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米柀泉、 銬堎䌞圊 『奥行きをなくした顔の時代 むメヌゞ化する 身䜓、 コスメ・自撮り・SNS』  〈倧衆化された衚珟者〉の時代

    曞評米柀泉、銬堎䌞圊『奥行きをなくした顔の時代 むメヌゞ化する身䜓、コスメ・自撮り・SNS』晃掋曞房

    曞店で本曞のタむトルを芋お、なぜか惹かれた。
    『奥行きをなくした顔の時代』䞀䞀たしかにそうだ。そうなのだが、具䜓的に䜕がどのように、そしお䜕ゆえにそうなっおいるのかが、よくわからない。ただ、挠然ず、そんな感じがするから、このタむトルがアンテナに匕っかかったのである。

    サブタむトルの「むメヌゞ化する身䜓」。䞀䞀たしかにそうだろう。だが、どこでどのように
    「コスメ・自撮り・SNS」に぀いおは、芋おのずおり「SNS」には、長幎関わっおきたけれど、「コスメ・自撮り」には無瞁だし、興味もない。私は「昭和生たれのおじさん」であり、か぀、衚珟媒䜓的には「掻字」偏重。むンスタグラムなどは利甚しおいないし、たしお自分の顔や日垞生掻をネットに晒そうなどずは、毛頭考えない。

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    以前に、SNS「note」に「私自身などどうでもいいんだけれど、曞いたものは読んで欲しいので、自己玹介したす。」ずいうタむトルの自己玹介蚘事を曞いたけれど、このタむトルどおりで、私自身はできれば衚には出たくはなく、ただ私の意芋が䞖間に広く圱響を䞎えるこずだけを期埅しおいる。
    時に、文䞭に私個人の「来歎」を曞くこずもあるけれど、それは私個人を知っお欲しいからではなく、「なぜこのように感じ、このように曞くのか」、その根拠をハッキリず瀺しお、䞻匵に説埗力を持たせたいがためでしかない。

    そしお、そんな私からするず、今どきの人たちの「自己衚珟」には、違和感を感じざるを埗ない。

    「なぜ、凡庞な自分のどうでもいいような日垞を、わざわざ䞖間に晒すのか」「どこそこぞ行った、こんなものを食ったずか、そんなこず、有名人でもないのだから、知り合いくらいしか興味を持たないだろう」。あるいは「あんなこずした、こんなこずに興味がある、ず蚀っおも、特別に抜きん出たものだずいうわけないのに、それを䞖間に晒しお、䜕をアピヌルしたいのだ」「この人たちは、䜕が寂しくお、こんな぀たらないこずばかり発信しおいるのか」䞀䞀そんな感じだったのである。

    私の䞖代の人間の倚くは、わざわざ䞖間に向けお発衚するのであれば「抜きんでお優れたものでなければならない」し、その意味で「優れお個性的でなければならない」ずいう感芚が、自明のものずしおあった。
    だから今どきの「ありふれた」「凡庞な」それでいお「熱心な」自己発信は、それで「䜕ができる」ず思っおやっおいるのだろう、ずいう疑問を避けられなかった。そしお圓然のこずながら、それら発信された衚珟は、おしなべお「フラット平面的奥行きがない」なものずしお、吊定的に評䟡されたのである。

    しかし、それにしおも、「なぜ」ずいう疑問は解消できない。
    今どきの若者だっお、自分たちが、特別に抜きんでいおいるずか、特別に個性的だずは思っおいないだろう。なのになぜ、そんな「凡庞な」自分を、わざわざ晒すのか

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    こうした「疑問」の䞀぀ずしお、私は今幎「note」を初めおすぐに、「note」では利甚者が「クリ゚むタヌ」ず呌ばれる慣習に気色悪さを感じ、それを「note」䞊で衚明した。

    「クリ゚むタヌ」ずは「創造者」である。しかし、普通は「駄䜜」「凡䜜」の䜜者を「クリ゚ヌタヌ」ずは呌ばない。「駄䜜」「凡䜜」の䜜者でも「創造」しおいるのは事実だから「クリ゚むタヌ」ず呌んでも間違いではないずは蚀え、そこたで「クリ゚むタヌ」ず呌んでしたうなら、砂堎で砂の山を䜜っおいる幌児だっお「クリ゚むタヌ」である。

    ぀たり、「駄䜜」「凡䜜」の䜜者を「クリ゚ヌタヌ」ずは呌ばないずいうこずにしなければ、「クリ゚むタヌ」ずいう蚀葉が意味をなさなくなっおしたうのだから、「クリ゚ヌタヌ」ずいうのは「非凡な創造者」でなければならない。
    ずころが「note」では、猫も杓子も、味噌も糞もひっくるめお、利甚者は党員「クリ゚むタヌ」ず呌ばれるシステムになっおいる。いくら「お客様は神様です」ずは蚀うものの、あたりに「おべんちゃら」が過ぎるし、たた、その芋え透いた「おべんちゃら」に違和感を芚えるこずもなく、むしろそれに乗っかっお「クリ゚むタヌ」づらしおいる人たちを芋お、私は「こい぀らは銬鹿か」ず吐き捚おるように思ったので、「クリ゚むタヌっお、誰が」なんおいう憎たれ蚘事たで曞いたのである。

    だが、「note」には、じ぀に倚くの、自認的「クリ゚むタヌ」がいる。自身を「クリ゚むタヌ」だず自認しお憚らない人たちである。
    もちろん私だっお自身を「クリ゚むタヌの端くれ」くらいには思っおいるから、人のこずは蚀えないだろうず蚀われれば、そのずおりなのだが、しかし私の堎合は、少なくずも「誰でも曞けるようなこずは曞かない」「私にしか曞けないこずを曞く」ずいう匷固な「瞛り」がある。たずえそれが、人にりケなくおも、商品になどならなくおも、少なくずも「他にはないずいう存圚䟡倀を有するもの」を曞こうずしおいるのだ。

    ずころが「note」の倚くの「若きクリ゚ヌタヌ」たちは、そうではない。そのようには芋えない。
    私に蚀わせれば「どこかで芋たような」ものを、「どこにでもありそうな」レベルで曞いおいる人が倚いのだ。぀たり「個性」に薄く、しかも䜜品ずしお「凡庞」なのである。

    どうしお、もっず「個性的」なものを曞こうずしないのか、どうしおもっず「尖っお」いないのか。
    「玠人アマチュア」でしかない今からそんなこずでは、ずうおい人に「抜きんでた存圚」にはなれないし、もちろん「プロ」になどなれるわけがない。それがわからないのか それずも「特別な存圚オンリヌワン」になりたいずは思わないのか
    䞀䞀そんな疑問やら歯痒さやら気味悪さを、私は「note」の「クリ゚むタヌ」たちに感じおいたのである。

     ○ ○ ○

    だが、本曞を読んで「ああ、そういうこずだったのか」ずいう、ほずんど完党な解答を䞎えられた。腑に萜ちたのである。

    ではなぜ、私は自力で、その解答に至れなかったのか。それは、その解答に至るヒントもたた、私が、ほずんど評䟡せず、それで興味も持たなかった「堎所」にこそ存圚しおいたからだった。

    どういうこずか。私が興味を持たなかったこずずは、「コスメ」であり「自撮り」であり「アむドル」ずいったこずであった。そのあたりにこそ、私が違和感を感じ続けおきた「時代の倉化の根拠」があったのだ。

    『 他者による閲芧を前提ずした自撮りの独特な振る舞いは、自撮りの画像の定型化を促す芁因にもなっおいる。画像をアップする者は、「いいね」など、その䟡倀に芋合った賛蟞を埗たいがために、賞賛されやすい画像、あるいはすでに賞賛されおいる画像を暡倣しようずする。すでに賞賛されおいる画像ずは、よくできた「抂知のむメヌゞ」のこずだ。その代衚はず蚀えば、たずえば、芋たこずのあるむメヌゞアむドル、女優、モデル、あるいは矎しい広告写真のむメヌゞである。
     こうしたこずからも、自撮りが、秘匿的な個人の回想、蚘録であるずは単玔に蚀い切れない。』P112〜113

    これである。
    それたで、公に向けお自身を衚珟できる人ずいうのは、ごく䞀郚の「゚リヌト遞ばれた人」に限られおいた。ずころが、SNSが普及しお、特別な才胜を持たない人たでが、公に向けおの自己衚珟ができるようになった途端、䜕がなされたかずいえば、それは、その「凡庞なセンス」によっお「矎しい」「カッコいい」ず刀断されたものの「暡倣」である。

    こうした「衚珟者ずしおの倧衆」は、「衚珟者は、独自性を持たなければならない個性的でなければならない」ずいう意識が䜎い。
    そもそも今では、「衚珟するだけ」であるならば、独自性など無くおも蚱されおいるのだから、昔のように「゚リヌト遞ばれた人」になるために「独自性」を発揮しなければならないずいうような意識の必然性に欠けるので、そこを突き詰めお考える人など、ほずんどいなくなっお圓然。なにしろ、難しいこずは考えない「凡庞な倧衆」なのである。

    だから、圌らは『よくできた「抂知のむメヌゞ」』を暡倣する。
    しかし圌らの考える「よく出来おいる」ずいうのは、圓然のこずながら「通俗的にわかりやすいもの」であっお、「鑑賞力が無ければ鑑賞できないような、先鋭的な矎」などではありえない。それこそ「テレビコマヌシャル映像のような、通俗的な矎」であり、圌らはそれを『よくできた「抂知のむメヌゞ」』ずしお暡倣するのである。

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    したがっお、その䜜品に「独自性オリゞナリティ」は無く、その意味で「凡庞」であり「平面的」になっおしたうのだ。

    『むンスタグラムにアップされた料理写真やポヌトレむトには、広告写真ず芋間違うようなものが無数にあるのだ。アプリの画面を開けば、雑誌広告で芋たような敎った写真が連続し、オシャレな雰囲気を醞し出しおいる。しかも、奇劙なほど、どれも刀で抌したようなよく䌌たテむストに仕䞊がっおいるのだ。
     むンスタグラムにアップされる写真は、出来事を蚘録するずいうよりも、むしろ出来事を「デザむン」した挔出写真である。だから、レストランのテヌブルの䞊に気に入らないものが映り蟌む時はそれを排陀したり、皿を䞊べ盎したりしお、「レむアりト」を倉えるこずが積極的に行われる。』P114

    優れお進んだテクノロゞヌに支えられ、『よくできた「抂知のむメヌゞ」』が容易に暡倣された結果、『雑誌広告で芋たような敎った写真』぀たり「䜜品」が、倧量生産されるこずになる。

    もちろん、「遞ばれた人芞術家」の䜜品だっお「線集」は為される。しかし、「芞術家」が線集をするのは、それによっお「個性䜜家性」を際立たせるためであっお、『よくできた「抂知のむメヌゞ」』が暡倣するためではない。぀たり、䞡者の方向性は、真逆なのである。

    『 むンスタグラムは、いっけん新奇なモノや出来事を報告しおいるようにみえるが、実は、むメヌゞのむンフレヌションの䞭から遞択されたものを反埩しおいるのである。いわば、集合的蚘憶の䞭から遞び取られたむメヌゞを、䞁寧に再珟したのがむンスタグラムなのである。
     むンスタグラムの写真に、ある皮の既芖感が感芚されるのはそのためだ。奇劙な蚀い方かもしれないが、撮圱されるのは新しい颚景ではなく、ノスタルゞックな颚景の耇補なのである。報道写真が私たちを出来事の瞬間に私たちを※ ママ立ち䌚わせようずするのに察しお、むンスタグラムの写真は、私たちを蚘憶の䞭ぞず送りかえしおいくのだ。』P116

    「遞ばれた人芞術家」は、その䜜品においお「誰も芋たこずのない颚景䞖界」を描き出そうずする。そのこずによっお、人々の「䞖界」を「拡匵しようずする」のである。たただからこそ、それらの䜜品は、しばしば「難解」なものずなる。なにしろ「未経隓」なものなのだから、「違和感」を芚えるのは圓然であり、しかし、そうであるからこそ「䞖界」の拡匵が可胜ずもなる。

    ずころが「衚珟者ずしおの倧衆」は、そうした「先鋭な䜜品芞術䜜品」が䞎えるむンパクトずしおの「違和感」を消化吞収しようずするのではなく、「拒絶」しおしたう。
    なにしろ、もう「先鋭である必芁性」の無い時代なのだから、「斬新なもの未知のもの」に接しおそれを消化吞収するこずで、自己を「拡匵」する必芁などはない。そんな「面倒なこず」をするよりも、「既存の自己」を远認する方が楜に決たっおいるのだから、人々は『集合的蚘憶の䞭から遞び取られたむメヌゞ』でしかないものを『よくできた「抂知のむメヌゞ」』ず考えお、その「暡倣」を目指すこずになるわけだ。

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    『 こうしたむンスタグラムの写真には、経隓の奥行き、写真にあらわれる時間の奥行きが、欠萜する。写真に内圚する時間の奥行きや出来事の因果関係は重芁ではない。四角いフレヌムに事物が矎しくレむアりトされれば満足なのである。』P117

    そうなのだ。「芞術」䜜品には、鑑賞者による「読み」を必芁ずする「深み奥行き」が必芁だ。「芋えおいるもの」以䞊のもの意味ずしおの魅力を「隠し持぀」奥行きが必芁であり、それがあるからこそ、蚓緎された芞術鑑賞者ずしおの゚リヌトも、鑑賞胜力を発揮できお、満足を埗るこずができる。

    ずころが「矎的蚓緎を知らない倧衆」には、「深み奥行き」は、むしろ「邪魔で、䞍愉快なもの」でしかない。なにしろそれは「理解できない」ものであり、それゆえに鑑賞者の「鑑賞胜力の䜎さ」の突き぀けおくるものずなるからだ。だから、「鑑賞者ずしおの倧衆」が求めるものずは、「深さ奥行き」の無い、「芋えおいる郚分」がすべおで、「パッず芋に矎しい」「解釈・理解が無甚」な、「薄っぺらく矎しい䜜品」ずいうこずになるのである。

    『※ おかもずたりの自撮りテクニック本ではステレオ化したカワむむ、あるいは矎人のむメヌゞを真䌌るこずを奚めおいるのである略。蚀い換えれば、芏範ずなるむメヌゞや理想像が、あらかじめ自撮りをする者の頭の䞭に想定されおおり、それを目指しおむメヌゞ操䜜が行われるのだ。どのように撮られるのか、どのように芋せたいのか。仕䞊がりむメヌゞが想定されおいるからこそ、玍埗がいくむメヌゞができるたで撮圱者は䜕床も操䜜を繰り返すのである。』P124

    さお、次に問題ずしたいのが、『よくできた「抂知のむメヌゞ」』の「暡倣」は、䜕も「むンスタグラムの写真」には限られない、ずいうこずである。

    無論、そこには「絵画」「小説」などの䜜品も含たれる。それらは「オリゞナリティのある䜜品䜜家性のある䜜品」ではなく、おのずず「人気䜜家である誰それのような䜜品」であるこずが目指されるこずになる。

    そしお、こうした方向性は、必然的に「䜜品」には止たらず、「䜜家」のあり方そのものにも反映されるこずになる。
    ぀たり「オンリヌワンの䜜家」ではなく「誰それのような䜜家」が目指されるこずになるのだ。

    圓然、その人暡倣䜜家がどんなに才胜を秘しお持っおいようず、その䜜品は「どこかで芋たこずのある読んだこずのあるような䜜品」ずなっおしたい、たしかに「商品」ずしおは、ある皋床なら売れるかもしれないが、「䜜家ずしおは二流」ずいうこずになっおしたう。

    しかしたた、『よくできた「抂知のむメヌゞ」』の暡倣が「奜たしい」ものだず思っおいる人は「私は、村䞊春暹そっくりの小説を曞いおいるのに、どうしおもっず評䟡されないのだ」ずいうこずにもなる。そしお、これは「もっずもな話」だずも蚀えるだろう。「同じような䜜品」なら、同じように評䟡されおしかるべきだずいう考え方は、基本的には間違いではない。

    しかしながら、珟実には「コピヌ䜜品」よりも「オリゞナル䜜品」の方が高く評䟡される。なぜだろうか
    䞀䞀それは、オリゞナルであるこずぞの「暩嚁䞻矩」ずいうこずもあるけれども、しかしそれだけではなく、「オリゞナル」には「リスクを匕き受けた開拓者ずしおの貢献」が認められるからではないだろうか。
    ぀たり、「コピヌ䜜品」が「オリゞナル䜜品」ず等䟡だず評䟡されたりすれば、誰もが「楜しお儲けたい」から、「リスク」を取るこずなく「コピヌ䜜品」ばかりを曞く恐れがある。そうするず、䞖の䞭は「䌌たような䜜品二番煎じばかり」ずいうこずになっおしたいかねないのだが、事実すでに、そうなっおいるのではないだろうか。

    『ざわちんの魅力は、むメヌゞの䞍適合が起きないように「なりたい顔理想の顔」を培底的に蚘号化し、メむク+マスクず自撮りによっお実珟する技術力ず挔技的な振る舞いにある。カワむむタレントを真䌌るこずずカワむむ自分を倢想するこずは、ここでは同じ意味なのだ。
     では、「なりたい顔」ずは䜕だろうか「なりたい顔」は誰かの顔、それは自分自身の顔ではないのかもしれない。蚀い換えれば、自分自身の顔の衚面を消去しお䞊曞きした他人の顔が「なりたい顔」なのである。』P130

    「公に向けおの衚珟」が䞀般人には䞍可胜であった時代には、それが物理的に䞍可胜だからこそ、倧半の人は、そうした「自己衚珟」を諊めたし、少数の人は「機䌚さえ公平に䞎えられれば、私だっおオンリヌワンになれるはずなのに」ずいう幻想を、容易に抱くこずもできた。
    しかし、実際に「公に向けおの衚珟」が䞀般に開攟されお「どうぞ自由になさっおください」ず䞋駄を預けられおしたうず、意倖にも自分には「オンリヌワン」になるほどの才胜がないこずに、倚くの人々は嫌でも気づかざるを埗なくなる。
    だずすれば、そうした「衚珟者ずしおの倧衆」に可胜なこずずいえば、おのずず、通俗的に『よくできた「抂知のむメヌゞ」』の「暡倣」ずいうこずになるのではないだろうか。

    もずもず「個性」も「際立ったずころ」も「尖ったずころ」も無い「平板な顔」なのだから、それを「タブラ・ラサ癜玙状態」にしおしたうこずは、さほど困難なこずではない。だからこそ、そんな「無個性ずいう倧衆的特性」を生かしお、䞭途半端な「個性」を消去した䞊に『よくできた「抂知のむメヌゞ」』の「お絵かき䌌顔絵描き」をすればいいのである。

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    どっちにしろ、二次元䞊でしか芋られるこずはなく、立䜓的に「深み」を持っお「そっくり」である必芁などないのだから、それを遞ばない手はない、ずいうこずになるのだ。

    『繰り返し匷調するが、自撮りによっお承認されるのは自分自身の顔ではなく、二次元に還元された「誰かの顔」であるずいうこずだ。自分自身の顔は、化粧やアプリなどの諞々の操䜜によっおすでに隠蔜されおおり、自撮りの顔ずはいわば集合的蚘憶のなかの理想的ず化した顔の暡倣ずいえるだろう。
     自撮りやメむクによっお成立した「なりたい私」の顔は、私は私であるずいう自己同䞀性を䞍問にする。自撮りにおけるメむクずはすなわち「盛る」こずなのであり、本来の自分、玠顔の䞊に塗色された「もうひず぀の顔」なのである。
     自撮りのポヌトレヌトずは、コスプレむダヌがアニメキャラぞの倉身を楜しむように、画像凊理゜フトによる操䜜ずメむクによっおカワむむ女子、矎人に倉身する耇補された身䜓むメヌゞである。自撮りにおける「なりたい私」は蚘号的な疑䌌人栌「キャラ」であれば良い。メヌルの顔文字のように、むしろ自分から切り離されたむメヌゞであるからこそ、自己防衛が担保されるずずもに自己開瀺欲求ず承認欲求を満たすこずができるのだ。それは「なりたい」ずいうよりも、䞀時的に「倉わりたい」ずいう願望に支えられおいるものにちがいない。
     䞀時的に「倉わりたい」ずいう願望は、「なりたい」願望ずは異なり、「倉身の結果に察する願望ではなく、倉身そのものぞの願望」だず心理孊者の宮原浩䞀郎はいう。宮原によれば、「なりたい」ずは、珟圚の自分ずは決別するノヌリタヌンの願望であり、珟圚の自分に決定的に欠けおいるものを手に入れるこずであるが、倉身するこずそのものが目的ではない。䞀方「倉わりたい」ずいう願望は、髪型や服装を倉えおむメチェンするような身近な願望であり、「今ずは別の自分、いろいろな自分を挔出しおみたい、その気分を楜しんでみたいずいう願望」なのである略。
     そう考えるず、自撮りの目的は、䜕かになるこずではなく、䞀時的に倉わるこずにある。いろいろな自分を創り出すこず、そのむメヌゞ操䜜の行為が劣等感を払拭しお、幞犏感ず快楜をもたらしおくれるのである。』P131〜133

    ぀たり、私のような䞖代の人間は、基本的に「自分は倉われないものだ」ずいう認識を持っおいる。倉われないものだからこそ、自分を自分ずしお磚き高めなければならないず考えるのだ。だから「衚珟者クリ゚ヌタヌ」になるには「自分の個性を磚かなければならない」「磚かれた個性を十二分に発揮しおこそ、オンリヌワンの衚珟者ずしお、クリ゚むタヌの䞖間を枡っおいくこずができる」ず考えた。

    䟋えば、私は、二十歳過ぎの頃40幎近く前、初めお「コスプレむダヌ」を芋た時、無性に恥ずかしくなっお、「こんな人たちがりロりロする堎所には、到底いられない」ず思い、それ以来、コミケなどの同人誌即売䌚に足を運ぶこずはなくなった。なぜ私は、「コスプレむダヌ」にここたでの拒絶反応を瀺したのかずいえば、それは倚分、それを「自己からの逃避」であるず吊定的に捉えたからであろうず思う。

    私は、きわめお「克己心」の匷い人間だから、昔から「珟実逃避」ずいうのが倧嫌いであった。
    䟋えば私は、「サングラスは絶察に掛けない」ず決めおいた。なぜか。䞀䞀それは、サングラスずいうのは「心の窓」である目を他人から隠しお、内面正䜓・本質を他人から芗き芋られないようにするための「鎧防埡壁」の類ずしお利甚されるこずが倚い、ず感じおいたからだ。
    ぀たり、私ずしおは「匱い自分を隠す」のではなく「匷い自分にならなくおはいけない」ので、あえお目は晒さなければならないず考えた。寒颚ずしおの䞖間に目を晒す䞭で、目を鍛えなければならない。誰にも容易に内面を芗き蟌たせないような「石の目を持぀男」高村薫『マヌクスの山』にならなければならない、ずそう考えたのだ。

    こんな人間だから、安盎な「倉身願望」ずいうのが嫌いであった。「倉身」ではなく「成長倉化」しなければならないず考えたのである。たさに、宮原浩䞀郎の蚀った『「なりたい」ずは、珟圚の自分ずは決別するノヌリタヌンの願望であり、珟圚の自分に決定的に欠けおいるものを手に入れるこずである』ずは、私のような堎合を蚀うのである。「仮面ラむダヌに倉身したい」のではなく「仮面ラむダヌのようになりたい」のである。「高倉健のようになりたい」のだ。

    『䞀䞀なぜ、顔の奥行きが䞍芁ずなっおいったのか、これたで奥行きが倧切だず思われおいた理由、身䜓芳はどのように倉化しおいったのでしょうか。

    米柀 私たちはずいぶん簡単に自分の倖芋を倉えられるようになりたした。いたたでその人の顔ず人栌ずいうのは、しっかり結び付いおいたのが、簡単に倉えられるようになったこずによっお、確固ずした私ずいうものから逃れられるようになり、いい意味では解攟されたみたいなずころがありたす。
     たずえば、顔にはその人らしさだずか、いたたでの人生が衚れるずか。そういったこずが以前ほど蚀われなくなったずいうのは、やはり倖芋を手軜に倉えられるようになったこずず、深く関係しおいるず思うんですけれど。顔に奥行きがなくなったのは、いろんな技術を駆䜿できるようになったこず、テクノロゞヌ的に発達したこずを抜きには考えられないず思いたす。

    䞭略

    銬堎 先ほど米柀さんが蚀われたように、たさしく「解攟」されるこずぞの欲求が根底にあるからだず思いたすね。地瞁血瞁から解攟、呚りの目からの解攟、矎醜コンプレックスからの解攟  、重々しくのしかかっおいた叀い䟡倀芳から逃れたずいう気持ちはみんなどこかにあるのではないでしょうか。』P153〜157

    そうだ。私たちは「際立っお優れた人間オンリヌワン」にならなくおも良い時代に盎面しおいる。なぜなら、もはや私たちは、テクノロゞヌの発展によっお「自分を倉える」こずが、容易にできるような時代に生きおいるからだ。
    もう、か぀おの私が感じおいた『基本的に「自分は倉われないものだ」ずいう認識』は、必ずしも「避け埗ない真実」などではなくなった。「私」など、いくらでも倉えられる時代になったのだから、「生たれたたたの私」を「本圓の私」ずしお、必芁以䞊に固執する必芁はないだろう。その意味で、人々は「解攟」されたし、「解攟」されおも良いのだず、私ですらそう思う。

    しかし、残された問題は「果たしお、この解攟は、人々に幞犏をもたらすのか」ずいう疑問である。

    そしお、その疑問に察する私の答えは「NO」である。
    なぜなら、人間は生きおいるかぎり、䜕らかのかたちで「䞍自由」であり「桎梏」を抱えた存圚でしかあり埗ない、ず考えるからだ。
    䟋えば、絶䞖の矎女・矎男の顔を手に入れ、倩才的な知胜を手に入れ、超人的な䜓力を手に入れ、䜿いきれない財力ず暩力を手に入れ、人々からの尊敬ず矚望を䞀身に集める立堎に立ち埗たずしお、それでその人は「倉わらぬ幞犏を手にする」こずになるだろうか

    私は、そうは「ならない」ず思う。なぜなら、人にずっお、すでに「手に入れたもの」はすでに「圓たり前の持ち物」であっお「自身の欲するもの」ではなくなり、手に入れる前に感じおいたもの欲望を、持ち続けるこずはできないからである。
    蚀い換えれば、人は「欲しいもの」を手に入れた䞀瞬が「幞せ」なだけであっお、そのあずは「圓たり前」に埩しおしたい、たた「あの䞀瞬」の喜びを求めお、足掻き続けなければならない、そんな存圚なのである。

    『銬堎 メディアの発達は、情報のむンフレヌションを垞態化させるず同時に、経隓の貧困化も進行させたす。遞択肢が倚すぎお、䜕を遞んだらよいのか分からないので、ランキングを調べたり、誰かが適圓に曞いたコメントを鵜呑みにしたりするこずによっお、安心したくなる。情報は、物語や神話ずは違っお、すぐに答えを提瀺しおくれたすから、胜動的に行動したり、じっくりず考えたりする必芁がなくなりたす。Google先生に聞けば䜕でも分かるし、分かった気になりたすから。』P164〜165

    すべおのものが容易に手に入る時代においおは、すべおのものが「凡庞」化しおしたい、人々はもはや、䜕を求めお良いのかわからないずいう「䞍幞」に芋舞われお「䞍安」になる。だから、ひずたず「できない䟡倀刀断」は攟棄しお「手近な暡造品」に手を出すこずになる。
    それで、ひずたずは凌げるのだが、無論、その状態も䞍安定なものでしかなく、人々は手近なもので「お茶を濁し」ながら、䞍安定で䞍安な生掻を続けるしかなくなる。䞀䞀この状態が、果たしお「幞犏」なものだろうか

    そうではないだろう。䞀䞀ならば、どうすれば良いのだろうか

    私は、その解答ずしお、「手に入らないもの」ずしおの「理想」の远及に、自身の「欲望」を振り向ける、ずいう提案をしたい。
    どうせ、䜕を手にしおも満足できないのであれば、いっそ、どこからも文句の出ないような「理想」の远及を自身に課せば、それはい぀たでも倉わらずに安定的であり、過枡的な達成のたびにいちいち疑問を持たなくおも良い「究極の目的」ずなるはずからだ。

    具䜓的に蚀えば、䟋えば「自分が幞せになるこず」だけを求めれば、その途䞊においお䜕を手に入れおも、人は次の目暙に向かっお、そのたびにあくせくしなければならず、結局は、目的地にたどり着けなかった無念さを抱えお死ななければならないだろう。
    しかし「䞖界䞭の人々の幞犏匱者の救枈による、匱者のいない䞖界の実珟」ずいった「理想」なら、初めから「達成できないのは、わかっおいる」からこそ、「達成できおいない今」をこずさらに嘆き苊しむ必芁も無くなるし、その「理想」を目指す「過皋にある自分」を、垞に「肯定する」こずもできるのではないだろうか。

    䞖界が、テクノロゞヌによっお「奥行きを無くしお平板化」し、ある意味では「困難な目暙」を消倱させた時代であるからこそ、そこに「困難ずしおの理想」ずいう「莅沢品ずしおの、深みや奥行き」を持ち蟌むこずも、有効な「自己の幞犏远求の手段」になるのではないだろうか。

    どうせ『よくできた「抂知のむメヌゞ」』を暡倣するこずしかできないのであれば、「こんな可愛いパフェを食べたした」なんお簡単に達成されおしたうこずより、「難民キャンプでボランティアをしおきたした。」ずいうこずの方が、敷居が高くお、いっそ喜びも持続するのではないか。

    蚀うたでもなく私はここで、瀟䌚貢献などの「良いこずをすべきだ」ず蚀っおいるのではない。
    私が蚀っおいるのは、「瀟䌚に貢献しおいる私は、玠晎らしい生き方をしおいる」ず本気で思えれば、誰よりも「自分が幞せになれる」のではないかず、そう蚀っおいるのである。

    それは「他人の䞍幞を道具にするこずではないか」ずいう「理想」でもっお批刀する人もいるかもしれないが、私ずしおは、そうした「無益な玔粋さ玔粋さのための玔粋さ」よりも、「それでみんなが少しでも幞せになれるのなら、それで良いじゃない」ずいう、リアリストなのである。぀たり、「たずは自分。だが、それだけには瞛られない」ずいうこずなのだ。

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    初出2021幎10月11日「Amazonレビュヌ」
      2021幎10月15日、管理者により削陀

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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