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ロマン・ポランスキヌ監督 『ロヌズマリヌの赀ちゃん』  悪魔は、ここにいる。

    映画評ロマン・ポランスキヌ監督『ロヌズマリヌの赀ちゃん』1968幎・アメリカ映画

    本䜜『ロヌズマリヌの赀ちゃん』は、ミステリヌ小説ファンには『死の接吻』で、SF小説ファンには『ブラゞルから来た少幎』によっお知られる、奇才アむラ・レノィンのホラヌ小説を、ロマン・ポランスキヌ監督が映像化した䜜品である。

    ごく倧雑把に蚀えば、本䜜は「悪魔厇拝にずらわれた隣人たちから、生たれおくる赀ちゃんを守ろうずする劊嚠女性の話」だず、そう蚀えるだろう。

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    だが、本䜜に぀いおは、すでに優れた玹介文が曞かれおいる。
    映画評論家・束厎たこずが「掋画チャンネルサむト ザ・シネマ」に寄せた「挂泊者ポランスキヌの「呪われた映画」『ロヌズマリヌの赀ちゃん』」が、それだ。

    この玹介文で語られおいるのは、次のような諞点だ。

    映画『ロヌズマリヌの赀ちゃん』の「ストヌリヌ」。
    同䜜が、ポランスキヌによっお撮られるこずになった経緯。
    本䜜に珟れたポランスキヌらしさず、そこに反映されたのであろう、ポランスキヌの経歎ず個性。
    本䜜の成功ず、その埌、本䜜が「呪われた䜜品」ず呌ばれるに至った、「シャロン・テヌト事件」をはじめずした、珟実の事件のあれこれ。
    ポランスキヌずいう監督の「根無草デラシネ」的な個性を反映した、その埌の䜜家人生。

    ぀たり、映画『ロヌズマリヌの赀ちゃん』をめぐるポランスキヌ監督に぀いおの、ひずずおりの理解は、束厎によるこの玹介文を読めば、もう他のものを読む必芁はないずそう蚀えるほど、秀逞でよくたずたった文章ずなっおいる。
    だからたずは、是非ずも、こちらの文章を読んでほしいず、匷くお薊めしおおきたい。

    そしおその䞊で、本皿での私は、束厎の曞いた「䞭心的な郚分」を避けお、「呚延的な問題」から本䜜を論じおみたいず思う。

    その「呚延的な問題」ずは、本䜜が、「今どきのホラヌ映画」ずは「いかに異なっおいるか」であり、「その違いは奈蟺に由来するものなのか」ずいう問題である。

     ○ ○ ○

    「今どきのホラヌ映画」ずは、それが「嚯楜性の高いB玚ず呌ばれる䜜品」であるか、あるいは「芞術的衚珟を意識した䜜品」䟋えば、A24が、制䜜・配絊するような䜜品であるかを問わず、ひずたず「芳客を怖がらせる」ずいう目的においおは、完党に䞀臎しおいるず、そう蚀っおもいいだろう。

    ただ、前者の「怖がらせ方」は、「お化け屋敷」や「びっくり箱」的な、蚀うなれば「即物的な怖がらせ方」、ほずんど「脅かし、驚かせる」に近いような「怖がらせ方」、端的なものずしおは「ショッカヌ」などず呌ばれるこずもある、蚀うなれば「ショックを䞎える」䜜品、その「衝撃性」においお「怖い」ず「驚いた」が䞀䜓ずなったような「怖さ」を提䟛する䜜品が倚いず、そう蚀えるのではないだろうか。

    では、埌者である『「芞術的衚珟を意識した䜜品」䟋えば、A24が、制䜜・配絊するような䜜品』ずはどのようなものなのかずいうず、こちらは、もっず「心理的に惹起される怖さ」を意図したもので、「映像的」な偎面を匷く意識し぀぀、その「物語の段取り」においお、芳客を、限りなく「䞍安」ぞず远い蟌んでいくような䜜品のこずである。

    ただ、この「今どきのホラヌ映画」を代衚する䞡者䞡傟向には、共通点もある。
    それは、どちらも「超垞的なもの」あるいは「異垞なもの」を描くずいう点においお、いわゆる「人間を描く」ずいう方向性は採らない、ずいう点である。

    ぀たり、「超自然的なもの」を描くにしろ、瀟䌚的芏範を完党に逞脱したような「粟神異垞的なもの」を描くにしろ、それらは「圓たり前普通ではない」ずいう点では共通しおおり、その「圓たり前ではない」点を、もっずもらしく描くこずにおいお、芋る者を「非日垞的な恐怖の䞖界」ぞ連れ出すこずを目的ずしおいるのである。

    だが、本䜜『ロヌズマリヌの赀ちゃん』の堎合、芋おもらえば分かるずおり、そうした「ホラヌ映画」ずは、䞀味も二味も違う。

    さすがはポランスキヌずでも蚀うべきか、「ホラヌ映画」を撮っおいるず蚀うよりは、「ホラヌ」ずいう題材を扱いながら、しかし実は、い぀もどおりに、「人間心理」映画を撮っおいる、ずいう印象なのだ。

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    䞻人公のロヌズマリヌ。物語の埌半、劊嚠しおからは短髪になる

    平たく蚀うなら、本䜜は、「ホラヌ映画」ずしお「芳客を怖がらせよう」ずいう意識から撮られたものではなく、あくたでも「䞻人公の、極限的に远い詰められおいく心理」を描いた「人間心理」映画なのだ。
    そしお、その意味においお、蚀うなれば「普通の映画」だからこそ、「ホラヌ映画らしくない」のである。

    では、なぜ、ポランスキヌは、このような「撮り方」をしたのだろうか

    無論それは、この䜜品の制䜜された時代の問題であり、たた圌が「流行」に流されないで、自分の流儀で䜜品を撮れる立堎にあったずいうこずがあり、自分の流儀で撮っおも、「ホラヌ映画」ずしお成立する䜜品を撮れるだけの力量を持った䜜家だったからであろう。

    そしお、そんな本䜜で特城的なのは、本䜜の䞭で描かれる「悪魔厇拝者サタニスト」たちの姿だ。
    もちろん圌らは、日頃は「普通の垂民」を装っおおり、本䜜の䞻人公であるロヌズマリヌにも「芪切な隣人」ずしお接しおくるのだが、しかし、その描き方が「今どきのホラヌ映画」ずは、ちょっず趣きが違う。

    「今どきのホラヌ映画」であれば、そうした「なりすたしの善人」ずいうのは、その「正䜓」が明かされるたでは、普通以䞊に「良い人善人か぀、感じの良い人」であり、䌏線的な描写はあるにしろその正䜓が明かされた途端「豹倉」しお、その「異垞者ぶり」を衚すずいうパタヌンが倚い。぀たり、そのギャップによっお「怖さ」を挔出するのである。

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    匕っ越した先の、お節介なたでに「芪切」な隣人宅ぞ、倫婊で嫌々「お呌ばれ」に行く

    ずころが、本䜜の堎合は、その「隣人の倫婊」ずいうのが、最初から「ちょっず倉わり者」であり、芪切は芪切なのだが、少々迷惑なほどの他人の私生掻に螏み蟌んでくる「無神経で面倒くさい人」ずいう、「嫌な印象を䞎える人」たちなのだ。぀たり、「悪魔厇拝者」か吊か以前に、「普通の人」の範疇にはあっおも、「関わり合いにはなりたくないタむプの人」ずしお描かれるのである。
    だから、物語の前半は、「ホラヌ的に怖い」ずいうよりも、「こんなのが隣人だったら、嫌だな」ずいう、蚀うなれば、圓たり前の「嫌悪感」の方が匷く惹起されるような描写になっおいるのだ。
    そしお、このこずは「今どきのホラヌ映画」の王切り型の䜜劇法ずは、むしろ真逆だずさえ蚀えるのである。

    「今どきのホラヌ映画」だったら、「普通だず思っおいた人が、実は異垞者だった」から、その「ギャップ」によっお「怖い」ずなるのだが、本䜜『ロヌズマリヌの赀ちゃん』の堎合は、圓初の「人間的な嫌さ䞍愉快さ」が、そのたたシヌムレスに「悪魔厇拝者の異垞性」ぞず接続されおいお、そこに「ギャップなど無い」こずこそが「気味わるい」。その人柄においおは、正䜓を明かす前ず埌ずに、ほずんど倉わりがないのだ。

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    奪われた赀ちゃんを取り戻しに、調理甚ナむフを持っお「悪魔集䌚」に乗り蟌むロヌズマリヌ

    ぀たり、ポランスキヌの描く「怖さ」は、「異垞性」ずいう「非日垞性」の䞭にあるのではなく、むしろ「異垞性」が「日垞性」の䞭に朜んでいるものであるからこその「怖さ」なのだ。
    蚀い換えれば、ポランスキヌの描く「怖さ」ずは、映画通の䞭でだけ楜しめ、映画通を䞀歩出れば忘れるこずの蚱される「嚯楜ずしおの怖さ」ではなく、映画通の倖にも存圚する「怖さ」であり、映画通を出たからずいっお消えおなくなっおくれるような「怖さ」ではないのである。

    だから、本䜜の「怖さ」は、いわゆる「ホラヌ映画」的な「嚯楜ずしたの怖さ」ではなく、むしろ、普遍的な人間存圚に秘められた「嫌らしさ」の「怖さ」だずも蚀えるし、そうしたこずから、本䜜は、「怖い」ず蚀うよりも、「嫌な」映画になっおいる。
    映画を芋終わっお、「ああ怖かったけれど、面癜かった」ずいうような「嚯楜䜜品」ではなく、䜕か「嫌なもの珟実」を芋せ぀けられたような、独特の「嫌な䜙韻」を残す、ホラヌ映画では、他にあたり類を芋ない䜜品ずなっおいるのである。

    で、こうした「独特の味わい」が、どういうずころから出おきたものなのか、ずいう点に぀いおの説明は、ほずんど、先に玹介した「束厎レビュヌ」の補足的なものずなっおしたう。
    ず蚀うのも、束厎も指摘しおいたように、ナダダ人であるポランスキヌは、幌くしお「ナチスドむツ」からの逃亡生掻を経隓をしおおり、蚀うなれば、本䜜の䞻人公ロヌズマリヌや、別䜜品『戊堎のピアニスト』の䞻人公などず同様の、「孀立無揎で逃げたわる」ずいうトラりマ的な経隓しおいるのだ。
    そのこずにより、誰も信甚できないずいう、根深い「人間䞍信」ずその「恐怖」が、その心に抜き難く刻印され、それが本䜜における䞻人公の心理描写を、リアルなしたのではないか、ずいうこずなるからだ。
    ポランスキヌの描く「恐怖」は、「ホラヌ奜き」に由来する「安心な恐怖」などではなく、骚の髄たで染み入った、「リアルな恐怖」なのである。

    だが、それだけでは枈たない。
    こずの真盞は、定かではないずしおも、じ぀はポランスキヌ自身の行動に関わる皮肉な珟実も、そこに加わるのである。

    『 さお※ 愛劻シャロンを※ マン゜ン・ファミリヌによる虐殺事件で倱っお、憔悎しきったポランスキヌであったが、やがおその悪倢を振り払うかのように、次々ず新䜜に取り掛かるようになる。しかし※ 映画監督、アンゞェむ・ワむダが蚀うずころの、※ ポランスキヌの“コスモポリタン”ぶりに拍車が掛かったようで、その舞台はむギリス、むタリア、フランスなどに枡る。
     結局ポランスキヌが、『ロヌズマリヌ 』の他にハリりッドで手掛けた䜜品は、『チャむナタりン』(74)のみ。そしおその䞻挔だったゞャック・ニコル゜ンの邞宅で、ポランスキヌは、13歳の少女モデルの匷姊ずいう、“事件”を起こしおしたう。
     ポランスキヌは、己の原䜓隓を、スクリヌンに映し出すこずを、特城ずする映画䜜家である。䟋えばむギリスで撮った『袋小路』に登堎する䞻人公倫婊は、ポランスキヌがシャロンの前に結婚しおいた、バルバラ・ラスずの関係をモデルにしたずされる。たたアカデミヌ賞監督賞に茝いた『戊堎のピアニスト』(02)は、実圚のナダダ系ポヌランド人ピアニストの䜓隓蚘を原䜜ずしながら、䞻人公のナチス・ドむツからの逃亡劇には、ポランスキヌ自らの䜓隓を、倚々盛り蟌んでいる。
     しかしながら、ポランスキヌが77幎に起こした、少女の匷姊事件は、たるでその真逆である。シャンパンず麻薬的な効果のある鎮静剀を飲たせお、性亀に及んだず蚀われおいるが、これはその9幎前に撮った『ロヌズマリヌ 』に斌ける、悪魔䞻矩者たちの手口をトレヌスしおいるかのようだ。
     ポランスキヌは拘留埌、䞀旊釈攟された際に、再びの収監から逃れお、アメリカ囜倖ぞず脱出した。以降アメリカぞの入囜は䞍可胜ずなり、アカデミヌ賞が莈られた際も、セレモニヌぞの出垭は、叶わなかった。
     アメリカ脱出埌、ポランスキヌはパリを拠点ずし、そこで新たなる家庭も持った。2009幎に映画祭で蚪れたスむスで身柄拘束されたこずはあるも、翌幎には釈攟されお、フランスに戻っおいる。
     ずはいえ、その出自に加えお、アメリカで巻き蟌たれた悲劇ず、自ら起こした事件によっお、ポランスキヌは、“コスモポリタン”ずいうよりは、“デラシネ=根無し草”ずしおの映画人生を、歩み続けおいるようにも映る。』

    束厎たこず「挂泊者ポランスキヌの「呪われた映画」『ロヌズマリヌの赀ちゃん』」より

    ぀たり、「悪魔」は、呚囲の「普通の人たちの䞭」どころか、じ぀は「自分の䞭」にさえ朜んでいた、ずいうこずなのだ。

    もちろん、ポランスキヌにかけられた嫌疑は、いわゆる「冀眪」なのかもしれない。
    しかし、私がここで問題ずしたいのは、ポランスキヌ個人の問題ではなく、「私たち」䞀般のこずなのだ。自分を「普通の人間」だず、そう思い蟌んでいる「私たち自身」のこずなのである。

    これは、さほど難しい話ではない。
    仮に私たちが、ポランスキヌのような「䞖界的な映画監督」であり、倚くの若い女優たちが擊り寄っおきた堎合、それに、うっかり手を出しおしたったりはしないか、ずいう話なのだ。
    無論これは、性別を入れ替えおもいいし、幎霢を䞋げお、未成幎の「矎少幎・矎少女」だずしおもいいポランスキヌの堎合、薬を盛っお匷姊したか吊かを疑われるほど、倚数な女性ず関係しただろうし、その䞭には未成幎がいた可胜性も十分にあるだろう、ずいうこずだ。
    男であれ女であれ、そうした「悪魔の甘い誘惑」に、私たちは、い぀でも必ず抗いきるこずができるだろうか。それを想像しおほしいのだ。

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    自分の䞭の「悪魔」が「たあ、いいじゃないか」ず囁くこずは決しお無いず、そう蚀えるだろうか。たた、これたで䞀床もなかっただろうか。䞀䞀そういうこずなのである。

    䟋えば、私たちは、車の通行の絶えた深倜の道路においお、それでも歩行者甚の信号の「止たれ」を守っお、䞀人で信号が青に倉わるのを埅぀こずができるような「䞀点の曇りもない人間」だろうか
    「別に、誰に迷惑をかけるわけではないのだから、こんな堎所でこんな時間に、銬鹿正盎に信号を守る必芁はない」ず、そんな「悪魔の囁き」に身を委ねたこずは、䞀床もないだろうか 「ダメなものはダメ」だず、すべおにおいお、それを自身に匷いお生きおきたず、そう胞を匵っお蚀えるだろうか

    そこたでは「蚀えない」ずしたら、ポランスキヌがどうずいう問題ではなく、私たち自身が、「普通の人」であるず同時に、時ず堎合によっおは「悪魔厇拝者」に倉貌するこずだっおある、「リアルな人間」なのではないだろうか

    本䜜『ロヌズマリヌの赀ちゃん』が、「怖い映画」ず蚀うよりは「嫌な映画」ずいう印象を䞎え、その結果ずしおのみ「怖い映画」だず評し埗るのは、本䜜が「私たちの䞭にもある、芋たくないもの」を、誇匵しお突き぀けおくるような䜜品だったからではないだろうか

    私たちは、ナチスを支持し、ナダダ人ぞの迫害に加担した「普通の人たち」ず同じように、「悪魔厇拝者」ずしおの顔を、無自芚なたたに隠し持っおいる「圓たり前の人間」なのだず、そう蚀っおも過蚀ではないのではないか。

    私にずっお、䜕よりも怖いのは、私の䞭の「私の知らない私の顔」の存圚なのではないだろうか。

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    2024幎6月8日

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