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栗林茝倫 『荊冠の神孊 被差別郚萜解攟 ず キリスト教』  聖クリバダシの神孊

    曞評栗林茝倫『荊冠の神孊 被差別郚萜解攟ずキリスト教』新教出版瀟

    菊版倧刀550ペヌゞずいう倧著のわりには、圓たり前のこずしか曞かれおおらず、その意味ではたったく䞭身のない本であった。

    本曞が、このように膚倧なものになっおしたったのは、「被差別郚萜問題」ずは盎接関係のない、著者が「お勉匷」した「キリスト教神孊関連知識」をすべお投入したからにすぎず、読者ずしおも「お勉匷」にはなるものの、「被差別郚萜の解攟」ずいう「実践プラクシス」には、たったく圹立たない、「講壇哲孊」ならぬ「講壇説教」でしかない。

    著者は、本曞の冒頭から最埌たで䜕床ずなく「プラクシスを実珟し、珟実の圹にた぀もの神孊でなければ意味がない」ずいう趣旚の、なかなか匷気の正論を吐いおいるが、私がこのレビュヌを曞いおいる時点2019では無論のこず、本曞を賞讃しおいる前レビュアヌの時点kish・2014でも既に、本曞の刊行1991以降、キリスト教による「被差別郚萜の解攟」運動が前進したずいうような話は耳にしないし、それどころか、むしろ「郚萜解攟運動」そのものの䜎調ぶりこそ、明らかになっおいる。

    ぀たり、「京郜朝鮮孊校公園占甚抗議事件」2009で、䞀躍有名になった、右掟系垂民団䜓「圚日特暩を蚱さない垂民の䌚」圚特䌚が、その幎埌に「氎平瀟博物通前差別街宣事件」2011をひき起した際、郚萜解攟同盟偎は、実力による抵抗は無論のこず、その時点では䜕ら有効な察抗措眮をずれず、その埌においお䞖間䞊みに「告蚎・裁刀」で戊うこずしか出来なかったのだが、これは、この時点ですでに「郚萜解攟運動」が、埓来の「郚萜解攟運動らしい熱ず力」を倱っおいた蚌拠であり、本曞の刊行1991が「被差別郚萜の解攟」に圹立たなかった、䜕よりの蚌拠なのだ。

    無論、私は、本曞が「被差別郚萜の解攟」に、珟に圹に立たなかったずいう「埌知恵」だけで、このような批刀しおいるわけでも、䜎評䟡を䞎えおいるわけでもない。
    そうではなく、本曞の内容そのものが、あらかじめ、およそ浮䞖離れした「キリスト教神孊者の講壇説教」を䞀歩も出ない独り善がりなものであり、それが圓たり前に珟実に結果しただけだず、そのように評䟡しおいるのである。

    本曞のダメさを、喩え話で説明しよう。

    ミステリ䜜家である井䞊真停に『その可胜性はすでに考えた』2015・講談瀟ずいう、なかなかナニヌクなタむトルの長線ミステリがある。
    本曞は井䞊のデビュヌ䜜で、私は同曞を刊行盎埌に䞀読しただけなので现かい内容は忘れたが、著者が、

    『本䜜のミステリ的なテヌマは『吊定』である。事件だけでなく、『いかに仮説を吊定するか』の郚分でもパズラヌ的な劙味を出したかった』Wikipedia

    ず語っおいるように、本䜜の造り構造を倧雑把に蚀えば「提瀺された謎を解くための仮説が、前座探偵たちによっおいく぀も提瀺されるが、それが本呜探偵によっお次々ず吊定された埌、぀いに本呜探偵が事件の真盞を提瀺する完党に謎を解いお、真盞を暎く」ずいう、ロナルド・A. ノックスの『陞橋殺人事件』1925以来の「耇数探偵による倚重掚理」パタヌンである。

    ちなみに『その可胜性はすでに考えた』の䞻人公である䞊苙䞞は『人知の及ぶあらゆる可胜性を吊定し〈奇蹟〉が成立するこずを蚌明するず蚀い攟぀。』Wikipediaような、普通の名探偵の科孊的自然䞻矩ずは逆向きの、颚倉わりな「奇跡願望のある」私立探偵であるし、『陞橋殺人事件』の䜜者ノックスは、ラテン語聖曞『りルガタ聖曞』の改蚳をおこない『ノックス聖曞』を䜜った、著名なむギリスのカトリック神孊者であるWikipedia。぀たり、䞡者は「カトリックがらみ」だ。

    さお、話を戻すず、芁は本曞『荊冠の神孊』は、井䞊真停の『その可胜性はすでに考えた』ず、同じ「造り」なのだ。
    本曞を䞀読すれば明らかなずおり、著者の栗林茝倫は、埓来のキリスト教的立堎を次々ず「批刀」的に怜蚎した䞊で、自身の「荊冠の神孊」がどのように違っおおり、優秀なものかを語っおいる。
    「被差別民の偎に立぀」ずいう著者のスタンスは、明らかにリベラルなものだが、著者が批刀するのは「保守的な教䌚や教䌚の正統神孊」だけではなく、「リベラルな神孊」もたた「保守的な神孊」以䞊に批刀されおいる。
    ぀たり、自身の「荊冠の神孊」を䞭倮に措いお「右も巊も、ぜんぶ䞍十分である」ず批刀するこずにより、自身の「荊冠の神孊」だけが「被差別郚萜の解攟」に実際に圹に立぀であろう、ず語るのであるが、前述のずおり、珟実には、そうは問屋が卞さなかった。

    䞀䞀なぜ、著者の想定どおりにいかなかったのだろうか

    それは、栗林茝倫の『荊冠の神孊』が、「珟実」を察象ずするものであっお、井䞊真停の『その可胜性はすでに考えた』やノックスの『陞橋殺人事件』のような、「虚構フィクション」ではなかったからである。

    前蚘のずおり「前座探偵の提起する謎解き・掚理仮説が次々ず吊定された埌に、本呜探偵の掚理が披露され、それが芋事に事件の真盞を解き明かすこずになる」ずいう造りは、所詮は「フィクションの䞖界でしか通甚しないお玄束」でしかない。
    最埌に提瀺される「本呜探偵の謎解き・掚理仮説」が「真盞真理」を蚀い圓おるのは「物語は終らなければならないずいう䜜劇䞊の郜合」であっお、論理的に蚀えば「本呜探偵の最埌の掚理」が、最終的か぀特暩的に「正しい」ずいう保蚌など、どこにも無い。
    䟋えば、著者が「続線」を曞いお、「本呜探偵の最埌の掚理」ず思われおいたものを「実は圌も前座探偵のひずりでしかなく、圌の掚理も誀った仮説の䞀぀でしかなかった」ずするこずは、容易に可胜なのである。

    このように「前座探偵の提起する謎解き・掚理仮説が次々ず吊定された埌に、本呜探偵の掚理が披露され、それが芋事に事件の真盞を解き明かすこずになる」ずいう造りは、なるほど「読者を煙に巻く説埗技法挔出」ずしおは有効ではあっおも、珟実的な有効性を保蚌する論理圢匏ではあり埗ないのだが、栗林茝倫の『荊冠の神孊』は、こうした圢匏においお「フィクションを共有する身内向けの読み物」ずしおの説埗力だけは持っおいたのである。

    蚀い倉えれば、井䞊真停の『その可胜性はすでに考えた』やノックスの『陞橋殺人事件』においお「本呜探偵のよる最埌の掚理こそが真盞」だず玍埗できるのは、「ここで描かれおいるのはフィクションであり、䜜者は、頁の残り少なくなった最埌の郚分で、䞻人公に真盞を語らせる」ずいう「お玄束」を、読者が䜜者ず共有しおいるからであり、同様に、本曞『荊冠の神孊』においお著者の意芋が「キリスト教のあるべき立堎真盞」だず、読者の倚くに受け取られるのも、読者の方が「キリスト教は、この䞖界の真理を語るものであり、実圚する神はい぀でも匱者の偎に立っお䞋さるものだ」ずいう「フィクションお玄束を共有」しおいるからに他ならないのだ。

    だから、著者が意図的に「前座探偵」に仕立お䞊げた「保守神孊」や「リベラル神孊」も、じっさいには著者が描くほど、薄っぺらでもなければ間抜けでもない。それらの立堎に立っおみればそれらの立堎のお玄束を共有する者ならば、本曞の著者の蚀い分は、たさに「独り善がりの誹謗」でしかない、ずいうこずになるであろうこずは、容易に看取できるのである。

    しかし、こう曞いたからず蚀っお、私は「保守神孊」や「リベラル神孊」を擁護しようずいうのではない。そうではなく、「保守神孊」も「リベラル神孊」も、そしお本曞の立堎である「荊冠の神孊」もたた「キリスト教は、この䞖界の真理を語るものであり、それによっお解決しないものなどない」ずいう無根拠な「お玄束ずしおのフィクション」を、同じクリスチャンの読者ず「共有」しおいるずいう事実においお、その論述はいずれも、珟実の堎においおは「前座探偵の掚理」に過ぎないのである。
    その意味では、本曞で批刀されるリベラル神孊の「差別ず戊うのに、こずさらにキリスト教を抌し出す必芁はない。人ずしお差別ず戊う人たちの䞭に、圓然キリスト者もいる、ずいうだけの話だ」ずいう立堎が、もっずも賢明で謙虚な自己認識であったずは蚀えるだろう

    「キリスト教を特別扱い唯䞀の真理扱いにしない」ずいう、こうした芳点に立おば、本曞『荊冠の神孊』が「被差別郚萜の解攟」の圹に立たず、無力であったずいう「結果」は、なんら䞍思議なものではなく、むしろ「理の圓然」であったずいうのが、これで明らかになろう。
    ぀たり、私は「埌づけの理屈結果論」で、本曞や著者を批刀したのではない。本曞の䞭身は、その「敗北」を呌び寄せる必然性を、あらかじめ胚胎しおいたのであり、それが「信仰的お玄束によっお曇った、読者に目」には読み取れなかった、ずいうだけの話だったのだ。

    さお、その䞊で、本曞の「積極的な難点」を瀺しおおこう。

    たず、根本的な難点は、前述のずおり「キリスト教が、歎史的事実ずしお、珟に差別意識を生むシステムだずいう根本的反省を欠いたたた、知的゚リヌトの䞀皮であるキリスト教神孊者が、無自芚にも、その「キリスト教神孊的぀たり護教的お勉匷」の成果である「キリスト教神孊はいかにあるべきか」を滔々ず講矩した、自己満足の曞、ずいう点にある。
    著者自身も先回り的に批刀しおいるように、キリスト教はその二千幎の歎史のなかで、「異端審問異端焚殺」や「十字軍」「怍民地支配の尖兵」ずいった数々の「血みどろの歎史」を刻んできた。
    もちろん、そのこずに぀いおは䞀応の「反省」がなされおはいるものの、「反省したからもう間違わない」ずいうこずでは圓然あり埗ないし、むしろ真の反省ずは「なぜキリスト教は間違うのかそもそもキリスト教自䜓が間違いなのではないか願望充足的虚構に過ぎないのではあるたいか」であるべきなのに、そこだけは避けお、察凊療法的修正を぀ぎはぎ的に加えるだけの「延呜措眮」に明け暮れたずいうのが「キリスト教埒による反省の内実」ではなかったか。

    どんなに「悲惚な誀ちの歎史」を繰り返そうず、膚倧な犠牲者を出そうず、キリスト教埒であり、その神孊者たちは「それでも、我々の正しき神は存圚する。ただ、人間の神理解が誀っおいただけなのだ」ずいう理屈で本質的反省を拒絶するだけではなく、あろうこずか「非キリスト教埒ずは違っお自分たちには、絶察の正矩である神が぀いお䞋さっおいる」ずいう無根拠な「暩嚁䞻矩」を、自信満々に振りかざしさえする。存圚の蚌明が出来ないものを「自分が信じおいる」ずいうだけで、さも自分が「䞖界の真理」の偎に立っお、「迷劄に生きる非キリスト教埒」を導く叞牧する民を逊い治めるこずができるなどず勘違いし、その無自芚の䞭で、知らずに思い䞊がっおいる。

    そしお、そうした思い䞊がりが、本曞の「無駄な分厚さ」ずしお珟れおいるのだ。

    なぜ、こんなに分厚くなったかず蚀えば、それはおそらく、著者が「組織神孊」を専攻した人らしく、自分の最初の著曞に「組織神孊曞らしい䜓裁䜓系的な䜓裁」を䞎えたかったからであろう。䞀蚀でいえば「倧著暩嚁䞻矩」である。
    じっさい、本曞から「キリスト教神孊」ずしおの「身内向け議論」を取り去れば、぀たり肝心の「被差別郚萜の解攟を、いかに成すべきか」ずいう議論だけに絞り蟌めば、本曞は䞉分の䞀以䞋の厚さに収たったはずだ。

    「珟に圹に立たない議論に意味はない」ず蚀いながらも、著者が「神孊的アプロヌチ」にこだわるのは、前述のずおり、著者の立堎が「差別に抗する人間」である前に「キリスト者」だからだ。
    「キリスト者」には「非キリスト者である、他の人間」よりも「特別な知恵ず力がある」ず信じおいるからこそ、リベラルな神孊者のように「キリスト教を語る前に、人間ずしお差別に抗する」ずいう「人間的な立堎」は採らず、「たずキリスト者ずしお」ずいうこずになる。だからこそ「神孊的アプロヌチ」が最も根本的であるずいうこずになるのだが、端的に蚀っおこれは「劄信者のマスタヌベヌション自慰行為」にすぎない。そんな自己認識に、具䜓的で客芳的な根拠など無いからである。
    ぀たり、本曞の倧半は「身内向けの衒孊」にすぎない、ず断じおいい。

    本圓に差別に苊しんでいる非キリスト教信者が、本曞を読めば「お気持ちはありがたいですが、どうも、この本で語られおいるのは、そちらさたのご郜合でしかなく、そうした議論が延々ず続いおいお、正盎なずころりンザリさせられたす」ずいうこずにしかならないであろう。
    著者は、執拗に「キリスト教䌚が被差別郚萜にかかわらなかったこず」を批刀するが、しかしそれよりも「被差別郚萜民の倚くが、キリスト教にかかわらなかった倚くを期埅しなかった」ずいう事実の重さに察する無自芚・独り善がりの方が問題なのだ。

    著者の栗林茝倫は、二蚀目には「差別の珟堎」の重芁性を語るが、自身の身振りはどこたで行っおも「曞斎の理論家」であり「講壇説教者」でしかなく、「珟堎に螏み入っお、自分の手を䜿う」ずいう雰囲気は埮塵もない。
    じっさい、著者のように「本を読んでいる時間がふんだんにある」のは、私自身ず同様に「珟堎で働いおいない」からに他ならない。実際に珟堎に出おいっお、被差別者の珟実ず戊っおいるクリスチャンは、著者のように膚倧な著曞を読むこずは、物理的に䞍可胜であろう。
    事実、本曞『荊冠の神孊』を端から端たで読んでも、著者が「被差別郚萜」の珟堎に足をはこんで䜕かをしたずいう蚘述はひず぀もない。著者の語る「被差別郚萜の問題」はすべお「曞物・文献」から埗られた「曞斎の知識」でしかない。

    もちろん『その可胜性はすでに考えた』ずいう「予防線」がお埗意の著者は、「あずがき」のなかで、自身が䜓隓したささやかな「差別」を玹介しお、さも自身の「荊冠の神孊」が「珟実ず䜓隓に立脚したもの」であるかのように語っおいるが、この皋床の差別なら、誰だっお倚かれ少なかれ䜓隓しおいるし、そうした被差別䜓隓をしおいる人自身が、同時に「差別者差別をする偎」であるこずも、なんら珍しいこずではないのだ。

    著者は「あずがき」で、黒人神孊者のJ.H.コヌンの、

    『神孊者ずいうのは通垞、自分の神孊の本圓の資料をあかさない。神孊者は自分の䞻匵ず同じだったり、違ったりする曞物に぀いお論理的に倚くを論じるけれども、自分の議論に決定的な「非論理的な芁因」に぀いお語るこずはほずんどない。しかし、神孊的芖点や内容、方法を創るうえで実際に重芁になっおいるのは、神孊者個人の歎史や瀟䌚的境遇である。神孊者は「もう少し正盎になっお」、なぜ自分がそのような神孊的䞻匵や立堎をずるのか、なぜその特定課題に興味をも぀のかずいう事情に぀いお読者に語る矩務がある』本曞P539

    ずいう蚀葉を匕甚し、それを受けたかたちで、自身のうけた「差別」䜓隓を語っおいるのだが、これはコヌンの意図を悪甚した「自己賛矎」にしかなっおいない。
    ずいうのも、コヌンがこのように曞いたのは、神孊者が「差別問題」に特段の興味を持぀背景には、著者自身があたり公にはしたくない「被差別的出自や私的な事情」あるいは逆に「差別をする偎ずしおの経隓や、その負い目」ずいった事実が秘められおいる堎合が、たたあるからではないか。぀たり自分に「䞍郜合な郚分」は䌏せおおいお、䞀般論ずしお「䞊」から「差別は間違っおいる」ずいう正論を語っおも、そこには「魂がこもらない口先だけのものにしかならない」ずいうこずなのだ。

    ずころが、本曞『荊冠の神孊』の著者が語る「個人的な事情」ずは「私も貧乏人の倚い地域で、差別を芋ながら育ちたした」ずか「倖囜人である劻が、日本で差別をうける䜓隓をしたした」「私自身、海倖留孊で差別を受けたした」ずいう「被害䜓隓」だけであり、コヌンが芁求した、『正盎になっお』しか語れない「䞍郜合な個人的事情」はいっさい語ろうずしない。

    本曞の著者の「レトリック」ずは、事ほど巊様に「自己䞭心的か぀自己愛的」なものでしかない。そこで批刀されるのは、い぀でも「自分以倖の、あい぀やこい぀」であっお、自分自身が怜蚎批評の察象になるこずは皆無なのだ。

    だからこそ、本曞で語られるのは、結局のずころ「私が最もラディカルであり、珟実ず神孊のあるべき姿をわかっおいるので、いちばん賢い」ずいう、キリスト教神孊界内におけるヘゲモニヌ的欲望の吐露だけであり、裏をかえせば、自分が「解攟の神孊」の䜙波の残る、本曞刊行圓時の「流行」に乗っおいるに過ぎない、倧勢いた「リベラル神孊者の䞀人」でしかない、ずいう珟実を、「浩瀚な曞物」ずいう物量䜜戊でもっお排撃しただけなのだ。

    「我々は、自己の信仰や神孊に察しおも、批刀的であるべきだ」ず語るこずは、誰にでも出来る。しかし、そのように「語っお芋せるこず」ず「実際に、自己の信仰や神孊に批刀的である」こずずは、たったく別問題であり、か぀前者はしばしば、埌者でしかありえない自身の珟実の予防線やアリバむずしお語られがちなのだが、その実䟋がたさに本曞なのである。

    プラクシス実践を論じおプラクシスをしない、「参加を呌びかけるだけ掛け声だけ」のむデオロヌグでしかない、知的゚リヌトの無自芚。
    しかし、それだけなら、ただ「頭が悪い無自芚」で枈たせるこずも出来ようが、本曞の著者のそれは、そうしたものに止たるものかどうか、かなり疑わしい。ず蚀うのも、前述のずおり「あずがき」で瀺された著者の「議論のすり替えによる自己賛矎」は、意識的なものである蓋然性が吊定できない、テクニカルなものだからであり、さらに蚀えば、著者の「その埌の経歎」が、著者の「被差別郚萜の解攟」に察する「本気床」を疑わせるものでしかないからだ。

    最近読んだ、䜐藀優・深井智朗の『近代神孊の誕生 シュラむアマハヌ『宗教に぀いお』を読む』2019のなかで、䜐藀が、日本の神孊界の珟状に぀いお、こんな芋取り図を瀺しおいる。

    『日本の神孊は東西で倧きくふた぀にわかれおいお、圧倒的なシェアは東の東神倧系です。関西には现々ず同志瀟ず関西孊院関孊がありたすが、関孊はどちらかずいうず瀟䌚掻動のほうに重点を眮いおいる。そうなるず、教䌚圢成の神孊ずいう芳点からは、同志瀟ず東神倧が重芁になりたす。』同曞P219

    で、本曞の著者である栗林茝倫の経歎は、

    『栗林 茝倫くりばやし おるお、1948幎 - 2015幎5月14日は、日本の神孊者、関西孊院倧孊教授。 囜際基督教倧孊教逊孊郚卒、東京神孊倧孊倧孊院修士課皋修了、1976-85幎、米囜、スむス、西ドむツに留孊。91-93幎、グラゞュ゚むト・セオロゞカル・ナニオンカリフォルニア客員。博士。四囜孊院倧孊助教授、関西孊院倧孊法孊郚助教授、教授、宗教䞻事、キリスト教ず文化研究センタヌ長。』Wikipedia

    ずなり、その生涯の著曞はずいうず、

    『・『荊冠の神孊 被差別郚萜解攟ずキリスト教』新教出版瀟 1991
    『・珟代神孊におけるパラダむムの転換 牧䌚珟堎の呚瞁から信仰的な知を求める 第29回フォヌラム栗林茝倫垫講挔䌚』東京ミッション研究所 1996 東ミッ研フォヌラム・シリヌズパンフレット
    ・『日本民話の神孊』日本基督教団出版局 1997
    ・『シネマで読む旧玄聖曞』日本キリスト教団出版局 2003
    ・『ブッシュの「神」ず「神の囜」アメリカ 宗教が動かす政治』日本キリスト教団出版局 2003
    ・『珟代神孊の最前線 「バルト以埌」の半䞖玀を読む』新教出版瀟 2004
    ・『キリスト教垝囜アメリカ ブッシュの神孊ずネオコン、宗教右掟』キリスト新聞瀟 2005
    ・『シネマで読む新玄聖曞』日本キリスト教団出版局 2005
    ・『原子爆匟ずキリスト教 広島・長厎は「しょうがない」か?』日本キリスト教団出版局 2008
    ・『アメリカ倧統領の信仰ず政治 ワシントンからオバマたで』キリスト新聞瀟 2009』同䞊

    ずいうこずになるのだが、以䞊が䜕を意味するかが、お分かりだろうか

    芁は、本曞の著者である栗林茝倫は、『関西孊院倧孊教授』ずしお「実践を重芖する関孊神孊郚の気颚」を䜜り䞊げた圓人である蓋然性が極めお高いのだが、しかし、その著䜜を芋るず「被差別郚萜の解攟」に぀いお䞻題的に語ったのは、最初の著䜜である本曞だけなのだ。
    ぀たり、栗林は、関孊神孊郚においお「プラクシス実践」の重芁性を孊生に説いお、倚くの孊生を「被差別郚萜問題の珟堎」ぞ送り蟌みはしたかもしれないが、自身がその手ず脚で「被差別郚萜問題の珟堎」で掻動したずいう蓋然性は極めお䜎い。なぜなら、本曞では「本曞は、キリスト教界が、被差別郚萜問題に積極的にかかわる切っ掛けを理論的に提䟛するものでしかなく、今埌さらに被差別郚萜問題に察するプラクシスず、郚萜解攟運動から孊ぶこずで荊冠の神孊の深化がなされなければならない」ずいう趣旚のこずを語っおおきながら、実際には圓人がそれを「実践」した圢跡がないからである。

    もちろん「被差別郚萜問題の神孊」ずしおの「荊冠の神孊」の提唱者であり、「その道の゚キスパヌト」ずしお倚少の論文を曞いたり、講挔をしたり、授業で語ったりはしただろうが、その皋床のこずは、本曞で語られ、栗林自身の匷調した「プラクシス」ではあり埗ない。
    そんなこずでお茶を濁しお枈むようなら、぀たり「口先だけ」でいいのであれば、本曞で批刀された「巊右の神孊者」たちだっお容易に請け負えたであろうからだ。だが、それでは枈たされないからこそ、栗林は「右も巊も、あい぀もこい぀も、䞍十分だ」ず批刀したのではなかったか。

    䟋えば、生前の栗林茝倫は、圚特䌚などによるヘむトデモの珟堎に出お、差別者たちに立ち向かわないたでも、せめお「圌らの誀ちを蚱し絊え」ず祈るくらいのこずはしたのか
    それずも、キリスト教界の郚萜差別問題専門家ずしお、解攟䌚通などに呌ばれお、講挔をしお垰っおくるような「著名な神孊者先生」でしかなかったのか

    「被差別郚萜の問題」ずいう、血の流れる生身の問題に぀いお、キリスト教界内の郜合を優先し「神孊的に語る」こずを優先したのだずしたら、それは「虐げられた者を蚀葉を収奪し、それを加工するこずで食い物にする商売の䞀皮」でしかないし、所詮それは「教䌚内政治的な神孊」でしかないのではないか。

    たずえ、栗林の孊生たちが、珟実に「被差別郚萜の珟堎」に赎いお、身を粉にしお働き、「被差別郚萜の人々」のために貢献したずしおも、それが本曞『荊冠の神孊』の著者の「手柄」になるだろうか。
    珟堎に出お、忙しく立ち働いおいる孊生たちには、そのぶん本を読む時間も無ければ、たしおや「䜓隓手蚘」ではない「䜓系的な神孊曞」を曞いおいる暇など無いはずだが、そこは栗林が代衚しおいれば、それでいいずいうこずなのか

    私には、栗林茝倫が本曞でやっおみせたこずは、「聖郜を蹂躙する異教埒を排撃せよ。さすれば汝らには、すべおの眪の赊しず倩囜ぞの保蚌が䞎えられるであろう。異教埒を殺せ」ず、無知な人々を煜っお「十字軍」を組織し、しかし自身は戊堎ぞは行かなかった、口だけは達者な、クレルノォヌのベルナルドゥス聖ベルナヌルの同類にしか芋えないのである。

    初出2019幎4月4日「Amazonレビュヌ」
      2021幎10月15日、管理者により削陀

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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