
小説【火影の廻りで】第十話 最終回
※本作は【蒼き火影】のスピンオフ作品です。
単体でもお読み頂けます。
前回の物語はこちらです。
冬の海峡の町で
冬の海峡と、火影のぬくもり
仏間に設えた座卓は井川の家の古さを物語っているようだった。
大きさが三尺に五尺、厚みが三寸はあろう欅の一枚板で出来ていた。
その重々しい座卓を囲んで、三人の女が話している。
「電話で良かったんですよ」
「そうよ、こんな田舎町まで」
「いいえ、お母様にも聡一さんにもきちんと報告してお許し頂きたかったので」
貞世は慈しみの笑顔で由美に言った。
「許すとか許さないとか言わないの。私はね、由美さんがこうして元気になって、あなたを大切に思ってくれる人が現れて、幸せになるのが嬉しいんですよ。あなたは言葉では言い尽くせないほど苦しんだのだから、これからはその何倍も、誰よりも幸せにならなきゃいけないの。今日は聡一もきっと喜んでいますよ」
「ホント、兄貴もぜったい喜んでいるわ」
その時だった。
仏間の続き間の八畳の和室に掛けられた柱時計のゼンマイが一瞬ぎぃっと音を立てて軋んだ。続けて時を知らせる音が、ぼーん、ぼーんと優しく何回も鳴り響いた。
貞世とゆかりはハッと顔を見合わせている。由美はふたりのただならぬ様子を怪訝そうに見詰めた。
普段明るいゆかりが感極まったような声で呟いた
「……聡一兄さんだ」
貞世も頷いてゆかりを見つめて返した。
「聡一が……喜んでいるね」
その柱時計は、亡き父善治が聡一が生まれた記念にと、街でいちばん大きな時計屋から買ったものだった。
月に一度ゼンマイを撒くのも善治の日課だった。
聡一も妹のゆかりも毎正時に鳴るぼーんというこの温かな時計の音に見守られるようにして育った。
しかし、聡一が急逝した。
東京で荼毘に付されて骨となって白木の箱に納まりこの家に帰って来てからは、家族は悲嘆に沈みながらも慌ただしく葬儀、初七日、四拾九日の法事と続いた。
ひと段落した頃、気付くとその時計はいつの間にか時を刻まなくなっていた。善治は直ぐには時計屋を呼んで修理を依頼したが、特に不具合は見つからない。それにもかかわらず時計はもう二度と動くことはなかった。
時計屋は、機械だから二十年も使えば寿命だと新しい時計を勧めた。だが両親は、聡一の誕生記念の品を替えるのは忍びないと、そのまま柱に掛けて置いたのだった。だから時計は長針も短針も適当なところで止まっており正時を指してはいない。
何年ものあいだ、壊れたまま柱に掛けられていた時計。
その時計が、まるで聡一が由美の結婚を祝うかのように今鳴り響いている。母も妹も、そして事情を聞いた由美も不可思議な時計に怖さは微塵も感じなかった。聡一の由美に対する暖かな祝福の気持ちと受け止めて、また涙を拭ったのだった。
「どうかしら、こんな田舎料理、都会育ちの由美さんの口に合うかねぇ」
貞世が少し心配そうに言った。
昼食に、貞世が昨晩から下拵えをしたという地元の食材を使った心尽くしの料理が振舞われた。
「とっても美味しいです」
由美は、その心配りと聡一が子供の頃から親しみ味わってきた料理に身も心も温められた。
その後、ゆかりの案内で近くの井川家の菩提寺、法泰寺にある聡一が眠っている墓に詣でた。さっきまでの雪は止み、墓地には薄日がさし風花が舞っている。
由美の耳にはまだあの柱時計の優しい音が響いているようだ。
(祝ってくれるのね、ありがとう。わたし、聡ちゃんの分まできっと幸せになります)
由美は手を合わせ泉下の聡一に告げた。
ゆかりに車で駅まで送ってもらった。
改札口まで付き添って見送った彼女は由美の手を取って言った。
「由美さん、いっぱい幸せになってください。もう兄のことは気に掛けなくて大丈夫ですから。さっき柱時計が鳴った時、わたし、今までまだあの家に居た聡一兄さんが、由美さんの結婚を聞いて安心したんだって思いました。きっと今頃、仏様になって天に昇って行ってます。血肉を分けた兄と妹だから分かるんです。だからこれからは……まだもしも変な負い目なんかを持っていたら、それはもう捨て去って御主人とご自分の幸せだけを、それだけを考えて生きて行ってください。それを兄貴も願っていますから」
由美は幾度も頷きながら、ゆかりの掌を握り返した。
彼女は、今日ここに来て本当に良かったとの思いに、胸が熱くなった。
今朝、東京を新幹線で出立し、この駅のホームに降り立った時は雪模様に身が震えた。それでも駅前のロータリーに降りしきる雪を見ながら、結婚という新しい旅立ちにはどうしても聡一と彼の母への報告と赦しえを得なければならないと思っていた。
その心の片隅では、あの事故で独り逝ってしまった聡一への裏切りになるのではと、自分を咎める思いがあった。
あの日以来、自分の宿命を呪い絶望しながらも、懸命に前を向いて生きて来た。しかし、日々の暮らしの中のふとした瞬間にも、独り生き残った負い目が擡げてくることがある。
今では周囲から悲惨な事故を乗り越えた、明るく気丈な女性と思われる由美だが、亡くした脚と同時に抉り取られた心の傷跡は癒されることはない。
それは生き残った自分の、聡一への重く大きい十字架だと思い込むように生きてきた。
だが、この駅から帰ろうとする今は違った。
聡一の妹ゆかりの言葉が心に納まる。
柱時計の不思議に、あの頃いつも聡一が由美に惜しみなく注いでくれた陽春のような温もりを確かに感じ取ったのだった。
壇ノ浦の冬、その海峡を渡る風が新幹線のホームを吹き抜けている。
一分の遅れもなく滑るようにこだま号が到着した。
降りる人は少ない。由美は窓際の指定席に腰を下ろした。
外はもう暮れようとしている。蒼さを増していく車窓、そこにまるでスクリーンのように昨秋の本部の敦の家での陽気で賑やかな宴が浮かびあがる。
今日の井川の家と同じように、由美の為に低い座椅子が用意されていた。
洋子が調子の良い三線を奏でる。
甲高い指笛が響く。それに合わせて泡盛で気分が乗った男たちが、両手の拳を握り、力強く空手を突くように上にして手首をひねりながら足を踏んで踊る。敦もその中で酔った赤い顔で屈託なく笑い、踊っている。
由美の廻りでは、もうすぐ親戚になる女たちが、座ったまま手のひらを開き、しなやかに風を仰ぐように動かす。
「カチャーシーって言うわけさ、さぁ一緒にまにぃ(真似)してみなさい」
由美の手を取って笑顔で促す。
ウサが箪笥を背もたれにして、地蔵のような顔で由美を見て満足そうに頷いている。
由美は、涙がこぼれるままにしていた。
新幹線がレールの継ぎ目を超えるせいだろうか、窓は時折ミシッ、ミシッ、と小さく音をたてる。
元に戻った暗闇が広がる窓の外を、等間隔の短い光が瞬いては後ろへ消え去っていく。
由美は火照った頬をその窓の硝子にそっとつけた。
若いあの日のままの聡一の笑い声が遠くに聞こえたような気がする。柱時計の暖かく優しい音色がその声に重なって木霊していた。
彼女は人差し指でそっと目尻を押さえた。
(敦さんと必ず幸せになってみせる)
由美は、二重の冷たい硝子の窓に頬を寄せたまま、静かに目を閉じた。
【火影の廻りで】
― 完 ―
※この物語はフィクションです。
※この『小説 火影の廻りで』のサムネ画像はモンモランシーの通り様のギャラリーからお借りしました。モンモランシーの通り様、いつもありがとうございます。