
ぼくのファシリテーションアカデミア④ 大昔の思想家・シッダールタさんから始まった「6つの生き方」
はじめに
大昔、とある国に、シッダールタという思想家がいた。
彼は、人はなぜ苦しむのか。どうすれば苦しみに振り回されず、他者とともに生きていけるのか。長く考え、行い、また考え直した。
その末に、彼が示したのが、ここで紹介する「6つの生き方」だ。
古い時代に生まれた考えではある。けれど、ここに並んでいる6つは、人が他者とともに生きるうえで、いまなお驚くほど実用的だ。
ぼくは、人との関わりは、いつも明確な目的から始まるわけではないと感じている。
なんか気になって、気づけば関わってしまっている。そんなふうに、おのずと始まる関わりがある。
けれど、気を抜くと、そこに自分の期待や都合が入り込む。相手とのあいだに、本来そこになかった偏りをつくってしまうことがある。それでも、人とともに生きることをあきらめたくはない。
だからこの記事では、シッダールタから始まったこの「6つの生き方」を、
誰かと関わり、何かをともにつくるなかで、自分を見失わずにいるための心構え
として、ぼくなりに捉え直してみたい。
心身を向け、持てるものを渡す
見返りを求めず、相手や出来事に関わる。
自分にあるものを、相手や世界の役に立つ形で使う。
共創やファシリテーションに当てはめるなら、相手から見返りや利益を得られるかを考えず、自分の時間や関心を、その人や出来事の方へ向けることだと思う。
自分の知識も、経験も、時間も、行動力も、自分一人の持ち物として抱え込むのではなく、誰かや、その活動のために使えるものとして捉える。
だから、知っていることを惜しまず伝える。必要だと思えば、自分から動く。誰もやりたがらない仕事でも、必要なら担う。誰かの話を聴くために、自分の時間を使う。
そうして、一人ひとりが持っていた力が、みんなで使える力に変わっていく。
そこから、共創が始まる。
みずからを律する
してよいことと、してはならないことを見失わずに行動する。嘘をつかない。奪わない。むやみに傷つけない。
そして、
怖くても、善いと信じていることから逃げない。
共創やファシリテーションに当てはめるなら、進行役か参加者かに関係なく、誰もが誠実でいられる場を保てるように、自分も関わることだと思う。
自分が何を実現したいかだけでなく、自分は何をしてはならず、何を行うべきかを考える。
だから、
発言を遮らない。役割や経験の優位性を使って、自分の意見を通そうとしない。都合の悪い意見を、なかったことにしない。参加者の不安や善意を利用して、特定の結論へ寄せない。
一方で、言いにくくても、必要なことは言う。誰かが傷つくかもしれない場面で、見て見ぬふりをしない。
そうした振る舞いがあるから、自分の意見を言える。異論も出せる。納得できないことには、納得できないと言える。そして、必要なときには互いに止め合える。
遠慮は不要、配慮は重要。
そんな関わり方が、意見の違いを抱えたまま話し合える状態をつくる。
おのずからを受け止める
不快な出来事や、思い通りにならない状況に直面しても、すぐに怒ったり、拒んだりせず、まず「そう起きた」と認める。
そのうえで、どう応じるかを選ぶ。
共創やファシリテーションに当てはめるなら、自分の期待と違う言葉を聞いたり、思い通りにならない出来事が起きたりしても、相手を話し合いから外したり、その発言を軽く扱ったりしないことだと思う。
自分にとって予想外の発言や、すぐには納得できない反応を、単なる邪魔や抵抗として片づけない。
自分がまだ見ていない何かが、そこに含まれているかもしれないと考える。
だから、なぜその言葉が出てきたのかを聞く。どこに違和感があるのかを確かめる。すぐに採るか退けるかを決めず、まずは検討すべきものとして残す。
そうすると、違いを急いで消さずに扱えるようになる。何を決めるべきか。どこなら重なれるか。何は重ならないまま持つのか。そうしたことを、落ち着いて考えられる。
自分の意にそぐわないことを、すぐには退けずに受け止める。
その振る舞いは、相手の中に残る。
言いにくいことも、この人には出してみよう。違う意見でも、まず聞いてもらえるかもしれない。そんな感覚が少しずつ育つことで、関係そのものが、よりよくなっていく。
歩みを重ねる
善いと考えることを、実際に行う。やってみた結果を振り返り、次に活かす。
一度で辿り着こうとせず、近道をしようとせず、より善い方へ向かって、歩みを重ねる。
共創やファシリテーションに当てはめるなら、昨日より少しでも、誰かと善く関われる人間であろうとすることだと思う。
誰かと何かをつくるとき、昨日の自分のままで十分だとは考えない。人と善く関わる力は、日々の選択の中で少しずつ身につけていくものだと考える。
だから、苦手な場面から逃げずに向き合う。失敗したときは、言い訳より先に自分の振る舞いを見直す。面倒でも、必要な準備を重ねる。自分の癖に気づいたら、次の機会で少し違う選択を試す。
そうすると、言葉の選び方。失敗した後の態度。他者への向き合い方。そうした、人との関わりににじみ出るものが少しずつ変わっていく。
そうして少しずつ、他者とともにいる自分を、何度もつくり直していく。
心の静けさを保つ
考えがあちこちへ飛ぶのを抑え、落ち着いた状態を保つ。
不安や焦りに押されて、すぐに判断や行動へ移らない。
共創やファシリテーションに当てはめるなら、自分の中に焦りや不安が生まれても、それをそのまま外に出さず、落ち着いたまま関わろうとすることだと思う。
自分の心が騒ぐときは、何を急いで終わらせたくなっているのか。何に不安を感じているのか。まず、自分の内側で起きていることを確かめる。
だから、沈黙を慌てて埋めない。問いを重ねて急かさない。誰かが考えている途中で、先回りして説明しない。自分の心が騒いでも、すぐに言葉や態度に乗せない。その時間を、落ち着いて過ごす。
そうすると、自分の焦りや不安に、考えや振る舞いを急かされにくくなる。
まだ言葉になっていない考えや、何か引っかかる感覚を、急いで結論に変えずに待てるようになる。
そうして心の静けさを保てると、自分の都合のよい見方で早く片づけず、目の前で何が起きているのかを確かめにいける。
本当を見る
表面の印象や、自分に都合のよい考えに引っぱられず、そこで実際に何が起きているのかを見ようとする。
何が事実で、何が自分の解釈なのかを分ける。
共創やファシリテーションに当てはめるなら、相手や、社会の動き、組織の事情、自然環境の変化など、自分の外、自分たちの外にある現実にも目を向けることだと思う。
見えている出来事と、それについて自分がつけた意味を分ける。自分の内側で納得できたかどうかだけで判断せず、実際に何が起きているのかを確かめようとする。
だから、耳にした発言を、自分に都合のよい意味へすぐ置き換えず、その言葉のまま確かめる。目の前の出来事について、何が起きたのかと、自分がどう判断したのかを分けて考える。数字や事実を確認する。現場を見る。自分の選択が、外の世界にどう影響するかを考える。
そうすると、何が起きているのか。何がまだ確かめられていないのか。自分は何を思い込みで補っていたのか。そうしたことが、少しずつ見えやすくなる。
そして、自分に都合のよい物語に引っぱられすぎず、何を知り、何を考え、どう行動すべきなのかが見えてくる。
自分たちが納得しただけで終わらず、外の世界にも責任を持てる選択に近づいていく。
おわりに
ここまで紹介してきた6つは、実は仏教で「六波羅蜜」と呼ばれている考え方を、みちくさくう流で、ぼくの言葉に置き換えたものだ。
もとの言葉では、
布施
持戒
忍辱
精進
禅定
智慧
と呼ばれる。
本来は、悟りを目指す人が身につけるべき実践として語られてきたものらしい。けれどぼくには、もっと日々の暮らしに近いものにも見える。
心身を向け、持てるものを渡す。
みずからを律する。
おのずからを受け止める。
歩みを重ねる。
心の静けさを保つ。
本当を見る。
それは、
他者とともに生きながら、自分を見失わずにいる——そんな容易ではないことを続けるための、6つの稽古だと思っている。