
【エッセイ】旅路の果て
親の背中はいつまでも変わらないとどこかで信じていたのかもしれない。
私は49歳。父と母は77歳。
そんなことはありえないはずだが。
最初の違和感は、遺産相続について母からの電話だった。
「最近、ちょっと物忘れがひどいねん」
最初、私は真剣に心配する母の声に思わず笑ってしまった。
父は昔から”とぼけたキャラ”だった。
物忘れは日常の父そのもの。
––––––”物忘れがひどい”なんて何を今さら
といつもの母の心配癖に笑みがこぼれていた。
父は5人姉弟だった。
30年前、偉大な祖父が亡くなった。
そして7億円という莫大な遺産を争うことになったのだ。
5人姉弟のうち長女はダウン症で相談に加わっていない。
”顔は笑顔でも、強欲は隠せず”
話し合いは”円満に全て平等に分割”で決まった。
それを聞いた時、私は”平等”という言葉に違和感を覚えた。
私の母は大丸で大根を買う。
結婚当初は銀行口座の作り方もわからなかったくらい、少し世間知らずなところがある。
しかし、真面目でプライドの高い人だ。
そして”長男の嫁”という古風な風習を一手に背負った結婚生活のように思う。
父と母は結婚当初から子供が中学生に上がるタイミングで、祖父祖母と同居することを約束していたようだ。
同居の目的はもちろん、介護だろう。
父の姉である長女は重度のダウン症で100%介護が必要な人だった。
母は父と共に仕事を手伝っていたが、それ以外に従業員の昼ご飯の用意、家族の晩ご飯の用意、長女の世話、祖母の手伝いまでこなしていた。
それだけではなく、半身不随となった祖父の世話まで。
阪神淡路大震災のとき、祖父は大声で祖母ではなく、母の名を呼んで助けを求めていた。
当時、我が家では祖母をからかう笑い話になっていた。
私の住んでいた二世帯住宅には、二階に住む祖父祖母からの呼び出しブザーが設置されていた。
ブーブーブー
「––––––呼んでるわ」
そういって三階から降りていく母がいた。
24時間365日。
ブザー音を鳴らすための用事だったことも多々あった。
「義理母さん、寂しいんよ一人で」
母の顔には、”察してあげなさい”という優しさが見てとれた。
私はそれを見て見ぬふりしかできなかった。
二世帯住宅を改築する際、父と母の希望で食卓、台所を一緒にして
プライベートスペースは別にする案を提案した。
それは祖母がひとりになっても食事だけはみんなで過ごせるだろうという母の気遣いだった。
ところが全く関係ない叔母二人がなぜか反対し、祖母は叔母2人の意見を採用してしまったのだ。
祖母のいまさらの態度に嫌気がさし、「……ふん」と私は聞き流した。
母はついに文句も言わず従い続けていた。
電車で時々非常停止ボタンが押されたブザー音がなることがある。
この音が時々、あの一瞬凍りつくような食卓の空気感を甦らせる。
従順な母の背中が少し憎らしかった。
家族で出かける時も、旅行する時も必ず祖母に了解を得て、どこに行くのかも全て報告。
必ずお土産も購入していた。
それでも祖母はなぜか父と母を心底信用することはなかった。
叔母叔父の”場当たり的で幼稚な意見”をなぜ採用するのか。
私には全く理解できなかった。
生活の面倒を全て見ているのは父と母だけ。
叔母、叔父は完全なお客様を装っている。
しかし、祖父が亡くなった後、祖母の口座管理は父や母ではなく、生活を共にしていない叔母たちだった。
どうやら祖母はお金を無心にくる、二人の叔母、そして叔父が「自分に甘えてくれている」「頼ってくれている」と勘違いしていたようだ。
父も母も”普通の大人”として誠心誠意、祖母と接していた。
母の当たり前のように介護する日常が、当たり前のことだと祖母に勘違いさせたのか。
ここまで尽くしても、所詮”嫁は他人”ということなのか
今となってはわからない。
「手伝うわ」の一言を決して言わない二人の叔母、そして叔父の嫁は涙を浮かべてこんな言葉をついでに置いていく。
「本当にいつもよくやってくれて感謝の言葉もない。ありがとう」
母は結局、ダウン症の長女、祖父、祖母と三人の介護を24時間365日こなし、最後まで看取った。
この話を私の嫁の義理母に聞かせると、
「なぜ女手が四人もいるのに、お母さんだけなの?」と顔をしかめる。
当然の疑問だろう。
母はいまでも法事用貯金までして、月命日に実の娘、息子たちが見向きもしない墓参りまでしている。
もはや母のプライドなのか、趣味なのか、わからない。
そんな母は叔母叔父たちが置いていく”感謝の言葉”に喜んでいたとまでは言えないが、悪い気はしていなかったようだった。
しかし、私は当然気に入らない。
だからこそ、「平等に分割」という言葉を父から聞かされた私は鼻で笑うしかなかった。
私には叔母叔父に強欲の妖怪、餓鬼が取り憑いているように見えた。
”平等に分割”した影響は思わぬ災いを産んだ。
叔母叔父が手にした数億の祖父の遺産相続分は数年で跡形もなく溶かしていた。
残ったのは二つだけ。
父の副業で、資産でもあるテナント貸ビル経営の会社の持ち株10%と、そのビルの底地が祖父の遺産だった。
そのため、叔母叔父は会社の売上に目をつけ、地代として等分に分配するよう言ってきたのだ。たった数株で会社経営にも口を出し始め、父も三人の土石流のような勢いになすすべなしだった。
口裏を合わせてくる三人に父一人では太刀打ちするのは無理があったのは当然だ。
元々、父は損得勘定で相談なく、したたかにやってしまうところがあった。
いつの頃からか、父から相談を受けるようになり、私の意見を採用するようになっていたのは父からの信頼と受け取っていた。
今思えば、漠然とした不安感を抱くようになる認知症の兆候だったかもしれない。
搾取しようとする身内のしがらみが、父を蝕んでいったと私は思っている。
三人は底地の自身の持分を売りたいと難題をふっかけてきた。
祖父が所有していた土地を五等分に分筆登記していた。そのため、親族以外の人間が所有者になるのはなんとしても避ける必要があった。
こちらの足元を見て売却の話を持ち出したのは火を見るより明らかだった。
しかし、縁を切るチャンスでもあった。
そこで話を受けることにした。
ただ、私には少し気掛かりがあった。
母の心配性の種だ。
”最近、物忘れがひどい”
この言葉が頭の片隅から離れてくれない。
大事な話し合いの内容を忘れてしまっては、三人のいいように踊らされる。
そこで母に一度病院で検査してもらうよう提案した。
あくまで念の為だった。
検査の後、母からの電話では、母の乾いた声が聞こえてきた。
「…………アルツハイマー型認知症と診断された」
ショックだった。
東京在住の私が時々帰郷した際、いつもと変わらない父と母がいた。
もちろん、シワが増えて頭は雪景色に変わったが、顔に浮かべる表情は何も変わらなかった。
それは完全に虚像だった。
父は昔から酒飲みで食べ歩くのが大好きな人。
本業が魚の卸業だったこともあり、よく寿司屋に連れていってくれた。
「本物を食べないと、いいものの良さがわからない」
というのが父の持論で、色んな寿司屋を食べ歩いた。
子供ながらに、「自分が食べたいだけでしょ?」と理解はしていた。
けれどそれにあやかって寿司を食べれるのが嬉しかった。
ついでに食べさせてくれる父のそういうところは好きだった。
仕事一筋なところがあって、父と一緒に遊んだ記憶はほぼない。
小学生の時、キャッチボールをしたいと父に泣いて頼んだのを覚えている。
今思うと、ほとんど休みなく、早朝から夜遅くまで働き詰めだった。
テストで良い点をとった時、父に報告するのが好きだった。
「おお!よう頑張ったなぁ!」
と一緒に喜んでくれたからだ。
おそらく、当時の父は帰宅後はほっといて欲しかったのだろう。
だからオーバーリアクションで褒めてくれた。
たったワンアクションだった。
それでも父のストレートな褒め言葉が嬉しかった。
そんな父の脳に縮小が見られるという診断だったのだ。
もう叔母叔父の前に立たせるわけにはいかない。
私が矢面に立つと覚悟を決めた。
そして父と母はテナント貸ビル経営会社から引退し、会社の経営は私と私の姉が引き継ぐことにした。
状況が変わったことで、土地を購入する話を進めるわけにはいかなくなった。
当初、頭金を三人に払って、銀行からの融資を最小限に留める計画だった。
自営業のワンマン会社だったため、目の前にある資金は乏しく、どうしても父と母の資金に手をつけないと頭金は払えなかった。
その資金とは、父と母が老後の資金にと長年地道に貯金してきた大切なものだった。
三人の土地所有権が手に入る、縁を切れるとはいえ、その資金が三人の餓鬼にいいように浪費されるのは私には我慢出来なかった。
私はそのお金で父と母にのんびり余生を楽しんで欲しかったのだ。
母は土地の購入がうまくいけば将来は私たち姉弟の資産になると見込んで、それなら出す価値があると決心してくれたのだろう。
母の表情からは容易に想像できた。
だからこそ、子として絶対に渡せない。
それにアルツハイマーと診断された父にどういった治療費がかかるかもわからない状態で大事なお金を、それもほぼ”すっからかん”な状態にさせるわけにはいかなかった。
そこで、「各200万しか出せない」と切り出した。
それを聞いてしらけた色を浮かべる三人の顔は今でも思い出すと吹き出してしまう。
話し合いの中では、「変な奴が買いにくるで」「そんな安値やったら他人に売ったほうがマシや」など甥っ子である私を平気で脅してきた。
「会社はなんぼ持ってんの?」
「どれくらい儲かってんの?」
私は完全に三匹の蛇に睨まれたうさぎでしかなく、交渉はあってないようなものだった。
「譲渡所得税を200万払わされるから700万欲しい」
「今までいざこざ一切を水に流すってことで、900万」
と意味不明な理由を並べられ、また自分たちの都合の悪いことは一切口を閉ざし、過去の経緯を何度も何度も壊れたラジオのように大声で繰り返し聞かされ、売買価格はどんどんと吊り上がっていった。
そして私を前にして、叔母は自身も介護をしたと目を釣り上げて言い放った。
「私も面倒みたで。みた!」
喫茶店のBGMが一瞬止まったような気がした。
私は手元にあったコーヒーカップを握りかけた––––––がやめた。
今カップを持てば、ぶん投げる以外に選択肢がなかったからだ。
”祖母の哀れな晩年を演出し、ただ顔色見にきて、お金を無心する”ことが介護らしい。
その言葉はナイフで突き刺されたように、私の心をえぐった。
それでも、地主である叔母叔父と喧嘩別れするわけにはいかなかった。
ただ、金額が一千万を超えた事で、”900万で売却か、地主を続けるか”の二択で迫った。叔母叔父には長年5万円の地代を毎月払い続けていた。地代を5万円にする代わりに固定資産税一切をこちらが支払うという契約だった。
そして話は消えた。
叔母叔父は、地代をもらい続けることを選択した。
私は彼らが喉から手が出るほど欲しい”まとまった金”を渡したくなかった。
叔父が言うには「二十年、地代をもらい続ければ1200万になる。こっちの方が得」という事だった。
計算上はそうなのだろう。しかし私は、その金を守り続けられるようには思えなかった。
それに70歳を超えた糖尿病の叔父が、最近健康志向に目覚めたとか得意げに話す様子は真剣そのものだが、ジョークにしか聞こえなかった。
それに会社が私たち姉弟によって順調に二十年経営し続ける前提に考えているのが不思議でならなかった。
その割には感謝の言葉も何もないからだ。
話は一旦白紙になったが、叔母は苦々しく思っていたようだ。
二年の空白期間の間に、一方は夫を亡くし、他方は夫の介護で状況は変わっていた。
それにこちらも1つ問題があった。
テナントビルも老朽化し、融資を受けられる時間は残り少なかった。
そして話し合いは再開となった。
今度は頭金なしにして一括全額を銀行融資にすることになった。
私たち姉弟は、巨額な借金を背負う羽目になった。
1000万円台を超えたが、OKせざるを得なかった。
すると途端にトントン拍子に話が進んだ。
ところが1点問題が発生した。
一人20万円の仲介手数料を甥っ子である私に払えと言ってきた。
普通、ここはモラルを共有できる相手ならば、スルーするところだ。
仕方なく私は、「借用書を書いてほしい。あんたらが死んだら、遺産から20万返してもらう」と条件をつけた。
叔母叔父は渋々手数料を払うことは認めた。けれど、それから数ヶ月のらりくらりと売買契約、銀行決済を延期させられた。
売買契約の「最低でも○月末までには銀行決済を完了」という売主を守る条項を逆手に取られたのだ。
融資実行を引き延ばされ続ける銀行も私たちに呆れ顔だったのは言うまでもない。叔母叔父の奇妙な行動で査定期限が過ぎて、すでに無駄な手続きをさせてしまっていた。
叔母叔父は、仲介手数料分を地代で稼ぐために何をいってもテコでも動かなかった。
歯軋りするほど悔しかった。
夜、眠れなくなるほど悔しかった。
しかし、それでも法人として地主と契約している以上、「地代を払わない」とは言えなかった。
それに身内とはいえ年長者だった。
私は最後まで交渉相手として割り切れなかった。
身内の財産で生きながらえてきた輩に、真っ当に生きてきた私や姉では歯が立たなかった。それにしても父は、孤軍奮闘していた。
まさに”立ったまま絶命した武蔵坊弁慶”のようになってまで、長年会社を死守していた。それは父がいつも楽しそうに「将来は……」と唯一夢を語っていた会社だったからだ。
だからこそ、この売買契約だけは成立させる必要があった。
父と母を解放してあげたかったからだ。
私はいまだにあのときの修羅場の光景に襲われる。
「––––––私も面倒みたで。みた!」
とその場の空気を切り裂くような鋭い叔母の眼光が忘れられない。
あらゆる言葉で脅してきた場面を幾度となく思い出す。
その度に
「もう終わった……。もう終わったんだ。」
と言い聞かせる。
私たちは、土地の100%コントロール、所有権を有した。
この価値は測れない。
しかも問題となった土地、––––––実は繁華街である周辺で一等地なのだ。
父はかつて私に
「『実は○十億で売ってほしい』って話があったのよ」
と嬉しそうに話していたのだ。
おそらく、この事実を知っているのは親族では私だけだろう。
父はその時、悩むことなく断ったと話した。
「お金を産んでくれる土地やし。○十億でも売ったら終わりや」
と勝ち誇った父の笑顔が印象的だった。
しかしその時、私も餓鬼に取り憑かれたのかもしれない。
「もし土地が私の代にも残っていたら……」
話し合いのなかで、もうまとめて売って金に変えて等分しようと提案もできた。
以前からこの会社の売上を父と母の老後の生活費にすることは決まっていたと言い訳はできる。しかし、裏を返せば、いずれ私たちのものになると色眼鏡で見ていたかもしれない。
「もし等分した土地が会社の資産になれば……」
やはり私は、彼らを罵ることはできないかもしれない。
良い顔を晒しながら、餓鬼の顔を隠していたかもしれない。
その土地は今、私と姉の手中にある。
株式も姉と私で100%。
私たちは、三十年続いた遺産相続を最高の形にしてケリをつけた。
もう彼らと顔を合わすことない。
戦略的に出していた年賀状も終わり。
父と母は、テナント貸会社の売上で優雅な老後を過ごしている。
母はいつも通り、大丸で大根を買う。
ようやく手に入れた優雅な時間だ。
私や姉は会社を引き継いで三年目となる。
社会的責任を果たしてきたし、これからもそうだ。
そしてその間、私と姉が会社から受け取った収入額は正真正銘……ゼロだ。
あれから父が東京の私の家まで泊まりに来たことがあった。
私が誘ったのだ。
母は後日談で、断るつもりだったが、父から「どうしても行きたい」と懇願されてダメだと言えなかったと話してくれた。
母の不安は的中した。
父は老化によって筋力が弱くなり、トイレが近くなって我慢が出来なくなっていたのだ。それに老人用おしめもその時はまだしていなかった。
東京で顔を合わせた時、嬉しそうな笑顔の裏にどこか恥じらいを隠すように感じた。
失禁していたのだ。
……あの父が
失禁自体は仕方ない。
それは別に父が特別素行が悪いわけではない。
ただ、酒によって豪快に笑っていた父が恥を隠す様に、少し寂しさを感じていたかもしれない。
一人旅から帰った父の姿は、ここには書けない状態だった。
母は何も怒らず、すぐにシャワーを浴びさせたと話していた。
そして、母は一人で行かせてしまったことを本当に後悔していた。
私も軽はずみな誘いをしてしまった事、父に恥をかかせてしまった事を今でも後悔している。
ただ、父の思い出のなかには残らない事だけが、不幸中の幸かもしれない。
私のなかでは、私や孫と楽しく過ごす"ジージの笑顔"が今でも鮮明に残っている。
ようやく手に入れた二人だけの老後。
父が夢みた会社は今も続いている。
土地も会社も、父が守り抜いたまま私たち姉弟へ引き継がれた。
父と母は、その会社の売上で暮らしている。
思い描いていた形とは少し違うかもしれない。
それでも父の夢は、ちゃんと叶ったのだと思う。
だから今を生きる父と母には、楽しい今を過ごして欲しい。
たとえ、それがいっときの記憶のなかだけの思い出だとしても……。