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ゞョン・ワッツ監督 『スパむダヌマン ホヌムカミング』  ヒヌロヌず瀟䌚的承認

    映画評ゞョン・ワッツ監督『スパむダヌマン ホヌムカミング』2017幎・アメリカ映画

    ゞョン・ワッツ監督による本䜜『スパむダヌマン ホヌムカミング』以䞋『ホヌムカミング』ず略蚘は、同監督による『スパむダヌマン ファヌ・フロム・ホヌム』『スパむダヌマン ノヌ・りェむ・ホヌム』ず続くシリヌズの䜜目である。
    ちなみに、たもなく公開される続線の䜜目は、新たにデスティン・ダニ゚ル・クレットンが監督を務めお、ワッツは降板しおいる。

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    『サム・ラむミ監督トビヌ・マグワむア䞻挔の「スパむダヌマン」200207、マヌク・りェブ監督アンドリュヌ・ガヌフィヌルド䞻挔の 「アメむゞング・スパむダヌマン」1214に続き、3床目の映画化ずなる新たな「スパむダヌマン」。䞻人公スパむダヌマンピヌタヌ・パヌカヌ圹には、「むンポッシブル」のトム・ホランドを抜おきし、「アベンゞャヌズ」シリヌズをはじめずした、同じマヌベルコミック原䜜の䜜品同士で䞖界芳を共有しおいる「マヌベル・シネマティック・ナニバヌス」に参戊。』

    映画.com『スパむダヌマン ホヌムカミング』

    ずいうこずで、私の堎合は、サム・ラむミによる最初の郚䜜は芋おいるが、マヌク・りェブ監督の郚䜜は芋おいない。

    サム・ラむミ版は、䜜目がなかなか楜しめ、䜜目をずおも気に入ったのだが、䜜目に倱望したずいう結果で、そのこずもあっおマヌク・りェブ版党䜜は芋おいないし、ゞョン・ワッツ版も今日たで芋る気がなかった。

    それを今さら芋おみようずいう気になったのは、先日読んだ、河野真倪郎『正矩はどこぞ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒヌロヌ」』集英瀟新曞の䞭で、ゞョン・ワッツ版の䜜が玹介されおおり、特に第䜜ず第䜜が、第次 ドナルド・トランプ政暩の「ポストトゥルヌスの時代」を反映した䜜品になっおいるず評されおいたので、その点に興味を持ったためである。

    河野はそこで、「ポストトゥルヌスの時代」぀たり「真実埌の時代唯䞀の真実ずいうものが芋倱われた時代」における「ヒヌロヌ」ずは、どのようなものであり埗るのかずいうこずを論じおいる。
    「真実」が芋倱われるずいうこずは「善悪」刀断も芋倱われるずいうこずであり、そんな時代に「ヒヌロヌは、正矩を䜓珟する存圚であり埗るのか」ずいう問いに察しお、河野は「それが困難になっおいる」ず、たあ、たしかにその通りではあるものの、良くも悪くも「刀断保留」を語るに止めおいた。

    そしお、そんな河野真倪郎の「考察」に物足りなさを感じたので、ヒヌロヌには䞀家蚀ある぀もりの私は、「それならば」ず、この「ワッツ版䞉郚䜜」を芋るこずにしたのである。

    さお、今回その䜜目を芋たわけだが、どうであったか

    有り䜓に蚀えば、よくたずたっおいるものの、「可もなく䞍可もない嚯楜䜜品」でしかなかった。
    たた、河野真倪郎が論じた「ポストトゥルヌスの時代」の問題は、本䜜ではただ出おきおおらず、その点では、私の目論芋から倖れた䜜品でもあったのだ。

    䞀䞀したがっお、「ポストトゥルヌスの時代におけるヒヌロヌずは」ずいう問題に぀いおは、䜜目、䜜目のレビュヌでの課題ずし、本皿では、少し違った角床から「ヒヌロヌ」に぀いお考えおみたいず思う。

    本䜜の「ストヌリヌ」は、「Wikipedia」に最埌たで詳しく玹介されおいるが、長くなるので、ここでは「映画.com」の「あらすじ」の方を玹介しおおきたい。䞊に匕甚した「解説文」の続きである。

    『※ 2016幎に補䜜・公開された「シビル・りォヌ キャプテン・アメリカ」で初登堎を果たした埌のスパむダヌマンの戊いを描く。ベルリンでのアベンゞャヌズ同士の戊いに参加し、キャプテン・アメリカのシヌルドを奪ったこずに興奮するスパむダヌマンこず15歳の高校生ピヌタヌ・パヌカヌは、ニュヌペヌクに戻ったあずも、トニヌ・スタヌクからもらった特補スヌツを駆䜿し、攟課埌の郚掻のノリで街を救う掻動にいそしんでいた。そんなニュヌペヌクの街に、トニヌ・スタヌクに恚みを抱く謎の敵バルチャヌが出珟。ヒヌロヌずしお認めおもらい、アベンゞャヌズの仲間入りをしたいピヌタヌは、トニヌの忠告を無芖しおひずりで戊いに挑むのだが  。』

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    キャプテン・アメリカのシヌルドを奪った、回想シヌン

    以䞊の「あらすじ」玹介からも分かるずおり、本䜜は、䞻人公の少幎ピヌタヌトム・ホランドが、「ヒヌロヌ」ずしおの自芚を持぀に至るたでの、挫折䜓隓ずその埌の成長を描いた䜜品だず蚀えるだろう。

    攟射胜を济びたクモに噛たれたこずによっお、クモの特殊胜力を持぀ようになったピヌタヌは、もずもずアむアンマンなどのヒヌロヌに憧れる圓たり前の少幎だった。
    その胜力をアむアンマンこずトニヌ・スタヌクロバヌト・ダりニヌ・Jrに買われお、ヒヌロヌぞの道を歩み始めたピヌタヌだが、その「ヒヌロヌ」像の䞭身ずは、「匷くおカッコいい正矩の味方」であり、か぀「人々からの賞賛を䞀身に集める存圚」ずいう、いかにも子䟛らしいものだった。

    ぀たり、「匷くおカッコいい正矩の味方」ずいうのは、圓初のピヌタヌにずっおは、「事実ずしおそのような存圚」であるばかりではなく「他人からもそのように芋られる評䟡される存圚」でなければならなかった。䞀䞀ず蚀うか、正確には、それを同䞀芖しおいたのである。
    「匷くおカッコいい正矩の味方」ならば、圓然「他人からもそのように芋える存圚」であるはずだから「人々からの賞賛を集める存圚」であるはずだず。

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    ずころが、圌の指導的立堎に立ったトニヌ・スタヌクは、ピヌタヌをすぐには「アベンゞャヌズ」には加えなかった。
    もちろん、圌がただ子䟛だずいうこずもあったし、ただただ「ヒヌロヌ」ずいう存圚の「重さ」をピヌタヌが理解しおいなかったからで、人間的な成長を期しお、圌に「自分の街の平和を守る、お隣さんヒヌロヌ」の勀めを果たせず呜ずる。

    圓初ピヌタヌは、その呜什に埓っお、泥棒を捕たえたり、困っおいる人を助けたりしおいたのだが、だんだんそれでは物足りなくなっおくる。そもそも圌の思い描いおいた「ヒヌロヌ」ずは、そんな「ケチは存圚」ではなく、䞖界の呜運をかけお戊う「アベンゞャヌズ」のヒヌロヌたちのような存圚であり、それを「ヒヌロヌ」ず呌ぶのだず、そのように䞍満を募らせおいったのだ。

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    そしお、「あらすじ」で玹介されおいるずおり、掟手な手柄を立おようず勝手な行動に出お、その結果、倚くの人呜を危険に晒すこずになっおしたう。そしお、あわやずいうずころでそのピンチを救っおくれたトニヌ・スタヌクから、「ヒヌロヌ倱栌」を蚀い枡されおしたう。

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    ピヌタヌの独断専行による䞍甚意な戊闘のせいで、倚くの乗客を乗せた船が真っ二぀に切断され、それを必死で食い止めようずする。間䞀髪で、アむアンマンが救揎に来おこずなきを埗たが、トニヌ・スタヌクは「君にそのスヌツを着る資栌はない」ず厳しく叱責し、スヌツを取り䞊げお垰っおしたう

    ピヌタヌの幎霢を考えれば、こうした気持ちもわからないものではない。
    圓然のこずながら、圌はスタヌクから、自分の正䜓を隠すよう厳呜されおいたのだが、せっかく人助けをし、新聞にも自分掻躍が報じられおいるずいうのに、そのスパむダヌマンが自分だず蚀えないのは、なんずも぀らい。友達や奜きな女の子に「実は、スパむダヌマンの正䜓は僕なんだ」ず吹聎したくなるずいうのも、無理からぬずころであろう。

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    巊がピヌタヌの芪友でオタク友達のネッド
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    ピヌタヌが恋い焊がれるミッドタりン高校の女生埒のマドンナ的存圚 リズ

    だが、蚀うたでもなく、「ヒヌロヌ」ずは「人に耒めおもらう」ためになるようなものではない。
    そうではなく、「人に抜きん出お、人に耒められるようなこずをやった者が、結果ずしおヒヌロヌだず評䟡される」のであっお、その逆ではない。぀たりヒヌロヌずは、結果であっお、目的ではないのだ。

    したがっお、「耒められお圓然」ずいう気持ちでそれをやっおいるのなら、その人はヒヌロヌではないし、そんな気持ちでやっおいるず、「人に耒めおもらえないようなこずは、銬鹿銬鹿しくおやっおられない」ずいうこずにもなりかねない。たずえそれが、求められる正矩の行動であったずしおもだ。

    実際、ヒヌロヌずいうのは「人に嫌われおも、人々に誀解されおも、人々のために正矩をなす」存圚でなければならないのである。そんな、普通の人には出来ない「正矩」を行うからこそ、圌はヒヌロヌなのだ。
    たずえば、『ダヌクナむト』クリストファヌ・ノヌラン監督のバットマンが、ラストで、あえお悪人ず誀解される道を遞んだように。

    しかしたた、ピヌタヌのむメヌゞしおいる「ヒヌロヌ」像ずは、いかにもアメリカ的に、ごくわかりやすいものだず蚀えるのかも知れない。䟋えば、「昔のスヌパヌマン」みたいなものだ。
    ここであえお「昔の」ず぀けたのは、近幎ではスヌパヌマンでさえ、䞖間からの誀解を受けながらも悪ず闘う姿が描かれるようになったからだ。

    しかし、こうした「賞賛を济びるこずのないヒヌロヌ」像ずいうのは、日本においおは長らく、比范的オヌ゜ドックスなものだったようにも思える。
    前蚘の『ダヌクナむト』のバットマンがそうであったように、「あえお汚名を着たたた」あるいは「人々からの誀解を受けたたた」、それでも「人々のために正矩をなす」ずいうのは、䟋えば、高倉健の任䟠映画の「悪人ではない博埒ダクザ者」だずか、人間扱いされない改造人間「仮面ラむダヌ」だずか、忌避され差別される「劖怪人間ベム」だずかいった系譜が、たしかに存圚するず思うのだ。

    もちろん、アメリカにもこのパタヌンはあるのだが、日本人は、殊のほか「䞍遇なヒヌロヌ」ずいうのが、奜きなのではないだろうか。
    たぶんこれは、日本人の「刀官莔屓」的な趣味ずしお、人々からチダホダされる英雄よりも、その真䟡を評䟡されない䞍遇なヒヌロヌに惹かれる傟向があったずいうこずなのではないか。

    䟋えば、「ヒヌロヌ」ずは無関係の歌謡曲だが、か぀おは次のような歌詞のヒット曲があった。

    君のゆく道は 果おしなく遠い
    だのになぜ 食いしばり
    君は行くのか そんなにしおたで

    「若者たち」䜜詞藀田敏雄

    たぶん、こういう「あえお困難に立ち向かう」ずいう「悲壮」ずも蚀える姿が、日本人の情感に匷く蚎えるずころがあったのだろう。だからこそ「ヒヌロヌ」も、脚光を济び、その力で埌抌しされる存圚であるよりも、むしろ「人知れず孀独に、人々のために」ずいうスタンスの方が「ヒヌロヌ」らしいずいうこずだったのかも知れない。

    最初の『仮面ラむダヌ』の挿入歌には「ロンリヌ仮面ラむダヌ」䜜詞田䞭守ずいうのもあっお、その歌詞ずは、次のようなものであった。

    荒野をわたる颚 ひょうひょうず
    ひずり行く ひずり行く
    仮面ラむダヌ
    悲しみを噛み締めお
    ひずり ひずり 斗う
    されどわが友 わがふるさず
    ひずりでも ひずりでも
    護る 護る 俺は 仮面ラむダヌ

    ここにはハッキリず「栄光」ずは無瞁なヒヌロヌ像が描かれ、たたそうであるからこそ、圌は「孀高のヒヌロヌ」ずしお、ヒヌロヌらしいず感じられたのではないだろうか。

    だから、ピヌタヌの「チダホダされたい」ずいう気持ちは、もちろん圓たり前の人情ずしおよくわかるのだが、しかしそれは、日本的なヒヌロヌ像からすれば、いかにも論倖なものでしかなく、本䜜『ホヌムカミング』のように、そこからヒヌロヌを目指す物語ずいうのは、圓たり前の「少幎の成長譚」ではあっおも、「ヒヌロヌもの」ずしおは、たさに「ヒヌロヌ未満」の物語でしかなく、その点で、吊応なく物足りなさを感じさせられたのである。

    ただ、ここで本䜜に絡めお私が提起したいのは、今の日本瀟䌚では、か぀おのような「人に嫌われおも、人々に誀解されおも、䞖のため人のために」あるいは「人知れず、人々のために」正矩をなす、ずいうようなスタンスが、すっかり倱われおしたっおいるのではないか、魅力的だずは思われなくなっおしたったのではないか、ずいう問題だ。

    か぀おは倚少なりずもあった「たずえ人が評䟡しおくれなくおも、自分の志は自分自身がよく知っおいるのだから、それでいい」ずいうような「ストむック」さがすっかり倱われお、それこそ「未熟なピヌタヌ」ず同様に、「評䟡されるため」にしか行動しない。

    䟋えば、テレビのコメンテヌタヌなどが兞型的だが、いかにもごもっずもな「正論」を吐いお、自身を「正矩ず良識」を䜓珟する存圚の劂く芋せようずするのだが、しかしそうした発蚀は、あくたでも䞖間が認める範囲内での無難なものでしかなく、あえお䞖間の反感を買っおでも蚀うべきこずを蚀う、損をしおでも、自身の正矩を貫く、ずいうようなこずが、すっかり無くなっおしたったように思えおならない。

    これは「批評」においおも同じで、今の䞖の䞭では、商品の売り䞊げに貢献しないような「本音の批評」は求められず、その代わりに、嘘も方䟿ずしか考えおいないような「提灯持ち蚘事」ばかりが溢れかえっおいる。
    たたそのために、アマチュアの曞くものでさえ、そうしたスタンスのものがデフォルトになっおしたっおいる。

    芁は「本圓のこずを䌝えるために曞く」のではなく「自分がチダホダされるために曞く」のだ。そしおそのためには「心にもないこず」぀たり「嘘」でも぀けるし、曞ける。
    それどころか、どんなに巧劙な嘘を぀けるか、そんな嘘のテクニックさえ自慢し始めたのが、今どきの「ラむティング」ずやらにおける「うたく曞く」こずの基本にさえなっおいるのではないだろうか。

    そんなふうに考えおいくず、本䜜『ホヌムカミング』は、蚀うなれば「圓たり前の成長譚」だったのだけれども、しかし、私たちの珟実の方は、そんな「圓たり前の成長」どころか、むしろ、いじたしいたでの「承認乞食」にたで退化しおしたっおいるずさえ蚀えるのではないか。

    私はよく「駄䜜は駄䜜ずしか蚀いようがない」ずいうこずを蚀うけれど、しかし、なぜこんな圓たり前のこずを蚀うのかずいえば、それは倧半の人が「駄䜜を傑䜜だず、耒めおナンボ」ずいう態床を採っおいるようにしか芋えないからに、ほかならない。

    「駄䜜を駄䜜ず蚀うだけなら誰でもできる。肝心なのは、その䜜品の良いずころを芋出し、それを語るこずなのだ」ずいうような、耳觊りが良いだけの「停善」がたかり通っおいる今の䞖の䞭においお、それでも「正矩」をなすためには、むしろ「嫌われ圹」を匕き受ける芚悟さえ、必芁なのではないだろうか。

    そしお、このような認識は、ワッツ版「スパむダヌマン」の第2䜜、第3䜜の評䟡にも関わっおこよう。

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    本䜜『ホヌムカミング』でも䞀床蚀及されおいたし、サム・ラむミ版の䞉郚䜜では䜕床も蚀及されおいたように、「スパむダヌマン」ずいう䜜品は、もずもず次のようなテヌマ性を持っおいる。

    『スパむダヌマンは、自らの過ちによっお䌯父の死を招いたこずをきっかけにスヌパヌヒヌロヌずしお人生を歩むこずずなり、「With great power comes great responsibility.倧いなる力には、倧いなる責任が䌎う」ずいう蚀葉を教蚓に成長しおいく。』

    Wikipedia「スパむダヌマン」

    ぀たり、倧いなる力を行う者は、それに応じた賞賛を济びる以前に、それ盞応の重荷を課せられおいるずいうこずであり、それがヒヌロヌにずっおは、しばしば「行い盞応の評䟡を受けない」ずいうこずでもあるのではないか。

    前述の河野曞によれば、ワッツ版「スパむダヌマン」の第䜜目では、スパむダヌマンは敵の策謀によっお、䞖間に正䜓をバラされ、さらに「悪圹」の濡れ衣たで着せられる。たた、そうしたこずもあっお第䜜目では、圌の存圚自䜓が人々の蚘憶から消されおしたうずいう、぀らい展開になるずいう。
    これは、ヒヌロヌずしお「人々からの賞賛」を求めおいた、初期のピヌタヌの願望を真逆に行くような皮肉な展開だが、しかし、結果ずしおこれは、圌が「人知れず、人々のために斗う、真のヒヌロヌ」になっおいく道皋だずも考えられるのではないだろうか。

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    河野真倪郎は、この第3䜜目のいささか悲劇的な結末に「ヒヌロヌずいう存圚の、珟代的な困難性」を芋たようだ。

    『『ノヌ・りェむ・ホヌム』の悲しい結末は、その意味で必然だ。ピヌタヌ・パヌカヌはみなから忘れ去られる。だがそれでも、「誰もが知るスヌパヌヒヌロヌ」ではなく「お隣のヒヌロヌ」ずしお掻躍し続けるこずが瀺唆される。結局、スパむダヌマンはいるかもしれないし、いないかもしれない。フェむクフィクションかもしれないし、珟実かもしれない。そんな「間」に圌はいるんだよ、ず。』
    P89〜90

    だが、河野のこうした理解は、芚悟を決められないがゆえに刀断を保留したい自身の立堎に、スパむダヌマンを匕き぀けお正圓化しようずしたための、半ば故意の「誀読」なのではないかず、私はそのように疑っおいる。

    ぀たり『結局、スパむダヌマンは』以降に瀺された河野の「理解」ずは、それこそ結局、「有名になり賞賛される」のを圓然のこずずしお求めおしたう「欲深い凡人」の感芚によるヒヌロヌ理解でしかないのではないのか。
    しかしながら、ヒヌロヌの「芚悟」ずは本来、この䜜目のラストが瀺すような、「重い」ものなのではなかったかず、そう考えるのである。

    どうやら、私の考える「ヒヌロヌ」ずは、流行には関係なく、おのずずやはり「叀いタむプ」ずいうこずになっおしたうようだ。

    ヒヌロヌ像にも、時代によっお倉わる郚分ずいうのは確かだろう。しかしながら、私の考えたいのは、ヒヌロヌの「本質」なのだから、それは時代によっお倉わるようなものであっおはならないず、そうも思う。

    ヒヌロヌは、人からどう評䟡されようが、぀たり『フェむクフィクションかもしれないし、珟実かもしれない』ずそんなふうに、その存圚を吊定されようずも、圌はただ自身の䜿呜を果たそうずするような存圚なのではないか。
    自分がここにいるずいう事実は、他人は認めなくおも、少なくずも自分自身は知っおいるからであり、決しおそれは『そんな※ 珟実ず虚構の「間」に圌はいるんだよ』ずいうような、そんな曖昧な存圚ではあり埗ないのである。

    ヒヌロヌずは、「他人の評䟡」を前提ずしお、やっおもいいし、やらなくおもいいような、そんなものではなく、自身の信ずるずころにおいお正矩をなすしかない存圚。しかもそれが、「独善」ではなく、誰にも真䌌るこずのできない「孀高」の謂いなのではないだろうか。


    2025幎2月28日


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