
恋愛小説『硝子のキッチンの、その先で』:第13話(全15話+エピローグ)
第13話 傷跡と向き合う
嵐が過ぎ去ったあとのキッチンは、ひどく静かだった。
佐伯が逮捕され、会社から彼の影が物理的に消えても、帆奈美の体の中に刻まれた「防衛本能」という名の回路は、そう簡単には遮断されなかった。エレベーターで男性と二人きりになれば、いまだに喉の奥がヒリつき、火にかけすぎた鍋の底が焦げ付くように、思考の末端が真っ黒に固まってしまう。
けれど、以前と違うのは、その焦げ付きを「失敗」だと思わなくなったことだ。
「……焦げたなら、その苦みを活かせばいい」
帆奈美は自宅のキッチンで、一人、玉ねぎを炒めていた。
飴色になるまで炒め抜かれた玉ねぎは、甘みの中に、ある種の諦念にも似た深い苦みを宿す。それは今の帆奈美そのものだった。彼女は定期的に専門のカウンセリングを受け、自分が受けた傷を下ごしらえするように、一つひとつ丁寧に、言葉というまな板の上で整理していた。
「工藤さん、あまり無理をしないでくださいね」
週に一度の打ち合わせで会う浅野は、帆奈美の顔色を見てはそう言った。
彼の状況もまた、決して楽なものではなかった。佐伯を捕まえるために独断で動いたこと、そして試作段階でのトラブルが尾を引いたことで、社内での彼の立場は危うくなっていた。父親である社長からは、実質的な更迭に近い左遷の内示が出ているという。
その日の夕方、二人はオフィス街の隅にある、小さな公園のベンチに座っていた。
「浅野さん、私、聞きました。……私のせいで、あなたが責任を取らされるなんて」
「私のせいで、なんて言わないでください。……これは、私が選んだ結果です」
浅野はネクタイを緩め、空を見上げた。
沈みゆく夕日が、彼の横顔を濃い影で縁取る。いつも完璧に整えられていた彼の横顔に、隠しきれない疲労と、そして「孤独」が滲んでいた。
浅野は夕空を見上げたまま、しばらく黙っていた。
「……私の父は」
唐突に、彼は言い出した。
「幼い頃から、食事中に私が話すことを許しませんでした。食卓は報告の場で、会話の場ではなかった。……それが普通だと、ずっと思っていた」
帆奈美は、何も言わなかった。
「だから今でも、誰かと食事をするとき、何を話せばいいのかが分からない」
浅野はそこで口をつぐんだ。自分でも、なぜこんなことを口にしたのか、分からないような顔をしていた。
帆奈美の胸に、静かな痛みが落ちた。
この人が注ぎ込んできた膨大な「正しさ」の、その源を、今初めて見た気がした。
帆奈美の指先が、微かに震えた。
それは恐怖による動悸ではない。
心の奥底、最も深い場所に眠っていた「共感」という名の火種が、パチパチと音を立てて爆ぜるような感覚。
彼女は、思い切って浅野の方へと、ほんの数センチだけ体を引き寄せた。
まだ、触れることはできない。
けれど、二人の間に流れる空気は、氷を解かしたあとの春の川のように、澄んでいて、どこか温かかった。
「……浅野さん。私のスープ、まだ未完成なんです」
帆奈美は前を見据えたまま言った。
「あなたの言う『体温』、それを形にするには、あと一つだけ、隠し味が足りない。それはきっと、あなたと一緒に探さなければ見つからないものだと思うんです」
浅野は驚いたように帆奈美を見た。
帆奈美の瞳には、かつてあった怯えの霧は晴れ、自分自身の人生を煮詰めていく覚悟の光が宿っていた。
「……探しに行きましょう。たとえ、どんなに時間がかかっても」
浅野の低い声が、帆奈美の耳に心地よく響く。
傷跡は消えない。
ふとした瞬間に、あの冷たいバックヤードの感触が蘇る夜もあるだろう。
けれど、その痛みを知っているからこそ、届けられる温もりがある。
帆奈美は深く息を吸い込んだ。
冷たかった肺の粘膜に、春の夕暮れの、少し土の匂いが混じった空気が、柔らかく染み渡っていった。
(第14話につづく)
第14話 新しいレシピ