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Photo bysakazuki4869

プロ野球選手に勝って小学一年生に負けた日。【初エッセイ】

    私はプロ野球選手に勝ったことがある。
    勝利の瞬間、私の手は金属バットではなく箸を握っていた。場所も東京ドームではなく都内の小学校。校庭ですらない。一年生の教室である。
    そう。物理で勝ったのではない。でも。確かにその日、私はプロ野球選手に勝ったのだ。


    その栄光の舞台はどこの小学校だったか。
    それがどうもぼんやりして思い出せない。

    記憶力の悪い自分のせいが8割。
    でも2割は学校のせいだ。
    学校の教室というのは自分が小学生だった頃からいつでも、日本全国どこでも、何でああもそっくりなんだろう。
    みなさんも思い出してほしい。

    • 黒板のさらに上には日光の三猿のように学校・学年・学級目標が仲よく並ぶ。近くには必ず四角いスピーカー

    • 黒板に向かって右に引き戸のドアと配膳台

    • 黒板に向かって左にテレビと先生の机

    • 左側面の腰から上はぜんぶ窓。それも上下三段(一番上は脚立がないと届かない、基本開かずの窓)

    • カーテンは色付きであっても絶対無地

    • 床は寄木よせぎで正方形になった木製パーツのタテヨコ市松配列(溝は消しゴムのカスのタイムカプセル)

    • 後ろはずらりとロッカー。その上の棚には水槽と学級文庫。夏の自由研究を飾るのもココ

    • 水槽の中身はザリガニや金魚、メダカなど。カイコやハムスターのことも。こいつらと牛乳が混ざった匂いが教室のデフォルト臭

    いくつあなたの思い出の教室と一緒だったろうか。
    まだまだ掲示物や机・椅子……いくらでも書けるが、今日のテーマからどんどん離れていくのでこの辺で話を戻そう。

    ともかく環境から場所の特定は無理。
    となると次は当時の状況だ。
    どんどん学校が窮屈になっていった頃。となると多分最後の3校目かも。
    では以下、そこに仮決めして話を進めよう。


    私は当時、勤続10年目を迎えたくらい。
    都の公立校の図画工作の専科教員だった。
    そう、専科。その名の通り本来なら図画工作科の指導のみが私に与えられた職務である。
    だ が し か し。

    「専科の先生は空き時間が多くて羨ましい(ラクでズルい)」

    担任教員(以下担任。面倒なので教員・先生系呼称は全て省略)から直接、または婉曲的に言われることが年々増えていく。

    「羨ましいならあなたも専科になりまセンカ(なれるもんなら成ってみな)」

    私もこれを直接、または婉曲的に言ってみたが、「本当そうだ!」「ナイスアイディア〜」となることはない。その場は笑顔でも恨まれた分だけ完ぺきなる悪手だった。

    始まりは単なる職員室での雑談だったものが職員会議へと場所が移る。そうなると多勢に無勢。こちら側は音楽と養護しか仲間はいないのだ(学校規模によっては家庭科も)。圧倒的弱者である。
    そうしてコトバはカタチとなる。
    「時間数平等」や「仕事量均等」というクソつまらない横並び主義は、業務の効率化や簡略化に向かわずに、暴力的に仕事をこちらにコブのように押し付けて「平均化」を図ってきた。

    家庭科や書道などの教科。算数少人数指導や水泳指導の補助。はたまた転出入や給食事務などTOPで面倒くさい校務分担など。

    学校や年によってその組み合わせは変わるものの自分にぶら下がるコブの数は年々増えていく一方だった。



    その日、4時間目の授業終了後。
    キリが悪く制作を続けていた子を図工室から追い立てて教室へ帰し、危険なものを最低限ザッと片付けるとランチョンマットだけツナギのポケットに突っ込み、私はコブ仕事の一つ、低学年の給食指導補助へとそこそこ急いで向かっていた。

    担任が休みや出張などで不在の時に臨時で入るのは納得できる。助け合いは大切だ。でも担任がいるのに毎回要る?自分の本来の授業の指導を切り上げてまで。専科は担任のお手伝いさんかよ……まあ、一人ここでグチを言っても仕方ないんだけどさ。
    ええと。先週は2年だったから今週は1年。
    そして今月は私が1組、音楽さんが2組だ。
    ああ、ややこし、ややこし。

    担任がテレビ下の机で日記やらドリルやらに忙しく赤ペンを走らせている。
    私は三猿の下、白衣を着たおサルさん子どもたちの配膳を見守る。
    基本は言わザル。ただ見てるだけ。給食当番の数より配るものが多い時だけ手を出し、よっぽどの時だけ口を出す。爪には落としきれなかったアクリル絵の具が付いていたり粘土が挟まっていることもあるが、子どもたちの手もかなり怪しい。お互いそこは「見ザル」。世はコロナ前。まだまだ大らかな時代だった。

    給食当番さんたちが白衣を脱ぎ出すタイミングで教室をキョロキョロすると、
    「エバン先生、今日はここだよ、私たちの班!」
    と、一つの「島」からお呼びがかかる。
    私は日替わりで「島」を巡る外洋船だ。
    その島に近づけば2つの机を跨いだ「お誕生日席」に、既に私の給食が用意されている。
    お盆が跨ぐ机の高さが同じだと問題ないが、違う場合はお盆は背が高い机の方に8割乗って2割浮いている。ほんの時々ピサの斜塔状態の時もあるが汁物の時はまずない。一年生かしこい。椅子までどこからか持ってきてくれている。一年生やさしい。
    私は座ると近場の子に給食を持ち上げてもらって持参のランチョンマットを素早く敷く。この領有権の主張をしないと自分の牛乳がわからなくなるのだ。

    担任さんも別の島で食べる派と、そのままテレビ下で食べる派があった。数としては同じくらいだっただろうか。

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    日直さんの「いただきます」の号令。
    放送委員の流す音楽やクイズ。
    どこの学校もだいたい一緒のルーティン。

    その日も最初は放送委員が流すクイズをみんなで考えたり、ポケモンの種類をひたすら教えてもらったりと「島」の子たちと普段のたわいない話をしながら箸を動かしていたと思う。

    「エバンせんせいは、どうして図工のせんせいになったの?」
    斜め向かいに座る男の子が、全てをぶっ飛ばしてとつぜん聞いてきた。
    世紀の瞬間へのアイドリング開始である。

    私はコンマ1秒詰まったがニヤリと笑い、
    「だって、毎日図工だけやってればいいんだよ。こんな楽しいお仕事、そりゃあするでしょ〜」
    いつもこの手の質問が来ると返すセリフを、自信たっぷりに言いきった。

    この回答は二つの意味で正しくない。
    一つ。これは図工のセンセイを「今している理由」ではあっても「なった理由」ではないこと。
    そしてもう一つ。決して「図工だけやってればいい」わけではない厳しくもトホホな現実があること。今、まさにその状況だということ。

    正しさだけで世界はできていないのだよ、一年生諸君。そう開き直ることは簡単だ。
    しかしまだまだ若かった私。論をずらし正しくないことを言っている罪悪感がチクリと胸を刺す。
    小魚の小骨か?いやいや、今日の献立はミートソーススパゲッティ。それはない。

    そんな私の後ろ暗い気持ちに反してみんなの目がキラキラしだした。
    君たちがその目で今、見ているもの、わかるよ私。
    月曜日:図工図工 午後も図工
    火曜日:1〜6限まで図工図工
    それが金曜まで続いている時間割表でしょ。

    当時小学生の人気科目は体育と図工が二強だった(給食と休み時間が科目だったら負けていたかもしれない)。今はそこに算数が入ってきているらしい。うわお。

    だめだよ。こんな詐欺師に騙されちゃ。
    待ってるのはタコ部屋かもしれないよ。
    楽しいのは確かだ。でも楽しいだけじゃないよ。
    それに私の「図工のセンセイになった理由」は、そんなキラキラした目の子に語れるものを持たない。行き当たりばったり100%なのだから。

    そんな気まずさを吹き飛ばすべく、その日まだ一度も話していない子に
    「〇〇ちゃんは? 大きくなったら何になるの?」
    と早口で話題を振る。必殺「質問返し」という大人の十八番だ。こうして再び自分のターンにならないよう次々と別の子に聞いていく。まだYou tuberなどという職種のない時代である。サッカー選手やケーキ屋さんが一番人気だった。
    目の前の私に質問した子の番になった。
    その子が少し考えたあと、小さく答えた。

    「……ずこうのせんせい」

    いやあの。なんか、ホントごめん。
    猛烈にすまない気持ちになる。
    ただうっすら喜びが混じったのも確か。

    「そ、そっか〜。じゃあ〇▲くんは将来お仲間だねえ」
    私がニシャニシャした頬で言うと、彼が続けた。

    「……で、なれなかったらプロ野球のせんしゅ」

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    図工の先生になれなかったらプロ野球の選手
    あまりに非日常構文なので、頭の中でリプレイする。

    図工の先生になれなかったらプロ野球の選手
    あまりに詩的ステキ構文なので、またまた再生する。

    図工の先生になれなかったらプロ野球の選手
    あまりに幸せで噛み締めるためもう一度。
    ああ、今すぐ図工仲間に言いふらしたい。

    「そ、そっかあ。図工の先生になれなくても、プロ野球の選手になればいいもんね。どっちも楽しそう。がんばれ〇▲くん」
    私は身体中を震わせながら言った。
    この一瞬だけ横並び教信者の悪行を許した。

    「……ん」
    〇▲くんも照れながらもちょっと嬉しそう。
    そんな顔を見たらコッチもますます笑顔が止められない。
    そんな二人を見て何を思ったか、さっきお花屋さんと言った子が
    「あーーーあたしも図工のセンセイ!」と言いだした。
    「私もーー」「ぼくもーー」と他の子も続く。
    私は涙を浮かべながら笑い転げ、一つだけ異様に盛り上がる「島」を他の子たちや担任が訝しそうに眺めてきたのだった。


    こうして私はプロ野球選手に勝ったのだが。
    私は「ごちそうさま」後に始まる掃除の時間に向けて図工室に戻りながら、自分のとんでもない愚かさに気づいた。

    図工の先生になれなかったらプロ野球の選手
    この発想がこんなにも面白く感じるのは、裏を返せば
    プロ野球選手になれなかったら図工の先生
    なら当たり前だと思っているからではないか。つまり心のどこかで、私は職業の貴賤や難易度を無意識にランクづけしているのではないだろうか。
    担任と専科、教員と事務や用務、といった仕事であからさまに「順位」があるかのように決めつけ、その自分の価値観を押しつけてくる人たちに反発していたくせに、自分も同じ穴のムジナということになる。
    いやいやいやいやいや。それだけは勘弁だ。

    なりたい夢はいくつあってもいい。だから
    「図工の先生。または野球の選手」
    と並列してもいいわけだ。それを〇▲くんは
    「なれなかったら野球の選手」
    と、あえて順位をつけた。彼の本当の気持ちはさておき、それは「なりたい順番」であって、彼の心の中では二つの職業の価値は対等で並列であることの何よりの証明である。

    負けた。〇▲くんに。小学一年生に。
    私も彼のようにフラットな目を持ちたい。
    仕事や人の価値に順位があるように、どんなに世間が見せかけてきても、私は惑わされずフラットに見れる人間になりたい。
    掃除当番の子どもたちが簡単に洗っただけの刷毛に、ひどくマジメな顔つきで石鹸を擦りつけ、いつもより念入りにモミモミモミモミと洗いながら私は誓った。


    あれから20年。
    彼は今、どうしているだろう。
    図工の先生になっただろうか。
    それともプロ野球の選手になっただろうか。
    彼の顔も名前も忘れ、図工専科もやめ、日本さえ離れてしまった私には、それを確認するすべがない。
    でも、一つだけ言えるのは。
    「図工」ではないけれど私の人生の「先生」にはなったこと。
    彼の教えは時折顔を出してくるので今でもバリバリ現役の先生だ。

    まあ、たぶん彼自身は自分がそんなことを言ったことさえ忘れているんだろうなあ。



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    ここまで読んでくれて本当にありがとう。
    Hasta pronto! また会えますように!


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    ©️2025 naveotoevan 0023 プロ野球選手に勝って小学一年生に負けた日。【初エッセイ】

     
     
    昭和東京育ち→メキシコ足かけ20年 →現在相棒の保護犬ロボと旅暮らしのため更新頻度⬇️→筋トレのためnoteではAIを完全不使用→思考好き→記事長くなりがち→ご訪問&お付き合いに Muchas Gracias!

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