
小説供養│こころのあな
水子供養
スマホのテキストファイルをぶち込んでおくフォルダを見ていたら、幼い頃に出だしだけ書いた小説の水子みたいなものが大量に出現しており、震えている。そのうち陽の光に当てて供養してやるからな……
— 戯鳥(自我の肥大・激情) (@xiniao_huniao) June 17, 2026
私はスマートフォンで小説原稿を書くが、機種変時にしっかりデータを移行しているばっかりに、十年以上前の小説も、書き終わる前に放置された水子もだいたい残っている(十年間断続的に小説を書いてきたわけではない。ワールドカップくらいの周期でハマったり辞めたりしている)。普段意識することはないけれども、昨日久々にディレクトリをディグっていたら、思ったより多くの水子が大量出現してビビった。
おれはこいつらにころされるんじゃないか。
というわけで、供養というか、陽の光に晒して悪いものを浄化して行こう。次々に。
今回の作品:「こころのあな」
ジャンルは恐らく、「幻想文学」。書いているときに決めていない。
なお、この作品は水子ではない。出産はした。多分八年前くらい。
「心にぽっかりと穴が空いた」という慣用表現から着想を得たような気もする。思い詰めてぐちゃぐちゃに質量を集中させ、自重で死ぬよりはいいんじゃないかみたいな? 全然覚えていない。多分『ニンギョウがニンギョウ』みたいなことをやりたかったんじゃないかな〜と思う。そこまで振り切ってないけれども。
本文は明らかな誤字誤植以外手を加えていない。
本編
001
十数年前の話か。
私は外出せねばならなかった。かれこれ何十年ぶりの外出だったか、いやそこまで長くはないにせよ、しかし気分ではそれほどの期間、外に出ていなかった。この場合外出が意味するものは、私の心労であり、苦痛であり、嫌悪である。外の空気は良くない。私は平たく言えば学者で、殆どを屋内で過ごしても食っていけるのだった。
しかし、その日、普段は学識連中の仲間から連絡を受け取ることしかない電話が鳴った。何故か平時よりわんわん胸騒ぎを立てるような音で家を振動させたように思えた。不吉だ。もう殆ど確信に近似した心持ちで近づく。振動は止まない、心がぼろぼろと崩れそうに感じた。受話器を取る。
「あんた今日暇? うちの娘が多分迷子になるから、予め迎えに行ってくれないかい?」
それは唯一の肉親、姉からの電話だった。
昔から姉には散々虐めを受けてきた。どうにも勝てぬ。大人の身体を手に入れた今でさえ、身体が過去の学習を改めようとはしない。
私が汗を噴き出しながらその声を傾聴する間、姉はこと細かく娘が迷子になる時間と場所、娘の身体的特徴や年齢などなど、私に説明していた。半分くらい忘れてしまったが、二度目を言わせようとすれば殺される。
「じゃ、よろしく」
ブツッ。
そんなに細かくわかってるなら自分で行けよ――胸がつっかえて言えなかった。
子供か。どうも子供を相手どらねばならないらしい。子供は苦手だ、何を考えているのかわからない。知識が共有できない。自由奔放だ。傾向と対策が困難だ。
冷房が効いているのに汗腺を全開にしてツーツーとなりつづける受話器を片手に佇んでいた。受話器の穴からはまだ不吉な黒煙が立ち上っていた。窓ガラス越しに見える快晴の忌まわしき青空に黒煙が映えた。
かくして私は姪にあたるもののために、姉に虐げられ、迷子になる予定の子供を大人として救うべく、必然的に金色のままである免許を丁重に財布に入れてから、一応の身なりを整えて車を出した。アクセルとブレーキを踏むほどの筋肉が残っているかどうかが気がかりだし、そもそも私は暇でもなかったのでやり残した仕事のツケがどう回るのかで頭がいっぱいだった。
そして、動揺により汗とともに滴り落ちていった記憶の残滓をもとに再生し、辿り着いたのはとある商業街だった。駅を中心とする街が広がるニュータウン。適当なところに車を停めて、姪が迷子になるという場所まで足を動かさねばならない。
しかし――私は車に乗っているときには車と信号を見るだけで良かった――ドアにキーを差し込んで振り返ったとき、改めて見るその街――私は足を止めざるを得なかった。ここで決心して姉に反旗を翻すまであった。何故なら。
その街は。その街を構成する者達は――押し並べて胸に穴が空いていたからだ。
002
道行く人間達の丁度胸郭の真中に、それぞれ形が不揃いの穴、穴、穴――!
私は反射的に自分の胸元を見た。着古したスーツと三本のネクタイが澱んでいるだけだった。
穴の空いた者達は、特段それを気にする様子もなく私の前を通り過ぎて行った。「あの、失礼ですが、貴方様の胸に穴が空いていらっしゃいますよ?」などと言えば良かったのだろうか。言えるかそんなこと。ただでさえ炎天下で融解どころか昇華しそうな私は、人と関わるのも億劫なんだ。相手の体温で融ける。胸焼けがする。
多少仰け反りながらも、道行く者達を観察した。遠くに時計台が見えた――ふと、気がついて腕時計を見ると、ああ! あと十分もないじゃあないか。まだ顔も見ない姪とやらが迷子になるまであと十分。穴空きの通行客を気にしている場合じゃない。私が姉に穴を穿たれる。
不気味な者達の間をくぐり抜けて慣れないアスファルトの硬い硬い道を革靴が擦る。さらに不気味なことには、彼らは割合陽気そうに見えてしまった。自分達に大きな穴が穿たれているというのに、よく平気なものだ。自分の胸を文字通り撫で下ろしながら、確認しながら進んだ。
そして着いた。
そこはどうも食事処が立ち並ぶフロアだった。駅に併設されたこの街メインの複合施設、無駄に大きいビルディングの九階。エレベーターの移動速度が速すぎて一度潰れかけたが、なんとか生きている。
して、姪とやらはどこだ――これ以上細くは覚えていない。全ての店を当たるべきか? それとも通路から見て探すか? どちらにせよさっさと捕まえて、公衆電話を見つけて姉に連絡せねばなるまい。
穴空きの者達もやはり不気味だ。ウェイトレスも客も皆空いていた。とても同族とは思えなかった。いや待てよ――ここに来てからというもの、穴の空いた者達しか見ていない。
姪は――どうなんだ。
歩きながらそう思った矢先だった。
「あ! おじさん!」
それは若い女の声だった。声の方向に振り返ると、そこに猫の少女がいた。
「私多分迷子になってしまったんだよね。で、あなたが私のおじさんでしょ」
「……」
髭と耳を動かしながら彼女は言った。
「……そうか、きみが――」
私は目線を下げた。危惧していたとおり彼女の胸には――歪な穴が空いていた。
「うん。よろしくね!」
猫の少女もとい姪は、満面の笑みでそう答えた。
初めてお目にかかる親族が、まさか穴が空いた娘だとは、流石に人嫌いの私でも妙な気持ちにならざるを得なかった。
003
「よろしくではない、まったくきみの親はどういう神経をしているんだ。親族とは言え見知らぬ大人を娘に遣って……」
そう言いかけたが、これを姪経由で姉に伝えられては困るので口を噤んだ。
「……とにかく、すぐに姉に連絡して、きみを返さないといけない」
胸の穴から向こう側の廊下が見えた。
「その前に、昼ご飯にしない? お金なら持ってるよ」
「……生憎私は空腹を感じていないし、なるたけ外には出たくないんだ。早く帰りたい」
「えぇ、でも初めて会ったんだし、色々話したい」
「……」
これだから子供は困る。
結局、穴空きの姪は私と距離を詰めながら嘆願したきたので、真横にあったレストランに入店した。子供に払わせるわけにもいかないので私が持つことになる。痛手の出費ではないが、何故私がとは思う。
「……」
「……」
沈黙が続く。早く注文した料理が来ないだろうか。話したいと言っていたのに無言じゃあないか。私から話題を提示しなくてはいけないのだろうか。
仕方ない――
「ときに、きみは――きみというか、まぁ皆だが、その胸の穴は――痛くないのか?」
「え?」
姪は、まるで「きみは何故呼吸をするのか」と訊かれた場合のような、素っ頓狂な相槌を打った。こちらとしては至極当然の質問なのだが。
「穴が、空いてるじゃあないか。きみの胸に」
「それって、私が貧乳って言ってるの? えっち……」
「……」
私に少女趣味はない。ましてや親戚である。そして姉の娘だ。殺される。
「それを母親に告げるなよ、きみの親戚の首が飛ぶ……自覚がないのか」
「冗談だよ、この穴でしょ、皆空いてるけど……あら、おじさんはないんだね」
「あるわけない」
「そんなことないよ。気づいたら皆空いてたり、塞がってたりするものなんだよ。あと、空けようとすれば空けられる」
「……?」
どういう意味だ? 穴が空いたり塞がったりする。自発的に? 空けられる……?
「特にこの街の人たちは空いてる人の方が多いけどね」
「こんなの私は見たことないが」
「それはおじさんが時代遅れだからじゃなぁい」
注文したパンケーキがいつの間にか届いてて、それを頬張りながら話す姪。時折見える舌はザラザラしていそうだった。
「時代遅れか……確かに、私はもう古いが、しかし胸に穴が空くなんてことは原理的に説明出来ないだろう。どう説明するのだ……」
「説明することが大事なの?」
「それはそうだろう。現象には理由がある。その穴の位置にあった臓器は一体どこへ行ったんだ。断面は何故真っ黒なんだ。出血はないのか。衣服ごと消えているのは何故なんだ。脊椎は繋がってないのか――」
「そんなこと、多分どうでも良いんじゃない?」
その大きく頬に込めたパンケーキが後に通るであろう食道の部分には、虚空しかない。
「どうでも良いって――良いわけなかろう。普通に考えて、殆どそれは死んでいるが……」
「だからそれが時代遅れなんだって――時代遅れっていうか、時代錯誤? ほら、昔の人が車を見たら鉄の猪に見えるみたいな」
「それはドラえもんの話か」
「よく知ってるね」
「昔読んでいた」
姪は認識論を持ち出したのか。とはいえ俗世間から離れていた私とて現在生きている者であることには違い無いが……
「殆ど死んでるって。私は生きてるよ。美味しいよこれ」
笑顔で言う。フォークで三角形を指し示して。
「私から見たら、むしろおじさんの方が死にそうに見えちゃうな〜」
「穴が空いてるきみに言われたくはないが」
「いや、空いてるからこそだよ」
姪は仰々しく胸に手を当てて言った。手が穴を通り過ぎて空振りだった。
「だって、そんなに胸が詰まってる方が重くて辛そうだよ?」
重い。
「そう言われても、この部分には私の心の臓や肺、食道や脊椎が詰まっている。無かったら死ぬ」
「いや、そういう話じゃないんだよねえ。そういう話じゃないっていうか、そういう見方じゃないっていうか――とにかく、おじさんは結構重苦しくて、余裕がなさそうだよ。お腹空かないのってそれじゃない?」
「……さぁ、どうだか――」
ふと、別に私と今後関係の無い者の話を詰めても、意味が無いと思った。
「――ところで、その穴は手が通り過ぎるのか?」
「通るよー?」
ことも無く自分の穴に手を出し入れして見せる姪。
「入れる?」
「……」
少しだけ気になった。
無言で手を差し伸べる。少女の胸の真ん中に空いた歪な穴に、手を伸ばす。
少女の胸に、手を伸ばす。
「えっち」
姪はふざけた口調で仰け反った。
「……きみの身体には興味が無い。穴には多少興味があるが」
黙って穴に手を入れた。絶対に縁に手を触れないように。
「……!」
途端、穴からいきなり周囲の大気と、私の腕を吸い込むような、吸引されるような力を感じた。咄嗟に手を引く。
「な、なんだ今のは……」
「自分以外が穴に近づくと、なんか吸い付くんだよね」
姪はパンケーキの最後の一口を食べながら呟いた。
不意に私は元々の目的を思い出した。穴の件について訪ねられたから柄にもなく色々話してしまったが、家に帰ったら仕事が待っている。さっさと姉に連絡せねば。彼女の昼食とも言えないような食事が終わったのを見計らって、私は会計を済ませ、フロアにある公衆電話まで急いだ。姪は御機嫌なようだった。
「 あぁそう良かった無事だったのね。因みにあんたが行かなかったらその子が死んでたから」
「は?」
「じゃああと二時間と少しは預かっておいてね。そこ多分映画館とか併設されているでしょ。適当に見て潰しなさい」
ブツッ。
ツーツー。
何が? 説明責任はないのか?
「……きみの母親は本当に酷いな、あらゆる意味で」
「おじさんのおねーちゃんは本当に酷いよね、あらゆる意味で」
どう擦り付けあっても問題は解決しなかった。
姪に電話内容を説明した。姉の言うがままに動く姿を子供に見せてしまうのは忸怩たる思いがあったが、殺されるよりはマシだ。
「……不本意極まりないが、臨時的な保護者が監督責任を負うのは言うまでもない……きみは何の映画が見たい」
「おじさんそんな気ぃ張らなくていいのにー。やっぱ胸が埋まってるとそんな感じなの?」
「私は正常だ」
「健常かなぁ」
「それは自信が無い」
など、くだらないやり取りが幾分。併設された映画館は階下にあった。向かう道で、ガラス張りの廊下を歩く。下を覗くと、穴の空いた者達ばかりだった。同じものが真横にいるとしても、ああも集まっているのは気分が悪かった。
「ん……?」
集まり方が異常だ。まるで蛆虫か何かのように一箇所に蠢いている。その一人と目が合う。いや、一人じゃない――皆こっちを向いている。
途端、私の目の前――ガラスの向こう側を何かの影が通り過ぎた。
上から下に、びゅんと。
そしてそれは丁度、私の隣にいる姪ほどの――少女一人分の影だった。
004
数分後、私達は高さ以外の座標変位無く、地上に降り立っていた。
ウヨウヨと穴の空いた者達を掻き分け、猫の少女もとい姪がその群れの中心部に潜り込もうとする。当然私は追いかけなければならなかった。
「これは……」
先に着いた少女が動揺した。ゼロカンマ数秒のラグを超えて、私も目撃する。
「やはり飛び降り自殺か」
そこには、顔面が大きく陥没し個人の判別も殆ど出来ない潰れた蛙のような死体があった。地面との衝突からか、内臓が全てぶちまけられていた。見たことの無い色の体液が既に気化していて、生臭い。血腥い。
現実的な体液の水溜り――血液や髄液や脳漿や消化液や組織液が、私と姪を含めた群衆の顔を映していた。その水面に映りこんだ群衆と姪の姿には、些かの違和感もなかった。胸の穴な殆ど見えなくなっていた。
姪は、石になったように固まっていた。
「おやおや、誰かが助けてあげなかったんですねえ」
体液プールに釘付けになっていると、突如真横から声が聞こえた。振り返るとそこにはスーツを着た壮年男性がしゃがんでいた。胸の穴は無いように見えた。振り返った私に気づいたようで、
「ああすみません、今のは独り言です。お気になさらず……おや、よく見れば貴方もそうじゃないですか」
「……何の話だ」
「ほら、ここ。ここ」
スーツの男はそう言って、私の胸を指さした。
「私に胸の穴がないことを指摘しているのか? 確かに貴方も無いように見えるが、そもそも無いのが普通じゃ――」
「ああ、そうじゃありませんよ。私じゃないんです。貴方が同じなのは、私じゃなくて――」
スーツの男は勿体ぶった笑みでゆっくりと、ゆっくりと、その死体の方に目線を逸らした。
「――こっち」
「この女と私の何が同じなんだ」
共通点など見当たらなかった。
「いえ、最初に貴方が仰った穴、穴ですよ」
そういえば、この死体には違和感が全くなかった。
「この女性の胸には、穴が無い。あなたの胸にも、穴が無い」
違和感が全く無いというのは、つまりこの場合で言えばそれが『私の知る死体』であり、つまり『私の知る人体』だった。彼女の胸には穴一つなかった。飛び出てきたのは内臓だけだ。
「要するに、私が言いたいことはこの女性が落下した原因が穴の不在にあるということです。故に貴方も――」
「私が、飛び降り自殺をするとでもいうのか」
「ええそうです。私、こう見えてこの手の職で食べてましてね……」
スーツ姿には見合わない発言だったが、私は自分が自殺するなんて言われたことに業腹で、それで一杯だった。
「信じませんか? じゃあちょっと見せてあげましょう。失礼します」
言い終わる前に、男は私の胸に手を伸ばした。反応できるような速度ではなかった。そしてその手は私の胸に沈んだ。
「やめろっ、何をするのだ……!」
驚きと恐怖で身を捩ろうとしたが、首根っこを掴まれたように、心臓を掴まれたように動けなかった。
グシャ、バショバショ……
一生自分の身体からは出ないはずの音を立てて、男は私の胸から手を引き抜いた。死体が噴出する液体とは違う、何かが私の胸から垂れている。
「大丈夫ですよ、ちゃんとお返ししますから。それよりほら、これを見てください」
そう言って私の前に、手を差し出す。目眩がする視界の中で、スーツの男に飛びかかる気力もなく、言われた通り目を向けることしか出来なかった。
取り出したそれは微動していた。視界の明瞭度が戻るにつれ、その微動は輪郭だけのものであり、実際はその場でものすごい勢いで自発的に混ざりあっている、黒っぽい糸状の何かだった。その塊だった。例えるならば、子供がムシャクシャして書いた、ぐちゃぐちゃな黒鉛の筆跡のようなもの――腐臭がした。
見とれていると、そそくさと男は私にやったことを死体にも行う。「残ってますかね〜」などと言いながら。
そして、また何かを取り出した。それは殆ど、私の胸から取り出したものと同じ、黒いぐちゃぐちゃした塊だった。
「ほら、同じものが入ってたでしょう、これは良くないですよ……」
「な、何なんだそれは」
「……まぁ、わかりやすく言えば経験ですかね。これはほんの一部ですが」
「経験……」
「使い古して壊れたけど捨てられない玩具みたいなものです」
何だそれは。そんなよく分からないものが私の胸の中にあったというのか。
「まぁ、一度これはお返ししますね……どっちだっけ、多分右ですかな」
などと言いながら、その黒い塊を私の胸に押し戻した。その瞬間、ほんの少しだけ身体が重くなったように感じた。
「先ほどこの手の職と言いましたが――つまりはこういうことですよ。この子が落ちたので、私が拾いに来たのです。附随して貴方も発見したので、仕事の宣伝も兼ねて。未来のお客様候補なのですから」
「未来のお客様……って、私のことではあるまいな」
「貴方に決まってるでしょう。それともその連れのお嬢さんだとでも思いました? 彼女は私の専門外です」
久しぶりに姪を見ると、彼女はずっと固まったままだった。というか、姪しかいなかった――さっきまでいた群衆はどこへ行った?
「人は払っておきました。貴方はちょっと違うので残しておきました。今から私の仕事ですが、貴方も見ておいてください。宣伝ですからね」
「言ってる意味が分からないのだが――」
「■■■■■■■■■!」
男は言下に、全く聞き取れない何かを発し始めた。
「■■■■■■■――」
「お、おい、何してるんだ、それよりもこの女をどうにかするのが先決じゃないのか」
「■■■■……今それをしているんですよ。■■■■――」
横目で制された私は、それ以上何も言えなかった。
一頻り、男が唱え終えた。
そして一瞬、私の記憶はここで飛ぶ。
005
気づいたときにはそこに居たのだ。
ほんの数秒間だけブラックアウトしていたのだと思う。そのブラックアウトの間に、その闇の先に何か光明を見た、そんな感覚に覆われて目を覚ました。しかしその光明は意識世界の問題ではなく、現実的な――いや、非現実的な――そんなことを言っていてももう仕方が無いほど歪んだ世の中だが、少なくとも私が知覚できる範囲で現実的な光が、そこにはあった。私やスーツの男と、死体を挟んで反対側に。
凡そ天使と形容せざるを得ないような、光る何かがあった。
気づいたときにはそこに居たのだ。
天使は紛いもなく人形だったが、胸に大きな真円があった。深淵のようにそこだけが真っ暗だった。後ろの風景を通してみることは出来ない。
光源体は、ゆっくりと腕を上げて、死体の胸に手を当てた。途端、死体の胸から何かが飛び散る。それは内臓や体液ではなかった。それよりももっと迅速に気化していく、何かだった。黒煙を立てているかのようにも見えた。
そして、すぐに彼または彼女は、姿を消した。スーツの男を見ると、かなりの脂汗をかいているようで、消えた直後には栓が抜けたように息を吐いていた。
「まぁ、こういう感じです」
「全然理解出来ないが」
「とかく、貴方もこの女性も、溜めすぎなんですよ。まるで胸のうちが肥溜めなんです」
物凄い形容だった。
「そういえば、申し遅れました、私、こういう者です」
などと言いつつ、既に爽やかな風な顔に戻った男は、名刺を取り出し差し出した。
「穴明け屋……穴明け屋、とは?」
「貴方のような人に、穴を開けて差し上げる仕事ですよ」
「それは人殺しじゃないのか」
「ふっ、まだそんなことを仰るので。幾分前に貴方が見ているものは、その層ではないと気づいているはずですよ――第一、今ここに警察が来ないことがおかしいでしょう」
「……」
「今日鏡見ましたか?」
「いや、見ていないが」
「意図的に見てなかったんだと思いますが、貴方はどうも、鰐ですよ」
「……?」
「まぁ良いんですよそんなことは」
男は立ち上がった。
「鰐の男性、貴方もいつか彼女と同じ末路を辿ります。その前に、穴明け屋で明るい明日を作りませんか?」
006
結論から言えば、私は断った。気持ちが悪いから。あの後すぐにあの男からは遠ざかり、固まったままの姪の手を強引に引っ張り、とうに二時間位は過ぎていたためそのまま姉に連絡し帰らせた。
男は視界の限界まで、ずっと私のことを見ていた。
あの生々しい自殺体との遭遇以来、私は日常生活――屋内でひたすらに学問をする生活に戻ったし、今では姪なんていなかったんじゃないかと思う。いや、姉さえもいないんじゃないかと。私はひとりなんだと。そんな日常に戻った。家に帰って鏡を見ても、生気のない中年男性の顔が映るだけだし、猫の少女なんてものは見た試しもない。ついでに自殺体もあれ以来見ていない。
あの男がなんだったか、私は結論づけることが出来なかった。最後に見たあの光源体のことだけは、私を強く関心させたが、どうにも詐欺師の感が拭えなかった。
十数年前のことだが。
そんなことを思い出しながら、雨の日の交差点を窓ガラスから見遣る。
傘を差しながら、皆一人ひとりが光源体と睨めっこをしている。それは電車に乗っても、道を歩いても、食事を摂ってもそうだ。
私は暗い空に揺らめく人の数の光源体を眺めて、コーヒーを啜った。啜ったコーヒーは胸に染みた。染み込むだけだった。