
学んで、書いて、「無限の図書館」のなかで生きていく。
この世界は神秘的で未知に満ちているのに
わたしは無知でちっぽけだから
手の届くかぎりのことを学びたい。
日々はいつも新しく鮮やかなのに
わたしは忘れてしまうから
ひとつひとつ書き残したい。

全ての本を網羅した無限の図書館があるとしたら、それは僕らが生きている世界そのものなのだ。
これは、ブックディレクター幅 允孝さんの著書『幅書店の88冊 あとは血となれ、肉となれ。』のなかの、心をわしっと掴まれた一文だ。
(この言葉に感化されて学校図書館司書に転職したと言っても過言ではないかもしれない)
現実的にはすべての本を網羅した図書館は存在しないように、わたしたちが生きている世界をすべて知るなんてことは不可能だ。
不可能だけれど、そこにある。目の前に広がっている。すべては見えない、すべては聴こえない、すべてを知ることはできないけれど、わたしたちは確かにそのなかに存在している。
ベランダに出て雲を眺めるとき、よくその言葉が浮かんでくる。
雲の種類やその雲がもたらす天気について解説した気象学の本。
山の天気を予測するためのアウトドアガイドブック。
彩雲や美しい雲が映された風景写真集。
モネがどのように雲や空を描いたかを辿るアートブック。
雲にまつわる美しい言葉、季語を集めた辞典。
子どもと一緒に雲の不思議を楽しめる科学絵本。
雲の文化史、神話。
詩人は雲をどう詠んだのか。哲学者は雲をどう考えたのか。
村上春樹は『スプートニクの恋人』で、「まるで曇り空をそのまま飲み込んでしまったような気分だ」とたしか書いていたな。
雲ひとつに、無限の図書館。
この世界の全てが、好奇心の的になる。全てが学びになる。尽きることも終わることもない。
ひとつひとつに、奥深さとあらゆる視点と無限の解釈がある。
ならば、自分が好きなことや知りたいことに向かって、行きたい場所を目指して、自分が「前」だと思うほうへ進んでいくこと。その道のりを楽しむこと。
それが人生かなと思うし、そうありたい。
幅さんの言葉を、わたしはそんなふうに受け取って大切にしている。
夫が、わたしの、こつこつ努力できて学び続けるところが凄い、って言ってくれた。
中高生のとき、授業の予習復習なりテスト勉強なり受験勉強なり、家でも毎日勉強していたこととか。
部活では、誰もが嫌悪するただの持久走に志高く臨み毎回限界まで出し切っていたこととか。(気づけば無敵の持久力を獲得していた)
職場で必要になるでも強制されたわけでもなく、ただ学びたくて資格を取ったり、有給を使って講義を受けに行ったりしていたこととか。
気になったオンラインスクールに飛び込んで、風の時代のことや自分を知ること、今を生きるためのマインドを学んだり。
息子が寝たあと毎日毎日エッセイを書き、ZINEを作ったり。
中学生のときからずっと(その時々で方法は変われど)日記をつけていたり。
そういうところでしょうか。
友人にも、勉強家だね努力家だねとよく言われたっけな。
でも、勉強は好きだけど頭の回転は遅いし、読むのも書くのも遅いし、記憶力は弱いし、努力してもできないことは山ほどあるし。要領とか効率とかとは程遠いところにいる。
もっと、特技ヴァイオリンとか頭の形が良くてどんな髪型も似合うとか、カラオケ盛り上げ上手とかユーモア抜群とか、そういう個性がほしかったって昔は思っていた。
努力というと心身ともに苦しいことに耐えながら…みたいなイメージがあるけれど、実を言うとそんな感覚はなかった。
やりたくてやっていた。そうしないと気が済まないからそうしていた。
目の前に課題やチャンスがあって、手を抜いても全力でやってもどちらでもいいのなら、全力でやりたいのです。
やればわかること、やればできることを、放棄したくないのです。
何かの本で読んだことがある。
好きなことで、やっていて苦じゃなく、時間を忘れて夢中になってやれることが、その人の才能だと。
わたしに「学ぶ」才能や「書く」才能があるという話ではまったくもってなくって、それをコツコツとちまちまと、「続けてきた」ことに意味があったのだと思う。
苦じゃなく続けてこれていることって、きっと他の人だって当たり前にやっているだろうと思いがち。
でも、今まで目を向けたことのない、スポットライトを浴びたことのない一面が、実はその人の才能だったりするのかもしれない。
何かをしたい人、10000人。
それを始める人、100人。
それを続ける人、1人。
今は
努力できることは才能だ、みんなが面倒くさがって手を抜きたくなるようなことにコツコツ取り組めるのは、簡単なようでなかなかできることじゃない、と夫が言ってくれるから、おう、コレがわたしの才能なのか、と胸を張ってもいいような気がしている。
わたしはなぜ、学び続けるのか。
草木花や雲のこと、山のなりたちといきもののこと、地球の歴史。人の世界の見方、大切な人を大切にするためのこと、わたしはどうありたいかっていうこと、ありたい自分であるためのこと、それを知りたいから。
読みたい本もたくさんある、行きたいところもたくさんある。
人間にはあらゆるバイアスが備わっていて
そのなかのひとつに、実際には深く理解していないのに「あぁそれね知ってる知ってる」と思い込んで新しい情報を拒絶する、というバイアスがある。
それって、あなたはずっと今のあなたのままでいいんだよ、そのほうが安全安心なんだよ、新しいゾーンになんていく必要ないよ、と自分の無意識が自分に囁いているかのようだ。
そんなの嫌だねっ!
わたしはなぜ、書き続けるのか。
この美しい景色を、はっとする感覚を、もらった言葉を、気づかされたことを、忘れたくないから。
わたしの頼りない記憶力では、書き残さないと二度と思い出せない記憶の海に流れていってしまう気がするから、だから書く。
一度聴いたことや読んだことはずっと覚えていられたらいいのに。学んだことは余すことなく血肉となればいいのに、と思う。
でもそうはいかないみたいだから、いつでも思い出せるように、したためる。
それにありがたいことに、
今1歳の息子と日々をすごしていて、なんだかわたしが生き直ししているかのように感じる。
もう一度、子どもの目線で世界を見る機会をもらったような。
どんどん知らないことが湧き出てくる。
今まで視界にも入らなかったものに、気づかされる。
例えば電車が好きな息子と地下鉄に乗ったとき。
まもなく電車が到着することを告げる音や光が賑やかになり、薄暗いトンネルの奥からパァーっと明るい色の車体が飛び込んできたときには、まるでディズニーランドのアトラクションを前にしたテンションで「わぁー!!地下鉄来たよ!!!」と叫んでいた。電車なんて全然、好きでも嫌いでもなかったのに。
息子のおかげで、わたしの知らなかった世界が開けていくのだ。
もちろん息子に関する不安や悩みも、次々と出てくるだろう。
ポジティブに見えるものもネガティブに見えるものもひっくるめて、いろんな感情を経験させてくれる「子育て」という課題。学ぶことも書くことも尽きなそうだ。
生活、仕事、子育て、趣味、人間関係、
すべてが学び。すべてが課題。
わたしは学ぶことを、書くことを、人生をかけて続けていくだろう。