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本能寺の変1582 信長、死す 「是非に及ばず」 5 260420 №6-121 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    信長、死す 「是非に及ばず」 5 260420 №6-121

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    *加筆修正 260420

    信長、死す 「是非に及ばず」 5 260420 №6-121

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    明智勢が御殿へ殺到した。

     信長方は、表御堂の番衆と一手になった。
     これを迎え討つ。

      透(すき)をあらせず、御殿へ乗り入れ、
      面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。

    本能寺は、修羅場と化した。

     奮戦すれども。
     虚し。
     衆寡敵せず。
     家臣らは、次々に討死していく。 

    御厩、無惨。

     以下、討死の衆。
     忠義の者たちである。

      御厩(うまや)より、矢代勝介・伴太郎左衛門・伴正林・村田吉五、
      切つて出で、討死。

      此の外、御中間衆、藤九郎・藤八・岩・新六・彦一・弥六・熊・
      小駒若・虎若・息小虎若を初めとして廿四人、

      御厩にて討死。

    御殿では、死闘が繰り広げられた。

     なれど、及ばず。
     同じく、討死の衆。
     信長の近習たちである。
     主君のために、身命を捧げた。
     
      御殿の内にて討死の衆。
      森乱・森力・森坊兄弟三人、小河愛平・高橋虎松・金森義入・
      菅屋角蔵・魚住勝七・武田喜太郎・大塚又一郎・狩野又九郎・
      薄田与五郎・今川孫二郎・落合小八郎・伊藤彦作・久々利亀・
      種田亀・山田弥太郎・飯河宮松・祖父江孫・柏原鍋兄弟・
      針阿弥・平尾久助・大塚孫三・湯浅甚介・小倉松寿。

      御小姓衆、懸かり合ひ懸かり合ひ、討死候なり。

     斯く戦えり。
     
      湯浅甚助・小倉松寿、此の両人は、町の宿にて此の由を承り、
      敵の中に交(まじ)り入り、本能寺へ懸け込み、討死。

       御台所の口にては、高橋虎松、暫らく支へ合ひ、比類なき働きなり。
                              (『信長公記』)

     戦国の世である。
     下剋上が罷り通る時代だった。



            ⇒ 次回へつづく  信長、死す 「是非に及ばず」 6

    【記事一覧】


    目 次
    目次大

    目次大 信長、死す 1~7 
    目次中 信長、死す 1~7
    目次小 信長、死す 1~7

    信長と、ともにあった十五年。
    永禄十一年1568~天正十年1582。
    光秀を知ることは、信長を知ることである。

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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