メインコンテンツへスキップ

なんで死にたいと思うのか、延々延々と考えてみた

     ※この文はネガティブだし、読んだって何も楽しくないので、心身弱ってる人は読むのをやめとこう。
     でもなるべくライトに、他人事のように書いたつもりです。いま苦しんでいる誰かのためになれば幸いです。

     「死にたい」と思うのは浅慮なのか。
     生きる努力が足りないのか。知識や想像力が足りないのか。生きる未来を見出だせないのは、悪なのだろうか。
     結局考え続けなければいけない。鬱鬱「死にたい」と思う頭と時間があるうちは、残念ながら私はまだ、生きているのだから。

     「死にたい」と思う。大体1日3回くらい、多い時はそれ以上。中学生の頃から始まり、以来ずっと続いているものだ。もう15年以上にもなる。
     飽き性の私にずっと続いているのはこの希死念慮くらいだが、全くもって嬉しいことではない。

     日により「死にたい」程度は違い、ぼんやり思うときもあれば、ちょっぴり死にたい時も、激しく死にたくなる時もある。ホルモンバランスが乱れる生理前に多い。
     そういう時は首に包丁を刺してうっかり死んでしまいそうになるので、何とか死なないように、泣きながら布団に閉じこもってじっとしている。
     私自身も死にたいのか死にたくないのか、よく分からない。

     私が死にたいと思うのは、ひとえに私がほどほど健康だからだ、と思う。
     幼少時からずっと続く体調不良と精神疾患があっても、すぐに死ぬことは無い。医療が発達し、健康と安全が蔓延る世の中では、すぐに死ねる手段が手に入らなくなった。
     もちろんこれは悪いことじゃなく、素晴らしい世界の進歩だということは断言しておく。

     現状貧しくても、とりあえず生きられていて、つらく感じる毎日の中で、ささやかな幸せを感じることもある。
     でも、この先ほどほど健康な数十年が続いていくのが見えると、私は死にたいと思ってしまう。
     この生をすぐにでも終わらせたいと思ってしまう。

     ただ、私自身”これ”をもう何年も繰り返し流石に疲れてきて、何故こんなにも死にたく思うのだろうかと、本腰を入れて考えてみることにした。

     病院に掛かり、カウンセリング等を受ければその方が解決に近づくだろう。でも治療が進んでも完治することはない。症状が緩和するだけだ。
     病院は病んだ人が押しかけていて全然予約が取れないし、私はまだ社会と関わって暮らせている。
     ならば、この希死念慮とこの先も付き合っていかねばならないと観念し、自分で解決策を探してみたい。
     これは、私が15年抱え続けたものとの、戦いの記録である。

    ※下記記事に載っている内容を少し含みます。


    〇そもそもの始まり


     蓋をした記憶をあまり掘り起こしたくないのだが、そんな我儘言ってても始まらないので、初めて死にたいと思った時のことを思い出してみる。

     初めは、家から逃げられないと自覚した時だったと思う。
     他の人から見れば違うかもしれないが、私の尺度でいえば両親は毒親だったし、耐えがたいほど逃げたい家だった。

     私の両親は、どちらも機能不全家庭で育った人間だった。愛されなかった両親は、寂しさからまだ10代も若いうちに私と妹を産んだ。
     彼らは学が無く無知で、想像力も無く、過保護で、支配的で、まだ子どもだった。未熟で、決して親になってはいけない人達だった。

     覚えている嫌なことがいくつもある。

     朝起きてすぐ、母の機嫌をそろそろと観察せねばならない。
     夜職をしている母は朝方帰って来て、酔ったまま床で寝ていることが多かった。寝ている時は放っておけばいいが、起きている時は面倒だ。母は感情のコントロールが出来ない人だった。
     「あ"?」と怒鳴られればその日は機嫌が悪い。声を掛けたことを後悔しながら、延々始まる愚痴と文句を聞くのが日常だった。

     暴言を浴びせ、殴られるのは日常茶飯事。椅子を投げられたこともあった。何か言うと口ごたえするなと言われるから、黙って泣いていれば、泣くなと叩かれた。
     酷い時は、うるさいと部屋に閉じ込め鍵をかけられたり、お前はうちの子じゃないと山中に連れて行かれ放置されたこともある。

     遊びに行きたいと言えば、そんな元気は無い、どこにお金があるのと突っ跳ねられた。「うちは貧乏なんだから」と毎日のように言った。
     その割に頻繁に彼氏と遊びに行き、寂しいから帰って来てと伝えたが、何度伝えても帰って来なかった。

     支配的な母は、酔うと泣きながら縋って甘えてくる。撫でて、慰めて、布団に入れてあげなければいけない。まるで私の方が母のようだった。

     反面、父は優しい人だったが頑固で何もしない人だった。自ら「九州男児だから」と自慢げに言い、自分の間違いを認めようとしなかった。穏やかなことも多いが、キレると真っ先に手を上げてくるのは父の方だった。

     私と妹は父の世話をしなくてはならず、学校が終われば毎日、料理や洗濯などの家事をし、父の酒のつまみを作った。
     休みの日は朝からパチンコに行き、家に居ないのがせめてもの救いだった。

     他にもまだ覚えている、嫌な記憶がある。

     思春期に入りひとりで部屋に籠りたいと言うと、部屋のドアを取り外し、リビングに引き摺り出され、つまらないバラエティを「家族全員で見る」ことを強要された。
     機能不全家族で育った母は「普通の家族」に憧れていたからだ。
     読書は許されたので、皆がテレビを見る中ひとりだけ本を読んでいた。
     今も読書は好きだが、初めから本が好きだった訳ではなく、家族から逃避・反抗する手段だったと思い出す。
     学校の図書室や図書館から借りれば、お金がかからないのもよかった。

     母は、私に髪を切ることを許さなかった。女の子なんだから髪を長くしていなさい、と言われた。額が広く、禿げているように見えるので前髪を作りたかったが、おでこを隠すなと絶対に作らせなかった。
     両親は、毎日のように太っていることを茶化した。もっと食費をくれれば健康的な食事を作ることもできたのに、手渡される金額では炭水化物で空腹を満たすことしか出来なかった。

     貧乏なので家が狭く、安アパートに住んでいた。
     中学生になっても高校生になっても、並べた布団で雑魚寝だった。妹は母と寝ていたが、私は父の布団で寝ることを強要された。
     父と母は長らく触れ合っていないらしく、その反動は私に押し付けられた。服の中に入って来る手を拒めず、寝ているふりをする夜が続いた。

     頻繁に母が彼氏に会いに行くため、愛着障害になり暴れ回る妹を宥めようと、母は妹を贔屓して可愛がった。
     かと思えば、放置された私のためか「本当はあなたの方が好きよ」と擦り寄ってくる。おかげで、無事私の情緒も崩壊した。


     とはいえ、反抗的な妹と違い、私は"大人しい良い子"でいた。
     そうすると怒鳴られる回数が減り得だからだが、「お姉ちゃんの方が言うこと聞くね」と褒められた。私は情緒不安定な家族の何時間も続く愚痴を、板挟みになって聞いて宥め続けた。
     そうだよね、つらいよね。大丈夫。私が皆の助けになるよ。
     やがて笑顔が貼りつき、頬と唇、目尻が痙攣して止まらなくなった。


     全員死ねよ、と思った。甘い目論見で、金もねえくせに、学もねえくせに、愛して欲しいからって軽率に子どもを産みやがって。

     両親は確かに私と妹を愛しているのだろうが、子どもを産んでいい人間じゃなかった。
     親というものに憧れていただけ。1人じゃ寂しいから家族が欲しかっただけ。無償で自分を愛してくれる存在が欲しかっただけなのだ。

     そういう日々が続いて、やがて、子どもでいるうちは家から逃れられないことを悟った。
     中学生じゃ、まだ働いてひとりで生きていくのは難しく、大人になるまでこの狭い家で、家族の機嫌を取りながら生きていかないといけない。
     いや、大人になってもこの地獄から出してもらえるか分からない。
     この苦しい日々を終わらせたい。
     彼らにとって必要なのは大人しく言うことを聞く娘で、私じゃない。
     ここに居る限り、私は私でいられない。

     アイデンティティ形成期らしい思考だが、そう思った時、気づけば私は包丁を持って泣いたまま座り込んでいた。もうここに居られないと思ったのだ。
     そうだ、初めは死にたいと思った訳じゃなく、ただ居なくなりたかっただけだった。私が私でいられる場所。
     自由な場所へ行きたかった。

     そうしていたところを妹に見つかり、泣いて止められたのでまだ生きているわけだが、
     ともかく、私の「死にたい」はそこから始まったのだった。


    〇何故「自死」が選択に入るのか


     じゃあ、なぜ逃避の代償として「自死」なのかと考え始めると、確実に私に影響を与えたものがひとつある。
     それは、幼い頃に経験した叔母の自死だった。

     叔母は明るく優しい人で、遊びに出かける母に代わって、自分の子と一緒に私たち姉妹の面倒を見てくれた。年上のお姉ちゃんのように思っていた。
     だがその一方、彼女は浮気ばかりで家に帰ってこない夫のことを悩んでいたという。だんだん塞ぎがちになり、床に臥せる日が増えていった。

     そしてある日、彼女は大量の睡眠薬を飲んであっさり死んだ。見つかった時、傍らでまだ幼い子が目覚めない母の体を揺すっていたそうだ。
     母が泣きながら私に叔母の手を握らせた。もう握り返してくれない、冷たく細く白い手を、未だにずっと覚えている。

     自死遺族の後追いは多く、大きく影響を受けるという。報道されると自殺が増える「ウェルテル効果」という心理学用語もある。
     それは確かにそうだろう、経験していない人よりも確実に、思考と逃避の選択に「死」が入ってきてしまうのだから。

     叔母の葬儀で遺族は涙に沈み、慟哭する声もあった。今思い出しても、壮絶な葬儀だった。
     亡くなった叔母が、本当に悩んでいたことが何だったのかは分からない。繊細な人だったのだろうと思う。
     だからこそ彼女が「死」を選び、それが「生」からの逃避になったことは確かな事実だった。

     悲しいことに私が他人の死を経験したのは、この件が初めてだった。
     幼少時にして「生きるのが嫌になったら死んでしまえばいい」と知るのだ。
     「死」とは、実現不可能なことでも遠い未来の話でもなく、ただ今の「生」を、苦しみを終わらせる手段のひとつだと思うようになった。


    〇それからの希死念慮


     さて他人の話ばかりではなく、私の話に戻ろう。

     妹に止められたばかりに死ななかった私は、この環境から離れた方が良いと気づき、少しずつ物理的に距離を離すことで、家族から離れようとした。
     初めて死にたいと思った日から希死念慮は常態化していたが、読書や音楽に没頭することでひとりの時間を作るようにして、何とか耐えていた。

     高校は家から離れたところを選び、卒業後は遠方で就職予定だったが、遠くに行くなと引き留められたので、専門学校に進学することにした。
     母は渋ったが、勉強のためと言いくるめて何とか一人暮らしできることなった。
     貧乏なので学費はいくつも奨学金を借り、生活費はバイトを詰めて賄った。大変だったが、家を出られるというのはそれだけの価値があった。

     一人暮らしを始めると、持病の皮膚病や頭痛、喘息、顔の痙攣がどんどん治っていった。家がどれだけストレスだったというのだろう。
     希死念慮も落ち着き、驚くほど心穏やかな日々を過ごしていたのだが、ここで一人暮らしを始めた弊害が出てくる。

     離れたはずの家から、毎日のように長電話がかかってくるのだ。

     私は家の中の緩衝材だった。家族の依存を一手に引き受け、話をよく聞き間を取り持ち、優しく皆を宥めていた。
     私が居なくなった家では、家事は全て妹に押し付けられ、母はより家に帰らなくなり、父の仕事はうまくいかない。衝突が起こり、それをとりなす人間はいない。家の中は冷え切っていたらしい。

     私は学校とバイトに行っている以外の時間、延々と家族と電話していた。全部、解決しない愚痴の電話だ。
     家の中は冷え切っていたから、全員別々で電話をかけてくる。酷い時は家に帰ってから寝るまで、朝起きてから学校に行くまでの間も電話を受けていた。
     彼らは、自分がどんなに正しいか、相手が間違っているかを訴え続けた。

     さて、マイナスな感情と愚痴ばかり引き受けた人間はどうなるだろうか。端的に言うと、私は壊れた。
     それはさながら、ギュウッと力強く握り潰されるぬいぐるみのようだった。父と母と妹に、代わる代わる握られたぬいぐるみの私は、笑顔を湛えたまま破れて中身を噴出した。

     学校の勉強にもついていかないといけないし、詰め込んでいるバイトもあり、酷く疲弊していた。限界状態で希死念慮は復活した。
     やがて起き上がれなくなり、やっぱり私は家から逃げられないんだと絶望していた頃、私は夫と出会った。

     夫と出会ったことは、私の人生にとって大きな転機だった。
     自分と考えが違うことを尊重してくれる。いつも楽しく可笑しくあろうとしている。調子の悪い時は、お互いに支え合い、問題があれば一緒に解決しようとする。誰とも比べず、私自身を愛してくれる。
     家族を捨て、彼と生きることを選ぶのに、そう時間はかからなかった。

     結局、私の居ない家は数年と持たなかったらしい。父は、妹に私の代わりを求めたが、そんなことが上手くいくはずもない。
     妹は家を出、次いで母も家を出た。いつの間にか安アパートは解約され、私の家は無くなっていた。

     「普通の家族」なんてものは、仮初だった。
     私たち家族は、そもそも私は、産まれる必要のないものだったのだ。


    〇幸せと不幸に振れる度、希死念慮が強くなる


     さて、ここまで私の半生を書いてきた。
     この後も転居や転職を繰り返して安定することなく生きてきた私だが、その辺りは今回の話とは関係ないので省略する。

     希死念慮と付き合ううち、良いものであれ、悪いものであれ、感情が強く動かされると、希死念慮に変化があることに気づいた。
     横長のシークバーを思い浮かべてみて欲しい。マウスのポインターを当て、ドラッグして程度を動かすアレだ。
     その両端に「幸せ」⇔「不幸」と書く。そのどっちに振れても、私の希死念慮は強くなってしまうのだ。

     「不幸」は分かりやすいだろう。何か嫌なことや、ショッキングなことがあった時は希死念慮が強くなる。人間の心理的にストレスを受けたら落ち込む、というのは当然のことであるし、慣れれば対策も立てやすい。
     実際に私もショックを受けた、と感じたら「今は仕方ない」と受け入れ休むようにしたり、なるべくダメージを少なくするようにしている。

     問題は「幸せ」に振れても、希死念慮が強くなってしまうことだ。
     私の原初は「苦しい日々を終わらせたい」から来ている。そのため「幸せだな」と感じると「この幸せのまま終わってしまいたい」と思うのだ。
     何とも独りよがりだが、こっちの希死念慮の方が厄介だ。幸福感に酔って、あっさりと死んでしまいたくなる。
     バッドトリップするのに近いかもしれない。薬が無くとも、精神だけならトんでしまえる。しかもこっちの希死念慮は質が悪く、なかなか通常の状態に戻っていかない。

     ということは、希死念慮を悪化させないために目指すべきは幸せと不幸の間で、やや不幸寄りの状態の方がいいのではないか。
     序盤に書いたように、ほどほどに健康だと希死念慮が強くなってしまうから、時々自分に無理をかける。あえて安定しない状態を作る。
     それが希死念慮を弱める、私のための方法なのかもしれない。

     ……だが、これに振り回される夫のことを思うと、申し訳ないし辛くなる。
     過去を恨み、家族を恨み、先を疎んじながらかろうじて生きる私に、将来性など微塵もない。だから、子どもは作らない。作れない。
     私のような人間は、やはり他人と暮らすべきではないのかもしれないと思いながら、未だに夫の優しさに甘えている。
     結局、私も醜い家族と同じ、愛情が欲しい子どもなのだと悩み続けている……。


     ここまで、私が何故死にたいと思うのか、どうすれば解決するのかを考えてきた。分かっていたが、やはり根本的な解決方法なんてものは見つからなかった。
     これはあくまでも私の例で、誰にでも適用できるものじゃない。参考になんてしない方がいいだろう。
     それでも、こんな環境でも何とか生きてきた人間がいること、
     希死念慮と戦い続けている人間が此処にもいることを、
     今も苦しんでいる誰かに、届けばいいと思う。


    この記事が参加している募集

     
     
    自分がつよくなる為の言葉をひとつでも多く残す場所。もものたより、と読みます。 エッセイ多め、時々創作、更新は気まぐれです。 【記事・他著作物の無断転載/使用・AI学習禁止】

    あなたへのおすすめ