
青炎〜帰ってこられる夜がある〜
長い間
疑うことなく信じていたことがある。
それに気づいたのは
ごく普通の日のキッチンだった。
手を止めた時、それはあった。
揺れない。
音もない。
消えているように見えるのに
触れると、確かに熱い。
その時、ふと思った。
ずっと思い違いをしていたのかもしれない。
火は、赤いものだと。
そして——
自分が止まったら、消えてしまうものだとも。
<1章 はじまりの静寂>
「今日、何時に帰ってくると?」
「部活だから、夕方遅いと思う」
朝5時に起きて、お湯を沸かし、窓を開ける。
歯を磨き、白湯を飲む。
その頃には、もう朝食の準備を始めている。
夫は今日も出張でいない。
テーブルには、娘たちと私の3人分の皿だけが並んでいる。
「今日はアンケートの提出忘れないでね」
「うん」
「学校終わったら歯医者の日だからね」
「うん」
「今日の夕食は何が食べたい?」
「考えとく」
まだ半分寝ぼけている子供たちの返事はいつも素っ気ない。
ただ、その短い音で健康状態や機嫌はだいたい分かる。
食器を片付けて、メイクや着替えを済ませたら、あっという間に7時。
もう家を出る時間だ。
次女の小学校までは車で30分。
学校近くの駐車場に車を停めて見送る。
私は週3日、家業の保育園の事務を手伝っている。
それ以外は「主婦」だ。
今日は、主婦の日。
また30分かけて帰宅する。
誰もいない家は、どこからともなく「スー」という静かな音がしている。
それが、いつしか当たり前のようにそこにあった。
その音をかき消すかのように、家では独り言が増える。
「さて、掃除でもしますかね」
「そうそう、今日は、ごみの日」
「…大根と豚肉があるから、今日はこれを煮ましょうかね」
返ってくるはずの相づちを
ほんの一瞬だけ待つ癖が残っている。
返事はない。
ただ、「スー」という音だけが聞こえていた。
掃除をして、洗濯物を畳んで、アイロンをかける。
そこまでやっても、まだ時間が余る。
一通り終わらせて、コーヒーを淹れる。
時計を気にする必要はない。
せかす者は、誰もいない。
動画でも見てみるか、とスマホを手に取る。
いつの間にか
スマホは連絡より動画のための道具になっていた。
おすすめの番組や動画がズラリと並ぶ。
選択肢が多すぎて諦める。
自分で選んでまで観たいものはない。
じゃあ、一方的に情報が流れてくるテレビをつけよう。
主婦向けの情報番組。
夕食の準備をしながらの流し見だ。
爽やかな色味のセット。
季節を感じる無難なファッションの、自分と同年代の出演者たち。
言葉遣いは親しげで、明るい笑い声が甲高く響く。
「さぁ今日の特集は、ママ友とのランチにピッタリのカフェ特集!!!」
昼間に一緒にランチするようなママ友なんて、私にはいない。
特に気になる内容でもなかった。
VTRの間をもう少し詰めたらいいのに。
テロップの色味、もう少し強めたら見えやすいよな。
ここのBGMの付け方、気持ちいいな。
カフェの情報はもう少し長めに出さないと読み切れないよな。
いつの間にか、料理の手は止まっていた。
番組がCMに入る。
ふと、我に帰る。
それと同時に、ぽつんと取り残された。
私も、あっち側にいた。
今はもう、こっち側だ。
<2章 止まれない場所>
「あとどのくらいでそのVTR仕上がりそう?」
「そうですね、2時間ってところですかね」
時計は、夜中の1時を少し回っていた。
窓のない編集室。
蛍光灯の白い光が、時間の感覚を奪う。
その日の朝の生放送で使う、7分のVTRの最終調整。
ギリギリだからといって、妥協は許されない。
「今日も居残りか?」
「はい、出来が悪いもんで」
「夜更かしはお肌に良くないぞ」
先に帰る上司が、冗談交じりに栄養ドリンクを差し入れてくれる。
それを一気に飲み干して、深く息を吐く。
本当は甘い味が苦手だったけれど
いつの間にか一気に飲めるようになっていた。
さて、もうひと頑張りだ。
「ここは0.5秒くらい詰めて」
「テロップの色味、もう少し強めに」
「このBGMはやっぱり差し替えよう」
言葉が自然に口から出る。
迷いも遠慮もない。
会社に泊まる日も多かった。
デスクの引き出しには、替えのコンタクトと化粧ポーチを常備していた。
気づけば、家より長くいる場所になっていた。
この場所が好きだった。
ここには、私の居場所があった。
任された仕事がある。
頼られている。
それだけで、十分だった。
読み通り、2時間でVTRは仕上がる。
モニターから流れるナレーション。
「さぁ、今日は、ママ友とのランチにピッタリのカフェ特集ということで…」
尺も、テロップも、BGMも、完璧だ。
椅子に深く沈み込む。
目を閉じたら、そのまま眠れそうだった。
あと3時間後には、生放送のリハーサルが始まる。
目を閉じたまま、数秒だけ休む。
それ以上は、眠らないように。
シャワーだけ浴びに、一度帰宅するか。
外に出ると、夜と朝の間の、生ぬるい空気が広がっていた。
誰一人としてすれ違わない。
誰もいない街を歩く時間が、好きだった。
7時15分——
「はい、それでは、リハーサル始めさせていただきます。
本日もどうぞよろしくお願いします。」
仮眠をとる時間は、やっぱりなかった。
スタジオで、20人近くいるスタッフに、今日の放送内容を説明する。
眠気を打ち消すように声を張る。
誰よりも元気で、明るい声で。
9時40分——
デスクの下でスニーカーからピンヒールに履き替える。
私の勝負靴。
つま先に圧力がかかり、ふくらはぎに、ピッと力が入る。
体がしゃんと立つ。
赤ペンでたくさん書き込まれている台本を抱えて
「サブ」と呼ばれる部屋に向かう。
全体重をかけないと開かない、大きな扉を押す。
スタジオには照明が入り、セットも本番と同じ状態に組まれている。
衣装を着てメイクが整った演者が席に座る。
スタッフがそれぞれの持ち場に着く。
マイクとイヤホンがついたヘッドセットをつけてからは、いつものルーティーン。
目を閉じて、大きく深呼吸をする。
「はい、じゃあまもなく本番入ります。
カメラさん、スイッチャーさん、音声さん、照明さん、アナウンサーさん、フロアさん。本日も楽しく、明るく、気合い入れて、最高の笑顔を届けましょう。よろしくお願いします。それでは30秒前です。」
11時——
「お疲れ様でした」
出演者やスタッフ全員に、直接伝えに行く。
スタジオの片付けを終えて自分のデスクに戻る頃には
全身の力が抜けている。
それでも頭の中では、今日の午後のスケジュールを確認していた。
明日の生放送のスタジオ原稿、取材、編集、アポ取りに打ち合わせ……
終わりのない毎日。
休みが欲しいと思ったことは、一度もなかった。
仕事は、やらなければならないことじゃなかった。
仕事は、私自身だった。
止まってしまわないように
毎日声を張っていた。
<3章 感じないまま、走る>
結婚して、子どもが生まれた。
心の底から嬉しかった。
そして、産後3ヶ月で仕事に戻った。
「働く=自分」だった私にとって、それは至って普通のことだった。
止まるわけにはいかなかった。
「おかえりなさい」
母親になっても、私を受け入れてくれる場所があった。
また戦える。そう思った。
「ちょっとお熱が上がってきちゃったんですよ。
お母さん、何時頃お迎え来られそうですか?」
まただ。今月3回目。
視線の先には、編集途中のタイムライン。
数時間後には生放送が始まる。
頭の中で段取りを組み立てる。
母、妹、義母へ連絡。
ようやく迎えの手配がついた。
電話を切って、深く息を吐く。
こんな綱渡りの毎日、想像していなかった。
努力すれば、どうにかなる。
今までは、そうだった。
子どもが生まれても、
きっと変わらないと思っていた。
私はできると信じていた。
復帰後の日常はすぐに戻った。
生放送の総指揮、打ち合わせ、取材、編集、慌ただしい現場。
ただ一つ、確実に変わったことがあった。
夕方になると、時計を見る回数が増えた。
18時までに保育園に迎えに行かなければならない。
仕事は終わらない。締切は待ってくれない。
子どもを迎えに行き、実家に預け、会社に戻る。
母親になったから出来なくなったとは言わせたくなかった。
いや、自分がそう思いたくなかったのが一番だったかもしれない。
子どもがいるからこそ、結果を出さなきゃいけない。
早く帰る日があるなら、他の日に取り返せばいい。
できない理由より、できる方法を探した。
そして、もう一人子どもが生まれた。
生活はさらに慌ただしくなった。
誰に責められたわけでもない。
私を追い詰めていたのは、私自身だった。
「仕事しながら、ちゃんと母親やっててすごいね」
いつの間にか、私への言葉には必ず「母親」が付いてきた。
褒め言葉のはずなのに、胸の奥がざわついた。
仕事は成果で評価される。
でもその成果には、いつも「母親なのに」が添えられる。
私は、何で評価されているんだろう。
同じ仕事をしているはずなのに
見られ方が変わっていた。
小骨が喉に刺さったような違和感があったけど
考えるのをやめて、結果を出そうと思った。
迷惑をかけなければいい。証明し続ければいい。
気づかないうちに
「しんどい」という感覚を後回しにしていた。
睡眠も休憩も削り、隙間時間まで仕事で埋めた。
やればできる。今までもそうしてきた。
でも、頑張るほど時間は足りなくなった。
終わりはいつも、次の締切に置き換わった。
止まらなければ回る。回ってさえいれば大丈夫。
そう思いながら毎日を回し続けた。
ただ、分かっていた。
視界が狭くなっていることを。
「面白いか」より「間に合うか」を優先するようになっていた。
悩む時間も、思いを馳せる余裕もなくなっていた。
それでも日々は回っていた。
だから問題はないはずだった。
そう思うことで、安心していた。
でも、どこかで分かっていた。
このまま走り続けられるわけがないことを。
それでも止まれなかった。
そんなある日だった。
<4章 感度停止>
その揺れは、前触れなくやってきた。
夜、子どもを抱いていた足元が、大きく揺れた。
立っていられない。
地面が波みたいにうねっていた。
2016年4月14日、熊本地震。
食器が割れる音。
棚が倒れる音。
子どもの泣き声。
散らかった家に何も手をつけることなく
とにかく靴を履かせ、上着を着せ、外に出た。
——震度4以上は全員即出社。
頭の中で、その言葉が繰り返された。
実家に向かう車の中
後部座席で子どもが泣き続けていた。
「ママ、お願い、行かないで」
胸の奥が強く締め付けられた。
でも、ハンドルを握る手は緩められなかった。
実家の前に車を止める。
抱きしめる時間は、ほとんどなかった。
小さな手がギュッと服を掴んだ。
「ママ、お願い、行かないで」
「大丈夫、すぐ帰ってくるから」
嘘をついた。
そして
その指を、一本ずつほどいた。
振り返らなかった。
振り返ったら、行けなくなる気がした。
——県民の命がかかっている。
それだけを繰り返しながら、局へ向かった。
局に着くなり、怒鳴られた。
「おせーんだよ」
その声を聞いた瞬間
自分の中の音が、すっとなくなった。
遅れた自分が悪い。
その通りだった。
怒りも、悲しさも、何も湧かなかった。
ただ
今までずっと胸の奥で張り詰めていた何かが
音もなく切れたのが分かった。
それなのに。
泣きながらしがみついていた
小さな手の感触だけが
消えなかった。
キーボードを打っていても。
電話を受けていても。
原稿を直していても。
ふとした瞬間に、指先に蘇る。
ギュッと掴まれた感触。
ほどいた指の一本一本。
服を引っ張る小さな力。
仕事は、途切れることなく続いた。
スマホからのアラートも鳴り続けていた。
帰宅して、子どもたちの顔を見た。
いつも通りだった。
それなのに、胸の奥に
小さな何かが残っていた。
言葉にするほどのものではない。
立ち止まる理由になるほどのものでもない。
だから、考えるのをやめた。
忙しさは、ちょうどよかった。
目の前のことだけを考えていればいい。
そうやって、私はまた走り出した。
違和感は、やがて日常に溶けていった。
考えないようにしていた。
立ち止まる余裕もなかった。
仕事は回り続けた。
生活も回り続けた。
季節が何度も過ぎた。
——そして二年後。
私は、十四年勤めたテレビ局を退社した。
最後の日
いつもと同じ時間に局へ向かった。
いつもと同じ席に座り
いつもと同じように仕事をして
いつもと同じように一日が終わった。
それなのに。
明日から、ここに来ない。
その事実だけが
胸の真ん中にぽっかりと穴をあけていた。
テレビマンは、私の名前の一部だった。
その名前を、静かに置いて帰った。
<5章 慣性>
——そして退社後。
アロマの資格を取った。
ずっと好きだった、香りの仕事。
講座の準備を始めた。
募集ページを作り、会場を押さえ、資料を作った。
申し込みも入っていた。
あとは当日を迎えるだけだった。
その頃、ニュースで
聞き慣れない言葉が現れた。
「新型コロナウイルス」
講座は、全て中止になった。
会場の予約をキャンセルし
受講予定だった人たちに連絡をした。
作った資料は使われないままデータの中に残った。
子どもたちの学校が休校になった。
外出もできなくなった。
夫の仕事も止まった。
家にいる時間だけが増えていった。
——どうにかしなければいけなかった。
ライブ配信を始めた。
毎日のように画面の前に座った。
「元テレビマンのライブ配信」は
少しずつ認知されていった。
仕事が少しずつ舞い込んできた。
依頼された仕事は、断らなかった。
プロモーション動画の編集。
商品パッケージのデザイン。
SNSの運用相談。
起業支援の講座。
内容はばらばらだった。
共通していたのは、報酬が発生することだった。
やりたいかどうかは関係ない。
出来るかどうかも関係ない。
元々出来ることなんて、ほとんどなかった。
必要なことは、お金を払って片っ端から学んだ。
お金を稼ぐために、お金を使う。
「私、何してるんだっけ」と思った。
でも
考え始める前に、次の予定を入れた。
考えない方が楽だった。
そのうち、仕事は少しずつ増えていった。
予定表の空白が減っていった。
自分は一体何をしたかったんだろう。
そんなことを考える暇もないくらい
毎日が埋まっていった。
いや、考えるのが怖かったのかもしれない。
生活は、回り続けていた。
収入も安定してきた。
仕事も途切れなくなった。
家にいながら働ける環境も整った。
生活は前に進んでいる。
立ち止まる理由が見つからなかった。
以前よりも、ずっと効率的な働き方だった。
違和感を感じる瞬間がなかったわけではない。
でも立ち止まる理由にはならなかった。
やらなければならなかった。
やるしかなかった。
「やりたい」ではなく
「やらなきゃ」で埋まっていった。
気づけば、止まり方が分からなくなっていた。
その生活は、突然止まった。
何の前触れもなく。
<6章 凪ぐまでの時間>
「お母さん、少しでも病院に来るのが遅かったら、娘さんは後遺症が残るところでした」
病室で医師からその言葉を聞いた時
音が消えた。
息の仕方が分からなくなった。
心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
長女の顔の片側が、ある日突然、動かなくなった。
笑っているのか
泣いているのか
分からなかった。
”半顔麻痺”
原因は分からないと言われた。
ただ、その日
たまたま、私は家にいて
たまたま、すぐに病院に行けた。
もし、仕事中だったら。
もし、気づくのが遅れていたら。
頭の中で「もし」が増えるたび
指先が震えた。
「すみません、打ち合わせの日程を変更してもらえませんか」
「すみません、締切を5日ほど伸ばしていただけないでしょうか」
「すみません、どなたか別の方に代わっていただけないでしょうか」
仕事のやり取りは
全て「すみません」で埋まっていた。
謝るたびに
手帳の空白が増えていった。
娘のことを伝えると、誰も責めなかった。
むしろ驚くほど、みんな優しかった。
「大丈夫です、こちらで対応しますね」
その言葉に、私はまた「すみません」と返した。
仕事は減っていった。
会議の連絡が来なくなった。
手帳を開く。
仕事の枠が空いている日が増えていた。
埋まっていたはずの場所が
最初から何もなかったように見えた。
空いた予定を見ながら
何を入れればいいのか分からなかった。
そのまま手帳を閉じることが増えた。
ある日、ふと気づいた。
今日、スマホが一度も鳴っていない。
驚かなかった。
それが何日目なのかも、分からなかった。
「仕事=私」だったはずの場所から
仕事の気配だけが少しずつ抜けていった。
家族との時間が増えた。
家事をする時間も増えた。
何もしない時間も増えた。
いつも変わらない景色。
何も起こらない静かな日常。
昨日とよく似た今日。
朝になり、夜になる。
ご飯を作って、洗濯をして、また一日が終わる。
家族は笑っている。
家の中には、いつも通りの時間が流れている。
生活はちゃんと回っている。
十分幸せなはずだった。
それなのに。
私の中だけ
時間が止まったままだった。
波が小さくなっていくように
揺れも、音も、感情も
ゆっくりと遠ざかっていく。
何も失ってはいない。
何も壊れてはいない。
それでも、確かに——
私の中の海は、凪いでいった。
何も起こらない日が続いた。
誰もいない家で
ふと、その音に気づいた。
ただ「スー」という音だけが、残っていた。
<7章 震え>
その夜は、家族でテレビを観ていた。
何気なく流れていた笑い声が
途中から耳に入ってこなくなった。
画面の空気が変わった。
画面に映っていたのは——
強い照明に照らされたステージの上に置かれた
一本のマイク。
M-1グランプリ決勝の舞台だった。
舞台袖の温度だけが、少し違って見えた。
頭を抱えている者がいた。
胸を叩いている者がいた。
叫んでいる者がいた。
ただ、じっと前を睨んでいる者もいた。
まだ何者でもない顔だった。
引き返せない場所にいる顔にも見えた。
誰かが抱き合っていた。
言葉にならないまま、天を仰いでいた。
——そして王者が決まる。
一万組を超える中から
呼ばれたのは、ただ一組だった。
つい昨日まで同じ場所にいたはずの人たちが
一瞬で、勝者と敗者に分けられた。
舞い落ちる紙吹雪の中で
誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが立ち尽くしていた。
画面の光が、涙で揺れて見えなくなった。
呼吸の仕方を忘れていた。
拍手の音だけが
しばらく消えなかった。
<8章 青い炎>
ついさっきまで、家族の笑い声が溢れていた。
その分、静けさがくっきりと浮かび上がる。
布団に入っても、なかなか寝付けない。
頭の中には、さっき見た光景が何度も浮かんでは消えていく。
あの涙は、何だったんだろう。
あの疼きは、何だったんだろう。
ふと、言葉がこぼれた。
「私には、もう何もないな」
静かな部屋に、その言葉だけが落ち
色がすっと引いていくのを感じた。
眩しい光を見たあとほど
影は濃くなる。
じゃあ、私は——
何を失ったんだろう。
布団の中で目を閉じながら、昔の喧騒を思い出した。
スタジオに走り込んでニュースの原稿を差し込むスピード感。
「本番まであと三分」と急かされながら動画を編集する緊張感。
生放送が終わって全身に入っていた力が一気に抜ける開放感。
綱渡りのような、泥臭い毎日だった。
今なら笑える。
今は、昼間からゆっくりとコーヒーを飲む時間がある。
スマホなんて一度も鳴らなかったりするんだから。
締切も、ネタ会も、反省会だってない。
ご飯を作って、食器を洗って、洗濯をして。
穏やかに、何事もないのが一番よ。
そう、何事もないのが。
自分で自分に言い聞かせながら、また涙が出てきた。
何事も、ない。
もしかして、これが「ない」の正体。
その時、思った。
私はずっと、「何もかもを失った」と思っていた。
仕事も
居場所も
必要とされる理由も
名前を呼んでくれる人も
明日の予定も
「こうなりたい」という輪郭も
必死に築き上げたもの全てが
砂のように指の間からスルスルとこぼれ落ち
結局何も残らなかった、と。
でも違った。
なくなったのではなく
見ない場所に置いていたものがあった。
触れないように。
思い出さないように。
大人になるために。
それが分別で、嗜みで、
時には、美しさだとさえ言われるから。
情熱ではない。
やる気でもない。
ただ、生きるために心の奥へ押し込まれながらも
それでも消えずに動き続けるもの。
追い風の時も。
全てを失った夜も。
ずっと、そこにあった
いつでも帰ってこられる小さな灯火。
揺れない。
音もない。
消えているように見えるのに
触れると、確かに熱い。
それが
まだ
私の中にもあったんだ。
そう思ったら
朝が少しだけ待ち遠しくなった。
<9章 静かに、挑む>
「最近、何やってるの?」
「家業の保育園の事務の手伝いですよ」
テレビマン時代の上司と、久しぶりに飲みに行った。
会うたびに、同じ質問をしてくれる。
昔から、この質問には
“仕事”と呼べるものしか返せなかった。
それは、今も変わらない。
今やっていることは、言えなかった。
あの夜からだった。
家に一人になると
気づけばPCを開いていた。
誰に見せるわけでもない言葉を書いている。
ただ
あの夜に揺れたものを
失いたくなかった。
最初は、堰を切ったように言葉が出てきた。
思い出したことを、そのまま書き続けた。
誰に見せるわけでもないから
整える必要もなかった。
ページを進めるたびに、いろんな自分が出てきた。
焦っている自分。
追い詰められている自分。
周りに合わせようとしている自分。
どれも必死だった。
書き終えたあと、しばらく画面を閉じられなかった。
その時間が、何とも心地よかった。
ダムが決壊したように溢れた言葉は、やがて落ち着き
散らばった言葉を整理したくなった。
気づけば、毎日机に向かうようになっていた。
「創作大賞2026 募集開始」
ある日、流し読みしていたnoteで、たまたま目にした。
思わず手を止めて、詳細を開いた。
なぜか、そのまま閉じることができなかった。
いや、無理だ。
やらない理由は、次々に浮かんできた。
お金にもならない。
何者でもない私の言葉なんて、誰が欲しがるのか。
40代も半ば、母親で、実績もない。
成功の見込みもない挑戦なんて、みっともない。
「いい歳をして、いったい何を目指しているんだろう」
誰もいないリビングで
ふと冷めた自分が問いかけてくる。
その視線から逃げるように
画面をスクロールする指を一度止めた。
ここは本気の人の場所だ。
素人が軽々しく踏み込んでいい場所じゃない。
もし何も残らなかったら。
もし誰にも届かなかったら。
もし笑われたら。
自分の拙い文章を人前に晒すなんて
そんな恥に耐えられるだろうか。
そんなことをしている時間があるなら
もっと役に立つことに使った方がいい。
意味なんてない。
得するわけでもない。
誰も保証なんてしてくれない。
やらなくても、生きていける。
いわゆる「不要不急」。
それなのに。
何度打ち消しても、どうしても残り続けるものがあった。
それは、あの日から小さく、静かに灯り続けているものだった。
やらない理由はたくさんあっても
やめる理由はどこにもなかった。
静かな起動音が響いた。
いつものようにPCの前に座り、真っ白なページを開く。
目を閉じて、大きく深呼吸をする。
あの頃と同じ動き、だ。
真っ白なページの一行目は
あの日の何気ない朝から書き始める。
「今日、何時に帰ってくると?」
「部活だから、夕方遅いと思う」
先は長い。
私は書き切ることができるだろうか。
まだ引き返せる。いつでも辞められる。
それでも、もう一度目を閉じて、大きく深呼吸をした。
静かな部屋に、キーを叩く音が響く。
その音が
小さな灯火に、そっと風を送り続けていた。
<エピローグ>
元上司と飲みに行ったあと
そのままカラオケボックスへ向かうのは、昔からのお決まりだった。
「お前の好きなのでいいよ」
そう言いながら、元上司は自分の曲を入れていた。
流れてきたのは
昔から変わらない歌だった。
私も歌い慣れた曲を選ぶ。
昔と同じように歌うつもりでも、昔より少しだけ声が出なかった。
「よく覚えてるな、そんな曲」
その言葉に、私は笑いながらうなずいた。
「またな」
帰り際、元上司が小瓶を手渡し、短く手を振る。
その声は、昔と同じ声のはずなのに
少しだけ違って聞こえた。
それをうまく言葉にすることはできないまま、背中を見送った。
深夜の栄養ドリンクは、相変わらずだ。
帰り道で、歌の続きを、少しだけ口ずさんでいた。
思い出そうとしたわけでもなく、ただ口からこぼれるように。
その歌だけが
まだどこかで、小さく灯っていた。
どこかで誰かも
同じ夜を歩いている気がした。
夜の空気は
あの時と変わらず、生ぬるかった。
少しだけ足を速める。
玄関の鍵を回す。
静かに靴を脱ぐ。
電気をつけないまま、部屋に入る。
「スー」という音が
今日は少しだけ違って聞こえた気がした。
気のせいかもしれない。