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Photo bycool_honest6093

【エッセイ】どうして顔を上げるのかって

    1.お空の青さを思い知るため
    2.お肌のたるみを予防するため
    3.会いたい人に遭遇するため

    きっとあなたにもいるだろうと思う。

    疎遠になったものの生きている間にもう一度会いたいと思うような、そんな人が。

    疎遠になると言っても事情は実に様々だけれど、大きく分けるなら知らぬ間に疎遠になる定番パターンに加え、意図的に疎遠にする非定番パターンとある。今回は後者のお話となる。

    定番は分かりやすい。

    学校であれば席替えに始まり、進級によるクラス替え、卒業、と物理的な距離が事あるごとに変化しそれに伴って「そういえば話さなくなったな」と友情の形も簡単に変形していく。友情と言えば、当時毎日のように交換日記をするほどの仲だったA子が今どこで何をしているか私にはさっぱり分からないし、私がページに貼ったシールたちをわざわざ剥がして自分のページに貼り直す奇行を繰り返していた彼女のその後を分かりたいとも思わないけれど、これは無情ではなく無常であるだけ。何かが、誕生してから未来永劫同じ状態というのは残念ながらこの世にはなかなかないらしい。

    そして職場であれば部署の異動や退職、転職などで人が入れ替わっていくことで疎遠になりやすくはある。太る気がなくても下腹に脂肪がついてズボンが入らなくなるように、特別なろうと思っていなくてもいつの間にかなっているのが疎遠の正体だ。怖いよね、脂肪。

    対する非定番は、意図して、というのがポイントに思う。それこそ「事情は実に様々」で、要は何かをきっかけにして「関わりたくない」という感情(馬が合わない、嫌いになった等)であったり、あるいは「関わることが難しい」という制限(親の反対、世間の目等)が生まれたために自発的に疎遠状態にするというもの。

    ちなみに口笛を吹くように何気なく疎遠の意味を調べてみたら【行き来や文通が絶えて、親密さに欠けること】とあった。たった一文の後半部分に差し掛かった途端の辛辣さたるや、本当にもう尋常じゃない。再会したいと願うような相手との関係性を「親密さに欠けるよね(笑)」などと言われてしまうと、確かに何もかも絶えている上に正論も正論すぎてぐうの音も出ない。意味を調べたことへの後悔がクモの巣のようにまとわりついて鬱陶しいので、そそくさと次の段落へと避難する。

    そんな私を横目に「しかしまあ未練がましいったらねえ…」とどこかのマダムが扇子をバサバサと仰いでいるかもしれないのだが、正直、偶然に遭遇するためというのが今一番の顔を上げる理由となる。堂々の1位だ。

    え、じゃあ一番に持ってきたらいいじゃん。

    という話になるが、仮に一番に持ってきたとしよう。するとどうだろう、読み手にはまるで私が至極遭遇したい人かのように映ってしまい、その前のめり具合に引かれてしまうばかりか、かつてマダムが適当にこぼした「未練がましさ」がかなりの真実味を帯びてしまう恐れがある。そうなると1位のメダルもそっと首から外しそっとケースに仕舞わなければならないだろう。そのままそっと表彰台から降りてスタジアムを後にし、そっと市バスに乗って家へ向かい、そっと布団に潜り込まなければならないだろう。そっ…

    と、ここまで口を動かすとかえって怪しさが強烈に立ちのぼりもはや至極遭遇したい人以外の何者にもなれないが、遭遇するために顔を上げているのは紛れもない事実。

    より正確に言うと、遭遇したことに気付けるように顔を上げている。

    スマホに目を落としっぱなしでは、たとえ数十センチ先にその人が現れても気付くことができない。かと言ってあまりに真っ直ぐ前を向いて、例えばそれが電車の座席というシチュエーションであったらば、向かいに座る見知らぬ誰かと目が合いすぎて容赦なく「キショ」と思われかねない。そう、難しい。顔を上げるのはもはや技術と呼べる。早急に検定試験でも設けてもらいたいものである。

    でも、そのような困難を踏まえてもなお遭遇したい気持ちが消える気配は微塵もない。苦境から何度も掬い上げ、私以上に私を肯定し続けてくれた、今世だけでは到底感謝をしきれそうにない程の人なのだ。

    当然多くの人が、ポケットに手を突っ込んだまま鼻という鼻で笑いながらこう言うだろう。「そこまで会いたければ自分が会いに行けば済む話だろうに」。私自身もそれは非常によく分かる。相手は死者でも2次元のキャラクターでもなくただの生身の人間であり、「会いに行く」を試みることは実際には可能である。

    え、じゃあ余計会いに行ったらいいじゃん。

    という話になるが、それは本意ではない。どれくらい不本意かを例えるならば…あなたは休日に古都散策を楽しんでいたところ突然横から伸びてきた手に路地へと引きずり込まれる。自分を捕らえている手から辿るように顔の方まで恐る恐る見上げると、そこには鹿のマスクを被った鹿人間。この世で銀行強盗かプロレスラーしか被らない目と鼻の部分だけが小さく開いた気味の悪いマスク。彼はメルヘンなフォントで「FUHONI」とプリントされたTシャツを突き出してこう凄む。「純粋そうな外国人にこれが日本で一番人気の土産だと笑顔で勧めるんだ」。そうして否応なしに店先に立たされる。外国人はいくらでも通りすがるにもかかわらず一向にTシャツが売れないどころか、店に近寄りすらしない。それもそのはずである。自分にはおぞましき鹿のマスクが被せられていたのだから―

    こんな馬鹿げたシチュエーションは恐らく生きているうちには訪れやしないのだけれど、こんな状況に陥るのと同じくらいに「会いに行く」を試みるのは不本意で、やりたくないことなのだ。

    兎にも角にも、私のスタンスは相手が会いに来ることを懇願するでも自分が会いに行くでもなくあくまで偶然に遭遇することを期待するだけというもの。とても、面倒くさい。もしその偶然がやってこなければ「縁がなかった」と肩を落とすまでのことで、やってきたなら「縁が巡ってきた」と歓声を上げるまでのこと。とてもとても、面倒くさい。

    しかし、自発的だったとは言え疎遠になったことでしっかり思い煩い始めた。そこからこの「縁がなんたら」というなんちゃって仏な思想を手札の一つにするまで、ブッダもビックリ、ほとんど半年が経っていた。そら立派な白毫―正確には白髪が増えただけであるが―も生える。

    思い煩うというと、この世に存在するおおよその問題の原因となりうる執着、そして恐れが自分にももれなくあったのだ。

    「会いましょうか」「そうですね、会いましょう」と双方の意向が確認された上で会うことが予定されたならそれは実に正統なコミュニケーションと言える。あとは約束の日時に会うだけで他に何の心配も要らなければ、スケジュール帳を度々開いては「ふふ、あと3日だ」とだらしなく微笑んだらよろしい。しかしその過程なくしてただ会いに行く、ということは、追いかける、という構図になる。相手がこちらと会いたくない可能性も大いにあり、本当にそうときたらただの迷惑に終わる上にこちらも相当に傷付かなければならない。本来の過程をすっ飛ばすのは、白Tのくせしてエプロンなしでカレーうどんを食べるくらい無謀かつ危険な話だ。どうでも良いが、自分のすすり方にいくら注意を払ったところで隣の客のカレーが容赦なくこちらに飛んでくる確率の高さがこの人間界の恐ろしいことの一つだと思う。

    「前もって連絡を取る」術もあるが、行き来も文通もとっくに絶え親密さに欠ける―まさに疎遠状態である。仮に何か送信ができたとて、それに返信がなかった場合、それはそれで傷付かなければならないと思う。だから、だから私は、いつかどこかでもう一度再会したいと確かに思いつつも偶然に遭遇することをただ期待するほかに術がない。

    それにしても、ここまで真っ当な風を装って行を重ねてきたものの大変な臆病者であることは隠しがたい。偶然よりも生涯を終える瞬間の方が先に来たとしたらきっと後悔をしただろうというところまで想像がついているけれど、それでも今こうして扉ではなくキーボードを延々と叩いてばかりの私には、一度広がると簡単には取り除けない染みのようなものが心にあるのかもしれない。ただそれは、落とすべきものではなく密かなガソリンとして、私を生かしてくれていることの一つになっているとも思えてならない。純真無垢の魂で空の青さを思い知り肌のたるみを防ぐために顔を上げられるようになるのは、どうやらずっと先のようである。

     
     
    95年大阪生まれ/いつも心に”知るかボケ”/写真を撮ったりエッセイを書いたりします/ここらへんで道草でもどうぞナスって

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