
小説供養|第二十一期生徒会長の手記(または、記念樹)
水子供養(他の小説供養と同文)
スマホのテキストファイルをぶち込んでおくフォルダを見ていたら、幼い頃に出だしだけ書いた小説の水子みたいなものが大量に出現しており、震えている。そのうち陽の光に当てて供養してやるからな……
— 戯鳥(自我の肥大・激情) (@xiniao_huniao) June 17, 2026
私はスマートフォンで小説原稿を書くが、機種変時にしっかりデータを移行しているばっかりに、十年以上前の小説も、書き終わる前に放置された水子もだいたい残っている(十年間断続的に小説を書いてきたわけではない。ワールドカップくらいの周期でハマったり辞めたりしている)。普段意識することはないけれども、昨日久々にディレクトリをディグっていたら、思ったより多くの水子が大量出現してビビった。
おれはこいつらにころされるんじゃないか。
というわけで、供養というか、陽の光に晒して悪いものを浄化して行こう。次々に。
今回の作品:「第二十一期生徒会長の手記」
ジャンルは倫理青春小説?
「こころのあな」等と同様に完結しているから、正確には水子ではない。
基本的に、この小説供養シリーズは私が高校生の頃に書いていたものがほとんどだ。
当時の私は高校の文芸部で、ささやかな組織改革(改悪)をしたり、新しく「文芸部らしい」企画を提案したりして、かなり精力的に暴れていた、と言っていい。たとえば、テーマで縛った隔月誌を創った。この作品は「植物」がテーマのときに書いた。
「第二十一期生徒会長の手記」(私の中では完全に「記念樹」という旧タイトル:プロジェクト名で記憶されている。このタイトルは、作品全体の構造を説明するための要請によるものに過ぎない)一番文量の多い作品だし、思い入れも多い。いい出来だとはお世辞にも言えないけれども、読み返して案外面白い作品なんじゃないかとは自分でも思った。当たり前だ、自分の好みにアジャストして書いているのだから。
当時、ある「最高学府」の学園祭に赴き、文芸部の出版物を手に入れて読んだ。文章は巧いように思えたが、何が言いたいのかわからなかった。わかるようになりたかったから、恩師の一人にその作品と、この作品──当時の私の書けるものの全て、を同時に渡した。
恩師の評価はこんなふうだったと思う:前者は確かに巧いが、巧いだけである。一方君の作品は、青い。拙いが、言いたいことははっきりしている。私はそっちのほうが、大切なことだと思う。
慰めというか、世辞だろうとは思う。今読み返しても、洗練させる余地は沢山ある。そう思えるのは成長と言っていいのだろうか? それとも単に過去を否定することで、自らの停滞をも否定したいだけなのだろうか?
とまれ、この作品は私の創作傾向の中でも少し異質ではある。主要キャラクターに固有名が割り当てられ、人格像を荒削りでも設定し、申し訳程度の非本質的な会話──日常性? が含まれている。どういうつもりでこういうテイストにしたのか今となっては判然としないけれども……そういう要素を入れたにしては、全然万人受けするような作品じゃないよなあ? 当時の俺よ。結局問い立てが前面に出ちまって、答えに至る前に放り投げることの繰り返しなんじゃないか?
ともかく、この作品はWebに掲載するにしたら、普通一挙に読ませるのはだいぶ難しい長さだ(36000字くらい?)。あんまり読まれるとは思ってない。小説供養は、あくまで私の自戒の記録という側面の方が大切だ。記録と解釈の悪魔に魂を売ったもんで。
ちなみにこの作品に登場する「蘭原花穏」のモデルは、以下の記事に登場する「少女K」である。勿論、モデルなだけで、実際の彼女はあんなやつじゃないよ。
本文は明らかな誤字誤植以外手を加えていない。
本編

─まえがき─
この文章は私の高校時代の日記を小説調に編み直したものであり、章の番号はそのまま時系列になっている。執筆した目的は、もし、私と同じような非業災害級の『病』を患ってしまった後輩たちがいるとしたら彼らに、曲がり形にも先駆者として、どういう先例があったかを単に示しておいて差し上げようというだけである。いや──そんな大層なものでもない。
思春期にぶつかる壮大な、壮大な問題は──ときに悲惨に、ときにロマンティックに、ときに運命的に、劇的に感じる牆壁は──過ぎ去ってしまえば、案外ただの思い出だ。その記憶は圧縮されて、混ざりあって、沈んだり浮き上がったりして、たまに水面に波紋を立たせる。それがこやしとなって自らを育てたり、菌床となって腐らせたりもする。苗木が昔、大きく思えた障害物は、それを超えていつか幹を太らせ枝を伸ばしたときにはもう見下ろすものでしかない。でも、その阻みがあったかなかったかがそれより後の樹の成長を左右しているのは、幹の模様や枝の一本一本とその数、葉を見ても明らかだろう。どんなに小さな虫だとしても、苗木から見れば天敵であり、成木からは最早見えないものだ。つまり──そういうことだ。どうしたって反応せざるを得ない。ただの思い出になったのは今のあなたの成長の賜物。だから後から過去を馬鹿にしないで欲しい。そのときのあなたには克つも避けるも得難い天敵だったのだから。
しかし、では、過ぎ去ってしまえなかった場合はどうだろう。苗木の成長は止まったまま、新芽を齧り続けられたまま、徒に根を伸ばし幹を腐らせて歪ななにものかへと変容していく、かもしれない。新しい枝が生えてくれば上出来だ──やっぱり話をまとめるのは苦手なので、尻切れとんぼではあるものの、まえがきはこの程度にしておく。
████年█月██日 小鉢日向子
(追而書)やっぱり宛のない手紙になりそう。
010
全校生徒投票でも、代表者会議である評議会でも丁度半分に分かたれた議題は。この『大したこともない』騒動は。
ただの同情──共感から引き起こされた『壮大な』物語は。
そして、また私の預かり知らないところで平定されると思っていた、『不道徳』は。
最後の最後には──私の一票を以て終結しようとしていた。
「会長、どうするのですか」
二年副会長の菫野は、私を睨む。
「………………」
「……小鉢会長!」
「……わ、わかった、決める。決めるよ──」
私は菫野に応えるというよりもむしろ、自分に言っているような調子で繰り返した。
そして。
「──────!」
『天秤』という名の葉が、心の樹に芽生えた瞬間だった。
001
私は孤児だ。孤児だった。孤児になる前は、被虐待児童だった。そういう話を、そういう単語を口に出すと、それを聞いたみんなは一様に気の毒そうな顔をしてくれるけれども、むしろそうしてくれた方が私としては心苦しいものがあった。だから、中学生の中頃から、自己紹介のときにそういう話をすることはやめている。周りがざわざわするのも嫌だった。風に揺られて鳴いてる林の声みたいにざわざわする。台風の叫号じゃあなくて、あくまで微妙な風のざわざわだ。しかしながら私自身に、虐待を受けていたという実感はない。ここまで生きてこられたことを振り返っても、今五体満足で生きているんだからそれ以上には、という風にしか思わない。それでも私が、正直な身の上話をする際に避けて通れぬ「虐待」がなぜ首を擡げているのかと言えば無論、それは他人との比較でしかない。比べてでしか解らない。承認とか軽蔑とかレッテルとか評価とか同情とか配慮とか──そういう、人間が人間を「見るとき」に付随するものたちが、私を形作っているというのも、そこまで間違った話じゃあないと思っていたりもする。一応私は、普通に生きてきたつもりだが、その反面で私が普通じゃない「らしい」ことは私も認知している。他人の目を借りて見ている。私にとってごく当たり前の、親からの扱われ方は、一般人だと自称して疑わない人間にとって見れば極々非人道的なんだそうで。でも別に、私の親が私の世話をしなかったわけじゃない。ただ、私を植木鉢で育てる観葉植物と同じように可愛がってくれていた。私をペットの犬と同じように愛してくれていた。それだけのことだ、平等なだけだった。私は植物と変わらないくらい、犬と変わらないくらいの世話を受けた。およそ一般人の言う、人間的な、健康で文化的な最低限度の生活じゃあなかったことは、のちに知った。身体的に、健康ではあったけれども。それが私の基盤であり、物心ついた頃までは継続されていたことだから、仕方なしに私の中には定着している。四、五歳の頃に役所の大人達が私を連れて行った。私は孤児院──じゃなくて、児童養護施設、「ミリー養育館」というところに入れられて、それで今、高校生まで生きてきた次第である。小さな施設だったけれど、きちんとした庭があって、四季と親しめる自然があった。自分が虐待を受けていたことを知らされたのは、中学校に上がるときだった。驚かれるかもしれないが、これについて特に感慨はなかった。中学時代を「普通の子達」と普通に過ごすことの出来た(幼さ故にか、ないしは深刻化する段階で私が個人情報を公開することについて若干の規制をし始めたからか)私はしかし、高校に進学するかしないかのタイミングでとある難病に罹る。原因は、どうやら私の出自に関わっているかもしれないと、担当医は言っていた。そしてそれは、具体的な病名は伏せるが、他人の臓器を戴く必要のある病気だった。加えて、かなり難しい手術らしかった。医療には、当然お金がかかる。当時のミリー養育館は経済難にあった。到底、払える金額ではなかったんだろう。病院から帰った日の夜の、他の子供達の寝静まった夜半、事務室を陰から覗いたときの館長の隠し切れない渋い顔がまだ忘れられない。見なければ良かったと思った。しかし、その次の日には「心配することないわ、大丈夫」と気丈に言ってくれた──申し訳なさとか感謝とか、簡単な言葉では単に言い表すことの難しい濁った感情が胸の底に沈殿した。臓器提供をして頂けるドナーも見つかり、めでたく治療完了した私は、無事に高校に入学、自立するために勉学に励むようになった。それから一年経ち、生徒会選挙にて会長に立候補した私は、 ややすんなりと、生徒会長になった。
002
「今月の投書、見ときました──ひとつ、気になるものがあったんですけど」
毎週行われる生徒会定例会議で、一年総務の蘭原が、目安箱の投書について議題に挙げた。ショートヘアの女子だ。
「北校舎裏の[記念樹]が病気のようなのでなんとかしてあげてください。二年二組、橘萌」
蘭原は文面をそのまま読み上げた。
「[記念樹]とは、何でしょうか」
投書内容に疑問を呈したのは副会長の菫野だった。姫カットで黒髪ロング。生真面目で、悪く言えば堅物……育ちの良いお嬢さまと言った感じ。実際に家はお金持ちらしい。それについて言及すると怒るけれど。
「あのほら、北校舎裏にある大きい広葉樹あるじゃないですか」
蘭原が答えた。あぁ、あれか。
「? ……あまり印象ありませんね」
菫野は知らなかったようだ。蘭原は知っているらしいとして、他の生徒会本部役員の面々──もう一人の一年総務、椰子根や、二年書記の橙ヶ崎、二年会計の大葉の顔色を順繰りに見てみたが、知っていそうなのはいなかった。唯一、一年副会長の布袋だけは普段と表情を変えずに書類に目を通していた。いつも無表情に近いのであまり正確なことは言えないけれど、彼もまた知らないだろう。
「まぁ私も、その樹があること自体は知ってたよ」
まだ高校に入学して間もない頃、私は学校の敷地にいる動植物に挨拶して回っていたことがある(今では人間関係や生徒会の職務で忙しくて行けていない、行きたい)。人間については、入学式のときに見ていたから抜きにして。そのときにその、[記念樹]については見つけていた。
「[記念樹]って、書かれてますけど──でも会長と蘭原しか知らなさそうですよ。俺も聞いたことありませんし……」
椰子根が口を開く。
「[記念樹]──でも私も、知ってると言ってもじゃあそれが、なんの記念なのかとか、よく知らないんだけれどもね」
[記念樹]という呼称自体は今初めて知ったのだ。どの樹だということか思い当たるだけで。とりあえずは、その判りやすい呼称を使うことにする。
「でも前に見たときは確か、樹の前に看板があったはず」
「じゃなきゃ、記念樹って解りませんもんね。あ、でも、もし看板があったのなら、何の記念なのか位は判ったんじゃないですか?」
椰子根の質問はごもっとだったけれど、しかしながら、
「いやそうなんだけれど、でも、凄く古くて文字が掠れちゃってたんだよね……文字らしきものが書かれていたってことしか判らないくらい」
「そうですか……」
一年以上前の話だから、私の記憶も曖昧かもしれないけれども、今知らないということは多分、そういうことだ。
「昔学校でなんかあったんかな」と、大葉。髪型をオールバックにしていて、生徒会の面子の中では一番制服を着崩していて見た目はなんかこう、チャラい感じ。
「そういえば! 北校舎って、怪談が絶えない場所だよね〜」
先程まで大して興味もなさげに話を聞いていた橙ヶ崎が突如、目を輝かせてにやにやしながらそんな話題を持ちかけた。
「ほら今年の始め……まだ一年の皆がネクタイきちっと締めてた頃にさ、あったじゃん。北校舎一階男子トイレで叫びながら首吊ってる霊を見たとかいう話……」
「ちょ、やめてくださいよ」
「おいおい、俺が言ったのはそういうニュアンスじゃなくて」
「記念樹じゃなくて、慰霊樹だったり〜」
「もうっ……」
橙ヶ崎が茶化し、椰子根と大葉が振り回されていた。
「それは確か、トイレの換気扇の整備に来た業務員の方が脚立を踏み外して天井に引っかかっているのを、夕方に通りかかった生徒が誤認したという話でまとまったはずですよ」
先程まで書類をまとめていた布袋が口を挟んだ。話が脱線しているのが気に入らなかったのか、心なしか苛ついているみたいだった。彼の角刈が真面目さを際立たせる。
「えー、なにそれ、つまんなっ」
「話を進めましょう」
食い下がる橙ヶ崎を布袋は食い気味に遮った。別に、ちょっと雑談するくらいいいと思うけれども。同じ真面目系統の菫野とはまたなんと言うか、堅物の方向が違う。ちらりと彼女のことも見てみたが、さほど気にしている様子でもなく、自前の紅茶を淹れていた。
「え、えっと、じゃあ」
話をまとめるのは苦手だ……
「まず、僕達で見に行けば良いのでは」
答えかねてる私を見兼ねるでもなく、布袋は先んじて言った。
「蘭原と会長以外は知らないことですし、学校パンフレットや資料にも残ってませんでした、僕の見た限りですが。生徒会として判断をするに当たっては、とりあえず全員その[記念樹]とやらを確認するべきだと思います」
「そ、そうだねっ」
な、ナイス後輩。こりゃあうかうかしてられないなあ……
これに誰も異論はないようで(というか出しにくいんだろうなあ)、結局、顧問の先生を呼んで北校舎裏へ赴くことになった。
*
何が[記念樹]だ、何を記念したんだよ、誰も知らねえのに。創立記念じゃない? 馬鹿言え、ウチの高校はまだそんな歴史長くねえよ。そうだったら判るだろ。……。やっぱり非科学的な何かが。先輩しつこいっすよ。そういえば、蘭原さんはなんでその樹のことを知っていたのですか。あ、あの投書見つけたときに気になって、一人で見に行きました。結構アクティブなんですね、あなた。あ、先生呼ぶの忘れてた~……。僕が呼んできます。いやでもやっぱり首吊りと業務員間違えるなんておかしいよ! お前また蒸し返すのかよ! 先輩に向かってお前とはなんだ!? いやいや今の違いますって、大葉先輩ですよ!
などなど、喋りながら北校舎裏まで来たわけです。
「布袋くんは先生呼びに行ってくれたよ」
先生とは、荏胡麻先生──生徒会顧問だ。小太りな中年男性だった。
案外広いんだね~、と一人奥の方まで行ってしまう橙ヶ崎の背中を追って大葉も着いて行った。なんだかんだであそこは仲がいい。微笑ましいなぁと思っていたら横から蘭原が、
「羨ましいですか?」と訊いてきた。背の小さい彼女は、どう足掻いても上目遣いにならざるを得なく、そのせいかいじらしく、かつ意地悪く見えた。その質問がなんの意図かは知らないけれど。
「まぁそれは、羨ましいとは思うけど? あんなに仲の良い友達がいるってことはさ」と、当たり障りなさそうな答えに留めておいた。何、別に嘘ではないし。
そういうことではないといった感じの目を、蘭原は私に向けてきたような気がしたけれど、それは無視することに決めた。
橙ヶ崎の言う通り、北校舎裏は広い──特に、庭として整備されているわけでもなく、ただ野放しに草木が繁茂しているだけだけれど、獣道らしきもの(らしきもの、じゃなかったら困るよね。校内だ)はあるので、まぁたまに通る人間もいるのだろうといった印象だった。
「それで、その樹はどこにあるんでしょうか」
「あ、もうちょっと行った奥です」
「うわっ、結構草うざったいな……」
菫野、蘭原、椰子根も先に行ってしまった。ふと、一人になり、久しぶりに来た校舎裏を見渡す。生徒会役員達の足音が遠のいてゆくと、自然に草の風に揺れる音やら、虫が鳴く声やらが耳に入ってくるようになった。少しの間目を瞑ってから、
「こんにちは、久し振り」
草花達に挨拶を済ませ、なるべく踏まないように私は彼らの後を追った。
*
それは、かなり背の高い広葉樹だった。幹は、植樹されたにしてはかなりひん曲がっていて、あまり見たことのない樹皮。[記念樹]の病状は、素人目に見ても、かなり深刻なようで、
「中、腐ってますね」
椰子根はそこら辺で拾った小枝で、樹の、丁度腹のように膨れた部分にぽっかりと空いた虚の隙間から感触を確認している。どうやらそこが、病の中心らしかった。
「……あんまりやりすぎないでよ、悪化したら困るし」
私は高校入学以前のことを思い出していた。
手術室を。
お腹の中を探られる気分──椰子根の持つ小枝の動きは、私に一年と余ヶ月前の手術医の手つきを連想させた。
「けど、ほんとにこれじゃ何も判んねえな……」
大葉が[記念樹]の前に建てられた看板を見て呟く。やはり記憶通り、それには文字の痕跡しかなく、ほぼ木の板だった。
「この木目、人の顔みたい!」
「また言ってる……」
懲りない橙ヶ崎だった。
「遅れてごめんね」
不意に後ろから声がしたので振り返ると、荏胡麻先生と布袋がいた。多少急いで来たのか、鼻に脂汗を浮かべながらの登場だ。布袋は涼しい顔をしていたが……
「あ、どうも。あの、内容ってもうご存知ですか」
「あー、大体のことは布袋くんに聞いたよ」
「ありがとう布袋くん」
「いいえ」
「で、この樹なんですけど……」
樹木は幹の外側の部分で水分や栄養のやり取りをすると聞く。中が腐ってもこの樹が立っていた所以はそこだったのかもしれない。いずれにせよ、危なげではあるが。
「なるほど、確かに腐ってるね」
「どうしますか」
荏胡麻先生は、多少の時間樹の状態を真面目な顔で検分した後、ややあって、
「いやまあ、ぼくにはちょっと判りかねるから、詳しい先生か誰かに訊く、ないしは業者さんに電話して調べて、これに対策があればやってみるさ」
「わかりました」
とりあえず、生徒会を中継ぎとしてこの問題は、学校側がやってくれるそうだった。
「荏胡麻先生」
菫野が先生を呼び止めた。
「ん?」
「この樹、投書では[記念樹]って呼ばれていましたけれど、結局は何の記念なのですか」
「あー……うん、それね。それはぼくも知らないんだよな」
「えっ、先生でもわかんないのっ」
「もしかしたら、長くいる先生だったら知ってるかもしれない。それも一緒に訊いてみるよ」
「教員でも知らないのに、どうして[記念樹]なんて呼ばれ方をされているのでしょう……」
「どちらにせよ、敷地内の設備の不調だからね、[記念樹]だろうとなかろうと対処はしなきゃいけない」
「え、設備って……!」
そこに私は、会話に割って入るように、強めに声を出してしまった。
「ん? どうしたの小鉢さん」
周りとはトーンの違った私の声に、先生だけでなく他の役員面子もこちらを見た。
「……いや、なんでもないです」
と答えるのが精一杯だった。
やってしまったと思った。
しばらく片眉を上げて頭の上に疑問符を浮かべていたが、特に気にも留めなっかったのか。
「……まぁ、ならいいよ。とりあえず何か決まったらまた連絡するよ。皆お疲れ様。会室の鍵、返し忘れないようにね」
それだけ残して先生は先に帰ってしまった。さほど気にする様子もなく、それは回りの生徒達も同じだった。
その日私達は、生徒会室に戻り、事務作業などを済ませてから解散した。
「似てるなぁ、きみ。私と」
帰りにもう一度寄ってみた。
003
「何かあったの」
「いや、別に」
館の庭での会話だった。
「嫌な顔してる」
「そりゃ生きていれば嫌なことの一つくらいあるよ」
「それに、そこに座ってるじゃない──そこに座ってるときは、大抵あなた、悩んでるときよ。日向子」
そこ──特に何の変哲もない、ベンチだ。私は庭にあるベンチに座りながら、片割月を見ていた。
「ただ座ってるだけだよ」
「私には、何か憂鬱そうなものを話しているように見えるわ。木々や草花に向かって」
「………………」
ミリー養育館の館長、瓜盛弦子は、私の癖を当然のように見抜いていた。半ば私の母親代わりでもある彼女は、私と同じように月を見ながら縁側に腰を下ろしていた。
「私、そんな判りやすかったかな」
「まぁ、長年見ていれば、ね」
見破られていたからといって、だから何が起こるわけでもなかったが、少し恥ずかしかった。
「庭には言うのに、私には言わないのよね」
「いや……まぁ……」
「どうせあれじゃないの、例の病気関係の」
案外突拍子もない発言であり、図星だった。
「……どうして判るの」
「まあ、あなたが単純に思春期で言わないっていうのもあるにはあるかもしれないけれど、他に理由を探してみれば、気に病んでるのかなって。あのことを」
「………………」
『あのこと』とは、つまり私が高校入学以前に起こした病気、その治療費について館長その他大勢に迷惑を掛けてしまったことである。
「気にしなくていいのに……とは、何回も言ったからもう今更言わないけれど。でも私達は家族みたいなものなのよ」
当然、なのよ。
助けるのが当然。
私は、自分の腹を摩った。服の上からでも、縦に残る痕がまだ熱かった。
「当然って──館長は言ってくれるけれど、でもそんなわけないよ、私だって高校生になってから──まだ高校生だけれど、でも……」
「いいの。あなたは私の子で、皆の兄弟だから」
「………………」
なんとも、言えなかった。
私だって、館長や、館の皆は「家族」だと思ってる。でも、そもそも私には家族の原型はない。館長や館の皆がイコールで「家族」になっている私には、それをもっと掘り下げるための感覚や、その解答はないのだった。
それに、掌の下で、私の腹の中で未だ鳴動するこの臓器は、人様のものなのだ。「家族」でも、家族でもなんでもない、見ず知らずの他人の助けが、そこに在った。本来あるべき場所から移された、モノが。
「いいのかな……」
「何が?」
「いや、なんでもない……それに、今回はそれについて悩んでいるというより、単に暗い気分になってるだけだし。別に問題があるわけじゃなくって」
「そう……案外、木々草花にも話していなかったのかもしれないわね。ただ、憂鬱にしてるだけで」
「草に話すなんて、どういうことなの」
「え? いつもそんな感じよあなた」
「ないない」
笑った。
笑いながら、やっぱり館長は私のことをよく見ているんだなと思った。
彼女が言う通り、思春期の子供が親に自分の交友関係や趣味を開示したがらない心境と、似ていたのかもしれない。いや私もそりゃ、思春期なんだろうけど。
「まぁ、さっきも言ったけど、それで何かってわけでもないんだ、多分ね……」
再び夜空に目を向けたとき、煌々と輝いていた月は、雲に飲まれ陰りの裏に消えてしまった。
夜は更け、風は冷え込んだ。
004
「北校舎裏が空いているのなら、そこに自習棟を建てれば良いと思います。二年三組、胡桃田幹人」
それが、次の週の投書だった
生徒会活動は、基本的に毎週発行する『生徒会だより』なる誌に明記される約束になっている。これは、生徒の、生徒会活動への理解や興味喚起を目的とした仕事の透明化の一環で──実情、普段は誰も読んでいないようなところなんだけれども。とにかく、要は先週の[記念樹]の調査と、その後に伝えられた「あー、あの樹の話ね。そのうち業者さんが来てくれて、色々やってくれるらしいから」も漏れなく掲載したわけだ(もちろんこんな適当な文言じゃない)。
そうしたら、こんな投書が。一般生徒からの反応って、生徒会をやっていてもなかなか来なくて、ああこの組織でさえ形骸化は免れないのかなぁなんて思うこともあったので、本来これはかなり喜ぶべきことだとは思うのだけれども。
北校舎裏に自習棟を建てる。
自習棟とは、読んで字の如く、生徒の自己学習のための建物だ。実は去年、自習棟が欲しいという要請が生徒側からあった。生徒会に対して、である。
建造物単位で生徒会に申し立てを行うことについて疑問があるかもしれないが、どうしたことか我が高校はそれがまかり通るのである。極端な放任主義というか、生徒主体の学校というか。勿論、それ故に決めごとの制度はシビアに作られていて、それこそ政治的活動レベルでの行動を起こさなければそう上手くはいかない、という反面もあったけれど。
では去年の申し立ての際にどうしていたのかと言えば、それは誠に恥ずかしいことに「生徒会が渋った」のである。まぁ私がいたわけじゃないから恥ずかしがる義理は本来ないが。渋ったことによって先送りにされ、そのまま月日が過ぎ季節は巡りまだ同じ場所に戻ってきたということだ。
「さて、どうしよう」
「ずずっ……」
「面倒臭そうな内容だな……」
「ずずっ……」
「面倒でも仕事ですから、やるしかないでしょう」
「ずずっ……」
「去年これ流されちゃってるから、きちんと処理したいんだけれども」
「ずずっ……」
「この学校、マジすか……」
「ずずっ……」
「やっしー生徒会なのに知らなかったの? まー、あたし個人的には反対だけどねー」
「ずずっ……」
「……あの……いや、本当にこれ、通る可能性はあるんですか」
などなど、やはり会議は荒れました。
「荒れてるのはお前の鼻だ!」
「えっ? ずずっ」
「ずずっ、じゃねえ鼻をかめ鼻を!」
「ごめんね今日風邪気味でさ」
「風邪気味じゃなくて風邪だろ……議録に載せてやろうか?」
ちーん。鼻をかみました。風邪気味の日は嫌な予感がする。意外と、的中するのだ。怖い。
さて……気を取り直して。
「しかしながら会長、これを議決に通す通さないの前に、先週の件があるでしょう」と布袋。
そう、そうなのだ。そもそも何故この投書が来たかと言えば、それは北校舎裏の土地について『生徒会だより』で言及した(してしまった)ことがトリガーとなっている。元の発案者が誰かは知らないが、去年の時点で自習棟問題はかなり話題になっていた(『生徒会だより』には投書内容を載せたのに、処理はしなかったという酷いミスに因る)。だからそれを見ていた賛同者もしくは本人が、また投書したと考えて間違いないだろう。もっとも、本人だったら怒りのメッセージになっていると思うけれど。
そして、この話を議論の俎上に上げるには、まず先週の話──謎の[記念樹]についても考えなければならないのだった。
「一応、訊いてきたぜ。橘萌に。隣のクラスだったから」
大葉が話し始めた。
「まず、[記念樹]っていう呼称についてだが、これは橘の部活の先輩がそう呼んでいたらしい。橘と同じ部活の奴らもこれを知っていて、割と狭い範囲だけに呼ばれているっぽい」
「あ、わたしもその橘先輩とは多分、違う部活の同級生なんですけど、その生徒たちに聞いたら知ってました。どこで知ったかは覚えてないって言ってましたけど」
蘭原が続いた。
他、役員に聞いてもちらほら、同じような感じだった。そこそこの人数の間で呼ばれているらしい。
「あの樹の前で告白すると必ず成功するとか、樹に願掛けすると大学受かるとか、そんな話も聞きました」と、椰子根。
「でも、やっぱりなんで[記念樹]と呼ばれているかは、皆知りませんでした」
「まぁ、俺のもそんな感じだ」
意外と皆真面目に調べてくれていたようで安心した。
「……そういえば、先生はどうしたんだろう」
「それについては僕が先に聞いておきました」
一年副会長が答えた。
「『看板は生徒のいたずらなんかじゃなくて、れっきとした学校のもので、何人かの先生は、あぁ[記念樹]ね、というくらいは認知していたけれど、それ以上はよく知らなかったんだよな。でも実際、その看板も本当に樹を指しているのかは判らないし。看板は学校のものでも、樹は……まぁそりゃ確かに敷地内の樹だから、学校のものではあるんだけどなあ。資料も探してみたけれど特に記されてはいなかったよ』、だそうです」
「なるほど……教員の認識も生徒並みかなあ」
さて、どうするべきか。[記念樹]の治療のための業者はまだ呼んでいないとのことだったが、しかし自習棟を建てるとなれば、無論あの校舎裏は全面的に人の手が加わる。
あの[記念樹]は多分、退かされてしまう。
「割と、ああでもこれはあくまでこんな感じって印象ですけど、[記念樹]を知っている人は皆、思い入れがあるような口ぶりでしたよ」
「……確かに、あたしのところもそんな感じだった気がする」
ある一部からは支持のある[記念樹]、ただし正体は不明……か。
私が目を伏していると、菫野が話し出した。
「順当に考えて、自習棟の件をメインに検討するべきだと思いますが」
「………………」
内臓が浮いたような感覚に襲われた。顔は動かさない。
「朽ちかけていますし、人の噂程度の知名度──本当に[記念樹]なのかどうかも怪しいですし。片や勉学奨励ですから」
口を開きかけて、やめた。
確かに、間違ってない。
でも、私は──少なくとも私は引っかかるのだ。
薄汚れたワイシャツの左袖ばかりが目に入る。
「ま、まぁそりゃそうだけどさ、自習棟の件だって去年全く手ェつけてないってだけで、そもそも生徒皆が思ってるかも怪しいよな」
「それは、そうですが……」
「少なくともあたしは反対してまーす」
会話は耳を通り抜ける。後景にぎゅんとぼやかされて、繰り返されるのはいつかさびた、気分。
その樹を踏み潰してまで──いや、樹だけじゃあなくて、あの校舎裏にいた草花たちも含めて、それを潰してまでやるようなことなのだろうか、と。
「大葉先輩の言う通り、去年意見が出されたというだけで優先すべきかどうかはわからないところだと思います。それも含めて、調査してはいかがかと思いますが、会長」
生命、道徳。
小学生の頃、同級生のあの子にも──
「会長?」
「えっ、あっ、あっ、はい、えっ?」
話を振られたのに、私は気づいてなかったみたいだった。
「大丈夫ですか……つまり、実行に直結する議決をする前に、まずは各々に対する生徒の総意を把握しておかなければならないのではないか、ということです」
「……あー、うん、そだね、うんうん」
「なんか適当っすね」
うっ。まずいまずい。
「いやちょっと今、お薬何個飲めばいいか考えてたんだ、あはは……ずずっ」
風邪気味なのをいいことに誤魔化してみたりした。皆の目線が集まってしまって、私はつま先を丸めるしかなかった。
とりあえず、各クラスにいる学級委員を通して、簡単なアンケートを実施することで話は落ち着いた。
005
今まではうまくなあなあにしてきたように思っていた。昨日館長にも言われて、勢い否定してしまったけれど、やっぱり彼女にも明確に開示したことはなかった。と言うか、開示したことがなかったというよりも、当たり前のことだと思っていたから言う必要もなかったというのが正確なところである。
しかし、今日は露呈したらしい。風邪気味だったからなのかは、知らないけれど。
「会長」
その日の生徒会を終え、下駄箱へ向かうときだった。暗い廊下で後ろから声をかけられた。麗しい声で、上品な発音だった。まるでお嬢様みたいな──振り返ってみると、菫野が立っていた。
あ、本物のお嬢さまだった──
「あの、私の家柄について言及することをやめてください」
「え? 私、口に出してた?」
「ええ、はっきりと」
些か怒気を孕ませているような口調だった。
「でもいいじゃん、お金持ちって悪いことじゃ」
「!」
いつの間に距離を詰められたのか、台詞を言い終わらないうちに、目の前には今にも怒号を発しそうな菫野の顔があった。フェイスにフェイス。
「や、め、て!」
「……わ、わかったよ」
いつもの品のある言葉遣いは崩れ、拳を固く丸めてほぼほぼ鬼の形相だった。何かトラウマでもあるのだろうか……
閑話休題。
「で、どうしたの副会長さん」
「どうもしませんよ会長さん」
言い回しに乗ったにしては、なかなか優れないご表情の副会長さんだった。
そして、単刀直入に、間髪も入れずに質問を続ける。
「なにか、あの樹に思い入れでも、あるのですか」
「ん?」
明らかな質問だった割には、意図が読めなかった。
「いえただ──」
ややあって、
「校舎裏で漏らした一言や、今日の会議での様子から推し量って、会長はあの樹に対して、単なる樹以上の何かしらをその心に抱いているのではないか、と」
「………………」
げ、見られてた。なるほど……
というのが、咄嗟の本音ではあったがでもしかし、やはり判りやすかったのかもしれないとも思う。他の人たちがあまり気にしなかっただけで。菫野がそれに気づいて、そしてわざわざ個人的に言ってくるなんてことは、毛頭想像出来なかったけれども。
「事情が──私情があるんですか? 情報提供して頂いた生徒たちと、同じような」
「……いや、その、特には」
「じゃあ先日や先ほどの思案顔は──いえ、そこまで問い質すような必要はありませんけれど。気になりましたので」
「今日のはほら、風邪気味でさ、あんまり頭回ってなかっただけだって。この前のは、うーん……あんまり憶えてないな、どんなこと言ってた私?」
「[記念樹]が学校の設備、という言い回しについて逡巡していたようでしたが」
即答する菫野。
「……あー、そんな感じだったっけねえ……なんでだろう。そのときの私、何考えてたんだろうね。よく憶えてないな」
多分菫野から見てこのときの私は完璧にしどろもどろの狼狽娘だったんだろう、私が言ったことなんて聞いてなかったように、
「……会長に、あの樹に対して何かしらのそれがあるのかどうかは、知りませんけれど、もしあるならば、生徒会の活動に私情を──学校の運営にそれを重ねるのは控えてくださいよ」
多分菫野は単に、仕事の公正さを守るために話しかけてきたのだろう。
「………………」
用は済んだとばかりに、それでは、と言って踵を返しかけた菫野に、私は慌てて声を掛けてしまった。やめておけば良かったのに。
「……その、私情とかじゃなくってさ」
当たらずとも遠からずな理由を探す。
「ほら、あの樹だって、一つの命じゃない?」
そう、命だ。私と同じ命。 魂とか、心とかについて詳しくはないから考察はできないけれど、でも植物が生物であることは誰しもが理解していること。生き物であることは皆解ることだ。
生き物は、大切に。
平等に。
この地球に生きとし生けるものは総て同じところから生まれて来たのだから──それは、感覚的に解る物事のはず。皆忘れがちだけれど、言えば気づく。今までだって。
小学校低学年のとき、校庭の花壇で自然の観察をする授業があった(たしか、「せいかつ」という科目名だった気がする)。私は他の生徒より率先して土いじりやら、水やりやらをしていた。楽しかった。でも、ふと目を周りに遣ったとき止まったのは──何やら、数人が石をひっくり返して何かしている──いたのは、ダンゴムシだ。小学生の小指の先ほどの大きさの、小さな小さなダンゴムシ。
──あっ、まるまった──ひらかない!──なんだこいつら──
口々に(もしかしたら)初めて見たのかもしれないダンゴムシに対する感想を述べつつ、彼らを掌で弄んでいた。こじ開けようとしたり、転がしてみたり、同級生に投げつけてみたり──
私は元いた位置からは動いていた。その子たちの方へ。
「ダンゴムシ、がかわいそ、う」
と言った気がする。
──なんで?
「むりやりあけ、たらいたい、でしょ」
──だって、こいつらあかないんだもん。つまんない
「でも」
──うるせーな、もういいよこんなの。
──つぶしちゃえ。
「!」
そして言葉通り、その子は丸まったままのダンゴムシ十数匹をアスファルトに散らし──上から、近くにあったコンクリート塊を叩きつけたのだった。
ダンゴムシの悲鳴は聞こえなかった。黄色い飛沫だけがコンクリート塊の陰から飛び出ているのみだった。
「ど……」
──あはは、つぶれた! つぶれた!
「どう、してそんなこ、とするの!」
──!?
「いきて、る、んだよ──██く、んとおん、なじいきてる、のにいきてるのに!」
──う、うるせえこばち! ダンゴムシなんだからいいんだよ!
「い、いことな、い!」
そう言いつつ、私は先ほどダンゴムシを潰したそれをヨタヨタと拾い上げた。
──なにするんだよ!?
そして、無言で振り下ろした。
*
幸いなことに、あのとき振り下ろしたコンクリート塊は私が非力だったおかげで、彼と私の間に落ち、半分に割れて終わった。すぐに担任の先生が駆けつけて、二人とも物凄く叱られた。
やれば解ると思ったんだろうなぁ、私。今の回想は、些かミスチョイスだった。
勿論、そんな強硬手段を取ったのは、あれが最初で最後だ──学年が進むにつれ、私の拙い言葉遣いの改善と、周囲の道徳観の発達、とりあえず黙って考えてみる……などによって、それは穏やかに成されてきたと思う。私は道徳を守る・守らせることに於いて、いつの間にか尽力したい、そんな心構えにさえなっていたような気がする。
そんな半ば暗い思い出をフラッシュバックした。
僅か玉響ほどの時間である。菫野に向き直り、もう一度言う。
「命を大切に、って、だけだよ」
「……あー」
菫野はキャラに似合わず拍子抜けしたような顔をした。上手く伝わったかしらん。
しかし彼女の次の台詞は私にとって、衝撃的なものだった。
「でも、だからどうしたのですか?」
えっ?
「先程も言いましたが、広く認知もされていなければ、これと言って必要もない──ただの樹ですよ? 北校舎裏なんて、そもそも生徒が訪れること自体珍しいですし……」
至極真っ当なことを、当たり前なことを言うかのように、菫野は臆面なく私の正面に立って、目を見ながら、単なる疑問を除いたおよそなんの感情もなく、ただ、言った。
小首を可愛く傾げてさえいた。
なんで? 一つの命って、それに納得したんじゃ、ないの。
「……ねえ。私が言ったこと解ってくれてる?」
「え、ええ。それは、はい。解っていますよ……一つの命ですね、確かに。あの樹も。[記念樹]も」
詰問じみた口調になってしまった。そんな私に、菫野はむしろ、先ほどとは打って変わって、私が訴えてきたその姿に狼狽えているようだった。形勢逆転である。全然、そんなこと考えられなかったけれど。
「命、じゃん。私たちと同じ」
私と同じ。
「それは、解っています。解っていますって」
彼女は目線を右に逸らしつつ、そう言った。
「じゃあなんでよ、命だよ? 生きてるんだよ、皆」
皆生きている。
ミミズだって、オケラだって、アメンボだって生きている。人間だって、樹だって、生きているから──
「ですけれども── 」
そして残念ながら、この場合の形勢逆転は、必ずしも勝敗を付随させるような解りやすいものでもなかった。
「──でも、樹ですよ?」
私の顔は、引きつり半笑いだったように思う。菫野は、口では解っていると言ったものの、その表情は明らかに共感をしているそれではなかった。彼女の狭い眉間の皺ばかりに目が行った。
「いえ、生物だという意味で──命だということは解っていますが……でも人間と、秤に掛けるほどのものですか?」
菫野の、その言い回しは──私の記憶の枝を微かに揺らしたように思えた。
「ちょっと……言ってることが良く解らないんだけど」
「……これまでの話の流れ──先ほどの議題を加味して考えても、会長は、自習棟の建設を行えば必然的に起こる[記念樹]の撤去を──『一つの命』として守りたがっているだけのようです」
「………………」
「でも、そもそも、生徒のための生徒会です──学校の、生徒のための生徒会です。学業を行うための施設で学ぶ、人間のための機関です。学生の、本分なのです……」
人間と、天秤に掛ける。
人間の生活の便利と、樹の命を、較べ量る。
「そ、そういう意味でも、私はさっき、自習棟の案件を、本流に据えるべきだと、提案したんです……!」
一瞬のたじろぎは形を潜め、そこにはいつもの菫野──いや、いつも以上に語気の強い菫野麗貴がいた。
ただ少し前から、その口調はいつもの名前に相応しい、まさに麗しく、高貴なるそれよりも幾分砕けた物言いになっていたように感じられる。
まるで組み立てるかのように言葉を紡いでいく。自分の論理を確認するように。
頬は紅潮している。
そんな彼女を、私は唇を結び、目を見開き──そして更にそんな私を、私は見ていた。
「だから……! ………………いえ、別に、だからどうしろという話でも、無いのですけど……」
勢いが急に止んだ。しかしまだ、混乱は続いているようで──でも、それは私も同じで。
「……じ、じゃあ、麗貴ちゃんはさ、麗貴ちゃんが樹だったとしたら──同じこと言えるの?」
やっとのことで口に出せたのは姑息な論法だった。
「……い、言えます。というか、そもそも人間と樹を同列に扱うのがおかしいんです……!」
「なんでよ、同じいの」
「同じ命でも!」
声を張って遮られた。
「同じ命でも──樹は樹、人間は人間! あなたは……人間でしょう?」
「………………」
「……違いますか?」
その、艶めかしく潤った眼球が孕む感情が何か、私には考える余裕などなかった。
ただ私は、反射的に保身するしかない。口をついて出てきた言葉は、
「じゃあっ……じゃあ、あの樹を──[記念樹]を殺して、自習棟を建てた方がいいって言うの、麗貴ちゃんは」
殺す、なんて、罪悪感を誘っているだけの言い方じゃあないか。残酷な。菫野にも、この状況にも残酷な。ああ、悲しい。
でも、菫野は、今度こそ退かなかった。
「そうです──私の個人的な意見は、そうです。所詮、人間に植えられ生かされた命です、気にする必要は──感じません。殺されて仕方ない命も、あります。人間のために」
生かされた命。
その言葉は、あまりにも私には重かった。
「……あぁ、そぅ」
気力も何も、消えてしまった。
それから数秒か、数分か。私達は無言で立ち尽くしたあとに、どちらともなく踵を返し、互いに去った。
今思えば、彼女と私とでは──高貴なる人間様と、土に塗れて泥臭い私とは、この対立は酷く、対照的だったかもしれない。
結果的には、私達は互いに自己懐疑という名の禍根を植え付けただけだった。
そして、蝕み出す。
*
斜陽満つ 廊下の奥に
いとしおもかげりに塗れ
いづこ行くらむ
006
布袋葵は、一つ下の男子生徒で、生徒会の副会長で、無口で、真面目で、取っ付きにくい、硬そうな人間だ。少なくとも私にとって、彼はそんな立ち位置の人間だった。仕事はできるし、これといって問題があるというわけでもなく、ともすれば優遇して好ましく思った方が妥当なのかもしれないけれど、でも出来ない。そういう人間は、多分一定数いる。優れていても認められない、というか──いや、認められていないわけじゃないけど、でも近寄り難い。馴れ馴れしく出来ないというか──単に、一長一短ってだけかもしれないけれど。とにかく、私が彼を記述するとしたら、その程度……別に「布袋くんって付き合い悪いよね〜」みたいな、女子のよくある陰口話題に上ることもない(そもそも、私はあれには参加しない)。ただ、言いにくい何かがそこに立ちはだかっているだけ。一言で表せる人間関係というものも、考えてみればとても難しいものだ──例えば、友人の境界、とか。陳腐だけれど。人間関係以前に、動物として……生物として、線引きが曖昧な私は、しかしこのときはそんなことも考えはせず、ただ単に、不思議な後輩だなぁくらいに見ていた。困ることもなかったし。いつも無口で、楽しくないのかな。話しかけてみるべきかな。でも迷惑かな。なんて。
菫野と言い合い(?)をしてから数十分後、帰り道。
後ろから差す仄日の光も、今ばかりは鬱陶しいとばかりに、普段よりも十五度ほど腰と首を曲げて、帰り道の繁華街を歩いていた。
夕陽に伸びる自分の影を見る。縦に伸ばされて、枯れ木のように見えた。
小一時間経っても、まだ心臓はいつもより拍動が速い──私の中にあったらしいしこりが、菫野との会話で浮き彫りになってしまった。
丁度、癌宣告された患者が実感なく現実逃避してしまうような心境か。
私の病気のときは、私はそんなこと思わなかったけれど(私のだって、癌に比肩するほどの難病だったらしい)。
あぁ……
あんまり考えたくない。
逃避したい。
考えるにしたって、気分を入れ替えなきゃ。ダメージを、消さないと。
夕陽に向かって走るじゃないけど、私は鬱陶しいそれに向き直ってみた。虹彩がきゅっと絞まる、眩しい。いきなり目を向けたから網膜が焼けた──まだ動転してるな、私。と思いながら、反射的に目を逸らした。
視界には、アイスクリームの有名チェーン店が在った。
最近、食べてない。
店頭に置いてあるアイスクリームの拡大模型を眺めながら、気分転換がてら、一人で入ってしまおうかなどと考えていた──と、道路側にガラス張りの、カウンターのような形の一人席に、見知った顔があった。
布袋だった。
「え」
その手にはコーンに乗った、『ポッピングシャワー』が握られている。
「「あっ……」」
彼と、目が合った……
*
「へえ〜」
「………………」
「甘いの好きなんだね〜」
「………………」
彼に気づいた私は、即座に店内に入り、レジで『オレンジソルベ』の会計を済ませ、足速に布袋の隣の、空いている席に陣取ったのだった。
「……だ、だめですか、甘味が好きで」
「いいや、別に」
ニヤニヤが止まらない。
物凄く決まりの悪い顔を逸らす布袋。
「じゃあなんでそんなにニヤついてるんですか……」
「ギャップだよ、ギャップ」
私の中の布袋のキャラクターは先述の通り、ベタだけれどそれこそ、アイスクリームショップに行っても抹茶やほうじ茶系を頼むような、っていうかむしろそもそも行かないような人間だった。
それが、『ポッピングシャワー』とは!
しかも、一人で入店するほどの嗜好の深さと推せる……
「………………」
「なんか、学校と雰囲気違うね」
今の彼は、学校で感じられるような張り詰めた雰囲気や機敏さを欠いているように見える。
「公私を分けているだけですよ」
「なるほど? ……でも、それにしたって分けすぎじゃあないかな」
ほぼ、キャラクター性に原型が見受けられない。二重人格の手前か。
「真面目にやるべきものは、真面目にやりたいだけですよ」
口の中で弾けているだろうポップロックキャンディの感触に舌鼓を打ちつつ、しかしむしろ普段の布袋らしい台詞が聞けた。
納得。原型はこっちなのかも。
「でもさあ、生徒会活動中は気を張ってるのは、まあ解るんだけど、解散後とか、学校で会ったときとかもそんな感じだよね、布袋くん。いつもキリッと張り詰めてる」
「学校内ですからね」
「疲れない?」
「慣れました。むしろ、会長は脱力し過ぎなんじゃないかと思ってますけど」
「あ、あはは……」
ジト目だった。
「……そういえば前から気になってたんですけど、どうやって選挙に──菫野先輩に勝ったんですか」
「ま、まぁ……そのときは結構、真剣に政治活動してたし」
実は、今回の生徒会発足に伴う生徒会選挙では、会長役一つに対して二人の立候補があった。一人はもちろん、現職の私──もう一人は、菫野麗貴だった。
生徒会活動に必ずしも学力が必要とは思わないけれど、まぁ判りやすい目安として参考にされることは多々あるので明示しておくと、私と菫野の成績は良くてイーブン、ダメなときは私が負ける、くらいだった。
私は、まあ友好関係が広かった(のかな?)ことを武器にしてみたけれど、彼女は彼女で、もう見た目から何から学校組織のナントカ長務めています、みたいな感じのキャラクターで、加えて容姿端麗だったから、半ば人気投票になりがちに思われる生徒会選挙では、勝ち目がないと思っていた。
ところが、結果は私の得票数の方が多かった。僅差だった。よく勝てたと思う。一方菫野は、立候補の段階で中空だった副会長のポストにはめられた。結構潔く務めてくれた。
「今の会長とあの時期の会長で、何か変わっているようには見えないですよ」
「ま、まあまあ、無事就けたんだしさ」
「まあ、いいです──来年は、僕が譲り受けるので」
「おっ、やる気だねえ」
似合わない(私が見慣れていないだけで、失礼だけど)笑顔で、布袋は言った。
「……今気づいたけど布袋くん、めっちゃ喋るね」
「普段はこんな感じですよ」
モード切り替え、みたいなもんです、と言う。
「いつもこんな感じにして欲しいな〜……」
「それは無理です──ていうか、そもそも本当はたとえ校外でも会長にはこんな雰囲気で接したくはないんですけど」
「なにそれ、酷くない?」
割と心外な台詞だった。
「いえ──やっぱり、馴れると仕事に影響が出そうですし。他の生徒会や、委員会長の方々なども同じです。仕事を間に挟む間柄の人たちとは、あまりプライベートで馴れ合わないように……」
全然他人を信用していない見方だ。
「私がそんな公私混同するように見える!?」
「まぁ、はい」
「………………」
「ノリで、割と、しそうです」
ちょっと痛いところを疲れてしまった……話題にしたのは自分だけれど。
「えー……マジかー……」
「まぁ、アイス食べてるときに突撃されたら、作り直すのは無理ですし、もういいんですけどね」
ショックで項垂れる。
「……垂れますよ、アイス」
相変わらずジト目な布袋が私の手元を見つつ言う。私の『オレンジソルベ』がいつの間にか融点を超えていた──
「おおっ、と!」
なんとか、セーフ。ただし、舌で舐めとるという、過分にお下劣な方法で……
「え、へへへ……」
今度は私が照れる番だった。頭だけならずアイスも垂らすところだった。
「そういえば風邪は──どうしたんですか」
布袋は『普段モード』とやらで話し続けていたが、しかし唐突に、普段の切れ味を載せたような言い方で話を変えた。
「ん、風邪? ああ、お薬飲んだら治まったけど」
「そうですか、アイス食べて身体冷やしたらもっと悪化するんじゃないかと思いまして」
「あ、ああ、心配どうもぉ」
「若干薬効くの早すぎると思いますけどね……いえ、さっきの会議では結構、会長キツそうな顔でしたから」
やっぱ判りやすかったか……
「それに、思うところがあるような顔もしてましたし」
一呼吸置いて、
「どう思います、あれ」
「どう思いますって……まあ……」
心中で先ほどの菫野の台詞が響く。そして、布袋の印象も──
「結果を見るしか、ないんじゃない?」
「アンケートですか」
「うん」
「個人的には?」
「………………」
「……別に、会長一人の意向は、言ってしまえばそれだけでは大した力にはなりませんし、大丈夫ですよ」
「……個人的には、あの樹──[記念樹]の病気は治してあげたいよ」
私とデジャヴだから、とは言えない。
「勿論、自習棟に反対ってわけじゃあ、ないけど」
「僕は実のところ、どっちでもいいんですけどね」
意外だった。菫野と同じく真面目系だから、自習棟を推すのかと思ったけれど。
「そもそも、自習するなら放課後の教室なり、自宅なり、学校の図書館なりありますし」
「なるほど」
彼女とはまた、違う視点。
「建てて、本当に有効活用されるかという懸念があります──それの興隆に、また生徒会が利用されるかもしれませんが」
でもそれは自習棟の是非だ。唇に手を当てる。
「[記念樹]については、どう思う?」
「えっと……」
考慮してなかったみたいに、多少間を空けた。
「なんていうか──多少なりとも学校生活の楽しみの一つとして、機能しているならば──それを維持していくことが悪にはならないですし、出自が僕らの預かり知らぬところにあったとしても、それを無闇に退かすのは違うんじゃないですか?」
「じゃあそれは、やっぱり、『設備』として──?」
「……気になります? 先週もそんな感じ、ありましたけど」
「まあ……ね」
「例えるならば、何でしょう。廊下の電球が切れてしまっていたら取り替えなきゃいけない、みたいな感覚ですかね。使わない教室があるからといって、そこで遊んでいいわけでもないですし。違います?」
「いや……違わないけれど、でも、私の中では──[記念樹]……っていうか、樹に対してそういう風に扱うのは、なんか違うかなぁって思うの」
さっきも言ったけど。
「生命に対して」
それを聞いて布袋は少し眉を顰め、黙った。
瞬間、さっきの菫野がフラッシュバックする。ちょっと、怖い。
「……それも、間違ってないと思います。道徳的に」
道徳的に。
「個人的には」
「個人的には」
「学校的には、やっぱり主体となる生徒側に合わせるべきなのかもしれませんけれど」
主権は、生徒ですし。
「やっぱそう思うよね……」
理屈では解ってる、もう解ってる。『私』としてじゃなくて、生徒会長としての判断ならば、やはり学校への利益の有無を本筋に考えるべきなのは解る。でもな。
「……生徒も生きてるし、樹も生きてる。勿論他の動植物も。でも皆あんまり、そうは思ってない気がしてさ」
不意に布袋は目を側めた。アイスを食べているから、だろうか。変に横顔が青白んで見えたのは気のせいかもしれない。
「……確かに、それを常に念頭に置いて過ごしている人間は、会長が思っているほどにはいないかもしれないですね」
向かい合わせに座っているわけではないから、布袋がどんな表情をしているかは判らない。
「それを持ち合わせている会長は、素晴らしいと思いますよ」
「いえいえ……」
内心、安心した。
が、
「でも、気にし過ぎるのは、疲れますからね」
「気にし過ぎる?」
いや、私の中では気にする、気にしないの話ではないけれど。
ましてや、疲れる疲れないも、ない。
どういうこと? という意味を込めて首を傾げると
「例えば……えっと、じゃあ、僕らが裏に行くとき、舗装されていない道を通らなきゃならなかったですよね。あのときに、あそこに生えていた草一つ、会長は踏みませんでしたか?」
「………………」
「他に……水道水って河川から汲まれますが、浄水段階で微生物は死にます。でも水飲むときに、考えませんよね」
「………………」
「命っていう括りで考えると、そういう細かいところまで見えてきちゃって疲れないのかなって思っただけです」
「………………」
返す言葉は、なかった。
私はいつも気持ち良く地面を歩けるし、今日も私が飲んでいる水は綺麗で美味しかった。
「そういう問題は、僕もたまに考えますけど──偽善にならない範囲で守らなきゃなって、思い当たるんです」
「………………」
別に布袋は私に言ってるわけじゃあないだろうけれど。でも、私が言われているも同然だった。
「この場合の偽善は必ずしも荀子の言うようなそれじゃないですが。いや、守れる命は守るべきだと思いますよ、勿論。悪意を持って侵すのは間違いだと思いますけど」
──でも無差別にっていうのも、それは、それです。
「バランスが大事だと思うんですよね、結局。現実的に考えて」
現実的。
個人的、学校的──現実的。
「会長?」
「……え?」
「いや、黙っちゃったんで」
「あぁ、ごめんごめん……風邪、治ってないかもね。ボーっとしちゃった」
「大丈夫ですか、本当に……さっき会長は『治してあげたい』って言いましたけど、それは命としてってことですよね?」
「うんまぁ、そうだよ──転んで怪我して泣いている子がいたら、声をかけてあげるのと一緒だよ」
「樹は樹、人間は人間」と言った菫野に、的はずれな反抗心を込めて。 そして、試すために。
「……」
『普段の』布袋だったら確実にない、言うか言わぬか迷うような、注視していなければ気づかないほどの、ほんの少しの間があった。
「それって、それだけの理由ですか?」
「う、うん」
いや、違う。それだけじゃない。慌てて、布袋の方を向いた。
しかし布袋は目を逸らした。気まずそうな──少し遅れてから「そうですか」と頷いた。
「やっぱ──人間と同列に扱うのはおかしい、よね」
それは多分、無差別と同義だ。
「……おかしいかどうかは、判らないですけれども──僕には少なくとも、解りかねる感覚です」
明らかに気遣った台詞だった。
*
それから、私は一人で店を出た。布袋は席を変えて勉強をする(元々、窓際じゃなくて奥の席に座りたかったが、空いてなかったらしい)と言うので、そのまま別れた。
人間は見た目に拠らないな──と、若干ズレた感想を抱きつつ。
もう太陽は完璧に沈んでいた。
「……ずずっ」
どうやら、風邪は治ってなかったみたいだ。
007
館に帰り、そのまま着替えもせずに自分の寝床に入った。
私のところからは、星空が見える。
「はぁ………………」
──現実的に。
それも──本当は、解っていた。かなり昔から気づいていたはずだ。
私の中にある生命の平等観に揺らぎは、ない。
でも、それを通しては生きていけるわけもない。
小学校時代の『あれ』以降、今まで衝突がなかったのは──多分私が無意識の内に抑圧していたからだ。
『道徳』という殻に倫理観を潜ませて。武器にした。ほぼ、先天的に刻まれた価値観を。
でも、それを道徳として、縁に生きて来た、来てしまった私に、他の生き方は出来なかった。それを自分の価値に、矜持にしなければ、ただの孤児で、倫理観が偏執している変な人間だから──マイナスしか残らないじゃあないか。
いや違う、そんなことも改めて考えたことはなかった。こんな理屈合わせしたことなかった──総て、無意識のうちにしてきてしまったことだ。
過ごしてしまったことだ。
過ちだったのかもしれない。
一つ思い出したことがある。
館長が昔、話してくれた例え話というか。
私が何かしら、粗相を起こしたときのことだったように思う。
「人っていうのはね、樹みたいなものなのよ」
「樹?」
「ほら、そこにも大きな樹がいるでしょう──あなたの何倍も大きいけれど、あの樹だって、最初は小さかったのよ」
「私よりも?」
「そう。あなたよりも小さかった。あの樹は私や、あなたよりも長生きしているけれど、昔は子供だったのよ。今日は風が強いけれど、あの樹が丁度風を遮ってくれているから、こっちに強い風は来ないわよね」
「うん」
「でも、あの樹だって、子供の頃はこの風に吹かれたら折れちゃうような樹──苗木って言うんだけれど、そんなに弱かった頃もあったわ。きっと。でもこの樹はこうしてとても大きくなっている。雨や風、色々なことを乗り越えて、強く太く葉を広げているのよ──私もそう。あの樹と違って強くも太くもないけれど……いえ、太くないわ、断じて。昔はとても嫌なこととか、出来ないこととかが色々あったけれど、それを乗り越えて生きてきたの。乗り越えられれば、前の自分よりも強くなれるのよ──樹は風に吹かれて幹を太らせて、雨に打たれて根を拡げて、陽に焼かれて葉を繁らすのよ──皆、樹が大きくなるためになっているのよ」
「ふぅん……」
「皆の心の中には、そう、樹がいるの」
「心って、胸?」
「そう、ここに樹が──私のは多分、そこそこ大きな樹が、あなたには……まだ苗木かしらね、さっきの感じだと……樹が生えているのよ。まだ、枝や葉っぱはついていないかもしれないけれど。何かを感じたり考えたり、皆と関わる度に枝や葉っぱが増えてくの──愛とか……お勉強とか、健康とか、天秤とか、道徳とか、仲間とか、ね」
「てんびんって何?」
「えっと……二つのものを比べる道具……よく見て比べてみるってことね」
「へえ……どうとく、は?」
「それはね、とても難しいことよ──」
みたいな、感じ。
どういう流れでこんな話に発展したのかは全然覚えてないんだけれども、この部分だけはたまに思い返していたりする。
私の胸の内の樹は、あれからどれくらい育ったんだろうか。
一度腐り枯れかけた樹は──今では、私だけのものじゃあない樹は、どれくらい。
どういう成長が理想なのかも、判らない。
新月を迎える暗黒の帳には、おあつらえ向きにも満天に星が散らばっていた。
私の心の鬱蒼さには皮肉すぎるほどにそれははっきりと澄んで見える。
星が滲んだ。
008
「わたし、人間なんて滅べばいいと思ってるんですよ〜」
「ブッ………………は?」
数日後の学校食堂で聞いた台詞だった。カレーライスを吹きかけた。
蘭原花穏。
小柄な少女。高校一年生。生徒会総務。ショートヘア、揺れる髪先からは甘酸っぱい柑橘系の香りがする。私の中のイメージカラーは黄色。ややふわっとした印象だが、天然というわけではない。立ち姿勢で話すと、上目遣いが可愛い。
が、
人間なんて滅べばいい。
と、言う。
は?
*
「いや、わたし思うんですよ、登下校の電車とか乗ってるときに。この線路が敷かれる前は、どんな土地だったんだろうかって。酷いときは山に穴を空けるじゃないですか。駅を作ったら人が集まって、周りに人家が増えたりして。市街地を通るときも、車の排気ガスとか、アスファルトとか、高層ビルとか、植樹されただけの寂しそうな並木とかツツジとか、下水道とか、マンホールとか、工場とか、ちょっと遠くに行っても、山道はコースに舗装されてるし、河岸はコンクリートで打ってあって、海岸はテトラポッドや堤防だらけ、どこでもGPSで居場所が判るし、どこでも電気が通ってる。右を見れば発電所、左を見れば歓楽街、先に進んでも人家人家、後ろを振り返っても漁船や水田──人の手が全く行き届いていない場所がないじゃないですか、この世界は。砂漠だってどこだって、地球の周りを廻っている衛星が監視しているじゃないですか。人間っていう一種類の生き物のためだけにどうしてこんなに地球が陵辱されなければならないのかなって、凄く思うんですよね。もうレイプですよレイプ。暴行、強姦ですよ。それに、国と国の間では侵略が悪とされても、人間と動植物──自然の間では侵略は悪ではないって、おかしいですよね。結局、そういう『正しさ』って、人間の中だけの話なんですよね。なんか勘違いしてる人間たちが道徳とか正しさとか謳って自然を守ろうとかしていますけど、そもそも人間の内側から見た道徳とか正義が通用するわけないじゃないですか。本当に公平に見るなら、人間だけに判断する権利があるっていうのがそもそも不公平じゃないですか。正しくないじゃないですか。地球には人間以外にも皆住んでいるのに。環境アセスメント法ってありますけど、あれなんか本当にわたしは気持ちが悪いです。エゴです。自己満。自己満っていうか、言い訳ですかね? 例えば、例えば植物が支配した世の中があるとして、二酸化炭素が足りないからとかいう理由か何かで工場や市街地の周りにコンクリートで囲まれた檻の中に人間を放り込んで飼っていたら、どう思うんですかね、皆。わざわざ連れてきてきったない空気の中で飼い殺して、虐待して──彼らが言葉を持たず、感情を持たないからって、わたしたちが導くような、傲慢な、傲慢な傲慢な勘違いをしているんですよ。なんで人間が主導なんですかね。知能が発達しているんなら、むしろその矛盾に気づいて、せめて弁えるべきなのに。たとえ本当の正しさじゃなくたって謙虚に弁えるべきなのに。自分たちの知能が全知全能に程遠いことなんて高校生だって解ってるのに──でも──わたしだって人間なんですよね。人間の親とか、人間の社会とか、人間のエゴに生かされて来たんですよね。それは事実ですし。わたし個人がそれに感謝しないっていうのは筋違いだと思うんです。でも──生かされたからこそ、やっぱりおかしいと思うんです。思えるんです。生きてるだけで、他の生命を疎外して、阻害するような生き方しかできない人間が、おかしいと思うんです。わたし本当は死にたいんですけど、人間に侵されたその他の命を思うと辛くて辛くて死にたいんですけど、死んでしまいたいんですけれども、わたしが死んだところで何かが変わるわけでもないじゃないですか。わたしが死んだって、精々人間が悲しむだけで、人間の枠からは逃れられないじゃないですか。わたしが死んだら世界が均されるなんてありえないじゃあ、ないですか。ならやっぱり意味がないなって。だから出来るだけわたしは謙虚に慎ましく生きるようにしてるんです、他の命に対して。ごめんねごめんねって、生きてるだけで迷惑かけてごめんねって。いつか人間が滅ぶような未来にしてあげるよって。無理だと思いますけど。だから、まだ見えない人間っていう悪循環の仕組みを理解するために、色々精力的に、むしろ精力的に頑張れるようになったりしたんですけど。もしかしたら、人間が滅ばなくてもいい未来があるかもしれないですし。わたしも人間ですから。それに、昔は疑念ばっかりで何も手がつかないことが多くって、病院に行ったりしたり──あれ? なんでだっけ。忘れました。あっごめんなさい、なんていうか──会長はわたしの話解る人だなって思って。今までも思ってたんですけどこの前ので確信したんです。それで、丁度食堂に来たらいたんで軽く話しました。なんか会長はいいですよね、人間だけど。信用出来ます。結構初めてなんですよ。会長みたいな人間。唯一なんですよ会長。あ、判ります? あの件が出たときに考えてたことなんですよ、これ。とにかく、[記念樹]に申し訳ない気持ちでいっぱいです。なんでわたしたちの裁量の上で左右されるって決めつられているんだって。天秤に掛けるような意気込みなんだって。これが人間だったら、人権問題なのに。ごめんなさいって思います。やっぱり人間は滅べばいいと思うんですよね」
*
僅か、食事の間の二十分の出来事だった。
カレーライスは冷えきっていた。
眼球は乾いていた。
私は首を、縦にも横にも振ることはなかった。
009
布袋が提案したアンケート案を実施して一週経ち、返答を集計した。
クラスに二名ずついる学級委員を通して、朝・夕学活での数日前からの事前告知と即時回答形式で行った。[記念樹]の説明と病状、その治療の可否ならびに、[記念樹]との競合状態にある自習棟建設に対する是非を問う欄、投票権の委託を示す項目、その他に自由記述欄を設けた。
集計時の印象では、学年別では三年生から下へ順に[記念樹]派が多かった。自習棟については圧倒的に一年生が支持し、それに対して三年生は委託の割合が比較的高かったように思う。
結果は、五四パーセントが無回答か知見不明瞭という旨の回答やそれ故の委託などで、そのうちの十パーセント(全体の五・四パーセント)が両者ともに不賛成であり、二三パーセントが[記念樹]側に傾いた──そして、残りの二三パーセントが自習棟に票を投じた。
つまり、二分した。
*
「『えー、生徒会からお知らせです。今日の臨時評議会に出席する委員会長その他の方々は、午後四時二十分に第二講義室へ来てください。繰り返します、生徒会からお知らせです。今日の臨時評議会に出席する委員会長その他の方々は、午後四時二十分に第二講義室へ来てください。以上です………………あー、絶対潰す自習と』『おい、まだ音入ってるぞ!』『えっ』『ブツッ』」
昼休みに校内放送が響いた。
橙ヶ崎と大葉だ……
*
生徒会規定には、今回のような稀有な事例を包括するような決定システムは載っていなかった──先生からの提言で、臨時的な評議会が開かれることになった。
評議会とは、基本的に本部生徒会役員と、その下に組織される学校運営機構である各委員会(の代表者たち。普通は委員長)によって成り立つ会合だ──平たく言って、学校のアレソレは大方ここで認可されることになっている。つまり、学校運営的な観点からこの問題を見てみるという提案だ(どちらにせよ、結果的に評議会で認可されるものだけれど、本当に決定をここで決める問題は意外に少ない)。
全校アンケート結果は事前に委員会長に通知され、各委員会会議が定例的に行われる際にそれについて、委員会としての見解をまとめて来てもらった。
「気を付け、礼──本日は急遽お集まり頂きありがとうございました。司会は私生徒会長小鉢が務めさせて頂きます、よろしくお願い致します──事前にお知らせしました通り、今回の議題は北校舎裏にある広葉樹と、生徒会目安箱に投書された自習棟建設案について話し合って頂きます」
我が校の委員会は七つある。環境風紀委員会。放送委員会。保健委員会。図書委員会。福祉委員会。学級委員会。学校行事実行委員会。前の五つは名前の通りの活動で、学級委員はクラスごとの代表者であると共に生徒会活動や付随する委員会活動を各クラスに分配する末端のような役割もこなす。加えて学級、学年単位での風紀管理や行事運営、目標作りなど、多岐に渡る。実行委員会は、体育祭や分化祭での中央管理を生徒会と共に行う、前六つとは色の違う特別な組織だ。
故に、今回は前の六つのみが参加している。ちなみに学級委員長は学年ごとで活動内容が大きく違うため、各学年三人がそれぞれ出席している。
各委員会長は、基本的に私と同じ二年生で担当されていて、特に三年生は進学のための勉強に励むことを求められているため、ほぼ学校運営的役職のポストがない。ただし、三年学級委員長のみは役職柄仕方なく例外で、一年学級委員長と共にこの評議会においては唯一の存在だった。
「生徒会と先生方に対して質問をしたいとの意見が幾つか出ていますので、まずはこの問題についての質疑応答から始めたいと思います」
「いいですか」
まず、手を挙げたのは保健委員会長だった。大柄の女子、ポニテ。
「保健委員長さんどうぞ」
「えっとぉ、そもそもその、例の樹を治すか退かしてしちまうかのふたつで考えてるよーですけども、例えば樹を別ん所へ移しちゃうっていう、折衷案みたいな解決は出来んじゃないですか。あぁ、これは生徒会の人に質問してます」
「これに対して、答えてください」
立ち上がったのは、椰子根だった。手元に用意した資料を見、また後ろに座っている荏胡麻先生を一瞬見遣り、半ば不安そうに。
「えっとですね……それについて一度、荏胡麻先生から専門の業者さんにお願いして、樹の状態について調べてもらったそうです。曰く、今移したら、ダメになる。今立ってるのがかなりの奇跡だ、と──そもそも、移植するアテが校内にはなかったんですけれども」
「保健委員長さん、いかがですか」
「なるほどね、ありがとーございました」
単なる疑問に過ぎなかったみたいで、素直に座った。
次に挙手したのは放送委員長。二つ結びの女子。
「どうぞ」
「生徒会にっていうか、環境風紀にでもあるんですけど。学校の樹の問題って、環境風紀の管轄下の問題じゃないんですか」
「えっと──」
どちらに振ればいいんだろう。
「あぁ、それはですね」
私が迷っていると、環境風紀委員長が立ち上がった。
「僕もそれは思ったんですよ、初めて話を聞いたときに。それで、先生に問い合せて委員会規定を再度読み直してみたらですね、環境風紀委員会の活動のうち、『環境』に当たる活動は、要約しますと『校舎内の植物管理や生活環境の諸問題』と『指定の花壇の管理』でありまして、実は北校舎裏のあの樹木は管轄の外だったんですよ。だから生徒会に任されたままだった──んですよね、荏胡麻先生」
「彼の言う通りだね、ぼくも環境風紀の顧問の先生と話したし」
「放送委員長さん、いかがですか」
「へぇ……あ、はい、大丈夫です」
「………………えー、他にありますでしょうか」
質問はこれで止んだ。
「では次に、各委員会よりこの件についての意見を採りたいと思います──と言っても、答えづらいものがあると思うので、事前にお伝えした通り、この時点で意見が特にない場合は、決定権の委託という形で済ませて頂いて構いませんので……では、席順に、環境風紀委員会から奥へ進む形でお願いします」
「はい──」
これで──票が多い方に決まるのだ。
正確には、最初の意見表明の後、議論する時間が設けられるけれども、残念ながら形骸化している。学校側が放任主義だと言っても、特別に生徒側の意欲が強いわけでもなかった。
だから結局、数で──多数決でこれは決まってしまう。
私は司会だから、生徒会長だから、会議を進めなければならない。
「当委員会としてはですね──まああの、普段の活動もあることですし、今のところは[記念樹]──例の樹を保護する方針で動ければ幸いだと思っています。今回の件は生徒会の方々に任せてしまいましたが、規定の線引きの方も見直す必要がありそうですし……以上です」
「ありがとうございました。では次に──」
それから、福祉、保健、放送、各学級委員会がそれぞれ、委託、委託、樹保護賛成、上の学年から順に、樹、樹、自習棟を支持した。
福祉や保健は、本来的にあまり関わりのない仕事なので仕方ない(そもそも関連の薄い委員会までもここに招く必要は、本当はないんだけれど、公式な会議としての体裁を守るのも大切だ)。放送が支持してくれたのは意外だった──曰く、同委員会で発行している新聞や、放送内容のネタとして、だそうだが……三年学級委員会が樹を支持したのは、アンケート結果からも判っている通り、思い入れのある生徒が多かったからだった。 卒業後になくなってしまっているのは悲しい、とか。多分、彼らにとっては自習棟はあまり身近なものではないという理由もあるだろうけど。彼らが卒業するまでに建つとは思えない。二年はどちらかと言えば、自習棟反対派の側面が強かった。
「そもそも、自習なんて教室でも図書室でも家でもどこでもやれるものでしょう。やれるべきことでしょう。わざわざそのためだけに学校のお金を使って、本当に活用されるかどうかもわからない──いえ、出来たらそれは、奨励するとは思いますけれども──とにかく、自習棟は個人によって要請されたものであっても、本来的に要請されるようなものではないというのが二年学級委員会の見解です。便利かもしれませんけれど、必要性はない、と思います。樹については、深く理由はありませんが──腐らせてしまうよりはいいんじゃないでしょうか、特に反対する根拠もありませんし」
などなど。二年学級委員会のメンバーと空気感は知っていた。ほぼ、一年のときの持ち上がりで、一人だけ違う──私たちの一年学級委員長は菫野だった。今はそこが新しく埋め直されてはいるが、雰囲気は菫野に近く、真面目集団だった。だからてっきり、自習棟支持かと思ったが──かなり厳しい見解だった。
一年学級委員会は、予想に易く自習棟がフル活用できる世代だから、ということだった。
そして、図書委員会は、
「自習棟を建てて欲しいと思っております」
入りが直截的過ぎて部屋がどよめいた。二年学級委員長の弁舌にも相当辟易させられたけれど、図書委員長の、彼女のそれは嘆願のような響きを持っていた。半ば俯きがちに。
「自習棟建設に賛成です──あの、最近ですね、図書室で自習してくれる人たちが多いんですが、三年生の方たちはそうでもないんですけど、他の方で、自習しに来ているのか、騒ぎに来ているのか、判らない人たちがいらっしゃるんです──凄く、迷惑なんですよ、勿論諌めていますけれども、正直手が足りていないんです、折角図書室を利用して頂いているので、皆様に気持ちよく過ごして頂きたいのですけれども、どうにも歯止めが効かないのです──厄介払いじゃあ、勿論ないんですけれども、もしかすればそれで問題の密度が解消されるんじゃないかなって──図書委員会はうるさい人を叱る委員会ではありませんし、もし自習棟に分散してくれれば、多分環境風紀委員会さんか生徒会さんか、どこかとそれを折半出来るんじゃあないかと、提携とか──このままでは、図書の整理もままならないのです──生憎環境風紀委員会さんは、樹寄りですし、多数決ではもう変わりませんが──」
多分この中では一番に切実な願いだった。普段からそうなのかは知らないが、幾分切れ切れな話し方で──ちょっと、昔の私みたいだった。
「……い、以上でよろしいですか?」
「あ、はい、すみません」
今のところは、樹が多数派だった──私の余り関与しないところで、穏便に済んでくれるならそれでもう良いという気持ちにもなっていた。
どうせこれ以上波風も立つまい──と。
「では、今の意見らについての質疑応答等を採りたいと思います、意見がある方いらっしゃいますか──」
いらっしゃらないだろう、と思いつつ、ではこれでと進めそうになったけれども、そのゼロコンマ数秒前に、視界の隅で手が上がった。
「はい、いいですか?」
環境風紀委員長だった。
「あっ……はい! どうぞ」
来るとは思っていなかった。彼は難しい顔をしながら立ち上がる。
「今の図書委員会さんの話を聞いてですね、正直、お恥ずかしながら図書室の状態の悪さについては認知していなくてですね……でも、『風紀』の管轄にはあると思うんですよ、図書室だって──なので、なんといいますか、自習棟を建てた方が管理しやすくなるのではないか、と思いまして。僕たちが出来ることが、まだあるならば、それは」
気まずそうな顔だった。
「つまり?」
「つまり──さっきの意見、翻します。自習棟に賛成します。」
「え…………あ、はい、そうですか……」
まずい、ひっくり返った──
そして彼は、まるで言い訳をするように、
「──[記念樹]については、必要性もそこまであるわけではないですし……」
「………………」
そして、座った。
「………………」
これも半数、だ。
委託を除いて六つのうち、三つずつが互いの意見に分けられた。
唾を飲み込む。
「………………ちょっと、会長」
声を潜めて菫野が話しかけてきた。また黙ってしまっていた。
「あっ! ……ごめんなさい、ありがとうございました……」
そういえばあれ以来、菫野とは言葉という言葉は交わしていなかった──最低限の事務連絡だけだ(そもそも無駄話をあまりしない間柄だったけれども、それと比べても、だ)。 気まずかった。だから今話しかけられたことにびっくりして──自分が黙っていることにびっくりして、二重だった。彼女を横目で見ると、既にこちらを向いてはいなかったが、あちらも至極気まずそうな、というか、嫌そうなオーラが出ていた。
「あ、あの──他、誰かいますか、意見……」
もう、片言だ。
「はい」
そのとき、満を持していたと言わんばかりの表情で手を挙げたのは、メガネ男子──またもや二年学級委員長だ。
「いやあの、自習棟作ったからと言って、本当にそれが解決されるのですか? 確かに分散はするでしょうが、そもそも自習棟の制度がわからない以上、どう管理されるかもわかりませんし、先生はあまり多くありませんし──環境風紀委員会だって、今の仕事に決して余裕があるわけではないんじゃないですか。樹の件も認知してなかったようですし、図書室の件だって……それに生徒会は委員会を束ねる機関でもあるわけですから、些か的外れでは」
彼は二人を睨むようにしている。
「……でもそれは、図書室が環境風紀委員会にとって不可侵の領域だったからで」
「それに、もしやるならもっと前からやっておくべきだったんではないですか、提携とやら……今、無理矢理に関連づけてますけれど、自習のための自習棟を風紀整備のために用いるとか、あまり褒められたようなことではないように思いますけどねえ」
図書委員長の言いかけた反論も虚しく、二年学級委員長は捲し立てた。
「………………」
「いやでも、正直なところ、環境風紀と学級委員って、仕事多少なりとも被るわよね」
「!」
いきなり声を上げたのはツインテールの放送委員会長。
「なんか他人事みたいに批判してるけど、一番図書室で騒いでるのって、うちらの学年じゃない? うちらの学年の代、表、さん──学年の風紀は、あんたたちの管理するところでもあるんじゃないの」
「そ、それは……」
「あとそれと、うちは頼まれれば注意喚起の放送くらいならするわよ──まぁ、自習棟を支持はしないけれども」
あんまり興味無さそうにしてたのに、意外と攻撃的だ。思わぬダークホースだった。丸みのある外見をして案外恐ろしく鋭い。
そんな感じで、そのままそれ以上は進まなかった。結局環境風紀は意見をそれ以上覆さえずに恥ずかしそうにしていただけだし、二年の委員長は不機嫌そうに腕を組んで黙ったままだった。図書委員長の彼女は放送委員長とメガネの彼の間を見ていた──
「えっ、と……」
どうするんだろう、これ。
「他に、意見の変更などありますでしょうか……」
無言空間。
「放送委員会と二・三年学級委員会が樹に、一年学級委員会と図書委員会、福祉委員会が自習棟に──三対三に分かれました。結論は……結論……荏胡麻先生、どうしましょう」
問題が解決しない。
「そうだねぇ……決議に関しての規定には──」
パラパラと、手元の資料を捲りながら。
「──あぁ、あった。『何らかの理由により評議会での決議の行使が不可能になった場合、生徒会長の権限を以て決定することとする』──」
「!」
「──『ただし、良心と他の生徒会本部役員の意向を踏まえた判断であり、独断ではならない』、だそうだね……」
「それって──」
「つまり、きみが決めることになるそうだよ」
私が?
「ああでも、良心と〜って書いてあるから、再度話し合いしてもらうことになるのかな……でも、時間ないし、ここで決めてしまおうか。また各委員会に通知するのも二度手間だからね──生徒会メンバーで今話し合って、決められるよね?」
「………………」
平和そうな先生の顔が、痛い。
──別に、会長一人の意向は、言ってしまえばそれだけでは大した力にはなりませんし、大丈夫ですよ。
布袋の言葉が、皮肉に響く。
生徒会の皆に、顔を向けた。
割と皆、澄まし顔だった。
*
「えっと、どうしよ」
「言うまでもなく自習棟派です」と菫野。
「僕も自習棟派ですかね、一年ですし」と椰子根。
「俺は自習棟かなぁ、実利的に」と大葉。
「あたしは……まあ樹。樹はどうでもいいけど、自習棟が嫌だから」と橙ヶ崎。
「僕は…………自習棟を推します」と布袋。
「樹です、樹」と、蘭原。
四対二で、自習棟の多数決。
「わ、私は…………」
「先ほどの二年学級委員長の主張は、論点をすり替えているだけで学力や意識の向上とは関係がない事柄のはずです」
私個人の意見を言おうと逡巡した瞬間、菫野は狙ったかどうか、そう付け加えた。
「図書室の件も踏まえれば普通に考えて、圧倒的に自習棟に利があるのは、明白です」
チェックメイトだと言わんばかりの見切り方だ。ただし白桃のようなその頬は、以前のそれとは違い、口調ほどには紅く熟れてはいなかった。
「図書室の件なあ……俺も見たことあるけれど、普通に本読んでる奴らは勿論騒がないし……ただ、それを流したところでっていうことはあるけど。普通に俺は場所が欲しいだけだな」
大葉は菫野を宥めるような言い方をする。
でも確かに──普通に考えて、自習棟が支持されるべきでありそうなのは、事実だ。事実だった。
そして布袋は──私の方を見てはいなかった。
「………………」
ちらりと橙ヶ崎と蘭原に目を遣る──前者はやっぱりどうでも良さげだった。
蘭原は、薄く笑顔を浮かべ、多分役員の中で一番の静けさを保っている。
──会長はわたしの話解る人だなって思って。
……本当に解ってたんだろうか、私は。この子を。
人の振り見て我が振り直せ、じゃないけれど。
そのときの私の気持ちを言葉にすることは難しい。彼女の薄笑い──いや、客観的に見ればそれは微笑以外の何物でもないそれが、しかしその意図するところを知っている私には、それでも尚表現するとすれば、まるで底のない大穴を覗いたときのような──言い知れない悪寒がしたとしか、言えない。
数秒間見つめ合っていた彼女の瞳は、正に深淵だった。
私とは、違う。
この、年下の、小さい、可愛い、良く働く──異常な彼女は、私とは違う。違うところに生きている。今はっきりとそう自覚させられた。何をその身に抱えているのかさえ、想像がつかない。私のとは、まるで違うのだろう──あるいは、過程の問題かもしれないけれど。
家庭の問題かもしれない。
私の場合は、そうだった。
そして私は──多分私たちは、それに気づかずに過ごして来た。目を背けたり、内に秘め守ったりしながら、わけも解らずに生き過ぎ去って来た。
それらがいつ枝分かれしたのか、それとも幹からして違うのか──真相は、私の知るところではない。知りたいとも思わなかった。
同時に私は、彼女とは意識の中で明確に乖離して行く私を見るのだ。
私は愚かしくも、今までと同じように、彼女から目を背けて──身体さえ背を向けて、彼女とは分かれた道に進んで行かなければならない。
分かれた枝を広げなくてはならない。
そしてこれが、最後だ。
これで最後にしよう──
私が、命を天秤に掛けるのだ。
010
全校生徒投票でも、代表者会議である評議会でも丁度半分に分かたれた議題は。この『大したこともない』騒動は。
ただの同情──共感から引き起こされた『壮大な』物語は。
そして、また私の預かり知らないところで平定されると思っていた、『不道徳』は。
最後の最後には──私の一票を以て終結しようとしていた。
「会長、どうするのですか」
二年副会長の菫野は、私を睨む。
「………………」
「……小鉢会長!
「……わ、わかった、決める。決めるよ──」
私は菫野に応えるというよりもむしろ、自分に言っているような調子で繰り返した。
そして。
「──────!」
『天秤』という名の葉が、心の樹に芽生えた瞬間だった。
後ろから刺さる、虚の暗がりに潜む異形の怪物のような、憎悪にも似る、腐敗した一組の視線には、決して戦って勝利するわけでもなく、ただ今後一生気付かないふりをして生き過ごさねばならないのだろう。
011
「あなたにとって、『ただの人間ですよ?』と同じなんですね、多分」
評議会のあと、菫野から言われた。
「さっきはやっぱり強く言ってしまいましたけれども。あのときは──私も、あまり冷静ではなかったように思います。考えたこともなかったようなことを、会長が言うので。帰宅して頭を冷やしてから考えました。でも、やっぱり解りませんでした──いえ、解ります、会長の言う、命の尊さは確かに考えなければならないものだというのは、多少失念していたように思います。でもやっぱり、それではやっていけないと、私は思うのです。改めて自分や、人間の暮らしを考えて──私たちだって同じ生物であり、他の生物だってそうです。結局私たち生物が生きて行くためには、多かれ少なかれ自分本位に考えて行くことが定めというか──会長にとっては、呪いなのかもしれませんが。だからまぁ、今日はむしろ前よりも確信を持って推したわけですけれども」
そんなような内容を話した。彼女も彼女で悩んだみたいだった。ちょっと驚く。
「いや、結局はそれで正しいんだと思うよ、麗貴ちゃん──目を背けずに、その不条理…………いや、理屈は正しいんだけれども、それにしっかり目を向けることが出来れば」
結果的には、菫野が正しかった。
「それに、決して──あれは会長の……日向子さんの責任ではありませんよ」
どうやらまだ私は辛気臭い顔をしていたらしい。
「ほんとはまだ、整理し切れてないんだけど……でも、大丈夫だよ。ありがとう麗貴ちゃん」
すぐにすっきりしたわけではないし、そんなはずでもなかった。
「あの、ごめんね、あのときは」
「いえ、私の方こそ──私だって目を背けていただけかもしれませんし」
このとき私は私たちを俯瞰してしまい、なんだか臭い青春もののお約束な終結を見ている気分で、半笑い、半呆れだった。
こう収まるのかぁ〜って。
まぁ、良かったのかも。それも私らしい。
新しい、私らしさ。一抹の虚しさは、一抹だった。
今回の一連の流れは、しっかり目を据えて、人を見て、自分を見て、生き物を見て、比べて、天秤に掛けて生きて行くことを、遅ればせながらも知れた、青春のほんの一頁である。
今になって振り返ればそう思えた。
「逆に、良かったのかもしれないね。なんか。その、歩み寄れた感じがする。今後はさらに生徒会として活躍できそうだし。頑張ろうね!」
言われた菫野も少し恥ずかしそうに微笑む。
そんな感じの台詞で、私の青春は一つのピリオドを迎えたのだった。
きっと、欠けなく大きく育っていくだろう。
―あとがき―
正直言い残すことはもうほとんどない。例の樹、[記念樹]は、それから一ヶ月後、自習棟建設を請け負う業者が来たと同時にいつの間にか消えていた。意識的に意識外に追いやっていたわけではないが、つまりは芽が葉になったということなんだろう。
この私小説は卒業とともに生徒会室の棚の奥の方に隠しておくことにする。いつか誰かが見つけたときに、役に立つかもしれないから。
そして、この拙い物語を読んでくれたあなたには感謝します。ありがとうございました。
*
この作品はフィクションであり、実在する人物、団体、事件等とは一切関係ありません。
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで(解読不可能)んでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでうらぎったの裏切ったうら(指で擦られている)なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでころしたころしたなんで殺したころしたころしたなんでなんでなんでなんでなんで殺した殺したころした殺したなんでころしたなんでなんでなんであなただけだったの(水滴で滲んだ跡)ころしたの助(指で擦られている)会長あのこなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでころしたのころしたころしたかわいそうただしいのになんでただしいのにただしいころしたころされたなんであのこをかいちょうころしたのなんでうらぎった[殺す](ひときわ大きく、ほかの文字の上から濃く書かれている)なんでころすころすころすすみれのころすころしたからころすおおばころすほていころす[あのこ]ころすこばち殺す殺す殺す[殺す殺す殺す殺す]ころすなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでころしたからなんだからころすの[ただしいのに]ころすの[しね]なんでなんでなんでなんでなんでころ(水滴で滲んだ跡)なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すころすこすころす(指で擦られている)ころすころすころすころすころすころすこすころす

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