
恋愛小説『硝子のキッチンの、その先で』:第12話(全15話+エピローグ)
第12話 因果の果て
警察署の取調室の外、廊下にある長椅子に座る帆奈美の視界は、白すぎる蛍光灯の光に射抜かれていた。
深夜の署内は、独特の消毒液の匂いと、絶え間なく鳴る電話の音、そして事務的な足音が混ざり合っている。つい数時間前まで、あの熱を帯びたキッチンで包丁を握っていたことが、遠い前世の記憶のように感じられた。
「工藤さん、お疲れ様でした。……少し、落ち着きましたか」
隣に座った浅野が、温かいお茶の入った紙コップを差し出した。彼のスーツは皺だらけで、警察での事情聴取を終えたばかりの疲労が濃く刻まれている。しかし、その差し出し方は相変わらず慎重で、帆奈美が緊張しないよう、ほんの少し距離を保ったままだ。
「ありがとうございます。……はい、不思議なくらい、静かです」
帆奈美は紙コップを両手で包み込んだ。温かいはずのお茶が、今の彼女には驚くほど熱く感じられる。
取調室の奥では、佐伯が犯行を否認し続けているという。しかし、瀬戸が撮影した鮮明な動画と、帆奈美が「不純物」として指摘し、科学捜査班が特定した安価な業務用洗浄剤の成分が、逃げ場を奪っていた。さらに、佐伯の自宅からは帆奈美を盗撮した大量の写真と、過去の別の女性に対する同様の執着の証拠も見つかった。
彼はもう、二度と帆奈美の日常を汚すことはできない。
社会的にも、法的にも、彼は自分の撒いた毒によって自滅したのだ。
「浅野さん。……浅野さんのお仕事は、大丈夫なんですか」
帆奈美は、ずっと気になっていたことを口にした。彼が吐露した焦燥。経営危機の重圧と、父親からの冷徹な宣告。彼は自分の身を削りながら、帆奈美の「防波堤」になり続けていた。
浅野は自嘲気味に、ふっと短く笑った。
「正直に言えば、崖っぷちです。今回の騒動で発売延期になれば、私は責任を問われ、会社を去ることになるでしょう。……父は、結果がすべての男ですから」
彼は紙コップを見つめたまま、言葉を継いだ。
「でも、不思議ですね。あそこで、あなたの凄まじい執念のこもったスープを見たとき、……私の抱えていた小さな見栄や恐怖が、どうでもよくなった。一人の女性が、八年間の呪いと戦っているのに、私が自分の保身に怯えているのが恥ずかしくなったんです」
浅野が顔を上げ、帆奈美を見た。その瞳は、出会った頃の「完璧なビジネスマン」のものではなく、一人の等身大の男としての、剥き出しの誠実さに満ちていた。
「工藤さん。あなたが守り抜いたあのレシピは、私が必ず世に送り出します。会社を追われることになっても、泥を啜ってでも、あの『命の味』を誰かに届けたい。それが今の私の、新しい仕事です」
その言葉を聞いた瞬間。
帆奈美の中で、八年間、ひび一つ入れさせなかった「硝子のダム」が、静かに決壊した。
「……っ、……あ……」
喉の奥から、言葉にならない塊がせり上がってくる。
指先が震え、紙コップの中のお茶が小さく波打つ。
佐伯に襲われそうになった夜も、その後の孤独な八年間も、彼女は一度も人前で「正しく」泣くことができなかった。泣けば負けだと思っていた。弱さを見せれば、また付け込まれると自分を縛り付けていた。
「……あ、う……あああ……っ」
帆奈美は顔を覆い、子供のように声を上げて泣き崩れた。
悲しいのではない。悔しいのでもない。
ただ、ようやく自分を許せたのだ。
傷ついた自分を、怖がっていた自分を、そして、汚されてもなお「生きたい」と願っていた自分を。
浅野は、彼女の背中に手を置こうとして、また止めた。
けれど、今度はその手を引っ込めなかった。
彼は帆奈美の嗚咽が止まるまで、隣でじっと、動かぬ岩のように座り続けていた。触れなくても伝わってくる、彼の静かな呼吸の熱だけが、帆奈美をこの世界に繋ぎ止めていた。
夜明け前の、青白い光が警察署の入り口に差し込んでくる。
長い、本当に長い夜が終わろうとしていた。
因果の果てに待っていたのは、スカッとするような勝利の美酒ではなかった。
それは、ボロボロになった二人が、泥だらけのまま朝日を見つめるような、静寂と再生の予感だった。
「帰りましょう、工藤さん。……新しいスープの、材料を買いに」
浅野の声に、帆奈美は涙を拭い、小さく、けれど確かに頷いた。
(第13話につづく)
第13話 傷跡と向き合う