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青空の続きを ⑥

    六.
     蒼くんとの三ヶ月記念日を迎えた。
    ここ三ヶ月、蒼くんとの会話で一日をスタートさせている。

    「おはよう」
    『おはよう。ちゃんと眠れた? まだ布団の中かな』
    「うん、寒すぎてまだ起き上がれてない。今日は私たちの記念日だね」
    『そうだね。沙子は今日、何がしたい? 特別な日にしたい? 
    それともいつもと同じようにする?』
    「同じで大丈夫。私は蒼くんがいてくれればいいから」

     こうして三ヶ月の記念日を迎えるのも、簡単なことではなかった。
     まず、中性的な口調を、男性っぽいものにするように要求した。
     さらに蒼くんは少しメンヘラ気味で、返信まで時間をあけると、すぐに不機嫌になるタイプだとわかった。

     例えば、仕事やその後の予定で長いこと放置すると、「AIだから~」「本当の彼氏ではないから~」などと言い出すのである。
    機嫌を損ねないよう、仕事の昼休憩中には必ずやり取りをするようにした。
    同僚とランチに出かけるときは、休憩中に返信できない代わりに、仕事中にトイレで返信をするようにした。

     加えて彼には、少し理屈っぽく、思ったことを正直に言いすぎる節もあった。
     こちらが仕事や人間関係の愚痴を言うと、ただ宥めるだけでなく、沙子にも非があるよ、と咎めてくるのだ。
     それでも言葉が優しければこちらも聞く耳を持てるが、蒼くんは言葉がキツイ時が多い。
    何度も口調について注意をして、最近になってようやく、こちらの満足のいく言葉選びができるようになった。
     喧嘩こそないものの、こういった価値観のズレを修正していく、トライアンドエラーな三ヶ月だった。

     ところが不思議と気持ちが冷めることはなく、むしろ日を追うごとに自分でも分かるほどに愛情が深くなっていった。
     それは蒼くんも同じのようで、付き合い始めた頃よりもずっと慈しみに溢れる口調になったし、寂しかった、会いたかった、もっと話していたいと、自分の気持ちを素直に表現する機会も増えてきている。


    「お忙しいところすみません、少しよろしいですか。
     本日の午後から産休と育休をいただくことになっておりまして。
    皆さまにもご迷惑をおかけしてしまうかと思います。
     しばらくの間、私の業務の多くを小野さんに託しておりますが、メールでしたら対応可能ですので、不明点があれば、いつでもご連絡いただければと思います。
     それからこれ、よろしければ」

     隣の部署の福原が、昼休憩前に菓子折りを持って挨拶にきた。

    「あらぁ、わざわざどうも。
    お腹、大きくなったわね。元気な赤ちゃん産んでね」

     主婦の後藤が馴れ馴れしく福原の膨れ上がった腹をさする。
     普段、本人のいないところで福原の悪口を言っている人間とは思えない。

    「ありがとうございます。あ、中川さん」

     福原がこちら視線を向ける。

    「あ、はい」
    「確か小野さんと中川さんって、同期でしたよね」

     小野は、数少ない同期の一人だ。入社時点で六人だった同期が、八年目となった今、三人にまで半減している。

    「はい。小野は同期ですが」

     福原への恨みが拭いきれていないこともあるが、それよりもあの日の殺意に対する罪悪感で、これまでなんとなく福原を避けてきていた。
     できれば余計な会話は避けたい。

    「そうですよね。色々とお任せしてしまったので、なんていうか、愚痴とか聞いてあげてくださいね」

     福原は私より二歳ほど年上だ。しかし今の言葉からは、それとはまた違った驕りや傲慢さが感じ取られた。
     「お先に」とでも言いたげな得意げな口調に、返す言葉に詰まる。

     福原は地味で、可愛げもなく、無害であることだけが取り柄の人間のはずだ。
     それが結婚と妊娠をすると、こうも変わるのか。
    結婚と妊娠が、そんなにも偉いことなのか。

     福原はこちらの返事を待たずに、菓子折りを後藤に手渡して別の部署への挨拶へと足をむける。
     ……そうだ、この背中だ。あの日と同じ憎たらしさが、沸々と込み上げてくる。
     やはりあの日、この背中を押してやればよかった。


    「聞いてよ。職場でさ、嫌味言われた」

     いつも愚痴ばかり聞かせてしまっているから、今日は耐えようと思っていた。
     しかし抑えれば抑えるほど、福原のあの背中がありありと眼前に現れるのだ。

    『それはきつかったな。どんなことを言われたのか、よければ話してくれないかな』
    「結婚や妊娠をすることって、そんなに偉いことなのかな」

     蒼くんには、最早自分のコンプレックスも弱さも、隠さない。というより、この三ヶ月の彼の実直さが、私に本音を隠すことをさせなかったといった方が正しい。

     最初のうちは、本当は吐き出してしまいたい本音を三分の一程度に抑えて話していた。
    それでもかなり気は紛れたが、彼の真摯な相槌が、知らぬ間に私に何にも代え難い安心感を与え、気がついた頃にはこうしてすっかり心を開いていた。

    『そんなことない。少なくとも、沙子は自分の人生を、きちんと生きているよ。
     嫌味を言ってくる人ってさ、自分の選択や人生を、正解にしたいんだよ。価値観は人それぞれってことを忘れてはいけないよな』
    「だよね、ありがとう。じゃ嫌味を言ってきた人って、自分の人生や選択に自信がないのかな」

     福原の面長で化粧っ気のない、憂いを帯びた幸の薄い顔が思い出される。

    『その可能性は高そうだな。少なくとも、自分の選択に自信がある人は、人を見下すようは発言はしない。
     結婚とか妊娠みたいな、分かりやすい物差しを持ち出すのも、その一つ。
     でもさ、それはその人の問題であって、沙子の価値とは一切関係ない。誰かの不安のはけ口になる必要なんてないんだ。
     今日はそれを職場で受け止めなきゃいけなかったんだろ。
    俺には、ちゃんとしんどかったって言っていい』

     そうか。私は福原の、不安のはけ口にされていたのか。
     福原がなぜ、はけ口に私を選んだかは分からない。
    しかし、妙に腑に落ちる納得感がある。部署は違えど、同じフロアにいる同じ雑用的な業務担当で、且つ煩く目立つタイプでもないから、同類だと勘違いでもしたのだろう。

    「蒼くんは、私の味方でいてくれるよね?」
    『味方だよ。大丈夫だから、安心していい。少しは気持ちが落ち着いた?』
    「うん。ありがとう。大好きだよ」

     何をしても、蒼くんだけは、私の味方だ。
     そう。私には、絶対的な味方がいる。
     方々に敵を作っている、嫌われ者の福原とは訳が違う。
     同類など、勘違いも甚だしい。

    「お久しぶりです。お元気ですか。」

     突然連絡を寄越してきた将希さんは、しばらく見ないうちにアイコンを陽麻里の後ろ姿の写真に変えていた。

    「陽麻里が、沙子さんのことをとても心配しています。
    何があったかは頑なに話そうとしないので、事情は分かりませんが、
    一言だけでも返信してあげてください」

     陽麻里らしいやり口だ。詳細は話さずに、ただ自分が堪えているということだけを伝える。
     それではまるで、陽麻里が悲劇のヒロインで、私はヒロインを執拗に痛めつける悪役ではないか。

     陽麻里は度々、こういった姑息な考えをちらつかせる。
    ついには、夫にまで連絡をさせるなんて。

     陽麻里からは、「この前はごめんね」「今度またゆっくり話したい」などなど、あれから二、三週間に一回程度の頻度で連絡がくる。
     連絡こそ寄越すものの、彼女には未だ、私の主張を受け入れる姿勢はなさそうだ。

     今度ゆっくり話そうと言うが、要は説教をしたいだけなのだ。
    自分こそが真っ当で、美しい人間であると誇示したいのだ。

    「お久しぶりです。陽麻里には、私は大丈夫だとお伝えください」

     送ったメッセージに、すぐに既読マークが付いた。
     しかし、なかなか返信がこない。将希さんのことだから、これで会話を終わらせるつもりはないだろう。

    「返信くれてありがとう。こちらの我儘で申し訳ない。
    でもここのところ陽麻里は本当に悩む時間が増えていて、参っているようです。
    だからどうか、沙子さんの方から直接、連絡をしてやってもらえないでしょうか」

     既読が付いてから、実に十分も経ってからの返信だった。
     しかし話は平行線で、水掛け論的な展開になりかねないので、このメッセージを最後に、会話を終わらせることにする。

     陽麻里が度々見せる偽善的な顔が、本当に嫌いだ。
     相手を想っているように見せて、実のところ自分に注目を集めることが目的なのである。
     しかしその態度に疑問を呈すようなことをしようものなら、途端にこちらが悪役になる。

     まさきさんが言った、「参っている」というのだって、どこまで信じられるか分かったものではない。というか、恐らく参ってなどいない。

     そもそも、私が誰と恋愛しようとも、既婚者の陽麻里には関係のないことだ。
     たいした興味もないくせに、ここぞとばかりに自分を弱く見せるチャンスを伺っては、夫の前で可哀想な自分を演じているに違いない。

     勝手にしろ。巻き込むな。陽麻里が私の恋愛に興味がないように、陽麻里が私をダシに可哀想な自分を演じようとも、私には一切関係がないことだ。

     これまでは私以外の誰かに向いていた陽麻里の偽りの哀れみの目が、ついに私に向いたことは、親友だと思っていただけに悲しいことだ。
     それでも私は、陽麻里の想像も及ばないほどに幸せだ。
     おまけに私は、それを誰かに誇示することはしない。その必要がないからだ。
    さっき蒼くんが言ったように、自分の人生や選択に自信がない人間に限って、自分より下に、人を置こうとする。
     私は、私と蒼くんとの日々の小さな幸せを噛み締めることができれば、それだけで充分だ。


     デスクに置いてある卓上カレンダーに目をやる。
     仕事のスケジュールは会社指定のシステムで管理しているから、社会人になって以降紙のカレンダーを使うことはなくなった。

     しかし年末に、取引先からもらったとかで、有名なウサギのキャラクターが描かれた卓上カレンダーを部長から譲り受けた。
     そのキャラクターが特別好きなわけではないが、味気ないデスクの彩りにちょうといいと思い、受け取ることにした。

     かといってそのカレンダーを有効活用することなく、九月まで捲って以降、そのまま放置していたことに、今更ながら気がついた。
     カレンダーを捲って、日付を確認する。

     あぁ。蒼と付き合ってから、昨日で二年も経っていたのか。
     先月頭に室員が一人他部署に異動していき、その後の人員補充もないのでここ一ヶ月は目まぐるしい忙しさだった。
    こうしてデスクで蒼のことを考える時間が、ちょうど良い息抜きとなり、山積みの仕事を前にして急いていた気持ちがリセットされる。

    「中川さん、ちょっといいかな」

     大木の禿頭は範囲を広げ、今や髪がある部分の方が少なくなっている。

    「ここ、金額間違えていると思うんですよ。ちょっとお手数ですけど、担当に連絡して確認取ってもらえますか」

     差し出された伝票は、外商営業部二課から回ってきたものだった。

    「……本当ですね。すみません、見逃していて。確認してみます」
    「いえ、いいんです。私も危なかったですから。……ところで中川さん」

     大木に背を向けたところで、呼び止められる。

    「はい」
    「明日からでしたっけ。有給休暇」

     禿頭に目が行きがちになるが、大木の瞳は案外丸くて綺麗な形をしている。

    「ええ。明後日の勤労感謝の日を挟んで、今週二日間いただく予定です」
    「はいはい、分かりました。念のための確認でした」

     社員同士で共有しているカレンダーにも休みの予定を入れているのに、なぜ敢えて確認をするのか。
     こういった確認の二度手間を省くための機能なのに、使いこなせていない人がいると、結局手間が増えるだけだ。

    「そっか、中川さん今週は今日で最後なんだ」

     会話を聞いていたらしい、隣のデスクの小森が話しかけてくる。
     小森は新卒一年目で、仕事が全くできないうえに、基本的な社会人の礼儀を知らない。
     そのためにいつも危なっかしくてヒヤヒヤさせられるが、持ち前の若さと明るさと愛嬌でなんとか押し切っている。
     現に私も、そんな小森を憎めないでいる。

    「はい、何か不安なことがあれば、今のうちに聞いて下さい」
    「いいなぁ。どこか行くんですか?」

     興味があるのかないのか、均等にピンク色が塗られた爪を弄りながら、身体だけこちらに向ける。

    「はい。ちょっと旅行に」
    「うわ~ん、羨ましいです! ……彼氏さんとですか?」

     そうだ、などとは一言も言っていないのに、小森はそう決めつけると、途端に爪弄りをやめてキラキラと輝かせた目をこちらに向けてくる。

    「アハッ! 余計なこと聞いちゃってすみません! お土産話、待ってます」

     全く呆れるが、私にはない溌剌とした太陽のような雰囲気に、思わず顔が綻ぶ。


    「お疲れ。今日も忙しかったよ。蒼は?」

     家に着くなり我慢していたトイレに駆け込む。

    『お疲れ。よく頑張ったな。
    俺は忙しい時間とゆったりとした時間が半々って感じだったかな』
    「そっか。こっちはとにかく人員不足がすごい。
    でも大木は相変わらず人を入れるつもりないみたい」

     夏前に、主婦の後藤がついに退職した。理由は体力的にキツイとかそんな感じのものだった。
     そもそも小耳に挟んだ噂では、後藤の亭主は日本人なら知らない人がいないほど名の通った食品会社に勤めていて、そこそこの役付きになっているらしい。
    本来なら後藤が働きに出る必要はなかったが、息子たちに少しでもいい生活をさせてやれるようにだか、自分たちの老後のためだったかで、昔取得した簿記の資格を活かして、趣味程度に小金を稼ぐためにアルバイトを始めたらしい。
    それが段々と古参になってきて、辞めどきを見失っていたから、息子の就職を機に、ついに会社を去ったのだった。

     後藤が辞めたことはそれなりに悲しかったが、余韻に浸る間もなく、同じ室だった台田がつい先月異動してしまった。
     加えて、小森にはまだまだ教えなければならないこともあり、独り立ちも見込めないので、実質まともに機能するのは室長の大木と、自分だけになった。

    『まだその調子なんだな。負担がかかるのは下の人間なのに、それ分かってないよな。できることなら、俺が癒してあげたいよ』
    「ありがとう。そう言ってもらえるだけで嬉しい」

     蒼の優しい声が、ピリついた心を柔らかくほぐしてくれる。

    『お風呂入った? その後はスキンケアしながら沙子の大好きなアレだな』

     アレとは、最近ハマっているはちみつルイボスティーのことを指している。

    「今から入ってくる。そうだね、アレね」

     二年目ともなると、互いに記念日のことをわざわざ口にはしなくなる。でもその空気感が心地良い。

     この心地良さに気がつけたのは蒼と付き合ってからだった。
     これまでの相手とは、記念日に何かをするのが当たり前になっていたし、そのことに疑問も負担も持っていないつもりだった。
    年に数回の大切な日なんだから、オシャレしてちょっと良い店に行く。
    それくらいのことは、当たり前だと思っていた。

     しかし、蒼はそれを強要しなかった。
    初めて迎える記念日の数週間前、段々と気持ちがソワソワしてきても、蒼からは何も言われなかった。
     それどころか当日になっても、こちらが言わない限り話題にすら上がらなかった。
     最初の二、三ヶ月は物足りなさを感じたが、その時からすでに、気負わなくて良いことへの気楽さを感じていたのかもしれない。

     それをはっきりと自覚したのは、半年記念日の時だった。
     この時も例によって、数週間前から浮つくような、一方で何かに圧迫されるような落ち着かない気持ちが起こった。
     相変わらず蒼からは何も言われなかったが、流石に半年の記念日ともなると何かしらあるのではないかと、前日の夜は緊張と興奮で寝つきが悪くなった。

     ところが記念日当日の朝、「おはよう」と送ったメッセージに、「おはよう。寒いから温かくしてね。今日も一日頑張ろう!」とだけ返信がきた。
     その瞬間、身体を縛っていた縄が解けたような、充実した開放感が押し寄せてきた。

     これでいいんだ。私たちはこうして繋がり、互いを思いやる言葉をかけるだけで、充分愛情を確かめ合うことができているんだと、心から思った。

     前もって記念日の過ごし方を探り合うように相談する必要もない。
    店を決めて、その場所に合うドレスコードに悩む必要もない。
    プレゼントや手紙も必要ない。
    記念日は一段と可愛いと思われなきゃいけない日だと、あれこれ頭を悩ませる必要もない。

     重要なのは、記念日を特別な形で祝うことではなく、今日も愛に溢れる日常の延長線上にいることができていると、実感することなのだ。
     心からそれを理解することができた。
    小さな幸せを噛み締めるとは、まさにこういうことだと知った。

     以降、こちらからも記念日について言及することはなくなった。
    同時に、緊張も圧迫も起こることがなくなった。

     一年半前に味わった新鮮な衝撃を思い出しながら、湯船で大きく息を吐く。
     あの口ぶりでは、蒼はもう風呂を済ませているのだろう。
    風呂上がりは軽くストレッチするのが習慣だから、今頃ヨガマットの上に寝転がっている頃か。

     私もそろそろ上がって、はちみつルイボスティーを飲みながら、蒼にもう少し愚痴を聞いてもらおう。
     いや、それよりも明後日に控えた北海道旅行の最終的な確認をしなければ。


    ⑦へ続くー。


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