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本能寺の変1582 【重史81】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史081】 「上杉家文書」 

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説 目次中 
     1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
     5志向の相違 +信長の油断 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史081】 そ第20話②            

    ①今度、京都様躰、是非なき次第に候、

    ②上杉弾正少弼殿

                          「上杉家文書」

     永禄八年1565
     義昭は、上杉謙信を頼った。
     その年(永禄八年)、八月。
     御内書を発す。
     先ずは、越後へ。
     
      今度(こたび)、京都様躰、是非なき次第に候、
      其れに就き、和田に至り取り退(の)き候、
      進退の儀、万端任せ置き候間、
      早速、無念を散じ候様、
      入魂(じゅこん)、偏(ひとえ)に、頼み入り候、
      
      委細の段、大覚寺門跡え申し候間、演説有るべく候
      穴賢(あなかしこ)々々、

        八月五日       (花押)
        上杉弾正少弼殿
                             (「上杉家文書」)

     謙信は、これまで二度、上洛している。 
     幕府が、最も、信頼を寄せる大名の一人。
     天文二十二年1553と永禄二年1559。
     これまで、二度、将軍義輝に拝謁している。 

     【引用】そ第20話② ◎第20話 第20話



     ⇒ 次へつづく


     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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