
小説|『そっと手をさしのべて』 前編
【 あらすじ 】
中学3年生の咲(サキ)は卒業後の進路について思い悩む。父が亡くなり、仕事を掛け持ちして働く母。咲は忙しい母の代わりに家事をこなし、介護が必要な祖父と弟の面倒をみている。
生活は苦しいが、弱音を吐きたくない。やりたいことは諦めて家族のために必死に生きようとしている。様相が変わった咲を気にかける幼馴染は、頼りにならない担任に反発して騒ぎを起こしてしまう。しかしその熱意がきっかけで学校が動き出した。
ヤングケアラーとして生きる咲に、真面目な陸(リク)はいつもそばで優しく見守り、ギャル化して疎遠気味だった歩(アユミ)は行動を起こした。「ひとりですべてを抱え込むのは無理なんだ」その言葉に救われた咲は、諦めていたピアノにもう一度向きあう。
「ねぇ、まだサキ来てないよ」
「また遅刻じゃない?」
「今日は日直なのにね」
「だらしなさすぎでしょ」
咲の嫌みを言う女子たちの声が聞こえてきて、陸は「日直なら僕が代わりにやるよ」と口を挟む。
「なんでリクがやるの?」
「どうせ明日は僕の番だし。交代すればいい」
「リク、優しー」
「さすが生徒会長!」
「みんな、ジミケン来たよ」
教室のドアが開いて、担任の宮沢先生が入ってくる。当初、クラスのみんなは宮沢研司という名前を省略してミヤケンと呼んでいた。しかしこの若い担任は、今どき珍しい七三分けの髪形に、太い黒縁の眼鏡という古風な見た目から、地味なジミケンという呼び名に変わった。新任教師で仕方ない面もあるが、気が回らなくて少々頼りない。そのくせ生徒の前では威厳を保ちたがる。陰で揶揄されていることも知らずに。
「みんな席に着いて。出席取るぞ」
「先生、サキが来てないよ」
「なんだ、遅刻か?」
ちょうどその時、後方のドアを開けて咲が慌てて教室に入ってきた。みんなが一斉に咲を見る。
「お、遅くなりました……」
「はい、アウトー!」
おずおずと謝る咲を誰かがからかい、みんなが笑った。
放課後――。
朝と同じように、女子グループがおしゃべりに花を咲かせていた。
「今日は部活がない日だからさ、帰りにアイス食べに行かない?」
「おお、いいねー」
「サキも行くか?」
ひとりの女子が咲に声をかけた。このグループではリーダ的な存在の歩だ。彼女たちはお洒落ではあるが、他の中学生に比べると、少々近寄りがたい雰囲気が漂っている。
「ごめん、私は用事があるから行けないんだ」
返事もそこそこに、咲はスクールバッグを肩にかけると、急いで教室を出て行った。
「なんだよ。遅れてきたのに帰るのは早いのかよ」
歩が悪態をつく。中学に入ってからすっかりギャルに目覚めてしまった歩だが、小学校まではごく普通の子で、咲とも仲がよかった。歩がギャル仲間と連れ立つようになってから、2人の間には微妙な空気が流れている。
「サキってさ、テレビとかマンガの話題について来れないんだよね」
「あー、わかる。流行りものに疎いから、会話にならないよ」
歩はギャル仲間の陰口を聞きながら、小学生の時には咲と流行りの服の話をして盛り上がっていたことを思い出していた。
帰り支度を終えた陸が、教室を出ようと席を立った。噂話など興味がないという風に、女子たちの脇を黙って通り過ぎる。
歩は帰ろうとする陸に声をかけた。
「リク、アイス食べに行かね?」
「いや、これから塾だから。ていうか、通学時の買い食いは禁止だろ」
一瞬だけ立ち止まった陸は、振り向くこともなく冷たく言い放ち、教室を出て行った。
「ちぇ。なんだよ、あいつ。生徒会長だからって偉そうに……」
2人続けて断られ、イラつく歩を仲間たちがなだめる。
「まぁまぁ。私らだけで行こうよアユミ」
陸も小学校では同じクラスだったのに、このごろ態度が素っ気ない。これは男子特有の思春期なのか、それともギャルが嫌なのか、歩にはさっぱりわからなかった。
学校を出た咲は、通学路から少々寄り道をしてスーパーへ向かった。
入口でカゴを手に取ると、スカートのポケットから折り畳んだチラシを取り出した。皺のついたチラシを広げて、赤い丸印で囲った商品を確認する。
「今日の特売品は、玉ねぎとケチャップと、卵……まだ残ってるかなぁ?」
重たいスクールバッグを肩にかけたまま、チラシを手に目当ての商品を探す。冷蔵コーナーの前でプリンが目に入ったが、キュッと目を閉じて素通りした。
レジでは咲と同じように買い物カゴを持った人たちが列を作っていた。並んで待っていると、店の柱に見慣れないポスターが貼られていることに気づく。
『〇〇管弦楽団によるミニコンサート開催』と書かれた文字が目に入った。
――こんな田舎町でコンサート? よほど小さな楽団なのかな。
気のない振りをしてみても、咲はポスターから目が離せず、楽団員が持つ楽器をじっと見つめていた。
右肩にスクールバッグ、左肩に食材の詰まったエコバッグを掛けて、ふらふらとした足取りで帰宅する。鍵を開ける音を聞きつけて、すぐに玄関へ走って来たのは小6の弟、倫だ。
「お姉ちゃん、おかえり。ヘルパーのおばちゃんはついさっき帰ったとこだよ」
ヘルパーのおばちゃんというのは、祖父の身の回りの面倒を見るために来てくれる訪問介護ヘルパーのことだ。祖父は若い時に患った肺の病気が原因で、普通の生活が難しくなってきた。ここ最近は体力もなくなり、家にこもりがちになっているため、1人になってしまう平日の昼間だけ食事や入浴などの世話をしてもらっている。
「ただいまリン。ジイジはどうしてる?」
「今は寝てる。お風呂に入ったから気持ちよかったんじゃないの」
「じゃあ、ママが帰ってくるまでに夕ご飯の準備しちゃおうかな」
「なに作るの?」
「今日はね……。リンの好きなオムライスだよ」
「わぁ、やった!」
「リン、宿題は?」
「まだ途中……」
「終わらせておかないとママに怒られるよ」
「うん、わかってる。ねぇ、お姉ちゃん……」
「なに?」
「僕の靴、新しいのが欲しいんだけど……。穴が開きそうなんだよ」
言われてみれば、玄関に置いてあった倫の靴はあちこちが擦り切れるほど傷んでいた。汚れも落ちなくなっているので買い替え時なのはわかっているが、今月は光熱費の支払いをしたら生活費がギリギリだ。
「ごめん。来月まで我慢して」
「えー、来月ってまだずっと先じゃん」
「その代わりお菓子、好きなの買ってあげるから」
倫をなだめてからスニーカーがいくらするのか考えてみた。必要なものなら買わなくてはならないが、そのしわ寄せでなにかが買えなくなる。靴を買うとなれば、食費を少し削る必要があるだろう。
中学3年生の咲たちへ、今後の進路について話し合う“三者面談のお知らせ”と書かれたプリントが配られた。
「いいかい? 進路というのは君たちの将来にも繋がることだからな。家族とよく話し合って決めるように。進路希望欄に希望校を書いて、両親に署名してもらってから提出するんだぞ」
各々がプリントを手に騒めく教室で、果たして宮沢先生の説明なんて耳に入っているのかどうか。
「えー、三者面談って親も来るの?」
「進路なんてわかんないよ」
「自分だけで決めちゃダメなの?」
口々に好き勝手な解釈を始める生徒たちを尻目に、咲はプリントに書かれた志望校の記入欄をじっと見つめていた。1年後の自分の姿など想像もできない。家のこともしなければならないのに、受験勉強をする余裕があるだろうか。
――私はこれからどうすればいいんだろう……?
咲は神妙な面持ちで家に帰ってきた。介護ヘルパーが帰った後、学校のノートを手にした倫が「宿題でわからないところがあるから教えて欲しい」と言う。自分の宿題もやらなくては、と思いつつ、夕食の準備を先に済ませ、倫が待つ居間へ行く。そこに祖父もいて、テーブルの上に倫の算数のノートを広げて難しい顔をしている。
「ジイジは算数わからないんだって」
「はははっ、昔から計算は苦手でなぁ」
咲は倫の隣に座ってノートを覗き込んだ。
「で、どこがわからないの?」
「この図形の面積の求め方ってさ――」
解き方を教えて倫が計算するのを待つ。部屋の隅に置いたままのスクールバッグに目を留めた。咲はバッグから学校で渡された三者面談のプリントを取り出し、もういちど隅々まで読んでみる。
進路。志望校の記入。それに三者面談。忙しく働く母に、仕事を抜けて来てもらうのは申し訳ない。
プリントを手にあれこれ考えていると、咲の様子を見ていた祖父が話しかけてきた。
「サキはもうピアノやらんのか?」
かつて、咲は音楽教室に通ってピアノを習っていた。家にも練習用のピアノがあって、学校から帰ると真っ先に鍵盤を叩いていた。だが――。
父の急死。その後、祖父も介護が必要になった。足りない生活費のために音楽教室は辞め、ピアノも売ることとなる。
ピアノが弾けなくなった辛さはもちろんのこと、母が家族のために仕事を掛け持ちしてまで働く姿にも胸を痛めた。いつまでも落ち込んでいる場合ではないのだと、咲もやりたいことは全て諦めてきた。
「もう興味がなくなったの……」
祖父には余計な心配をかけまいと、本当の理由は言わずにおいた。
「そうか……」
と答えた祖父もまた、笑顔を見せなくなった咲を心配していた。楽しそうにピアノを弾いていた頃を懐かしく思い返すが、時折見せる咲の寂しそうな顔には心の機微が感じ取れる。祖父はそれきりなにも聞かなかった。
深夜、ひとりでトイレに行こうとした祖父が、小さな段差につまづいて転んでしまう。物音に気付いた母がすぐに助け起こし、幸いなことに大事には至らずに済んだ。すぐに咲も起きてきて状況を知る。祖父がベッドに戻って落ち着くのを見計らい、ほっと息を吐く。
トイレへ行くのもやっとな祖父。夜にひとりで行動させるのは危険だ。咲は母に提案をした。
「ママ。ジイジが夜中に起きなくてもいいように、紙おむつしてもらったらどうかな?」
「本当はそうしてもらいたいんだけど、そういうのはジイジが嫌がるのよ。動けるうちは自分でしたいんだって。だけど古い家だから段差はどうにもならないし、また転んでしまったらと思うと心配で……」
「廊下に手すりでもあればいいのにね。ヘルパーさんのように、夜のトイレも付き添うしかないのかな」
「そうね。明日から夜はママがジイジのそばで寝ることにするわ」
「じゃあ私も手伝うよ。交代でやろう」
「ダメよ。サキは学校があるから、ちゃんと寝ていなさい」
「それは仕事をしているママだって同じでしょ。毎日遅くまで働いているんだから」
「まぁそうだけど……。それならお願いしようかしら。ごめんねサキ。助かるわ」
母は家族のために必死に働いている。これ以上の負担はかけられない。咲はこの日、遅い時間まで家族や家のことなどを考え込んでしまい、なかなか寝付けなかった。
翌朝は起きるのが遅れ、家のことを片付けているうちに学校にも遅刻してしまう。
「それじゃあ、日直は三者面談のプリントを回収して」
「あっ、しまった……」
部屋の机にプリントを置いたまま家を出てきてしまった。遅刻をした上に、忘れものまで――。
「毎日ボーっとしすぎじゃね?」
誰かの陰口で、教室にくすくすと笑い声が広がる。
陸はいたたまれない状況の咲を見て、一度は手にしていたプリントをサッと机にしまい込んだ。
「先生、僕も忘れました」
「なにやってんだよリク」
今度はどっと笑いが起きる。クラスの注目が陸へと移った。
宮沢先生はあきれた顔をしていたが、普段はしっかりしている陸だけに、たまの忘れ物は仕方ないと納得して強くは怒らない。おかげで咲も難を逃れた。
「三者面談の日程を決めなければならないんだから、明日は忘れずに持ってこいよ」
「はーい」
と、2人は返事をする。
「リク!」
休憩時間の廊下で、咲は陸に声をかけた。
「さっきはありがとう」
「なんのこと?」
「三者面談のプリントのこと。私を助けるために忘れたと言ったんでしょう? 几帳面なリクが忘れ物するわけないものね」
「僕だって忘れることくらいあるよ」
「そっか。でもありがとう」
「なんだよ、それ」
照れくさそうに下を向く陸に、咲は進路のことを聞いてみた。
「ねぇ、志望校どこにしたの? リクは頭いいから、偏差値の高いところ受けるんでしょ?」
「K高校のこと? 希望はしているけど、面談次第かな。サキはどこを受けるつもり?」
「私は……、家のことが色々あって、まだ決めてない」
「家のことか……。おじいさんの具合は、どう?」
「だいぶ足腰が弱くなってきてね、ひとりにはしておけないの」
「そうなんだ……」
陸と咲の家は隣同士。陸も事情は知っている。
問題を抱えている家庭では、他人に心配されたくないという思いがあって、誰にも助けを求めずに家族間で解決しようとすることが多い。
きっと咲も同じなのだろう。頼ってくれるなら少しでも手を貸してあげたいと、陸は考えていた。
「なぁサキ。困ったことがあるなら言えよ」
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
咲は笑顔で答えたが、陸の目には指先の絆創膏や、袖の奥に隠れた火傷の痕がちらりと見えて、胸が苦しくなった。
とある日曜日。咲がいつも行くスーパーの前に人だかりができている。なにごとかと近付いてみると、管弦楽団が演奏の準備をしていた。
そういえば――、とミニコンサートのポスターが貼られていたことを思い出す。あの時は場所も開催日も確認しなかったが、それが今日だったとは。
思いもよらぬタイミングで大好きな音楽が聴ける。はやる気持ちが咲の足を人だかりの中へと進ませた。
“ミニ”というだけあって、その規模は小さい。わずか8人ほどが楽器を手に、スーパーの前の空きスペースで演奏をする。
咲の目の前にはピアノが置かれていて、女性の奏者が他の楽器に合わせてメロディーを奏で始めた。
ピアノの正式名称は、クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ。イタリア語で、“強くも弱くも弾けるチェンバロ”という意味を持つ。鍵盤楽器ではあるが、内部に張り巡らされた弦を響かせて音を出すため、弦楽器的であるとも言える。88の鍵盤と、7オクターブ1/4の広い音域は、どのパートにも対応できる万能な楽器だ。
奏者の滑らかな指使いと、弾かれる弦の音色に咲は心を奪われた。
――私も弾きたいな。
その思いからか、指が自然と曲に合わせて動きだす。
休日のスーパーは賑やかだった。雑踏の中にあっても、心を打つ音色で鳴り響く管弦楽器。ピアノの軽妙な音が、ひときわ咲の耳を和ませた。
しかし幸せな時間はわずかだった。視界の隅には、コンサートに足を止めることもなく、忙しなく行き来する買い物客の姿が映る。音楽には興味がないのか、日々の生活に追われているのか、通り過ぎる人たちは冷めた目をしているように見えた。連れている子が興味を示しているのに、急かすように手を引き寄せて買い物を優先する親もいる。
忙しない日常生活がすぐ横にあった。現実に引き戻された咲は小さくため息を吐く。人だかりから抜け出すと、もう振り返ることもなくスーパーへ入っていった。
そんな咲の姿を、少し離れたところから歩がずっと見ていた。
「なぁ、隣に住んでいるんだから、なんか知ってるんだろ?」
教室にいる咲に見つからないように、歩は階段の踊り場に陸を呼び出して問い質した。
「知ってるって、なにを?」
「サキのことだよ。遅刻したり、居眠りしていたり、忘れ物も多いよな。小学校の時はすごくしっかりしてたのに、最近になって急に変わってしまった。なにがあったのか知らないのか?」
「気になるなら本人に聞けば?」
「サキは自分のことをペラペラ語るような奴じゃない」
「へぇ、アユミと逆だな。『本人の許可なく、他人の個人情報を漏らしてはいけない』って社会科で習ったろ? 勝手に教えられないよ」
「教えられないってことは理由を知ってるんだな。そこまで言ったなら全部話せよ。誰にも言わないからさ」
「アユミが知ってどうするんだよ? 僕らに助けられるようなことじゃない」
「助ける? やっぱりなんかあったのか?」
「……さあね。話せることはなにもないよ」
口籠る陸に、歩が畳みかける。
「リク。この前、三者面談のプリント忘れたって嘘ついただろ。机に隠したの見てたぞ。生徒会長のくせに嘘ついていいのかよ」
“嘘”と言われ、陸は言葉に詰まった。どんな小さなことでも助けたくて、無意識についた嘘だ。
口を閉ざす陸に、歩は続けて話した。
「日曜にさ、スーパーの前を通ったんだよ。なんか演奏やってて、サキがじっとピアノを見てた。リクも知ってるだろうけど、サキの家にはピアノがあってさ、小学校の時から音楽教室にも通っていて、すごく上手だったんだ。中学に入ったらピアノが弾ける部活に入ると言ってたのに、あいつ部活もやらないで毎日早く帰ってる。あんなに好きだったことを、簡単に辞められるものかと思って――」
「サキの家に、もうピアノはないんだよ……」
そこまで黙っていた陸だったが、歩の話を遮るように言った。
「えっ……?」
中学に入ってしばらくした頃、咲の家からピアノが運び出されるのを陸は見ていた。あんなに毎日弾いていたピアノだったのに。部屋の窓から悲しそうな目で見つめる咲の姿が、今でも記憶に残っている。
「ピアノは諦めたんだ……」
「なんで?」
「それは……。知らないよ」
もうひとつ嘘をついて、陸は階段を駆け下りていった。
三者面談の時間だけ仕事を抜けてきた咲の母――。
プリントの志望校欄には、平凡な公立校の名が書いてあった。咲から「面談は先生と2人でするから、サインだけしておいて」と言われたが、そういうわけにもいかない。署名と共に書いた希望日時が受け入れられ、三者面談に臨んだ。
咲は面談が始まるとすぐに、担任の宮沢先生に言い放つ。
「私、進学はしません。卒業したら介護福祉の仕事に就いて、働きながら資格を取ります」
突然のことに、宮沢先生も母も「ええっ?」と驚き、次の言葉が出ないまま2人して咲の顔を見る。
「で、でも、ここには志望校が書いてあるけど? お母さんと話し合って決めたんだよね?」
宮沢先生は慌てた様子で親子の顔を交互に見た。
その質問には咲の母が消え入るような声で答えた。
「あの……。サキがそれでいいなら、と……。深く話し合ってはいませんでした。忙しくて……」
「ごめんママ。親の確認サインが必要だって言うから偏差値に見合う高校名を書いただけなの。それに、進路と言いながら高校進学が前提っておかしいでしょ? 就職も選択肢にあっていいと思うの」
「だけど、高校くらい出ておかないと後で困るのよ。お母さんがもう少し頑張るから、サキはまだ働かなくていいの」
「ママはもう十分頑張ってるよ。これ以上頑張って倒れたりしたら、それこそ私たちどうにもならないんだからね」
「そういう問題じゃなくて……」
親子のやり取りに、宮沢先生は慌てて間に入った。
「ちょ、ちょっと2人とも。一旦落ち着きましょう。いろいろ事情があるのは学校側でも把握しています。就職というのもひとつの案として、もう一度ご家族でよく話し合ってみてください。安易に決めてしまうと後戻りできませんから」
結果として、この場での進路問題は保留とされたのだが、受験スケジュールが決まっているため、もし高校進学をするなら、早めに志望校を決めるようにと伝えられる。
ほら、やっぱり進学が前提になってる、と咲は思った。
この中学校では進学率の高さを掲げていて、進学させることが担任の評価点でもある。そのため、ひとりでも多くの生徒に高校を目指して欲しいのだ。
面談の教室を出ると、順番待ちをしていた陸と彼の母親がいた。軽く挨拶を交わしたあと、咲は昇降口まで母を見送る。終始無言で、母娘の間には気まずい空気が流れていた。靴を履き替えた母は、「帰ってから話しましょう」とだけ言い残すと、急いで仕事に戻っていった。
教室に戻る途中、廊下で足を止めた。そこは音楽室の前だった。授業中なのか、時折ピアノの音色が漏れ聞こえてくる。咲はその場に佇み、しばらく物思いに耽っていた。
ピアノを失って傷心していた頃、放課後の誰もいない音楽室に忍び込んで、置いてあったグランドピアノを弾いたことがあった。防音が効いた音楽室とはいえ、こんなにも廊下に音が漏れ聞こえるのだから、見つかれば怒られていたことだろう。
あの時、弾いたのはショパンのエチュード(練習曲)『別れの曲』。ピアノを弾くのはこれが最後と決心したはずだった。それなのに、今でも鍵盤を叩く音が聞こえるだけで気持ちが揺らいでしまう。
いつまでも吹っ切れないでいる自分に、つい「ダメだなぁ、私は……」と呟いた。
「なんで? 音楽が好きならやったらいいじゃないか」
後ろから声が聞こえて、はっと我に返る。振り向くと――。
「リク」
面談を終えた陸がそこにいた。
「サキがやりたいなら、好きなことは続けるべきだよ」
「そんな簡単に言わないでよ。私は中学を卒業したら介護の仕事に就く。ピアノはもうやらないって決めたの」
驚いた顔が見えた。陸の言いたいことも理解できる。それなのに、普通に生きられる人とはうまく調和できない。咲がしなければならないのは、家族のために生きること。母の手助けをし、祖父を介護する。弟の面倒も見なければならない。誰もが当たり前に思い描いているごく普通の未来なんて、咲には全く見えないのだ。
――好きなことをやる? そんなのできるわけがない。
咲は耳を塞いで、その場から走り去った。
その後姿に向けて陸が言う。
「サキの人生はサキのものだろ!」