メインコンテンツへスキップ
見出し画像

降れなかった雨【風まかせ文芸部 / 雨】

    財布野紐ゆるみ

    閉店後の店内は、それまでの喧噪が嘘みたいに静かだった。

    鉄板の熱がゆっくり抜けていく。まだ漂っている香ばしい匂い。洗い終わったジョッキの水滴が、シンクでぽたりと、誰にも聞こえないかすかな音を立てた。

    誰かがなにか言った。店長が適当に返して、みんな笑った。私はレジ締めの確認をしながら、ちらりと時計を見る。

    もう少ししたら、駅か。

    約束した。最後くらい、ちゃんと送り出そうと思っていた。大学を出て、地元を離れて、働き始める人。

    真面目で、妙なところで不器用で、最後まで敬語が抜けなかった後輩。いや、年齢で言うと、先輩になるかな。

    たぶん、私に好意もあった。人伝てに、聞くともなしに聞いていた。気づいていないふりをしていたけれど。

    でも、だからこそ友人として見送ろうと思った。変な期待も持たせず、変な後味も残さず。

    「じゃ、俺も帰るわ。」

    副店長がロッカーから鞄を取る。無意識に、その声を追ってしまう。長かった癖だ。

    「そういや。」

    副店長が、誰に言うでもなく笑った。

    「来月、籍入れるんすよ。」

    一瞬、意味が入ってこなかった。誰かが「えっ、マジですか!?」と声を上げる。「聞いてねえぞ」と笑ったのは、店長だった。

    おめでとうございます、の声が重なる。空気が急に明るくなる。私も、反射みたいに笑った。

    「……えー、そうなんですか。おめでとうございます。」

    普通に言えた。副店長も普通に、「ありがとうございます」と返した。

    それだけだった。それだけだったのに。その向けられた笑顔が、いつもと違うように私の瞳に映る。

    ロッカーの鍵を鞄に入れる音とか、誰かが「このあとなんかあります?」と話している声とか、そういう細かいものだけが妙に耳につく。

    ああ、来月なんだ。と、数秒遅れて思った。来月。思ったより、近い。

    さっきはちゃんと言えた。言えた、はずだった。なのに。そのあとの会話が、まるで水の中から聞こえてくるみたいに遠い。

    知らなかった。

    好きな職場じゃなかった。それでもずっと、もっとできるように、認められるように続けてきたのに。

    * * *

    店の外に出た瞬間、夜風が妙に冷たかった。呼吸が浅い。スマホが震える。画面。

    終わったら行くね。自分があの人に言った言葉。相手のメッセージは、もちろんそのあとの続きの温度だった。

    「終わった? 駅います。」

    もう来てる。思わず、さっきと同じ顔のまま、口角だけがわずかに上がる。

    早すぎるでしょ。まだ十五分あるのに。……でも。ああ、そういう人だった。思わず足が止まる。

    行かなきゃ。約束した。最後の日なんだから。あの人は、今日ここを出る。もう会わないかもしれない。

    ちゃんと笑って、「頑張ってね」って言うだけでいい。

    それだけ。

    喉の奥が痛い。視界が、変に熱い。無理かな、これ。こんな顔で。なんて言うのよ。私は、気づけば自分で。胸の奥のヒビを押し広げていた。

    何しに行くの。痛い。

    駅へ向かう道の途中、自販機の横で立ち止まる。時間が要る。時間がない。返信しようとする。

    ──ごめん、少し遅れる。

    違う。

    ──急用できた。

    これも。違う。全部違う。

    本当は。

    会ってあげたいよ。最後くらい、ちゃんと送り出したかった。ありがとうって言うだけでもいい。

    でも、聞きたくなかった話が、思考を運ぶのを邪魔してる。

    自分の中が泥みたいにぐちゃぐちゃの今、会ったらたぶん駄目だった。泣くかもしれない。そしたら、理由を聞かれるかもしれない。

    「違う人のことで泣いてる」なんて、そんなの。門出の日に、持っていくものじゃない。誰かにとっての晴れの日に、土砂降りの女が水を差してどうすんだ。

    気づけば、スマホの画面が暗くなる。もう一度開く。

    「駅います」。

    短い文。あの人らしいなと思った。責めてもない。急かしてもない。絵文字とか使いなよ、って言っても、かたくなに使わない。

    ただ……待っている。それが、余計につらかった。

    気づけば、駅の近くまで来ていた。見覚えのあるコンビニの明かりと、改札前の人の流れ。少し離れた場所から、それらをぼんやり眺める。

    ……いた。

    壁際。スマホを見たり、顔を上げたりしながら、待っている。その姿を見た瞬間。胸の奥で、なにかが完全に折れた。

    いけない。行ったら、駄目だ。

    今の自分の顔を見せたくない。わがままだった。エゴだった。それでも、この人の最後の夜を、自分の失恋で汚したくない。

    私は踵を返した。そのあと、通知音は最後まで鳴らなかった。あのあと結局、私に涙の雨が降ったかどうか、そんなことは覚えていない。

    * * *

    十年後、駅前の雨音の下。あの人はいた。

    声をかけたのは、こちらからだった。あの日、もし行けていたらどんな話をしただろう。絶望していなかったら、明るく送り出してあげられただろうか。それとも、話した結果、今よりも気まずくなっていたのだろうか。

    少し話しても、わからない。

    「あの日……。」

    彼が言いかけて、やめた瞬間。顔が、自然に強張ったと思う。

    来る、と思った。十年遅れの問い。

    ──なんで来なかったんですか。
    ──待ってたんですよ。

    あるいは、もっと軽く……。

    ──結局、何だったんすか。

    いくらでも言葉は紡げただろう。そう思った。なのに。彼は、何も言わなかった。なんでもない、と一言続けただけ。残っているはずの雨音が、聞こえなくなる。

    覚えている。忘れるわけがない。人生の中で、数えるほどしかない。ちゃんと行きたかった約束を、自分で壊した夜。

    でも、ああ。そういうことなのかもしれない。私だけが、まだ十年前の改札前に立っている。あそこにいた……いなかったと思われていた、私が。

    今日、声をかけたとき。私のヒビが、ずれて音を立てるのがわかった。消えることのない、なくならない溝。逆に声をかけられていれば、まだマシだったのだろうか。

    「じゃあ」。

    十年前にできなかった見送りは、驚くほど短く終わった。背中が遠ざかっていく。引き止める理由は、もうなかった。

    たぶん、最初から。

    雨は、ほとんど止んでいた。靴についた泥が、こちらを見つめていた。



    ※以下の企画に参加させていただきました。

    ※以下は関連作品になります。


    あなたへのおすすめ