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愛車、愛犬、愛刀、そして推し― 日本語はなぜ、大切なものに「愛」を置くのか



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    第1章 トランクのヒンジ

    昔、日産のシルビアに乗っていた。

    フロントからリアへと流れていく曲線的なデザインが好きだった。車の顔ともいえるフロントマスクの精悍さ。少し角度を変えて見たときのテールランプの形。屋根からトランクへと続くラインは、見る角度によって表情を変えた。

    洗車のたびに、ボンネット、左右のドア、トランクフードを開け、隅々まで丁寧に拭き上げた。決まって同じ手順で、決まって同じ場所まで。

    その中でも、とりわけ好きだった場所がある。

    真上に跳ね上がったトランクフードとヒンジ。それに呼応するように形づくられた車体側の、直線と曲線が交わる独特の造形。まるで互いを映し合っているような、あの形がとても好きだった。今でもよく思い出す。

    雑誌で取り上げられるような場所ではない。誰かに自慢できるものでもなければ、走行性能に関係する部分でもない。それでも洗車を終えるたびに、私はそこをしばらく眺めていた。

    ほかの人には、ただの部品に見えるかもしれない。しかし私にとっては、持ち主だからこそ見つけられた、シルビアの特別な表情だった。

    日本語には、こうした感覚を短い言葉で表せる言葉がある。

    「愛車」だ。

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    第2章 「愛」がつく言葉たち

    日本語には、「愛」という一文字を頭につけることで、対象への特別な思いを表す言葉がいくつもある。

    愛車。愛犬。愛猫。愛刀。そして、長く大切に使っている愛用品。

    同じ「愛」がついていても、その向けられ方は一つではない。

    愛車や愛刀、愛用品にあるのは、使い、手入れをし、ともに時間を重ねることで育っていく愛着だ。一方、愛犬や愛猫は、ただ大切に所有しているという意味ではない。命ある存在を慈しみ、世話をし、ともに暮らす中で築かれた、家族にも近い結びつきを表している。

    街を歩いていると、犬と人とのさまざまな関係が目に入る。

    飼い主の腕に抱かれた小型犬。飼い主と歩調を合わせ、寄り添うように歩く大型犬。コンビニの出入り口近くにある金属製のU字型車止めにリードをつながれ、大人しく帰りを待っている中型犬。

    飼い主が戻ってきたことに気づいた瞬間、犬の表情やしっぽの動きが変わる。飼い主も犬と目を合わせ、少し表情をやわらげる。

    そうした姿を見ていると、言葉では表せない、飼い主と犬との関係まで見えてくるような気がする。

    この子は、とても大切にされているのだろう。

    そして、その飼い主を見ながら思う。

    こういう人を、愛犬家と呼ぶのだろうな、と。

    車は言葉を返さない。刀も道具も、自分からこちらへ近づいてくることはない。けれど犬や猫は、呼びかけに反応し、ときには寄り添い、こちらの生活にも変化を与える。その「愛」は、一方的に注ぐだけのものではなく、相手との間で育っていくものでもある。

    それでも、「愛車」と「愛犬」には共通するものがある。

    世間から見た価値や役割だけではなく、自分とその存在との間に積み重ねてきた時間によって、ほかには代えられない特別なものになっていることだ。

    もちろん、どんな言葉の前にも自由に「愛」をつけられるわけではない。それでも「愛車」や「愛犬」と聞けば、日本語を話す人の多くは、そこに単なる所有や分類を超えた関係があることを自然に思い浮かべるのではないだろうか。

    ここで使われる「愛」は、必ずしも大げさな感情表現ではない。「愛車」の「愛」は、日々乗り、手入れをし、誰も気づかない部分まで眺めてしまうような静かな愛着に近い。「愛犬」や「愛猫」の「愛」には、毎日世話をし、その表情やしぐさに心を動かされながら、ともに生きる温かさがある。

    同じ一文字であっても、相手によって、その「愛」の形は少しずつ違う。

    私にとっての「愛車」は、トランクフードとヒンジ、そしてそれらと合わせ鏡のように対をなす、車体側のあの部分に表れていた。

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    第3章 モノにも魂が宿るという感覚

    なぜ日本語には、モノにまで「愛」をつける言葉があるのだろうか。

    日本には古くから、長い年月を経た道具には魂や精霊が宿るという「付喪神」の伝承がある。古い道具に魂や精霊が宿り、ときには妖怪などの姿となって現れる――そう伝えられてきた。

    もちろん、この伝承が「愛車」や「愛用品」という言葉を生んだ、と直接結びつけることはできない。それでも、モノを完全に無機質な存在として扱わず、そこに使った人との時間や関係の積み重なりを見る感覚には、どこか響き合うものがある。

    その感覚は、今もさまざまな形で残っている。

    たとえば「針供養」。折れたり錆びたりして役目を終えた針を、感謝を込めて供養する行事だ。地域や寺社によって方法は異なり、豆腐やこんにゃくのような柔らかいものに針を刺すところもあれば、祓いを受けた針を針塚へ納めるところもある。起源には諸説あるが、和歌山の淡嶋神社(あわしまじんじゃ)にまつわる信仰と深く結びつき、江戸時代には各地へ広まったとされている。

    「眼鏡供養」というものもある。役目を終えた眼鏡への感謝を込めて供養する行事で、神社でも寺院でも行われている。徳島県の葛城神社(かつらぎじんじゃ)には「めがね塚」があり、使われなくなった眼鏡などを供養している。

    島根県の一畑薬師(いちばたやくし)では、供養を終えた使用可能な眼鏡を、眼鏡店などの協力によって洗浄し、度数を調べて表示したうえで、インドへ寄贈してきた。

    興味深いのは、こうした行事で「愛」という言葉が使われているわけではないことだ。「供養」という別の形によって、人々は長く使ったモノへの感謝や、役目を終えたものをそのまま捨てることへのためらいを表してきた。

    「愛」は、そうした感覚へ通じる、いくつもの入り口の一つなのかもしれない。

    トランクの中をただの空間として見るか。そこに現れる直線と曲線の組み合わせを、いつまでも眺めていたい造形として見るか。

    その違いは、モノそのものではなく、それと過ごした時間の中に生まれるのだと思う。

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    第4章  英語圏にも、似た感覚はある

    もちろん、モノに特別な愛着を抱くのは、日本人だけではない。

    英語圏でも、船を伝統的に "she"
    と呼んだり、自分の車に名前をつけたりすることがある。現在では船を "it"
    と呼ぶことも一般的になっているが、船や車を単なる移動手段ではなく、人格を持った相棒のように扱う感覚は今も残っている。

    初めて遠くまで出かけた日。家族や友人を乗せた時間。故障を乗り越えながら走った道。そうした記憶を重ねた車を、家族の一員や長年の相棒のように感じる気持ちは、日本人にもよく理解できる。

    英語にも、"beloved car" や "trusted companion"
    のように、大切な車や道具への愛着を表す言葉はある。だから、英語圏にはモノを大切に思う感覚がなく、日本にだけ存在するという話ではない。

    違いがあるとすれば、その感情を言葉にする方法だ。

    日本語では、「車」の前に「愛」という一文字を置くだけで「愛車」になる。細かな説明を加えなくても、その人が車に特別な思いを持ち、長い時間をともに過ごしてきたことまで想像させる。

    「愛車」という二文字の中には、洗車をした時間も、走った道も、誰にも見えない場所を眺めていた記憶も、一緒に収めることができる。

    私がシルビアに感じていたものも、英語で表現できないわけではない。

    ただ、日本語には、それを「愛車」と呼べる短さがあった。

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    第5章  現代の「愛」――推し活

    現代には、「愛車」とは違う形で、特別な対象への思いを表す言葉がある。

    「推し」だ。

    推しとは、自分が特に好きで、応援したいと思う人物やキャラクター、作品などを指す。その推しに会いに行き、作品や商品を購入し、誕生日を祝い、ときには遠くまで足を運ぶ。そうした活動は「推し活」と呼ばれている。

    もちろん、「愛車」と「推し」が同じ言葉の系譜にあるわけではない。

    愛車は、自分が所有し、乗り、手入れをしながら関係を深めていくものだ。一方の推しは、多くの場合、遠くから応援し、その活躍や存在によって自分も力をもらう対象である。向き合い方は異なっている。

    それでも、ほかの人には見えにくい価値を、自分だけは強く感じているという点では、どこか似ている。

    ほかの人にとっては、ただの車の部品に見えるトランクのヒンジ。別の誰かにとっては、何度でも会いに行きたくなる人物や、ずっと物語を見守っていたいキャラクター。

    なぜそこまで大切なのかを、すべて言葉で説明できるとは限らない。それでも、自分にはその良さが分かる。

    「愛車」と「推し」は、対象も、その対象との関わり方も違う。

    けれど、誰かに決められた価値ではなく、自分で見つけた特別な価値に心を向けるという点では、案外近いところにあるのかもしれない。

    第6章  もう一度、あの場所へ

    私にとっての「愛」は、今でも、あのシルビアのトランクを開けた場所にある。

    真上に跳ね上がったトランクフードとヒンジ。そして、それらと合わせ鏡のように対をなす、車体側の直線と曲線。

    誰に見せるためでもなく、誰かに評価されるためでもない。ただ自分だけが、その形の良さを知っている。それで十分だった。

    推しのために遠くまで会いに行くような、外へ向かって表す愛もある。一方で、誰も気づかない部分を静かに眺め、手入れを続けるような愛もある。

    向き合い方は違っていても、そこにあるのは、自分が見つけた価値を大切にしたいという気持ちなのだと思う。

    愛車、愛犬、愛猫、愛刀、そして推し。

    日本語の「愛」は、必ずしも大げさな感情だけを表すものではない。日々をともに過ごした時間や、その人にしか分からない小さな魅力を、静かに包み込むこともできる。

    私にとって、それはトランクを開けたときにだけ現れる、あの場所だった。

    今でもよく思い出す。


    参考・出典

    ※本文の個人的な経験・記憶を除き、文化・行事等の確認に使用した資料です。


    ※この記事は、筆者自身の経験と記憶をもとに、構成・調査・推敲の一部に生成AIを活用し、筆者が内容を確認・加筆して制作しました。

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    日本で暮らしてきた一人の日本人として、文化、風景、言葉、食、車、そして家族の記憶について書いています。 当たり前のようにそばにあったものを、もう一度立ち止まって見つめ直すためのnoteです。

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