
小説【火影の廻りで】第九話
※本作は【蒼き火影】のスピンオフ作品です。
単体でもお読み頂けます。
前回の物語はこちらです。
冬の海峡の町で
冬の冠木門と、長い祈り
まだ七時半を回ったばかりだった。
由美と古堅敦のラブストーリーを期待していた由紀恵には想像もできない話ばかりだった。
「由紀恵ちゃん、明日はお休みだし、久しぶりに会ったんだから。たまにはお酒、いっちゃう?」
「わたしは嬉しいけど、新婚なのにご主人ひとりにしちゃって、大丈夫ですか」
「今夜は由紀恵ちゃんと会うっていったら、ゆっくり楽しんでおいでって言ってくれたから」
「それじゃあ、いっちゃいますか」
まるで仲の良い姉妹のように見えた。
店は敦が独身時代からの行きつけの落ち着いた小料理屋だった。
由美は公衆電話から店へ電話を入れた。
「大丈夫だって。ちょうど奥の小上がりがあいたところで、敦さんの名前を言ったら取って置いてくれるって」
ふたりは会計を済ませ、喫茶店から東口に出た。
店は駅から少し行った東本通りを北に行き、大きなカトリック赤羽教会の先を右に入ってすぐだった。
敦の行きつけだけあって、大将も心得たもので、掘り炬燵のある小上がりが用意されていた。
ふたりは生ビールで乾杯して、改めて由美の結婚を祝った。
女性向けのおまかせ料理を頼み、夕食を兼ねながら日本酒を楽しむ。
由美の幸せに包まれたような顔を見て、由紀恵は嬉しさと羨ましさを感じていた。
「ねえ、わたしの話ばかりじゃ、つまらないでしょうけど……」
由美が少し声のトーンを下げる。
小首を傾けながら由紀恵は言った。
「だって、今日は由美さんの話を聞くために来たんじゃないですか」
「う、うん、だけど、さっきの古堅の話もなんだけど」
「らしくないですよ、由美さんと私の仲じゃないですか、何でも話してください」
「そうね、やっぱりこの話は由紀恵ちゃんにも聞いて欲しかったの」
古堅の家から結婚の許しを得たあと。
由美自身には、どうしても気持ちにけじめをつけておくべきことが残っていた。
それはあの若い日の事故で即死した交際相手、井川聡一の母にこの結婚のことを報告することだった。
今年二月中旬。
有給休暇を取った由美は、始発の新幹線で独り山口県へと向かった。
寒い日だった。途中、関ヶ原付近では雪が降り徐行したりもした。
大阪や神戸辺りは薄日もさしていたが、降り立った新下関駅は本格的な雪模様で、駅前のロータリーの芝生はもう薄っすらと雪が積もっていた。
タクシーに乗った。
「田中町の東連寺の前までお願いします」
「東京から来られたんですかね。ここんとこ妙に温(ぬく)い日が続いちょったんですが。ねえ、今日はあいにくの天気で」
十五分程だろう。
「お客さん、もう東連寺ですが」
「えーと、たしかこの先を……」
「なんなら家の名前を言うてもらえれば」
「はい、井川さんのお宅なんですけど」
「ああ、井川の善治さんとこね。それならもう一本先ですよ」
由美は運転手に丁寧に礼を言い、車を降りた。
井川の家は、壇ノ浦からもほど近い静かな古い街にあった。
由美が井川家を訪れるのは二度目だった。
小さな切妻屋根が掛かった黒の冠木門は少しも変わらなかった。
胸にあの日の悲しみが蘇った。
由美が左脚切断の手術後の深い昏睡にある間に、聡一は荼毘に付され、骨となってこの家へ帰って来ていた。
彼女が、初めてこの家を訪れたのは聡一の三回忌だった。
あの頃はまだ身体の自由も儘ならなかった。聡一の両親は、気持ちだけで充分だと言ってくれた。それでもどうしても由美は、聡一の仏前に参りたくて、両親に介助してもらってここに来たのだった。
今、この家には聡一の母の貞世(さだよ)、婿養子を迎えて家を継いだ妹のゆかり夫婦とその子供の4人が暮らしていた。
聡一の父、善治は、長男を突然に亡くしたショックから身体を壊して床に伏せがちになり、息子の七回忌を済ますと追うように逝っていた。
タクシーの音を聞きつけたのだろう、ゆかりが門まで迎えに出て来てくれた。
「由美さん、寒い中をわざわざ申し訳ありません。さあ、どうぞ。母も待っていますから」
古い家だった。だが、普段から家中清々しいまでに掃除が行き届いているのが感じられた。
貞世は、少し老いたようだが、控え目で清楚な佇まいは変わらない。
「わざわざ遠い処まで申し訳ないですね。また今日はあいにくの雪模様で、東京から来て風邪などひかないと良いのだけど」
由美を気遣いながらさっそく仏間へと案内した。
十畳の仏間の中央には座卓が置かれ、仏壇を背にして由美の為に和風の籐椅子が用意されていた。由美はその気配りに感謝した。
「先にお参りをさせて頂きます」
由美の言葉に、ゆかりは籐椅子を仏壇の向きへ回転させた。
「ごめんなさい、正座だけはまだ巧く出来なくて」
由美は籐椅子に腰掛け仏前に向かった。
前日に用意した塩瀬の練り羊羹を供える。
仏壇の右上の長押には、高輪大学陸上部の濃紺のジャージ姿で微笑んだあの日と変わらない若い聡一の写真が掛けられていた。
隣には彼を追うように逝った父、善治の遺影が並んでいる。
由美の眼にはもう涙が溢れかけていた。
懐かしいけれど見るのが辛い彼の笑顔が滲んでぼやけていった。
その傍らでマッチを擦り燈明の火を灯す貞世の眼も潤んでいる。
彼女は揺れながら灯る燈明で線香を点け仏前に供え、聡一の霊に合掌して頭を深く垂れた。
(聡ちゃん、ご無沙汰してすいません。思いもかけず望まれて結婚することになりました。わたしだけが幸せになっていくようでごめんなさい。でもあなたのことは一生涯忘れることはありません。自分でも我儘で勝手だと思うけど、もし許してくれるなら、どうかこれからもわたしを見守っていてください)
長い祈りだった。
気が付くと後ろにいた貞世の横にはいつの間にかゆかりも端座して合掌していた。
三人のすすり泣きだけが静かに畳の目に沁みていった。
つづく
この物語はフィクションです。時代考証については、関連資料を参照のうえ、一部AIも活用しています。