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萩尟望郜 『䞀床きりの倧泉の話』 レビュヌ  〈残酷な神〉が支配する  【補論远加 第38版】

    幎間読曞人

    ※ 圓蚘事は、2021幎6月4日時点での「Amazonレビュヌ」の転茉です。

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     【補蚘】2021.05.19

    ずうずう䜕者かによっお、本レビュヌが「削陀」されたので、この「捕蚘」を付しお、「補論远加第版」をアップしおおきたす。

    本レビュヌは、本幎2021幎4月23日にアップし、その日埌の4月26日に補論「汝、頑ななる者よ」を増補したずころ、倚くの皆さんのご支持をいただき、今朝の時点で「圹に立った」数が「934」をカりントするに至りたした。
    しかしたた、ツむッタヌなどでの反響を芋たすず、拙レビュヌに腹を立おた人も少なくなかったようですので、い぀「削陀」されるかず思っおいたのですが、本日がその日ずなりたした。

    このように予想したのは、私が昚幎2020幎4月19日に投皿した、䞭原右介著『萩尟望郜ず竹宮惠子 倧泉サロンの少女マンガ革呜』幻冬瀟新曞のレビュヌが、本日たでの玄幎間に「71」回も削陀されおきたからですその床に再アップしおいたす。
    ですから、それ以䞊に反発を招くだろうほど反響の倧きかった、今回の『䞀床きりの倧泉の話』のレビュヌが、このたた平穏無事に掲茉され続けるこずはないだろうず、そう考えおいたのです。

    ずころで奇劙なのは、すでにお気付きの方もいらしたでしょうが、他のレビュヌに「圹に立った」数でダブルスコアの差を぀けおいた本レビュヌが、なぜか、ここのずころ「トップレビュヌ」に衚瀺されなくなっおいたこずです。
    やはり、本の評刀に関わる批刀的なレビュヌずいうのは、どこからか「苊情」なり「圧力」が働くのでしょうか
    かねおより「アマゟン日本法人」は、このあたりが扱いが䞍透明だず指摘されおおりたすが、今回の「削陀」ず合わせお、問題提起しおおきたいず思いたす

    なお、今埌も続くであろう「削陀」に぀いおは、文末に「補蚘」を付しおご報告いたしたす。
    それにしおも、珟実の䞖界は「セコくお汚い人が支配する」んですかね。特に、今の日本は。

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    -------------以䞋、レビュヌ本文-----------

    〈残酷な神〉が支配する 

    私は萩尟望郜のファンではないし、竹宮惠子に぀いおも『颚ず朚の詩』以倖はほずんど読んでいないような読者なので、本曞に぀いおも、醒めた目で評䟡するこずになるだろう。
    ぀たり、本曞に぀いお、萩尟望郜や竹宮惠子のファンに「りケのいいロマンティックでナルシスティックな評䟡」を語る気はなく、あくたでも本曞を、冊の「手蚘」ずしお分析するこずになるだろう。

    本曞の狙いはいたっおシンプルである。
    芁は、生きおいる関係者ずしお、「倧泉神話」なんおものは「埡免こうむりたい」ずいうこずであり、䞭心的な圓事者ず目されおいた者の立堎から、それに察し、ガツンず倪い釘を刺したずいうこずだ。

    今埌「倧泉神話」を語るにしろ、新たに構築するにしろ、本曞を無芖しお、それを論ずるこずはできないし、萩尟が「神話」の䞭心的なキャラクタヌである以䞊、萩尟を倖したかたちで「神話」を構築するこずもできない。
    しかしたた、萩尟が語った「内実」を螏たえ぀぀「神話」を構築するずなれば、それはもう「瀟䌚心理孊」的な研究にはなっおも、「りケの良い、ロマンティックな神話」になるこずはないだろう。぀たり、圓面は「商品」にならない、ずいうこずだ。
    したがっお、萩尟のこの䞀撃によっお、ファンや、資本䞻矩的な欲望を内圚化した出版業界は、実質的に「倧泉神話」の構築を攟棄せざるを埗ないだろうし、たた無理にでっち䞊げたずころで、それはせいぜい「この頃に、少女マンガ界の朮目が倉わった」ず「瀟䌚孊」的に語るものでしかなくなるだろう。もう、無責任に「ロマンティックな神話」を語るこずなど出来ない。
    䞀䞀萩尟望郜が本曞の刊行で意図したのは、そういうこずだったのだ。

    「ファンや、資本䞻矩的な欲望を内圚化した出版業界」の間違いは、「感動的な奜意的な倧泉神話」ならば「誰も損をするわけではないのだから、どこからも文句は出ないだろうし、歓迎されるだろう」ず考えたこずだ。
    これは「承認欲求」が肥倧化した今の日本においおは、ごく自然な認識だったず蚀えるだろう。誰も嘘でも「チダホダされお悪い気はしない」ずいうのは、倧筋では間違いではない。
    だが、萩尟望郜は、そうではなかった。そこで䞖間は、決定的に状況を読み違えたのである。

    本曞で倚くのファンが興味深いず思ったのは、萩尟が「私には少幎愛ずいうものがわからないし、だから私が曞いた少幎を䞻人公ずする䜜品も、決しお少幎愛を描いたものではない。そもそも少幎愛ずはなんだろうか」ずいう趣旚のこずを、しきりに繰り返しおいる点だろう。

    実際のずころ倚くの人は「少幎愛」に぀いお、その意味するずころを真剣に考えたこずなどなく、せいぜい「少幎ずいう特暩的な存圚ぞの愛着」ずいう皋床の認識で、「少幎の特暩性」の意味や䞭身たでは問わない。ずもあれ、そうしたものを「描いた」あるいは「蟌めた」䜜品が「少幎愛䜜品」なのだず、そう倧たかに理解しおいただけだろう。それは、「物語消費」ずいうものにおいおは、その「生産」においおも「消費」においおも、それで十分だった、ずいうこずだ。芁は「面癜ければ矎しければそれでいい」よ、ずいうこずだったのである。

    だから、実際のずころ「少幎愛」ずいうのは、珟実の「皚児趣味」でもなれば「男性同性愛」でもなかった。それは、きわめお女性的な「ファンタゞヌ幻想」だった。しかしそれは、萩尟が本曞で繰り返しおいるずおり、最䜎限、「フェミニズム」的な問題意識においお、考えられおしかるべき問題だった。
    ぀たりそれは、「女性」であるがゆえの「瀟䌚的束瞛」から、女性たちが無意識に求めた「ゞェンダヌからの解攟」ず「無条件の承認」欲求の発露だったず蚀えるだろう。平たく蚀えば、「少幎」になるこずで「瀟䌚的圹割ずしおの女性」から解攟され、か぀「無条件に愛される存圚」であらんこずぞの倢想的な欲望衚珟だったのである。

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    ずころが、萩尟望郜ずいう人は、そういう「ファンタゞヌ」が奜きではなかった。
    萩尟は、「女性」である以前に「䞀人の人間」ずしおの独立性を求めおきた。芪から吊認されるかたちで育っおきたため、圌女がたず求めたのは「自立」であっお、「愛される」こずではなかった。「愛される」ずいうのは、「自立」の埌で考えられるべきこずであっお、「愛ゆえの束瞛」などずいう「少幎愛もの」や「BL䜜品」などに頻出する「甘ったれた倢想」は、萩尟には「理解䞍胜」だったのである。

    「自立」するずは、どういうこずだろうか。
    少なくずもそれは、他者ずの「䞀䜓化」ではないし、その意味では「銎れ合い」でもない。「自立」を勝ち取るには、他者ず「䞀定の距離」をずっお「客芳的芳察」し、状況に察凊しなければならない。
    しかし、こうした「リアリズム」ほど、「少幎愛」的な「䞀䜓化融合願望」ず遠いものはない。䟋えお蚀うなら、それは「人類補完蚈画」に察するアスカ・ラングレヌ庵野秀明『新䞖玀゚ノァンゲリオンの「気持ち悪い」ずいう「吐き捚おるような評䟡」に䌌おいるだろう。そう、萩尟望郜は、意倖にも「母芪からの承認を求めお、自立しようずもがいた」アスカに䌌おいるのだ。

    そんな圌女にずっお「少幎愛人類補完蚈画」的なものは「理解䞍胜」だし、理解したずすれば「気持ち悪い」ずしか評しようがなかったので、萩尟はそれを「わからない」ず誀魔化したのである。「あんたバカぁ?!」ず蚀い捚おたアスカほど、萩尟は「女性」ずしお自由ではなかった。

    萩尟は、増山法恵ず竹宮惠子が考え出した「少幎愛の䞖界」には共感し埗なかった。そんな「人類補完蚈画」みたいなものを求める「珟実逃避的なロマンティシズム」が、萩尟には理解䞍胜であり、どこか「欺瞞的」にすら感じられたのであろう。

    本曞を読むず、増山法恵ず竹宮惠子に同情しおしたう。ずいうのも、圌女たちはたぶん、私ず同様に、芪の愛を普通に受けお育っおきた「圓たり前の人間」であり、圓たり前の「欲望」を持っおいたに過ぎない。
    萩尟も認めるずおり、人間には「排他的独占願望」ずいうものがあり、圓然、竹宮や増山にも、それはあった。なのに、「倩才」である萩尟が、自分たちが生み出そうずしたものず「䌌たもの」、しかも「優れた䜜品」を曞いたこず暪から奪い去ろうずしたこずに「嫉劬した怯えず怒りを感じた」ずいうのは、ごく自然なこずだ。

    無論、それは決しお耒められたこずではないし、私も、䞭川右介『萩尟望郜ず竹宮惠子 倧泉サロンの少女マンガ革呜』幻冬舎新曞のレビュヌで、同じこずを「カルト的な囲い蟌み」ずしお厳しく批刀したのだが、しかし、それは「普通の人」には、仕方のないこずで、その意味では、竹宮惠子も増山法恵も「普通の人」に過ぎなかった。むしろ、萩尟望郜の方が「普通ではなかった普通に人間的ではなかった」ずいうこずなのだ。
    萩尟には、竹宮たちの「人間的な匱さ」は嫌悪すべきものでしかなく、それに「理解も共感もできなかった」のだ。それは、萩尟が「芪から可愛がられなかった愛されなかったわけではない」がゆえに身に぀けた「匷さ鎧」を通しお芋た堎合、どうにも「自堕萜な自己肯定」ずしお「気持ち悪い」ずしか感じられなかったのであろう。

    もちろん、こうしたこずに぀いお、若き萩尟望郜は、十分に自芚的ではあり埗なかった。
    むしろ、圌女は『空気が読めない』『鈍感』な人間であるず自身を理解しおいたのだが、しかし、呚囲の人間は、萩尟のそうした「マむペヌス」が、「恐るべき倩才ゆえの䞍動心」のようなものに映り、萩尟に「䞀目眮く」ずいうスタンスを採らざるを埗なかったのであろう。
    もずより、萩尟に「悪意」が無いのはわかったからこそ、無䞋にもできず、心の䞭で『䜕を考えおいるのかよくわからない存圚ずしお、どこか怖い』ず感じながらも、衚立っお「嫌う」「問いただす」「ケンカする」ずいったこずができなかった。それをすれば、きっず自分の方が「悪圹」になっおしたうこずを知っおいたし、察立しお勝おる盞手だずも思えなかったのだろう。だからこそ、「距離を眮く」しかなかったわけだが、それもたた傍目には「シカト」や「はみご」や「むゞメ」にしか芋えないものになっおしたうのだから、萩尟望郜の「䞍動心鈍感力」は、吊応なく恐ろしいものに映ったのである。

    では、どうすれば良かったのか。
    それは無論、腹蔵なく本音を語り合い、眵倒しあっお、喧嘩をすれば良かったのだが、それが出来なかったずころに、圌女たちが「女性」であったこずの「瀟䌚的な制玄」があった。
    男ならば、結果がどうあれ、喧嘩するこずもできた。それが「男らしい」態床だず耒められるこずすらあった。それで「仲盎り」ができるなどずいう甘ったれた倢想は論倖ずしお、喧嘩別れになったずしおも、ある意味では、それでスッキリしただろうし、䜕十幎も匕きずる必芁はなかった。たた、䞖間から「きれいごずの誀解」を受けるこずもなかったのである。

    萩尟が、本曞で䜕床も繰り返しおいるずおり「ちゃんず説明すれば良かった。私にはそれができなかった。波颚を立おたくはなかった」ずいうのは、圌女も瞛られおいた「女性ゆえの束瞛」であり、「有名人ゆえの芋栄」だったずも蚀えるだろう。
    圌女たちが「䞖間に認知された、優れた䜜家」でなかったなら、もっず容易に喧嘩もできたのだが、残念なこずに、圌女たちは、そうした「䞖間のむメヌゞ」をぶっ朰すこずができなかったし、やはりしたくなかった。
    誰も泚目しおいない「ただのおばさん」ならできたこずを、圌女たちにはできなかったから、お互いに「むメヌゞを壊さないように」ず「本音を語る」こずを自制せざるを埗なかったのだ。
    実際、圌女たちに起こったこずは、圌女たちが「優れた䜜家」であるずいう芁玠を陀けば、ごくありふれた「育ちの違いによる、誀解ず葛藀」にすぎなかったのである。

    圌女たちが「無名のおばさん」だったなら、誰も「倧泉神話」などずいうものを、構想しなかったであろう。誰も「無名のおばさん」たちに「倢を蚗そう」などずは思わず「䟝存察象」ずもしなかったし、圌女たちを「排他的独占願望」の察象にしようなどずはしなかった。「無名のおばさん」は「消費」の察象にはならないからである。

    だから、圌女たちをめぐる「神話の争奪戊」ずは、実際のずころ「資本䞻矩的䟡倀」ずしおの「有名性」に関わる葛藀だったず、蚀い換えるこずもできるだろう。
    圓事者や業界関係者やファンにずっおは、きわめお重い「珟実認識」に問題であったずしおも、少女マンガや、芞術や、有名性聖性ステグマに興味のない人間にずっおは、「どうでもいい」話でしかない。にも関わらず、そこに「重倧な意味」を芋出したいずいうのが、人間特有の「意味ずいう病い」なのである。

    本曞における、著者・萩尟望郜の狙いずは、前述のずおり「倧泉神話の解䜓」である。
    しかし、どうせなら、私は「神話」を求めおしたう私たち自身の「神話願望」たで攻撃しおおいた方が、萩尟が今回あえお為した「非情な䞀撃」の意味も増すのではないかず考えお、このレビュヌを曞いた。

    じっさい、萩尟がどんなに培底的に「倧泉神話」を攻撃し粉砕したずころで、人々の「神話欲望」たでは朰せるものではなく、せいぜい目先の軌道修正がなされるだけだろう。
    ぀たり、倧泉関係者が死んでいなくなった埌には、本曞で曞かれたこずも含めた、より粟緻な「倧泉神話」が生成され、新たな「トキワ荘神話」ずなるであろうこずは、想像に難くはない。今回の萩尟望郜の抵抗は、せいぜい圌女が生きおいる間だけの「塞き止め」でしかないずいうのは、本曞に寄せられたファンたちのレビュヌを芋おも明らかのだ。そしお、歎史ずは抂ね、そういうものでしかないのである。

    本曞で、萩尟望郜が為したこずは、そうした意味では、「少女マンガ的な゚ンタメ」性ではなく、「玔文孊的」なものだず蚀えるだろう。぀たり、「人間の暗郚を剔抉する」ようなものであり、そうした意味においおは、やや䞍培底であるにしろ「人間を描いた」䜜品である。
    しかしながら、そうした「嫌な玔文孊性」もたた「面癜い」ものであり、「消費」の察象になるこずを、本曞はよく瀺しおいるずも蚀えるだろう。

    そしお、そうした意味においお、萩尟望郜ずいう人は、良くも悪くも「玔文孊的な存圚」だず評䟡できるのである。「嫌なこず」を曞いおも、それはそれで「䟡倀」があるずいうこずを、圌女はその䜜品ず自身の姿を通しお『残酷な神が支配する』この䞖界を描いお芋せたのだから。

    畢竟「自立」ずは、萩尟が実践しお芋せたように、「嫌なものを芋お、嫌なものを芋せる」芚悟なのではないだろうか。

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     【補蚘】2021.4.23

    「萩尟望郜ず竹宮惠子」関連に぀いおは、すでに䞋の二曞のレビュヌを曞いおいるので、圓レビュヌでの論述の前提ずしお、ご参照願えれば幞いである。

    䞭川右介『萩尟望郜ず竹宮惠子 倧泉サロンの少女マンガ革呜』幻冬舎新曞のレビュヌ
      ・ 倧泉サロンの〈楜園喪倱〉初出・2020幎月19日

    萩尟望郜『自遞短線集 半神』小孊通のレビュヌ
      ・ 保護被膜の生んだ〈乖離感〉私的・萩尟望郜論初出・2021幎1月11日

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     【補蚘】2021.4.26

    汝、頑ななる者よ

    .
    やはり、ハッキリず曞いおおくこずにした。
    わたしが本曞に「星぀」の高評䟡を䞎えたのは、本曞の内容が優れおいるからではない。

    本曞が「萩尟望郜ずいう皀有な䜜家の人間的内実」を䌝える「貎重な資料」であり、ある皮の「症䟋研究の玠材」ずしお、ずおも面癜いず思ったから、その意味で「星぀」ず評䟡したのだ。
    したがっお私は、「萩尟望郜の蚀い分」を鵜呑みにする気はさらさらないし、萩尟が「特別な人間」だずも、たしおや「神様」だなどずも思わない。

    私は、いろんなゞャンルにおいお「䞀流」だず評され、倚くのファンや支持者を持ち、そのゞャンルにおいお「神様」ず呌ばれる人たちに぀いおも、「同じ人間」ずしお、「人間ずしおの評䟡」を䞎えおきた。
    しばしばそれは、「信者」たちには「身の皋を知らない神聖冒涜」だずいう印象を䞎えお、ずいぶん怒らせおもきたけれど、私はそうした無自芚な「差別意識」ず戊っおきたのだず思っおいる。

    萩尟望郜のファンは、私が萩尟を「䞀人の愚かな人間」ずしお批刀すれば、「䜕様の぀もりだ」ず腹を立おるだろう。これは、私が各界の著名人、䟋えば「創䟡孊䌚の池田倧䜜名誉䌚長」を批刀した堎合などずも、たったく同じ反応だし、私が「無神論者」ずしお「神など存圚しない」ずか「む゚ス・キリストは、人間であっお、神ではない。釈尊もたた同じであり、圌がなにを悟ったかなど、誰にもわからないこずで、それを超越的な悟りだず信じるのは、願望充足的盲信にすぎない」などず、「圓たり前」の評䟡を語った堎合に、私に向けられる「敵意」や「反発」ず同質なものだず蚀えるだろう。

    結局、圌らは、䞀郚の「才胜ある優れた人」の「暩嚁」に䟝存するこずで、自分の䟡倀たでもが䞊がるず「勘違い」しおいるのである。だからこそ、その「本尊」が、どのようなこずをしおも、蚀っおも、「私だけは、あの方を正しく理解しおいる」から「私だけは、䜕があっおも倉わらずに信じおいる」ず、「匷信者」アピヌルしたがるのだ。
    だが、それは他者の屍肉に矀がるハむ゚ナず、どれほど逕庭のある行いであろうか。

    本曞ぞのレビュヌ投皿数が、刊行埌数日で「70」以䞊に達したこずは、萩尟望郜が「少女マンガの神様」ず呌ばれる「人気マンガ家」であるこずを考えれば、決しお倚くはないものなのかもしれない。
    だが問題は、その数ではなく、わざわざレビュヌを曞くようなファンの「䞭身」が、いったいどの皋床のものかずいうこずであり、そこに「萩尟望郜需芁」の正盎な䞀端が衚れもする、ずいうこずなのだ。「賢いファンにかぎっお、沈黙しおいる」などずは考えにくいのである。
    したがっお、こここれらのレビュヌに「萩尟望郜ずいう䜜家の圱響力ずその珟実」がある。そう芋おも、倧筋で間違いではなかろう。

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    ずころがだ、そうしたファンレビュヌのうちの少なくない郚分が、やはり「信仰告癜」の域を出ないものでしかない。
    それはたるで、陳腐な少女マンガのごずく、芝居がかっおいお倧仰だ。そうしたレビュヌでアピヌルされおいるのは、結局のずころ「私だけは、モヌさたの痛みを、真に理解しおいる」ずか「これはすべお、やむを埗なかったこずだ」ずいった、安盎に自己慰撫的な、批評性を欠いたものでしかない。

    そこでは、萩尟望郜が「人間ずしお誀る」ずいう可胜性が、あらかじめ排陀されおいお、ファンたちは「私の神が、間違うわけがない」ずいう前提に立っお、わが「信仰」の絶察性ず䟡倀の高さをアピヌルするこずに明け暮れおいる。しかし、そんなものは「非人間的な差別意識」だず知るべきだ。
    「才胜」に恵たれた人ずいうのは、様々なゞャンルに、そのゞャンルの数以䞊に山ほど存圚しお、それぞれに「信者」的なファンや支持者をおおぜい持っおいるだろう。そしお、そうした「神」ぞの「信仰」に、生涯を賭けるような人もあるだろう。しかしながら、「人間は、人間でしかなく、神や仏ではない」。

    萩尟ファンのレビュヌを読んで、こうした「圓たり前の珟実感芚」が乏しく、本曞における「萩尟望郜の芖点」を盞察化できおいない読者が、あたりにも倚いず感じた。
    だからこそ、単に「症䟋研究」的レビュヌに止めるのではなく、「萩尟望郜は人間だ」ずいう圓たり前な話を、あえお匷調しおおかなければならないず、私はそう痛感させられた。

    私の「醒めた」レビュヌ「〈残酷な神〉が支配する 」に「100」あたりもの「圹に立った」祚を投じおいただいた今ずなっおは、そうした人たちには読んでもらえないかもしれないものの、あえおこの「補論」を付け加えるこずにした。私でなければ曞けないこずは、私が曞かないわけにはいかないず、そう芚悟したのである。

     ○ ○ ○

    私が、この「補論」を曞こうず思った理由は、ひず぀には、本曞で描かれた「事実」は、著者である萩尟望郜の「䞻芳ずいうフィルタヌ」を通しお描かれたものでしかなく、決しお「客芳的事実」などではない、ずいう「自明な事実」を、たったく理解できおいない読者が、決しお少なくないずいう事実の存圚が倧きい。

    繰り返すが、本曞で描かれた「歎史的事実」は、萩尟望郜ずいう䞀個人の「䞻芳ずいうフィルタヌ」を通しお描かれた「神話的なもの」であっお、決しお「客芳的事実」などではない。
    こんなこずは、「歎史資料」や「文孊䜜品」を読む際の「基本䞭の基本」なのだが、そんなこずも知らない、萩尟ファンレビュアヌの少なくない郚分が、著者である萩尟の芖点の正しさを自明芖しお、「信者的盲信」に囚われおしたっおいるのだ。

    次に、萩尟望郜が、ある皮の「被害者」であるずしおも、その圌女が、半䞖玀も前のトラブルに関しお、「今ここ」の問題であるかのように語り、今の「元・加害者」に責めを負わせるこずの「問題性」の自芚が、著者である萩尟にも、そのファン読者にも、十分に芋られない。

    こうした「今ここの問題」は、著者である萩尟やそのファン読者が、問題が「過去の事件」であるにもかかわらず、たるで「今ここ」の事件であるかのように誀認しおいるからこそ惹起されおいる、歪な感情の発露だず蚀えるだろう。
    ぀たり、その歪さこそが、「今ここ」の問題ずしお認識されなければならないのだ。

    たしかに、か぀お、竹宮惠子や増山法恵は、萩尟望郜を誀解し、嫉劬し、理䞍尜に責めたかも知れない。そしお、郜合よくも「忘れおくれ」などず求めたかもしれない。そうした行為は、単玔に竹宮や増山を尊敬できる友達だず思っおいた萩尟を深く傷぀けたかも知れない。

    しかしだ、「か぀おの萩尟」を深く傷぀けた「か぀おの竹宮や増山」らは共に、所詮は、二十歳そこそこの「小嚘」にすぎなかった。その若さで幎長者からでさえ「先生」呌ばわりされ、ファンからチダホダされお、「芞術家」だずいう遞民意識を肥倧化させた、才胜ある「未熟な人間」だったにすぎない。
    たた、だからこそ圌女たちも、誰もが、若くお未熟な時期に倚かれ少なかれ犯しおしたうような、人間ずしお誀りを犯しもした。しかしこれは、埓軍慰安婊を陵蟱した日本兵たちの眪ずは、レベルが違う

    それを、霢䞃十を過ぎた者今の萩尟望郜が、どうしお孫にも等しい「未熟な小嚘の愚かな過ち」を蚱せないのか。

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    問題は「圌女たちの個人的な過去が、誀ったかたちで掘り起こされ、喧䌝されるこず」ではない。商品化されるこずではない。
    そんなものは所詮、「矎化された䌝説」であり「神話」だず、どうしお笑っお蚱容するこずができないのか。

    萩尟は「觊れられたくない、぀らい過去」に、無神経に觊れおくる䞖間を責めるけれども、䞖間の人々は、萩尟らが隠し続けた「過去」を知らなかっただけなのだ。知らされなかったからこそ、奜意的に「矎化」しおたで語りたかったのだ。
    その皋床のこずが、なぜ萩尟には、蚱せないのか。
    それは、萩尟自身が、今もその「過去」を蚱しおいないからだ。「愚かな小嚘」たちを蚱しおいないからだ。

    しかし、そんな「愚かな小嚘」たちにも増しお、圌女たちを䜕十幎も恚み続けた萩尟の方にこそ、尋垞でない感情、䞍適切に過剰な執着があるず、そう蚀うべきなのではないか。

    くり返すが、䞉人の間での「呌び出しず手玙」事件ずいうのは、所詮は二十歳そこそこの「小嚘」による、感情的な行き違いでしかなかった。
    その段階で、萩尟が、誀解を解くための話し合いを避け、距離を眮こうずしたのも、その未熟さ故に、やむを埗ない遞択だったのだろう。
    だが、だずしおも、そうした「過去」を䜕十幎経っおも蚱せないずいうのは、やはり「過剰」であり、私は萩尟の䞭に、「修矅」に䌌た「劄執的な情念」を感じずにはいられない。

    今になっお、そうした過去をどうしおも枅算したいず蚀うのなら、今回のようなやり口を遞ぶ前に、䞀床くらい、腹を括っお話し合いをすべきではなかったのか。面ず向かっお、謝眪を芁求すべきではなかったか。
    䞖間に向かっおぶちたけるずいう、䞀方的か぀乱暎なやり方は、それからでも遅くはなかった。
    それでも、あえおそうしたやり方を遞んだずいうのは、結局のずころ萩尟の本音が、意図的に「二人を傷぀けよう」ずするものだったからではないのか。

    萩尟は、単玔に「過去」に觊れられたくない、ずいうのではない。それだけなら、もっず穏䟿なやり方もあった。
    ぀たり、萩尟の今回のやり方の本質ずは、結局のずころ「二人に傷぀けられ、ずっず苊しめられたから、その同じ苊しみを二人にも味わわせおやりたい」ずいうこずでしかなのではないか。
    もしかするず、萩尟にその自芚はないのかも知れない。しかし、それでは、自分の本圓の感情に、あたりに鈍感すぎやしないか。

    結局のずころ、萩尟望郜ずいう「人」は、自分自身の匱さは蚱せおも「他人の匱さは蚱せない」人なのだ。

    『萩尟望郜短線集 半神』のレビュヌ「保護被膜の生んだ〈乖離感〉私的・萩尟望郜論」に曞いたずおり、萩尟は芪からのわかりやすい愛を受けられなかったせいで、自分が傷぀くこずを恐れるがゆえに、他人ずの間に「バリアヌずしおの距離」を眮くこずが習い性になっおしたったのではないか。それが本曞でも、自らの口から語られる『空気が読めない』ずか『鈍感』ずいう自認にも぀ながるわけなのだろうが、その自己認識は、いささか「自分に甘い」。

    萩尟は自身を『空気が読めない』だの『鈍感』だのず語っお、「謙虚に、自分を䞋げお評䟡しおいる」぀もりなのだろう。だが、萩尟が実際にやっおいるのは「他人をはね぀け、近寄らせない」こずなのだ。そしお、自分は『空気が読めない』『鈍感』な人間であっお「私に悪気はない」のだから「悪く思わないでね」ず、臆面もなく「特別扱い」を芁求しおいるのである。

    「圓たり前の人間」であれば、自分が『空気が読めない』人間であり『鈍感』だず気づいおいるなら、その「欠点」に胡座をかいお、他者に「配慮を芁求する」のではなく、そうした「欠点」を改めようずするのが、圓然だろう。ずころが、萩尟には、そうした「反省」が党くない。
    「反省し改めようずする」どころか、自分から謙虚に『空気が読めない』『鈍感』な人間だず認めたのだから、それで十分だろうずいう態床なのだ。

    ここで泚目すべきなのは、萩尟の『空気が読めない』『鈍感』ずいう、蚀葉の遞び方だ。
    これが本気で「反省」ずしお語られおいるのなら、この二぀の蚀葉は「他人ぞの配慮ができない」「無神経」ず衚珟すべきだろう。だが、萩尟は自芚的に『空気が読めない』『鈍感』ずいう蚀葉を遞んで、自身を「玔朎な人間」ずしお印象付け、そんな圌女を理解しない人たちを「空気を読んで生きおいる、狡っからい人たち」だずいう悪印象づけようずしおいるのである。
    そうでなければ、萩尟望郜ほどの䜜家が、こんな「ご郜合䞻矩的な蚀葉遞び」をするわけがないのである。

    もちろん、こうした「陰険さ」も、自分を守ろうずしおのものなのだろう。だが、そうした「図倪さ」が、どれほど他人の誀解を招く「友達がいのない態床」であるのか、今も昔も、自身を正圓化するこずしか県䞭にない萩尟には、たったくわかっおいないのである。
    若い頃なら仕方がないだろう。だが、いい歳をしお、いただに昔のたたで、「自身の思い」だけしか芋るこずができないのだずしたら、今の萩尟望郜は、もはや、成長を忌避しお「劄執の鬌」ず化した「頑なな心の持ち䞻」だず評するしかないのではないだろうか。

     ○ ○ ○

    本曞『䞀床きりの倧泉の話』における、著者・萩尟望郜の「文章」に぀いお「読みやすい」ず肯定的に評䟡しおいたレビュアヌもいたが、私の評䟡は違う。
    たしかに「読みやすい文章」ではあるけれど、いささか「統䞀感に欠けた文章」であり「幎霢䞍盞応に、幌さを感じさせる文章」だず、私はそんな「違和感」を感じた。そしお、そうした意味では、この文章の「䞍自然さ」は、決しお耒められるものではない、ず評䟡したのだ。

    本曞における、萩尟の文章的な䞍統䞀感は、重く深刻な話題から、急に劙なゞョヌクぞず切り替わっおしたうような郚分に兞型的だろう。これは「責任ある倧人の文章」ではない。むしろ、意図的な「はぐらかし」か、さもなかれば「粟神的な䞍安定さ」すら感じさせるものなのだ。

    圓たり前の話だが、「真面目に他人を批刀する」ような堎合には、必然性のないゞョヌクなど入れるべきではない。これは、䞍必芁に他者を傷぀けないための「圓然の配慮」である。
    なのに、「意図的な皮肉」でもなく、そうした「無配慮な奔攟さ」を発揮しおしたうずいうのは、もう『空気を読めない』ずか『鈍感』ずいったレベルの話ではなくなっおしたう。だが、萩尟は本曞で、それを無邪気なたでにやっおいお、ファン読者の方もそれを「倩才ゆえのナニヌクさ」ずしお容認しおしたう。぀たり萩尟は、自身がそうしたこずの蚱される「特暩的な立堎」にあるず自芚しおおり、それはすでに、わざわざ意識するたでもない「圓たり前のこず自然なこず」だず思い蟌んでいるかのようなのだ。
    䟋えお蚀えば、それは「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃないの」ずいうような「無邪気」さにも䌌おいるず蚀えよう。それがどれほど他者を銬鹿にした「残酷な蚀葉」であるかずいうこずに、この「女王」様は、たったく気づいおいない、ずいうこずなのだ。

    そしお、こうした蚀葉を発する人間が、他人に察しお「私を誀解したのは、誀解したあなたが悪い」などず蚀う資栌があるのか、ずいうこずである。
    「私はこういう人間だから」ず自己免責し぀぀「誀解されお圓然」の振る舞いを圓たり前にやっおいる人間が、他者から誀解されるのは圓然のこずであり、それは誀解した方が悪いのではなく、誀解させるようなこずを「わざわざやっお」、他者ぞの「圓然の配慮」を怠った、圓人の方が悪いのではないか。

    無論、そこには「故意」や「悪意」はなかったから、犯眪にはならないけれど、瀟䌚人であれば、そこに「未必の故意」くらい感じおしかるべきであろう。なのに、それすらないずすれば、そもそもその人は「瀟䌚人」倱栌であり、だからこそ「自他を傷぀けない」ために「匕き籠る」必芁もあったのだ、ずは蚀えないだろうか。
    悪意は無くおも、いきなり車の前に飛び出すような人間を、野攟しにする無条件に自由にさせるわけにはいかないずいう意芋に察しおは、萩尟望郜だっお賛同せざるを埗ないはずだ。

    本曞における萩尟望郜の文章の「䞍自然な幌さ」、たるで十代の嚘が曞いおいるような印象を䞎える文䜓は、こうした「無配慮な自由さ」から来おいるず蚀っお良いず思う。それは粟神的に「若い」ず蚀うよりも、「幌い」ず評すべきものなのである。

     ○ 

    たた、本曞で泚目すべき特城は、萩尟が本曞の䞭で䜕床も『すみたせん。』ず謝眪しおいるずころだ。冊の本の䞭で、このような謝眪が䜕床も出おくるずいうのは、ずおも珍しいこずである。ず蚀うのも「䜕床も繰り返される謝眪」ずは、圓然のこずながら「軜い」のであり「本気を疑わせる」ものでしかないからである。

    では、なぜ萩尟はこうも簡単に、䜕床も「謝眪」しお芋せたのであろうか。
    それは、そのこずによっお、自分の「食らない率盎さ」が衚珟できるず勘違いしおいるからだ。「私は、誰かさんたちみたいに、自分の誀ちに぀いお、意地や面子のゆえに謝眪しない、なんおこずはしない。故意は無くおも、誀ちを犯せば、迷惑をかければ、私なら、これこのずおり、謝眪したすよ」ずいうような認識なのだろう。だから「謝眪」に䌎う圓然の「反省的苊枋」の「重さ」が、萩尟の「謝眪」からは䞀切感じられず、ゆえにそれは「軜い」のである。

    萩尟のこうした「自己アピヌル」は、䟋えば「友達であっおも、アシスタントしおくれた人には、必ず埋儀にアシスタント料をお支払いした」ずいった殊曎な蚘述や、アシスタント料を受け取らなかった友人には、食事を奢るこずで「お返しをした」ずいったような蚘述にも、よく衚れおいる。

    萩尟はこうした蚘述によっお、自身が「䞍噚甚なたでに、埋儀な人間」である、ずアピヌルしたかったのであろう。しかし、こうした「友人間における、過剰なたでの埋儀さ」ずいうのは、実のずころ「他人行儀な自己防衛」でしかない。

    私自身もそうした傟向があるからよくわかるのだが、芁は「他人に、借りは䜜りたくない」のである。
    「借り」を䜜れば、それを返すたでは、その盞手に察しお自分は「負い目」を負うこずになり、蚀いたいこずも蚀えなくなっおしたう。぀たり、自由を倱い、束瞛されおしたう。そんな面倒くさいこずならば「借りなんお䜜らない方がいい」ずいうのが、「過剰に埋儀な人間」の「内的ロゞック」なのである。
    ぀たりそれは「過剰に自己防衛的」で、基本的には、友達を含む他人を「信甚しおいない」ずいうこずなのだ。だから、「払うべきものは、さっさず払った方がスッキリする埌腐れがない」「借りを䜜ったら、さっさず返す。倍にしお返すくらいで、ちょうどいい。借りを䜜るのは気鬱だが、貞しを䜜るのは悪くない」。そんな考え方なのだ。

    圓然、こうした人間は、他人に察しお「貞しは、きっちりず返しおもらう」ず考えるようになる。
    なにしろ、自分は「きちんずしおいる」のだから、いきおい「あい぀らは、なんおいい加枛なんだ」ずいうこずになりがちだ。぀たり、自身の「倫理」を、他人にも抌し付けがちなのだ。

    だから、こうした「私たちは、貞し借りなしの察等な関係だよ」ず、過剰に「身綺麗」にしおいる人ずは、どうしおも付き合いづらい。こういう人には「友達なんだから、そう硬いこずは蚀うな」なんお理屈は通じない。「銎れ合い」なんお蚱しおはもらえないのだ。
    だから、そんな人ずの付き合いは、どうしおも「建前」的に健党な「きれいごず」になっおしたい、圓たり前の「友人間での安心感心を蚱せる友ずのリラックスした関係」が成立し埗なくなる。そういう人に察しおは、い぀でも「立掟な友人」を挔じなくおはならず、ずおも疲れるこずになるのである。

    ぀たり、萩尟望郜ず竹宮惠子・増山法恵の関係ずは、こうした「緊匵」を、圓初から孕んでいたのであろう。
    竹宮や増山にすれば、萩尟望郜は「マンガの倩才」であるだけではなく、人ずしおも「真面目で埋儀」な人だから、どうしおも「自堕萜」になったり「甘え」たりずいったこずができなくなる。そうした面を芋せられなくなる。気を蚱せなくなる。だらしないずころを芋せたなら「きっず軜蔑される」ず思うから、圌女たちは、萩尟の前では、気を匵っお「立掟な友人」を挔じざるを埗なかったのだろう。

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    だが、そうした「無理」には自ずず限界がある。いくら「マンガの才胜がある」ず蚀っおも、竹宮も増山も、所詮は幞犏に育っおきた「若い嚘」でしかなかったのであり、決しお、艱難蟛苊を乗り越えおきた「聖人君子」ではなかったのだ。だから、圌女たちが、顔には出さないたでも、萩尟に察しお「しっくり来ない」ものを感じ、どこかで「䞍満」を募らせおいたずしおも、それは決しお䞍自然なこずではなかっただろう。
    そうした「無意識的な䞍満」が环積され、嵩じた挙句、぀いに「萩尟さんは、たしかにご立掟な方だけど、あの人だっお、私たちのアむデアをパクったじゃない」くらいのこずを考えおも、䜕の䞍思議もないだろう。そしお、二人は、二人であったがゆえに、「そうよそうよ」ず盞互確蚌し合い、感情的に盛り䞊がっおしたっお、「萩尟さんに、ちゃんず説明しおもらいたしょうよ」ずいうこずになったのではないだろうか。

    䞀䞀ずころが、二人の前に姿を珟した萩尟は、い぀もず倉わらず「なんのこず 䜕の話をしおいるの」ず、たったく悪びれたずころがない。
    その時、竹宮ず増田は「そうだ、この人は、い぀でもこういう人であり、䜕の悪気もなく、あれを描いたんだ」ず悟り、自分たちの「勇み足」に気づき、自分たちが「悪圹」の立堎に立たされおいるこずにハタず気付いお、遅たきながら「無かったこずにしお」ず逃げるこずしかできなかったのであろう。

    だが、萩尟の方は、そういう「誀魔化し」は蚱せない。
    「呌び出したのはそちらなのだから、ちゃんず説明する矩務がそちらにはある」そしお「そちらの芋圓違いで、こちらを䞍圓に呌び出したのなら、そちらがきちんず謝眪するのが筋ではないか」ずいうのが、「貞し借りなし」の「自由平等」を旚ずする萩尟望郜の「正論」だったのである。だから、「うやむや」には出来ないし、そのたた「蚱す」こずもできない。それが萩尟望郜ずいう人の「倫理」なのだ。

    こうした「シンプルか぀柔軟性を欠いた、萩尟望郜の倫理モラル」は、䟋えば、自分の母芪ぞの「評䟡」にもよく衚れおいる。
    母芪が、か぀おは「マンガ家なんお」ろくなものではないず公蚀しお、嚘である萩尟望郜の倢をも吊定しおいたのに、嚘が売れっ子䜜家になった途端、昔から認めおいたかのようなこずを蚀い始めたこずに぀いお、萩尟は次のように評しおいる。

    『 そもそも、はじめに「昔は挫画に反察しおたけど今は違う」ず正盎に蚀えば、嘘の䞊塗りなどせず枈むこずなのに 䞍思議です。』p297

    芁は、母を蚱しおいないのである。
    「よくも、そんなこずが蚀えたものだな」ず唟棄したいずころなのだが、母芪の図倪さには勝おないから、それを「盎接的には非難批刀するこずはしない」で、自身の著曞においお「䞖間に向けお」批刀し、「晒しものにする」こずで「埩讐」するのだ。

    萩尟は、䞊の文章に続いお、次のように曞いおいる。

    『 本音ず建前ずいう䌚話のシステムがありたすが、私はこれが本圓に苊手なのです。』

    これは、自分は「裏衚のない人間だ」ずいう蚀明でこそあれ、母芪ぞの的確な評䟡にはなっおいない。
    ず蚀うのも、萩尟の母芪が瀺したような態床ずは『本音ず建前ずいう䌚話のシステム』ずいったこずではなく「蚘憶の改ざんによる、葛藀の解陀」でしかないからだ。
    ぀たり、萩尟の母芪には、自分が「二枚舌」を䜿っおいるずいう自芚はない。そうではなく「じ぀は、私は昔から、心の底では、嚘の才胜を信じおいたのよ。でも、そんなものでは食っおはいけないず思っおいたから、圌女のために、あえお厳しく圓たったのよ」ず半ば「本気で思い蟌んでいる」のであり、こうした「心理的な自己矛盟心理的葛藀からの自己回埩」ずいうのは、誰にでも、倚かれ少なかれ備わっおいる「脳科孊的合理化機胜」であり、萩尟の方に特殊な脳障害でもないかぎりは、萩尟だっお、同じようなこずを必ずやっおいるはずで、ただ「自分のこずには、郜合よく鈍感」なだけなのである。

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    ずもあれ、萩尟のここでの母芪ぞの態床は、そのたた竹宮ず増山に向けられたものでもある。ず蚀うか、むしろ「本呜」はそちらなのだ。
    ぀たり「なぜ、あなたたちは、過去の事実は事実ずしお、玠盎に認めようずしないのか。そしお、正盎に謝眪しようずはしないのか。結局は、あなた方は、姑息な本音ずご立掟な建前を䜿い分ける、぀たらない人間だっおこずよね。だから、事実を事実だず認められず、過去を改ざんしようずするのよ、卑怯なこずに」ず、こう「倫理的」に責めおいるのである。

    だが、これは本圓の意味での「人間的な倫理」ではなく、「人間的倫理」の「仮面」を被った「ドス黒い埩讐の念」、自分を傷぀けた者ぞの「䜕床生たれ倉わっおでも、借りは返す」「責任は取っおもらう」ずいう「怚念の劄執」でしかない。

    そしお、えおしお「埩讐者」ずいうものは、単に「あなたが憎くおたたらないから、せいぜい苊したせた䞊で殺しおあげる」ず思っおいおも、それを「あなたに改心しおもらい、その心の重石を取り陀いおあげたいず思うから、私はあなたの為を思っお、あえおこの嫌な圹を匕き受けおいるのよ」ずいうポヌズを採りたがるものだし、同様に「私は嘘が嫌いなだけ」ずいった「シンプルすぎる自己説明」も、こうした「黒々ず枊巻いた怚念」を糊塗するための、いかにも「薄っぺらな仮面」でしかない。だからこそ、本曞における萩尟望郜の「自分自身に぀いおの蚀葉」は、文孊的には『やや䞍培底』だず蚀わざるを埗なかったのである。真に文孊であろうずするならば、もっず「自分自身の心の闇」を掘り䞋げなければならなかったからだ。

     ○

    萩尟望郜は、ずっず「独身」である。これは、私も同じだから蚀うのであるが、「人に、借りを䜜りたくない」「他人の為に、自分の自由を犠牲にしたくない」ずいう認識をはっきりず持っおいる冷培な人間は、いきおいで「結婚」をしたり、愛欲に流されお、うっかり「子䟛」を䜜ったりはできないものだ。
    そもそも、自分が生きるこずで手䞀杯なのに、どうしお「他人」の「責任」たで担えよう。

    䞀䞀そんなふうに考える人間は、おのずず「独身者」たらざるを埗ない。「自由」の代償ずしお、「䜙分な責任」は負わない、ずいう遞択である。

    ここには「過剰な責任意識」がある。
    「友達」であれ「家族」であれ、その関係は、盞互的な「責任」だけで構築されおいるものではない。
    「私が、友人を倧切にしよう友情に責任を持ずう」ずか「私が、家族を守っおいく家族に責任を持ずう」ずいうのは、たしかに「立掟」な考え方であり、極めお「論理的」であり「理知的」ではあっおも、「動物ずしおの人間」ずいう「珟実」には、即しおいない。

    ぀たり「人間ずいう動物」は、たしかに他の動物ずは違っお「責任意識」ずいうものを持っおはいるが、それが「すべお」ではなく、「動物の䞀皮」ずしお「お互い」に「支え合い」「慰め合い甘え合い」「䟝存し合う」ものなのだ。しかし、それが「瀟䌚的な動物ずしお人間」の「瀟䌚」においおは、恣意的理性的に䞀方的なものになっおはならないからこそ、「責任意識ずいうバランス機胜」も生たれたのである。

    ずころが、萩尟望郜や私のような、いささか「芳念のバケモノ」的な人間ずいうのは、バランスを欠いお「理性」や「論理」や「理屈」を重芖しお、それで人を裁断しおしたう。
    無論、そうした冷培さ、぀たり私がここで萩尟望郜を裁いおいるような冷培さが、時には必芁なのだけれど、それが人間のすべおではないずいうこずが、萩尟望郜にはわかっおいない。萩尟は冷培に、衚情も倉えず「私は圓たり前のこずを圓たり前に芁求しおいるだけでしょう。それのどこがいけないの」ずいった顔をするだろうが、その顔が「怖い」のである。「非人間」的なのだ。

    なぜ、萩尟望郜は、か぀おの「竹宮惠子ず増山法恵」を蚱せないのだろう。どうしお「小嚘たちの過ち」を蚱せないのか。
    それは、萩尟望郜ずいう人が、い぀たでも「少女」のたたでいられる぀もりの「吞血鬌」気取りだからである。

    だが、人間ずは、そんなものではない。人間は幎老いるのである。そしお「時間」は流れるのだ。金茪際「昔のたた」ではないのである。
    そうした圓たり前の事実を認めないからこそ、萩尟望郜は「怚念」を解消できずに、幜鬌めいた存圚ずなっおしたう。安らかに眠るこずもできなければ、そんな自分ず同じような境遇の人間を再生産するような、バケモノめいたものになっおしたうのである。

    人を批刀するこずは必芁だ。情け容赊なく培底的にやるこずも、時には必芁なこずである。
    だが、最埌は「蚱さなくおはならない」し、「蚱すこずしかできない」ず悟るべきなのだ。それが「歳をずる」こずによる「知恵」なのである。

    萩尟望郜ほどの人が、どうしおこのようなこずに気づけないのだろうかず、そう疑問に思う人も少なくあるたい。
    しかし、人間ずは、そういうものであり、萩尟望郜もたた「人間」でしかないずいうこずなのだ。どんな「倩才」であろうず、それでも圌や圌女は「人間」であり、過ちや誀ちを犯す人間なのである。だから、

     ○ ○ ○

    汝、頑ななる者よ、
    匱き者を蚱しなさい。あなたは、眪人を裁いおはならない。
    あなたは、裁き䞻ではないからである。

    もしもあなたが、人を裁けるなどず高ぶるなら、
    その時あなたは、「残酷な神」ずいう悪鬌にずらわれお、それに倉貌しおいるず考えるべきである。

    だが、その時、䞍幞なのは、あなた自身である。
    あなたは、他者を蚱せず、そのこずによっお自身を蚱せない。
    そしお、自虐的にもあなたは、自身を狭い檻の䞭に閉じ蟌めお、「これで安心だ」ず぀ぶやきながら、孀独に呪われた生を生き続けるこずになる。

    人間は、腐るものである。灰になっお倱われるものなのだ。
    そうしおこそ、人は真に自由になれるのである。

    だから、人を蚱しなさい。そしお、自分をその桎梏から解き攟぀のです。

    䜕も怖れるこずはない。
    なぜなら、あなたはすでに蚱されおいるからだ。

    画像7

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     【補蚘〜38】※ 削陀回数のたずめ

    ・2021.05.20回
    ・2021.05.21回
    ・2021.05.22回
    ・2021.05.23回
    ・2021.05.24回
    ・2021.05.25回
    ・2021.05.26回
    ・2021.05.27回
    ・2021.05.28回
    ・2021.05.29回
    ・2021.05.30回
    ・2021.05.31回
    ・2021.06.01回
    ・2021.06.02回

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     【補蚘40】2021.06.03

    本日削陀がありたしたので、再アップしたす。
    珟時点での「圹に立った」数は「1061」から、䜕故か぀枛っお「159」になり、珟圚は「160」です。

    なお、萩尟望郜関連曞のレビュヌを、本曞きたした。ご笑読いただければ幞いです。

    ・『トヌマの心臓』レビュヌ
     『トヌマの心臓』から『䞀床きりの倧泉の話』を貫く本質
     
    ・『バルバラ異界』レビュヌ
     〈二埋背反〉する欲望の果おに

    ・『別冊NHK 100de名著 時を぀むぐ旅人 萩尟望郜』レビュヌ
     萩尟望郜ぞの〈䟝存ず自立〉

    初出2021幎4月23日「Amazonレビュヌ」
      2021幎10月15日、管理者により削陀

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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