
歌姫 #4
『Kasimu』は今やその名を知らない者はいないほど有名になった。
彼女が歌手であることを誰もが知っている。
彼女の歌のサビ、そのワンフレーズを口ずさめない者はいないほどだ。老若男女問わず、多くの人々が彼女の声に魅了された。
カシムが世に出て二年が経とうとしている。
彼女が知られるようになる切っ掛けはSNSに投稿された一曲だった。
曲は彼女のオリジナルで、決して上手いとは言えないギターでの弾き語り。
友の死を歌ったものだった。
そのあまりに切ない歌声、顔の分からない神秘性が徐々に話題となっていった。そのうちに楽曲の提供をしたいという者が現れだした。
有名になりたかった訳ではなかったから、どんな相手であっても然程の関心も持たなかった。
曲、詩、雰囲気、それらに心が動かされたものにだけ返答し、歌った。
次第にボカロP、いわゆるボーカロイドを使用し曲を発表するアーティストからも歌って欲しいとオファーが届くようになった。
歌はネットの中で拡大していった。
最初の投稿から一年が経とうとする頃、有名レーベルから声がかかり、メジャーデビューの誘いを受けた。
好きだったアーティストが所属するレーベルだったこともあり、信用できるだろうと判断した。
それから間もなく、デビュー曲が発表されると一気に火が付く。それまで顔を出していなかったことも話題性を押し上げた。
そんなカシムの容姿はファンの期待を裏切らないものだった。
歌そのものの評価もさることながら、ビジュアルの伴った彼女への圧倒的な信奉ともいえる熱量の増大、その勢いはあまりに凄まじく、当のカシム本人さえ戸惑っていないといえば嘘になる。
当然そんなカシムに対しての賛否はあった。
「顔隠していたのに出すなんて、ただの売名行為だろ、出さなくていい」
「アーティストでございますって雰囲気出して、生意気」
「枕営業だろ、でなきゃこんなのがデビューなんてできるわけない」
そんな陳腐な罵詈雑言は際限ない。
けれど、そんな悪意に反してより多く応援の声も上がっていた。
敵味方、東西の合戦のように言葉を飛ばし合う人々の姿がネットの中で拡大していく。
その様子を、初めのうちこそ己の事と感じていたカシムも、あまりに拡大しすぎた状況に対応のキャパシティを超え、すでに他人事のように感じるようになっていた。
実際、有名になりたいとか世界一の歌い手になりたいとか、そんな崇高な想いの欠片など微塵も持ち合わせてはいなかったのだから、アンチのコメントもあながち的外れという訳ではないのかもしれない。
ただ、純粋に周りが何をどう騒ごうと自分には関係の無いことだと思っていたのだ。そもそも目的は既に達成している。
自身から分離し肥大化していくカシムという偶像は、実在するのかしないのかも曖昧なほどに世界に侵食していく。当の自分は、ただその状況を俯瞰し眺めているだけだ。
タンッ!と最後のエンターを叩く。
打ち込んでいた文章に区切りがついた頃、ラップトップの電源を落としPCを閉じた。
椅子から立ち上がり、カーテンを開ける。朝日が差し込んで一瞬目がくらんだ。夜通しの試験勉強で疲労しきった眼には光が刺激物のようだった。
何時間も同じ姿勢で固まった身体を伸ばし、時計を見ると六時を回ったところだった。
スマホを開いてマネージャーからのメールを確認する。
今日は年末に行われるライブの打ち合わせがある。そのタイムスケジュールを添付されたリンクから確認する。
シャワーを浴びて、軽く食事を済ませたらすぐに出ないといけない。
打ち合わせ前に事務所でメイクを済ませる必要がある。面倒なメイクの時間など取りたくは無かったがそうもいかない。普段の姿のままで関係者と顔を合わせる訳にはいかないからだ。
別に素顔がカシムのそれとかけ離れている訳ではないが、ノーメイクでは印象が異なることは間違いなく、素顔が知れると普段の生活に支障が出てしまう。大学生という普段の生活を邪魔されるのは望むところでは無かった。
十一月に入ったのに気温は一向に下がらず妙に暑い日が続いている。近所の公園では普段なら楓も色づき始めるのだが、今年は未だ青々としている。
先日買ったばかりの黒のMA-1ジャケットに袖を通してお気に入りの白いハンモックショルダーバッグを手にすると黒のキャップを被って玄関を出た。
家を出て三十分ほど地下鉄を乗り継ぐと事務所のある駅に着く。
平日のこの時間は出勤時間に被るので満員電車だ。
当然ながらカシムの存在に気が付く者はいない。
スペースの空いていたドアの脇に立ってワイヤレスイヤホンを付け、新曲のデモ音源を流して目を閉じた。
事務所のある駅周辺はビジネス街である。
電車を共にした人々が蜘蛛の子のように駅から散っていき、またそれぞれのビルへと吸い込まれていく。機械的であり、有機的でもあるこの光景が嫌いではなかった。
人の流れを渡り繋ぎ、ようやくガラス張り十五階建ての建物へとたどり着いた。
受付のある入口のエントランスには、所属するアーティストが出演するドラマや映画のメインビジュアルやジャケットが何枚も飾られている。エスカレーターからそれらを横目に二階に上がると関係者用のロビーに出た。
ロビーにもまた様々なジャケットが掛けられている。
その中でひと際大きな水平線に浮かぶ山々のビジュアル、翼を広げた鳥。
カシムのアルバムジャケット。
その脇を抜け、警備員のいるセキュリティーゲートにⅠⅮカードを翳してエレベーターホールに向かった。
八階に上がると、エレベーター前の休憩スペースでマネージャーの宮越美波が電話をしていた。柔らかそうな背中を向け、どうやら窓の向こうにある公園を眺めながら手帳を開いているようだ。
振り返り、カシムに気が付いた宮越は目を合わせると、メイクしてきなさいと小さく首を動かした。予定ではこの後、車移動だったはずだ。
モダンなブラウンのカーペットが敷かれた廊下を進むと右手の奥にメイクルームがある。
メイクルームに入ると左手の壁際には六席ほどの鏡台があり、それぞれがパーテーションで区切られていて隣とは干渉しないような作りになっている。鏡の周りには電飾のようにLEDのライトが設置されている。
部屋の右手のスペースはやや広く、ソファーや観葉植物が置かれ、リラックスできるようになっているが窓はない。外光をメイクに干渉させないためだ。
きっと先程まで誰かいたのだろう、メイクアップアーティストの伊野が鏡台の片付けをしていた。
軽く挨拶をして手前の席に座りメイクを始める。
取材や撮影であれば担当のメイクも付くが、そうでない場合にはほぼ自分で行う。
他は知らないが自分の場合はそうだし、撮影が無ければ断る場合も多い。近頃はいろいろ教わって慣れてきたこともあって簡単なメイクであれば自分で十分だった。
片付けを終えた伊野が「手伝いましょうか?」と声を掛けてくれたが丁重に辞した。
それから少し経って、メイクが間もなく完成というところで誰かが部屋に入ってきた。
気配の強い女性。
癖のない長い黒髪が腰まで伸びている。
真っ直ぐに切り揃えた前髪の下にある少し垂れた柔和そうな瞳と鏡越しに目が合った。
Nobel Chainsのヴォーカル、ヒノエだった。