
【エッセイ】怪談話 仄暗い渡り廊下と緑の老婆
奇妙な世界に足を踏み入れたことはあるだろうか。
私はある。
けれど、霊感が強いわけではなく、ほぼゼロ。
私の妻の友人で霊感が強すぎる子がいる。
彼女は見えるらしい。
ある時、彼女は友人と伊豆に遊びに行った時、緑が生い茂るなかにそびえる立派な鳥居を見つけたらしい。
彼女は友人に手を引かれてお参りに行こうとしたが、朱色の鳥居を見て絶句したという。彼女は背筋に悪寒が這い回る感覚に襲われたという。
その鳥居には無数の人間が蝉のようにへばりついていて、じっとこっちを凝視していたというのだ。その表情は無表情なものもあれば、般若面のようなおぞましい殺気を放つ顔もあったとか。
偶然にもその神社に私も訪れたことがあった。
ただ、あとからそんな話を聞いてゾッとしたが、私には普通の立派な神社にしか見えなかったのだ。
彼女がいうには、幽霊は自身が見えている人がわかるらしい。
「あなた––––––みえてるのね、私のことが」
と話しかけてくるとか。
彼らがなぜ私たちを見ているのか、なぜそこに存在しているのか、何か心残りがあるのか、それはわからないし、幽霊が存在しているのかも何とも言えない。
私には見えないからだ。けれど、魂というものは本当にあるのではないかと思う出来事があった。
私はダイエットで過剰な食事制限をしていた。
そしてある日、何をしても不安感に襲われる奇妙な状況に陥った。
原因は栄養不足だった。
脳が「身体に異常あり」と警告を発していたのだ。
そのため何を考えても、すべて最悪の事態に導かれた。
私の「意思とは違って」だ。
私の意思とは関係なく、脳は勝手に身体を制御している。
臓器と関係ない私の意思そのものが幽霊だとすると、そこにいる理由があるのかもしれない。
私は、大学時代に一度、奇妙な空間に足を踏み入れたことがある。
祖父が余命3ヶ月との診断された時のことだ。
途中、寿司が食べられるくらいまで元気になったが、結局お医者様の診断通りとなった。
病院で世話をしていた母から夜遅く連絡があった。
「お医者様から、家族を呼ぶように連絡があった」
とのことだった。
急いで私は駆けつけた。
その時初めて夜の病院に入ったが、誰もない殺風景な病院とはそれだけで背筋に冷たいものが走る。
結局、祖父はまだ朝まで持ち堪えそうということで私は一旦帰宅することとなった。
三階の病室から階段を降りる。
渡り廊下を渡って新病棟から旧棟へわたる。その渡り廊下はやや斜めになっていて、患者が転ばないように手すりがついていた。
廊下の両側は窓になっていて昼間なら暖かい陽が差し込み、綺麗な緑を楽しめる。
その夜は満月で月光が差し込み、それが白い壁を反射して仄暗い中にうっすらと病院内の構造が浮かび上がっていた。
そして私の歩く靴の音以外は静寂に包まれていた––––––。
私はすでに臆病風にビュービュー吹かれていた。
さっさと病院の旧棟の裏口から帰るつもりでそそくさと早足で歩いていた時だった。
スーッスーッスーッと奇妙なスリッパの擦れる音が近づいてきた。
旧棟の方から寝巻きをきた老婆がよちよちゆっくりと手すりに捕まりながら歩いてきた。そしてこれから新棟へ向かうのに、上りの渡り廊下に差し掛かろうとしていた。
「あのぉ、すいません。ちょっと手を貸してもらってもいいでしょうか」
そのお婆さんは私にか細い声で話しかけてきた。
ふと老婆を見ると非常口案内の緑のライトが顔を照らしていた。
穏やかな顔立ちの老婆が弱々しく笑みを作っていたのだ。
正直、全身の毛が逆立った気がした。

まさか話しかけられるとは思っても見なかったからだ。
けれどまだ生きているから幽霊ではない、と自分に言い聞かせ、慌てて表情を作った。
入院患者だからゆるい坂道でも不安がある。
…………当然だ。
「ええ、いいですよ。」
私は快く承諾した。
老婆は、蜘蛛の巣のように青黒い血管が浮いたシワシワの手をゆっくりと伸ばしてきた。
私はそっとその手を取った。
その刹那、思わず息を呑んだ。
その手は蝋人形の手のように冷たかったのだ。
あまり気の利いた話もできず、「お元気ですか」と入院患者に聞くのもおかしいし、真夜中だから天気の話もできない。
結局、妙な沈黙と暗闇が私たちを包み込んだ。
廊下を渡りきると、お礼を言われてそのまま病室へとまた歩いていき、消えていった。
その間、この空間には誰もいなかった。
私と老婆のみ。
入院患者がそれもかなりのお年寄りが一人で夜中にトイレに行くのだろうか。
当直の看護師さんとか誰も見当たらなかったのは奇妙だと思った。
そして、その夜祖父を見舞ったのは私だけではなかったが、誰もその老婆と遭遇した者はいなかった。
その老婆はもしかしたら、最後の死目に孫に会いたかったが会えず、この世を彷徨っていた幽霊だったのかもしれない。
私の祖母が亡くなった時、奇妙なことがあった。
母から「もう危ないから帰っておいで」と連絡があった時、私は東京在住だった。電話をもらって3時間かけて新幹線で帰郷してすぐ病院に行った。
病室のベッドでは虫の息の祖母が力なく横たわっていた。
「おばあちゃん、帰ってきたで」と私は祖母のそばで声をかけた。
するとその直後、安心したように祖母は息を引き取ったのだ。
真夜中の病院で遭遇した老婆も、どうしても会いたくて仕方なかった。けれど会えず仕舞いだった。ただ、最後に手を取って欲しかったという老婆の意思が病院を彷徨っていて、大学時代の私の前に姿を現したのかもしれない。
そういう意味では偶然にも役に立てて良かったとは思う。
ただ、ここまで完全に幽霊扱いしておいてなんだが、ほんとに「偶然トイレから病室に戻っただけの普通の老婆」だったら、ごめんなさい。
以下は創作大賞2026、エッセイ大賞に応募した作品で結構、好評をいただいています。ついでに是非!!