
「モフモフ」は英語でなんというの?『単語帳』&『開墾地』読後感~カロライナからアメリカ南部への連想
タイトルが長くなってしまった。
そして文も長くなってしまった。
なぜ「つぶやき」を使わず読書感想文を書くと文がとっ散らかってこうなってしまうのか・・・今回は特に脱線がひどすぎて頭のおかしさが暴走していますが、書いていて楽しかったので、よろしければお読みいただけると幸いです。
さて、「モフモフ」は英語でなんと言えば良いのか、という問いは短編小説『単語帳』の中に出てくる、その後のある登場人物の思考と行動の変化へと繋がる大きなトリガーとなった問題である。
東京・神楽坂の居酒屋で僕が出会ったのは、同じ母語で、さらに同じ方言を話すマルコムだった。大学教員の僕と傷心旅行中だという翻訳者のマルコムはしかし、彼の要望から日本語で会話する。現在は仕事もプライベートもほとんど英語の僕と、モフモフの翻訳につまずいたことをきっかけに言語と自分の関係に違和を覚えるようになったマルコム。分厚い単語帳を持ち歩き、旅行する目的とは? 第二言語の習得と個をめぐる短編小説
多少英語を知っている人ならば、fluffyじゃないか?と即答すると思う。私もその1人であったが、その答えはこの本の中で瞬時に否定された。まず、fluffyは形容詞なので状況に合わない、と。
言語の壁を越えようとする時、単純な逐語訳ではその背景や細かいニュアンスまで伝えきれないことが無限にある。
また、第二、第三言語等、母国語以外の環境に長く浸かることで生じる気が狂いそうになるような独特な感覚や、逆に第一言語である母国語の中にずっととどまることで起きる息苦しさのようなものも、言語を学習したり海外生活を経験したりすると感じることであろう。
この『単語帳』はまた、自発的な言語学習を経験したことのある人にとってはおそらく通る道である、自分オリジナルの単語帳を作るという行為の懐かしさや、その単語帳に書き記した単語1つ1つへの思い入れや感情についても思い出させてくれる。

こんな感じの単語帳、作りますよね?
『開墾地』と『単語帳』は両方とも、グレゴリー・ケズナジャット氏の著作であり、ともに母国を離れて暮らす中で生じる様々な感情や、外国語学習のプロセスとその先における葛藤、母国語との間に生じる軋轢のようなもの、言語と自身のアイデンティティーの問題などを1対1の対話と交流を通して相互の立場から繊細で内省的に描いている。
そこまで長く外国に滞在したことのない私でも、異文化に身を置いた時の感覚や、同郷の人がいる前で外国語を使用する際には感じる特有な気恥ずかしさの描写も「わかるわかる」と共感の嵐。
『単語帳』は東京が舞台であるが、最初に読んだ(audibleで聴いた)方の小説『開墾地』は京都から帰郷したサウスカロライナで物語が始まる。
何かを追いかけているのか、
それとも何かから逃げているのか。
父のルーツの言葉、母語の檻、未知なる日本語
父と息子、故郷へのそれぞれの想いが静かに共振する
留学先の日本から、サウスカロライナに帰郷したラッセル。
葛の繁茂した庭、南部ならではの湿気、耳に届く哀切な音楽――
青年は、遠くイランからこの地に根を下ろした父の来し方に想いを馳せる。
デビュー作『鴨川ランナー』で、言語と自己のはざまの揺らぎを描き、
京都文学賞を受賞。
越境文学の新たな領域をとらえる著者の、注目の最新刊。
たまたまaudibleのオススメに出てきて表紙の美しさに惹かれて見てみると、作者はアメリカ出身だが日本語で書いた小説とのことで、まずそこに興味を持った。
非ネイティブながら、一般の日本人以上に(少なくとも私なんかよりずっと)美しく表現豊かで洗練された日本語の語彙を操るこの方は何者?と調べてみた。
もし『開墾地』に書かれていることが事実なら、血の繋がらないシングルファザーとして育ててくれた父親はイランからの移住者。非常に面白いバックグラウンドである。
まだ一番有名な『鴨川ランナー』は読んでいないが、ちょうど先日第173回芥川龍之介賞候補作品に選ばれた『トラジェクトリー』も気になる。
さて『開墾地』であるが、珍しい生い立ちの作者をモデルにしたと思われる主人公と、久しぶりに会った外国出身の父親の間にある、ペルシャ語、日本語、そして英語という3つの言語的背景から出てくる複雑な感情、距離、そして生き方や人生そのものの物語に一気に吸い込まれ、一瞬で読み終わってしまった。
これを読む少し前、ちょうど定期的に受講している哲学の講座の中で、使う言語によって思考が変わるという内容に触れていた。
例えば同じ人が同じ状況で持ち物を褒められた時など、日本語を使用していると「いえいえ」と自動的にいったん謙遜してしまうが、英語だと「ありがとう!私も気に入ってるんです!」などという言葉が自然と出てくる。
物事の捉え方そのものが使用言語によって変わり、それによって思考パターンが操作されてしまうということ、ある言語を使っている時はなぜか別の言語の場合より解放感を感じたり、逆に閉塞感を感じることがあるのか、使用する言語によって性格が変わるというようなことが有り得るのか、ぼんやり考えていたことも自分の中で一本の線状に繋がっていったような読書体験でもあった。
日本は母国であるし、私は日本で育ったごく一般的な日本人だけれども、日本語生活が窮屈で窮屈でしかたなく、心が暴れそうになってしまうことがある。
それは幼い頃から始まっていて、ひらがなとカタカナをひととおりマスターした後、まだ読み方の分からないアルファベットの文字を見つめながら未知なる言葉の意味を止め処なく想像し、自分の想像が溢れる限界まで来て、その疑問を親に聞いてみると、意外にありふれたつまらない意味でがっかりしたこともある。
中1で英語を習い始めた頃、秘密の暗号を学んでいるかのように感じてそれが楽しくて楽しくてたまらなく、まだ知らない英単語をなにかの拍子に目にすると、それを貪るように調べていた記憶もある。
インターネットもスマホもなかった時代。輸入菓子をひっくり返してパッケージを読んでみたり、服のラベルに書いてある“made in ・・・”を毎回チェックしたり、読めもしない親の洋書にかじりついてみたり。
海外の映画やドラマ、洋楽にもどっぷりハマった。単に物語や音楽であっても、別の言語でなにか他のことを楽しむ醍醐味にどんどんのめり込んでいった。
やはり海外に関係のあることが好きだったから、学校では地理と世界史には夢中になって食いついたが、他教科はたいして真面目に勉強しなかった。英語もちゃんと授業を聞いていなかったからテストはそんなに出来なかったが、単語を調べるのは趣味のようになっていた。
紙の辞書に線を引き、新たに知り得た情報を書き込み、ボロボロになっても使い込んだ。
先日書いた地図帳や社会科資料集と同様、暇あらば辞書をパラパラめくり、新しい単語との出会いに胸を躍らせていた。あまり人には言えない変な趣味だ。
大学へ進んでからは、バイトで貯めたお金をほぼ海外へ行くことに使った。1人で気ままにユースホステルなどを渡り歩いて、スーツケースを持ちながらもバックパッカーのようなことをしていた。
下手ながら日本語を一切使わず、外国語の案内だけを読んで旅をし、外国語を使って会話することが嬉しく楽しく、この不便さ、不思議な間接的感覚の虜になった。
ある程度英語が分かるようになったら、別の言語にも手を出していった。新たな言語に触れるたび、私の中の世界がどんどん広がっていく。未知なる次元への扉を拓くかのように、どんどん私の人生が豊かに膨らんでいくように感じた。
大人になったら落ち着くかなと思ったけれど、今でもその気持ちは色褪せず変わらない。相変わらず一番ワクワクするのは世界と繋がっている時間だし、当時の旅行仲間がみんな家庭を持ち「冒険」を卒業しても、私はまだオバサンになっても放浪を続けている。
国内旅行ももちろん好きだが、海外へ出た時の圧倒的な解放感、少しでも日本語以外の言語を使ってなにかを行うことへの高揚感は私にとって比類ないものである。
この『開墾地』を読んで、使用言語から派生する思考への影響や、母国語特有のなぜか息苦しい感覚について考えていたら、久しぶりにそんな気持ちも思い出した。
『開墾地』から更に思い出したことが多々ある。
それはカロライナという地名の響きである。
ここでもう一冊本を紹介することになってしまうが、私の中でカロライナと言えば『ザリガニの鳴くところ』である。(サウスとノースの違いはあるが)
この少女を、生きてください。
2021年本屋大賞翻訳小説部門第1位! 全世界1000万部突破、2019年・2020年アメリカでいちばん売れた本
泣いたのは、森で一人ぼっちの彼女が、自分と重なったからだ。──同じ女性というだけで。島本理生氏(小説家)
ずっと震えながら、耐えながら、祈るように呼んでいた。小橋めぐみ氏(俳優)
素晴らしい小説だ。北上次郎氏(書評家、早川書房公式note流行出し版「勝手に文庫解説2」より)
ノースカロライナ州の湿地で男の死体が発見された。人々は「湿地の少女」に疑いの目を向ける。
6歳で家族に見捨てられたときから、カイアはたったひとりで生きなければならなかった。読み書きを教えてくれた少年テイトに恋心を抱くが、彼は大学進学のため彼女を置いて去ってゆく。
以来、村の人々に「湿地の少女」と呼ばれ蔑まれながらも、彼女は生き物が自然のままに生きる「ザリガニの鳴くところ」へと思いをはせて静かに暮らしていた。
しかしあるとき、村の裕福な青年チェイスが彼女に近づく……
みずみずしい自然に抱かれた少女の人生が不審死事件と交錯するとき、物語は予想を超える結末へ──。
映画も観たけれど、小説の方が細かい心理描写が巧みで100倍くらい好きだ。
ただ、その映画で使われていたカロライナという曲がものすごく素晴らしくて、映画観賞後に余韻に浸りながら1週間ほどずーっとリピート。
作曲と共にあの有名なテイラー・スウィフトが手掛けた歌詞がまた南部の少しゾクゾクするような不気味な雰囲気を表現していて最高だ。
ここでまた脱線。
少し地域はズレるが、アメリカ南部と言えば私にとっては『風と共に去りぬ』の舞台でもある。
アメリカ南部の大農園〈タラ〉に生まれたスカーレット・オハラは16歳。輝くような若さと美しさを満喫し、激しい気性だが言い寄る男には事欠かなかった。しかし、想いを寄せるアシュリがメラニーと結婚すると聞いて自棄になり、別の男と結婚したのも束の間、南北戦争が勃発。スカーレットの怒濤の人生が幕を開ける――。
現代の価値観に照らし合わせると人種差部などデリケートな問題が数多く浮かび上がってくるが、中2でこの作品を読んだ私は文字通り開眼し、女性の生き方というものに関して真剣に考えるきっかけになった。人生を変えてしまった1冊。
学生時代アメリカ中を1ヵ月ほどあちこち旅していた時、アトランタへ行き、この小説の世界観に浸れる郊外の施設を楽しんだのち、キング牧師のと併せてマーガレット・ミッチェルの墓参りをした。
ちなみに私は有名人の墓参りが好きらしく、他にアメリカだとメンフィスでエルヴィス・プレスリーのグレースランドに参拝。パリの墓地でもゆっくり色んな著名人に思いを馳せながら散歩を楽しんだ記憶がある。
更にアメリカ南部繋がりだと、
『ティファニーで朝食を』の原作で有名なトルーマン・カポーティを思い出す。
20歳前後の時、この本が大好きだった。
心は万物(すべてのもの)よりも偽るものにして甚(はなは)だ悪(あし)し
誰(たれ)かこれを知るをえんや――エレミヤ記 第17章
カポーティを「天才少年作家」と位置付けた、眩いばかりの処女長編。
父親を探してアメリカ南部の小さな町を訪れたジョエルを主人公に、近づきつつある大人の世界を予感して怯えるひとりの少年の、屈折した心理と移ろいやすい感情を見事に捉えた半自伝的な処女長編。戦後アメリカ文学界に彗星のごとく登場したカポーティにより、新鮮な言語感覚と幻想に満ちた文体で構成されたこの小説は、発表当時から大きな波紋を呼び起した記念碑的作品である。
ニューヨークのマンションで、ありふれた毎日を送る未亡人は、静かに雪の降りしきる夜、〈ミリアム〉と名乗る美しい少女と出会った……。ふとしたことから全てを失ってゆく都市生活者の孤独を捉えた「ミリアム」。旅行中に奇妙な夫婦と知り合った女子大生の不安を描く「夜の樹」。夢と現実のあわいに漂いながら、心の核を鮮かに抉り出す、お洒落で哀しいショート・ストーリー9編。
こちらに入っている『ミリアム』という短編もあの頃、通学電車に揺られながら繰り返し読んだ。ああ懐かし。
更にここからあり得ない連想。
アメリカ南部と言えばルイジアナ、ニューオーリンズも私にとっては思い出深い場所。
前述した『風と共に去りぬ』や『ザリガニの鳴くところ』にも出てくる沼地を見に行くためにわざわざ郊外に出向いたり、ミシシッピ川を何往復もしてハックルベリー・フィンの世界観に浸ったりした土地。
そして、大好きなバレエの作品『マノン』にもルイジアナの沼地が出てくる。
バレエ「マノン」は、アベ・プレヴォーの小説「マノン・レスコー」を原作としたドラマティック・バレエです。ケネス・マクミランが振付を手掛け、ジュール・マスネの音楽を使用しています。18世紀パリの裏社会を舞台に、マノンとデ・グリューの純愛と破滅を壮絶に描いた作品です。
マノンのあらすじ:
美しいマノンは、神学生のデ・グリューと恋に落ちます。しかし、マノンの兄レスコーは、金に目がくらみ、彼女を富豪ムッシュG.M.に売り渡そうとします。マノンは、デ・グリューとの愛と、富の誘惑の間で葛藤します。デ・グリューは、ムッシュG.M.とのカード詐欺で彼女を連れ去りますが、マノンは売春の罪で逮捕され、アメリカに流刑となります。
アメリカに流刑になった、ファム・ファタールであるマノンがルイジアナの沼地で死を目の前にしながらも極限の愛を見せる壮絶なシーン。
たまらない・・・
あれ?このnoteってヨガのアカウントじゃなかったっけ?
Miはふと我に返った。
おたくスイッチが入ると自制が効かなくなり脱線したまま暴走する、ということに気が付いた。
まあ、これはこれで、こんな一面もまたMiということで。
ちなみに今回はアメリカ南部に関連する作品をちょこちょこ紹介しましたが、私は英米文学専攻でもなんでもないただのド素人なので、おかしなことを書いていてもスルーしてください。
こんなにリンク貼るんなら、アマゾンのアフィリエイトやっとけばよかった。
『単語帳』読んでくださったnote仲間たちのリンク