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本能寺の変1582 【重史121】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史121】 「言継卿記」 

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     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
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     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
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    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史121】 そ第11話㊳

    ①奉公衆方へ、年頭の礼に罷り向かう、

    ②明智十兵衛、濃州へ下向と云々、

                           「言継卿記」

     永禄十三年1570、一月二十六日。           157000126

     光秀は、幕府の奉公衆に出世していた。
     以下の記述は、山科言継が、年始の挨拶に出向いた時のもの。
     「奉公衆方」、とある。
     幕府重臣たちの屋敷が立ち並ぶ一角に、光秀の屋敷が、あったのだろう。

      廿六日、
      甲午(きのえうま)、雨降る、未の刻(14時頃)より、晴、天一﹅﹅、
      未の下刻(15時頃)より、奉公衆方、年頭の礼に罷り向かう、

     光秀の名は、京中に、知られていた。
     京都奉行に抜擢されてから、一年後の姿がここにある。

      路地次第、
      竹内治部少輔、濃州へ下向と云々、
      三淵大和守・同弥四郎・一色式部少輔・曾我兵庫頭、
      明智十兵衛、濃州へ下向と云々、
      摂津守・下京大和治部少輔・同朽木刑部少輔、酒有り、
      竹田法印・同治部卿・荒川與三・三福寺・清和院・眞下式部少輔・
      疋田弥九郎・父入道出合・松林院等なり、
                                (「言継卿記」)

     光秀の背後には、信長がいた。
     「濃州へ下向と云々」、とある。
     頻繫に、連絡を取り合っていたのだろう。
     二人の距離が、急激に、狭まっていた。
     これに、異を唱える者など、いようはずはない。
     光秀は、幕府においても、織田家中においても、特別な存在だったものと
     思う。

     【引用】 そ第11話㊳ 163



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    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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