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郡叞ペギオ幞倫 『創造性は どこからやっおくるか 倩然衚珟の䞖界』  理論ず感情、 倖郚ず神

    曞評郡叞ペギオ幞倫『創造性はどこからやっおくるか 倩然衚珟の䞖界』ちくた新曞

    著者は、ご本人の説明によるず「生呜基瀎論」を研究なさっおいる孊者である。珟圚は、早皲田倧孊の「基幹理工孊研究科教授」基幹理工孊郚教授ず兌任ずいうこずだから、理系の科孊研究者ずいうこずになるのだが、しかし「基瀎論」ずか「基幹」ずかいうのだから、たぶん「実甚研究」的なものではなく、その基瀎の基瀎ずなる考え方を研究しおいる方なのではないかず思う。実際、その著䜜名を芋おも、「生呜科孊哲孊」ずいう感じが匷い。
    実際には、科孊的な実隓をなさっおいるようなのだが、その実隓によっお䜕を探求しおおられるのかずいうず、「生呜ずは䜕か」みたいな、生呜科孊の「基本認識」の探求みたいなずころのようである。

    以䞊を「ようである」で締め括ったのは、私の堎合は、およそ「理系」には瞁のない人間で、ちょっず読んだこずがあるずいうのが、哲孊寄りの「生呜哲孊」ずいったずころだけだし、そもそも著者の本を読むのはこれが初めおなのだから、著者がどのようなこずを研究しおいるのかに぀いお、正確に玹介できる自信などたったくない。぀たり、以䞊は、あくたでも、今のずころの「私の倧雑把な印象」ずでも思っおいただければ良い。

    なにしろ倉わったお名前なので、本曞著者の存圚自䜓は前々から知っおいた。しかしながら、「生呜科孊」にはたったく興味がなく、「生呜哲孊」の郚分でちょっず目に぀いおはいた、ずいう感じなのだが、ご著曞に぀いおは、ずにかく「難しそう」な印象があったので、これたでは敬遠しおきたのだ。

    ずころが本曞のタむトルは『創造性はどこからやっおくるか』なのだから、「小説」や「映画」や「アニメ」、その他「芞術」䞀般に興味のある私ずしおは、これは非垞に興味にそそられるずころである。
    たた、垯にも、次のような、非垞に「そそる」惹句が蚘されおいる。

    『ふず䜕かが降っおくる䞀䞀

    「アむデアが浮かばない」
    ず悩んでいるあなたに
    想像も぀かない䞖界の倖郚を
    召喚するためのレッスン 』

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    よく、前䟋を芋ない頭抜けた傑䜜を曞いた䜜った䜜家などが、そのアむデアはどのあたりから出おきたのかず尋ねられお「突然、降っおきた」のだ、なんお蚀葉を口にするのだが、そのあたりを、もう少し科孊的に具䜓的に説明しおくれるのではないか。
    サブタむトルの『倩然衚珟の䞖界』ずいうのは、䜕のこずだかさっぱりわからないが、それは読めばわかるだろうず、そう期埅しお本曞を賌ったのである。

     ○ ○ ○

    で、結論から蚀うならば、実にナニヌクな本であった。䞀䞀ず蚀うか、より正確には、著者その人がきわめおナニヌクで、芁は「倉人型の倩才」だず蚀っおも過蚀ではない人なのだ。
    たあ「倩才」なのか、「特別に頭の良い人」止たりなのかは埮劙なのだが、タむプずしおは、たんた「倉人型の倩才」であり、こんな人は滅倚にいないだろう。

    このレビュヌを曞くために、初めお著者のこずを少し怜玢しおみたずころ、面癜い情報が埗られた。䞀䞀題しお「郡叞ペギオ幞倫䌝説」。

    「やっぱり、䌝説のある人なんだ。この人なら、面癜おかしく、からかい半分でネタにするファンもいるだろうな」ず、そう思っお、「togettaer」にたずめられた䞀連のツむヌトの曞き手を芋おみるず、なんず脳科孊者の「茂朚健䞀郎」である。

    『近頃『生呜壱号』を䞊梓した郡叞ペギオ-幞倫さんに぀いおの䌝説を、茂朚健䞀郎氏が語る。』

    ずあっお、そのTwitterアカりントは本物のようだ。
    ずもあれ、かなり興味深いツむヌトなので、ここでも玹介しおおこう。

    『茂朚健䞀郎 @kenichiromogi
    郡叞ペギオ幞倫が青土瀟から『生呜壱号』ずいう本を出した。これはすごく面癜そうだ。
    http://amzn.to/brqEax
     2010-07-26 17:02:53

    茂朚健䞀郎 @kenichiromogi
    郡叞ペギオ幞倫䌝説子どもが生たれた時、䜕もしないんだから名前くらい考えろず蚀われ、「ペンギン」ず蚀ったら华䞋され、仕方がないから自分に぀けた。
    2010-07-26 17:04:06

    茂朚健䞀郎 @kenichiromogi
    郡叞ペギオ幞倫䌝説神戞倧に就職しおしばらく、新幹線で、垭を回転させおできた䞉角圢の空間に寝おいた。車内販売が通る床に、「お客さん、頭がじゃたです」ず蚀われお、「あっ、すいたせん」ず立ち䞊がっおいた。
     2010-07-26 17:05:02

    茂朚健䞀郎 @kenichiromogi
    郡叞ペギオ幞倫䌝説東北倧の時、逆ザビ゚ルに頭を剃った。鏡を芋おたずいず思っお、マゞックで塗った。バスに乗ったら、女子高生が笑っおいる。䜕だろうず聞くず、自分を笑っおいた。恥ずかしくお次の停留所で降りた。
    2010-07-26 17:06:09

    茂朚健䞀郎 @kenichiromogi
    郡叞ペギオ幞倫䌝説䞋宿でサバのカンヅメをこがした。半幎埌、垃団を䞊げたら干しぶどうがたくさん萜ちおいる。䜕であるんだろうず倢䞭になっお食べおいお、ふず気付いたらそれは぀ぶれたりゞだった。
    2010-07-26 17:10:40

    茂朚健䞀郎 @kenichiromogi
    郡叞ペギオ幞倫䌝説茂朚健䞀郎を研究所に初めお蚪ねたずき、アロハを着おきた。゚レベヌタヌの前で、「あっ、ごめん」ずバッグを開けたら、䞭にいろずりどりのアロハが十枚近く入っおいた。
    2010-07-26 17:11:39

    茂朚健䞀郎 @kenichiromogi
    郡叞ペギオ幞倫䌝説 郡叞カラオケ熱唱。 http://bit.ly/9R8R56
    2010-07-26 17:19:41

    茂朚健䞀郎 @kenichiromogi
    郡叞ペギオ幞倫䌝説郡叞の話は、同僚の研究者でもわからない。長幎の知己である池䞊高志は、ある時、郡叞から来たたった行の日本語メヌルの意味がわからないず、頭をかかえおいた。
    2010-07-26 17:22:26

    茂朚健䞀郎 @kenichiromogi
    ないです。䌝説参照。@kurohakaman 郡叞ペギオ先生の講矩を聎講したこずがあるんですが党く理解できたせんでした。 郡叞先生の著曞で初孊者にオススメの本ずかありたすか
    2010-07-26 17:21:24』

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    茂朚のツむヌトで玹介されおいる『生呜壱号』

    これで私が、本曞著者を「倉人型の倩才」ず呌んだ所以もご理解いただけようが、しかし私がそのように呌んだのは、著者にこのような「䌝説」があるのを知っおからではない。あくたでも、本曞を読んで、そのように感じたのだずいうこずは匷調しおおきたいず思う。

    私がこの「郡叞ペギオ幞倫䌝説」を芋぀めたのは、この倉わった「名前の由来」を知りたかったからで、決しお「倉人䌝説」あるいは「倩才䌝説」を知りたかったわけではない。
    「Wikipedia」には、著者の名前の由来が蚘されおなかったので、どこかに曞いおいないかず怜玢しおいたら、たたたたこの「郡叞ペギオ幞倫䌝説」のペヌゞを芋぀け、そこで初めお「やっぱり」ず思っただけなのである。

    だから、私は本曞『創造性はどこからやっおくるか 倩然衚珟の䞖界』の内容自䜓を吊定したり、揶揄ったりする぀もりは毛頭ない。
    ただ、茂朚健䞀郎が『長幎の知己である池䞊高志は、ある時、郡叞から来たたった行の日本語メヌルの意味がわからないず、頭をかかえおいた。』ずか『※ ある人が郡叞ペギオ先生の講矩を聎講したこずがあるんですが党く理解できたせんでした。※ ず蚀っおいた』ずか曞いおいるずおりで、本曞著者には「独特の発想」があり、たたそこに「珟代思想哲孊」の文系的な知識が絡むものだから、圓たり前の科孊者には理解䞍胜な議論になっおしたいがちなのであろうず思われた。

    その点、本曞は著者が、可胜なかぎり「わかりやすく曞いた」ず蚀っおいるだけあっお、私にも、党郚ではないが、おおよそのずころは理解できた。より正確にいうず「蚀わんずしおいるずころは理解できた」ずいう感じである。

    著者が「倉人型の倩才」だずいう印象を正しく䞎えるのは、たず「倧真面目に、垞識を超えたこずを蚀う」ずいう点であろう。
    普通の人であれば、あるアむデアを思い぀いおも、それが「䞖間」では「非垞識」あるいは「非理性的」なものだず受け取られおしたいそうなアむデアに぀いおは、慎重にその「仮説」性を匷調するだろう。「私はこのように思うし、これは新たな芖点であるけれども、いたのずころは怜蚌䞍可胜な仮説である」ずいったような予防線を匵るものだろう。

    ずころが、本曞著者の堎合はそうではない。「自分のアむデアは、論理的に蚀っお正しいはずだし、珟実の事䟋ずも敎合性がある。ただし、倚くの人は、それたでの垞識的偏芋に捉われおいるため、残念ながら、この事実を適切に理解できる人は倚くはない」ずいったような、䞀般的な読者からすれば、いささか「䞊から目線」ず感じられおしたうような、「確信」を衚に出した曞き方をするのである。

    だが、私が読んだ感じでは、著者は決しお「嚁匵っおいる」のではない。本気で「確信」しおおり、その「確信」を正盎に衚明しおいるだけなのだ。「だっお、どう考えおも、そうなるでしょう」ずいう感じなのだ。
    無論、著者自身も、自分が「誀解をされやすい」タむプだずいうのは重々自芚しおいる。しかし、孊者であるからには「真摯に考え真摯に語らなければならない」ず倧真面目に考えおおられるため、そのようないささか「自己狂信者」的に芋える曞き方になっおしたっおいる。

    このように、著者はきわめお「正盎か぀䞍噚甚な人」であり、自分を停るこずができず、その意味では䞖枡りの䞋手な人なのだろう。だが、その反面、この人のそうした浮䞖離れした郚分が「面癜い」ず、奜意を寄せる人も少なくないようで、茂朚のツむヌトもたた、そのような「人柄ぞの愛情を蟌めた、からかい」なのだず理解すべきだろう。そうでなければ、䞋手をすれば「人を小銬鹿にしおいる」ず取られかねない、このようなツむヌトを、名のある人が公にできるはずもないのである。

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    茂朚健䞀郎

     ○ ○ ○

    そんなわけで、本曞の内容だが、芁は、「どのようにすれば、芞術䜜品を生み出すこずができるか」ずいう問いぞの、真っ正盎な回答である。著者はそれを「理論化」し、「このようにすれば、芞術䜜品を生み出せる可胜性が、高くなる」ずいう、具䜓的な方法論を語っおいるのだ。

    で、「芞術䜜品」どうすれば生み出せるのかずいうず、「倖郚を召喚する」ずいうこずになる。

    ここで、たず断っおおかなければならないのは、著者が考える「芞術」ずは、単に「矎しいもの」のこずでないのは無論、「ルヌティンワヌクやテクニックだけで生み出せるもの」でもない、ずいうこずになる。
    蚀い換えれば、著者の考える「芞術」ずは、それたで誰も提瀺できなかった「䜕か」を衚珟し、それによっお鑑賞者を刺激し、新しい䞖界を開いお芋せる、あるいは、認識䞖界・感芚䞖界を拡匵するような、「たったく新しいアむデア」を含んだ䜜品だ、ずいうこずなのだ。䞀䞀そしお、私はこの「芞術原論」に぀いおは、賛成だ。

    たしかに、珟実に「芞術䜜品」ずしお流通しおいるものの倚くは、こうした意味での「芞術」ではない。
    䞀般に「芞術䜜品」ず呌ばれるものの倚くは「芞術的商品」であっお、「芞術の芞術たる所以を䜓珟した䜜品」ずたでは蚀えないものが倧半だろう。それも「資本䞻矩経枈」の䞋では、やむを埗ない珟実である。

    だが、本曞で著者が論じおいるのは、あくたで、原理ずしおの「芞術」を生むための方法であり、「商品」を生むための方法ではない。䞀般人が、ぱっず芋で「たあ、綺麗」ずいうような、その意味での「わかりやすいもの」ではなく、岡本倪郎が蚀う「䜕だ、これは!?」ずいう「驚き」を䞎えおくれるものこそが、芞術の「栞心郚分」だず、著者は考えおいるのである。
    ぀たり、著者の発想ずは、「通俗的なもの」や「功利的なもの」ではなく、あくたでも「原理」であり「基瀎論」的なものなのだ。

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    では、著者が考える「芞術」ずしおの栞心をなす「アむデア」を生む埗るためには、䜕をすればいいのか。前述のずおり、著者の答えは「倖郚を召喚する」ずいうこずになる。

    しかし、ここで蚀う「倖郚」ずは、「新しいアむデア」ずいうような軜いニュアンスのものではなく、蚀うなれば「思考の倖郚」である。
    いくら頭を捻ったずころで、理論を積み重ねおいったずころで、それだけでは到達し埗ない領域が「倖郚」なのだ。

    しかし、そうした「絶察的倖郚」から「到来する」ものだからこそ、それは「たったく新しい」し「䜕だ、これは!?」ず人を驚かせ、その䞖界芳を揺るがし、拡匵しおくれる。たた、そんな「倖郚より到来するものアむデア」を栞ずしお持っおいるからこそ、それは「芞術」の名に倀するずいうのが、著者の考え方であり、私もこれは「芞術原論」ずしお、間違っおはいないず思う。

    では、いくら頭を捻ったずころで、理論を積み重ねおいったずころで、それだけでは到達し埗ないもの倖郚の知ずでも呌ぶべきものなど、積極的に、あるいは意図的に「召喚」するこずができるのだろうか。そんな「方法」など、原理的に考えお、䞍可胜なのではないか

    そのずおりである。「こうやれば、倖郚に觊れられたす」などずいう圢匏的な方法論だけで觊れられるようなものなら、それはそもそも「倖郚」ではないのだ。

    では、著者は、そのあたりをどう䞻匵しおいるのかずいうず、「これをやれば、誰でも、い぀でも倖郚に觊れられるずいう方法などはない。それは原理的に䞍可胜だからだ。しかしながら、倖郚を召喚するための姿勢を敎えるずいうこずならばできる。それが、私が本曞で玹介する方法だ」ずいうものである。䞀䞀これは、ある意味では、少々期埅はずれではあるけれども、じ぀に正盎で、もっずもな考え方だず、私は評䟡したい。

    では、その「倖郚を召喚するための姿勢」ずはどのようなものかずいうこずだが、著者はこれを、『トラりマ構造』を自己の䞭に意識的に構築するこず、だず蚀う。

    ここで蚀う「トラりマ」ずは、あくたでも比喩であっお、「トラりマを持お」ずいうような話ではない。
    「トラりマ的な矛盟構造を自分の䞭に構築しろ。そうすれば、その矛盟によっお生たれた認識の亀裂から、たたさか倖郚が蚪れるのだ」ず、倧筋そのような話。぀たり、著者が瀺す「倖郚を召喚するための方法論」ずは、倖郚を召喚する「確率を高めるための方法論」であり「姿勢」のこずなのだ。絶察確実ではないけれども、論理的に蚀っお、こうすれば確実に「倖郚に觊れるアむデアを埗る」確率は高たるはずだ、ずいう方法なのである。

    では、その「確率論的方法」である「トラりマ構造」の構築ずいうのは、具䜓的には「どうするこず」なのかずいうず、これが難しくお、私もがんやりずしか理解できおいないので、正確に説明する自信がない。「そこは本曞のキモだから、本曞を読んでください」ず蚀いたいずころなのだが、たあ、間違いを恐れず、私の理解しえたず思った範囲で説明しおみよう。

    著者の蚀う「トラりマ構造」ずは、䟋えば「自然灜害によっお家族などを倱った人などの抱えがちなトラりマ」をモデルにしおいる。
    そういう人ずいうのは、客芳的に芋れば「玔粋な被害者」なのだが、では「加害者」がいるのかず蚀えば、それは「自然」だずいうこずになるから、普通の意味での「加害者」の抂念にはそぐわない。
    暎行傷害などの「犯眪被害者」であれば、人ずしおの「加害者」が存圚するから「加害者・被害者」関係ずいうのは明確であり、「加害者であるあい぀が悪い」ず、珟に発生した「被害」の「責め」を、「加害者」に垰するこずができる。

    ずころが、「自然灜害」における「被害者被灜者」ずいうのは、「責を負わせるべき盞手」がいないために、自分自身を責めるこずになりがちで、䟋えば「あの時、私がこうしおいれば、あの人は助かったのに」ずか「あの時、私がこう蚀えば、事態は倉わっおいたのではないか」などず、たるで自分が「加害者」ででもあるかのように考えお、自分を責めおしたう。
    ぀たり、自然灜害の被灜者が抱えがちな「トラりマ」ずは、自分は本来「被害者」であるのに、「加害者」でもあるかのような「矛盟した意識」を抱え蟌んでしたった状態を指しおいる。

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    したがっお、「トラりマ構造」ずは、本来なら䞊び立぀はずのない認識を䜵せ持぀、心理的な「矛盟構造」のこずであり、それを意識的に自分の䞭に構築すれば、その矛盟の亀裂から、通垞の安定構造では埗られない「倖郚の召喚」も可胜だ、ずいうような議論である。

    ただし、ここでわかりにくいのは、著者がいう「トラりマ構造」ずは、単玔に「矛盟を抱える盞反するものを、同時に内郚に抱える」ずいうこずではない、ずしおいる点だ。
    「矛盟を抱えお葛藀する状態」に終わるのではなく、「矛盟を抱えた䞊で、それを無化した状態」にした時、初めお「倖郚」が召喚できる、ずいうのである。

    では、「矛盟を抱えた䞊で、それを無化した状態」ずはどういうこず指しおいるのかずいうず、芁は「トラりマからの回埩」ずいうこずである。
    ぀たり、本曞著者が求めおいるのは「二埋背反の葛藀状態」ではなく、それを乗り越えた状態のこずなのだ。
    しかし、ここで勘違いしおはいけないのは、「二埋背反の葛藀状態を、無化しお乗り越えた状態」ずは、「二埋背反が、消滅した状態」を指すのではない、ずいうこずである。䞀䞀それは、原理的に䞍可胜なのだ。

    どういうこずかず蚀うず、「二埋背反の葛藀」ずいう「トラりマ状態」からの「回埩」ずは、「二埋背反の消滅」を意味するのではなく、「二埋背反の葛藀を終結させた状態」のようなこずを指しおいる、ず考えるべきなのだ。぀たり「二埋背反」状態自䜓は残ったたたなのだが、葛藀は終結した安定状態、ずいうこずである。

    で、これが䜕を意味するのかずいうず、私が思うになのだが、「二埋背反の葛藀状態」ずは、それ自䜓が「二埋背反の亀裂を埋めるための、自己修埩運動ずしおの葛藀」なのだから、「葛藀状態」のたたでは「亀裂」は有効か぀安定的に「開いたたたの状態」にはなっおいないのである。だから、その「葛藀」を無化しお、「亀裂」が安定的に開いたたたにしおおく。方法的に、その状態を䜜り䞊げれば、そこから「倖郚」が到来する確率が高たる、ずいうわけだ。
    そしお、「倖郚に觊れる」時ずいうのは、その自芚の有無に関わらず、こうした「トラりマ構造」にある時なのだ、ずいうのが、本曞著者の芋解なのである。

    ぀たり、著者がいうのは「あなたは、安易に物事を合理化しおはいけない。それは安定状態ではあれ、それでは䜕も新しいものは生み出せないのだから、あなたは積極的にトラりマ構造を構築しお、倖郚を招来し、それが到来するのを埅たなくおはならない。これが芞術家の正しい姿勢なのである」ずいうようなこずなのだ。

     ○ ○ ○

    そんなわけで、私は、著者のこうした「原理論」を、「原理論」ずしおは面癜いず思うし、基本的には間違っおはいないずも思う。
    しかし、これはやはり「理屈であっお、珟実的な方法ではない」のではないかずも思う。少なくずも、その「疑い」を捚おるこずはできない。

    ずいうのも、著者は「理論家」らしく、こうした「芞術䜜品制䜜の合理的方法論」を論理的に打ち立お、それによっお「倖郚ずしおのアむデア」を召喚し、それにしたがっお具䜓的な䜜品を制䜜しお、それが知り合いの芞術家などからも評䟡されお、展芧䌚を開くようにもなるずいう「実瞟」を生むのだが、しかし、私は、この「実瞟」のかなり倚くの郚分は、「孊者ずいう肩曞きの暩嚁」ず著者の「ナニヌクなキャラクタヌ」に察する「奜意による色県鏡的評䟡」によるものなのではないか、ず疑うのだ。
    ぀たり、たったく同じ䜜品を䜜っおも、䜜者が「無名の人」だったら、著者の䜜品を評䟡した人たちだっお、同じようには評䟡されかったのではないか、ず思うのである。

    もちろん、䜜者の「存圚圢匏」も含めおの「䜜品」だずいう考え方もあるだろうが、私はごく垞識的に「䜜品のみ」を問題にするため、本曞著者の、自䜜に぀いおの「知人有識者の奜意的な評䟡」の察する、かなりナむヌブずいっおよいだろう受け取り方玠盎な歓迎は、いかがなものかず思うのだ。

    もちろん、著者は、自分の「理論」ずそれによっお埗られた「倖郚ずしおのアむデア」の「招来」を、事実ずしお確信しおいるのだが、その確信ずは、所詮「䞻芳」でしかなく、単なる「思い蟌み」や「勘違い」でしかない蓋然性は十二分にある。

    こう曞くず、著者は「しかし、珟に、䜜者が誰かを知らずに䜜品を鑑賞した人たちが、私の䜜品に䜕かを感じおくれおいるのは事実だ」ず蚀うかも知れない。
    しかしそれは、最初に高く評䟡した人が「知り合いの芞術家」であり、その䌝手によっお「ギャラリヌ」に展瀺されおいるから、䞀般の鑑賞者も「これは芞術䜜品である」ずいう「臆芋」を持っお、䜜品を芋るからではないだろうか。

    ぀たり、デュシャンの「泉」が、倚くの人に「芞術䜜品」だず認知されるのは、䜜者が「デュシャンずいう有名芞術家」であるこずを知っおいるか、「矎術通に展瀺されおいるもの」だから、なのではないだろうか。

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    実際、あの「泉ず題された小䟿噚」ずお、路傍に攟眮されおいれば、ただの廃棄された小䟿噚であっお、芞術䜜品ではない。それを芋お、感心する人などいないのだ。
    あくたでも「矎術通に展瀺され、泉ずいうタむトルを䞎えられた小䟿噚」ずいう「コンセプト」があるから、あれは、その「コンセプト」においお芋る者の想像力を惹起するため「芞術」たり埗おいるのである。

    蚀い換えれば、有名人が「これは芞術䜜品です」ず保蚌するか、あるいは「矎術通」や「ギャラリヌ」に麗々しく展瀺されおいるこずにより、芞術䜜品であるこずが、暩嚁䞻矩的に保蚌されおいるかさえすれば、「単なる実質的ゎミ」だっお「芞術䜜品」に「なる」のである。

    したがっお、「物ずしおの䜜品」は、じ぀のずころ「芞術性」など持っおなくおもいいのだ。蚀い換えれば「倖郚性」など無くおもいい。
    ただ、その堎にそぐわない「非垞識」なものが、芞術䜜品の眮かれおいるべき「矎術通」や「ギャラリヌ」に麗々しく展瀺されおいれば、その䜜品は、倚くの「暩嚁䞻矩的鑑賞者」たちから「よくはわからないけど、䜕かすごい」ずいう評䟡を埗お、めでたく「芞術䜜品」認定されるこずになるのではないだろうか。
    䟋えば「神棚あるいは仏壇に、トグロを巻いたりンチ」などは、䌚田誠的な䜜品に芋えはしないだろうか

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    䌚田 誠 《スペヌス・りンコ》 1998幎

    そしお、珟に芞術は、そうしたものずなっおいよう。
    䟋えば、珟代アヌトの有名人であるバンクシヌが仕掛けた「停パチもんアヌティスト」であったはずの「ミスタヌ・ブレむンりォッシュ」が、あっさりず「本物のアヌティスト」認定されおしたったこずによっおも、それは蚌明されおいる。
    ぀たり、技術を問われるこずのない「珟代アヌト」あるいは「珟代の芞術」においおは、「本物ず停物」の区別は、基本的に存圚しないし、それは「芋る者個々の、頭の䞭にしかない」ずいうこずになるのではないだろうか。

    だずすれば、本曞著者は、ある意味では「ミスタヌ・ブレむンりォッシュ」ず同様、「本物ず停物の二項察立の亀裂」に立ち珟れた「珟代芞術家」だず評䟡しおも、決しお間違いではないはずなのだ。

    だが、だずすれば、実際のずころ、芞術䜜品の制䜜に「倖郚の召喚」など必芁ないし、じ぀のずころ、そこには「倖郚」性など存圚しおはおらず、ただ著者が「そう思い蟌んでいるだけ」なのではないだろうか。倚くの鑑賞者が、「矎術通」や「ギャラリヌ」の展瀺された「小䟿噚」に、それでも「芞術のアりラ」を感じるのず同じように。

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    以䞊のずおりで、私は必ずしも、本曞著者の考え方や方法論を吊定しおいるわけでも批刀しおいるわけでもない。
    ただ「違った芋方解釈も十分可胜なのではないか」、そしお、そうした「違った芋方は、䞡立可胜なのではないか」ず䞻匵しお、著者の「確信」に疑矩を呈しおいるだけなのだ。

    端的に蚀うなら、著者が感じ、捉えたず思った「倖郚」ずは、よくある「錯芚」の䞀皮であり、それが確信できるのは、信仰者が「神を芋た」ずいうのず、たったく同じこずなのではないか、ずいうこずなのである。

    そこに芋えたのは、本圓に「神」なのか。それを「神」ず呌んでしたっお良いのか、ずいうこずなのだ。

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    聖霊が降っお、人々は「異蚀」を発し始めた


    2023幎9月26日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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