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初夏の通り雨【風まかせ文芸部 / 初夏】

    財布野紐ゆるみ

    湿った風が連れてきた雲が、しとしとと雨を降らせている。俺は駅前コンビニの軒下で、少しの間待っていた。

    傘を買うほどの雨でもない。濡れて帰るほど急いでもいない。半袖には少し早い、今の季節を表すかのような、中途半端な状況。

    毎年このころに「着るなら今くらいの時期かもな」と、実家のタンスの七分袖のシャツを思い出す。

    ふと、となりに影が落ちる。そちらを見やって、すぐに視線を戻す。一瞬遅れて、自分の中の消えない面影と重なり合った。

    雨の音が少し遠くなる。声をかけたのは、向こうからだった。

    「……久しぶり。」

    その声は、駅前の店構えや川沿いの景色ほどは、思い出と変わっていない。

    あの日、連絡先を迷って消した相手。十年経っても、その操作だけは指が覚えている。

    * * *

    駅前から十分ほど歩いた先に、その居酒屋はあった。バイト初心者の俺に、仕事の基礎を教えてくれたのが、その人だった。

    熱い鉄板の前での調理。支払方法の多いレジ業務。喧噪な店内での客対応。彼女はそのすべてをそつなくこなし、店長にも対等に意見していた。閉店後、副店長に「しっかりしてくださいよ」と背中を叩いている姿を見たこともある。

    同じ大学生だが、彼女は学年も年も下だった。けれど俺は、一貫して敬語で話した。バイト先では自分よりも勤務歴が長い「先輩」だったからだ。履修登録だの飲み会だのに騒いでいた同級生たちより、彼女の方がよほど社会を知っていた。

    さらに、授業料を半額自分で払っているという話まで聞いた。

    あれは俺が、地元を出る前。就職も決まって、最後のシフトが終わる日だった。

    なにも、働き始めるぎりぎりまでバイトを続ける必要はなかった。店長に縋られたわけでも、お金に困っていたわけでもない。ただ、あの人と並んでする作業がなくなることの、実感がわかなかっただけだ。

    先輩と、「駅前で少し話しましょう」みたいな約束をした。軽く、声をかけたつもりだった。反して、心臓は強く響いていた。

    新しい店長の愚痴を言ったり、バイト中にあった出来事で盛り上がったり。たまに他の仲間と一緒に、食べに行ったり遊びに出かけたりすることはそれまでにも、あった。

    けれど夜にふたりきりで、ということはなかった。

    「終わったら行くね」。そう言って、彼女は笑っていた。

    それが、最後になった。その駅に、彼女は来なかった。

    「終わった? 駅います。」

    こちらからのメッセージに、返信もない。ただ、夜の駅前で待つ。終電が近づいて、そのまま。俺は、地元を離れることになった。

    * * *

    雨音だけが響いている。

    その中で、適度な距離感を保ったまま、近況中心の会話を交わした。途中で切り上げることはお互いできたと思う。でも、選ばなかった。

    彼女が聞く。

    「仕事で?」
    「親の用事です。ついでに少し。」

    互いに、前を向いたまま。俺も聞く。

    「あの店まだあるんですか。」
    「あるよ。店長も変わってるけど。」
    「ずっと地元に?」
    「たまたま、戻ってきてるだけ。」

    雨脚が弱まる。先輩が何気なく言う。

    「地元って、出ると案外戻らないからね。」

    気づけば先輩の方を、向いていた。その横顔を見て、先輩の十年間のほんの一部に、触れられた気がした。

    「……大学卒業まで、あそこでバイトを?」
    「あのあと、すぐ辞めたよ。」

    先輩の表情が、少しだけ動いた気がした。

    あのあと。「あの」。俺の口が勝手に動く。

    「あの日……。」

    先輩が、こちらを見た。

    「や、なんでもないっす。」

    俺は核心を聞こうとして、結局やめる。空を見ると、もうほとんど降っていなかった。

    俺たちは「じゃあ」と言って、空の下へ出た。ふたりとも「また」とは言わなかった。アスファルトの匂いが強くなる。水たまりに、薄い夕陽が落ちていた。

    もう夏になる。



    ※以下の企画に参加させていただきました。


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