:49:06 +0900</pubDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン #24</title>
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      <description><![CDATA[<p name="41a00c01-db77-47b5-b961-3cdc07b2c8ec" id="41a00c01-db77-47b5-b961-3cdc07b2c8ec">　沙耶ちゃんが家族になりたい、と口にした言葉の意味は歳を経て理解できるようになった。<br>　だが、それに気付いたときに抱いた感情は、喜びでもなんでもなかった。<br>　彼女も好きだったし、兄も好きだった。<br>　好きなもの同士が好き合うのならこんなに素晴らしいことは無い筈なのだ。<br>　でもその時のわたしは正体の分からぬ、うぞうぞとしたものを腹に抱えたまま、吐き気を覚えるほどの酷い感情に蹂躙された。<br>　<br>　恐らくこれがわたしにとって初めての失恋であり、嫉妬だったろうと思う。中学二年の時のことだ。<br>　反抗期とも重なったのだろう、その頃のわたしは兄とも沙耶ちゃんともあまり話さなくなった。<br>　もちろん他の家族ともだが、二人に対しては特に露骨だった。<br>　そういう年頃だからと皆が言うのが聞こえていたから、なら文句もないだろうと余計に意固地になっていた部分もある。<br><br>　その年の夏祭りのことだ。<br>　わたしは年回りのお囃子役を終えてすぐに家に帰ろうとした。<br>　役回りだからやるにはやったが、祭りを楽しむ気分ではなかったのだ。<br>　会場になっている学校では多くの村人が集まり、出店なども出ている。出店は外からこの時の為にやってくるから子供達にとっても珍しく、村にとっても大きなイベントである。<br>　毎年それとなく楽しみにしていたのは自分もなのだが、その時ばかりは一刻も早く家に帰りたかった。<br>　人と関わることが面倒だったのだ。<br>　だが、それを目ざとく見つけた人がいた。沙耶ちゃんである。<br><br>「もう帰っちゃうの？　折角なんだからもっと遊んでいきましょうよ」<br><br>　浴衣姿の彼女は言葉に出来ないくらい綺麗だった。<br>　その時は、その綺麗さに余計腹が立った。<br>　今にして思えば照れていただけなのだが、それが怒りに結び付く不安定さがこの年頃の難しい所なのだろう、と我がことながらに思い出す。<br><br>「ほら、型抜きしない？　好きだったよね？　どっちが早いか勝負しよう」<br><br>　そう言って彼女がわたしの手を掴んだ。<br><br>「いかないっ」<br><br>　わたしは彼女の手を振り払った。<br>　今でもその驚いた顔を覚えている。<br>　その顔を見ないように背を向けて「好きなんかじゃない」それだけ言ってわたしは駆け出した。<br>　その時わたしに見えない彼女の顔がどんなだったか知らない。<br>　しかし、わたしの脳裏に浮かんだのは振り払われた手に触れ、悲しそうにする彼女の姿だった。<br>　もしかしたら、とんでもないことをしたのかも知れない、そう思う恐れと怒りの震えが広がった。<br>　それを掻き消そうと必死で駆けた。<br>　どこをどう走ったのか覚えてはいない。<br><br>　気がつくと真っ暗な森の中にいた。<br><br>　どこにいるのか分からず、周囲を見たが黒く染まった森の中では何も目印になるものが見つけられない。<br>　光源の無い森は想像を遥かに超える暗闇である。<br>　都会に住み慣れた者達にはにわかには信じがたいほどの暗闇であろう。<br>　ほんの数メートル先さえまったく見えない闇は都会にはまず存在しない。<br>　動物か何かが動く音。<br>　鳴き声。<br>　風が木々を揺らす音。<br>　それらの音は何も見えないことでありもしない気配を生み出す。<br>　そのうち、自分が誰かに見られているような錯覚さえも感じるようになる。<br>　寒気が肌を粟立たせる。<br>　怖い。<br>　夜目に慣れてはくるが、薄らと見える木陰や草陰にありもしない気配を感じると余計にダメだった。<br>　暑さではない恐怖の汗に濡れながら、周囲に感じる気配から逃げ出した。<br>　わたしはあまりの恐怖に叫びそうになった。<br>　その時、視界に光が映った。<br>　小さかったが明るいオレンジの光だ。<br>　その灯りの見える方へとわたしは必死で向かった。<br><br>　そこは墓所だった。<br>　山を切り開き作られた墓地は、斜面に沿って規律正しく墓石を並べている。<br>　ここは神社の裏手奥にある村の墓所だ。<br>　本来、墓地管理はかつての戸籍管理の名残もあって、寺が行うのが一般的だ。ここの場合は墓地在りきでの神社なので少し他とは気色が違う。<br>　墓所自体も神社が管理しているのでもなく村営である。<br><br>　わたしは恐る恐る墓所に足を踏み入れた。<br>　村民の墓石以外にも、誰のものかも知れない時代がかった古い墓石や地蔵もあって、夜に入り込んで楽しい場所ではない。<br>　だが、この時ばかりは明かりの元の誰かに会いたい、という気持ちが先んじた。<br><br>　案の定、明かりの傍には人がいた。<br>　墓の前でしゃがみこみ、じっと対話でもするように墓石に向かっている。<br>　蝋燭の明かりが二つ、ゆらゆらと揺れる。<br>　その明かりに浮き上がって見えたのは、兄の横顔だった。<br>　そしてその時になって、ようやくその場所が自分の家の墓所だと気がついた。<br><br>「兄さん？」<br><br>　その声に気付き、兄は振り返った。<br><br>「なんだい、こんなところで。夏祭りに行っているのじゃなかったのか？」<br><br>　わたしはその問いに答えるにはあまりにバツが悪く、ただ俯いた。<br><br>「そんなところにいないでこっちにおいで。おまえも線香をあげるといい」<br><br>　兄はそう言って手招き、それに従って兄の横に立った。<br>　手渡された線香に火を点けて墓前に供え、手を合わせる。<br>　その時にはもう落ち着きを取り戻していた。<br><br>「兄さん、何してるの？　祭りには行かないの？」<br>「夏祭りとは何の為に行うものだと思う？」<br><br>　こんな兄の問いかけも久しぶりだった。<br>　それくらい話をしていない。<br><br>「ひと言で言うのは難しいが、凡そは鎮魂や半年無事に過ごせたことへの祝いであることが多い。<br>　昔この時期には特に疫病や飢饉など起き易かったからね。そういったこと無く、無事に過ごせたことへの感謝と先祖への鎮魂、そしてこれからの無事を祈って祭りを執り行う」<br><br>　線香の煙と香りが辺りに漂うと、不思議と辺りが清められているような気持ちになった。<br><br>「だから本来は先祖や神様への感謝と祈りでね、派手に行えば行うほどその効果も大きくなるのだが……」<br><br>　騒がしいのは苦手なんだ、と兄は小さく微笑んだ。<br><br>「でも、沙耶ちゃんは祭りにいたよ」<br>「そうだろうね、沙耶はそれでいい」<br><br>　兄は時折こうして意味深な言葉を選ぶ。こうなるともう何を言っているのか分からない。<br><br>「どういうこと？」　<br><br>　兄は黙って線香を足した。<br>　彼女について自分は分かっているという態度が、その時は気に入らなかった。<br><br>「ところでお前は何をしていたんだい。墓所の入口とは違う方から来たみたいだが？」<br>「別に、何もしていない」<br><br>　ささやかな抵抗を試みる。<br><br>「そうか、脚が傷だらけだぞ。山で遊ぶには些か日が落ちすぎているな」<br><br>　その時になって初めて自分の足が傷だらけだと気がついた。<br>　きっと夢中で走るうちに茂みや草で切ったのだろう。<br>　こういったのは気付くと急に痛み出す。<br><br>「べ、別に全然平気だったよ。暗いのなんて慣れてるし」<br><br>　気持ちを悟られぬように、精一杯の強がりで返す。<br><br>「怖かっただろう」<br><br>　兄は真っ直ぐにわたしを見てそう言った。<br>　その瞳に蝋燭の灯りが揺らめいて映る。<br><br>「だ、だから全然――」<br>「怖かっただろう？」<br><br>　じっと見つめてくる兄の目はどこか悲しそうだったが、それ以上に優しさを湛えていた。<br>　そんな瞳に見つめられ、わたしの強がりは何の抵抗も出来ずにあっさりと崩れ去る。<br>　わたしはただ頷いた。<br>　一度頷いてしまうと、急に涙が溢れ出した。<br><br>「お前は何も悪いことなどしていないというのに。何故こんなにも恐れ、震えなければならないのだろうなぁ」<br><br>　わたしの手に兄が触れ、初めて自分が震えていることに気付く。<br>　震えていることに自分自身驚いた。<br><br>「本来、世界は明るいか暗いかの二つしかない。それは見えるか見えないかの違いだ。そして、それは言い換えれば知るか知らぬかの違いでもある。<br>　お前が恐れたのは見えぬからだ。見えていれば恐れなど生まれはしなかっただろう。<br>　現に今、お前は恐れていない筈だ。それはこの場所が見えているから、そして知っているからだ。<br>だが、もしこの火が消えたら、お前はきっとまた恐怖に取り憑かれるだろう」<br><br>　兄はそう言ったが、わたしはそんなことはないと思った。<br>　それは、すぐ傍に兄がいるからだ。<br>　自分にとっての兄は、心の支えなのだとこれほど感じたことは無い。<br>　なぜあんなに話すのも、見るのも嫌だったのか分からなくなってくる。<br><br>「だが、知ることさえ出来たなら、我々は恐れる必要など無くなる。無意味に暗闇や死を恐れることも無くなるだろう。それでこそようやく……」<br>「兄さん？」<br><br>　つい呼びかけたのはほんの一瞬、兄が自分の知る兄では無いような気がしたからだ。<br><br>「そろそろ帰ろうか、最後に蝋燭を差し替えよう」<br><br>　蝋燭はかなり小さくなっていた。<br>　それを新しいものと取替えて立ち上がった兄はいつもと変わらぬ兄でしかなく、自らの疑念もただの気の迷いに思えた。<br>　十も歳が違う兄だ。<br>　自分とは全く違って当たり前だ。<br>　その大きすぎる兄との距離感を、今更ながらに感じたのかもしれない。<br>　この時は、ただその存在に絶対的な信頼感しか感じなくなっていた。<br><br>　そして、わたしの反抗期は終わりを告げた。</p><p name="8ea200d1-030b-476a-85a6-359656ec6cf6" id="8ea200d1-030b-476a-85a6-359656ec6cf6"><br></p><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/nbefdcaaf2c2b'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Tue, 15 Sep 2026 20:59:23 +0900</pubDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン #23</title>
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      <description><![CDATA[<p name="87dacd02-466b-47a7-9863-569a397274f2" id="87dacd02-466b-47a7-9863-569a397274f2">　あの石、麻奈さんに貰ったあの水晶はペンダントトップにして今も首からかけています。<br>　石の効果を期待するというのではなく、あの時の自分の弱さを、後悔を忘れないようにする為でした。その石に触れる度に自己を見つめ直し、逃げてはいけないものに向き合う勇気を得る為に。<br><br>　その時も、不安を紛らわす為に石を握り締めていました。<br>　彼の実家に行くことになった夜です。<br>　彼の話では、実家の村で亡くなったはずの人を見たという話が上がったのだそうです。<br>　あたしだって他の人には見えないものを見ます。だから、ありえない事ではないと思いました。<br>　ただ、あたしと違うのは、『死人』が見えた、ということです。<br><br>　結婚式の準備もタイトなスケジュールの中、そんなことに時間を割いてはいられないのですが、彼は無視できない様子でした。<br>　詳しく話を聞いてはいません。変に深入りして彼を失いたくはありませんでした。麻奈さんがいなくなってしまったように彼もあたしの前から消えてしまうかもしれない、と思うと彼の願いを受け入れるしかあたしには選択肢がありませんでした。<br>　彼の家には、お兄さんが失踪しているという複雑な事情があります。<br>　理由は分からないそうですが、だからといって神隠しのような失踪とも違っているようでした。<br>　生きているのか死んでいるのかも分かってはいないようでしたが、少なくとも彼は生存を信じていました。<br>　彼にとってのお兄さんは尊敬などというものを遥かに凌駕した存在のように思います。<br>　姿を消した理由を誰も知らないと言ってはいますが、彼の家族一同なにか思うものがあるのだろうと思います。口には出しませんが僅かに表情に出ているのを見逃してはいません。だからといってそれを聞きだすつもりも毛頭ありませんでした。<br><br>　彼が結婚式の席順を決めることに時間が掛かっている理由は、お兄さんにあるというのも分かっていました。<br>　彼はきっとお兄さんに出席して欲しいと思っているのでしょう。<br>　でも、連絡一つとれない兄の席を用意するか、失くしてしまうか、彼は答えを出せないでいるのです。<br>　一つ席を余分に準備すればいい、ということだけでは解決できない何かが彼の中にはあるのだと思います。だから　彼が実家に戻りたい、そう口に出したときはすぐに重要なことだと感じました。<br>　その表情には影がありました。彼の家族が一様に抱える影。<br>　だからあたしは不安を感じながらも反対はしませんでした。<br>　彼の求めるものが見つかるか、そうでなくとも気持ちに整理がつくことを信じたのです。<br></p><hr name="47e9d7dc-f5ea-49a6-b4c0-5aa73ec3feff" id="47e9d7dc-f5ea-49a6-b4c0-5aa73ec3feff"><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/nb29fff1c113e'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/276408409/profile_557bb15dd379412281f9c3ebd675b9df.png?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 11 Sep 2026 20:11:43 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/nice_badger6169/n/nb29fff1c113e</link>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#22</title>
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      <description><![CDATA[<p name="308a5382-f750-413b-8fad-98aab0019d17" id="308a5382-f750-413b-8fad-98aab0019d17">　夏休みに入ると夏期講習や模試やバイトに追われる生活が始まり、遊ぶどころではない三年の夏のスケジュールに愕然としました。<br>　裕福な家ならいざ知らず、両親の負担も減らそうと思えばバイトもしなければならず、贅沢など言ってはいられません。それこそ必死でした。<br>　大学に入りさえすれば後は大丈夫、楽しいキャンパスライフを送って、彼氏を作って、その間に貯めたお金で友達と優雅な卒業旅行で海外に、そして一流企業に入ってバリバリとキャリアを積むのだ！<br>　などと入学後の単位獲得に忙殺される現実など知る由もなく、その時のあたしは、とにかく目の前の大学合格に向けて机にかじりつく様になっていました。<br>　この年の夏は猛暑で、あっちにゆらゆら、こっちにゆらゆらと陽炎が毎日のように見られました。夏バテも重なると、いっそすべて幻ならと思ったほどでした。<br><br>　ある日のこと。<br>　その日は珍しく予定がなく、お昼までエアコンの効いたリビングでごろごろしていました。アイス片手にだらけながらテレビを観ていると豪華旅客船の事故のニュースが飛び込んできました。その旅客船はテレビでも話題になっていた船で、その存在はあたしですらも知っているほど有名なものです。<br><br>　船名『カルカッソンヌ・サー・ラメール』は地下部四階、地上部十階にもなる巨大豪華客船です。かのクイーンエリザベス号に次ぐ船だと誉れも高く日本には一時寄港でやってくる、と以前より大々的に報道されていました。<br><br>　その船が大事故を起こしたようなのです。<br>　アナウンサー達も次々と入ってくる錯綜した情報の処理で焦りが見えます。画面外から出される指示や原稿に翻弄され、次々と情報が届いては訂正がなされます。<br>　上空からのライブ映像が映し出されました。<br>　リポーターが受け、そこから船へとカメラがパンします。そこには信じられない光景がありました。船は海上にスクリューを曝け出し、豪華なプールを備えているはずの甲板は見えず、客室部を含め十層にもなる地上部が海中に沈んでいました。<br>　リポーターが興奮した様子でヘリのローター音に負けじと声を張ります。<br>　画面が戻るとアナウンサーと専門家が転覆の原因や経緯などを話し始めます。<br>　最新鋭の豪華客船が沈んだ。その事故がどれだけ大変な事なのかはチャンネルを一周しても、すべてがその事故ばかり扱っていることでも分かりました。<br>　大変に悲しい事故だということは分かります。それでもあたしは自分とは関係のないものとして漠然とその映像を受け流していました。　　　<br>　しかし、この事故はあたしにも関係のないもの、などではなかったのです。<br>　<br>　その日の夕方、再びテレビを点けました。あたしはその直後に飛び込んできた情報に目を疑ったのです。<br>　テロップに流れたある名前を見つけ硬直しました。<br>　画面には、現在までに判明した死傷者の名前が映し出ていたのです。<br>　そこには潜水士・鳴海丈二（二十五）の名が映し出されていました。<br>　<br> <br>　あたしはこれ以上ないくらい必死に自転車をこぎました。<br>　バスはこの時間、本数が減ってしまうので待ってなどいられません。<br>　日が落ちて暗くなるに連れて消え入りそうな光は、外灯やネオンに移り変わり流れていきます。蒸すような暑さの中で汗が滴り落ち、店に近づくほど動悸は激しくなっていきました。<br>　店に辿り着くと同時に、自転車を投げ捨てるようにして店の扉に張り付きました。<br><br>「麻奈さんっ！　麻奈さんっ！　麻奈さん！」<br><br>　店には電気が点いていません。真っ暗な店内に人影は見当たりませんでした。よくよく考えれば当たり前です。あれだけ大きな事故が取り沙汰されて、しかも幼馴染の麻奈さんがこのニュースを見ていなかった訳がありません。きっと現場か、身元が判明しているのであれば病院に搬送されたと考えるのが普通です。麻奈さんが店に居るなどということはあるはずがないのです。あたしは大きく深呼吸し呼吸を整えることに集中しました。<br><br>「病院！」<br><br>　きっとそこに麻奈さんは居るはずです。でも、一体どこの病院に運ばれたのかも分かりません。当時は携帯事情も今とは違っていてネットで情報を検索するなど不可能でした。あたしは店の前で何か方法はないかと必死に考えました。焦れば焦るほど考えはまとまりません。それでも必死に考えたのです。<br><br>「そうだ、交番！」<br><br>　警察なら何かきっと情報を持っています。怪我人達が収容された病院くらいは教えてくれるに違いありません。その時できることはそれしかないと、あたしはそう思ったのです。<br>　交番は確かあっちだったと振り返ったその時です。<br>　人気のない商店街の通りに女の人が立っていました。<br>　力なく歩く姿は、少しでも触れれば崩れ落ちそうなほど脆い砂細工のようにも見えました。<br><br>「麻奈…さん」<br><br>　あたしは彼女の前に立って小さく呼びかけます。彼女は俯いたまま何も反応しません。もう一度彼女の名前を呼びました。すると彼女は立ち止まりました。<br><br>　麻奈さんだとは思えない姿でした。髪も服も乱れています。一挙手一投足に優雅さと気品を漂わせていた彼女が、今は現世を漂う亡者の如くに生気を失っていたのです。<br>　彼女がゆっくりと顔を上げました。<br>　正直に言えば、あたしはその顔を見ることが怖かった。目を合わせてもかける言葉など見つかりません。一体あたしは彼女に会って何をするつもりだったのかも分かりませんでした。何も出来ない自分に無力感を抱き、また見たことのない彼女に恐怖していたのです。<br><br>　髪の隙間から見上げる瞳が見えました。<br>　その刹那、悪寒が奔ります。泣き腫らしたのでしょう、彼女の目は真っ赤に染まり、感情も消え去ったような無機質な闇が穿たれていました。<br><br>「まさ、み、ちゃん？」<br><br>　麻奈さんが弱々しい声であたしの名を呼びました。あたしは彼女の目を見つめたまま何度も頷きます。闇のような瞳が次第にキラキラと光を満たすのが見えました。<br>　直後、大粒の涙が零れ落ちて麻奈さんの頬を伝います。<br>　あたしも泣いていました。理屈ではありません。ただ悲しくて、ひたすら哀しくて、胸が深くえぐれてしまいそうなくらいに苦しかった。<br>　でも麻奈さんの哀しみはそんなあたしの幻じみた痛みとは比べてはいけないものです。</p><p name="cb2d01a9-229c-4570-9e95-2ffda4a36845" id="cb2d01a9-229c-4570-9e95-2ffda4a36845">「正美ちゃん。正美ちゃん。あいつが、あいつがね……」<br><br>　苦悶を浮かべる姿がたまらなく痛々しく、あたしはそっと近づいて麻奈さんを抱きしめました。<br>　その時は壊れそうな彼女を、例え砕けても全部拾ってみせると思ったのです。<br>　抱きしめてみて、麻奈さんは思っていたよりもずっとか細く小さな女性だったのだと初めて知りました。<br><br>「麻奈さん、分かってる。分かってるから。分かってるから」</p><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/n0533c595efc2'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 06 Sep 2026 17:05:50 +0900</pubDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#21</title>
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      <description><![CDATA[<p name="4c8f839c-2da2-4b1e-952c-c4da8461f2dc" id="4c8f839c-2da2-4b1e-952c-c4da8461f2dc">　それから麻奈さんのお店にはよく足を運ぶようになりました。<br>　優希と行くこともあるし、一人で行くこともあります。<br>　行くと決まって麻奈さんはアンニュイな表情でカウンターに座っていました。<br>　小さいお店ではありますが、意外にお客さんは多く来店していました。精神的な部分での支えを誰しもが求めているのだ、というのは社会人になって理解しました。<br>　来店するお客の大半は女性でしたが、時々男性の姿も目にしました。プレゼント用かとも思いましたがそれだけでもないようです。<br><br>「男性のお客さんも多いのよ。やっぱり石に興味を持つのは女性だけってことでもないのよね。そうは言っても私もこの仕事を始めてから知ったんだけど」<br><br>　麻奈さんはそう言いましたが、彼女狙いの人も中にはいたと思います。そのくらい彼女は美しい女性だったから。<br>　当時、麻奈さんは二十五歳くらいだったと思います。あたしは一人っ子だったし、こんな女性が姉だったらどんなに素敵だろうと幾度思ったか知れません。<br>　受験勉強に行き詰まって、どうしようもない気持ちになると麻奈さんに相談しに行ったりしました。もちろん石に関する色々な話も聞いたし、産地の海外の国の話も聞きました。<br>　麻奈さんの話はどれも未知の世界の話のようで、聞いている時はいつも初めて絵本を読んでもらう子供のような気持ちだったのを覚えています。自分の知らないキラキラとした世界を知るこの人はこの上なく素敵な女性だと、あたしは思っていました。自分もいつかこんな大人になりたいと憧れを抱いたのは必然でした。</p><p name="b115525e-1eb7-4ea9-ad43-495ea8bed42e" id="b115525e-1eb7-4ea9-ad43-495ea8bed42e">　ある日のことです。<br>　あたしは放課後いつものように麻奈さんのお店へ向かいました。すると、お店から一人の男性が出てくるところでした。髪を短く刈り込んでいて背が高く体格もがっしりとしたスポーツマンのように見えます。スポーツをする人も石の力で精神的な部分をカバーする人も多いのだと教えてくれたのは麻奈さんです。きっとその人もそういう効果を信じている一人なのだろうと初めは思いました。<br>　しかし、それはどうも違ったようです。<br>　彼の表情は厳しく、まるで吐き出されそうな鬱憤を必死で堪えて真一文字に口を結んでいる、そんな表情でした。<br>　その人の後ろ姿を見送り店に入ると、店内の空気もどこか張り詰めたようなものが漂っていました。<br>　いつもは風に逆らわず揺れる植物のような印象の麻奈さんが、その日は少々違っていました。周囲のすべてを拒否する硬質な石のようです。<br>　あたしは声を掛けられずに入口で立ち止まっていました。そのまま帰った方が良いかもしれないとさえ思ったのです。今まで見たことの無い彼女の姿に驚いたのか恐れたのか、そんな逡巡に囚われていると麻奈さんがあたしに気がつきました。<br><br>「あら、いらっしゃい」</p><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/n7958cb4951cb'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Wed, 02 Sep 2026 18:18:07 +0900</pubDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#20</title>
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      <description><![CDATA[<p name="929e4be4-cd38-4996-963b-c6e968f7851f" id="929e4be4-cd38-4996-963b-c6e968f7851f">「まーちゃんの見ているそれは神様かもしれないねぇ」<br><br>　中学生に上がる少し前に亡くなった祖母が、幼稚園の頃のあたしに言った言葉です。<br><br>「かみさま？　でも、おひげはないよ」<br><br>　ただのサラリーマンにしか見えなかった男や、買い物袋のようなものを下げた主婦の姿のどこが神様だというのだろう、と幼いながらにあたしは思いました。<br><br>「神様っていうのはね、なにも白いお髭を生やしているものばっかりじゃないんだよ。日本には昔っから沢山の神様がいてねぇ。例えばほら、そこの鉛筆や筆箱、まーちゃんの着ているお洋服にだって神様はいらっしゃる。八百万の神様っていうんだ」<br>「やろおろず？」<br>「やおよろず。だから、もしかしたらまーちゃんにはたまたま通りがかった神様が見えたのかもしれない。それはとっても素晴らしいことなんだよきっと」<br>「そうなの？」<br><br>　納得はいかなかったけれど、神様が見えていると言われれば悪い気はしませんでした。それでも年齢を重ねるに連れて『彼ら』はやはり神様などではないと思うようになっていきました。だからといって幽霊でもありません。<br>　そう思うには理由があります。<br>　それまで幾度も見かけてきた『彼ら』ですが、その中にただの一度も死者の姿を見たことがなかったからです。<br>　歳を重ねれば当然死にも立ち会うことが多くなってきます。<br>もし、あたしの見ている『彼ら』が死者であるのなら、立ち会った死者の姿も見ることがあるべきなのではないだろうかと思いました。だけれど、死んでしまった大切な人や知人を、誰一人として『彼ら』の中に見出すことはありませんでした。<br>　中学に上がる前に亡くなった祖母に、幾度会いたいと咽んだか知れません。しかし、あたしには祖母の姿を見ることはできなかったのです。<br>　だからこそ、あたしは全て幻なのだと思うことにしたのです。<br> <br> <br>「正美、今日ちょっと付き合ってよ。行きたいお店があるの」<br><br>　ＨＲが終わるなり優希はあたしの席に駆け寄ってにっこり笑いました。</p><p name="b7f030f4-56f6-42f3-b523-179c6971c51c" id="b7f030f4-56f6-42f3-b523-179c6971c51c">「うん、いいけど」</p><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/n43959cdc2f1a'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/276408409/profile_557bb15dd379412281f9c3ebd675b9df.png?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Thu, 27 Aug 2026 00:13:17 +0900</pubDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#19</title>
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      <description><![CDATA[<p name="0508da83-066f-45c1-b104-637930d4365e" id="0508da83-066f-45c1-b104-637930d4365e">　あたしは幼い頃から実際には存在していないモノをよく目にしました。　存在していないのに見た、という表現は理に適っていないのは分かっているのですが、そうとしか表現できないから仕方がありません。大雑把な言い方をしてしまえば幽霊、お化けの類が見える、というのが近いのかもしれません。<br>　最初がいつかは分からないけれど、覚えている限りで一番古い記憶は、幼稚園の年少組の頃です。<br>　幼稚園からの帰り道、母親の自転車の後ろに乗っていたとき、閑散とした交差点を渡るスーツの男性とすれ違いました。<br>　気にしていた訳ではなかったのですが視界に入り、何となく目で追っていたました。<br>　何ごともなく自転車は男性から離れていきます。<br>　そして、前を見ようとした瞬間でした。<br>　あたしの視界に赤色が飛び込んできたのです。<br>　赤信号。<br>　そう思った直後、男性のいた場所を車が彼を押しつぶすように通りました。<br>　あたしは驚いて叫び、母は何事かと自転車を止めます。<br>　あたしは目にしたものを母に話し指差しました。<br>　しかし、指の先にあったのは誰も何もない平常通りの交差点。<br>　何が起きたのか分かりませんでした。<br>　見間違いなどではありません。<br>　たしかに男性はいたし間違いなく横断歩道を渡っていました。もちろん足だってありました。そこを車が通ったのだから、男性は轢かれたはずなのです。しかし彼の姿はどこにもなく、忽然と姿を消したのでした。<br>　母は大丈夫よ、なんにも無いわ、とそう言って自転車をこぎ出し、あたしはその交差点を呆然と見送りました。<br><br>　それから後もその交差点では幾度か同じようなものを見ました。<br>　でも、それはあの男性ではありませんでした。<br>　あるときは女性だったり、またあるときは老人だったり、子供だったりで、そのいずれも忽然と姿を消したのです。<br><br>　そういったものを見るのは、その交差点だけではありませんでした。<br>　例えば旅行に行った先の山道などでも見かけ、または学校で、踏み切りで、凍てつく冬の海で泳いでいる姿を見たこともあります。<br><br>　共通しているのは、彼らの姿は私以外には見えていないこと。<br>　そして『彼ら』は怪談話に出てくるように「うらめしや……」と迫るでも、泣き叫ぶでも、這いずって襲いかかって来るでもなかったのです。<br>　彼らはまるでただ淡々と普通の人間のように存在しその一瞬を通り過ぎているようでした。<br>　目にしていたものが、世間で幽霊と言われているものなのかどうかは定かではなくて、もしそうだとしても次第に慣れていったあたしには、それらを怖いと感じる気持ちはなくなっていました。<br><br>　だから、あたしは幽霊というものを見たことが無いし、もし彼らがそうなのだとしてもまったく怖くはありません。<br><br>　あたしは幽霊というものが怖くはないのです。<br><br>　ただ、自分以外には見えないものが見える、という他人とは明らかに違う自分というものには不安を抱き続けていたし、それが理由でお前は人じゃないとそう言われてしまうかもしれない可能性だけは恐れ続けていました。<br><br>　一人ぼっちが怖かった。<br><br>　だからこのことは誰にも話すことも無く、親にも親友にも、婚約者である彼にも話したことはありません。それでも普段は体裁として普通一般の女子のようにそういったものを怖がっている風を装っていました。その方が自然だったからです。<br><br>　婚約者の彼と出会ったのは社会人になって二年目のことでした。<br>　友人と二人でお酒を飲んでいたら、偶然彼女の知人がお店に入ってきて相席になりました。<br>　その知人の連れが彼でした。彼はどちらかと言えば寡黙がちでしたが話を聞いていると様々なことに造詣が深く、会話が苦手という訳でもなさそうでした。<br><br>　彼は霊魂や幽霊といったオカルト的な話が特に好きな様子でした。<br>　それには彼のお兄さんの影響が大きかったのだ、ということが後になって分かってきたのですが、その時はあたし自身の件もあったので主張はせず、それとなく彼の話には興味をもって耳を傾けていました。<br><br>　その頃も『彼ら』を見ることは度々ありました。<br>　ただ、都心でそれらを見る機会は少なくなっていました。もしかしたら、見ていたのだとしても、多くの人々に紛れて気付けていなかったのかもしれない、と今は思っています。<br><br>　彼とは気も合いました。田舎者だからと言いながら、故郷のことを話すとき彼はとても嬉しそうな顔もします。そして、それと一緒にほんの少し寂しそうな影が射す表情にもたまらず胸を掴まれました。<br>　彼と一緒にいたい、と思うようになるまでそう時間はかからなかったけれど、結婚という話になるまでには五年かかりました。お互い不器用な二人だからそれは当然といえば当然だったのかもしれません。<br>　彼とは色々な話をしましたが、彼のお兄さんの話だけは詳しくはしてくれませんでした。人には話したくないことだってある。あたしだって同じだし、あえて聞こうとも思いませんでした。<br><br>　彼は幽霊とは心のあり方の問題だと言います。強い催眠を受けたものが思い込みで身体に影響を及ぼすようなことも多くあるのだから、見えると心底信じてしまえばそれらは見えるし居るのだと言いました。<br>　思い込み。そうなのかもしれないと思うようになったのは彼の影響です。触れることも聞くこともできないのなら、それは砂漠に浮かぶ蜃気楼とそうは違わないのだから。<br>　そうしてあたしは、今までのことをただの錯覚として片付けることにしました。<br>『彼ら』は幽霊でも神様でもなんでもない只の幻にすぎないのだ、と。<br> <br>　あたしは彼と添うことを選びました。<br>　彼ならあたしを受け入れてくれると思ったのです。<br>　彼の実家に結婚の報告と挨拶に行ったとき、彼のお父さんもお母さんも喜んでくれました。訛りは未だに聞き取れないことも多いけれど、皆さん優しく不快なことは何もありません。それまでにも何度か遊びに行ったことはあったし、取り立てて彼の実家への訪問に抵抗は無かったのだけれど、強いて言うのならば唯一つだけ苦手なことがありました。<br><br>　あたしは彼の実家にいる間、常に偏頭痛に悩まされました。<br>　実は『彼ら』を見るときには必ずと言っていい程、頭痛に襲われるのです。<br>　それまでは疲れから来る慢性的な偏頭痛だと思っていたのですが、どうもそうではなかったようです。薬を飲んでも効き目は感じられなかったので耐えるしかなく、辛うじて我慢している状態でした。<br>　初めのうちは慣れぬ場所だし緊張しているのだろう、と思っていましたが、どうやらそれは違っていたようです。回数を重ねても彼の実家に伺う度に同じように頭痛に襲われました。<br>　近年、パワースポットと呼ばれる場所がブームになったりしていますが、彼の村そのものが何かの力のようなものに包まれたような場所であるのかも知れません。実際に村から離れると頭痛は止みました。<br>　そしてどういう訳か、彼の実家の村周辺では特に多く『彼ら』の姿を見るのです。<br><br>　初めは道端ですれ違った人でした。あたしは挨拶したのですが無視されました。<br>　田舎の村だし他所者には多少なり抵抗があるのかもしれないな、とそう思ったのですが違いました。彼の実家のある村の住人は皆、無愛想どころか、お節介なほどに愛想が良かったのです。<br>　珍しい人間がいると思うとむしろ積極的に関わってきました。<br>　好奇心が旺盛と言えるでしょうか。<br>とはいえ、色々な人がいるのだから無愛想な人もいるのだろうと思ったのです。<br>　しかしそれでも気になって、それとなく彼やご両親に無愛想だった男の特徴など伝えてみたりしたのですが、不思議なことに誰も思い当たる人物が浮かんではこなかったのです。<br>　皮肉なことに、幻だと思えば思うほど、『彼ら』は己の存在を誇示するようにしてあたしの前に現れました。<br>　後になって気がついたのですが、その男性も『彼ら』の特徴とも言える性質のようなものがありました。<br>　それは思い返すと一貫していたように思います。<br><br>　『彼ら』はこちらを認知していない。<br>　『彼ら』は無反応なのです。<br>　あたしのことが見えてもいないし、聞こえてもいない。<br>　そのくせ『彼ら』は笑ったりするのです。笑い声は聞こえません。まるで何かの映像を投影しているような印象さえあります。こちらとは違う世界に生きているかのようだとも思えました。<br>　もしかしたら、それが世に言う霊界や天国といったような世界なのかも知れません。<br>　そういったこともあって、あたしはできるだけ彼の家に訪れた時には外出せず家の手伝いをするようにしていました。<br>　それが一番安全だからです。<br>　もしも影響の強い場所に間違えて訪れ、倒れようものなら心配をかけるだけだからです。</p><p name="5988d1cf-3a50-445c-ab14-f5b4388e4d9d" id="5988d1cf-3a50-445c-ab14-f5b4388e4d9d"><br></p><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/n1eb1bf01efa8'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/276408409/profile_557bb15dd379412281f9c3ebd675b9df.png?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Thu, 20 Aug 2026 21:33:20 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/nice_badger6169/n/n1eb1bf01efa8</link>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#18</title>
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      <description><![CDATA[<p name="69605962-8c7c-49fd-8978-7ce67d3378f4" id="69605962-8c7c-49fd-8978-7ce67d3378f4">　嫌な気配で目が覚めた。<br>　時計を見ると既に朝だが、まだどこか薄暗い。<br>　蝉時雨は聞こえず、代わりに世界を埋め尽くして聞こえるほどに強く雨音が広がっていた。雨どいを滴る水がまとまり、小さな滝のように零れ落ちている。遠くで低く鳴る雷轟が聞こえてくる。<br>　気配の正体はこれなのだろう。昨日までの快晴とはうって変わった暗天を感じ、眠りながらも不安を感じたのかもしれない。まるであの日のようだった。<br><br>「天気予報ではすぐ止むってへってらっけ、もうじき上がるんでねがな」<br><br>　祖母は台所の窓から空を見上げながら言った。<br><br>「そうだといいんだけど」<br><br>　確かに雨は次第に弱まってきているようだったが、妙な不安感はじわじわと腹の底で汚泥のように留まったままだった。<br>　日記のせいもあるのだろう。<br>　わたしは日記に強い関心を抱きながらもその一ページも開けずにいた。<br>　怖かったのだ。<br>　読めば何かが分かる可能性はある。どうして兄がいなくなったのか、兄はどこへ行ったのか、何をしようとしていたのか、何を考え、想っていたのか。<br>　しかし、それに反して、あのもの静かな兄の本当の気持ちがわたしの思うもの、望んでいる姿と異なっていた場合、まったく別の兄の姿が現われてしまうのかも知れない。それも怖かった。<br>　結局、わたしは一晩中日記に向かっていながら、遂に触れることが出来ぬまま朝を迎えた。正美はそんなわたしを心配しながらも、慮ってか何も言わずにいてくれた。<br><br>「お墓参りはどうしましょう？」<br><br>　正美が困ったようにそう言うのを聞いて母が答えた。<br><br>「ウチのお墓はちょっと奥にあるのよ。この雨では足元も滑って危ないからせめて止んでからでないと、それでも今日は止めた方がいいわねぇ」<br><br>　雨は止まなかった。<br>　昼になっても雨脚はそのままで一向に止む気配はない。<br>　携帯で交通情報を調べてみたが電車の運行本数はかなり減っているようだった。村から出ている電車においては運行停止になっている。大雨は土砂崩れにも繋がりやすくなるから不用意に動くこともできない。不幸中の幸いだったのは盆休みにはまだ余裕があるということだった。<br>　外にも出られずやることも無い。わたしは部屋に戻り、トタンを叩く雨音を聞きながら束になった日記以外のノートを開いた。そこに何かの手がかりがあるのではないかと目を通したが、何かのグラフや数式などの羅列も多く理解するには程遠かった。<br>　わたしはその内うつらとして眠ってしまった。<br> <br> <br>　わたしは御滝のほとりに立っていた。<br>　辺りは暗いが夜ではない。真上には青空が見えている。<br>　滝は勢いよくその飛沫を上げて流れ落ちているのだが、音は無い。<br>　無声映画のような世界に、ぽつねんと取り残されているようだった。<br><br>　――この世界は本のようなものだ。<br><br>　声がした。<br>　この柔らかな声を聞き間違えるはずがない。<br>　兄だった。<br>　滝壷の対岸に兄が立っていた。<br>　滝を中心に据え、わたしと兄、シンメトリーを描き出している。<br><br>「兄さんっ！」<br><br>　――僕達のいるこの世界はその一ページに過ぎない。<br>　兄は昔のままだ。<br>　だが、ハンチングを目深にかぶっているので顔は見えない。<br>　薄茶色のベストにパンツ。記憶にある兄の姿だったが、わたしに気付いているのかどうかは知れない雰囲気である。<br><br>「兄さん！　兄さん！」<br><br>　幾度呼びかけようと兄はわたしに気付かないまま、独り言のように何かを言っている。<br><br>　――登場人物たる僕らは、その呪縛からは逃れられない。<br><br>「兄……さん」<br><br>　――僕は『死』というものが怖いんだ。<br><br>　これは、どれも遥か昔に聞いたことのある兄の言葉だ。<br><br>　――だから僕はこの……<br><br>　兄は何かを言っているのだが、声は聞こえなくなった。<br><br>「兄さん、兄さんは何がしたいの？　帰ってきてよ兄さんっ！」<br><br>　兄に近づこうとわたしは滝壷を迂回するように駆けた。<br>　だが、次の瞬間行く手を遮るように目の前に大きな長方形の箱が現れた。<br>　恐る恐る近づき箱の中を覗き込む。<br>　その中には覚えのある女性、沙耶の遺体が眠っていた。<br><br>「うわぁぁ」<br><br>　わたしが箱から飛退くと、背中が何かにぶつかった。<br>　人だった。<br>　背の高い喪服の男。<br>　誰かは知らない。<br>　顔はぼやけてしまっていて分からない。<br>　気が付くと、いつの間にか周囲には喪服に身を包んだ人々が溢れ群衆となり、わたしを取り囲むようにして立っていた。<br>　しかし、彼らは一様に私ではなく沙耶の収められた棺の方を見ている。誰一人としてわたしを見ている者はいなかった。<br>　見回すといつの間にか風景は変わっていて、葬儀場になっていた。<br>　見覚えがある。<br>　沙耶ちゃんの葬儀だ。<br>　棺桶の周りに真っ黒な人々が押し寄せ埋め尽くし、巨大な祭壇は白と黄色の菊に覆われ、中央に大きな彼女の遺影がある。<br>　誰かが顔を覆い泣き出した。<br>　するとまた誰かも泣き出す。<br>　次第に、おおおと嘆きのような声が周囲に響き、空間を埋め尽くしていく。耐えられないほど大きくなった嘆きの圧力にわたしは耳を塞いで頭を抱えた。<br><br>「違う…」<br><br>　人々が俄かに流れ出す。<br>　わたしは津波のような黒い虚ろに抗えず、押し流されるように棺桶から引き離されていった。<br>　兄が、棺桶の向こうに立っているのが見えた。<br><br>「兄さんっ！」<br><br>　わたしは人垣を掻き分けるようにして進もうとするのだが、次々に押し寄せる真っ黒な塊たちに邪魔されて思うように進めない。<br><br>「兄さん！　兄さんっ！」<br><br>　兄が沙耶ちゃんの頬を撫でる。そして――<br>　笑った。<br><br>「兄さん……なんで…」<br><br>　わたしは黒い濁流に流されていった。<br>　兄も、彼女も、遠くへとその姿が消えていく。<br>　その姿が消える直前だった。<br><br>『………』<br><br>　兄の口が動くのを見た。<br>　しかし何と言ったのかは分からない。<br><br>　目が覚めると身体中にびっしょりと汗をかいていた。</p><hr name="e8612112-2728-4585-9110-2a5e9b8470ad" id="e8612112-2728-4585-9110-2a5e9b8470ad"><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/nea5c9646996b'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/276408409/profile_557bb15dd379412281f9c3ebd675b9df.png?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 09 Aug 2026 23:28:49 +0900</pubDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#17</title>
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      <description><![CDATA[<p name="4cb15914-1454-4d9f-b5ac-3933b8b6d5fa" id="4cb15914-1454-4d9f-b5ac-3933b8b6d5fa">　ハッチンと再会したその夜、彼の実家に集まり帰省をしていた数人の同級生とも懐かしい再会を果たし、久々に思い出話に花を咲かせた。<br>　正美が一緒であることを話すと是非連れて来いということになって正美も参加した。こうなると当然だが、わたし達は主賓扱いとなり、あっちからこっちから質問攻めである。だが、正美は嫌な顔もしないで馴染んでくれたので一安心した。<br>　皆それぞれに苦労もあるようで、そんな愚痴を聞けば我々も歳をとったものだと思わざるを得ない。それなりに歳をとれば色々とあるのは仕方のないことではあるが、皆元気であるからそれは良かったと思う。<br><br>「あなたがこんなに酔うのも久しぶりね」<br><br>　正美は楽しそうにころころ笑った。その顔も少し赤い。<br>　散々飲んで帰ってくると家の電気は消えていた。零時を回っていたから当然だ、十時には全員が寝るような生活が当たり前なのが農家だ。<br>　わたしは酔いに回る廊下を支えられながらよたよたと歩き、壁に手を突きやっと部屋に辿り着いた。母が気を利かせたのだろう、布団が敷いてあったのでそのまま倒れるように転がった。<br><br>「水持ってくるわね」<br><br>　正美が台所へ向かう足音が遠ざかっていく。わたしはむくりと起き上がると奥の兄の部屋に向かった。兄がいるのではないかと思ったのは酔いのせいだ。<br>　襖を開けたがもちろん兄はいない。<br>　わたしは床に仰向けに寝そべった。ぐわんぐわんと脳が回って天井を見ると揺れて見える。回っているのは天井か、自分の目か、もちろん後者だと思いながら何となく可笑しくなった。<br>　ふと昨夜目にした天井の隅を見た。<br>　やはり天板がずれて三角形の闇を覗かせている。<br>　じっとその黒い直角三角形を眺めていると何かの気配のようなものを感じてしまう。黒い三角形がわたしを呼んでいるように感じる。それは勘違いでしかないのだが気になってしまえばもう駄目だった。<br><br>「鼠が入ってきてしまうじゃないか」<br><br>　そう言い訳して立ち上がったのは酔っていたからに他ならないのだが、わたしはゆらりと立ち上がって椅子を引っ張り出し、ゆらゆらしながら椅子に上がった。<br>　何度か転げそうになったが踏みとどまって天板に手をかけた。<br><br>「ん？」<br><br>　黒い三角の奥に何かが見えた。<br>　わたしは天板の隙間に手を突っ込み、その何かを掴んで引っ張り出す。埃が降ってきたので咽ながらそれを払う。<br>　そこから出てきたのは紐で括られた数冊のノートの束だった。<br>　わたしは他にもないか確認し、天板を戻した。<br>　椅子から降りたとき、わたしは既に酔いから引き戻されていた。<br>　紐で括られた大小様々なノートの束、そこに書かれている字が兄のものだと気がついたからだ。<br>　紐を解き、ノートを広げたわたしは一冊ずつ手に取り、ぱらぱらと捲る。<br>　ノートにはなんだか分からない数式や、専門用語や図がびっしりと書き連ねられていた。<br>　その内容はわたしには分からなかったが、それでも断片の言葉程度は分かる。だが、それが一体何を意図するものなのかまでは至らなかった。<br><br>　最後に手にした一冊、それは日記だった。<br><br>　わたしはそれを持つ手が震えるのを抑えられなかった。兄の失踪の真実が記載されているのかも知れないからだ。<br><br>「大丈夫？　どうかした？」<br><br>　透明なグラスに水を注いで戻った正美のその問いにわたしは答えることが出来なかった。</p><hr name="056c1d4f-ceac-48fe-b350-514651b9f54e" id="056c1d4f-ceac-48fe-b350-514651b9f54e"><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/n9fe8daf989e7'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/276408409/profile_557bb15dd379412281f9c3ebd675b9df.png?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 09 Aug 2026 22:30:58 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/nice_badger6169/n/n9fe8daf989e7</link>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#16</title>
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      <description><![CDATA[<p name="7e556ce8-b94b-410b-8de6-15fb70ade097" id="7e556ce8-b94b-410b-8de6-15fb70ade097">　昼食を一緒にどうかと誘われたが丁寧に辞退し、わたし達は遠野の家を出た。<br>　帰宅した後、正美は昼食の仕度を手伝い、わたしは外に出ることにした。どこへ行こうというのではなかったが、気付くと川に出たので生霧川の土手に腰掛けて川を眺めた。夏の日差しはじりじりと肌を焼いたが、そんなことはお構いなしにぎらぎらと煌く水面を見つめる。<br>　周囲は夏の色に染まっている。緑は深く鮮やかに広がり、高く真っ青な空には白く輝いてさえ見える雲が浮かんでいる。草の隙間には小さな昆虫達が見える。川の流れる水音がちゃぽちゃぽと涼しげに聞こえて、風も優しく心地良い。<br><br>　まるであらゆる祝福が降り注いでいるような素晴らしい風景を眺めているというのに、その風景の中でわたしだけがぽつんと染みのように薄闇を羽織っているようであった。<br>　あり得もしない馬鹿げた噂話だ、ということくらい最初から分かっていたはずだ。<br>　実際に事実が分かればこんなものだということも予測できたはずだ。<br>　それなのに真実を理解した途端、心がどこか、ぽっかりと抜け落ちたような脱力感が広がって全身を包み込んでいる。虚しいとはこういうことを言うのだろうか。<br>　わたしはやはり沙耶に会いたかったのだ。<br>　それが例え幽霊であろうが幻覚であろうが構わなかったのだ。<br><br>「会って、何を言うつもりだった？」<br><br>　自問の呟きが口を突いて出ていた。だが、答えられない。<br>　結婚のこと、死んでしまったこと、兄のこと、それとも。<br>　どれもそうだと思えるし、違うようにも思える。もしかしたら鮮明としたものではないのかもしれない。<br>　会いたいと思う気持ちというのは何を話すということではなく、同じ時間を共有したいという欲求なのではないだろうか。同じ空気を吸い、同じ音を聞き、同じものを感じあうということがそうだとするのならば、初めからそれは叶わぬ願いでしかない。<br>　彼女はすでにこの世界には存在しないのだから。<br>　わたしは結局、叶わぬ願いを求めて彷徨っているだけなのだ。<br>　決して満たされることのない願望を求め、失い、こうして途方に暮れている。<br>　なんと無意味な行為だろう。<br>　無意味に取り憑かれていることに、きっと正美は気がついているのだ。それを知りながらわたしが目を覚ますのを待ってくれている。わたしが本当にすべきことは、ここで過去に取り憑かれて今を見失うことではなく、今を、未来を見据えて彼女を安心させることなのではないか。<br>　わたしは土手から立ち上がり尻を掃った。<br><br>　その時だった、一台のトラクターがわたしの後ろを通り過ぎて止まった。<br><br>「おうおう、なんだじゃ、随分と久しぶりの顔がこったどごでなにしてるのせ」<br><br>　嬉々としながらトラクターから一人の男が降りてきて、作業帽を取った。<br><br>「ハッチン？」<br><br>　タンクトップの首に巻いたタオルで汗を拭う様はもう一人前の農家の主だ。長靴のがぶがぶとした音を響かせながらハッチンは手を差し出してきた。わたしはその手をがっちり掴んだ。<br>　ハッチンは幼い頃は小太りで馬鹿にされていたこともあったが、今はむしろがっちりと逞しくなっている。農家の過酷な労働を考えれば肥満などありえないのだが、彼はそれ以上に鍛えている印象だった。<br><br>「久しぶりだのぉ、昔からそんな感じだったけども、すっかり都会の人だなや。だから逆に気付いたんだけどもな。今何してらのよ」<br><br>　明るく笑う彼の肌は日に焼けて浅黒く、まるで南国人のようだ。<br><br>「今は広告代理店に勤めているんだ。実は今度、結婚する」<br>「おぉ、んだのが、これはめでたいの。だば報告で帰ってきたんだが？」<br>「いや、報告は終わってる。まあ結納なんかの日取りも決めなきゃいけないんだけど今回は……」<br><br>　その時わたしは思い出した。沙耶ちゃんの一件に関して章正から聞いた噂の始めはこのハッチンではなかったか。ハッチンから話を聞いたバッタが章正に伝え、そしてわたしの耳に入った。<br>　もう既に噂の正体は分かっていたが彼の話を聞くことで心に空いた穴を埋め、今度こそちゃんと諦めがつくのではないかと私は思った。<br> <br>「それでいつまでこっちさいるのよ」<br>「一応、明後日の午後には帰る予定なんだ」<br>「そったに早ぐが、だば今夜はいるんだべ、丁度、戻って来てるのがいるはんで今夜飲むべって話になっててな、おめも来いじゃ。皆喜ぶすけ」<br><br>　嬉しそうにそう言う彼の好意に甘えて参加することにした。多くは村を出てしまい同級生で飲むこともそうそうあることではない。落ち込んだ気持ちも僅かに回復した。<br><br>「ところでハッチン、訊きたいことがあるんだけど」<br>「おう、なによ」<br>「実は章正に会って聞いたんだけど、ハッチン、その……沙耶ちゃんを見たんだって？」<br><br>　ハッチンは一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに思い出したように頷いた。<br><br>「あれな。章正だばバッタだべ。確かにそんな話はしたけどもな」<br>「見たのかい？　沙耶ちゃんを」<br><br>　わたしが勢い込んで聞くと、んー、と唸ってハッチンは腕を組んだ。<br><br>「見たな」<br>「見た？」<br><br>　わたしは聞き返してしまった。彼が見たとなればそれは遠野の夫婦が話したこととは別の話だからだ。ハッチンが沙耶ちゃんの姿を見たのなら、噂は未だに生きていることになる。彼女に会うことが出来るかもしれない。<br>だが、そんな考えに取り憑かれそうになったわたしは僅か数分前の気持ちを思い出し、余計な考えを振り払った。噂に振り回されるべきではない。<br><br>「本当に見たのかい、彼女を」<br>「見たのは見たけども、わが見たのは子供ではねぇのさ」<br>「子供じゃない？　本人だって言うのかい」<br>「本人ってことはねぇべさ。わだって沙耶姉ちゃんの葬式は覚えでるすけ。でもな、あれは沙耶姉ちゃんだったと思うわ」<br>「本気で彼女を見たって言うのか？」<br>「なに馬鹿なこと喋ってらっきゃって誰も信じねんだけどもな。まぁその時一回だけしか見てねはんで、本当のところはどんだか知らねけどもさ。したらこの頃になって、ほれ、沙耶姉ちゃんの話が広まったもんだから」<br>「それは何処で見たんだ？」<br>「あれはな、生霧神社の裏手の墓所だ」<br><br>　生霧神社の裏手には村の共同墓地がある。山の斜面に作られた墓地の脇に生霧川へと合流する小さな川が流れている。ハッチンが見たというのはその川へ向かう途中の話なのだろう。<br><br>「春も終わりの頃だったかの。日が落ちかけて大分暗くなってきてたんだけども、お清めだかなんだかに使うからって裏山の水ば汲んできてけねがって神主様に頼まれて行ったのさ。川まで行ってバケツに水汲んで戻ろうとしたんだ。そしたらな、墓所になんだか気配ば感じての、だけども見渡しても誰も居ねのさ。勘違いかと思って坂下ったんだけども、妙に気になって振り返ったのさ。したらの、遠くの方に女が立ってるのさ、長い黒髪の女だった。それがこっちを見てのぉ、髪を掻き分けたのさ。その顔は遠かったけども見たことある顔だった」<br>「それが沙耶ちゃんだったって？」<br>「んだ。わも最初は見間違いか何かかと思ったんだけどもな。どうも違う。そのあと沙耶姉ちゃんは背中向けて御滝の方さ向かっていったのさ」<br>「その後は？」<br>「後も何も、死んだ人が出たってだけで吃驚して急いで神社まで逃げ帰った」<br>「探しに行ったりはしなかったのか」<br>「しねぇって。まず誰もわの話だっきゃ信じねぇものさ。本当だとしても日も落ちて暗くなってたすけ、誰も行こうなんて言い出さなかった」<br><br>　確かに、御滝の方へと向かう死んだ筈の女の姿を追いかけようと思う者は多くないだろう。精々彼女の家族と自分くらいのものではないだろうか。その時それを見たのが自分だったなら追いかけたのにと思った。<br><br>「嘘はついてねはんでの」<br>「別に疑っちゃいないさ。良かったよ、その話が聞けて」<br>「そうか。だばいいんだけども。後で電話するはんで、家さいるんだべ」<br><br>　それだけ言ってハッチンは帰って行った。<br>　わたしはじりじり照らしつけてくる太陽を背に受けながら御滝のある北の方へと視線を向けた。この夏の暑さの中にあって北方の空は妙に暗澹とした異様な気配を放っているように思えた。</p><hr name="acc89e8d-05ac-40c9-a2b1-1d73c7a851cb" id="acc89e8d-05ac-40c9-a2b1-1d73c7a851cb"><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/n845d50e65984'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Wed, 05 Aug 2026 16:13:27 +0900</pubDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#15</title>
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      <description><![CDATA[<p name="28f6c078-55f3-4e6a-889d-1215d15b9244" id="28f6c078-55f3-4e6a-889d-1215d15b9244">　祖母は起床がやたらと早い。歳だからということもあるのかもしれないが、早いのは昔からだから比べようもない。<br>　部屋に朝日が射してきた頃、外にある野菜畑に歩いていく足音で目が覚めた。じゃっじゃりと鳴る砂利音に懐かしさを覚える。都会にこの音はそうはない。<br>　時計を見ると六時を回ったところだった。窓が開け放しなので夏とはいえ少し寒いくらいだ。布団から起き上がると隣にいるはずの正美の姿はもう無かった。<br>　ぎしぎしと鳴る板の廊下を進んでいくと広間に大人たちが五六人、雑魚寝で転がっていた。やたら酒臭いので引き戸を閉めて食堂に向かった。食堂では母と正美が何やら楽しそうに台所に向かって話しながら野菜か何かを切っている。<br><br>「おはよう」<br>「あら、早いのね」<br>「いつもはもっと遅いんですけどねぇ」<br>「きっと隣に正美ちゃんがいないもんだから、寂しくて起きてきたのよ」<br>「やだおかあさんったらー。そうなの？」<br><br>　からかう様にこっちを見る正美を無視して「めし」とだけ言って席に着く。相変わらず二人は「あれは照れてんのよ。昔っからそう」などとキャッキャと騒いでいる。<br>　食卓に掛け予定を考えていると母が食事を運んできた。自家製の梅干が出てきたので、自分の土産に分けてもらえるように頼んだ。<br><br>　九時を回った頃、正美を伴って家を出た。<br>　行き先は、遠野の家である。<br>　沙耶ちゃんに関する話を聞く為ではない。そんな話は彼女の家族にすべきではないことくらいは分かる。目的はあくまで彼女の霊前にお参りと、結婚の報告である。<br>　今日は母が使っている軽自動車を借りて行くことにした。<br>　家を出て川を渡り村の中心を過ぎていくと、田園中心の風景が徐々に変わって畑になっていく。村の様子を説明しながら暫く走ると樹木が増えてきた。防風林も目立ってくるのは区画整理の役割もあるからだ。ビニールハウスも多くなる。<br>　遠野の家が近くなってきた頃、一台の車と狭い道ですれ違った。この辺りには不釣合いなハンヴィーである。一瞬目を疑った。<br><br>「こんなところに軍用車？」<br>「そうなの？　確かに大きい車よね」<br>「アメリカ軍で使われているってだけだけど、なんでこんな田舎に？」<br><br>　あんなものそうそうお目にかかるものではない。すれ違いざまに車体に記載されたロゴを見ると『ＫＥＣＰ』の文字が見えた。わたしはテレビでしか見たことのなかった車の後姿をミラー越しに見送った。<br><br>　防風林を右手に見ながら進むと舗装路が途切れた。そのまま轍の見える道を進んでいくと林が一箇所だけ切れた場所が見えてくる。<br>そこを曲がり、真っ直ぐ道の伸びた先に見えてくるのが遠野の家だ。<br>　舗装されていないのでゴロゴロと雷のように砂埃が上がる。家の前まで行くと広く開いた前庭に車を止めた。エンジンを切って車を出ると、気配を察した柔和な顔が家の窓からこちらを覗いていた。<br>　わたしは沙耶ちゃんの母に手土産の包みをかざして微笑んだ。<br> <br>　立派な仏壇がある。<br>　経机には香炉、燭台、線香立、リンなどが並んでいる。それらの前に座り線香に火を点け、手で煽り消す。立ち上る煙を引きながら香炉に立て、リンを鳴らし手を合わせた。三つ足の立派な香炉だ。<br>　見上げると中段には常花の金蓮華が両側に一対輝いているのが見える。中央には在りし日の彼女の笑顔が立てられ、仏壇そのものもよく手入れされているのがわかった。<br>　わたしは手を合わせたまま彼女、沙耶に結婚するのだと報告した。<br><br>「この人が、沙耶さん？」<br>「あぁ、僕の姉といってもいい人だよ」<br><br>　そう、と呟いた正美はじっと写真を見つめていた。<br><br>「どうかした？」<br>「ううん…なんでもない」<br><br>　正美は写真に視線をすえたままでそう答えた。様子が変だと思ったのだが、そこへ沙耶の母がやってきた。<br><br>「さぁさぁ、お茶っこ用意したから、こっつでどうぞ」<br><br>　わたし達は一礼して席を立ち、隣の居間に移ると座布団に座った。<br>　彼女の母もまた向かい合うように座り柔和な微笑を見せた。<br><br>「噂は耳に入ってたんだよぉ、本当に綺麗な方で。いい人が見つかって本当に良かったってウチの人とも喋ってたのせ。本当におめでとうございます」<br><br>　そう言って沙耶ちゃんの母、みつこさんは微笑んで頭を下げた。<br><br>「ありがとうございます」<br><br>　そう返しつつ頭を下げ、わたしは氷の入った麦茶を一口飲んだ。<br><br>「ところで、さっき珍しい車を見かけたんだけど」<br><br>　先刻のことを思い出したので聞いてみた。他所から人が来ること自体こんな辺鄙な村では珍しいことなのだ。<br><br>「あぁ、何とかっていう企業の人たちが北側の山で研究をしているんだってぇ、わも詳しくはよく分からないっけ、ウチの人だば知ってるんでねが」<br>「研究？」<br>「地質調査とかなんとか、もう半年になるべが？　結構経つんでねがな」<br><br>　そういえば半年前に北部の赤海山周辺の土地を購入した企業があった。<br>　企業名は確か。<br><br>「桐崎エナジーコーポレーションの連中だべ」<br><br>　痩身の男が居間へ入ってきた。両手を後ろで組んでいる。<br>　以前はもっと恰幅がよかったがこの十年でずいぶんと印象が変わった。心労もあったのだろうが、もしかしたら多少病んでいるのかもしれない。<br><br>「お久しぶりです」<br><br>　わたしは沙耶の父、庄次郎に頭を下げた。<br><br>「元気そうだの。みつこ、お茶っこ。冷たいのは腹が冷えるすけ」<br><br>　はいはい、と小母は居間を出て行った。庄次郎小父は上座に座った。<br><br>「随分と綺麗な人捕まえたの。おめにはちょっと勿体ねんでねのが？　兎も角おめでとう。まぁいい歳だものな、遅せくらいだべ」<br><br>　そう言って呵呵と笑った。正美は丁寧に挨拶を返した。<br><br>「何の研究かご存知なんですか？」<br><br>　どんだがなぁ、と返す小父。<br><br>「村の北側の更に奥、赤海山があるべ。あそこが江戸初期ごろに噴火した火山だったことは知っとるだろう、有名な話だすてな」<br>「今は休火山だから噴火はないって聞いたことありますが、実は活火山で火山活動の心配でもあるとか？」<br>「いやいや、そんでねぇな。だったら動くなぁ国だべ」<br><br>　確かに地殻変動が直接の原因なら一般企業の出る幕ではない。<br>　桐崎が動くということは、何らかしらの地下資源やエネルギーに関連する事柄なのだろう。火山活動のエネルギー利用が理由だとすれば地熱発電所の建設などが最有力かもしれない。国立公園に指定されている訳でもないし、温泉街があるわけでもないから最適ともいえる。<br><br>「何やってらのか知らねぇが、こったどごさあんまりよそ者がうろちょろするのもなぁ。差別ではねぇが車もやけに多いし、調査内容も詳しくは明かさないとくればな。今抗議文の提出が周辺の市区町村でも話題になっとるのよ。まぁ恐らく鉱物資源の調査でねべかなぁ」<br>「地下資源ですか？　以前の国が行った調査結果も渡しているんでしょうかね、それにしたって今更って気もしますけど。その上でってことかなぁ」<br>　この辺り一体の調査はかなり前に行われ、国はそのデータを持っているはずだった。その時には目ぼしいものはなにも無かった筈だ。<br>　小母が緑茶を淹れてきて小父の前に置いた。小父はそれを取ってゆっくり口に運んだ。<br><br>「確かに前にも一度やったからの、あの時は国土交通省と財務省の調査だったがもう十五年は経っとるしな、結局なんもなかったっけさ」<br><br>　小父はそれだけ言って茶を置いた。<br><br>「それよりもな、この辺を通り抜ける車が多い方が問題よ。赤海の方さだば村を通るのが早いのはわかるがの、乱暴な運転しよるはんで危なくての。この間も市村さんとこの孫が轢かれそうになっての。怪我はなかったけども市村さんが役場に乗り込んで大変だったんで」<br>「それはまた」<br>「けれどもね、あの人の怒鳴り声も聞こえなくなると寂しいもんでの、市村さんには悪いけどもさ、久々に聞いて昔の活気が戻った気がしたのさ」<br>「まぁなぁ」<br><br>　小母に小父が苦笑し同意する。怒声でも聞き慣れた人にはそういうものなのかもしれない。ごそごそと懐から煙草を取り出した小父は、とんとんと箱を叩き出てきた一本を引き抜いて口に銜えた。火を点けるとぷかりと煙があがる。<br> <br>「ところで結婚するんだば、おめはこっちさ戻ってくるんだが？」<br><br>　わたしは小さく首を振った。<br><br>「今の仕事でかなりやることがあるので。戻れません」<br>「んだが、でも親父さんも寂しいだろうよ。なにしろ今はおめしか居ねんだはんで」<br>「あんた、ちょっと」<br><br>　小母は気にしておろおろしたが、小父は動じるでもなかった。<br><br>「本当のことだべ。それは本人達が一番分かってんだ。余計な気を使う方が失礼だ。なぁ。まぁ奥さんの気持ちもあるべからな、簡単ではねべけども跡継ぎの問題は他人事ではねぇはんでの」<br><br>　小父はわたしを真っ直ぐ見て言った。確かにそうだった。<br>兄のことで余計な気を使われて裏側でこそこそされる方が辛い場合もある。それが優しさからくるものであっても変わりはない。兄がいなくなって十年になる。どうしているかどころか生きているかも定かではない人間を気にしていられるほど今の農家も余裕はない。跡継ぎが居ないのは遠野の家も同じなのである。ならばまだ子供が居るだけマシな我が家のことを考えて小父は言ってくれているのだ。<br><br>「最近じゃあ多少農業に興味を持って手伝いに来る連中も増えてはきたすけ、自分の田畑を任せられるくらいの者もいない訳でもないけどもな。できれば自分の土地田畑は子に譲りたいのが親心だべ」<br>「まぁ、そうですね。兄を当てにできる状況ではないですから」<br>「そんだけども……」<br><br>　小母もきっとどこかに確信があったのだと思う、兄と沙耶ちゃんの未来に。ところがそれは霞が掻き消えるように無くなってしまった。消えてしまったことを信じたくなければ目を逸らすしかないのはよく分かる。だから小母もいつか兄が戻ってくると信じてくれているのだろう。だが、戻らぬことを認めれば否応なしに現実を突きつけられる。<br><br>「おめ、そうやって変な気ばかり使うからおかしなことになるんで。今だって村の連中の間で気を使われてるの知らねべ」<br>「はぁ、なんのことだべか」<br><br>　呆れたように小父が言った。<br><br>「沙耶が化けて出たってもっぱらの噂だんで」<br><br>　わたしはその瞬間、口に含んだ麦茶を噴き出しそうになった。なんとか耐えたのだが、結局は気管に入って咽た。正美が「ちょっと、大丈夫？」と手拭いを差し出してくれたので受け取って口元を拭った。<br><br>「そ、それは、どういう」　<br>「最近な、うちの沙耶を見たって話があってな。それを皆が、わ達に気遣って隠してるみたいでなぁ」<br><br>　こんな村で噂に上れば隠しようがないということか。それがあっさりと当人達のところまで届いてしまっていては気遣いも何もあったものではない。<br><br>「たんだ、そもそも勘違いだのさ」<br>「勘違い？」<br><br>　小父は煙草をもみ消した。<br><br>「んだ、沙耶を見たって最初にへったのは、みつこだのさ」<br>「んだの」<br><br>　小母は思い出すようにぼんやり上の方を眺めて同意した。<br>　何ということだ。遠野の家に噂が伝わったのではなく、そもそも遠野の家からこの噂が出たということなのか。こうなると噂を隠している人達こそが滑稽極まりなくなる上、噂そのものが根底から覆る。<br><br>「わたしは別に沙耶が居たって言ったんではないんだよ。でも、御滝の方にミズを取りに行った時にね、何処の子か分からなかったけど小さな女の子をちょっと見かけて、それが子供の頃の沙耶にちょっと似てた気がしたから、その話をしただけだのさ」<br><br>　それがそんなになっているのと小母はあっけらかんと言った。この件に関して二人ともどうということもないように、むしろ申し訳なさそうに微笑んでいた。<br><br>「これだもの、余計な気ばっかり遣わせてまって。おめがもっと確りしてればこったらごとにはならねんで」<br><br>　小父も呆れたように小母を見る。小母は苦笑した。<br>　わたしは呆気にとられていた。この話が本当ならば、いや本当なのだろう。だとすれば今回の沙耶ちゃんが現れたという話そのものが無かったことと同じだ。<br>　わたしは胸の奥でじわじわと消沈してゆく気持ちを感じていた。<br>　そんなはずは無いと思いながら、どこかで彼女がいるのだ、会えるかもしれないのだと思い込みたかったのかもしれない。<br>　だが、それはやはり噂でしかないと分かり、気が抜けてしまったのだろう。<br>　小父がそんなわたしの顔を見て言った。<br><br>「やっぱり知ってたんだべ。ほれ、こったに気ぃ遣わせて」<br><br>　小父が溜息をついた。わたしは弁解でもするように手を振り座布団に座りなおす。<br><br>「いや、違うんです。でも村で見たっていう話も聞きましたが」<br>「噂なんて尾ひれがつくもんだべ、恐らくそれもそうなんだべさ」<br>「じゃあ、やっぱり…」<br><br>　小父はくいと首を捻った。その先には仏壇がある。<br>　沙耶はそこにいる。<br>　小父は無言でそう言った。</p><hr name="6664237c-bc63-41d2-9e49-58d5507d5584" id="6664237c-bc63-41d2-9e49-58d5507d5584"><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/n787ab5194d58'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Mon, 03 Aug 2026 23:57:43 +0900</pubDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#14</title>
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      <description><![CDATA[<p name="9872380c-47b3-4ec7-a86d-8365ed74b0db" id="9872380c-47b3-4ec7-a86d-8365ed74b0db">　彼女はそのくらい兄を好きだった。<br>　そしてその思いは僅かに翳ることもなく、彼女が亡くなるまで続いていたはずだ。<br><br>「約束……破るなんて酷いじゃないか」<br><br>　頬を涙が伝うのを感じて目を開けると、辺りは暗さを増していた。<br>　どの位座っていたのか、携帯を開くとディスプレイの明かりがやけに眩しくて目を細めた。<br>　十八時前になっていた。夏場とはいえ山の中だ。空は明るいがもう日が山に遮られて周囲は暗くなっている。これ以上居ては帰路の道のりがままならなくなってしまう。<br>　残念ながら噂にまつわるようなことは何もなかった。<br>　いや、そもそもあるとは思っていなかったのだから予定調和でもある。<br><br>「帰ろう」<br><br>　岩の上に立ち上がった時だった。<br>　小さな波紋が揺れる御滝の滝壷の畔。<br><br>　少女が立っている。<br>　――ように見えた。<br><br>　わたしは刹那、周囲を見回したが、どこにも少女の姿は無かった。<br>　思い入れすぎて錯覚をしたというのだろうか。<br>　思い入れるにも程があると苦笑し、わたしはズボンを払い、再び藪の中へと足を踏み入れた。<br> <br> <br>　結局、御滝では何も起きなかった。<br>　当然だが沙耶に出会うなどということはあるはずも無い。<br>一体何を期待していたのかと思う反面、どこかでまだ納得のいかないものを感じていた。<br><br>「おう、こった端っぺりで主役がちびちびやってどうする。こっちゃ来いって」<br><br>　前庭に広げられたブルーシートの上では宴会が大いに盛り上がり、親戚のみならず近隣の者も混じって何だか分からぬ狂乱の様相を呈していた。あちこちで大笑が飛んでいる。<br>　叔父に引っ張られていくと、親父の正面へ座らされた。まるで御白州に引き出された罪人のような気分だ。<br>　まあ飲め飲めと脇からコップに麦酒を注がれる。飲み込む端から次が注がれる。それから暫くは結婚に至るまでの話をせがまれることになった。<br>　正美も引っ張り出されて、こんなののどこが良かっただの、婚約破棄してウチの息子の嫁に来ないかとか、気付けばわたしへの嫌がらせになり、その内わたしそっちのけで正美と話すことで盛り上がっていた。<br>　結局、酔いどれ達は話の筋を曲げまくって何処へ向かっているのかも分からぬまま、わたしとは関係の無いあさっての方向で別の筋を伸ばし、いつの間にか男衆は円座を組み、今後の農業についての論議を始めた。<br><br>　わたしはその場に居づらくなって席を立ち、兄の部屋へと向かった。<br>　社会人として独り立ちした私の部屋は既に物置になっており、泊まるどころではなくなってしまっている。<br>　それはわたし自身がそうしてくれと頼んだことだ。帰る場所があるという甘えを断ち切る為だった。<br>　兄の部屋はそのままである。いつでも戻ってこられるようにと母がそうした。父は大いに反対したが、母に泣かれれば何も言えなくなった。父も本当は戻ってくると信じたいのだということは何となくだが分かった。<br>　部屋は時折、母や祖母が掃除しているようで綺麗なものだった。<br>　本棚に並べられた本たちも、主が帰るのをそのまま眠って待っているようであった。この場所だけが時間を止めてしまったようでもある。実際、止まっているのかもしれない。<br>　いつも自分が膝を抱えて座っていた部屋の隅。押入れの前には何も無く、幼い自分を幻視して、兄はわたしをどういう気持ちで眺めていたのだろうかと考えた。<br>　部屋の真ん中に座ると机と本棚がすぐ目の前にあった。思っていたよりも狭い部屋だったのだなと実感しながら、風を入れようと窓を開けると、遠くで笑う声や話す男衆の声が聞こえる。<br><br>「どうしたの？　大丈夫？」<br><br>　振り返ると正美が心配そうに入口に立っていた。<br><br>「あぁ、大丈夫。酔っちゃいない」　<br><br>　正美の大丈夫？　は酔いを心配したのではないと分かってはいたが誤魔化すようにそう答えた。<br><br>「ここ、お兄さんの部屋？」<br><br>　正美はそっと隣に来て座った。<br><br>「どうした？　顔色が良くないんじゃないか？」<br>「うん、ちょっと頭が痛くて」<br><br>　正美がそう言う原因はアルコールではなく、きっと精神的に張り詰めていたのだろう。慣れない場所で疲れが出たといったところか。額に触れても熱はなく、むしろ冷たい。<br><br>「大丈夫だから、でもちょっとだけこのままでいたい」<br><br>　正美はしな垂れるように体重を預けてくる。わたしはその肩を抱いた。<br><br>「今日は何をしていたんだい？」<br>「えと、胡瓜とかトマトとか採ったり、お茶しながらお菓子たべて、あなたの子供の頃の話を聞いてた。トンボ嫌いなのね、知らなかったわ」<br><br>　そう言ってふふふと笑った。<br><br>「笑い事じゃないさ、正美はトンボに噛みつかれたことがないからそんな風に笑える。その時だって――」<br><br>　わたし達はしばらくそんな他愛も無い話をしていた。<br>　正美は、普段接していると仕事のできる有能なキャリアウーマン然としていて、さっぱりとした人付き合いをするタイプの女性だ。頼りがいもあるからよく慕われ、後輩や同僚、友人もことのほか多い。<br><br>　ただ、そんな彼女にも弱点はあった。<br>　付き合い始めて分かったが、彼女はとても怖がりであった。<br>　虫やお化けが怖いとかいうことではない。お化けは苦手ではあるのだろうが、そういう怖がりとは少し違っていた。<br>　精神的に少し弱い部分があるのだ。普段の陽気や強気はそれに負けまいとする彼女の強い意志によるものなのだと分かったのは、彼女と付き合って半年は過ぎてからのことだったろうか。<br>　それが本当の正美という女性の姿だと分かったとき、彼女のことをもっと好きになった。自分が少しでも支えてやれたらと思った相手は彼女しかいなかった。だからこそ結婚を決めたし、何より彼女の傍に居たかったのだ。<br>　しかし、今わたしは過去の記憶に惹かれてここにいる。そのことが正美にとってどれだけの負担になっているのか、ただでさえ結婚を控えた女性には精神的な疲労が出るし、マリッジブルーにもなるだろう。本当はこんな時こそ支えてやらなければならないというのに、わたしは自分の想いに囚われている。<br><br>「正美、聞いて欲しい。君には本当に感謝している。僕達は結婚するんだ。この先もしも君が嫌だと言っても、絶対に離れない」<br><br>　正美はきょとんとして吹き出した。<br><br>「なにそれ、変なの。でも今の言葉忘れないでよね」<br><br>　立ち上がると正美は伸びをした。<br><br>「さてと、では片付けをもうひと頑張りしてきますか。先に寝てて」<br>「体調良くないなら、お袋達に任せとけばいいのに」<br>「そうはいかないのよ、いいとこ見せなくっちゃ」<br><br>　無邪気に笑うのを見せられればこれ以上止めても仕方ない。<br><br>「無理はしないでくれ」<br>「うん」<br><br>　わたしは正美のいなくなった部屋で仰向けになった。<br>　電灯から伸びる長い紐は床近くまで届いている。その紐を引くと電灯は消え、淡いオレンジ色の光になった。<br><br>　そのまま暫く天井を見つめていた。<br>　格子状に組まれた天井。<br>　隅の天井の板がずれているようだ。<br>　そこには黒い三角形が見えていた。<br>　わたしは、あぁ天板がずれているな、と思った。</p><hr name="71e12d17-223d-4773-956b-40e46e44f2ed" id="71e12d17-223d-4773-956b-40e46e44f2ed"><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/n60020577d9fe'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 31 Jul 2026 22:28:33 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/nice_badger6169/n/n60020577d9fe</link>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#13</title>
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      <description><![CDATA[<p name="6c0204da-80f1-40bd-ac6c-7f25497e2a1a" id="6c0204da-80f1-40bd-ac6c-7f25497e2a1a">「あら、どうしてそう思うのかしら？」<br>「だって、沙耶ちゃんはそのうち村を出て行くって先生が」<br><br>　月が大きく見える夜。黄色く照らされた田園風景に小さな蛍の緑の光がふわふわ飛んでいた。<br>　そんな綺麗な夜に、わたしは彼女と縁側に座っていた。<br><br>「先生？　あぁ、勝田先生ね。どういう言い方したのかしら、困った人ね先生も」<br><br>　彼女は可笑しそうに微笑んだ。　<br><br>「それは私が大学に行くことになったら、寮に入ると思っているからよ。そのことで先生に相談したからだわ」<br>「寮？」<br>「そう。大学は村からだとちょっと遠いでしょ。だから寮に入りなさいって先生は言うのよ。その方が楽だし、交通費と比べたら寮に入った方が安いからって。でもそうすると村からは出なければならなくなるでしょ」<br>「やっぱり沙耶ちゃんいなくなっちゃうんだ」<br><br>　わたしは泣きべそをかいていた。小学校三年生くらいだったろうか。<br><br>「ほらほら男の子でしょ、泣かないの」<br><br>　沙耶ちゃんはわたしの頭を撫で、白くほっそりとした指で頬を伝う涙を拭ってくれた。<br><br>「ずうっと迷っていたんだけどね、大学には行かないことにしたのよ」<br><br>　わたしは彼女を見上げた。<br><br>「今って便利でね、通信教育でも大学生になれるんだから。だったらわざわざ大学に通わなくたっていいじゃない？　家の手伝いも出来るし、それにそのうち何処にいても何でも勉強できちゃう時代が来ると思うの」<br><br>　この時わたしは彼女が何を言っているのかよく分からなかったのだが、今にして思えば彼女は既に間もなく訪れるであろうネット時代を見据えていたのかもしれない。<br>　当時はまだパソコン普及率も低くインターネットどころではなかった。携帯電話でさえ無かった時代だ。山の中の村ならば尚のことだったはずだが、彼女はそういった意味でも先を見据えることができる聡明な女性だった。<br>　そのことに気付いたのは彼女が亡くなってずっと経ってからである。<br><br>「それにね、私には夢があるんだ」<br>「なに？」<br>「んー、どうしよっかなぁ。恥ずかしいから教えてあげない」<br><br>　彼女は小さく舌を出した。<br><br>「えー。なんでー」<br>「そうねぇ、じゃあ誰にも言わないって約束できる？」<br>「うん、約束する」<br>「絶対？　お兄さんにも言っちゃ駄目よ」<br>「兄ちゃんにも？」<br><br>　わたしは嬉しくなった。<br>　彼女にとって最も近しいはずの兄にも内緒の話を自分にしてくれる。それは自分が彼女にとって特別なのだと感じられたからだ。<br>　二人だけの秘密を持つことがこの上なく嬉しかった。<br><br>「そ、兄ちゃんにもよ」<br><br>　悪戯っぽく彼女は笑うと、蛍の舞う田園の暗闇を見つめた。蛍光が不規則に線を描いて明滅を繰り返す様子はまるで闇夜の天国のようだとわたしは思った。<br><br>「私ね、あなたのお姉さんになりたいの」<br><br>　彼女は恥ずかしそうにそう言った。わたしは首を傾げる。<br>もの心ついたときから沙耶ちゃんは姉だった。なのにお姉さんになりたいと言う彼女の言葉はよく分からなかった。<br><br>「本当のお姉さんになりたいのよ。あなた達と本当の家族になるのが私の夢」<br><br>　この言葉の意味を当時のわたしが理解など出来ていよう筈が無い。<br><br>「じゃあ大丈夫、ぼくたち家族だもの！」<br>「そう？　ありがとう」<br><br>　そう言って彼女はわたしの頭を撫でてくれた。<br><br>「だから私は、何処にも行ったりしないから。誰にも言っちゃだめよ、約束の指きり」<br>「うん、言わないよ」<br><br>　指を絡めた彼女の肌はひんやりと冷たい感触だった。<br><br>　蛍がひらりとやってきて、絡めた指に止まろうとした。<br> </p><hr name="37b279ab-7ad0-49a2-abff-4a99ed43187f" id="37b279ab-7ad0-49a2-abff-4a99ed43187f"><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/nc3e53b2bccf3'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Thu, 30 Jul 2026 20:12:17 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/nice_badger6169/n/nc3e53b2bccf3</link>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#12</title>
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      <description><![CDATA[<p name="0f882c04-301d-4665-bdcd-5ea8f30df440" id="0f882c04-301d-4665-bdcd-5ea8f30df440">　村を円で表すと、南東部に村の入口や村役場があり、実家は北東部に当たる。北側は山に囲まれていて、円の中心を縦断するようにくねくねと生霧川が流れている。川の周辺には田園風景が広がり、西端には生霧神社がある。<br>　小中合同となっている学校は村のほぼ中央にあり、当時の村長が村の子供達がどこからでも通いやすいようにとの配慮で建設されたという。<br>　村では最も新参となる遠野家は南西の村はずれにその家がある。村の端から端までは凡そ四キロはあるだろうか、その距離をほぼ毎日のように沙耶ちゃんは家まで来ていたのだからご苦労なことだと思うが、彼女は原付に乗っていたのでそれほど苦痛でもなかったのかもしれない。<br>　村の移動は自転車か車が一般的なのだが、久しい村の風景を満喫する為に歩いた。<br>　空は高く青い。巨大な入道雲に光が反射し真っ白に輝いているのが遠くに見える。山から吹き降りてくる風には、田舎独特の自然味溢れた緑と土の匂いが混じっていて心地良い。田圃の畦道脇にある水路がちょろちょろと鳴る。水の音を聞いていると、帰ってきた、そう思えた。<br>　ねじ巻きのおもちゃのように蝉の声が周囲に響いている。時折、鳶が笛を吹くように鳴くのが聞こえたが、その姿は見えなかった。ぐるりと周囲を見回せば景色は多く田園風景で、育ってきた稲が緑の穂を揺らし始めていた。<br>　西に向かった。<br>　村の中心を通る主道は舗装されているが、古くなりアスファルトがひび割れたりしている。主道を村の中心に向かって進み、暫くすると川にぶつかった。<br>　生霧川だ。<br>　そこから川に沿った小道が北へと伸びていて、その道を山の方へと進んでゆく。<br>　川に沿って進むと程なく前方に林が現れ、トンネルのように周囲を覆い始める。そこへと入り込み木陰になると幾分涼しくなった。木漏れ日のちらちら降る中を進む。<br><br>　深緑が周囲に満ち、隙あらば押し寄せてきそうな雰囲気は進むにつれてその度合いを増して圧しかかるように鬱蒼としてくる。周囲にシダや苔が増えてきて空気も湿り気を帯びてくると御滝は近い。その辺りまで来るとロープが張られているのが見えた。黄色と黒のロープ、脇には『立ち入り禁止』という文字が書かれた看板が杭で立てられている。<br>　正直、この先に踏み込むのは気が引ける。この先で沙耶は亡くなったのだ。<br>　それでも、最近新調されたらしいロープをくぐってわたしは御滝へと向かって踏み出した。<br>　そこから先は更に鬱蒼として道の体を失い始める。蔦や伸び茂った繁みを掻き分けながら進む。少しだけ傾斜した道であったらしい跡を登りきると汗はびっしょりと体中を濡らしていた。<br>　正美は連れてこなくて正解だった。こんなにも険しい道になっているとは思っていなかった。自分にしてもあまりに軽装であちこちに擦り傷や切り傷が出来ている。きっと途中の葉っぱや蔦などでやったのだろう。虫だって多いし蚊にも刺されている。<br>　そこから更に進むと遠くの方から、ざざという音が聞こえてきた。<br>　以前よりも明らかに茂っているシダ草を払い進むと道の先が開けた。<br><br>　御滝である。<br><br>　高さは約八メートル、垂直に近い角度でそそり立ち、蔦を走らせる黒っぽい岩壁は横に長く伸びていて、それを両断するように水が落ちている。<br>　滝壺の幅は凡そ十五メートル。深さもそれなりにあって一番深い場所では三メートルはあるのではないかと思うが、あくまでこれは幼少の記憶からの推測である。滝壺の周囲には大きな岩もちらほらと転がっているが、殆どは砂利か砂礫で囲まれていて本来は比較的安全な場所である。<br>　わたし達も子供の頃、夏の時期はよく泳いで遊んだものだ。魚の姿も見えて楽しいのだが水温が低いのであまり長くは浸かっていられなかった。<br><br>　御滝は記憶にあるそれとは大きく違わぬ姿でそこにあった。<br>　ただし、薄暗い膜が一枚張られたような印象がある。それは思い込みのようなものなのかもしれないが、やはり何らかしら空間に漂う違和感はあった。神秘的で静謐なようでもあり、禍々しい何かが潜む張り詰めた緊張感のようでもある。幼い頃に遊んでいたとは思えないほど、今はもっと強くその雰囲気を感じた。今は泳げと言われても泳ぐ気にはなれない。滝の生み出す波紋の下には何かよく分からないものがいて、足を入れた途端に引きずり込まれるのではないかという不安にさえ駆られる。<br><br>　臆病になったのかもしれない、そう思うと僅かに苦笑した。<br>　御滝を覆うようにして茂る木々はまるで天蓋のようにドーム型の空間を生み出していた。昔はもっと空が見えていたと思う。今は見上げれば、ちらちらと木漏れ日が瞬くプラネタリウムのように見えなくもない。薄暗い中に光の雨がそっと降っているような趣である。<br>　わたしは滝を正面から見ることの出来る位置にある大きめの岩に腰掛けた。この岩もまた黒っぽい。ところどころ白くキラキラとしているから玄武岩であろうか。昔もよくこの岩に登って辺りを見回したものだ。あの頃よりも辺りは苔むしている。<br>　岩に触れると真夏であるにもかかわらずひんやりとした。細かなしぶきが舞っているのもあって僅かに湿り気がある。周囲に漂う冷たく湿った空気を肺いっぱいに吸い込み、深呼吸した。そのまま目を閉じて修行僧のように心を静める。<br>　水が岩を伝い降りる音、岩を叩き弾ける水音、水と水がぶつかり混ざる音、雫が落ちる音、溢れ出した水が川と成って下ってゆく音、そして一際大きく、止まることなく流れ落ち爆ぜる飛沫に彩られた滝の音。周囲に満ちるあらゆる水の音たちに浸る。<br><br>　あの日、彼女は何故この場所に来たのだろう。<br><br>　あの日、彼女がこんな所に来た理由はなんだったのか答えを知る者はいない。ここへ来なければ彼女が死ぬことはなかったはずだ。命と引き換えにしてまで彼女はなにをしようとしたのだろう。<br>　もし彼女に会えるのならそれが幽霊でもなんでも構わない。わたしの目の前に現れてくれさえすればそれでいい。もう一度だけでも構わない、その為にわたしは来たのだ。<br><br>　しかし、どれだけ待っても彼女が現れる気配はなく、ただひたすらに想像を繰り返すだけだった。わたしがいくらこうやって想像したところでそれは想像の産物でしかなく、彼女の心とは程遠い。ならば分かろうなどというのは傲慢である。わたしたちがすべき、否、できることと言い換えるべきだろう。それは、彼女を忘れず、愛し続けることだけだ。<br>　ただ一つだけ彼女が最後に何を考えたのかだけには確信的なものがある。<br>　それはわたしの希望や願望とも言えなくは無いのだが、それでもきっと、水に飲まれ、沈み行きつつも彼女の中にはある人物の顔が浮かんだはずだった。<br>　これだけは村中の誰もが疑わずにそう思ったはずだ。<br>　彼女は、兄を想ったはずだった。</p><hr name="a61dd247-b2d8-4d96-92b3-5f58b888bf67" id="a61dd247-b2d8-4d96-92b3-5f58b888bf67"><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/nb0fb7713d937'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/276408409/profile_557bb15dd379412281f9c3ebd675b9df.png?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 26 Jul 2026 23:34:46 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/nice_badger6169/n/nb0fb7713d937</link>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#11</title>
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      <description><![CDATA[<p name="fbcfad16-0344-413e-b157-b76e90a42575" id="fbcfad16-0344-413e-b157-b76e90a42575">　古びた玄関の右手には縁側が伸びている。廊下の雨戸は開け放たれ、そこにはザルに乗せられた梅干が日干しにされているのが三つほど見える。<br>　家の隣にある倉庫から祖母が出てくるのが見えた。腰は曲がりつつあるが八十を越え未だに矍鑠としている。祖母はわたしに気がつくと嬉しそうに笑った。<br><br>「ただいま、ばあちゃん」<br>「よく来たの、あっついから中にへぇってお茶っこでも飲みなさい。正美ちゃんもよく来たの、遠くて疲れたべ」<br><br>　わたし達は促されるまま裏口から入った。<br>　表玄関はあるのだが、主に客用で家の者は大体台所に直結する裏口から出入りする。裏口とは言っても土間があるから十分広く、昭和になって改築され表玄関ができるまではこちらが玄関として使われていた。竈もあるが年末年始の賑わい時くらいにしか使ってはいない。框に腰掛けたところへ母がやってきた。<br><br>「いらっしゃい。正美ちゃん疲れたでしょう、ゆっくりしていってね」<br>「ご無沙汰しています。あの、これお土産にと思って」<br>「あらあら、立派なお干物。夕食に焼きましょ。ありがとうね」<br><br>　土産は正美の実家から送られてきた魚の干物だ。昨日たまたま送られてきたので持ってきたのだが、肉厚で確りしたものだ。沼津にいる知り合いの繋がりということだった。<br><br>「おいしそうね、この鯵。そうそう、二人が来るからって西瓜を冷やしておいたのよ。裏で冷やしてあるから、あんたちょっと取ってきてよ。御母さんは休んでいてくださいな。正美ちゃんはほらほらこっちに来てお座りなさい、扇風機あるから」<br><br>　言われた通りわたしは外に出て裏側に回る。<br>　裏には杉林があるのだが、その手前に小さな川がある。川幅は一メートル程度の浅い川で、渡るための小さな橋がかかっている。その脇の辺りに黄色い買い物かごが沈んでいて、その中に西瓜が見えた。西瓜以外にトマトと胡瓜も浮かんでいる。わたしは西瓜を取り上げて軽く叩いた。ぼんぼんとよく身が詰まった音が聞こえた。<br><br>「ところであなた、この後どうするの。何か予定でもあるの」<br>「予定って程じゃないけど、ちょっと行こうと思っているとこがある」<br><br>　西瓜を頬張りながら、庭から先に伸びる田圃の緑を眺めていた。祖母はお腹をこわすからと一切れでやめた。よく冷えてはいるが味は例年より薄い気がした。正美はおいしいと言って時々塩を振りかけている。<br>　沙耶ちゃんの話を訊くには家族はうってつけではあるのだが訊くつもりは無かった。彼女の話をするということは、結果として兄の話をすることになってしまうからだ。<br>　兄の話は暗黙のうちに禁句となっている。母と祖母は悲しみ、父は怒る。本当は父こそが誰より悲しんでいることを皆知っている。父は長男である兄に対して並々ならぬ愛情を注いでいた。それは傍から見ると過剰に厳しく見えたかもしれないが、兄を一人前にしようという父なりの愛情であったし、それは兄自身もよく分かっていたから文句一つ言わなかった。二人の間には見えない絆が間違いなくあったはずだった。<br>　だが、兄は居なくなってしまった。<br>　何故なのか、どうしているのか誰も知らない。<br>　苦しんでいたのなら、悩んでいたのなら、せめて話して欲しかったと父は思っていたのだろう。だが、あると思った絆が不確かになり想いが歪むと父は兄を拒絶した。それから父は兄の話をすると怒り出すようになった。それが分かっているから家族は誰も何も言わなくなった。悲しみにしかならないならば話すことは止めよう、そう考えるようになった。<br><br>「お父さんも夜には農協の集まりから戻ると思うから。あと朝子義姉さんと夏子ちゃんもあんた達が来るって言ったら顔を出すって。多分康介さんも来るわね」<br>「康介さんも……」<br><br>　康介さんは夏子叔母さんの旦那さんだが、酒が入るとやたらと説教臭くなる。一昨年の盆だが、親戚のそろった中で捕まり延々二時間も説教をされたというのは忘れられない出来事である。<br>　祖母が倉庫から大きなブルーシートを引っ張り出してくるのが見えた。これを外に敷いて騒ぐのが伝統の宴会スタイルだ。あとで自家発電用のモーターを引っ張り出すのは多分わたしの仕事になる。<br>　西瓜を食べ終えたわたしは出かける準備をした。<br>　目的地は噂の出た御滝である。<br>　一人で行ってくると告げると正美は了解した。元々そのつもりだったのだろう。正美は母の手伝いで畑に出るのだと言って借りた農作業用の服に着替えて出て行った。都会的な風貌にはやはり着慣れぬぎこちなさがあったが、それはそれで当人は楽しそうだった。<br> </p><hr name="d7044bdf-7622-43f3-b48d-b14d3c0274d3" id="d7044bdf-7622-43f3-b48d-b14d3c0274d3"><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/ndb2ae3980018'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Sun, 26 Jul 2026 23:06:15 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/nice_badger6169/n/ndb2ae3980018</link>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#10</title>
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      <description><![CDATA[<p name="e55ab424-158d-4e2c-a9fe-c47ebc9588d0" id="e55ab424-158d-4e2c-a9fe-c47ebc9588d0">　あれから十年だ。<br>　早いものだと思う。わたしは大学を卒業し、広告代理店に就職して激流のように流れていく多忙な日々に押し流されていった。<br>　今、電車に乗りながら隣で眠っている正美に出会い、五年間付き合ってようやく結婚という区切りにまできた。<br>　思い出は多いが歳を経るにつれて時の流れは加速度的に進んでいるような気分にさえなる。「時の流れは個人で違う」と言った兄の言葉を聞いたのも、つい昨日のように思えるというのに。<br><br>　実家へと向かう電車に揺られ、兄は今どうしているだろうと車窓から見える田園風景をぼうっと眺めていた。<br>　実家近くの駅まではまだかなり遠い。<br>　県庁のある駅からは私鉄に乗り換える。大都会とは雲泥だが乗換駅の周辺には思ったよりも人が多かった。<br>　駅前は開発で妙にこざっぱりとした印象に変わっていて、大学に通っていた頃の木と緑の多かった古びた町の印象は失われてしまった。<br>　それでも二両編成のローカル線に乗って走ると小さなビルの並ぶ町並みはすぐに途切れ、かつて知る見慣れた田舎の風景へと変わる。都心ほどではないにせよ昔と比べれば電車の本数もずっと増えた。<br><br>「緑がきれいね。前のときは緊張して景色もろくに見られなかったから」<br>「あの時は冬だったから余計だろうね」<br><br>　帰省は両親に結婚報告に来た時以来だから、半年程しか経っていない。<br>　だから懐かしいというノスタルジックな感傷はあまり無い。<br>　ただ、その時も多忙なスケジュールの合間を縫って訪れたのでゆっくりする余裕もまた無かった。どこかで時間をとって正美に色々な場所を見せてやりたいと思うがそれはもう少し先のことになりそうだった。<br><br>　市外部から村はずれの駅までは四十分程かかる。<br>　距離はそう遠くはないのだがローカル線である為ことの他遅い。それでも余程の急ぎでなければ風景を満喫しながらゆっくりとは出来る。<br>　近年では希少性が出てきているせいか撮り鉄が線路沿いでカメラを構える姿なども見えるようになった。<br>　見慣れた風景が顔を現すようになって来た頃、電車はようやく駅に到着した。<br> <br>　わたし達は電車から降りて実家のある村への道を歩き始めた。<br>　この時期は特に山の日差しが強く、それらを避けるように木陰を選んで進む。陽炎と蝉の声は暑さを妙に助長させた。それでも木々の騒めき、緑の草や土の匂いは心を落ち着かせてくれる。<br><br>　近年村もその姿を徐々に変化させてきていた。<br>　古びた家々はいくつも建て替えが進み、歴史を感じさせる古式建築の家屋はその数を着々と減らしている。代わりに近代的なデザインの戸建てが建ち、緑の中に都会的な意匠が差し込まれていく。住む人間からすれば便利になった方がいいのだからそうなる事は当然であるのだが、わたしにはどうもそれが不協和音に感じずにはいられなかった。<br>　これも時の流れであり世代交代なのだろうと思う。自分が家を建てることになってもきっと同じような家を建ててしまうのだろう。<br>　村入口にほど近い畑で農作業をしていたほっかむりの男がわたしに気付いて声をあげた。<br><br>「おぉ、久しぶりだずなぁ。隣の別嬪さんは噂のお嫁さんだが？」<br>「お久しぶりです。まだ婚約者ですけどね」<br>「初めまして、正美と申します」<br><br>　正美は隣で頭を下げる。作業の手を止めた日焼けた老人はほっかむりを取りながらわたし達の傍まで上がってきた。畑は道から一段低い場所にある。<br><br>「そういえば重松さん、お孫さんもうそろそろでしたよね」<br>「おう、もうじき臨月だ。なにせ初孫だからなぁ、ウチのはもうさおりちゃんに付きっきりでよぉ、畑仕事もおらに全部任せっちまって向こうと行き来ばかりでのぉ、大忙しだ。木偶息子にゃあ帰ってこいってへってらんだが忙しいの一点張りでの」<br><br>　彼の息子である滋はわたしの三つ下の幼馴染の一人だ。<br>　小さい頃はもやしっ子だったが、今はエンジニアの仕事をしていて室内に閉じ篭り、やっぱりもやしっ子だ。PC関連で困ったときはいつも助けてもらっているから未だに親交は深い。<br><br>「滋の嫁さんはしおりさんですよ。いい加減覚えてあげないとかわいそうでしょうに。そう言えば滋とこの間、電話で話しましたけど、帰ろうかと思っている風なことを言ってましたよ。」<br>「んだってが？　あいつは農家舐めてやがるからなぁ、戻ってきたら性根叩き直してやる」<br><br>　そう言って腕まくりする様は口調に反してやけに嬉しそうだった。<br>　そこでふと噂について聞いてみることにした。村ではどれほど広がっているのか知りたかった。<br><br>「ところで重松さん。最近おかしなことってありましたか？」<br>「おかしなこと？　なんだそりゃ。こった辺鄙な村になんてそうそう……ん、そういやウチのがなんかへってらったか。なんだったか」<br><br>　重松さんは首をかしげ、日焼けした顔を空に向けた。そのうちに、ぽんと一つ手を叩いて人差し指をわたしに向けた。<br><br>「あれだ。見なれねぇ女ってのが村を歩いてたってんだ。そったもん、だから何だってへったんだが、ありゃ亡くなった遠野のとこの娘に似てたってへるのせ。遠野んとこだば娘亡くして大分経つが滅多なことはへるもんでねぇと注意したのよ。おらはそんなもん見てねはんでの、きっと何かの見間違いだってそうへったのう」<br><br>　そこまで言って重松さんは正美を一瞬見て気まずそうにわたしを見た。<br><br>「つい話しちまったがの、遠野の耳に入ったら、分かるべ。だからおめんどもこの件は口にするもんでねぇはんでの」<br>「大丈夫、言いませんって。それに」<br><br>　何かに気付いたらしい重松さんはより表情を暗くし小さく頷いた。<br><br>「そういやそんだな、遠野もんだが、おめぇんどこもの……。まぁ、そったのはただの噂だはんでな。あまり気にするもんでねして、それよりもゆっくりしていげな。千恵子ちゃんも喜ぶべさ」<br><br>　そう言ってわたしの肩を叩いた。千恵子はわたしの母の名だ。<br><br>「ええ、そろそろ行きますね。また」<br><br>　家に向かおうと踏み出すと重松さんが「あとでトウキビ持ってぐはんで」と叫んだのでわたしは手を挙げて応えた。<br>　それにしてもいきなりこの話が出るのかと、そう思った。<br>　わたしははっとして正美を見た。来て早々あんな話を耳にしたら怖がってしまうかも知れない。しかし意外なことに正美にそれを気にした様子はなく、周囲の景色をぼうっと眺めていた。わたしの様子に気がついた正美は「なに？　どうかした？」と不思議そうな顔をした。もしかしたら話を聞いていなかったのかもしれない。<br><br>「いや、なんでもない」<br>「遠野さんの娘さんって、章正さんが言っていたっていう？」<br><br>　ちゃんと話は聞いていたらしい。<br>　遠野は彼女の姓である。<br>　章正から聞いた噂では沙耶は御滝に現れたということだったが、今の話はちょっと違っていた。噂が流れるにつれて変形することはあることだがこれもその一種だろうか。<br>　しかし、沙耶を見たという部分は変わっていない。<br>　御滝で彼女を見た者と、村で見た者とは別人の可能性が出てくるが、そうなると複数の人間の証言が出ていることになり一つの噂がただ拡大していくのとは少々様子が違ってくる。<br><br>　何よりも疑問なのは、さして広くもないこの村で広がる程度の噂で彼女が現れた場所まで大きく変化するだろうか、ということだ。<br>　御滝はこの村に住むものなら誰でも知っている場所、しかも沙耶が亡くなった場所でもある。<br>　だからそう簡単に変化してしまうとは思えなかった。ならば御滝の話と村の話は別だと考える方が正しいのではないだろうか。<br>　正美に遠野家のことを簡単に説明していると、すぐに実家の前まで辿り着いた。</p><hr name="fbc1a9bf-29d8-4b28-8ca5-8cf921773d56" id="fbc1a9bf-29d8-4b28-8ca5-8cf921773d56"><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/n918f6e2a9f5e'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 24 Jul 2026 01:42:42 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/nice_badger6169/n/n918f6e2a9f5e</link>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　＃９</title>
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      <description><![CDATA[<p name="0b972266-d128-4a06-b67c-6f0e36cca83e" id="0b972266-d128-4a06-b67c-6f0e36cca83e">　入道雲が力強く盛り上がり、真っ青な空には大きな円を描くように鳶が回っていた。空気が透き通っているのを実感しつつ深呼吸をする。　木や草の匂いがする。林を縫うように吹く涼しい風が僅かに浮いた汗を冷ましてくれているようだった。<br>　蝉時雨がその時も辺りに降り注いでいた。<br><br>　当時、わたしは大学が休みに入り、寮から戻って久々の実家を満喫していた。<br>　実家は古民家というほど立派な合掌造りでも何でもない、ただ古臭いだけの木造建築だ。朽ちていく部分から改築を繰り返し、近代建築の侵食を受けた家には古の日本の誇りは感じられない。残された歴史を感じさせる柱だけには黒光りするような照りがある。<br>　隙間風が幾らでも入ってきそうな家だったが、いや実際入ってくるのだが、やはり落ち着く。そんな慣れ親しんだ空間は妙に心を安心させてくれた。これが実家の良さかと家を出て気がついたのを覚えている。青い空に入道雲が山脈の尾根のように広がっていた。<br><br>　その日、兄は早朝からどこかへ出かけて姿が見えなかった。<br>　わたしは何だか妙な疲労感が全身に満ちていて部屋で横になっていた。きっと身体のせいではなく精神的なものだったのだろう。窮屈な寮の生活から実家へ戻ったことで安心したのかもしれない。<br><br>　どのくらい経っただろう、俄かに広がる奇妙な気配を感じて目を開けた。<br>　外はいつの間にか酷い雨空になっていた。<br>　予報のとおりで真っ黒な雷雲が広がっている。雷鳴と降り注ぐ雨が激しかった。<br><br>　家の外を車が走る音が聞こえた。日も落ちかけて更に暗くなった窓をヘッドライトの明かりが横切る。<br>　車は家の前で止まったようだ。ざわざわとした声が遠くで行き交う。<br>　その声には異常な気配がまとわりついていて、内容はまったく聞き取れないのだが途端に心臓が早鐘を打ち始めた。<br><br>　わたしは「なんでもないさ」と自らに言い聞かせて鼓動を落ち着かせようとした。きっと訪れた客が急な雨の強さに興奮しているだけだ。<br>　そういえば大きな音がした気がする。もしかしたらどこかに落雷があったのかも知れないとも思った。<br>きっとわたしは単に不安から勝手に勘違いをしているだけなのだ。これまで嫌な予感など当たった験しはない。<br>　<br>深呼吸をし、大きな雨粒が世界を叩いている窓外の喧騒を追いやり、再び目を閉じようとした。<br>　しかし、それは家の中を小走りに駆け近づく音に邪魔されてしまう。<br>　部屋へと近づく小走りの音が聞こえて、母が襖を開いた。<br><br>「大変だよ！」<br><br>　感じた不安の正体。<br>　その訪れを知らせるには十分すぎるほど悲痛な母の顔がそこにあった。<br> <br> <br>　わたしと母は連絡をくれた村役場の田所さんの車に乗って病院へと急いだ。<br>　病院に着いてわたし達を迎えたのは、霧状の鉛が周囲に漂っているような鈍重な空気だった。<br><br>　彼女の両親が廊下の長椅子に座っていた。<br>　父親は握り潰してしまいそうなほどに頭を抱えてうずくまり、母親は魂が抜けたように虚空を見つめていた。その脇で二人を見守るようにして村長が立って父親の肩に手を置いていた。<br>　その他にも数人がいて、女性衆は母親の手を握っていたり、身体をさすってあげたりしていた。<br>　村長はわたし達に気がつくと痛々しい表情で「やっと落ち着いたんだ」と言った。母親がかなり取り乱したのだろう。瞳は真っ赤になり、目元も腫れ、顔色は青を通り越して真っ白だった。父親の手が力みで震えているのが見え、必死に耐えているのが分かった。その姿のあまりの痛々しさにわたしは目を逸らした。<br><br>　わたしも場の空気に当てられ血の気が引いていくのを感じた。<br>　まるで時間が止まってしまったように空間は緩慢に変わっていく。どれだけの間その廊下に立ち尽くしていたのか覚えてはいない。そのうち彼女の父親が顔を上げ、私達のほうを見た。その紅く哀しい瞳は生涯忘れることは出来ない。今でもはっきりと思い出すことが出来る。<br>　彼は力なく立ち上がるとゆっくり扉に近づいて言った。<br><br>「沙耶に、会ってやってけろじゃ」<br><br>　これはきっと何かの間違いで、悪夢か何かだ。必死にそう言い聞かせるのだけど、思いに反して突きつけられる現実と恐怖に、わたしは竦んで動けなかった。それでも母が腕を掴んで引くものだから一歩、また一歩と開かれた扉の方へと近づいていった。<br>　もう何が何だか分からなくなっていた。<br>　自分がなんでこんな所にいて、何をしにきて、何をしようとしているのか。<br>　何故自分は開け放たれた扉に向かっている？<br>　何故向かわなければならない？　<br>　そこに一体何がある？<br>　一体何を見なければならないのだというのだ？<br><br>　その部屋にあるものが現実であれ夢であれ、見なくもないものを見る必要がどこにあるというのか。<br>　嫌なのに。<br>　そこには行きたくないのに。<br>　心では強く拒否しているのに身体が言うことを聞いてはくれない。<br>　手にも足にも力は入らず、ただ母に引かれるままに廊下を進む。<br>　ほんの数メートルの距離だったはずだ。しかしその時のわたしにはそれが千里の道に感じたし、見えてもいた。それでも実際は数メートルの距離、簡単に辿り着く。<br><br>　部屋に近づくにつれて次第に大きくなる心音は激しく脈打ちわたしを揺さぶる。その拍動に合わせて視界が揺らぎ、廊下を見やると彼女の母が、取り囲む皆が、村長が歪んで見える。顔を戻せば扉の前の彼女の父が歪み、腕を引く母の後ろ姿が歪む。そして、徐々に見えてくる部屋の中は斑に絵の具を何色も混ぜたように歪む。<br>　世界が撹拌されるような、酩酊しているような不快感に耐えられず、母に引かれる腕を思い切り振り払おうとした時だった。<br><br>　わたしの視線は一点で釘付けになった。<br>　それと同時に歪んだ景色は消し飛び、見えなくなった。<br><br>　わたしの視界に映ったのは、真っ白なシーツをかけられ眠っているように横たわっている沙耶らしき人の姿だった。<br><br>らしき、そう表現したのは顔にかけられた白布のせいで顔が分からなかったからだ。<br>　母を追い抜き、わたしはゆっくりと横たわる女性の近くへと寄った。女性だと分かるのは身体を覆う白布の胸元が隆起しているからだ。その周囲にも数人の村人の姿があることにやっと気がついた。<br><br>　わたしはそっと顔にかけられた白布に手をかけた。<br>　幾度もの逡巡を繰り返してゆっくりと布をめくった。<br><br>　スローモーションのようにめくれた布の下から現れた女性の顔は嘘のように静かに、人形のように美しく目を閉じて眠っているようだった。<br>　悪い魔女の呪いをかけられた眠り姫のようで、呪いが解ければ目覚めるのじゃないかとさえわたしには思えた。<br>　隣にいた母が崩れ落ちそうになって慌てて支えた。母は幾度も繰り返す。「沙耶ちゃん、沙耶ちゃん」と。<br><br>　わたしはその言葉が嘘だと思った。<br>　なんで泣いているの、こんなに綺麗なのに。死んでなんかいるもんか、だってこんなにも静かに眠っているのだから目覚めないはずが無い。きっと当たり前のように起き上がってそっと目を開き、眠そうに目をこするに違いない。<br><br>　そうだろう？　わたしは同意を求めるように周囲を見回す。<br>　しかし誰一人としてわたしに同意する者はいなかった。<br><br>　死んでいる、のか？<br><br>　母の涙が証明し、意味するように目の前にいる眠り姫は死んでいる？<br>　周囲に響くすすり泣きと押しつぶされそうなほどの沈黙が圧し掛かってくる。<br>　このベッドの上で横たわり、静かに眠っているようにしか見えないこの女性の目が開かれることなど無いというのか。<br>　この人が、沙耶が死んでしまったのだと皆は認めてしまうのか？　</p><p name="b4cc478a-134c-44b2-92fb-5a326e80b6ef" id="b4cc478a-134c-44b2-92fb-5a326e80b6ef">　幼き日よりこれまで共に遊んだ。<br>　共に笑った。<br>　時に怒ってくれた。<br>　時に慰めてくれた。<br>　友達であり、姉と慕い、愛した女性だと。<br>　沙耶ちゃんなのだと、沙耶ちゃんが死んだと皆は言うのか。<br><br>　わたしは母を座らせて振り返るとその顔を見る。<br>　間違いなく沙耶ちゃんだった。<br>　そして、彼女は死んでしまったのだ。<br>　もう二度とその目を開けることは無い。<br>　もう二度と彼女に会うことは出来ない。<br>　あの声を聞くことも、優しく頭を撫でられることも、穏やかに微笑んでくれることも、もうこの先には二度とない。<br><br>　ない？　ない？　<br>　嘘だ。嫌だ。嫌だ。<br>　嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ<br>　いやだいやだいやだ<br>　やだやだやだやだいやだあ<br><br>「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」<br><br>　叫び声が遠くで聞こえた。<br>　それが自分のものだと、その時の自分には分からなかった。<br>　涙が、とめどなく溢れ出してわたしは沙耶の腕を掴んだ。<br><br>　冷たい。<br><br>　そのあと何をどうしたのかおぼろげで覚えていない。<br>　誰かがわたしの身体を押さえているような感触も、まるで現実味の無いどこか遠くのことのようだった。<br>　<br>　<br>　時間感覚は無くなっていた。<br>　落ち着きを取り戻したわたしは、先ほど彼女の父親が座っていた場所で同じように頭をうな垂れていて、隣には母が寄り添っていた。<br>　顔を上げると遺体の周囲には村人が集まり、涙して慰め合っている姿が見えた。彼女の両親は彼女の横に座って、頭を撫でたりしていて、その目には愛おしさが満ちていた。<br><br>　音は無かった。<br>　しかし、入り口の方から誰かがやってくる気配を感じて振り向く。<br>　そこには見た事もないほどボロボロに、ずぶ濡れた兄の姿があった。<br><br>「に、兄さん」<br><br>　わたしは立ち上がろうとしたが、わたしのことを見るでもなく兄は無言でわたしに掌を向けた。まるで、黙れ、とでも言うように。<br>　兄はどう感じていたのか。<br>　最初の自分のような心境だったろうか？　だがその歩みは一寸の迷いも無く、躊躇いなど存在しないように正確にリズムを刻み、沙耶の眠る部屋へと入って行った。<br>　その姿を見た村人達は息を呑んだ。<br>　兄のそんな姿はこれまで誰も見た事が無かったのだ。<br>　そして一様に同情、哀れみ、慰め、様々な想いの入り混じった視線を兄に向けた。十戒のモーセが現れたかのように人波が割れ、沙耶の元へと一本の道が開いた。<br><br>　それまでわたし達は兄の悲痛を思い、なんと声を掛けるべきか、どうするべきかを必死に考えていた。彼女を取り囲む村の人間は皆悲しみに咽いでいた。誰もが兄の様子を伺い兄の心を支えてあげなければならないと考えていた。自分達の哀しみよりも優先されるほど兄が心配だったのだ。それほど二人の繋がりは強く誰の目にも見えていた。<br><br>　兄は彼女の真っ白な頬をそっと撫でた。<br><br>　それだけだった。<br><br>　兄は、興味を失ったかのように彼女の遺体にくるりと背を向けてその場から居なくなってしまった。<br>　その様子に村人は戸惑いを覚えたが、誰かが「今はそっとしてやれ、あいつが一番辛いんだ」そう言ったので納得した。<br>　わたしは遠ざかってゆくと共に涙でぼやける兄の背をただ見送った。</p><br/><a 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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 17 Jul 2026 11:52:42 +0900</pubDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　＃８</title>
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      <description><![CDATA[<p name="96590e6e-335e-4c00-9ef5-4f9090a38982" id="96590e6e-335e-4c00-9ef5-4f9090a38982">この歳になるまで生きてきて、わたしの得た結論。<br><br>『幽霊は生きている者の内にこそ生まれる』<br><br>　幽霊など存在しない。だが、いる。<br>　亡くなってしまった人を想い、生きていて欲しい、生きていてくれたら、きっとこう思っているだろう、ああ思っているだろう、そういう生きた者たち、残された者たちが思い描くそれらの想いを形にしたものこそが霊なのではないだろうかと思う。<br>　だから、あらゆる宗教において死者をあの世へと送ったのだという説得が、残された者たちには必要だ。<br><br>　亡くなってしまった。<br>　葬儀を行い、弔う。<br><br>　念仏や祈り、別れの儀式をもって人々はかの魂が天に昇り、この世から離れ、あの世へと旅立つのだと納得させる。そうして初めて人々は愛する者たちの死を受け入れ、大切なものの欠けた世界を耐えて生きていくことが出来るようになるのだろう。<br><br>　だが時に、それを受け入れられない者たちもいる。<br>　愛しすぎたから。<br>　憎みすぎたから。<br>　良きにつけ悪しきにつけ、大きすぎる想いが行き場を失い、溢れ出す。<br>　死んでなどいない、無くなってなどいない、この世界から消え去ったなど有り得ない。<br>　そうして溢れ出した想いは残留し、心に留まってしまう。<br>　留まればそれはやがて腐ってゆく。<br>　澱む水のように、淀む風のように、濁ってゆく。<br>　腐っていく想いは心を蝕み、無いものを生み出し、存在させる。<br><br>　それこそが『幽霊』なのではないかと、わたしは思うのだ。<br>　だから幽霊など存在はしない、だが、いる。<br>　見える者には見えるのだろう。<br>　それが人の性であると思うのだ。<br><br>　ならば何故今になって沙耶、彼女は現れた？　<br>　十年だ。<br>　この十年の間、何も無かった。<br>　それは村の皆も辛く悲しくとも、彼女の死を受け入れたからではないだろうか。彼女の死は不幸ではあったが、それでも成仏したのだと納得したのではないだろうか。<br>　それなのに何故、今になって彼女を幻視する必要があるというのだ。</p><p name="0f2771c8-1d80-4b05-a2f5-21dddb4af46e" id="0f2771c8-1d80-4b05-a2f5-21dddb4af46e">　だからこそ、わたしはそれを確かめねばならないと思った。<br>　あの夏の日、十年前の夏の日が始まりなのだろう。</p><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/n11e2b56b43f9'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 17 Jul 2026 10:13:16 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/nice_badger6169/n/n11e2b56b43f9</link>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　＃７</title>
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      <description><![CDATA[<p name="d49c5f46-097d-4ca7-9e3f-a28df1897212" id="d49c5f46-097d-4ca7-9e3f-a28df1897212">　ほろ酔いだった。<br>　だが、気持ちが良いとは言えず、不快感に苛まされていた。<br>　飲み屋を出て章正と別れ、わたしは帰路へと着いていた。</p><p name="0f7afba5-ad94-4b77-814b-bc1222b51f7d" id="0f7afba5-ad94-4b77-814b-bc1222b51f7d">　日は落ちても湿度が高く、気温が何度あるのか知らないが未だに熱気が漂っている。じとじとした空気が肌に張りつき体の表面をべったりとした粘膜が包み込んでいるようだった。<br>　足を出すたびに体の中で熱機関が稼動しているかのような汗が噴き出してくる。いくら拭っても次から次へときりが無い。<br>　<br>　だが、不快の原因はそんなことではないのだった。<br>　沙耶が迷い出た。<br>　十年も前に彼女は亡くなっているのだから、それを見たというのであればそれは幽霊亡者の類である。彼女が生きているはずが無い。間違いなく死んだのだ。<br><br>　沙耶は一人っ子であった。<br>　姉妹などいない。だから見間違いでなく彼女を見たというのであれば、それは沙耶でしかないのだろう。<br>　しかし、沙耶は死んでしまった。<br>　十年前の水難事故。<br>　わたしだけではなく、皆泣いていた。<br>　彼女のことが好きだったのだ。<br>　だけど、兄はどうだったろう。<br><br>　当然彼女のことを好きだったと思う。<br>　もちろん悲しそうにもしてはいた。<br>　してはいたが、果たして泣いていたろうか。<br>　自分の恋人の死であったが、泣いてはいなかったように思う。<br>　男だから泣いてはいけない、自分だけは泣くものかと堪えていたのかも知れないし、見えぬところで泣いていたのかもしれない。<br>　ただ、わたしは兄の泣き顔を見た記憶が無かった。<br>　兄はどう思っていたのだろう。<br>　帰宅してからもそのことばかりを考えて一睡も出来なかった。<br><br>「もう、結局オールしちゃった、何で飲んじゃうのよ」<br><br>　翌朝に帰宅した正美は腰に手を当て呆れるように言った。<br><br>「ごめん、章正から近くに来ていると連絡があってね。つい」<br>「あら、章正さんだったの？　ずいぶん久しぶりよね、なら今回は許してあげる」<br><br>　あたしも楽しかったし、とあくびをしながら部屋に戻る正美はベッドに乗ればあっという間に寝てしまいそうなくらい肌も青白く目も垂れていた。<br><br>「なあ、正美」<br><br>　呼びかけてから暫しの間ができた。言うべきか迷った。<br><br>「実は盆に一度実家に戻ろうかと思う」<br><br>　やっと吐き出した言葉に、寝室から頭だけを出して正美は不思議そうな顔をした。<br>　一度引っ込みキャミソールに着替えた正美はリビングに来て座った。<br>　態度から何かを感じ取ったのかもしれない、正美はその辺の勘がよく働く。正面に座して真っ直ぐにわたしを見つめた。<br><br>　全てを正美に話すかどうかは少し迷っていた。<br>　やましい隠し事は無い。<br>　沙耶がわたしの初恋の相手であったことは言ってはいないが、それはやましいのではなく兄の手前どこか口にすることを憚られたからだ。彼女が亡くなり、兄の消息も知れない今も尚である。<br><br>　兄の恋人の幽霊が出るらしいから確かめたい。<br><br>　問題はこの話自体がどうも戯言染みていて、甚だ説得力に欠けるということだった。<br>　そんなもの、わたし自身も言われたところで首を捻るに違いない。一夕には納得し難い。だったら幾らでも言い訳で取り繕っていいものだ。例えば両親に大事な話があるとか、実家にあるものを取ってきたいとか、何でもいいだろう。しかし、嘘も吐きたくは無い。<br><br>　だが正美に正直に話してどれほど納得して貰えるかは分からなかった。<br>　この件は、わたしの心の問題とも言えるからだった。<br>　兄に対しての想い、沙耶に対しての想い、そういったものの騒めきなのだ。<br>　それでもわたしは彼女に理由を話すことにした。<br>　説明を聞いた正美は少しだけ考える素振りをして言った。<br><br>「分かったわ」<br><br>　あまりにあっさりと許可が出てしまい拍子抜けし、わたしは再度確認してしまった。<br><br>「帰ってもいいのかい？」<br>「反対でもされたかったのかしら？」<br>「そうじゃないが」<br>「あなたはその噂話が気になって仕方がないのでしょう？　だったら納得いくようにしたらいいわ。いつまでも後ろ髪引かれながらじゃ準備だって疎かになっちゃうでしょう」<br>「すまない」<br>「じゃあ急いで準備しなくちゃあね。お義母さんたちにお土産も買っていかないとだわ。まったく、寝る暇もないわね」<br><br>　やれやれというように正美は首を振り部屋に向かう。<br><br>「新幹線の切符も取っておくわよ。お盆だから席は贅沢言わないでね。うーん、山の天気は変わり易いって言うし夏でも羽織るものは必要ね、お義母さんたちにお会いするのも久しぶりだしちゃんとしたのを持っていかないと……」<br><br>　そのひと言に至って気がついた。<br><br>「もしかして君も行くのかい？」<br>「当たり前じゃない。何？　あたしは行っちゃダメなの？」<br>「いや、駄目って訳では……。ただ、苦手だろう？　幽霊とかお化けとか」<br><br>　正美は本来この手の話が苦手なのである。<br>　だから、まさか一緒に行くと言い出すとは思いもしなかったのだ。<br><br>「苦手よ。だからそれはあなたが調べたらいいじゃない。あたしはお義母さんたちのお手伝いとか出来ることはあるでしょ。気分転換には丁度良かったわ」<br><br>　正美は部屋に戻りばたばたと準備を始めた。<br>　わたしはこの時、不安を感じていた。本当に彼女を連れて行ってよいのだろうか？<br><br>　外は既に昇りきった太陽が夏の日差しを浴びせて、世界を色鮮やかに浮き立たせている。その眩しすぎる光は一睡もしていない目には酷く染みた。<br>　<br>　わたしは輝きすぎる世界から隔絶させるようにしてカーテンを勢いよく閉じた。　<br> </p><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/n370d5efbb305'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Wed, 15 Jul 2026 21:13:53 +0900</pubDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#６</title>
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      <description><![CDATA[<p name="8d594b4f-08a6-44fb-989f-62ca5fd81a0d" id="8d594b4f-08a6-44fb-989f-62ca5fd81a0d">「心のありかが現在は大きく二つに解釈が分かれているということだけ何となく分かったかな。それを踏まえて聞こうか、幽霊とはどういう時に出てくるのだろう？　章正はどう思う？」<br>「えっと、恨んだり怒ったりの時の気がすんなぁ。あ、でも優しい幽霊もいるかもしんね」<br><br>　兄は楽しそうだった。感情の出にくい兄にしては珍しいことだ。そんな兄と話をするのがわたしも嬉しかった。<br><br>「なぜ優しい幽霊がいると思うんだい」<br>「テレビでやってた、家族が危ないのを死んだ母親が知らせに来たんだって」<br><br>　章正の言ったその番組はわたしも偶然観ていた。<br><br>「それ見たよ。大事なことを知らせる時に幽霊は出るって。入っちゃいけないところとか、いっちゃいけないところを教えてくれたりするんだって。ねぇ兄ちゃん、だったら幽霊は心を持ってるってことだよね？　だって怒ったり、泣いたり、教えてくれたり、そういうのって心がないとできないよね？」<br>「いいところに気がついたね、ところが実際はそう単純じゃないんだ。実は表面的な感情だけなら機械にも持たせることができる。怒るだけ、泣くだけ、教えるだけ、それなら機械でもできてしまう。それは感情と呼ぶにはあまりに断片的だ。感情は複数が複雑に絡み合い発露するからこそ感情と言える。怒ったからといって心があるとは言えない。<br>　しかし、逆に無いとも言えないのだね。たとえば章正の言った家族に危険を報せにきた霊は、それがもし事実だとすれば危険だということを察知し、家族がその危険に遭わないようにと行動し、思いやっている。これはシンプルな感情とは違う」<br>「じゃあやっぱり心があんだ」<br><br>　嬉々とする章正に兄は首を振った。<br><br>「あるかもしれない、というだけさ。そして実際にはないかもしれない。実はね、ややこしいことに人間が幽霊を生み出してしまうこともあるからだ。この場合は正式な魂や幽霊とは一線を引かねばならなくなってしまう。<br>　それは、幽霊とは関係ない現象を人間が勝手に幽霊だとしてしまう場合があるからだ。人間というものは良くも悪くも関連性を求めてしまうものでね。お前達もこんなことは無かったかい、占いが当たって良いことがあったとか、嫌な予感がして出かけるのを止めたら雨が降ったとか、何となく噂をしていたらその人がやってきたとか」<br><br>　確かにそんな体験は実際にしたことがあったし、話でもよく聞いた。<br>　例えば虫の報せであり、お告げであり、なにかの霊であることもあった。<br><br>「その他にも、怖い怖いと思っているとただの茂みの揺れが何者かの気配に感じてしまったり、猫の鳴き声が赤子の声に聞こえたり、はたまた壁の染みが顔に見えてしまったりと様々だ。<br>　経験があるだろう、怖い話を聞いたあとトイレに行くと誰かに見られているような気がしたり、頭を洗っていると後ろに誰かが居るような気がしたり、例えばほら、その隙間から何かが覗いているような気がしたり」<br><br>　兄が指差した先にはほんの僅かに開いている押入れの暗闇があった。電灯の灯りも届かない真っ黒な隙間にわたしも章正もびくりとしてしまったのは言うまでも無い。<br><br>「つまり、なんでもない事柄でも気にしてしまうか、気にしないかでも人間は幽霊を生み出してしまうことがあるんだね。気にしなければ普通の出来事だし、気にしてしまえば過去の記憶から何事かを関連付けようとしてしまうのはある種の本能ともいえるだろう。それは記憶と関連付けることで危機回避をするように人間の脳は出来ているからだ。だから関連付けは人間の特技の一つとも言える」<br><br>　なんでもないと分かっていても押入れを見てしまった。確かにそこに何かが居てこちらを見ているような錯覚があった。そんな体験も重なってその時兄が何を言っているのかは珍しくよくわかった。<br><br>「だから、何かの現象があって危機を回避できたとする。その出来事は突風かもしれないし、物が落ちたり、何かの音が聞こえたり、何でもいいのだけど、そういった出来事に対してその人たちはこう思う『あぁ、お母さんが僕達に教えてくれたんだ。助けてくれたんだ』とね。<br>　別にそれでもいいのだけれど当人達以外の外から見ればそれはただの現象でしかないだろ？　するとその家族にとっての現象は幽霊によってもたらされたものではあるけれど、他の人間からすればただの自然現象だ。<br>　それは幽霊とは言い難く、そこには霊もエネルギー体も無いのだから心は存在しようが無い。だとすればそのケースに措ける母の霊の心とは家族の願望や希望であり、本当に母親の心があったかどうかは怪しくなってしまう」<br><br>　テレビの中でその現象を話す家族の顔は幸せそうだった。確かに違うのかもしれなくても、本人達にとってソレが母であるならそれでもいいのではないだろうか。その時のわたしはなんとなくそういう風に思った。そして兄にもそう言った。<br>兄はまた煙草を取り出して火をつけた。<br><br>「あぁ、それは一向に構わない。僕が言いたいのはあくまでそういうこともあるというだけの話だからね。実際に霊の話をしていたらきりが無いんだ。<br>　霊と一口で言っても、幽霊、亡霊、生霊、死霊、神霊、動物霊、祖霊、精霊、あとは、背後霊、守護霊、指導霊、因縁霊、地縛霊、浮遊霊など種類も豊富だ。色々な考えや見方もあるし、僕の言っていることだけで説明がつくのなら幽霊なんてとっくの昔に解明されているのに違いない。それが出来ないから未だ人間は霊について論議を繰り返すのさ」<br><br>　どこかで鈴虫も鳴いているのが聞こえてきた。暗くなったというのに蝉は未だに鳴いている。僕はここにいる、とでも言うように。<br>　夜になると山から吹き下ろしてくる風で涼しくなってくる。それでもわたし達は興奮していたのか、じわりと汗を垂らしながら兄の言葉に耳を澄ましていた。兄は机の中から緑色の渦を取り出してその先端に火を点けると、床に置いてあった金属の皿を取って、その上の銀色のとがった金具に渦の真ん中を突き刺した。煙がゆらりか細く昇っていく。<br><br>「さて、前置きが長くなってしまったがこれは仕方がない。これらの一般的な考え方も一応知っておく必要があるものでね。ここからがやっと本題だけれど、どうして僕があの場所であんなことをしていたかという話だったね」<br><br>　その時になってわたしも章正もはっとなった。<br>　そうなのだ、最初はその理由を聞こうとしてこの場所に来たのだったが、幽霊についての話を理解しようと必死でわたし達はすっかりそのことを忘れてしまっていた。<br>　御滝で兄は一体何を調べていたのか。<br>　兄はふうと煙を吐いて煙草の灰を灰皿に落とした。<br><br>「これまで話したことは凡そ世間一般的な解釈になるのだけれど、僕は思ったんだ。今言ったようなことはみな本当にそうなのか？　とね。<br>　今話した総てが間違っていたら？<br>　人間が死んで、エネルギー体と思われる霊があって、何らかの理由で漂っていたり、天国へ行ったり地獄へ行ったり、心を持った霊体、幽霊しかり神様や悪魔などが存在する世界がどこかにあるという大まかな世界の構成が、ルールがそもそも全て間違いであったなら、僕達の知る世界はまったくの別物かもしれないと思わないか？」<br><br>　またもわたし達は唖然となった。口くらいはぽかんと間抜けに開いていたかもしれない。兄が何を言っているのか全くもって解らなかったからだ。<br>　ここまで散々幽霊というものを科学的に論理的にその形を浮き上がらせてきたというのに、兄はその全てを一瞬で全否定したのだ。<br>　幼い私たちの脳機能では処理速度が追いつくはずがない。<br><br>「僕達は生きている。でも、もしかしたら死んでいるのかもしれない。僕達の生きているという状態は、別の方向から見たときに、死んでいることと同じになっているかもしれないと僕は考えた」<br><br>　窓の外の闇から這い出し部屋の窓から流れ込んでくるような蝉の鳴き声が、わたしの頭の中で反響を繰り返す。誰も口を開かぬ静寂だというのに、じりじりというノイズは一向に納まらなかった。<br><br>「例えばこの鳴いている蝉だが、蝉の形はどういう形だろう」<br><br>　兄は書いてごらんと章正に紙と鉛筆を渡した。<br><br>「蝉は一般的に七年で羽化し、一週間から二週間ほどで死んでしまうというのが定説だ。実際のところは種類によって羽化までには誤差があったりする。何れにせよ、凡そ五年から八年で羽化すると言われている」<br><br>　章正が大雑把に蝉を描いた。蝉捕りも得意な章正は意外にしっかりと蝉の絵を書き上げていた。<br><br>「巧いじゃないか。さて、僕達は普通この絵のように羽化したものを蝉と呼んでいるが本当にそうだろうか。どうしてこれが蝉なのだろう」<br><br>　章正は不可思議な顔をしながら腕を組んでいる。<br><br>「どうしてって、蝉は、蝉……だべ」<br>「それは、見つけた人がそう名前を付けたからじゃないのかなぁ」<br><br>　章正に続いてわたしはそう言った。兄の問いに対する答えとしてはややずれていたのだが、遠からずではあったらしく兄は満足そうだった。<br><br>「名前をつけたのが誰なのか僕も知らないが、必ず誰かがそう呼んだはずだ。その誰かは羽化したそれを見たからそう名付けたのだね。それ以外を知らなかったんだ。そうだろう、幼虫は土の中にいるのだから。だから木に張り付くそれを蝉と名付け、それは蝉になった」<br><br>　では、と兄は何かをぐりぐり紙に描いてわたし達の方に向けた。<br><br>「これはなんだ」<br><br>　そこには丸まった幼虫が描かれていた。<br><br>「幼虫」<br><br>　わたしも章正もそう答えるのが分かっていたのだろう。兄は首を振った。<br><br>「これは蝉だ」<br>「蝉の幼虫でしょ？」<br>「彼らは多くの時間を地中で凡そ五・六年そこで過ごす。そして章正の描いたそれはたった二週間の姿だ。それを思えばこちらが本当の姿といっても差し支えはないように思わないか？<br>　この姿こそが彼らにとっての本当の姿であり、成虫と呼ばれる姿はあくまで繁殖用の特殊形態であったらどうだい。幼虫のように見えるあの姿こそが本来的な蝉ではないか、ということも言える。つまり世間一般における多くの判断基準は人間に帰属する。それは当然なのだが――」<br><br>　昆虫のみならず一生というものを区切り、その形態に名を付けたのが人間であれば、もちろん蝉というものの一生の過程全てに名前をつけたのも人間である。<br>　つまり全ては『人間の物差し』による判断基準でしかない。<br>　他の昆虫などの過程を考えてもやはり成虫が本来の姿のようにも思えるが、兄の言う通り蝉にしてみればもしかしたら幼虫と呼ばれている姿こそが本来の蝉といえないことも無い。<br>　正しいか誤りかは別として、それが何となく分かるようになったのは高校を卒業した後だったのだから、兄の発言がわたしにとって如何に奇抜な発想であったかということである。<br><br>「――その判断基準を取っ払い、蝉ではなく人間の世界を見たときが肝だ。その時、果たして僕達は生きていると言えるのかどうか。<br>　僕達を遥か高みの目線から見たときに幽霊ではないという証明が誰に出来るだろう。僕らの住むこの世界こそがあの世であると誰が証明できるだろうか。<br>　いや、できはしない。なぜなら僕達はどう転んでも人間だからだ。僕らは僕らの世界で『生きて』いるからだ。僕らには僕らの世界しか見えていない、あらゆる価値観を超越した神にはなれない。僕らは人間である限り人間の価値観を捨て去ることは出来ないのだから」<br><br>　わたし達の思考はもう会話についていっていなかった。<br><br>「晩御飯よー。章正くんも食べていきなさいな。お家には言っておいたから」<br><br>　母の声が台所から聞こえてきた。<br>　蝉時雨が止まっていた。<br>　わたしも章正も固まっていた。<br>　静寂が周囲にたちこめて、空気がぴんと張詰め、切れてしまいそうになった。<br>　そして兄が静かに言った。<br><br>「僕はね、この世界の認識が『間違い』だと思っているのさ。そしてあの場所、御滝でそれを証明しようとしていたんだよ」</p><hr name="1a82e532-28c8-478a-94e2-25c92c4298a0" id="1a82e532-28c8-478a-94e2-25c92c4298a0"><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/n1084f7177749'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 10 Jul 2026 15:26:18 +0900</pubDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#５</title>
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      <description><![CDATA[<p name="9184aa46-d0db-4792-b528-583a1df19136" id="9184aa46-d0db-4792-b528-583a1df19136">「君たちは自分が幽霊だったらどうする」<br><br>　御滝から戻った後、兄は部屋にわたしと章正を招き入れてそう言った。<br>　滝壷に落ちてずぶ濡れになった章正は、兄に担がれて家までやってきた。洋服を乾かす間に風呂に入り、白いＴシャツを貸してやって、章正とわたしはサイダーの炭酸弾けるコップを手にしつつ兄の部屋にやってきた。この時わたしは中学一年生で、章正はひとつ上の二年生だったから兄は二十三の頃だ。<br><br>『御滝もののけ事件』と呼ばれることになるこの日の出来事の犯人は兄であった。<br><br>　兄は御滝の辺りでは何か特殊な現象が起きるのではないかと自作の装置を用意しては観測や実験を行っていたのだというのだ。それらの実験やら機材やらの音や動きを勘違いした村人の話に尾ひれがついて、知らずのうちに『もののけ』が生まれた。<br>　実際、電磁波の共振反応で鳴った音は、巨大な獣の唸り声に聞こえたのだ。<br>　では、兄は何故そんなことを行っていたのか、その理由を説明するからと部屋に呼ばれ、開口一番、口にしたのがその台詞だった。<br><br>「そんなはずねべ、だって生きてらべさ」<br>「章正、どうして君は生きている、と思うんだい？」<br>「え……と、それは」<br>「体をつねったら痛いし、傷をつけたら血も出るから、かな。死んじゃったら痛くないし、血も出ないでしょ」<br><br>　わたしが答えると章正もそうそうと頷いた。<br><br>「そうだね、痛かったり血が出たり、自分の意思で動くことができたり、泣いたり笑ったり、食べたり眠ったり、子供を産んだり育てたり、そういう活動を行っていくことが凡そ一般的に言われる『生きている』ということだ。自分の意思を持って活動することを主にそう言うのだろう。死んでしまった人はそういうことも出来なくなってしまうんだね。じゃあ、君たちは死んだ人を見たことがあるかい？」<br><br>　その言葉にわたしも章正も臆した、というのが正しいだろう。<br>その質問で記憶にある誰かしらの生々しい死を思い出す。わたしの場合は祖父だったし、章正は祖母だった。<br>　各々それぞれに体験した近しい人間の死を思い出し、臓腑がじくじく痛んだ。思い出の楽しさ嬉しさ、失った悲しみや苦しみが腹の中に湧き出て暴れているような感じだった。　<br>　きっと大人になった今でもそれは変わらない。<br><br>　その時のわたしは、実家の奥の間に敷かれた布団で眠るようにしていた祖父の傍に立った時のことを思い出していた。<br>　横になった祖父の顔には薄布がかけられていて、それを外すと眠っているような祖父の顔があった。小さく口を開け、吐息さえも聞こえそうだったが、息はしていなかった。それは強い違和感として心に残っている。<br>　部屋は薄暗かったので顔色ははっきり分からなかったが、やはり血の気は無かったように思う。唇が乾かないように濡らしてあげてと叔母に言われて、湿った脱脂綿をぽんぽんと祖父の唇に当てた。祖父の唇は、驚くほど硬くなっていた。<br><br>　気がつけば兄の部屋でわたし達は瞳を潤ませていた。章正も似たような気持ちだったのだろうと思う。兄はそんなわたし達に静かに言った。<br><br>「辛いことを思い出させてしまったね。でも君たちは人間の死というものを見た事があるということだ。では君たちが見た人たちは、幽霊だったろうか？」<br>「そんなわけない。幽霊なんかじゃないよ、ばあちゃんは、ばあちゃんだもん」<br><br>　章正の言う通りだと思った。死んでしまったけれど、祖父は祖父であり、それは幽霊とは違う。そして祖父の亡骸もまた幽霊とは違う。<br><br>「じゃあ幽霊とはなんだと思う」<br><br>　兄はわたしをじっと見た。<br><br>「魂とか、霊魂とか、そういうのかな」<br>「それはどこにあるのだい」<br>「体の中？　でねが」<br>「亡くなった章正のお祖母さんにはそれはあったと思うかい？」<br>「きっと、無いと思う。死ぬってそれが抜けちゃうことじゃないのかな？」<br><br>　戸惑いながら答えると満足そうに兄は煙草に火をつけた。吸殻の積もった灰皿を引き寄せて手元に置くと開け放しの窓の方へと煙を吐いた。夕日が射していて部屋の中をオレンジに染めていて、煙も兄も影に呑まれつつあった。<br><br>「一般的に霊とは形の不確かなものだ。僕も祖父や、章正のところの千代婆の葬儀には参列したから二人の遺体は目にしたけれど、それは言わば魂のようなものが抜けた殻だ。心は既に無いのだね。<br>　つまり、人間の死というものと幽霊というものは話が別なんだ。あくまで死はきっかけでしかなくて、肉体と魂はそもそも別にある。そして、その肉体と魂とが切り離されることが死ということになるかな」<br><br>　章正が口をつけるのも忘れたサイダーを手にしたまま、兄に尋ねた。<br><br>「じゃあおら達の体にも魂があるから、魂と幽霊は同じだからおら達も幽霊だってこと？　なんか違うような気がすんだけど」<br>「ガキ大将は思っていたよりもなかなかに鋭いようだね。確かに章正の言う通りだ。僕達は幽霊ではない。何故だろう」<br><br>　章正が首をひねっているのをわたしは隣で眺めていた。わたしも別に答えが分かっていたのではなかったのだが、一生懸命考える章正から何となく目が離せなかったのだ。<br><br>「わかった、体があるからだ！」<br>「明察だね、章正」<br><br>　そう言われて章正は満面の笑みでわたしを見た。自慢じゃない、ただ嬉しかったのだろう。ようやく章正はサイダーを一口飲んだ。<br><br>「僕達には体がある。体と魂が結びついている間は僕達の魂は幽霊とは言わないのだね。ではまた聞こうか、幽霊とはなんだい」<br><br>　兄は再びわたしを見た。分かるかと試練を投げかけられているようでわたしは緊張してしまっていた。それでも何となく頭の中にあるぼやっとしたものに輪郭を描くようにゆっくりと答えた。<br><br>「えっと、幽霊は元々人の中にあったんだけど死んで抜けてしまった魂、だけど、あの世に行かないでその辺に居る魂とか、のことかな？」<br>「あの世とはなんだい」<br><br>　そう言われてわたしは戸惑った。何となく口を突いたあの世というものがあまりにも漠然としていたからだ。それが何か分からないのに答えられるはずも無かった。<br>　子供にとって、あの世はあの世なのだ。天国や地獄なのだ。<br>　精々わたしに答えられるのはそのくらいだった。<br><br>「天国と地獄、それらがあの世か、よし、ソレは少し置いておこうか。お前はこの間話したことを覚えているかい。僕が言ったことだ。幽霊が死んだ人間の延長の姿だったらという話だ」<br><br>　そのことを知らない章正だけが不思議そうな顔をした。<br><br>「さぁ、では二人に聞こう。心はどこにあるのだろうか」<br><br>　今にして思えばとんでもない話をされていたものだと思う、章正にしてもそれは同じだったはずだ。とんでもないからこそ我々はこの時のことを妙に覚えているのだ。<br>　この時はその全てを理解できていた訳ではないのだけれど、幼き日に何となく記憶に残ったものは成長して知識を得ていくと意味が分かってくる場合がある。そしてやっとあのときの話がなんだったのかという片鱗に触れられるようになっていく。<br>　それでもわたしは成長するにつれ兄のした話が世間一般の普通とは違うと気付くと畏敬の念が増すばかりだった。それは今でも変わらない。<br>　哲学のての字も知らないわたし達には投げかけられたものが簡単に答えの出るものではないとは当時は分からなかったが、無い知恵を搾って答えを探すのがそれなりに面白かったのは同じだったと後の章正も言っている。<br>　わたしたちは兄の質問に答えられなかった。というか、意味が分からなかったのだ。<br>　二人が沈黙してしまうと兄はまたぷかりと煙を吐いた。<br>　だいぶ暗くなった部屋は何かしらの怪異でも起きそうなほど怪しげな雰囲気だった。こんな時間帯のことを『逢魔刻』と呼ぶことを知るのはもっと後だ。<br><br>「少々難しかったね。心というものは本当に難しい、一つの考え方として聞いて欲しいのだが、これが必ずしも正解ではないとよく覚えていてくれ。心とは現在大きく二つに解釈が分かれている。まず一つは一般的な解釈になるけれど、心とは身体的また物質的なものとは独立した存在として、自我、精神、霊魂、などという言葉と凡そ同じ意味として使われる場合だね」<br><br>　兄は深呼吸するように煙を吐いた。<br><br>「そしてもう一つが現代の心理学的な解釈だ。これは個体の示す複雑な行動を定め、統御している機能についての一般的な言葉として使われる。この場合、機械一元論の立場によれば、こうした行動を定めている脳の活動や過程といったものを漠然と示す用語であるといわれる。<br>　他では、脈拍や発汗のような生理的過程と区別されたあらゆる精神活動、精神過程の統合あるいはまとまりの総体を示す用語とされたり、また単に行動を説明する為に仮定された幾つかの構想概念のシステムとして考えられたりしている」<br><br>　わたし達が呆気に取られたのは言うまでも無い、当時のわたし達には兄の言葉が異国語にさえ感じるほどにその意味を理解することなどできなかった。当然だが、兄もこれらをわたし達が理解できるなど微塵も思ってはいなかったはずだ。<br><br>「簡単に言うと……」<br><br>　兄はそう言って煙草をもみ消すと、立ち上がって部屋の電気を点けた。<br>　もう外は日が落ちて暗くなっていた。白熱電球の明かりに照らされ、急に明るくなった部屋に目がついていかずに何度か目をしばたいた。網戸には電球につられた蛾がぱたぱたとぶつかっているのが見える。<br><br>「心は『魂や霊魂と同じだ』という考えと、『脳が行動を起こす為の機構だ』という考え方だね。もっと分かりやすく言えば、前者は生物的認識であり後者は機械的認識だ、ということになるかな。<br>　もしも魂に心が付随するのなら以前も言ったとおり、幽霊とは死んだ人間の次の形態と考えることができる。<br>　ならば幽霊とは生きているときと同じように自由意志を持つ精神体ともいえるし、僕達には肉眼で見ることはできないけれどもその辺りにいるということもあるかもしれない。むしろ居なければならない。それが人というものの在り方ともいえるからね。<br>　だけれど、心がシステムであった場合はコンピューターと同じで電源が切れれば機能が止まってしまうのと同じ、生体電流などのエネルギーが途絶えれば心の機能も止まってしまう。<br>　その先には何も無い、心は消える。<br>　というよりは停止と呼ぶべきかもしれないね、何らかのエネルギー供給があった場合に再生されることもあるかもしれない。<br>　もしかしたらこの不慮の心の再生こそが幽霊と考えることもできるね。だがこれには心がわずかな断片でも記録媒体としてどこかに残っている必要がある。ソフトが無ければ再生しようが無いからね。<br>　ただし、僕としては答えが究極的には機械的であったとしても、あえて前者と思いたい。突詰めれば生物も圧倒的に進んだ有機的な機械と考えられないことも無いのだからね。おっと、話がそれた」<br><br>　こうだと断言はできなかったが、わたしも章正もぼやっとした理解はしていたのだと思う。今ならばこれが心と体を一つとする一元論と、心と体を別物とする二元論に則った話だということは分かるのだが、当時のわたし達には分かるはずも無かった。</p><hr name="08c145a9-c777-425d-9e98-bce3a31b36a2" id="08c145a9-c777-425d-9e98-bce3a31b36a2"><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/n893d2cb6cb50'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/276408409/profile_557bb15dd379412281f9c3ebd675b9df.png?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Fri, 10 Jul 2026 13:54:57 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/nice_badger6169/n/n893d2cb6cb50</link>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　#４</title>
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      <description><![CDATA[<p name="83e42109-b584-4902-8ca1-62e440162e8e" id="83e42109-b584-4902-8ca1-62e440162e8e">　携帯が鳴った。十八時頃だ。<br>　わたしはソファーに転がっていた携帯をとった。<br>　電話は村時代からの幼馴染みで、近くに来たから飲もうという誘いだった。<br>　髭を剃って出るか迷ったが、まぁ気の置けない友人だし構わないかとそのままの姿で外へ出た。<br>　まだ十分に明るい外はむっとした空気が満ちていて動かずとも汗が滲む。駅までのほんの僅かな道程でさえ汗だくになってしまった。<br><br>　駅に着いて電話をすると東口の居酒屋だと言われた。<br><br>「久しぶりだなぁ、なんだお前、ずいぶんと不精なんじゃないか」<br><br>　章正は顔を合わすなりがっちりと手を握ってそう言う。剃らずに放置した髭をさすりながらわたしは笑った。<br><br>「久々の休みなんだ不精ぐらいさせて欲しいな。ところで君こそ太ったか？」<br>「ソレを言うな、この不況下でも未だに接待って風習は続いているのだ」<br><br>　とりあえず麦酒。双子のような呼吸でわたし達はそう言った。<br>　章正はわたしの一つ年上のガキ大将だった。かくいうわたしも幼い時分には幾度となく彼にいじめられたものだ。<br>　彼はいつも取り巻きの二人を連れて傍若無人に振舞っていたのだが、ある事件をきっかけにわたし達は和解し、村を出た今でもこうして付き合いがある。<br>　その事件とはわたしたちの呼ぶところの『御滝もののけ事件』である。<br><br>　村の北、奥深くに『御滝』という滝がある。<br>　村の南方には平地が広がっていて、西側からぐるりと北を回って東まで山に囲まれている。<br>　村の真ん中を割るように川が流れていて、その川は生霧川といった。村はしばしば霧に包まれたのでその名が付いたらしい。そのくねくねと曲がる川を遡っていった先、北側の山中に滝がある。<br>　江戸時代以前からなにやら儀式に使われていたらしいのだが、現在その風習は既に失われている。唯一詳細を知っているのではないかと言われていた生霧神社の先代宮司が亡くなり、その死と共に多くの伝承は失われていた。<br>　明治に行われた廃仏毀釈の折、焼かれた書物の中に資料が混じっていたのではないかと言うのは現宮司である。その時代に生きた先代は正に生き字引であったのだが結局は何も語らずに亡くなった。<br>　御滝はかつての因習を感じさせる名前ながらも、そこがどういう場所であったのか真実は想像するほか無かった。<br>　神様が居る滝だ、それならまだいいのだが、忌み物が封じられているだの、飢饉で苦しんだ者たちが最後にすがった場所だとか、戦国時代に逃げ延びた落ち武者が腹を切った場所だとか、山神様の漁場だから近づく者は食われるだとか散々だった。<br>　どれ一つとして信憑性はなく、調べたところで結局はなにも出てこない。江戸時代だの戦国時代だのと時代考証も曖昧で、如何にも胡散臭いものだと当時でさえ思ったものだ。<br><br>　結局、御滝は噂に上るだけの怪奇スポットになってしまっていた。<br>だが、村の水源として命を育んでくれるこの滝は、なんだかんだと噂はされるものの凡そ好意的に受け容れられていたのだった。<br><br>　その御滝に謎のもののけが出たという噂が流れた。<br>　根性試しを兼ね、その噂を確かめる為にわたし達は滝へと向かったのだ。<br><br>「懐かしいなぁ、そんなこともあったなぁ」<br><br>　そう言って章正はぐいと麦酒を流し込むと、ぷはぁと美味そうな声を出した。<br><br>「あの時、君はずぶ濡れになりながら泣いていたっけなぁ。滝壷に落ちて濡れていて良かったじゃあないか、濡れていなかったらただの小便ちびりと呼ばれたこと間違いなしだ」<br>「漏らしてない！　何度も言っているだろうが。それに原因はお前のところの兄貴じゃないか。俺は滝から落っこちてあわやのところで助かったが、一歩間違えばちょっとした怪我じゃあ済まなかったんだぞ」<br>「まぁ無事だったんだからいいじゃないか、それに助けてやったのはわたしだぞ。ハッチンとバッタは一目散に逃げてしまったからね」<br>「……まぁ、お前には感謝しているさ。驚きすぎると人間は何もできなくなるもんなんだよなぁ、あの時身をもってそれを知ったよ。普段は泳げるのに体が動かなかったなんてのはあの時だけだ」<br><br>　章正はジョッキの雫を眺めながらそう言った。あの時、自分から滴っていた雫を思い出しているのかもしれなかった。<br>　昔の章正は妙にわたしに突っかかり絡んだ。後に分かったことだが、隣向かいの幸江とわたしの仲が良かったことを妬んでのことだったらしい。<br>　隣といっても田舎の距離感覚は都会の数倍ある。わたしは近所付合い程度の頭しかなかったのだが章正の目にはそう映らなかったようだ。<br>　幸江のほうはわたしの一つ上だったので弟を構っているのと変わらなかったと思う。だから章正は余計に面白くなかった。<br>　しかも、わたしは兄から色々な話を聞いて育った為、多少だが他の子供達よりもひねていたところがあった。それも章正は気に入らなかったらしい。<br><br>「お前は小難しいことをよく知っていたからなぁ。訳のわからんもんには力で対抗するしか思い浮かばないんだ子供は。まぁ許せ」<br><br>　章正は笑った。本来の彼は気さくで明るいムードメーカーである。大将気質であり、実際にその素質はあるのだと思う。村議会議員になった今でも村の同年代の連中を気にかけて折を見てはこうして様子を見に来たりする。面倒見がいい彼を悪く言う者はいない。<br><br>「許すも何も、初めから気にしてはいないさ。ところで奥さんは留守番かい？」<br>「あぁ、子供達がいるからな。さっき電話したらあいつもお前に会いたいって言ってたぞ。今度ウチのチビたちにも会いに来てくれよ」<br>「そうだな、式の前に一度挨拶に行くとしよう。わたしも幸江姉さんに会いたい」<br>「おう、その時はご馳走を用意させておこう、こんなのじゃなくてな」<br><br>　章正は軟骨揚げを箸でつまんで掲げ、口に放り込んだ。<br><br>「それだってまぁなかなかのものだろう」<br><br>　そう言うと、確かにと章正は笑った。<br><br>「それはそうと、実はお前の耳に入れておきたいことがあってな」<br><br>　急に章正が身を乗り出した。<br><br>「なんだいそれは、悪い話じゃないことを願うが」<br><br>　小さく笑ったが章正の表情は僅かに曇った。<br><br>「実は最近村で奇妙な話があってな」<br>「奇妙な話？」<br><br>　章正がちょいちょいと指を動かす。<br>　少し身を乗り出すと彼は小声で言った。<br><br>「実は御滝で」<br>「御滝？」<br>「――沙耶を見たって言う話があるんだ」<br><br>　わたしは動揺を誤魔化すように麦酒を煽った。<br><br>「そ、そんな馬鹿なことがあるか、彼女は死んだんだぞ。それも十年も前にだ」<br>「分かっている。俺だって葬儀には出た。だが実際に村では暗黙のうちでそう囁かれているらしい。俺はバッタから聞いたんだが実際に何人かがその姿を見たと言っているようなんだな、しかも出るのは夜だけじゃなく日中もらしい。御滝を眺めるようにぼうっと白い影が佇んでいて、白い影の振り返ったその顔が沙耶だったというんだ」<br>「な、なにかの見間違えじゃないのか？　御滝の辺りは日中でも翳っていて暗いし、木漏れ日の光の加減で何かがそう見えただけかもしれないじゃないか」<br>「あるいはそうかもしれない。俺だってこんな話、信じているわけじゃあないんだ。ただ、お前の兄さんが昔言った言葉をふと思い出したんでなぁ。もののけ事件の後でお前の兄さんが話してくれたろう、ほらあの話だ、俺たちが幽霊かもしれないって」<br><br>　章正が何かを思い出すように中空を眺める。<br>　あの話を章正が覚えていたというのは意外だった。ややこしい話でもあったし、子供の頃の話だから忘れてしまっていると思っていたのだが、存外彼にも興味深い話であったのかもしれない。<br><br>「どっちにしてもな、沙耶の話だからお前には言っておくべきだと思ったんだ。お前にとっても沙耶は…」<br><br>　章正はそこで言葉を切った。<br>　彼なりの気遣いだったのかもしれない。<br>　わたしは鬱蒼とした御滝の滝壷の畔に立って滝を眺める沙耶ちゃんの姿を想像した。<br><br>振り返った彼女は微笑んでいて、あの頃の沙耶ちゃんのままだった。</p><p name="0a71b7e9-319b-4c0b-8e55-fe1211367c68" id="0a71b7e9-319b-4c0b-8e55-fe1211367c68">その画はどこか神秘的で、儚げで、そして悲しかった。</p><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/nff02ea3b330d'>続きをみる</a>]]></description>
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      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Tue, 07 Jul 2026 17:09:49 +0900</pubDate>
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      <title>夏の夜のクリスタルレイン　＃３</title>
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      <description><![CDATA[<p name="83877d19-1f58-412a-a67f-385e4c787c80" id="83877d19-1f58-412a-a67f-385e4c787c80">　わたしの実家は都心から離れた田舎の山麓にある村だった。<br>　辛うじて電車は届いていたが、当時は日に一、二本程度であり、あって無いような電車は特別利用せずとも困ってはいなかった。村の農作物を取引する上で重要であったことを知ったのはかなり後になってのことだ。<br>　稲作が中心で何もない辺鄙な田舎であったのだが、不満はなかった。村には村独自の時間の流れがあって、その自然な環境は実際わたしにはよく馴染んだ。<br>　都会に出て働いている現在、その貴重さがよく分かる。<br>　言ってしまえば便利なだけで息の詰まるような都会の暮らしは苦手だが、それはそれで大切なものもあるから難しいものだと思う。都会に出なければ、わたしは正美にも出会うことはなかった。<br>　村を出たのは二十歳を過ぎた後だから、もう兄は居なくなった後のことだ。<br>　いや、兄が居なくなったから村を出ようと思った気持ちも僅かながらにあったような気もする。<br>　村を出れば兄に会えるかもしれない、そう考えたこともあった。しかし実際は今に至るまで出会えてはいないのだから浅薄な考えであったし、村を出れば兄に会えるなどという単純な考えは兄に対して不遜であった。<br>　兄は村が嫌だから居なくなったわけではない筈なのだ。<br>　そのような理由で居なくなるほど兄は愚かでも単純でもないと思う。そこに沙耶ちゃんの死が関わっていないとは思わないが、きっとそれだけでもない。<br>　何故なら兄は彼女の死後、彼女の死を受け容れていたように見えたからだ。<br>　その上で兄はなにか別なものを見ていたような気がする。<br>　そう思うのはきっと、記憶の中にある兄の言った言葉があったからだと思うのだ。<br>　蝉時雨の降っていた十三の夏のことだ。　　　　　　　　</p><hr name="dfddb067-9756-45ac-82e6-db57029d24f2" id="dfddb067-9756-45ac-82e6-db57029d24f2"><br/><a href='https://note.com/nice_badger6169/n/nd2ce8db9f409'>続きをみる</a>]]></description>
      <note:creatorImage>https://assets.st-note.com/production/uploads/images/276408409/profile_557bb15dd379412281f9c3ebd675b9df.png?fit=bounds&amp;format=jpeg&amp;quality=85&amp;width=330</note:creatorImage>
      <note:creatorName>イリー＠小説</note:creatorName>
      <pubDate>Mon, 06 Jul 2026 15:48:03 +0900</pubDate>
      <link>https://note.com/nice_badger6169/n/nd2ce8db9f409</link>
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