
見えない手(JTCの理・マトリックス編 第五話)①
「見えないところで」
朝、端末を立ち上げると、いつものように手順書を開いた。
昨日と同じページ。昨日と同じ操作。
決められた手順を決められた通りに実行すると、少しだけ安心する。
ログの並びが、昨日より整っていた。
誰かが触ったのかもしれない。
でも、そういうことを深く考えるのは得意ではない。
周囲の空気が、どこか落ち着かない気がした。
断片的な声が飛び交っているようだったが、その内容はうまく掴めなかった。
何かが変わったのかもしれない。
けれど、変化に気づくのは昔から苦手だ。
作業を進めていると、急に呼ばれた。
「これ、昨日の修正で手順変わってるよ」
「なんで確認してないの」
言われた理由が、すぐには理解できなかった。
手順書には何も書いていなかった。
書いていないことは、どうしようもない。
胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
助けを求めようとしたけれど、誰に声をかければいいのか分からなかった。
とりあえず、近くにいた協力会社のエンジニアに声をかけてみた。
「あの……すみません、これ……」
相手は一瞬だけ画面から目をそらし、気まずそうに言った。
「それ、契約外なので……すみません」
その“契約外”という言葉の影だけが胸に落ちた。
同時に、モニターの端でログの波形がふっと揺れた。
フレームが一瞬だけ乱れたように見えた。
でも、気にしない。
揺れたところで、やることは変わらない。
席に戻ると、チケットは“解決済み”になっていた。
ログも整っていた。
誰が何をしたのかは分からない。
分からないまま、問題は“自然に”解決していた。
「よかった……なんとかなった」
そうつぶやいたとき、画面の端を黒いノイズが横切った気がした。
影とも、乱れともつかない、輪郭の欠けたアノマリー。
でも、気のせいだと思う。
私は、今日も手順書通りにやるだけだ。
二つのパラレルワールド
🏮 JTCの理 ― 憑き物落とし篇 組織の澱みを「怪異」として解剖する、京極夏彦的作品へのリスペクトを込めた物語。
🕶️ JTCの理 ― マトリックス篇 システムのバグを「アノマリー」として捉え直す、SF映画的世界観の物語