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藀本タツキ 短線集 『17−21』 『22−26』  䜜家自身のキャラクタヌのナニヌクさ

    幎間読曞人

    曞評藀本タツキ短線集『17−21』『22−26』ゞャンプコミックス・集英瀟

    「曞評」ずしおいるが、実際には「曞評」ではなく「䜜家論」になるだろう。぀たり、䜜品を論ずるのではなく、䜜家を論ずるための材料ずしお䜜品にも蚀及するずいうずだけで、䜜品の評䟡が目的ではない。
    さらに蚀えば、正確には「䜜家論」ではなく「人物分析」ずいうこずにもなるだろう。぀たり、「䜜家的特性」を分析的に論じたいのではなく、端的に「この人はこういう人なのではないか」ずいうこずを䜜品を通しお論じたいのであっお、その人が「䜜家」だから論じたいのでもなければ、「䜜家」ずしお論じたいのでもない。あくたでも、䞀人の「人」ずしお論じたいのだ。

    では、どうしお藀本タツキずいう人気䜜家を、わざわざ「人気䜜家であるこず」「䜜家であるこず」「挫画家であるこず」を抜きにしお論じたいのかず蚀えば、この人が非垞にナニヌクな「人栌」ずいうよりは「キャラクタヌ人栌特性」の持ち䞻だず感じからだ。
    ただし、ここで「人栌」ず曞いたからずいっお、私がこの人の「人栌」に぀いお、立掟であるずかそうでないずかいったふうなこずを曞きたいのではない。そうした「瀟䌚的䟡倀芳」による評䟡をしたいのではなく、あくたでも「キャラクタヌ分析」がしたいのであり、そのこずによっお、この人の、たぶん、あたりハッキリずは理解されおいないであろう「ナニヌクさ」を明らかにしたいのだ。

    そしお、どうしお、私がこのように、この人に興味を持ったのかずいうず、この人が、ある意味では、私ず「真逆」ず蚀っおも良いような傟向を持った人で、そこが「面癜い」ず思ったからだ。
    したがっお、私には「どうしおこの人が、こういうキャラクタヌなのか」ずいった「心理分析」はできない。あくたでも「こういう人なのだ」ずいう「珟にあるずころのもの」を、説明するだけである。だから、「評䟡」ではなく「分析」だず蚀うのだ。

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    では、「藀本タツキ」ず呌ばれおいるこの人の、䜕がナニヌクなのかずいうず、それは「衚面的」である点だ。「奥行き」が無いに等しい。䞀䞀ただし、これは「薄っぺらだ」ず吊定しおいるのではない。そうではなく、「意味」だずか「芳念的な奥行き」だずかいったものが無い、ずいう意味だ。぀たり、この人は「そのたんた」の人で、「裏や衚」もなければ「本音も建前」も無い。そういった「芳念的なもの」が、ほずんど無いに等しい人なのだ。その点が、私ずは「真逆」なのだ。
    ここたでの蚘述でもお察しいただけようが、私は「意味」ずいうこずに、こだわりのある人間だ。より正確に蚀うなら、「意味」ずいうものに惹き぀けられおしたう、それが避けられない人間なのだが、この人「藀本タツキ」は、そうしたものずはほずんど無瞁な感じで、そこが私には、䞍思議でもあれば、面癜くもある。

    すでに「結論」的なものは曞いおしたったので、あずは、こうした「人物理解」に至る「論蚌」をするだけなのだが、その前の前提ずしお、私が、この短線集冊を読むに至った経緯を、簡単に語らなければならない。なぜなら、私がこの人に぀いお、どの皋床のこずを知った䞊で、このように分析したのかず、そのあたりを明らかにしおおかなければならないからだ。

    䟋えば、私は、この人の代衚䜜である『チェン゜ヌマン』を読んでいないし、この先も読む気がない。これたでに読んだ、この人の䜜品は、この短線集冊以倖では、巻本の長線『ルックバック』のみである。
    そちらに぀いおは、すでにレビュヌを曞いおおり、そこに、初めお藀本タツキの䜜品を読むに至った経緯を詳しく曞いおいるから、ここでは、そこたで詳しい説明を繰り返すこずはしないが、芁は、『チェン゜ヌマン』がアニメ化されるずいうこずで、『ルックバック』ず『短線集』の冊が続けざたな刊行された2021幎圓時、あちこちで藀本タツキが話題になっおいたので、私は、刊行されたばかりのこの冊を、詊しに読んでみるこずにしたのである。

    ずころが、もずもず、知らない䜜家であり、さほどの興味もなかったせいで、私はこの冊を積読の山に埋もれさせおしたい、ずっず読めないで来た。
    だが、先日、その積読の山が厩れお、その䞭からこの冊が出おきたので、この機䌚に読むこずにした、ずいう経緯である。

    冊の䞭で最初に読んだ長線『ルックバック』は、「よく出来た䜜品」であり、その「よく出来おいる郚分」を分析したレビュヌを曞いたのだが、しかし、だからず蚀っお、特別に「面癜い」ず思ったわけではなかった。あくたでも「よく出来おいる」ずいう点で、高く評䟡しただけである。

    ずころが今回、『短線集』を読んでみお、私がこれたでこの人に感じおいた、ささやかな「違和感」の正䜓が分かったような気がしたのだ。
    だから、これから曞くこのレビュヌは、「䜜品論」ではなく「人物論」になるしかなかったのである。

     ○ ○ ○

    『ルックバック』を読んで感じたのは、

    䜜りずしお、よく出来おいる。
    人物の内面描写は、ほずんどなく「情動」的な郚分に終始する。
    「絵柄」および「画力」は、たあたあで、䞋手ではないが特別䞊手くもない。

    ずいったずころだろうか。

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    で、私が最初に匕っかかったのは、アニメ化された『ルックバック』に぀いおの、この人の「原䜜者ずしおのコメント」であった。それは、

    A私原䜜挫画家よりも、絵が䞊手い。
    B感動しお、泣いた。

    私はもずもずアニメファンだから、このアニメ版『ルックバック』はそのうち芋ようずは思っおいた。
    いただに芋おいないのは、暑い䞭を出かけるのが嫌だったずいう、その䞀点に尜きる。

    だから、そんな私からすれば、䜜者のアニメ『ルックバック』に関するコメントは、端的に蚀っお「こい぀銬鹿か」ずいうものだった。
    別に、こずさらに藀本タツキを銬鹿にしようずいうのではない。ただ、すでに六十を超えお、芪子ほども歳の離れた私にずっおは、藀本は「若い挫画家』の䞀人に過ぎず、売れっ子䜜家であるこずや有名人であるこずなど、ほずんど䜕の意味もないから、玠盎にそう思っただけなのだ。たが、私ず同じように思った人は、意倖ず少なくはないはずである。ただ、私のように、このように公然ず曞いたりはしないだけであろう。

    では、どうしお「倚くの人」も、私ず同じように思っただろうず考えるのかず蚀うず、それは私がアニメには詳しいからだ。
    アニメに詳しい人なら、前述の藀本のコメントは、「畏れ知らず」な発蚀ずしか思えないのである。

    䟋えば、藀本タツキが、挫画『DEATH NOTE』の䜜画担圓者であった小畑健くらいの画力があるのならば、ここたでは蚀わない。だが、率盎に蚀っお、藀本にはそこたでの「画力」は無い。

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    倧堎぀ぐみ原䜜・小畑健䜜画 『DEATH NOTE』より

    で、ここで問題になるのは、劇堎甚アニメの䜜画監督を務めるようなアニメヌタヌずいうのは、こず「画力」においおは、倧抵の挫画家では倪刀打ちできない、圧倒的な力量の持ち䞻であり、蚀うなれば、「絵」の職人的な「゚リヌト」である、ずいう事実である。

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    アニメ版の「京本」

    蚀うたでもないこずだが、アニメヌタヌずいうのは、自分で「お話を䜜る」こずができなくおも務たるのだが、その分「画力」が無くおは務たらない職業だ。「画力」がすべおであり、それさえあれば、特別な知力もいらないし、人栌も関係ない。
    そしお、今の時代は、アニメヌタヌに憧れる若者が倧勢いお、「画力」の平均レベルもおのずず高く、「絵が䞊手いだけ」の若者なら、それこそ掃いお捚おるほどいる。こうした事実は、䟋えば「pixiv」などを芗けば、すぐにわかるこずなのだ。

    で、そんな絵の䞊手い若者が山ほどいる䞭から、遞抜されおアニメヌタヌになる者がいお、その䞭でも、特別に「画力」のあるものが䜜画監督を務めるのだから、䜜画監督を務めるようなアニメヌタヌずいうのは、蚀うなれば「゚リヌトの䞭の゚リヌト」なのである。こず、「画力」に関しおは、だ。
    だから、「絵も描ければ、お話も䜜れ、しかも個性がある」ずいった挫画家である藀本タツキが、こず「画力」に関しおは、アニメ版『ルックバック』の䜜画監督やメむンの原画家などに劣っおいたずしおも、別に恥じるようなこずではない。そうした゚リヌトアニメヌタヌたちが持たない胜力を、藀本は持っおいるからである。

    ただし、そうだずしおも、぀たり「恥じる必芁はない」ずしおも、普通の挫画家なら「私よりも䞊手い」ずは、コメントしないものなのだ。
    なぜかず蚀えば、挫画家はその挫画家なりに「画力」には自負を持っおいるから、「こい぀、私よりも䞊手いな」ず思っおも、なかなかそう正盎には語れない、ずいうこずが、たずある䟋えば、心の䞭で「このアニメヌタヌは、たしかにうたいけれど、絵に個性が無い」ずか「魅力が無い」などず考えお、自己正圓化しおしたう。
    次に、自分の「画力」に自信がない挫画家は、わざわざ「私より䞊手い」などずは蚀わない、ずいうこずもあるからなのだ。

    䞀䞀぀たり、普通の挫画家ならば、アニメ版の䜜画が、自分よりも䞊手かったずしおも、わざわざそのこずを語ったりはしないのだが、藀本タツキの堎合は、そうした「劙なプラむド」が無くお、たるで「子䟛」のように「䞊手い」ず蚀っおしたうのだ。
    そこが、ナニヌクな「人栌特性」であり、こうした特性は、たるで『ルックバック』も登堎する「京本」のようなのである。
    自分も十分に「䞊倖れた郚分」があるにもかかわらず、自分が欲しいず思う才胜を持っおいる人に察しおは、嫉劬するのではなく、玠盎に感心しお「藀野先生」などず呌んでしたう「ナむヌブさ」を、藀本タツキは「京本」ず共有しおいるのだ。

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    䞻人公の二人。京本ず藀野
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    この絵だけでは䌝わらないアニメヌタヌの凄さは、䞋の予告線でご確認を

    だからこの人が、アニメ『ルックバック』を芋お「泣いおしたった」ずいう「ナむヌブさ」も、こうしたこずから、よく理解できる。
    藀本は、アニメ版『ルックバック』を、「原䜜者」の目で鑑賞したのではなく、䞀人の䜜品鑑賞者ずしお「芋おしたった」から、玠盎に感動するこずもできたのだ。

    ぀たり、藀本タツキずいう人の「人栌特性」ずいうのは、䜜家であろうずなかろうず、「普通の人」なら持っおいる「芳念性」を、ほずんど持っおいない、ずいう点にある。

    藀本タツキは、「䞊手い絵を芋たら、䞊手いず思い」「感動的な䜜品を芋たら、玠盎に感動するしおしたう」人なのだ。
    察象䜜品を、「䜜家の目で芋たり」「その意味するずころを考えたり」はしない。「評䟡する」のではなく、ただ「鑑賞する」のである。いや、しおしたう、のだ。そしお藀本は、その「感じたこずを、そのたた口にしおしたう」のである。

    これは、「玠盎」であり「ナむヌブ」ずいう意味では「矎点」なのだが、瀟䌚的には、少々問題がある。
    どういうこずかず蚀うず、「立堎」に察する配慮が無いに等しいのだ。それは単に「原䜜者」「人気䜜家」ならば、もっず「それらしい」ずいう意味での「重々しいコメント」をしお、今の立堎の裏付けを瀺すべきであるずいった「瀟䌚的な配慮」だけではなく、自分自身の内面においおも、「私は䜜家だから」「私は原䜜者だから」ずいうこずを、ほずんど意識しない、そんな「倩然」的な玠盎さが、「矎点」でもあれば「匱点」にもなりかねない、ずいう点にある。
    藀本の堎合、その「玠盎さ」「ナむヌブさ」は、たぶん「倩然」であるからこそ、「悪気なく、瀟䌚的には問題のある発蚀や衚珟を、意図せずに、しおしたう恐れもある」のだ。

     ○ ○ ○

    䟋えば、『ルックバック』を読んで匕っかかったのは、「匕きこもり」である「京本」の描き方であり、そのリアリティの無さだ。
    たしかに「京本」は、可愛げのある魅力的なキャラクタヌではあるのだが、普通の意味で「匕きこもり」には芋えない。
    珟実には、「京本」のような匕きこもりも皀には存圚するのだろうが、ここで問題ずしおいるのは「フィクションの䞭でもリアリティ」の問題であり、芁は「それらしさ説埗力」だ。

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    原䜜マンガ『ルックバック』より

    もちろん、若い読者であれば、そんな「小難しいこず」など考えずに、「京本」が魅力的なキャラクタヌであるこずを喜んで受け入れ、むしろ、そうであるこずを歓迎するだろう。
    だが、いろいろな「フィクション」䜜品、䟋えば「挫画」「アニメ」「映画」「小説」などを長らく鑑賞しおきた者が読めば、「京本」の「匕きこもりずしおのリアリティ」の無さは、䜜品の「匱点」ず芋ざるを埗ないのだ。
    やはり、わざわざ瀟䌚的な問題でもある「匕きこもり」を描くのであれば、それはそれなりに「説埗力」や「リアリティ」を持たせるべきで、それを軜々に扱うべきではない、ずいうこずにもなるのだが、そうした配慮に欠けるから、「人栌描写が䞍十分だ」ずいうこずにもなるのである。

    だが、藀本の堎合は、たぶん、そんな「意味」など考えお、創䜜を行っおいるわけではない。
    圌は、圌が感じたこず、圌が描きたいこずを描いおいるだけで、そこに「意味」だの「意矩」だの「テヌマ」だのずいったものは、ほずんど無い。
    ただ、自分が「面癜い」ず感じるものを描こうずした結果「こうなった」ずいうだけなのである。「こういうこずを語りたい」ずか「これはこういう意味だ」ずかいった「䞭身」ずいうものが無い。
    䞀䞀その意味で、藀本タツキには、そしお、その䜜品には、「奥行き」が無く、「芋えおいるものがすべお」であり、芁は「衚面」だけなのだ。

    だが、繰り返し蚀うように、これは「批刀しおいる」のではなく、「特性を指摘しおいる」だけであるし、ある意味では、耒めおさえいる。
    なぜなら、藀本タツキの「衚面性」ずは、文芞評論家・蓮寊重圊の蚀う「衚局」ず、ほずんど同じものであり、擬制ずしおの「奥行き」だの「意味・意矩」だの「本質」だのずいった「フィクション」には捕らわれない、ずいう「矎質」だずも蚀えるからである。

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    で、そうした、藀本タツキの矎質が、この「初期短線集」には、よく衚れおいたのである。

    『ルックバック』を読んだだけの段階では、私は、藀本の「人物描写」が「薄っぺらい」ず感じおいた。たしかに、魅力のあるキャラクタヌにはなっおいるけれど「深みが感じられなかった」のである。
    しかしたあ、挫画であれば、このくらいでも十分だ氎準は超えおいるし、この䜜家の「長所」は、そうした「人物描写」にあるのではなく、埌半の「仕掛け」や、その䜜りの䞊手さにあるのだろうず私は理解した。だから、「人物描写」に぀いお無いものねだりをするよりも、むしろ「この皋床の人物描写」に酔わされおしたう「若い読者たち」ほど甘くはない私ずしおは、そっちは特に問題ずせず、倚くの読者が「ただ驚くだけ」の「仕掛けの郚分」に぀いお、「でも、このネタはすでに前䟋があるよ。うたく䜿っおいるずは思うけどね」ずいう趣旚の、評䟡を語ったのである。それが前述の『ルックバック』レビュヌにおける、次の郚分だったのだ。

    『芁は「マンガ家を目指す少女ずその絵描き友達」の友情物語なのだが、だから私は、本䜜を、男性である著者が、少女たちに自身を投圱しお描いた「半自䌝的な䜜品」なのではないかず、そう思っお、幎前に本曞を賌入しおいたのである。

    で、本皿が本䜜に぀いおの批評文であるなら、この䜜品が「青春友情マンガ」であるずいう指摘だけではたったく䞍十分であり、やはりその「仕掛け」に぀いおも論じなければならない。
    しかしたた、端的に蚀っお、それをバラしおしたうず、本䜜の楜しみは半枛しおしたう。だがたたその䞀方で、本䜜の「仕掛け」自䜓は、それほど目新しいものではないので、ここではヒントだけを瀺しおおくこずにした。

    本䜜の「仕掛け」が『それほど目新しいものではない』ずいうのは、この「仕掛け」自䜓は、䟋えば藀子䞍二雄なども、䜕床ずなく駆䜿しおいたものでしかないからだ。぀たり本䜜の肝は、「仕掛け」そのものではなく、「半自䌝的䜜品」だず思わせる、段取りにこそあったのである。

    したがっお、そんな本䜜のむメヌゞに最も近い䜜品を挙げおおくなら、今幎、日本でも公開された『オッペンハむマヌ』がアカデミヌ賞を受賞したクリストファヌ・ノヌラン監督の、ある旧䜜だ、ずだけ指摘しおおきたい。』

    したがっお、私は『ルックバック』の「䜜りのうたさ」には感心したけれども、それでこの䜜家のファンになるほどのこずはなかった。私ずしおは、もっず「深い人間描写」を期埅したのだが、そこたでのものは無かったからで、私のレビュヌに感じられるだろう「䞀歩退いた感じ」は、そうした「醒めた芖線」に由来するものだったのである。

     ○ ○ ○

    だが、今回、冊の『短線集』を読んでみお、「ああ、この人は、こういう人だったのか」ずわかり、そこが「興味深かった」。
    最初に曞いたずおり、私ずは「真逆」ず蚀っお良いその「特殊な個性」が「面癜い」ず思い、䜜品ではなく、もっぱらその「人物」に興味を持ち、惹かれたのである。

    どういうずころから、そのように感じたのかを説明しよう。

    芁は、この䜜者の17歳から26歳たでの䜜品を収録した冊の『短線集』に収められた䜜品は、倚かれ少なかれ、いずれも「深い意味」など持たず、もっぱら「人物の衚局的な個性」や「事件の衚局的な事実」を扱っおいるだけで、それが「䜕を意味するのか」ずいうような「意味」だの「テヌマ」だのずいったものが、「無いに等しかった」のだが、そこがかえっお、ナニヌクだったのだ。

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    䟋えば、䞊巻にあたる『17-21』の冒頭に収めれられた挫画賞初投皿䜜「庭には二矜ニワトリがいた。」は、地球が「宇宙人」に占領されお、人間が食糧になり、ほずんど食い尜くされおしたった䞖界においお、ニワトリの着ぐるみを着おいたために、ひそかに生き残っおいた、若い男女の人を描いた䜜品である。

    その䞖界では、「宇宙人」たちは、それたでの人類のラむフスタむルをそのたた暡倣しおおり、ただ人類が「宇宙人」ず入れ替わっただけ、のような䞖界である。
    そんな「宇宙人」だけの孊校の「ニワトリ小屋」で飌われおいるのが、くだんの「ニワトリの着ぐるみを着おいた、ひず組の男女」なのだ。
    では、なぜこの男女は、地球を埁服するほどの進んだ文明を持った「宇宙人」を、「着ぐるみを着ただけ」で、ニワトリだず誀認させるこずができたのか それは、その「宇宙人」が「芋かけ」だけで、察象を認識するずいう特性を持っおおり、その特性が極めお杜撰なものだったので、着ぐるみだけで隙せた、ずいう蚭定なのだ。

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    『17-21』所収「庭には二矜ニワトリがいた。」より

    で、これは、「蚭定的」「絵面的」には、いかにも「銬鹿銬鹿しいもの」である。
    ほずんど「ギャグ挫画」ず呌んでもいい、リアリティのかけらもない「蚭定」なのだが、しかし、この䜜品で描かれるのは、「女性」を守るために頑匵る「男性」の姿であり、最埌に明かされる、ちょっず捻った「真盞」も、そうした「愛」の匷さを瀺すものでしかない。

    本䜜では、「宇宙人」が人間を食糧にするのは、人間が牛や豚やニワトリを食糧にするのず䜕も違いはなく、その意味で圌らは「悪」ではないずいう事実に蚀及がなされ、その意味では、䞀芋したずころ「重いテヌマ」を扱っおいるようにも芋えるのだけれど、しかし䜜者は、この点に぀いお、特に远求するこずもなく、ただ、登堎人物の䌚話ずしお描いおいるに過ぎない。
    ぀たり、「人間を食う宇宙人も、ニワトリを食う人類も、同じこずをしおいる」ずいう「事実」は指摘しおも、「だからどうだ」ずいうこずには、興味がなさそうなのだ。
    ただ単に「そういう事実があるだけ」であり、本䜜は、それをアむデアずしお䜿っおはいるけれども、だから「人類は、他の生物を犠牲にしなければ生きられないずいう事実の重みを顧みお、無駄な殺生や環境砎壊の問題を、真剣に考えるべきである」ずいった「瀟䌚的な䞻匵」には、ほずんど興味が無いようなのである。

    䞀䞀぀たり、同䜜「庭には二矜ニワトリがいた。」が描いおいるのは、「芋た目にも可愛い女の子を守りたい」ずいう、「ただそれだけ」のこずなのだ。この䜜品には「深い意味」など無いのである。それを、぀い「深読みしおしたう読者」が、いたずしおもだ。

    で、そうした目で理解で、この冊の『短線集』を読んでみれば、どの䜜品も倚かれ少なから「自分が、可愛いず思った奜きだず思った、倧切な存圚だず思った察象」ぞの「愛着」を描いおいるだけで、それ以䞊の「深い意味」などは無い。その意味で、そこに描かれたものは、極めお動物的に「衚面」的であり、人間的な「芳念性」が、無いのである。

    しかしながらこれは、むしろ「極めお珍しい」特性だず蚀えるだろう。
    なぜなら、「普通の人間」ずいうのは、たいがいの堎合「䞭途半端に芳念的」であり、その意味で「薄っぺら」だからだ。

    䟋えば、ある䜜品に「感動した」ずか「玠晎らしい」ずいった評䟡を語る人の倚くが、その䜜品には「深い意味があっお、その点で䟡倀の高い䜜品だ」ずいうこずを語っおいる぀もりになっおいる。単に、動物本胜的に「可愛い」ずか「矎しい」ずか「泣かせる」だけかもしれないのに、そこに「意味」や「䟡倀」があるず思い蟌むほど、「薄っぺらに芳念的」であり、物事を「ありのたたに芋るこずができない」者が倧半なのだ。

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    『22−26』所収「予蚀のナナタ」より

    しかし、では、そうした人たちが、なぜ倚いのかずいえば、それは「その方が生きやすい」からである。
    ある「珟象」やその「䟡倀」に぀いお、いちいち「これは䜕なのか」「これに䜕の意味があるのか」などず、倧真面目に考えおいたら、効率よく生きるこずはできない。
    特別に思考胜力に優れた「哲孊者」ならば、そうしたこずを考えるこずで「新たな䟡倀」を生み出すこずもできようが、凡人がそんなこずを考えたっお「銬鹿の考え、䌑むに䌌たり」ずいうこずにしかならないから、凡人ずいうのは、物事を深く考えずに、「そういうものだ」で枈たせるようにできおいるのである。カヌト・ノォネガットのように、深く考えた䞊で、そういう結論に至ったわけではなく、䜕も考えずに、そのように思い蟌んでいるだけあり、そう生きおしたうだけ、なのだ。

    で、そうした意味で、「普通の人」ずいうのは「䞭途半端に芳念的」なのだが、藀本タツキには、そうした「芳念性」が、ほずんど感じられない。
    その意味でこの人は、「倩才的」でもあれば「カタワ」的でもあっお、たぶん、それなりに生きにくい人生を送っおきた人なのだろうなず、そう察するこずもできる。

    で、私が、そんな藀本タツキず「真逆」だずいうには、私は人䞊み以䞊に、いろいろ考えおしたうタむプ、だずいうこずである。
    もちろん、「考える胜力がある」のは良いこずだが、「考えずには枈たない」ずいうのは䞀皮の「呪い」でもあるから、その意味で、私は藀本に、ある皮の「矚たしさ」を感じ、その点で惹かれるのだ。藀本のような「特性」のある人は、「無防備であり、その意味で危険が倚い」ずそう思いながらも、そうした「倩然の無防備さ」に憧れる郚分がある。

    そしおこのように考えおくるず、私が最初に挙げた、藀本の「おかしな点」に぀いおも、容易に説明が぀くだろう。
    アニメ版『ルックバック』に぀いおの、䞋のようなコメントである。

    A私原䜜挫画家よりも、絵が䞊手い。
    B感動しお、泣いた。

    藀本タツキによる、このいささか軜率な発蚀が意味するのは、圌の「矎点」でもあれば「問題点匱点」でもある、その「倩然倩才」性ずいうこずなのである。

    圌は、こういう発蚀をすれば「他人が、どう思うだろう」などずいうこずを、くよくよず考える前に、その思いをそのたた語っおしたう人のである。
    だから、それでトラブルになったこずも、たぶん䞀切ならずあったはずだが、しかし、圌に悪気はなく、ただ子䟛のように、そうであるだけなのだ。

    䟋えば藀本は、『17−21』の「あずがき」を、次のように曞いおいる。

    『17歳の時に僕は山圢の矎術倧孊に入孊したした。東日本倧震灜が起こったすぐ埌だったので、このたた絵を描いおいおいいのだろうかず皆思っおいたはずです。絵を描いおいおも意味がない気がしお、䜕か少しでも圹に立ちたいず石巻に埩興支揎のボランティアに行きたした。行くバスの䞭で僕ず同じように考えおいる矎倧生や、䜓育倧孊の孊生達がたくさんいたした。石巻に぀き、䜏宅街䞀区画の偎溝に詰たった土を陀ける䜜業をしたした。土を袋に入れ、トラックたで運ぶずいう䜜業を䞀日したしたが、偎溝の土を党お取り陀く事ができたせんでした。30人くらいで䞀日䞭やったのに党然できなかった事に無力感を感じ、垰りのバスの䞭でも皆沈んでいたした。䜜業䞭䞀緒に䜜業しおいた䜓育倧孊の孊生が「俺達が来た意味なかったですね」ず蚀っおいたした。

    埩興支揎にはその埌もう䞀床だけ行きたしたが、それきりもう行かなくなりたした。油圩をやっおいたのでお金がかかり、そのために挫画を描くしかなかったからです。17歳からずっずその無力感のようなものが぀きたずっおいたす。たた、䜕床か悲しい事件がある床に、自分のやっおいる事が䜕の圹にも立たない感芚が倧きくなっおいきたした。

    最近、そろそろこの気持ちを吐き出しおしたいたいず「ルックバック」ずいう挫画を描きたした。描いおみるず䞍思議なものでちょっずだけ気持ちの敎理ができた気がしたす。
    その状態で今この短線集を芋るず、無力感の䞭で描いおいただけでなく、ずおもお腹を空かせながら描いおいた事やずっず友達ず絵の緎習をしおいた事などいろいろ思い出したした。なぜ暗い事ばかり思い出しおいたのだろうず思うくらい楜しい思い出が出おきお、「ルックバック」だけでなくこの短線集をたずめおもらえおよかったず今は感じたす。

    なぜこのような事を話すのかずいうず、僕は短線集を出す事に反察しおいたからです。
    理由は衚玙や、こういうコメントを曞くのがめんどくさかったからです。

    でも今は出しおもらえおよかったず思っおいたす。』

    この「あずがき」で、藀本が語っおいるのは、芁は、次のようなこずだ。

    「東日本倧震灜で、二床ほど珟地に入っお埩興支揎のボランティアをしたこずがあるけれど、その経隓で思い知らされたのは、自分の無力さだった。そしお、それは、䜕か倧きな䞍幞が起こるたびに思い起こしおしたうものだったのだけれど、『ルックバック』を描くこずで、䞍思議に気持ちの敎理の぀き、そうした、無力感が解消される郚分があったし、描くこずが自分にできるこずなのだずいう気づきもあった。そうした意味で、自分が自分の存圚の無意味さにもがいおいた頃の䜜品をたずめおもらえたこずは、意味があったのではないかず思いたす」

    ぀たり藀本は、震灜を目にしお「自分にできるこずは䜕か」ず、そう考える前に、動いおいた。そしお、実際に動いおみお、その結果のあたりの小ささを思い知らされ、無力感にずらわれ、それ以来、支揎掻動の珟堎に入るこずはしなくなった。その意味では「挫折感」すら芚えおいた。
    けれども、そうした鬱屈を蟌めた䜜品を描くこずによっお、自分の「無意味」ず思えた行動も、決しお「無意味」ではなかったのだずいうこずを知るこずができた。そんな「぀たらないこず」であっおも、ほずんど実益的な効果のないこずであっおも、「頑匵っおいる人がいる」ずいう事実は、どこかで誰かを励たしおいるはずだずいうこずに、藀本は気づけたのだ。䞀䞀ここに曞かれおいるのは、そういうこずなのである。

    画像

    䞀方、私のような「芳念的な人間」は、動く前に「先回りしお考えおしたう」し、その「結果」を、ほが正しく「芋積もっおしたう」から、結局は、その結果のわかっおいる「ほずんど無意味な行動」は採らないこずになっおしたう。「そんなこずを、私がやっおも」「私がやらなくおも」「私には、他にできるこずがあるはずだ」ず考えおしたっお、藀本のように「䜓が先に動く」ずいうこずはないし、その意味で「倱敗」も「埌悔」も少ない。
    けれども、そうした「手堅さ」は、それはそれで「぀たらないものだ」ずたで、自分でもわかっおしたうずころが虚しくもあり、その点で、「芋たたた、感じたたたに動く」動物的な藀本タツキずいう人に惹かれる郚分があったのである。

    だが、あえお蚀うけれども、結局のずころこれは、「個性の違い」であり「そのように生たれた」ずいう違いでしかないから、私のような人間が「藀本のような、危なっかしくおも、魅力的な人間に生たれおきたかった」などず考えるのは、所詮「ないものねだり」であり、自身の「矎質」ぞの無配慮でしかない。だから、私は私にできるこずをやれば良いし、それをやるべきなのだ。

    そんなわけで、私はこのように、藀本タツキずいう人の「人物論」を曞いたのである。
    藀本タツキの読者が、䜕䞇人、䜕十䞇人いようず、こんなものを曞ける人間は、他にはいないはずだからだ。



    2024幎7月14日

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