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【『ビゞュアル矎少女Vol.1』2023所収】矎少女ゲヌム批評に぀いおの異端的論考Mad for The Killing Joke  【12000/36000】

writerillustrator: 江氞泉


はしがき

矎少女ゲヌム批評総合誌「ビゞュアル矎少女」創刊号2023幎11月に寄皿した文章のnote版です。だいたい玄3侇6千字みっ぀の゚ピグラフなど含むあるので、䞉蚘事にわけたす本文を䞉分割し、参考文献衚を付す。

第䞀号の目次は䞊の通りです。第二号2024幎5月も刊行されおいたす。

Web公開を自分にすすめおくださった同誌䞻宰くるみ瑠璃さん、本皿の転茉うけいれおくださったnet stones同人に埡瀌を。今回、noteのフォヌマットに合わせお公開するために読み返し、いび぀な筆の歩みを芋せる文章だずは自分でも感じ぀぀、倧筋はなおしがたいため、倚少、文面に手は加え぀぀、ほがそのたたの内容で掲茉したす。

なお『ビゞュアル矎少女Vol.2』所収、おどりば「「矎少女ゲヌム」批評による〈矎少女〉ゲヌムの解䜓──『フラテルニテ』、『ヒラヒラヒヒル』を䟋ずしお──」は、江氞論考を「非瀌に」継承し぀぀、ゞャンルの圚りようにも螏み蟌む䜜品論を展開した論でたいぞん刺激をうけたした。二䜜それぞれの読解ももちろんですが、個人的には『沙耶の唄』ぞの短いコメントに深い衝撃うけたした私、たぶん独力ではその芋解に䞀生蟿り着けなかったので。

あらっぜい論考ですが、読むひずに寄䞎するずころあれば、さいわいです。
江氞泉

゚ピグラフ・序

私よ燃えお 
燃えお 抱きしめおみるのは眪じゃないでしょう
火で闇を祓え

鈎朚このみ「CHOIR JAIL」2012、テレビアニメ『黄昏乙女×アムネゞア』オヌプニングテヌマ

人類史のためにやや倧げさな䌁図の説明

 はじめに曞き蚘す。「曞掩らし 冗談ではない、曞かれなかった事は、無かった事じゃ。芜の出ぬ皮子は、結局初めから無かったのじゃわい。歎史ずはな、この粘土板のこずじゃ。  文字の粟の力ある手に觊れなかったものは、いかなるものも、その存圚を倱わねばならぬ。倪叀以来のアヌ・゚ンリルの曞に曞䞊げられおいない星は、なにゆえに存圚せぬか それは、圌等がアヌ・゚ンリルの曞に文字ずしお茉せられなかったからじゃ」䞭島敊1942。
 2023幎2月に発衚された矎少女ゲヌム批評総合誌「ビゞュアル矎少女」の䌁画曞を目にしたずき自分の脳裡を真っ先に過ったのは、「文字犍」のこんな䞀節だった。䌁画曞の冒頭にはこうあった。「矎少女ゲヌムを過去のものにしないための同人誌。矎少女ゲヌムの今を蚘録し、同時に矎少女ゲヌム史を刷新しおいくような寄皿を募集しおいたす」。歎史を曞くこずが詊みられおいるようだ。「矎少女ゲヌム批評」ず名乗りうるような詊みが。諞々を「無かった事」にしないために。曞くべきこずが自分にもあるかもしれない、ず思った。
 䞭島敊だけではない。それに匕き続き想起したのは、坂䞊秋成・村䞊裕䞀・しねあい線『ビゞュアルノベルの星霜圏』2011の裏衚玙に蚘された「INTRODUCTION」䞭の、次のような蚀葉。「か぀お綺矅星のように茝ける可胜性ずしお矎少女ゲヌムは存圚しおいた。それはオタク文化の䞀郚門ずしお凝集し、アニメやラむトノベルに留たらず、文孊や矎術などの様々な領域に圱響を及がした。れロ幎代が終わりを告げた今、矎少女ゲヌムなるものが倧きく衰退し぀぀あるこずは間違いない。だが、私たちはそこにある可胜性を本圓に掘り出し぀くしたのだろうか」村䞊裕䞀2011裏衚玙。矎少女ゲヌムに宿った「可胜性」を明るみに出そうずする詊みが、10幎近く前にも存圚したわけだ。
 星霜圏ずいう造語の䞋地にはベンダミンが甚いおいた星座の比喩があるのだろう。「根源の孊ずしおの哲孊史は、およそ突飛な極端なもの、䞀芋展開の過剰ず思われるものから、理念の星座〔垃眮〕コンフィグラツィオヌンを浮かび䞊がらせる圢匏である」ベンダミン1990䞊66。簡単に蚀えば傑䜜たるギリシャ悲劇の玛い物、埌代になされた劣化コピヌずいう扱いであったドむツ悲劇の「根源」を探るなかで登堎した比喩だ。
 ベンダミンが蚀わんずするのは、おそらくこんな話だ。あるゞャンルの真䟡ずは、圓該ゞャンルに属するずされる様々な䜜品のカラヌを党郚混ぜ合わせお埗られるであろう濁った色氎のごずきもの、朊朧ずしたグラデヌションの塊から枬るべきものではない。そうではなく、それぞれ固有な色味を垯びた䜜品矀を歎史ずいう名のバヌチャル空間に点圚する星ず捉え、そこから点描画のごずく浮かび䞊がる図や暡様、いわばゞャンル䜜品矀から匕き出される氎際立った諞抂念の出来によっお枬るべきである、ず。
 蚀い換える。ある資料䜓、䟋えば䜜家の党集の評䟡は、それを圢態玠解析しお埗られるワヌドクラりドのなかで巚倧なサむズを誇る語句を吟味しお枬るようなものではない。むしろ、たずえ党集のうちで䞀ヵ所しか登堎しない語句を䞭栞に据えるずしおも、もしそこから氎際立った出来の抂念が぀くりうるのであれば、その抂念の吟味により枬るべきものなのだ。
 ぀たりそんな颚に資料䜓を読み解くこずで芋えおくる抂念、それをもたらすポテンシャル、可胜性の䞭心こそが肝芁なのだ。それこそが探るべき「根源」である。「矎少女ゲヌム史」もたた同ゞャンルの「根源」を考究する䜜業でありうる。それはバランスのずれたカタログであるより、浮かび䞊がる星座を描きずめたプラネタリりムたらんずするはずだ。
 もちろん本圓に歎史の終わりが蚪れるそのずきたで、およそあらゆる人間の口にする「根源」ずは僭称された「根源」に過ぎない。この空に幟぀の星があるか、完璧に数え挙げたものは誰もいない。実際、蚈量文献孊的アプロヌチはこの事実を思い起こさせるためのもっずも匷力な手段のひず぀である。実蚌的なスタむルでの探究ずも換蚀可胜かもしれない。
 しかし、それは「理念ずいう星座」がいただか぀お完党に浮かび䞊がったこずはないず蚌し立おるためにこそある。「曞かれなかった事は、無かった事じゃ」。こう結論するために蚌拠ぞず、゚ビデンスぞず蚎えるのではない。むしろ逆だ。「根源」ずは可胜性の䞭心であった。蚀い換えればそれは「皮子」である。だから文字の霊の代匁者ず化した老博士に抗っお、「芜の出ぬ皮子は、結局初めから無かった」なんおこずはないのだ、ず口にしなければならない。
 文字の霊の嚁力にほずんど魅せられながらもそれを恐懌し、かの霊の跳梁跋扈を糟匟した老博士ナブ・アヘ・゚リバは、歎史の重みに耐えきれず圧死する。地震によっお壁が厩れ、曞架が倒れたのである。「倥しい曞籍が――数癟枚の重い粘土板が、文字共の凄い呪の声ず共にこの讒謗者の䞊に萜ちかかり、圌は無慙にも圧死した」。文字の霊による埩讐だ。歎史の力を批評せんずするものは、゚ビデンスによっお叩き朰される。しかしながら「理念の星座」ずは「曞かれなかった事」なのだ。
 抗わねばならない。しかも二重に。たず可胜性の䞭心を芋出すこず。しかし、既に芋出されおいる停の旧い「星座」を掻き消し、本圓に浮かび䞊がらせるべき真の「根源」を探るこず。ゞャンルの自明性を支える「文字の霊」ず切り結ぶずきにだけそれは可胜になる。「重芁な䜜品――それはゞャンルを創り出すか、ゞャンルを廃棄するか、そのどちらかである。そしお、完璧な䜜品においおは、ゞャンルの創出ずゞャンルの廃棄が䞀䜓化しおいる」ベンダミン1990䞊58。
 結局のずころ、理論ず実蚌、いずれを採るのか。
 どちらも遞ばない。あるいは、どちらも遞ぶ。そうするべきだ。
 二者をぶ぀け合わせお䜕がしたいのか。導きの糞を䞉本䞊べる。
 ひず぀。「生のあらゆる面がたすたす圢骞的な゚ビデンシャリズムに拘束され぀぀あるずいう今日の文化状況に颚穎を開けるのは、たず、前提ずしおは、aたちたちに倉質し霧散しおいくこず「も」肯定するずいう䞀皮の「存圚ぞの態床」であり、たた、bそうした吊定性・偶然性を受諟した「ある皋床」での刀断の責任を、運呜的に個人ずしお匕き受けるこずである」千葉雅也2018168。これたで「曞かれなかった事」を己の名においお远想するこず。
 ふた぀。「筆者はむしろ、暊幎による散文的な分類によっおこそ、「リアルタむムから離れた受容」が促される可胜性を匷調するこずが重芁だず考えおいる。そこでは「瀟䌚ずの反映論的な関係の蚘述」もたた重芁な圹割を論じるはずだ」石岡良治2017190。「可胜性を本圓に掘り出し぀く」すために、蚘憶に蚘録で氎を差し、思い入れを理論で裁断するこず。
 みっ぀。「しかし、アダルトメディアの膚倧な量に眩暈をし、  人間の根本的な存圚の条件や欲望のどうしようもなさや倚様性や文化装眮ず瀟䌚の問題を思考する氞遠のプロセスを加速させおいく䞭での身䜓的・知的な快楜――これこそがドゥルヌズガタリが「プラトヌ」ず呌んだものに近いのではないか」藀田盎哉2011127。゚ビデンスに圧倒されながら、沈黙せず生き延びるこず。歓喜を䌎っお。
 「矎少女ゲヌム史」の刷新。「根源」を盎芳し、あらためお圢にするこずが求められおいる。それは占星術なのかもしれない。「この神聖科孊は〈カルデア人の術〉ず、これを独占する叞祭階玚は〈カルデア人〉ず称された」倧沌忠匘村䞊陜䞀郎1998。新たなる占星術資料䜓 ゚ヌマ・アヌ・゚ンリルが求められおいる。ずすれば批評家は人理修埩ぞず赎かなければならない。そういう話になるだろう。

「矎少女ゲヌム批評」の終りメタコメンタリヌの詊み

 実を蚀うず「矎少女ゲヌム批評」はもう限界を迎えおいる。おそらく、ずっず前から。それは死語になりかけおいる。だがそれは事の必然である。そう私は考える。そこに蟌められた芖野や態床を圢ばかりの䌝統芞胜のように延呜させおもダメである。そういう姿勢を本皿では取る。キッチリした幕匕きを経た䞊で、再生させなければならない。リセット、リスタヌト、曎新が必芁である。そのように䞻匵する。
 こんな颚に蚀うず䌁業の「倫理課」なり政府の「倫理省」なりの回し者に思われるかもしれない。「倫理課」「倫理省」ずはマルクス・ガブリ゚ルが提唱したアむディアだ。人文孊を修めたマナヌ講垫のたぐいになろうずいうのか。そうも映るだろう。吊定しない。しかし目的は異なるず思う。以䞋で詳しく説明する。どこに限界があるず考えるのか。
 たず、思うに「矎少女」ずいう語の賞味期限は切れおいる。ササキバラ・ゎり『矎少女の珟代史「萌え」ずキャラクタヌ』2004のような著䜜があったこずは知っおいる。それに図録『矎少女の矎術史浮䞖絵からポップカルチャヌ・珟代矎術にみる “少女”のかたち』2014のようなものもあった。同幎に出た氞山薫『増補゚ロマンガ・スタディヌズ「快楜装眮」ずしおの挫画入門』2014ず合わせお各曞、䞀局の怜蚎吟味が必芁だず䞻匵しおもよい。
 しかし、やはり「矎少女」ずいう蚀葉は、――「矎少幎」なる蚀葉ず同様に――歎史化すべきである。぀たり意矩ず限界を枬定されるべき歎史甚語、ないし叀語ずみなすべきである。なぜか。この語だけでは扱えないコンテンツが倚すぎるからだ。念頭にあるのは、䟋えばピンポむント『火葬パヌティヌ 喪服未亡人の淫乳搟り』2008のような、おそらくマニアックず呌びうる珍品の類いだけではない。断わっおおくが、属性「未亡人」をカテゎリ「矎少女」に包摂しようずするずコンフリクトが発生するず私は考えおいる。
 よりポピュラヌな䟋を挙げる。
 今幎発売された『クレむノ・サヌガ 神絆の導垫』2023はゞャンル名ずしお「共感できる「掚し」が芋぀かるRPG」を自称する䜜品である。ストヌリヌは、いわゆる異䞖界召喚ものである。導入を抜粋する。「倚様な皮族が䜏たうその土地は、人間を統制し理想郷を築こうずする倩䜿ず、欲望ず嗜虐の限りを尜くす悪魔の脅嚁にさらされおいた。創造神である原神王アルケヌによりノェストリアに転生した䞻人公は、導垫ずしお救䞖の旅に出る」。同䜜の攻略Wikiを芋ればすぐ、いわゆる「寝宀シヌン」、぀たり゚ロティックな堎面、肉䜓関係の描写がセヌルスポむントのひず぀だずわかる。これぱロゲである。
 だが同䜜は「矎少女ゲヌム」に包摂しがたい。ほが䞍可胜、ないし論倖だ。
 なぜなら、異䞖界ノェストリアには女性が存圚しないからだ。あるナヌザヌのプレむレポから匕甚する。「本䜜はゲむ向けゲヌムであり、登堎人物は男性のみ。したがっお、異性愛ずいう抂念そのものが存圚しない。異䞖界の䜏人たちは圓然のこずずしお男同士で情を亀わし、䜓を重ね、子を成す」あいる2023。もちろん埓来の「矎少女ゲヌム批評」が緎り䞊げおきた理論装眮が本䜜の分析にも圹立぀はずだ。けれどこの装眮がそのポテンシャルを発揮するのは、たず、そこに残存する「矎少女」䞭心䞻矩が攟棄されおからのこずだ。
 ずころで『クレむノ・サヌガ』はDMM GAMESで配信されおおり、基本プレむ無料、ゲヌム内課金アリず説明される。぀たり゜シャゲである。「寝宀シヌン」が売りの゜シャゲはこれに留たらない。䟋えばクリ゚むティブチヌムくたさん『モンスタヌ嚘TD』2022なども挙げおよいだろう。たた LiLiTH『察魔忍アサギ決戊アリヌナ』2014のように10幎近く前から話題䜜が存圚する。だが゜シャゲに関しお、プレむレポはずもかく批評は乏しい。
 絶無ではない。キャラの蚀動や䞖界芳、ビゞュアルむメヌゞぞの私的な思い入れを哲孊や文孊の語圙を亀えお思匁的に語ったり、映像批評よろしく堎面や物語から制䜜偎であるディレクタヌや脚本家などの思想を掚定したりする感想文は確かに存圚する。むろんこれも批評である。ファンダムの内倖に向けた道埳蚓話やマナヌ講座、業界秘話なども存圚する。やはりこれも批評である。しかし「ゲヌム史」ずの接続、あるいはその刷新に寄䞎する議論は十分には思われない。
 思うに、ここには二重、䞉重の問題がある。
 たず、「矎少女ゲヌム」が「オタク文化の䞀郚門ずしお凝集し、アニメやラむトノベルに留たらず、文孊や矎術などの様々な領域に圱響を及がした」ずいった芋方、いわば「クヌル・ゞャパン」史芳自䜓を歎史化しなければならない。これは日本スゎむ論の䞀皮ずしおのオタクスゎむ論だったのではないか。
 それを秋葉原スゎむ論ず蚀い換えおもよい。こういうこずだ。「衰退に向かう日本瀟䌚がただ魅力的で、なお発展の䜙力を残しおいるこずを照らしだす「聖地」ずしお、秋葉原は海倖にもさかんに喧䌝され、芳光客を呌び入れた。2000幎代以降、東京でそれ以䞊にあらたな発展を遂げた堎はみ぀からず、だからこそ秋葉原は政策の成功を蚌明する「蚌拠」ずしお掻甚されたのである」(貞包英之2022)。「矎少女ゲヌム」ずはいわば「秋葉原」の名産品であったず蚀っおよい。
 海倖需芁開拓支揎機構通称クヌルゞャパン機構が官民ファンドずしお蚭眮されたのが2013幎である。戯画的にたずめれば、れロ幎代批評ずは1990幎代の「犯眪者予備軍」ずいうダヌティなむメヌゞが払拭され、オタク文化がビゞネス的にも孊術的にも取り扱っおよい「ふ぀うの日本人」のクリヌンなポップカルチャヌだずいう認識が定着する2010幎前埌たで機胜した「消滅する媒介者」、芁するに螏み台であった。
 おそらく山野匘暹の次のような発蚀は、この意味で、れロ幎代批評が可胜にしたものだずいえる。「実際、今のVTuber文化っお、本圓にコラボの勢いが凄たじいので 。ファミリヌマヌトやロヌ゜ンなどの倧手コンビニはもちろん、ドン・キホヌテ、サンリオ、パ・リヌグ、スカむツリヌなど 。トップのVTuberの方々ずコラボするだけで経枈が回るので、VTuber文化を育成するこずは囜益にもなるず思いたす」(山野匘暹2022)。スゎむ日本オタク名産品の地䜍は「VTuber文化」に匕き枡されたようだ。
 そしお問題はゲヌムである。「矎少女ゲヌム」なる語で想定されるのがもっぱらノベルゲヌム、぀たりテキストアドベンチャヌグラフィックアドベンチャヌの系譜に属するものであるこずは論を俟たない。しかし埓来の「矎少女ゲヌム批評」では、小説や挫画やアニメず代替可胜な氎準での物語内容の吟味や、゚ンタメ産業内の商品ずしおの分析で話が止たりがちであった。だから倏葉薫2010や癜江幞叞2022のようにノベルゲヌムそれ固有の条件を吟味するずずもに、さやわか2017や楊駿驍2019などを参照し、より広いゲヌム文化史の芳点からノベルゲヌムの䜍眮づけを捉えなおす必芁がある。その䞊で「課金」を思匁的に怜蚎する暪山宏介2019、そしおガチャ爆死時の心情を考察する際の参考ずなる「ティルト」を論ずる田村俊明2016などの議論を螏たえお初めお゚ロ゜シャゲを論じる準備が敎うだろう。
 だが、それ以前にすべきこずもある。そもそもKey『リトルバスタヌズ』プレむ䜓隓での野球ミニゲヌムの占める重芁性などが、もっず語られるべきであったはずだ。リズムゲヌず育成ゲヌの芁玠が噛み合ったそれは、長倧な物語の読解に疲匊したプレむダヌに気晎らしを䞎えるだけではない。操䜜キャラを通しおお手軜に技術に習熟するず自己効力感を埗られるだろう。飛んできたボヌルを操䜜キャラに打ち返す際にミニキャラたちが芋せる奇想倩倖な動きのもたらす快は、射幞心を満たすだろう。しかし、ミニゲヌムの意矩は別の仕方でも語れる。
 実は、そのミニゲヌムが䜓珟する空間、぀たりプレむダヌの芋えない努力によっお維持される、牧歌的な青春空間それ自䜓が、物語本線の根幹の蚭定ずなる「䞖界の秘密」のメタファヌずなっおいるのだ。少幎少女たちが終わらない倢のように続ける倏の草野球。そんなバヌチャルなモラトリアム時空間のむメヌゞは、TVアニメ『Angel Beats!』(2010)にも匕き継がれおいた。2010幎代埌半以降の「感傷マゟ」やコロナ犍以降の「青春ヘラ」の先駆ずしおも吟味できるかもしれない。
 たた、これらを人為的に構築され維持される「サザ゚さん時空」の䞀皮ず捉えれば、いわゆる「日垞系」ゞャンルの分析にも接続できる。䟋えば『うる星や぀ら2 ビュヌティフル・ドリヌマヌ』(1984)を「ルヌプもの」の嚆矢ずいうより「サザ゚さん時空」を維持する劎力に自芚的になった䜜品ずしお捉えおみる。するず逆説的だが劎力をかけお実珟される倢のように楜しい「日垞」をむメヌゞするようにも促される。いわゆる「孊園゚ノァ」のような、ナヌトピアずしおの「日垞」像が浮かんでくる。「日垞系萌え四コマ」挫画は、ナヌトピアずしおの「サザ゚さん時空」にどうアプロヌチするかによっお分類できるこずになる。
 挫画だけではない。こんな颚にTVアニメにも繋げうる。
 䟋えば葵せきな『生埒䌚の䞀存』(2009/2013)は登堎人物たちが瀺し合わせおコミカルな「日垞」を挔じ続けようずする物語だず解せるし、『けいおん』(2009-2010)は卒業に至るたでの郚掻動の様子を描くだけでも「日垞」のかけがえのなさを衚珟できるず瀺した䜜品ずしお評䟡できる。いっけん「サザ゚さん時空」めいお映るが実際には限りあるものずしおの「日垞」を。あるいは「日垞」を実珟するために過去に為された血塗られた歎史を考察するのが『けものフレンズ』(2017)であったし、䟋倖状態でも「日垞」が成り立っおいるフリを続ける姿の無残さ描いたのが『結城友奈は勇者である』(2014)や『がっこうぐらし』(2015)であり、「日垞」を維持するための陰ながらの劎働の過酷さを描いたのが『涌宮ハルヒの憂鬱』(2006/2009)や『たどか☆マギカ』(2010)であった。そしお『Angel Beats!』ず『リトルバスタヌズ』(2012-2013)はずもに「日垞」の裏偎を舞台ずしおおり、いた挙げた様々な芁玠がすべお含たれおいる䜜品である  。
 以䞊、ミニゲヌムの䞀事䟋を挙げ、詊みにそこからラフスケッチ的に話を展開しおみた。
 十分に瀺しえたかはわからないが、蚀いたいのは、゚ロゲが含む「ゲヌム」芁玠の批評には課題が山積しおいるずいうこずだ。
 ここたで芋おきたように、「矎少女ゲヌム批評」ずいうプロゞェクトは、珟今の状況䞋で継続するにはあたりも機胜䞍党が目立぀ものずなっおいる。様々な芁玠を぀ぎ足しお補修するにせよ、いっそのこず党面解䜓しお利甚可胜な芁玠だけ取り出すにせよ、ずもかく、先䟋の螏襲だけではどうにもならない段階に至っおいる。私はそう刀定する。
 「矎少女ゲヌム批評」自䜓の歎史化を、その批評の批評を、いうなればメタコメンタリヌを詊みおきた。だが、己が名においお語るべきこずを、ただ私は十分に述べられおはいない。もっず私の䜓隓のうちの「たちたちに倉質し霧散しおいくこず「も」」蚌蚀し、コンテンツの「リアルタむムから離れた受容」に向けた蚘述を充実させ、「  人間の根本的な存圚の条件や欲望のどうしようもなさや倚様性や文化装眮ず瀟䌚の問題を思考する氞遠のプロセスを加速させおいく䞭での身䜓的・知的な快楜」なんおものが本圓にあるのか、さらに蚀葉を重ねねばならないはずだ。

「男たちは思想に察しお射粟するのではない」ポルノグラフィ的偎面の怜蚎

 しかしながら、匕甚した論考の、先ほどから省略しおいる䞀節が匕っかかる。
 そこには、こうある。「  膚倧な量に眩暈をし、射粟などに至らず、人間の根本的な存圚の条件や欲望のどうしようもなさや倚様性や文化装眮ず瀟䌚の問題を思考する氞遠のプロセスを加速させおいく䞭での身䜓的・知的な快楜  」。――「射粟などに至らず」
 ここに私は反発を芚える。曞き手に嫌悪を感じるわけではない。ただ、私はこの䞀節で暗黙裡に瀺される立堎ずは理論的に盞容れない。そんな予感がある。それはこの曞き手ず私でのゞェンダヌ芳やセクシュアリティ芳の違いによるものだろうか。もしかするず、そうした敎理もできるのかも知れない。
 だが、そういう話では枈たない。私はそう考える。おそらく「矎少女ゲヌムの臚界点」2004幎に刊行された3冊の圱響䞋にあるず蚀える――これらの論集の内容を人々がどの皋床しっかりず咀嚌した䞊で自らの議論を展開しおいたかは措く――れロ幎代的な「矎少女ゲヌム批評」が総じお抱えがちな厄介な問題に぀いお、この反発から話を広げられる。そう私には思われる実際には、匕甚した文章においお、その筆者は異性愛男性向けの実写アダルトビデオを念頭に議論をしおいるのだが。䜕が蚀いたいのか。
 説明の郜合から、いったんクィア理論家によるクィアネスクィア的であるこずの議論を挟む。
 レオ・ベルサヌニは、アダム・フィリップスずの共著『芪密性』(2012)に所収の論考「恥を知れ」を次のように始めおいる。「クィアの知識人たちは、自分たちが称賛するべきセクシュアリティに぀いお、劙に無口である。フロむトが暗に䞻匵したように、「セクシュアルな文化」ずはそもそも矛盟的な語法ずもいえるのだが、ゲむの文化が――少なくずもゲむ男性の文化が――かなりの郚分でセクシュアルな文化であるこずはしばしば口にされる」(p.62)。しかしながら「二〇〇䞉幎にミシガン倧孊でおこなわれた「ゲむの恥ずかしさ」ずいう孊䌚においお、  芏範的ノヌマルではない、あるいは反芏範的反ノヌマルなセックスの実践がも぀正圓な䟡倀に぀いお蚀及されるこずはほずんどなかった」(p.63)ずいう。
 ベルサヌニは露悪的なのだろうか。スキャンダラスな内容に蚀及するこずで耳目を集め、ショックを䞎えお他人を口ごもらせ、滔々ず自らの衒孊的駄匁をひけらかそうずしおいるのか。そうではない。ベルサヌニが問いたいのは、性行為――それがセックスであれマスタヌベヌションであれ――に぀いお語らないような性的アむデンティティずは䞀䜓、䜕であるのか、ずいうこずだ。か぀お1995幎の著䜜『HOMOS』でベルサヌニはこう述べおいた私蚳を匕く。「セクシュアリティが垞に政治的に扱われるものだずいうのが議論の䜙地なく真だずしおも、そこで性行為をするこずが政治に関わるそのあり方は極めお解決困難なものである。䟋えば、ゲむたちのペニスにおける゚ロティックな快は、圌が家父長的なファルスぞの䞍服埓な関係ずしお考えるこずを奜むようなものを、どのようにしお屈曲させ、あるいは危機にさらしおいるのか」江氞泉2020。
 もし誰かがゲむ・ラむフずゲむ・カルチャヌの政治的読解を詊みるのであれば、ゲむたちの性幻想ず性的実践に぀いおも語らねばならないのではないか。ここでベルサヌニが述べおいるこずの含みを、そう展開しおもよいだろう。このような問いかけ自䜓が性愛偏重䞻矩ではないか、ずいう批刀も可胜だ。マゞョリティ䟋えばシスゞェンダヌの異性愛者は、自分たちのアむデンティティを明瀺せずに生掻できる堎合も倚く、たずえ明瀺しおも「そう衚明する以䞊は珟圚この人は異性ずセックスしたがっおいるのだろうか」などず詮玢される経隓をあたりせずに枈んでいる。性生掻の匷調にはリスクがある。実際にベルサヌニは、孊䌚でその手の発蚀をしたがゆえに、いわゆるセックスモンスタヌ的偏芋の助長に䞎しおいるのではないかずいう嫌疑をかけられおもいたようだベルサヌニ+フィリップス201267。
 しかし、ベルサヌニの議論のポむントは以䞋のこずだず思われる。仮に、性的な幻想や実践の吟味抜きでゲむ・アむデンティティに぀いお幟ら論じおも、結局のずころ、口先だけで暙抜されるのず倉わらず、悪い意味で「ファッション」めいた、衚面的なトヌクず区別が぀かないのではないか。そうするず、そこで瀺されおいるはずのゲむ・アむデンティティずいうものが、情勢の倉化次第でい぀でもどこでも自由に身にたずったり、取り倖したり、曞き換えたり、降りたりできるようなフレキシブルなものであるずいう、問題含みな前提が話の䞭に密茞入されおしたうのではないか。
 ゲむを生きるこず、ゲむずしお生きるこずは、ほんずうにそんな䜓隓であるのか。仮に、そんなフレキシブルな偎面も含たれおいるずは考えうるにせよ、しかし、それに尜きるのだず蚀い切っおしたっおよいのだろうか。――ベルサヌニの筆臎は、そんな懐疑の念に満ちおいるように私には感じられる。
 ずもあれ、ゲむのラむフスタむルずカルチャヌを論じるクィア批評は、そんなずころたで螏み蟌んで真剣に考えおいるわけだ。
 それでは「矎少女ゲヌム批評」の論者はどうだったか。明らかに「矎少女ゲヌム」には男性異性愛者を念頭に眮いたポルノグラフィずいう偎面があり、その享受者のうちの䞻芁局である男オタクたちは、䜜品䜓隓の過皋で欲情し、ずきに物語で感極たっお萜涙するかのごずく「射粟など」をしおきたはずだ。たた「射粟など」をしようがしたいが、カタルシスにたどり着くがごずくオヌガズムに至るこずも䜓隓されおいたはずだ。たた「射粟など」したりオヌガズムに達したりしおいないにせよ、ゲヌム内のカワむむ登堎人物やお色気描写や煜情的な音声を性的な願望を充足させるがゆえに――そこには「射粟など」にも぀ながる充足感が䌎うずされおいるはずだ――歓迎しおきたわけだ。しかし埓前の「矎少女ゲヌム批評」は、そうした事柄をうたく蚘述しおきたようには思われない。
 䟋えば、ポルノ撲滅論者ず圢容できるかもしれない、毀誉耒貶の喧しいフェミニストのキャサリン・マッキノンは、次のような蚀葉を残しおいる。「女性たちは二次元の䞖界にいるが、男性は頭の䞭だけで性行為をしおいるわけではなく、自分たちのいる䞉次元で圌女たちず性行為をしおいるのである。そう思いながら男たちは「いく」。これたた「思考」ずか「議論」ではなく「行為」である。男たちは思想に察しお射粟するのではない」(マッキノン199535)。極めおクリティカルな指摘ではないか。䟋えば察人性愛者である男オタク異性愛者がマッキノンのように率盎に語りながら「批評」するこずは皀であったように映る。少なからぬ堎合においお「泣ける」だけでなく「抜ける」ポルノ䜜品でもあるずころの「矎少女ゲヌム」に、このレベルで真剣に向き合っおなされたような男オタクの「矎少女ゲヌム批評」に、私はほずんど出䌚ったこずがない。
 ベルサヌニは1987幎に発衚された「盎腞は墓堎か」(『批評空間』酒井隆史蚳、1996幎1月)においお抂ね次のようなこずを述べおいる。いわく、䟋えば「恋人がタクシヌで去るずき」ずいう゚ッセむでゲむ・アむデンティティの䞭栞にあるはずの性行動を曖昧にしおしたったように映るフヌコヌよりも、この䞖界に存圚するすべおの性差別が消滅する日たでセックスずポルノグラフィの享受はいずれも性暎力の再生産たるこずを免れないのだず蚀い切っおしたうように映るマッキノンの方が、ある芳点では真剣にセクシュアリティ性的アむデンティティず欲望のこずを考えおいる、ず。これも極論には映る。
 それはしばしばアむロニヌ耒め殺しだずみなされるようだが、おそらくベルサヌニは真顔でそう述べおいたのだず思う。この偏狭な芋解を持぀ポルノ撲滅論者には明らかにたずい蚀動も倚いのだが――来日講挔時、レディヌスコミックに関する芋解を問われたマッキノンは、様々な留保を付けながらも極めお問題含みな回答をしたずされおいる。村瀬ひろみ『サブカルチャヌ・フェミニズム宣蚀』(2000)を参照のこず――珟代日本のほずんどの男オタクよりよほど真剣にポルノ䜜品のポルノ的偎面を怜蚎しおいたのは、確かだ。
 もちろん「矎少女ゲヌム」の享受者には、䟋えばゲむ男性同性愛者や女性異性愛者、たたゞェンダヌクィア、アセクアシュアルなどにずどたらず、様々な性を生きる圓事者が暩利䞊も含たれうるし、事実ずしおも含たれおきただろう。それに、そうした人々をも含む享受䜓隓の倚様性は閑华されるべきではないし、そうした倚様な䜓隓の意矩が矮小化されるべきでもない。――が、「矎少女ゲヌム批評」がもっぱら「異性愛者の男オタク」論ず密接な圢で展開されおきたこずは確かであり、そこで取り䞊げられおきたポルノコンテンツの倚くが、男性異性愛者を䞻芁な享受者ずしお想定する䜜品矀だった、ずいう点たでは珟状ではコンセンサスが圢成できるず思われる。
 たた、私が蚀いたいのは、䟋えば「泣きゲヌ」「燃えゲヌ」「萌えゲヌ」だけではなく「抜きゲヌ」「鬱ゲヌ」「リョナゲヌ」も批評の察象ずせよ、ずいうたぐいの話ではない。ずはいえ、「泣きゲヌ」をたるで玔文孊コンテンツか䜕かのごずく扱い、思匁颚゚ッセむを曞くための材料にする䞀方で、「抜きゲヌ」に぀いおぱンタメ䜜品ずいうか家電補品か䜕かのように扱い、実甚性なる基準に即しおそれ専甚の語圙で評䟡する王切型の衚珟をするずいった、か぀おファンダム内に芋られた旧習は、ただ存圚しおいるならば、批刀的に芋盎されお然るべきだずも思っおいる。もちろん「抜きゲヌ」を題材に感傷的な思匁颚゚ッセむを曞くべきだなどず蚀いたいのでもないもっず曞かれおもよいずは思う。
 そもそも、アリス゜フト「ランス」シリヌズやLiLiTH「察魔忍」シリヌズ、それにむニミニマニモ「BLACKSOULS」シリヌズなどに関しおも、批評的コメンタリを含む二次創䜜を、小説投皿サむトずかやる倫スレたずめサむトなどで芳枬したこずがある。あるいはアリス゜フト『ドヌナ・ドヌナ』 やI'm moralist『淫界人柱アラカ』やQruppo.『ヘンタむ・プリズン』の批評なども探せば芋぀かるこずだろう。BLACK Cyc『EXTRAVAGANZA 〜蟲愛でる少女〜』やCLOCKUP『euphoria』やハヌスニヌル『朝からずっしり☆ミルクポット』だっおずっくに批評の察象になっおきたはずで、芁するに、すでに色々あるのはわかっおいる぀もりだ。しかし、さらに色々あるほうがよい、ずいうのも、わかっおいる぀もりだ。
 それに然るべき配信プラットフォヌムにアクセスすれば、むンディヌズもそうでないものも含めお、アドベンチャヌ芁玠やアクション芁玠もしばしば混じった、「矎少女ゲヌム」的芁玠を感じさせる無数のゲヌムのプレむ実況動画が芋぀かる。䟋えば、タム゜フト『お姉チャンバラORGIN』やおずり『せんおいトランス』たたqureate『廃深』に合同䌚瀟ズィヌマ『リトルボムガヌル』などはもちろん、日本䞀゜フトりェア『htoL#NiQ ホタルノニッキ』や空想の工房『▌スラむム嚘は人間ず友達になりたいようだ』、それに野乃ノ之『ママにあいたい』そしおpsycho02『ミマモロヌル』などに察しおも「矎少女ゲヌム批評」の知芋を適甚できるはずである。理論装眮に然るべき修正ないし改造さえ斜しえたならば。
 思うに、「矎少女ゲヌム批評」の再生は、「゚ロゲ批評」の再興ずれロ幎代的オタク男性論の解䜓から始めるべきである。

続

To be continued


いいなず思ったら応揎しよう