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本能寺の変1582 【重史97】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史097】 『信長公記』 

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説 目次中 
     1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
     5志向の相違 +信長の油断 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史097】 そ第28話

    ①舟にて川内長島へ、龍興、退散。

    ②美濃国一篇に仰せ付けられ、

    ③尾張国小真木山より、濃州稲葉山へ御越しなり。

    ④井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けさせられ、

                           『信長公記』

     永禄十年1567、秋。
     斎藤龍興は、伊勢長島へ逃げた。
     龍興は、城を捨てた。
     長良川を下り、落ちて行く。 

      一、八月十五日、色々降参候て、
        飛騨川のつゞきにて候間、舟にて川内長島へ、
        龍興、退散。

     信長は、稲葉山城を無傷で手に入れた。
     攻略、成功。
     兵は、損耗せず。
     
     信長は、美濃を平定した。
     亡き父、信秀の悲願。
     「美濃の平定」
     ここに、成る。
     程なくして、小牧山から稲葉山に居城を移した。

      さて、美濃国一篇に仰せ付けられ、
      尾張国小真木山より、濃州稲葉山へ御越しなり。

     信長は、井口の名を岐阜と改めた。
     これは、翌年のこと。

      井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けさせられ、明くる年の事。
                              (『信長公記』)

     斯くして、阻害要因は無くなった。
     都への通路を確保。
     いよいよ、である。

     信長は、執念深い。
     天文十八年1549、
     信長の父、信秀、斎藤道三と和睦。
     信長は、道三の娘を妻に迎えた。

     同二十一年1552、信秀、没す。
     その四年後。
     弘治二年1556、舅、道三、死す。
     その跡を継いだのが、斎藤義龍。
     斯くして、信長と義龍の争いが始まった。

     ところが、その最中、
     永禄四年1561、義龍が急死。
     その子、龍興の代となる。

     そして、永禄十年1567の今。
     信長は、ついに、美濃を乗っ取った。
     父、信秀の死から、15年後。
     舅、道三の死から、11年後。
     この執念や、恐るべし。


     【引用】そ第28話 ◎第28話 第28話



     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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