メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【Once Rainy, Now Rusty】Ember.03 TAX ON TAX【 #ORNR 】

    ⚠これら創作はフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
    ⚠弊創作には一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)
    🌹登場人物の性指向はなんでもアリですが、今作は特に男性同士の関係性にスポットを当てております。
    ⚠弊創作物は文章、イラスト、グッズ問わず無断転載、AI学習禁止です。個人、企業様問わずAIに分析させたフィードバックについても固く禁じます。





     サビは時たま潰れることがある。
     それはオフィスのソファで。バスタブの中で。帰路で。公共交通機関で。ベッドの中で。つまり、日常のそこかしこで。頻度こそ高くはないものの、日々の生活のただなかでアイツはいきなり蹲って、動けなくなってしまうのだ。その前触れが頭痛である……というのは俺の観測し得る範囲での分析でしかないが、とにかく彼は唐突に頭が痛そうな素振りをみせたあと、ぷっつりと糸が切れたように頽れるのだ。かといって気を失っているわけではないのがまた怖いところである。そういうときの彼はただぼんやりと心ここに在らずの挙措になり、受け答えや行動が可能かどうかは場合によるが、とにかくその前後の記憶がなくなってしまうようだった。そしてこれまでの観察やちょっとした実験の結果、どうやらサビは頭痛がしていたということすら覚えておらず、本人曰く「ぼーっとしてた」「半分寝てたかも」「別のこと考えてた」といった具合で、自覚症状はない。
     これによりサビが他害をするわけではないので、俺はその症状を彼の個性としてゆっくりと受け容れていった。なんにも知らない。気にしない。ぼんやりしがちな彼に苦笑する同僚といった態度で接し、彼の意識が覚醒してからも、それを思い出させるような特別な言動は取らないようにしている。そんな俺の態度は、外野からは『優しい』対応に見えるらしく、元々彼のプライドだった連中も次第にアジトでサビが潰れていると俺に教えてくれるようになった。
    「おーい、サビ。どした?」
     いつも俺はそんなふうに動かなくなった彼に声をかける。返事があって動けるようなら別の場所に誘導。それが無理そうなら、抱き上げて静かな場所に連れて行く。こうすべきと思っているというよりは、これしかしてやれないといったほうが正しい。
     加えて、こういったかたちで動けなくなるのは、なにもサビだけではなかった。ヘヴンの連中の多くが、似たような症状に陥りがちなのだ。サビのように頭痛がしていそうな反応を示す者は他にいないが、彼らもよく『潰れて』いる。するとサビは彼らの側にぴったりくっついて、じっとして離れない。優しい声で語りかけて、寄り添って、抱き締めたりして。サビは彼らを慈しむように宥めては、「俺がいるよ」と歌うように音を紡ぐ。
    「俺がいるから。諦めたかったら、俺がいるから。だから安心して。まだ大丈夫だよ」
     そういうときのサビの睛には、無力感が宿っているように俺には思える。騎士団でミゼリコード仲間殺しの仕事をしているときには見られなかった、茫漠とした失意の色だ。穏やかでいて、それでいてすぐ側に在る……在ってしまっている、逃れようのない絶望。まるで死神が憑いているみたいだ。なのにそれでプライドメンバーたちが落ち着きを取り戻したりするものだから、余計にサビはつらいのではないだろうか。誰もがサビに縋って、誰もがサビに救われて。まるで、あのときの再演だ。
     でも、お前はカウンセラーではない。もうミゼリコードでもなければ、ましてや慈悲だけのイキモノでもない。なのにお前は願われることに疲れた神みたいに疲れた眼差しで皆を照らす。俺の大切な。大切なたったひとりなのに。──俺は、どうしたらお前を救うことができる?
     俺はお前を泣かせたあの日から、お前を苦しめた罰を受けられればいいのにとこの悔悟に暮れている。


    「なにしてんだテメエ!」
     メーヴェへの出勤後、男子更衣室のドアを開けた瞬間、俺は事態を理解するより先に声を張り上げていた。咄嗟に声が出るところは取り柄として自負しているのだが、今回は特別に早かったように思われる。とにかく俺は声帯を破くかのような怒声を発すると、次の瞬間にはソファの陰でサビの上に覆い被さっていた男を蹴り飛ばしていた。不意打ちにより楽に跳ねた男はソファの角にめり込みながら本体を一メートルほど動かし、そのまま不格好に背凭れの向こう側に崩れ落ちる。俺はその軌道を予測しただけで最後まで見届けずに、床の上で頭を抱えるようにして蹲っているサビの名を呼んだ。彼は返事をしなかったものの、目に見えて震えており、怯えていることは明白。つまり、不同意だ。俺は羽織っていたトラックジャケットを手早く半裸の彼の身体の上にかけると、鼻血を撒き散らしながら起き上がろうとしていた男に大股で寄ってその前髪を掴んだ。週二回出勤の、キッチン担当だった。
    「殺す」
     俺はいつも怒りを堪えながら生きている。境遇への怒り。社会への怒り。おのれへの怒り。……だからそれらが爆発するときにどうなるかについては、見境がなくなるとはいえ自覚があった。しかし今日はもう止められそうになかった。視界に黒いものが溶け込んでくるのを明確に知覚しながら、既に肋骨や内臓が潰れているであろう男の頸に手をかける。
     すると、蹲ったままのサビから「やめてください」と細い声が上がった。
     それが悪夢のただなかで漏れる譫言のひとつなのか、それともこちらに向かって放たれたものなのかの判別がつかず、俺は男の頸を掴んだままそのほうを見遣る。そんな俺の迷う意図を汲んだのか、サビは今度はいくらかはっきりとした発声で、「ザザさん、やめて」と俺に訴えた。
    「無理だ」俺はそう返し、手に力を込める。「コイツ殺して帰るぞ」そしてさほど鍛えられてもいない男の弱々しい抵抗を放り投げるように跳ね返しながら、未だ絶妙に元気らしいその股座を踏みつけた。
    「やめて……俺は逃げない、から」
     上擦って微かに高いサビの声が、響かずにその場にこぼれ落ちる。それはまるで宝石の一粒であるかのように床に転がった……ような気がした。
    「お前は逃げてねえんだよ!」
     ドアを開けたときより、大きな声が出た。サビの肩が跳ねるのが見えた。怖がらせてしまったかもしれないと、その一点のみに怯えた俺は、努めて優しい声を出す。「大丈夫だ、サビ。大丈夫だ。俺がなんとかするからな」
     しかし俺がサビを落ち着かせるより先に、再びドアが開いた。見ればそこには驚いた表情の店長が立っており、彼は「どうしたの、すごい声だったよ」と言葉を発すると同時に、一瞬にして事態を察した眼差しになる。俺は彼のその危機管理能力の高さにあやかって、今さっき発した穏やかなトーンのまま言葉を紡ぐ。
    「店長、すんません。コイツ、ちょっと殺します。後片付けはしっかりやりますんで」
     だが店長は「ちょっと待ちなさい」と、わりあい物怖じせず俺を制止すると、「警察を呼ぶから。ね?」と言って懐からスマホを取り出した。しかし今度はサビがそれを止める。
    「店長、警察、は……店の、営業、が」
     血の気が失せたままの、掠れた声。それを聞き、店長は納得したらしくスマホを一旦耳元から下ろした。とはいえ、それはこの状況が店の営業に影響を及ぼすという観点からではなく、サビのことを慮ろうとする視座から判断されたもののようだ。彼は俺を見遣ると、「わかった。警察はやめよう。じゃあ『人手』を呼んでくるから。ザザさん、その男のことをそのまま確保しておいてね。殺さずに」と、有無も言わさぬ強い口調で言い切って、俺の返事を待たずに更衣室から出て行った。
     重たい沈黙が流れた。男は意識があるようだが俺に咽喉を押さえられているからか言葉はなく、サビは怯えているのか頭痛がしているのかとにかく動けないらしかったし、俺はなにか言葉を発したらそのままの勢いで男を縊り殺しそうだった。はやくサビを抱き締めたくてつらい時間だったが、壁の時計を見る限り五分も経たないうちにその『人手』はやってきた。
     俺は見るからに堅気ではなさそうなその男たちに無言でゴミを押しつけると、上体を持ち上げながらもどうしても立ち上がれないらしいサビの傍に寄る。俯いたままの彼は、舌を縺れさせ「あ、お、お、お、怒んないで」とからがら要求し、俺のトラックパンツの裾を引いた。足許に散らばるみたいに投げ出された彼の脚は、しっかり左右ともに震えているようだった。
    「怒らない」
     自らに言い聞かせるように俺はサビに向かってそう断言すると、膝を折り彼の身体にジャケット巻きつけ直してから抱き締めた。昔よりずっと男らしい身体つきになったというのに、あまりにも頼りない感触に息が詰まる。
    「お前には怒らない」
     おそらく顔を見られたくないであろう彼の頭を肩口に押しつけながら、俺は怖がらせたいわけではないことを必死に表現する。「大丈夫だ」「……うん」「俺がお前に怒ったことなんてないだろ」「うん、たぶんね……」「俺がいるから」「うん」「だから安心しろ」「うん」「大丈夫だから……」「……わかった」ああ、こんなのは潰れた仲間に寄り添っているときのサビとまるっきり同じ。なのに、俺にはどだい彼の気持ちなんてわからないし、どうしてやったら彼を救えるかもわからない。なんの実感も湧かないまましばらくサビを抱き締めたままでいると、店長がドアの外から顔を覗かせて、「ヘルプ集められたから、ふたりとも今日は上がろう?」と声をかけてきた。「ニコニコできない日っていうのは、休暇取得推奨日とされてるんだよ。メーヴェでは」
     その言葉に、サビももう意地を張れなくなってしまったようだ。吐息だけで「すみません」と繰り返すサビに、俺はロッカーから取り出した彼のジャケットを着せると、離れた位置に落ちていたスマホを拾う。どうやら破損はしていないらしいが、俺が触れても当然、画面は明るくならない。
    「じゃあ、帰ります。すんませんご迷惑おかけして。あとのことは『お任せ』します」
     俺は店長にそう声をかけてサビを抱き上げると、身長一九四センチを可能な限り縮こませて目立たなくあろうとしている彼のために、非常階段から地上へ下った。そうしてサビに「タクシー呼べるか?」と声をかければ、彼は頷いてスマホを操作してくれる。
     移動中は、なにも話しかけなかった。彼の自宅の前で「鍵出してくれるか?」と促したときも、まだ彼が頭痛が引鉄の健忘状態にあるか──いや、至る過程にあるか、といったほうが正しいか──どうかの判別はつかなかった。しっかり意思疎通ができていても、後になって覚えていないなんてことは、今までにもざらにあったからだ。しかし寝室のベッドにサビを寝かせたとき、おもむろに彼が俺の左手の小指を握ったのを見て、俺はこれは忘れるやつだな、と確信した。……忘れてくれた方がいいよな、と安堵しながら。
    「見るか、キラキラ」
     そんな声をかけながら、俺もベッドに入る。そうしてサビの背を抱いて横臥する姿勢になり、その目の前に左手を持ってくる。すると彼は俺の手を握って、小指の指輪に嵌められた石に魅入ったようだった。
    「いーだろ、コレ」
     俺が得意な声を出せば、サビは控えめに頷く。だったら今すぐにでもその左手の薬指に嵌めてやりたいのに、いまの俺にはまだそれは成し遂げられない。ただただ意識が曖昧な元婚約者に過去の未練を見せびらかして、いつかコレが元はなんだったのかを思い出してほしいと願うばかりだ。かつての若い騎士が、覚悟を決めて大枚叩いて買った愛の証。かつての天使が、泣きながら投げ返してきた愛の残滓。……俺の人生、そのもの。
     今のサビは、おそらくキラキラしたものが好きだからそれに惹かれているだけに過ぎない。コイツの趣味は鉱石集めで、そういった店やイベントに顔を出しては石を購入したり、たまにアクセサリーに加工しては俺に「カワイっしょ?」と見せてきたりする。俺にはよくわからない趣味であるものの、彼が日常に則した行動を今も無意識におこなっているのだとしたら、それをわざわざ止めてやる謂れもない。俺はサビを抱いてそのやわらかな髪に鼻を埋めながら、ただ指を弄らせてやるに徹した。
     そうしていること二三十分ほどで、サビは眠りに落ちたようだ。その大人しい寝息を聞きながらスマホで時刻を確認し、各所からメッセージの通知が届いていることを認めた俺は、彼を起こさないようベッドから抜け出すとリビングへ移動した。サビの自宅とはいえ、勝手知ったる場所ということで半ば俺専用と化しているグラスを棚から出し、「アンタしか飲まないから邪魔」と言われているバーボンをさっと注いで舐めて、タバコに火を点ける。こうして未だ胸中に燻りつづける憤りをはぐらかしながら、俺はいま一度スマホを取り出した。数時間前、俺はサビが目星をつけた店で稼働しているプライドのメンバーに、キーカラー・ティアラの面子が働いているかどうかを確認してほしいと指示を出していたので、その確認である。
    「渓谷にはメンバーはいないようです」
     高級クラブ『渓谷』で黒服をしているプライドのメンバープラメンからは、そのようなメッセージが入っていた。確かに可愛らしいアイドル系の女が働くような店ではないので、これは想定内。礼を返して次のメッセージを確認する。
    「インテルメッツォに青の子がいます。このスタイルは間違いありません」
     キャバクラ『インテルメッツォ』に出勤していたメンバーからは、数分前にそんなメッセージが入っていた。若干セクハラめいた内容だが、メンバーカラーが青のハユンは高身長なのでキャストの中でも目立つのだろう。俺は「でかした。念のため様子見といてくれ。ストーカーに悩んでるからな」と返し、それからフキダシを変えて「いまヘアメはいるか? ビヴァリーって女だ」と、改めて送った。
     返信を待ちながら、俺はリビングの窓を開けてそこからハーフバルコニーに出る。サビが住んでいるのはビルの屋上にあるペントハウスだ。サビは社交的に見えて人嫌いな節がある。なので隣接する部屋や家が最も少ないという観点からの物件選びなのだろう。ひとり暮らしにはかなり広めのハーフバルコニーを囲む手摺の側には、一台のカフェテーブルと二脚の椅子、そして脚付きの灰皿が置いてあり、俺たちは天気のよい日にはよくここで酒を飲むことにしていた。俺はそのいつも俺が座るほうの椅子──きっと、『来客』は皆ここに座る──に腰を下ろすと、灰皿に消えかけのタバコを放り込んだ。そうして指で摘まむようにして持ってきたグラスに口をつけ、まるで人心地つくような穏やかさで以て嘆息する。……ああ、なんて日だ!
     絶妙にぬるい夜風が前髪を煽り、ひらけた視界に街灯りがガラス片みたいにちらばって眩しい。しかしメーヴェの喫煙所から眺めるものよりは、人の棲み処として妥当な光量であるように思われた。それらに向かって恨めし気に向けるこの視線が、サビの人生にとってなんの効力もないことが悔しい。この世でできることならなんでもしてやりたい。一緒にあの世に行くことすら厭わない。なのにサビは、俺になにも話してはくれない。……どうして頭痛とともに記憶が失われることがあるのか。なんのトラウマを抱えているのか。なぜ左脚がないのか。俺は知らない。なにも聞いていないし、訊いていない。
     だから俺は、身勝手にお前を想像して勝手にお前を解決する他ない。烏滸がましく、おのれの藪を往くしかない。
     通知が鳴った。プラメンからかと思ったら、メーヴェの店長からだった。見ればメッセージには「どうにでもできるけど、どうする?」とあった。「査定は如何ほどです?」すぐに俺はそう返す。すると連投するつもりだったのか、ものの数秒で次のコメントが表示された。「ウチとしては沈めて差し支えないかな。それだけの理由はあるってことにはできるよ」
    「ことにはできる、ねえ……」
     このぼやきは、店長に対しての不満ではない。彼も俺が意図を察すると思ってくれていることだろう。ただ、サビのことを想うとそれが「当然ではない、寛大な措置」というニュアンスで処理されるのはどうにも腑に落ちない。いつもは感心するほど生意気なアイツがあんなに怯えて。なんにも抵抗した形跡がなくて。みすみす「自分さえ我慢すれば」と自らを差し出そうとしたことは明白で。……どう考えたって殺すだけなのは甘い。
     ぐっとグラスを傾け中身を飲み干してから「一番簡単な方法でお願いします」と返事をする。ああいう手合いについて態々思案を余らせることなど、それはそれで愚かである。一番簡単ということは、嬲らず、意見を聞かず、後先を憂うことなく、サクッと処理することを指す。きっと、あの男は「理不尽だ」と感じるに違いない。それでいい。
     それから新しいタバコに火を点けようとしたところで、インテルメッツォの担当から返信があった。簡潔に、「女、います。これから出勤してくる嬢は残り三名。おそらく一時間後には退勤」と、俺の意向を汲んでくれたであろう内容だ。
    「女が予想外に早く帰るようなら教えてくれ。今から尾行の用意をする」
     俺はそう打ち込みながら立ち上がり、一旦家の中に戻ると、戸締りを確かめてから寝室を覗いた。サビは先ほどとほぼ同じ寝姿でいるようで、俺はその口許のほくろにそっとキスをしてから彼の家を後にする。鍵ならとっくの昔に交換しているので、またここに帰ってくるつもりで。


     インテルメッツォは、メーヴェと同じレコナーズ・ステップ駅北口の一番街にある。とはいえターミナル駅前であることを売りにしているメーヴェからは離れた通りの奥にあり、隣駅のほうが若干近いという立地だ。夜の街に慣れているとはいえ、女は黒服でも嬢でもない一般美容師。帰るとしたら最寄り駅を選ぶだろうと踏んで、俺は女と擦れ違うことのないようにまずはその駅に向かうことにした。サビの自宅の最寄りからメトロに乗り、その車内で髪を纏め、出がけに掴んできたサビのキャップのサイズを調節してその中に結んだそれを収める。それから着ていたトラックジャケットを脱いで腰で結ぶ。普段俺はメーヴェでは制服を着用しているため、刺青を露わにはしていない。なので出しているほうが姿を見られても俺だと勘付かれないと踏んだわけである。そして目的の駅で降りると、構内のキオスクでマスクを買って身につけた。簡易的な変装だが、経験上これで十分だ。
     そうして俺は駅からインテルメッツォの付近まで足早に移動すると、まずは当該テナントの入っているビルをぐるりと一周して正面口と裏口の位置を確認した。しかし裏口はゴミ捨ての黒服ぐらいしか使ってはいなさそうな荒れ具合だったので、まず間違いなく正面口から出てくるであろうと断定し、その少し離れた位置にある自販機の前に陣取った。そこでなんとなくサビの好きなエナドリを買って、タバコを吸いながら街の空気に融け込む。この街は成り損ないどもの吹き溜まり。多少体格に恵まれようと彫り物が目立っていようと人でなかろうと、それがフツウだ。ゆえに、呼吸にちょっと気を遣うだけで目立たなくなる。俺が思うに、先の任務の依頼人であるタヤという上位種や、我らが督国の王、それからサビをはじめとした、いやに目立つ連中というのは、息の仕方が他と違うのだ。呼吸をするだけで金粉を撒き散らすような彼らの瘴気は、目立たなく偽装をするのには骨が折れる。しかし俺は、それが得意だ。
     美味くねえエナドリを舐めながら吸うタバコはいつもよりポップでホーリー。ベタついた唇をフィルターで拭いながら無為にスマホを触っているふりをしていると、ビルの正面口から例の女が出てきた。想定通りの時間。数回擦れ違った程度の女だが、遠目にも変わった様子はないところからして、彼女がいつも通りの生活のただなかであるということは明らか。であれば尾行は楽だ。俺は残りのエナドリを飲み干し、目の前を横切った女の背が十分に遠ざかってからその場を動いた。
     標的と一定の距離を保ちながら、夜の繁華街を進む。途中キャッチに「女の子どっすか。おっぱいどっすか」などと話しかけられたが、「御苦労さん」と言ってやればやればたちまちのうちに「お疲れさまです!」と返ってくるのだから夜の街というのはある意味扱いやすいともいえる。前方の女は時折歩きスマホをしたり、街中の広告を注視したりしていたが歩行スピードにムラがあるわけでもなく、意識が『帰宅』の一点に向いていることが窺えた。そしてそのままメトロの最寄り駅に入り、改札も何事もなく越えたので、俺は彼女の背中が三、四番線ホーム行き下りエスカレーターの先に消えたことを確認してから改札を通った。階段を使ってホームに下り、丁度やってきた電車に彼女が乗車する姿を認めてから隣の車両に乗り込むと、車両と車両を隔てる貫通扉のガラス越しに彼女を観察する。帰宅ラッシュの終わったこの時間帯の車内は空いており、シートの埋まり具合は六割ほどだが、出入口付近に立っているところを見るに、隣に他人がいてまで座るほどではないと判断したようだ。つまり、数駅で降りるということ。この路線の一駅間は一分ほどで、下り線に五駅も乗れば下町風情が香ってくる。夜の街で副業をしているくらいなのだから家賃が手頃なエリアに住んでいることは頷ける。ここで一瞬、彼女が降りる駅を目算のみで当てる博打でもしたくなったが、堪えて視界に彼女を入れたままにしておいた。乗り換えの可能性も十分にあり得るからだ。
     それから女は、下町にあるターミナル駅で降りた。ここは通勤客や地方からの旅行客が多く利用する駅で、乗り換えられる路線が多くある。すると案の定、彼女は電車を乗り換えるために出口ではなく別路線のホームへと移動したようだ。これでは流石に距離を取らざるを得ず、俺は仕方なしに彼女の乗ったそれより三つ離れた車両に乗り込んだ。
     こうなると貫通扉越しに監視するのは難しいし、傍目にも不自然である。今度こそ博打か、と車内の案内表示を見上げたそのとき、俺は思わず「ん?」と無意識に声を上げてしまった。……俺は普段この路線を使わないが、なにかが引っかかるような。明日の天気予報に切り替わった画面を見上げたまま数秒。そして再び路線図に戻った途端、気づく。──ヒナミとシュウタが住んでいるという地域の駅名が、二つ先にあった。いやそんな馬鹿な。なぜだか降って湧いた緊張感に固まっていると、いよいよその駅に到着した。開いたドアからそっと顔を出して様子を窺えば、向こうの車両から女が降車するところである。
    「いや、まさかな」
     苦笑を真顔に整え、後を追う。「ちょっと待て」と何度も呟きながら、ホームを抜け、改札を抜ける。すると女は駅中のキオスクに入った。俺は念のためその近くの巻き広告のされている柱の陰に身を隠し、女の動向を観察する。なにかメシでも買って帰るつもりかと思ってそのまま待っていると、視界の端に覚えのある小さな人影が映り込んだ気がして、そちらを振り返った。……シュウタだった。
     俺は彼に気づかれてはこの尾行が水泡に帰すと気を引き締め、女にもシュウタにもバレないよう身を縮こませつつ、慎重に両者を交互に観察する。女は店内から出てこない。シュウタは改札前のもう一本の柱に寄りかかって、あのプラスチックケースからなにかカードデッキのようなものを取り出して、一枚一枚眺めてはニヤニヤしている。一瞬、クソガキが……と可愛く思いそうになったが、子どもが出歩くには遅いこの時間帯に、ひとりでいるというのは不安だ。大方、姉の迎えに駅まで出てきたのだろう。そう思いながら見守っていると、案の定改札からオフィスカジュアルに眼鏡を掛けた姿のヒナミが出てきた。そうしてシュウタの姿を認めると「ねえ、来なくていいって言ってるじゃん!」と声を張った。「アンタ、夜は危ないって言ってるでしょー! なにもなかった?」叱りつつも心配も欠かさない、優しい姉ちゃんである。
    「ヘーキだし。つえー男はこんくらいするんだし」
     シュウタの態度は素っ気ないが、照れていることが窺える。まったく生意気であるが、俺も人のことは言えない。そうして仲良く夕飯になにを食べたいかという話をしながら帰路に着くふたりの背中を見送っていると、少ししてあの女がキオスクから出てきた。鞄から出したのか、ここまで来るときにはなかった帽子を被っている。その進行方向は姉弟と同じ。一定の距離を保って、俺と同じようにさり気なさを装って……。
    「くそ、やっぱりか……」
     これは、明らかにストーカーである。俺はこれっぽっちも嬉しくない予想の的中に舌打ちをすると、女と同じように女を追った。二重尾行である。かなりの距離があるとはいえ、顔見知りであるヒナミとシュウタに姿を見られたら終わりだ。サビのキャップを目深に被り直し、慎重に駅前のロータリーを抜ける。すると、当然ながら人の往来は少なくなり、明るさの保たれた通りであるがゆえに目立つリスクが上がってきた。これは地上では危険だと踏んだ俺は、彼らが信号待ちで立ち止まったタイミングで近くの低層マンションの屋上に飛び乗る。この程度であれば人外族にとっては楽なもので、ベランダの手すりや配管などがあれば容易く登ることができるのだが、ゆえに対策をしてある物件も存在している。要は害獣除けのようなギミックがついているのだが、この辺りの下町の安い物件では中々ないようで、その点は救われた。登った先で往来を見下ろし、三人の姿を難なく視認できることを確かめてからマスクをずらして呼吸を整える。姉弟の自宅は話によると、「むしろ隣の駅にも近い」という、駅から十五分圏内。進行方向を望めば、およそ静かな住宅街で、住民がゆうに起きている時間帯ではあることも加味すると、女が滅多な行動──例えば、刃物で攻撃するなどだ──を取ることはないように思われた。……しかし。だがしかし、わからない。『滅多なこと』は滅多に起きないからこそ、そうカテゴライズされる、後付けの形容だ。数時間前のサビの事件のように、本人も周囲も「ここでまさか滅多なことは起こらないだろう」と慢心することで発生する。気を抜くことはできない。
     やがて、信号が青になった。三人を追って車道の向こうのビルに飛び移ろうと脚に力を込め、いざ跳躍をしようとしたその瞬間……いや、空に飛び込んだ瞬間、背後に気配を感じた。殺気? 敵意? いや、違う。ただの『視線』だ。しかしそれはたった今感じるには却って恐ろしいもので。
     俺は往来を飛越し、空を跨ぐその途中で腰から愛用のレザービリーを抜くと、ビルの屋上に着地する直前に振り被り、着地すると同時に殴りつける動きで背後を振り返った。突沸するアドレナリンのせいでゆっくりと見える視界。ぬっと現れる防御姿勢の男の腕。世界が通常再生され、手応えとともにパアン! と大きな音が鳴る。目より先に筋肉が反応する。「受け流された」と感覚が訴えている。……敵性個体だ。バックステップで距離を取り、夜に融け込む黒衣の男に目を凝らす。ボディラインの出ない衣服からも窺える鍛えられた体躯に、なぜだか覚えのある瘴気。間違いない。
    「ストーカー野郎じゃねえか……」
     すると、目の前のストレイ例の男は「ストーカー野郎はそっちじゃないですか」と静かな声で言った。彼は俺の一撃を受け止めた腕を「いてて」と擦り、しかしさほどダメージは受けていなさそうな動きで一歩詰めてくる。
    「なんなんすか、アンタ。いや、アンタら、か。お仲間人外族ですよね? あの子たちに近づいてなにをする気なんですか?」
     その言葉に、彼が俺のことをキーカラー・ティアラの周辺に最近出入りしている人間であると理解していることが察せられた。その分析能力と、落ち着いた話し方からして、病んで狂っているようには見えない。以前の尾行時から薄々気づいてはいたが、やはり、そうは見えないのが不可解だった。
    「……仕事だ」嘘ではない返事をしてみる。
    「なんの仕事ですか」
    「説明してやる暇はない。今も仕事中なんでな」
    「今はどんな仕事なんですか」
    「プライドの仕事で、作戦リーダーのいるヤマなんでな。俺の一存ではなにも言えねえ」
    「……プライド!」
     男はその単語に反応を示すと、途端に戦意を剥き出しにしてきた。瞬く間に練られる戦闘用の魔力。……よく鍛えられた個体特有のオーラである。流石は元軍人といったところだろうか。そんな魔力の流動を感じながら、俺も応戦の覚悟で呼吸を整える。
    「益々あの子たちに近づいてほしくありません」
     男はいくらか冷静さを取り戻した声でそう言うと、左腕を構えた。
    「お、アンチプライドか」
    「ええ、超アンチです」
    「まあ、アンチだわな。ストレイなら」
    「ストレイ……なんですか、それ」
    「……今ここで煽られてえか?」
    「ええ、レスバしましょう」
    「ストレイはな、お尋ね者の脱走兵のことだよ!」
     そう言って、俺は手にしたレザービリーを振り被って男の懐に突っ込む。相手の型を測るためであれば多少の負傷も厭わないというのが俺のスタイルだ。『馬』がいればそうはいかないが、個人戦では瞬間の読み合いの愉しい接近戦を好む。こういった理由である程度の隙を演出して殴りかかったわけだが、男は真っ当に防御に全振りしてきた。魔力で保護した左腕でビリーを弾き、一撃一撃ごとに果敢に、そしてじりじりと距離を詰めてくる。まるで防護盾を扱っているかのようなその動きに、俺は不意の一撃を警戒して一旦距離を取った。そしてなにより、気づいた点がある。
    「お前、左腕が義肢だな?」
     魔力で保護しているとはいえ、俺の一撃で食らわないなど普通は有り得ない。それに、明らかに手応えが違った。まるでポリカーボネート有機ガラスに跳ね返されているような感覚だったのだ。
    「よくわかりましたね……」
     頷いて、男は羽織っていたフーディーを脱ぎ捨てた。するとその左肩より先には、月光を受けても闇夜に融けるような艶消しの、カーボン製と思しき腕が連結されていた。そして肘から先にはポリカのガードが覆って艶めき、無骨でありつつもスペースエイジなデザインをしている。
    「SUNSPOT BULLET HOLESSBH社の警備用モデル……百二十年くらい前の型か。カスタムしてるみてえだが、レトロなプレタポルテゆえに相応の維持費がかかるだろ」
     俺がそう指摘すると、男は「へえ、詳しいんですね」とその義肢の手首の部分を揉んだ。まるで自分の肉体そのものであるかのような、自然な仕草……扱い慣れている者の特徴だ。
    「ウチのプライドには義肢の奴が多いんでな。手当出るぞ。ウチ来ねえか?」
     警戒は解かずに勧誘してみるが、男は返事をせず動かない。しかしすぐに拒絶が出てこなかったあたり、生活には困窮しているのだろう。であれば交渉の余地ありと見做し、今度は俺から一歩詰める。
    「正直に言うぞ。ソレは俺と相性が悪い。つまり、俺がそれなりに真面目に高出力で向かい合わなくちゃあならねえわけだが……そうなると手加減してやれねえ。たぶん、ぶっ壊す。お前の義肢は肩からのジョイントだろ? 多分付け根から綺麗にいくぞ。大事に使ってそうなソレ、全交換したかねえだろうよ」
     すると男は「俺がアンタを負かす可能性は考えていないんですか? 不利だと判断したのに?」と当然の疑問をぶつけてきた。
    「議論の余地なし。俺が勝つに決まってる。相性が悪いとは言ったが負けるとは言っていないだろうが。ジャンケンのグーで負けるならそのグーでブン殴って勝つ。頭だろうが首だろうが股間だろうが狙って仕留める。俺は元騎士だが……臍より下は狙わねえなんてプライドこそもうねえよ」
     そう。俺は元騎士であって、もう騎士ではない。勝手に掲げている個人的な誇りはあれど、あの騎士の制服みたいにまっさらに真っ白な精神性など、もうとっくに持ち合わせてなどいないのだ。いくらでも無法をはたらくし、いくらでも血に塗れてやる。守るべきもののために。アイツがそうしているように。俺が俺であるために。
    「それでも喧嘩してえなら相手してやるが……」俺はそこで言葉を切って、背後に親指を向けた。「ちょっとあの姉弟が家にちゃんと帰れたか確認してからでいいか?」
     俺の申し出に、男は「へ?」と素っ頓狂な声を上げ、それから「ストーカーじゃないんですか?」と更に声を裏返らせた。これには俺も唇を尖らせながら「なわけあるかよ、ストーカーのストーカーだよ!」と、我ながら訳のわからない自己紹介をしてしまう。すると男は、「いやストーカーのストーカーは俺なんですが?」と怒ったように主張する。
     なんだこれ……と、おそらくふたり同時に思ったらしい。互いに変顔で(あちらは顔がほぼ見えないが)見つめ合うこと数秒。そしてこれまた同時にビルの屋上の手摺に飛び付いて、あの姉弟と例の女の行く末を確認しようと眼下の往来にその姿を捜す。すると俺たちの現在地から二百メートルほど先に姉弟の姿があり、その十メートルほど後ろにあの女の背中があった。
    「ふー……なんもしてねえな? まだなんもしてねえな? 尾けてるだけだな?」
    「みたいですね……今夜も大丈夫そうだ」
     安堵の溜め息が重なり、互いになにか対話をすべきと思い合っている沈黙が流れる。その沈黙を背負ったまま、俺が指で「最後まで見送るぞ」ということを示して歩き出すと、男は黙って着いてくる。そうして建物の上を飛び越え飛び越え、やがて姉弟が自宅アパートの自動ドアを潜ったところを確認し、それからあの女が踵を返して駅の方面へ戻ってゆくのを認めると、俺は「メシ。奢ってやる。なに食いたい」と暗に交渉のテーブルに着くよう促した。
     男は「この道まっすぐ行った先の駅前にファミレスがありますね」と、少し先で輝くファミレスの看板を指すと、「ドリア食いたいです」と落ち着いた態度のまま言った。どうやらこれは殴り合いにならずに済みそうな気配である。


    「メロンソーダて」
     男はドリンクバーから戻ってきた俺のグラスを見て笑った。だから俺も「なんでドリア二個なんだよ」と、席までやってきた猫型配膳ロボットの背を指して指摘する。「いや、足りないでしょひとつじゃ」「それはそうだけどよ。もっとこう、あるだろ、ドリアとパスタひと皿ずつ、とか」「同じのふたつ頼んじゃダメってルールはないですよね?」「それはそうだな、うん。オッサンの頭が固かったわ」
     撃沈である。とはいえ、これで俺が話ができない相手ではないとアピールすることはできただろう。俺はタバコに火を点け(この国の飲食店は分煙が基本である)、メロンソーダをで舌を湿らせてから切り出した。
    「俺はザザ。元騎士で、今はTEMPってプライドのリーダーやってる。お前のことはなんて呼べばいい? 元の名前じゃなくていいから教えてくれ」
     男はドリアに差し込みかけていたスプーンを一旦持ち上げると、その長い前髪の下で改めて俺のことを観察し始めたようだ。もうキャップとマスクを脱いでからしばらく経ったはずだが、こうして光量の多いところで認めて初めてわかることなんかもあるのかもしれない。
     やがて、彼は一度「元騎士の人でも、そんな感じになるんですね」と真意を追及したくなるような呟きを先に挟んでから、名乗った。
    「セノイです。これで生活してます」
    「よし、じゃあセノイ。今からこっちの視点の話をするな。終わってから反論をくれ」
     現状、明らかに話が食い違っているであろう部分があるので、俺は誤解があったことを大前提として話を進める。既にリーダーであることは明かしたので、今日この場での責任を俺が取ることにすれば、サビも任務内容の口外について許してくれるだろうと踏んだのだ。
    「俺たちはキーカラー・ティアラのメンバーから依頼を受けて警護の任務を請け負っている。彼女たちが恐れているのは、生活圏内に出没するようになったファンと思しき男。特徴は背が高くメカクレの茶髪。熱心なファンだったと認知しているがゆえに怖くなっちまったんだろうな。週末に控えたクラフトビールフェスが彼女たちにとっての大舞台ということで、もしなにかあったら大事だと、俺たちに依頼をしてきたんだ。そんで作戦リーダー……見ただろ、あの目がピンクの色素薄い美人。アイツが憂慮の元を断って彼女たちに安心して今後も活動して貰うべきだと考えて、ストーカー野郎の素性を洗うことにした。そんで俺がチェキ会の日にお前を尾けた結果……まあデリバリーもやって彼女らの周囲をうろついていることと、女がいるってこと、あとはお前がストレイだってことがわかったくらいか。そんでマルシェでのミニライブを経てアイツ……サビが、そのストーカー野郎にティアラの三人の情報を流しているリーカーがいるんじゃないかと推理した。そんで俺たちはツテを使って、どうやらそれがさっきの女──ビヴァリーとか言ったか──だと突き止めて、今に至るってわけだ。んで、薄々違うんじゃないかって察しつつあるが、ここまでの調査から、キーカラー・ティアラのストーカー男はテメエのオンナを使ってメンバーの情報を集めている、と推測されるわけだ。はい、じゃあ反論くれ」
     俺はそこで情報開示を切り上げると、掌をセノイに向けて発言を促した。それまで時折食事の手を止めて都度不服そうにしていた彼だったが、丁度ドリアを一皿平らげるだけの時間があったからか、ヒートアップはしなかったらしい。「俺はそんな頭がいいわけじゃないんで、わかりにくいと思いますが最初からいきます」と、ウチのプライドの面子に見習わせたいほどの思慮深さをちらつかせてから、語り始めた。
    「なんというか……その女が俺に付き纏ってるんです」
     セノイ曰く、最初から話すとこうなるらしい。
     脱走兵ストレイである彼は、身を潜めるに最適であると判断したこの街で日々慎まやかに暮らしていた。この人間界で戸籍のない状態である彼にさほど自由はなく、住めるのはドヤ街にある身分証も保証人も要らない格安物件。単発の仕事を日々こなし、生活費と腕のメンテにその稼ぎの殆どを費やすだけの暮らしをおよそ百年。通報を恐れて人外族とは極力関わらず、孤独だった彼の生活に、あるとき三色の光が射した。
     とあるバイトの帰り、電気街の電子部品店の前でビールケースをステージに、歌って踊る天使がいるのを見たのだ。しかも三人も。最初はしょっぼいステージだと思った。店のテーマソングを延々と歌い、一時ならと許されているのか持ち曲と思しき歌を挟む、Tシャツに安い生地のフワフワスカートを纏った安価なアイドル。共感性羞恥すら湧いた。なのに、セノイはその場から離れることができなかった。
    「いや、なんか。いいなって。なんかいいなって、思ったんです」
     たったそれだけの思うところ。しかしたったそれだけが推し活の真髄である。
    「姉ちゃんたち、きょうもよかったよ!」
     彼女たちのステージを見守っていたちいさな少年も、セノイとおんなじ感想を叫んで応援していた。「よかった」。そう、よかったのである。いいな、で、よかった。その余韻が彼の人生にじんわりと染み入った。
     その後も彼はバイトの帰りに彼女たちを見つけると、足を止めてそのステージを観るようになった。認知されるのが怖くて最初は離れた場所にいたが、徐々にその距離は縮まり、そのうち「いつも観てくれていますよね!」と彼女たちのほうから声をかけてきた。人生にスポットライトが当たった瞬間である。それから彼は、彼女たちの現場によく通うようになった。怖がられるといけないと思い、無頓着だった身形を整えた。まだまだ少ないファンの質が悪いと思われたくなくて、前髪を上げるにまでは至らなかったが、ヘアサロンに通いヘアスタイルを清潔に整え、過労で白髪ばかりだった髪を染めるようになった。ひとりのオタクの誕生である。
    「リンリンちゃんはいつも俺の変化によく気づくんです。その服新しいでしょ一張羅なんだよね? とか話を膨らませてくれようとするところが健気でいい子でスゲー可愛い。ハユンちゃんはクールに見えてトークが面白くて、ギャップ萌えで沼らん奴おらんって感じ。なのに人を下げるお笑いはやらないのが偉すぎるんです。ヒイナちゃんは……俺の腕に真っ先に気づいたんです。知ってるよ、大変だし高かったりするんだよねって。無理して物販買わなくてもいいよ、でも観にきてくれると私たちが元気でるよって。いやほんと、ありがとうですよ。ただただありがとう……!」……微笑ましい早口だ。
     生活が、生きることが楽しくなってきたそのころ。担当美容師に「笑顔が増えましたよね」と話を振られた。言ってしまえば彼の前髪の下も知っている存在である。そこでセノイは、オタクでいることに胸を張るつもりで、キーカラー・ティアラについて話した。キモくならないように、でも真剣であることを伝えたつもりだった。担当の彼女も手を動かしながらニコニコ話を聞いてくれていたように思った。
     しかしある日。自分なりの平穏を掴んだはずと思っていた人生が転調した。
    「私、キーカラー・ティアラの三人の副業知ってるんですよ。キャバ嬢ですよ、キャバ嬢」
     求めてもいないのに、担当美容師はどこで得たのか彼女たちの個人情報をベラベラと話し始めた。彼はカットクロスの下で、身体がみるみるうちに冷えていくのを感じた。それは推しのアイドルが夜の街で副業をしていたことに対してではない。その実生活を知りたくなかったからでもない。彼女たちの人生を、冷笑のニュアンスで好き勝手広めるような不届き者が、目の前にいることに対する怒りによるものだった。
     とはいえ、狂言の可能性だって十分にあり得るとセノイは一度それを受け流し、それから確認のつもりで女が話していた彼女たちの『昼間の職場』の周辺を訪れてみた。……女の話は本当だった。利用駅の情報も本当だった。『夜の職場』は流石に人外族が多すぎるので直接見に行くことはできなかったが、この調子だと本当なのだということが察せられた。
     そして、女が暴露するのは職場や住所の情報に留まらなかった。昼間の職場での失敗。夜の職場での嫌な経験。大まかな給料。彼氏の有無。使っている自撮りアプリ。生理周期。およそ気を許した同性の知人に話すような内容だ。そう、例えば仲のいい美容師に話すような……。それを施術中絶えず聞かされ続けた彼の心中やいかに。
     彼は、そのヘアサロンに通うのをやめた。しかし悪夢は続く。
     とある日、キーカラー・ティアラのライブがあったその帰り道に、あの女がセノイを待ち伏せしていたのだ。女……ビヴァリーは要求した。
    「あの子たちの情報、買わない?」
     当然、彼は断ろうとした。
    「じゃあ他の人に売っちゃおうかな」
     逃げ道を塞がれた。
    「店に来なくなるなんて酷いよ。いつも会えるのを楽しみにしてたのに」
     それから求められるがままに脅されるがままに、女と寝た。あっという間にティアラの三人の情報を他言しないことを引き換えに女の思うままに肉体を扱われるようになった。しかし恋人気分の女はそれで大人しくはならなかった。より個人的な情報を持ってくるようになったのだ。中には、セノイが買わなくては不味い内容のものもあった。
     彼は、女が三人をストーキングしているのではないかと考えるようになった。今までは女が三人の共通の知り合いなのではないかと考えていたが、ストーキングや盗聴をしていないとおかしい部分がいくつかあった。だから彼は、女がなにをしているのか探り、そして女が嫉妬心から『滅多な行動』を起こすことへの備えのため、『ストーカーのストーカー』をすることに決めたのだ。いざとなったら女を刺し違えてでも止めるつもりで。それが誰にも頼れない男が唯一できる、三人への最大限の恩返しだった。
    「だからびっくりしました。いきなり怖い見た目の男たちが出入りするようになって。とうとうなにか弱みでも流されたんじゃないかって」
     二皿目のドリアを平らげた彼は、そう言って膝の上で拳を握り締めているようだった。経緯を聞いた俺は、三本目のタバコに火を点ける。そしてタブレットメニューを彼の前に差し出して、「ほら、そんなにガタイよくちゃ足りねえだろ。もっと食え、ドリア」と促す。すると彼は「次はパスタです」と言って俺を笑わせると、やっと誰かに苦悩を打ち明けられた安堵からか、メニューを操作しながら目許を拭った。
    「にしてもだ。人間の女の子相手に尾行がバレるようじゃあダメだな。バレるだけならまだしも、怖がらせてんのもダメだ。仕事人としても男としてもダメだ。俺が叩き直してやるよ」吹かした煙が天井に向かって揺らめくのを見上げたまま、俺は続ける。「ウチ来い、セノイ。事務局には話通すからさ。プライドなんて嫌かもしんねーが、まあウチの連中は気のいい奴ばっかだからさ。あ、あとオタクも多いぞ!」
    「うわ、非オタ特有の雑な括り……」
     俺のプレゼンにセノイは苦笑しながら顔を上げると、目許を拭ってズレた前髪の下の素顔をちらりと窺わせてくれた。俺は思わず「いや男前じゃねえか。なんで隠してんだよ!」と立ち上がりかけたが、「あ、ストレイだからか」と即座にひとり納得して席に座り直す。そしてまだまだ更けゆく余地のある窓の外の夜空に視線を向ながら、「ポテト頼んでくれ」と彼に頼んだ。


     連絡先を交換したセノイと別れたあと、俺はこのままサビの家に帰ることにした。その方面の終電は終わってしまっていたのでタクシーを呼び、近所にある二十四時間営業のドラッグストアの前で降りると、そこで買い物を済ませた。最寄りのコンビニより少し離れたこのドラストのほうが若干物が安いとはいえ、今夜は二度もタクシーを使っているので実質無意味な節約であるが、なんとなく『生活』というものを実感したかったのかもしれない。
     インターフォンは鳴らさず合鍵で家に入ると、俺はすぐに寝室に向かいサビの様子を確認した。すると彼はすやすやと健やかな寝息を立ててベッドの隅っこで丸くなっていたので、俺は「脚曲げて寝ねえの!」と小声で指摘をして、起こさないよう姿勢を整えてやった。そのあと、ダイニングキッチンの冷蔵庫に買ってきた炭酸水やらを詰め込み、風呂を借りる。メーヴェ出勤前に浴びたばかりのはずなのに、やけに久々のように感じられる熱いシャワーに打たれながら、朝になったらサビになにをどこから話そうかと考えを巡らせた。しかし疲弊した身体に血を送り込むことでいっぱいの頭では結論は出せず、俺はすべてを明日の俺にほっぽり投げることにする。そうして浴室から出て、洗面台下のスペースに隠してある俺の宿泊セットを出してそこに入れていた下着を身につけると、化粧水が切れていたのでサビのありえないくらい高い化粧水(なんでこの量の水分にこんな値段が?)を拝借した。俺も俺なりに頑張ったのだから、このくらいは許してくれよ、と勝手なことを思いながら。
     そして髪をざっと乾かしてからリビングに戻ると、サビがキッチンカウンターの上に置きっぱなしにしていた袋を覗き込んでいた。俺は思わず「大丈夫か」と声をかけそうになったが、やはりサビがどこまで覚えているのかわからず、覚えていないのならそのほうがよいと信じ、何事もなかったかのように「起きたか。なんか食うか?」とその背中に声をかける。それから彼の背後の冷蔵庫を開けて、「俺は飲むけど」と買ってきた炭酸水を取り出して振り返ると、サビが物言いたげな眼差しでこちらを見上げていた。その手には、俺がさっき買ってきたコンドームの箱。俺は思わず飲みかけていた炭酸水を噴き出しそうになったが、平静を装って「もう無いかと思ってさ」と繕った。別にその通りだし、悪いこともしていないが、なんだかバツが悪いのがコンドームというものだ。するとサビは、無言でその箱を俺の胸元に突き出してきた。
    「……するか?」
     問う。いや無理すんな、とは思ったが、結局のところ俺には今のサビの心情などなにもわからないし、想像すらままならない。サビはこくりと頷くと、「俺、寝てた?」と言いながら肩に寄りかかってきた。俺はその身体を抱き留めながら、「寝てたな。すやすやと」と返して彼の頬にキスをする。一応、取り決めにより唇以外にならキスし放題だ。
    「メーヴェに出勤したとこまでは覚えてるんだけど……あとほら、メッセ送ったじゃん……」
     その言葉に、俺はひとり苦笑を隠すと、
    「お前、更衣室で寝てたんだぞ。中々起きねえからって店長が困ってヘルプ呼んでさ。疲れてるんだろうから俺に連れて帰れって……」
     と、嘘を吐く。きっと誰も困らないから、このくらいは許してほしい。
    「サボっちゃったんだ、俺」
     ふと、サビはぽろりと呟いた。その後悔しているような声色に、たまらず俺は「たまにはサボろうや」と言ってその頭を撫で回す。いっそ、わしわしと掻き回す。
    「ついでに俺もサボれたお陰でよ、収穫もあったんだ」そこで俺は、でもまあ、と言葉を切って彼の腰を両手で掴む。「まずはヤろう。な? 疲れてムラムラしてんだよ。話はその後だ」
     どんなに嘘を重ねても、お前のためなら寸分の罪悪感もない。これは覚悟とかじゃなく、お前以外どうでもいいというただの心のありようでしかない。それが今の俺で、それが今できる目一杯の愛情表現だ。
     買ってきたゴムは高級仕様で一箱三つ入り。それをしっかり使い切ってからマットレスに倒れ込むと、傍らで伸びているサビは「しぬ」と洩らしてそのまま動かなくなった。彼によると俺の一度あたりの平均挿入時間は五十分とかなんとか。それはあくまで平均であり、回数を重ねれば当然延びる。つまり、おっぱじめたのが遅い時間だったとはいえ、寝ずの朝チュンを迎えたことになるわけだ。
    「いやースッキリしたぜ。半端にアドレナリン出ててヤな感じだったんだ。サンキュな、誘ってくれてよ」
     タバコに火を点けて仰向けになると、流石にいつものように即シャワーには行けなくなっているであろうサビの腰を無理矢理抱き寄せ、俺の体側に寄り添わせた。汗ばんだ互いの肌はひんやりと冷たく、まるで最初からおんなじだったみたいに素直にくっつく。
    「腰終わったかも。つかもうしばらくセックスできないかも」
     そう漏らしてぐったりとしているサビは、コトの後半から「もう出ない、もう出ない」と繰り返し、しまいには「もう出ないっつってるだろ!」とキレながら叫んでいたが、諸々噴き散らかしたあとも普通にめちゃめちゃドライでイッていた。俺はそのことを思い出しニヤニヤしていたが、サビにアイアンクローをかまされたことで「ごめんなさい!」と素早く謝罪をさせられる。「でもセックスできないなら俺とセックスすればいいですよね!」
    「なんでアンタとはできる前提で話してんだよ! なわけねーだろ遅漏ジジイが! 俺の尻はひとつだけなんだよ大事に使え!」
     彼は凄まじい勢いで俺の提案を拒絶すると、俺から吸いかけのタバコを奪い取った。まったく、ここが近隣への騒音を抑えられるペントハウスでよかった。お互い、いくら元気でもクレームが来ることはない。
     そして調子を取り戻したらしいサビの姿に安心し、「んで、ご報告なんだがよ」と切り出したが、それは「いやアンタ寝てないでしょ」と遮られた。「呑気にヤッてたんだから火急の報告でもないんでしょ。寝なよ」口調はつっけんどんだが、彼らしく優しい提案である。
    「お前は?」
    「流石に疲れたしちょっと寝るかも」
    「そうか。じゃあ来い」
     両手を広げて今一度添い寝をしてくれるよう促すと、サビは「いや、シャワー浴びる」といつものようにベッドを抜け出した。その背中に「なんだよ可愛くねえー!」と文句を垂れると、サビは「結構ですー!」と返して扉を閉める。反射的に舌打ちが漏れるが、これは半ばパフォーマンスだ。サビの覚えていないことを引き合いにしておのれが報われたいなんてことは、微塵も考えていない。ただいつも通りの態度で、笑顔で、俺のそばにいてくれたらいいのだ。……今のところはそれで、なんの問題もない。
     それから俺は、サビが戻ってくる前に眠ってしまったようだ。体感六時間ほどのつまらない夢をみて、はっと目を覚まして時計を見ると、まだ四時間ほどしか経っていない。時刻は昼前で、重い瞼が閉じかけているなか手探りでサビを捜すが、どうやらベッドの上にはいないらしく、であればもうここに用はない。俺は下着を身につけベッドから起き上がると、まずはリビングを覗いた。するとサビが広いリビングの奥に置かれた仕事用デスクでPCと向き合っているのが見えたので「おはよう」と声をかける。
    「んー、おはよー」
     上の空の返事。しかしすぐに「コーヒー飲むー?」とこちらを気にかけてくれているような発言。俺は「シャワー浴びたら飲むわ」と返して、バスルームへと向かった。身体を洗い、計十分ほどでさっと身繕いを済ませてからリビングへ戻れば、ソファ横のサイドテーブルの上にはまだ湯気を立てているコーヒーと灰皿が用意されていた。
    「お前、ちゃんと寝たのか?」
     そう問いかけてアールデコ調のソファに腰を下ろすと、俺はコーヒーをひと口啜ってからタバコに火を点ける。サビの豆の趣味はブルボン種だ。俺はケニア原種が好きなのだが、この甘味と香りはサビの家でしか楽しめないものとして受け容れている。
     するとサビは「寝たよ。多分二時間くらい」と答えて、椅子から立ち上がると、身体を伸ばしながら窓辺に置いてあるハンギングチェアに腰を下ろした。俺が「こっち来いよ」と促すのも無視して彼は落ち着いたような息を吐くと、そこでタバコを吸い始めた。どうやらもう俺とくっつくような気分ではないらしい。こういう移り気なところも可愛い……だなんて、言えるはずもなく。
    「仕事してたのか」
    「まあね。でものんびり値動き見てたって感じ。今日は無理に稼ぎにいかなくていいかなー。あとで引け間際だけチェックしとくつもり……」
     俺にはさっぱりだが、サビの『仕事』について一々わからないと口を挟むようなフェーズはとうに過ぎた。ふたりで一服しながら、ぼんやりと彼のあの銘柄がどうだとか気配値がどうとかという話に付き合う。サビもサビで、俺に理解してもらいたいというよりは、情報をなんとなく整理するために口を動かしているのだろう。この聞き役に徹するゆるやかな時間が、俺は嫌いじゃない。
    「そんで、報告って? 外で話せる内容?」
     それからサビは、眠る前にしていた話を再度引っ張ってきてくれた。健忘こそ頻繁に起こすものの、こういうところの記憶力は優れているのがこの男の美点である。
    「うーん、念のため中がいいかな」
     俺の言葉に、サビは「オッケー。じゃあデリバリー頼も? 注文任せた」と言ってハンギングチェアから立ち上がった。そして「洗濯回すー。なんかあるー?」と訊ねてくる。
    「ない」
    「はーい。じゃあ注文おねがーい」
     なんだか、結婚生活みたいじゃねえか? と、俄かに浮足立つ。こういうふうにサビとの生活が香るたんびに、俺はひそかに幸福に身を浸し、その熱に身悶えしている。これが本物の日常になればいいのにと渇望して、なのにそれを願い出る機を失い続けて十年。もう十年だ。
     焦慮に乾く唇を舐めながら、言われた通りにデリバリーアプリを起動する。そうして最速で注文できる店の候補からタイ料理を選んで適当に注文をした。
    「ほーん、じゃあとりまセノっちはイチドゲ一回土下座な」
     一緒に食事を摂りながら昨晩の出来事について説明すると、サビは一旦すべてを聞いてからそう言った。酢と砂糖と唐辛子パウダーでビタビタにしたパッタイを食べる彼は脳内で情報を整理しているのか、先程のトレードの話をしているときとまるっきり同じような真顔で、若干の上の空。そんな彼の皿に俺はカオマンガイのチキンを一切れ乗せてやりながら、「土下座は酷だろ」と指摘する。「別に悪いことはしてねえわけだし」
    「いいや、女の子怖がらせてんだろ。……っつー名目で一回誠心誠意謝らせんのがベターだってアンタもわかってんでしょ? 許してくれそうな内情してたところでさ、それは彼女らには関係ないんだしそこは謝ろうよって話。下手に出て謝罪したほうが好感度いいって」
     俺はサビのこういうサバサバしているところが好きだ。「そうだな」と頷き、手にしていた皿を一度テーブルに置くと、俺は次を切り出す。「つーことで不審な男については片付いたわけだが、問題はヘアメの女のほうだ。セノイについては俺らが保護するにしても、あの女をどうにかしないと『ストーカー被害』ってのは収まらねえだろ」
     するとサビは「それな」と一旦受け止めたあと、「身も蓋もない話していい?」と俺を見た。
    「どうぞ」
    「拉致って始末する」
    「おお、身も蓋もねえな」
    「……って俺は考えちゃうなあ。身内でも依頼人でもねえニンゲンなんてぶっちゃけどうでもいいし。どうやったらニンゲンが反省すんのかもあんまわかんないや」そう肩を竦めて、サビはタマリンドジュースを口にする。「俺らがセノっちをそうしなかったのは、まだマジストーカーだってわからなかったからでしょ。まあされる側にとっちゃストーカーにマジもそうでないかもないんだけど。でも女のほうはマジ確なわけだし。なのにこの国の警察はこういうとき役に立たねえし。被害者が男で、しかも人外族だと話あんま聞いてもらえないし?」
     その口ぶりからして、経験則のようだ。それについて俺は話を聞きたくて、「なあ」と途中で口を挟む。そしてすかさず「お前、ストーカー被害とかで警察行ったことあんの?」と質問する。心臓が嫌な感じでうねった気がするが、ここで訊かないと生涯言及できそうになかった。
    「んー? まあね」サビはなんてことのないふうに相槌を打つと、「この顔ですし?」と茶化すように微笑した。
    「どういう対応されたんだ」
    「えー……どうだったかな。嫌なこと根掘り葉掘り聞かれて、自分が悪かったんじゃないのって、じゃあ引っ越したら? って、持ち家じゃないなら引っ越せるよねって、そんな感じ。そんで……俺に堪え性がないからなんだけど、それで、萎えちゃったというか……」
     それが「萎えちゃった」という軽い言葉で片付けられるようなものではないことを、俺は彼の所在なさげな目の動きで察したが、本人が流したそうにしているので、この場では追及できなかった。きっとこうして、サビはずっとおのれの魅力の代償を支払ってきたのだろう。
    「そうか。……今度なにかあれば、俺に言ってくれよ」
    「なんで?」
    「そういうとき、一緒にいたいから」
    「はは、謎」
     なにやら受け流されてしまったようだが、今はこれでいい。しかし「今はこれでいい」と解決を後回しにしている事柄が俺たちのあいだにはちょっと困ってしまうくらいには沢山あって、俺はいっそのことこの降り積もったものを一気に除雪車で処理してしまいたいと夢想してしまう。そのための大型特殊免許も建設機械施工技士の資格もあるのに、この愛する相手の心に立ち入る権利だけがないのが口惜しかった。きっとサビの中の雪の降らない場所にはまだ彼がいて、なにかつらく苦しいことがあればそこに逃げ込むだろうから、現状俺が降り頻らせたものを処理する必要がないのだ。
    ──恋をするその横顔。これは、永遠に『兄上』のもの。
     これだから、死者はいやなのだ。ずっとそこにいて、きえないくせに、もういない。
    「でもまあ、ありがと。アンタも大概、優しいよね」
     ほら、こうしてこの男はことあるごとに俺と誰かを並べている。比較している。そしてそのことについて指摘すらできない俺も大概だ。口内で噛み潰した嫉妬で、ほんのちょっとだけ余裕ぶった笑顔を作って、「いつも優しいだろ?」と得意気に煽れば、サビは「はいはいそうですね。感謝してるよ」と苦笑して食事を再開する。それに倣って俺も再び皿を手に取ると、冷めた鶏肉を口に放り込んだ。


     サビと話し合った結果、セノイの身柄は早めにプライドで保護することになった。彼はストレイとして事務局のお尋ね者リストで情報が公開されているため、事情を知らない第三者が狩りにくる可能性がある。それに、うちのプライドで引き取ると進言するとはいえ、事務局が下す彼の処遇については未知数である。なのでせめて例のフェスのあとに事務局に連絡をするのが、俺たちが彼に向けてやれる精一杯の温情というわけだ。
     なので便宜上、彼に見張り役をつけることにした。ベルとナルという、サビの副官である。彼らはシェパード・ドッグ種の双子で、サビにとてもよく懐いており、彼の言うことならなんでも聞く。双子はご主人様から見張り役の任を仰せつかると、セノイの周りをぐるぐると回って匂いでも嗅いだのか、「まあ、うん」「そだね」と二人だけの世界観でなにかを共感したらしい。「ついてこい新入り!」「言うことはよく聞け新入り!」と楽しそうにセノイを引っ張って、アジトの案内を始めた。
    「イチドゲはフェスの前でいっか。ティアラの三人は今日も朝からリハで忙しいみたいだし」
     オフィスに入るとサビはまずそう切り出した。今後の俺たちの予定としては明日がメーヴェでの勤務、明後日がフェス本番である。念のためキーカラー・ティアラのメンバーには男は確保したことと、後ほど謝罪をしたいと言っているということ、それからまだ他にストーカーがいるようだから用心するようにと伝えた。そう、依然として問題はこの残った女である。
    「女の昼の職場もセノイから聞いたし、バイトで出入りしてる店も知ってるけど……どーしたらいいんだコレ」サビはさっきから繰り返し顎を揉んで、結論を導きかねているようだ。
     警察に突き出すにしろ、内々で処理するにしろ、やはり現状ではどうにも動きにくい。仕事に気持ちよさはさほど求めてはいないが、これでこのままこの任務が終了なんていうのは、なんともまあ後味が悪かった。しかし綺麗に勧善懲悪で決着することなど、エンタメでもない現実世界では中々起こりうることではない。これが最善だと蟠りを飲み込んでやり過ごすべきだという、大人のエチケットを強いられている空気感に、それでもどうしてもモヤモヤしてしまう。
    「まあ……まずはフェスを無事に終わらせることに徹するしかないな。今日明日は念のため彼女らの帰路に見張りつけとくさ。俺の金で」
     場の雰囲気に堪えかねて俺がそう提案すると、サビは首を横に振った。
    「いや。それ含めて俺出すわ。つーか帳簿ダルいから俺に出させて」
    「お前……今回の持ち出し、中々の額になるだろ」
    「ゲハハ。別に金に困っちゃねーのよ。それに、俺は俺の後味を美味しくするために金払ってんだからさ」
    「現状、美味いって言えるギリギリの後味じゃねえか? しかも味だけ」
    「そだね。店員ギスギスしてるしテーブルもギトギトだしゴキブリも見かけたけど、でもそれは俺が我慢すればいいだけだし」
     宙ぶらりんの落としどころ。でも仕事で一々思い悩むのは俺たちの性に合わない。請け負った『仕事だけ』をするのが俺とサビがバディを組むときのスタンスだったはずだが、今回ばっかりはお互い確実に依頼人に対する情が湧いてしまっているようだ。
    「お前、全部片付くまでこの件背負うつもりか?」
     俺がそう問うと、サビは「さあね」と笑って、座っていたデスクチェアを一回転させた。サビはこう見えて、かなり情け深い性質をしている。これは肯定の返事だと俺は理解したが、やっぱり現状では「これでいい」と納得するほかなかった。ふたりして不穏な沈黙を生み出す前に、それぞれ自席でPCを起動する。
     その日はオフィスで仕事をしたあと、サビと手分けしてティアラの三人の帰路を見張った。事前に各々の退勤時間を教えて貰い、時間差があることを確認していたため、ふたりだけの稼働で済んだ。特段誰からの尾行もなく、安心して彼女らを見送ることができたのは大きい。こういう成功体験がないと、気づかないうちにストレスが溜まってゆくものだ。
     そして翌日。俺たちはメーヴェでの勤務があるため、見張りはマルシェ組に参加してくれたルタとゼンに任せた。最初こそ張り合っていた彼らだが、今回の任務を通して心の距離が縮まったのか、俺がゼンに見張りをしてほしい旨を伝えると、彼は少し離れた場所にいたルタを「おい、お前も行くよな?」と呼び寄せてくれた。そして二人で配置について話し合っているふうだったので、リーダーとしてこれ以上嬉しいことはない。この調子で全員が仲良くやってくれねえかな、と夢想しながらサビとメーヴェに出勤した。
     前日のうちに、店長にはサビがショックであの夜のことを覚えていないと伝えていたからか、対応に過剰なところはなにもなかった。更衣室でサビも普通に着替えていたし、なにかあったときのために俺が「暇だから開店準備手伝うわ」と帯同する意向を示しても、「お、サンキュー」と深く考えている様子もなかった。サビは黒服連中にも「一昨日は早退しちゃってゴメンね」と声を掛けていたが、箝口令が布かれているのかそれとも彼らには特に何も共有されていないのか、概ねサビの体調を気遣うこと以外のコメントはなかった。
     それから俺は、サビに頼まれてキッチンの掃除をすることになった。キッチンは客席からは見えないこともあり、掃除は後回しにされがちだということは察していたが、中々に汚れていた。ポテトなどといった揚げ物はたまにしか出ないからこそ、放置された油汚れが換気扇や窓にこびりついており、棚やカウンターの下は埃まみれで害虫もコンニチハ。挨拶されたからにゃあ仕留めるのが礼儀だと殺虫剤と靴を武器に狭い空間を駆け回り、その前に油汚れ用スプレーを噴霧していた窓と換気扇から、泡に取り込まれた汚れが滴り落ちる間際を見極めて拭き取る。開店準備に割けるのはおよそ一時間。ピカピカにしている時間はない。コンクリート打ちっぱなしの床をフロアブラシでざっと掃除して、仕上げにデッキブラシで磨こうと、洗剤を溶かした水をバケツで撒いた次の瞬間、ピー、となにかアラートに似たちいさな音が微かに響いた。
    「ん? なんの音だ……?」
     ひとり呟きながら、その音のした箇所に視線を向ける。キッチンの中央に置かれた冷蔵庫一体型のカウンターテーブルのすぐ隣、割りものの炭酸やジュースなどのストックが収められた背の低い棚の下だ。俺はスラックスと髪が濡れないよう注意しながら屈み込み、その棚の下を覗き込んでみる。すると一番下の段の底板の裏に、なにか黒いものがくっついているではないか。一見して虫ではなさそうなので手を伸ばし、粘着タックで貼り付けられているであろうそれを引き剥がしてみる。そして立ち上がりながらそのなにかを確認すれば、なにやら小型の機械のようだった。
    「……なーるほど?」
     スパイ業も頻繁に請け負う俺には、それが盗聴器であることはすぐに理解できた。大方、水を浴びてショートする前に自動で電源を落としたのだろう。ヘアメがリーカーである可能性を疑った時点で、サビが盗聴器などの用心をしないはずがないとは思っていたが、流石にキッチンまでは確認しなかったのだろう。しかし、喫煙所も兼ねているキッチンこそ、従業員の社交の場である。しかし、ティアラの三人が務めていないこの店になぜ盗聴器があるのか。そもそも、この件にこれが関係があるのか──。
     嫌な予感に急かされるようにして、俺は懐からスマホを取り出すと、インテルメッツォに働きに出ているプラメンが今日もいることを確認して、通話を掛けた。そしてすぐに応答してくれた彼に、「いきなり悪い。すぐに確認してほしいことがある」と申し出る。
    「そっちのキッチンのどこかに盗聴器がないか確認してくれ。あれば写真を撮ったうえで回収してほしい」
     すると彼は「いま繋いだまま確認しますね」と、本当にすぐキッチンに移動してくれたようだ。そうして「可能性があるなら棚の下とかですかね」と言いながら探ってくれている気配がある。「ああ、おそらくはな」「探知機持ってればすぐなんですが……って、あるな? 今撮って送ります」
     その宣言通り、数秒後にトークルームに写真が送られてきた。さっき俺が棚の下を覗き込んだのと同じような画角に、同じような機械が写っている。俺は数秒迷ったのちに、「すぐにそっちの店長さんに話して問題にしてくれ。そんでできれば『渓谷』とか、『ローシャム』にも確認するよう情報を回してくれないか」と、指示を出した。「あってもなくても、連絡をくれ」
     結果、この辺りの系列店のうち、『メーヴェ』『インテルメッツォ』『ローシャム』『渓谷』の四店舗のキッチンから盗聴器が出てきた。それはまさに例のヘアメが出入りしている店舗で、こうも系列店にばかり絞られて盗聴の標的になったとなると、当該の四店舗が連名で警察に通報する以外なくなってしまったようだ。
     この日、警察の捜査のためにこの週末という掻き入れどきに臨時休業となった四店舗だが、ガサ入れではなく通報という、被害者側の立場として店舗への警察の立ち入りを求めたことで、多方面に『クリーンな経営をしている』というアピールができると、プラスの方向性でこの損失を受け容れたであろうことは俺にも理解できた。時には身銭を切って風通しのよさを宣伝することも、『彼ら』にとっては大切なのだろう。
     そして第一発見者として俺も警察署で軽い事情聴取を受けたが、盗聴器にほ掃除中の音声が入っていたらしく、あらぬ疑いは避けられたようだ。店内にいた黒服連中も聴取を受けたらしいが、この調子ならば全員が無関係として処理されるだろう。俺だけ別室で、あとの黒服は順番に数分程度の話をするというのは事前に聞いていたので、俺は聴取が終わったあと、まずは署内にサビの姿を捜した。終わったら今後の話をしようと決めていたからだ。サビは真っ先に呼ばれていたのでとっくに終わっているだろうと思っていたのだが、中々見つからない。であれば喫煙所にでもいるのだろうと、俺は職員に教えて貰った署の裏口の駐車場にあるという喫煙所へと向かう。すると半透明なパーテーションで仕切られたスペースの中に、サビの背中が透けて見えた。それに安堵した俺は、自らもタバコを取り出しながら喫煙スペースの中に踏み入る。だがしかし。
    「おい、サビ。探し……」
     その言葉はたちどころに霧散し、夜風に吹き飛んでいった。
    ……喫煙所の奥で、サビが知らない男とキスをしている。
     呆然として硬直する俺を見たのか、それとも呼びかけが聞こえていたのか、知らない男に覆い被さられるようにして壁に肩を押しつけられていたサビは、瞬時に男を押し退けてこちらを見た。そして一瞬だけ、唖然とした眼差しになったかと思えば、男の肩を今度は強めに突き飛ばしてこちらにやってきて、「……帰ろ、ザザさん」と俺の手を取る。俺はショックだわサビの発言の意図がわからないわですぐには動けずにいると、その夜闇に融けかけていた男が口を開いた。
    「つれねえな、サビ。なんだ、今カレか?」
     粗野な口調に似合わぬ、品のよい黒スーツ。俳優として食っていけそうな彫り深く凛々しいマスクには、髭に加えて年齢相応と思しき色気が重なり、成功の証みたいな腕時計をただの引き立て役として扱うほどの猛威を奮わせている。初対面で、しかもその印象はほぼ最悪に近いのに、びっくりするほどの色男だという認識を植え付けてくるこの男が、一体どういう存在なのかわからず、思わずサビを見遣ると、彼は男を睨んで「関係ないでしょ」と改めて俺の腕を引いた。しかし男はすぐに「ああ、聴取の。ええと、ザザさんでしたか」と、一変して柔らかい物腰で俺に微笑みかけると、「レコナーズ署、組織犯罪対策部のタカギです」と大股で近づいて俺に素早く名刺を突き出してきた。なんともまあクラシックな自己紹介方法だ。漢字というのはあまり得意ではないなりに、名刺に記された『鷹来』という字の連なりが『タカギ』と読むのは理解できた。恐らく日本にルーツがあるだろうことは窺えるので、フリガナは実際の前後と逆。つまりこの『戯迦』という字がファーストネームで、表記の通り『ギカ』と読むのだろう。
    「はは、読みにくいですよね。フルネームはギカ・タカギといいます。上から読んでも下から読んでもギカタカギ。好きに呼んでください」
     嫌味のない笑顔はいっそ一個の兵器。ちらつく金眼には獰猛さが見え隠れしているが、きっとそのことに気づくことができるのは一握りの同族手練れくらいだろう。彼は俺と無理矢理握手をすると、サビに向かって「いー男じゃねえか。付き合って何カ月だよ」と元の口調で笑いかける。その眼差しになにか支配欲のようなものを感じ取った俺は更に警戒心を強めるが、俺の機微を察したらしいサビは俺の腕に触れながら、「やめろって。付き合ってない。仕事仲間だよ」と男の推理を否定した。「絡むなよ。ザザさんは犯罪者でもないんだから」
     すると男は「そうかあー。違うかー」と、にんまり笑った。そのとき俺は、彼の頬に傷があるのを認めた。薄らと微かに浮いて見える程度のそれは、どうやらメイクで隠されているらしく、そのことに気づくと途端に堅気じゃないような印象へと早変わりする。しかしその印象すら、操作されているような感覚もあって。
     男は俺にじろじろと見られていることを気にも留めず、「じゃあ返事は今回の件について報告するときにでも」と手を挙げる。それにサビは「返事は今する。お断りだよクソ野郎」と吐き捨てるように返し、今度は問答無用の強さで俺の腕を引いた。どうやかかなり不機嫌でいるらしい彼の大股に合わせた歩幅でそれに従って数歩。背後から「やっぱカワイイなあお前。まあ、ムラムラしたら呼べよ。また連絡する」と寸分も機嫌が損なわれていないような呼びかけがあったが、サビはそれを無視した。
     不愉快に生温い風のなか、サビに手を引かれて歩くこと二百メートルほど。俺がなにも言わずにいたからか、サビは運河の支流に掛かる橋の上で、いきなりこちらを振り返り、「あのさっ」と大きな声でアテンションしたかと思えば、急速に萎んでいくさまを俺にまざまざと見せつけながら、「あのさ、その、ごめん……」と謝罪をしてきた。普段は凛々しい眉がくんにゃりと歪んでいるところからして、所在ない心地でいるのだろう。俺は言いたいことが濁流のように喉に迫りくるのを感じながらも、ぐっと堪えて「なにがだ?」と極力優しい声を出す。
    「えっと……さっきの、えーと、その、腕、を、ひっぱったりして……」
     歯切れが悪い。ということはサビの性格からして、伝えたいことはそこではないのだろう。俺は腕からサビの手をゆっくりと外すと、今度は握り締めた。これもまた、なるべく優しく、壊さないように。
    「大丈夫だ。痛くない」
    「そ、う。ごめん……」
    「……さっきの奴とはどういう知り合いなのかってことは、訊いてもいいのか?」
     断れる余地を残したつもりでそう問うてみる。サビもそれは理解してくれているらしく、心細そうに俺を見上げて暫し沈黙していたが、やがて泣き止んだあとみたいに往来のテールライトに瞼を濡らして口を開いた。
    「……元カレ」
     予想通りの答えに、俺は「だろうな」と息を吐く。あれで元カレ以外だったら、かえって推理は困難だ。「警察官なのか」
    「まあね……」そっぽを向きながら、サビは頷く。
    「なんだ、よくねえ別れ方だったか?」
     これを訊ねることは過去の俺を糾弾することに重なるような気もしたが、不安そうなサビを前にしてそんなことは気にしていられなかった。
    「べつに……フツーに、別れたよ」
    「そうか。まだ未練でもあるのか?」
    「……ない。向こうが一方的に言い寄ってくるだけ」
    「……そうか。まあお前、困っちゃうくらい美人だもんな」
    「なにそれ」
     サビは笑う。冷笑と紙一重ではあったが、いつもの笑顔を取り戻すかのような、じつに可愛らしい表情だった。
    「困ってんだよ」
     そうだ、俺は困っている。お前の前ではずっと困ってしかたがない。俺はそのことを堂々と開示すると、握っていたサビの手を引いた。そして勢いのまま彼の頬を引き寄せ、唇を寄せる。しかし触れ合う寸前で、やっぱり躊躇われて額と額をごんと重ね合わせてしまう。瞬間、サビが「あでっ」と声を上げたのは、この場を深刻にしたくないという意識からだろう。こんなにも意気投合しているのに、お互いにやろうとしているのはパーソナルスペースを可能な限り確保することであるのが悲しい。
    「美人、好き?」
     そのままの近さでサビは苦笑して、俺の顎に手を伸ばし、髭に触れてくる。そして伏せていた睫毛をひらいておずおずと俺の目を見上げた。ネオンピンクの中に冴えわたる環状の瞳孔が、俺の真意を見透かしているように思われるのは、きっと俺自身がそれを期待しているからだろう。
    「美人は好きだろそりゃあ……」
     俺も彼と同じだけの温度感で苦笑して、「お前だけが好き」とは言えないもどかしさに打ちひしがれるがままに、その口許の黒子の位置にキスをする。さっきあの男とキスをしていたときの唇のごくごく柔らかな質感を、どうしても想像してしまいながら。


     翌日。例の盗聴器の件については現状深追いできないので一旦置いておくことにして、俺たちは早朝からフェスの準備に取りかかった。まずはサビが車でメンバーとシュウタを迎えにゆき、チェキ会組とマルシェ組は物販の備品を別の車に積んで現地に出発。状況を鑑み、警護に割く人員を減らしてもよかったのだが、今回の任務の参加者全員が「有志のボランティアとして手伝いたい」と言ってくれたのだから有り難いことこの上ない。それから最後に俺の運転する車でベルとナル、そしてセノイを現地へ送る。車の中でセノイは「緊張してヤバいです」と縮こまっていたが、双子に「ビビりながら謝んなよな」と背中を乱暴にバシバシ叩かれたことでいくらか持ち直したらしい。どうやらこの短期間でそれなりに仲良くなったようだ。
     そして、フェス会場横の商業施設に俺たちはやってきた。ここには出店参加者用の休憩スペースやステージ参加者の控室が用意されており、俺たちは入り口で待っていたサビと共にティアラの三人がいる控室に足を踏み入れた。緊張の瞬間である。
     しかし、まだ開場までかなり時間があると言うのに、キーカラー・ティアラの三人が衣装もメイクもばっちりの状態で出迎えてくれた時点で、俺は早くも胸を撫で下ろしていた。三人とも、ストーカーと思しき相手が誰かということはしっかり認識していて、だからこそ出禁などの措置を躊躇っていたのだから、最初からここの輪についてはバッドエンドにはならないとは予見していた。そんな彼女らを甘いと断じることもできるだろうが、現実問題としての処遇はこの後に依頼人が決めることであって、場を整えただけの俺たちには無関係。ただなりゆきを見守るだけである。
     俺が前髪を上げるか切るよう促し、双子のセンスでイメチェンを済ませたセノイは、まず床に膝をついた。そして、
    「皆さんをつけ回すような真似をして、怖がらせてしまい申し訳ありませんでした」
     と、その場で土下座しようとした。
     するとヒイナが「土下座は違うってー!」と慌てた様子で止めに入り、大の男のガチ謝罪に怯えて反応が遅れたリンリンとハユンも、「一旦ストップ。一旦でいいから!」と中腰になり制止に手を振った。これにてイチドゲならず。その様子を見てサビは「はは、別で償わねえとな」と俺の隣で笑っていた。
     そしてリーダーであるリンリンが「ざっくりとは聞いてるんだけど、ちゃんと私たちに聞かせてくれる?」と促したことで、既に涙目になっていたセノイは溜まったものをぽろぽろと溢れされた。そうして語られた経緯に、三人は黙って耳を傾けていたが、話に区切りがつくと、まずシュウタが「カッケエー……」と呟いた。意外な発言で全員の視線を集めながら、彼は続ける。
    「なんかさ、プライドの人たちの仕事見ててさあ、最初はなんか全然地味じゃんって思ってた。想像してたより蹴ったり殴ったりやっつけたりして戦わないし、あんま派手じゃないなって。でも、そういうのが男の仕事なんでしょ。優しいことを考えながらやることやるのが、戦うっていうんでしょ。そういうのがカッケーって、俺わかってきたんだよね」
     一瞬の沈黙が室内を包んだ。しかし次の瞬間、セノイが「シュウタさん……!」と咽び泣きはじめたので、それを皮切りに和やかな雰囲気が場に充満する。ティアラの三人も、「困ってるのに気づかなくてごめんね」「嫌いにならないでいてくれてありがとう」「怯えてないで声かければよかったね」と団子になってセノイに飛びつき、セノイは「いやっ、あの、すみません……オタクとしてそれはすみません……!」と慌てて距離を取る。そんな幸せなてんやわんやを目を細めて見守っていると、サビが手を叩きながら一歩進み出た。
    「はいじゃあこの件は解決。ティアラの皆さん、そろそろリハ始まるんで移動しましょう。そしてセノっち。今回が観客として観られる最後のステージなんだから目に焼き付けるように」
     その言葉に、サビ以外の全員が顔をさっと青くして言葉を失うなか、俺は「いや待てまだ決まったわけじゃねえだろ」と彼の肩を掴む。するとサビは「いや最後まで聞けや」と俺の鼻先に指を突きつけると、「大丈夫だよ、その件についてはなんとかする。アンタも手伝って」と笑って、それから皆に向き直った。
    「セノっちが正式にウチのプライドに加入したら、彼にはキーカラー・ティアラのマネージャーとして働いて貰うつもりです。他者に頼れず窮状を招いたことはもうコレ、仕方がないよ。でも、他人のために発揮した危機管理能力には目を瞠るものがあるね。これはぜひ『味方』として登用すべきだと進言します。……つーことで俺がレーベルを発足して、正式にキミたちを売り出す。デケえトコに引き抜かれるようなことがあれば譲るけど、現状窓口やったり守ってくれたりするトコがないんでねー」
     彼の発言に、ティアラの三人は呆然として言葉を失っているようだったが、トーク担当のハユンが「社長ー! ありがたいでっせー!」と声を張ったことで場は笑いに包まれる。サビは「おう、生まれたての弱小レーベルだけど社長だぜー?」と胸を叩き、それから「とりあえずプロモに使いたいんで今日のステージ頑張ってください。過去イチで」と最初の社長命令を下す。三人は「はい、頑張ります!」と声を揃え、それからシュウタを加えてセノイと順繰りハイタッチをして、全身で喜びを表現した。
     そうして、フェスは何事もなく開幕し、何事もなく彼女たちのステージも始まった。外気と熱気で茹だるような会場を、デコガンとスプラッシュの演出で涼し気に登場した彼女らは衆目を攫い、古参ファンたちはここ一番に大目立ちをキメながら彼女らに声援を送る。その輪に加わっているセノイの背中を、少し離れた物販スペースから見守りながら、俺は隣のサビに「これでよかった、よな」と声を掛ける。サビの仕事はまた増えるだろうが、これこそが現状での最善。そして最高の最善であろうことは疑いようもなかった。
    「まあね」
     サビはルタとゼンから差し入れられたクラフトビールを飲み、ステージを眺めたまま頷く。「TEMPの事業内容に記載して多芸アピもできるし、イイことばっかじゃん? これもアンタのおかげ。ありがと」
     サビは、礼を言うことを渋らない。そういうところが、俺は好きだなあと思う。勿論いいことばかりではないし、俺だけの手柄でもないが、その感謝を否定せず「どういたしまして」と応えると、サビは「あとはマジストーカーと、事務局のコトだねえー……」と心底面倒そうに眉を下げた。そうして「悪いけど、もうちょっと付き合って」と俺の腕に触れてくる。「いてくれるだけで、いいからさ」
     その健気と捉えて差し支えないであろう控えめな挙措に、俺は思わず険しい表情になるのを感じつつも、それを溜め息で苦笑へと塗り替え、今度は容赦せずに指摘した。
    「……馬鹿。元々俺はダチ枠なんだ。最後までいるのは当たり前だろ。そんで大前提として、お前と同じTEMPのリーダーなんだ。プライドとして請け負った時点で責任取るのも当たり前。問題が抱えきれる、きれねえ以前に、共有が義務なんだよ。前に俺に同僚のなんたるを説いたクセによ。ナメんな」
     するとサビは「ゲハハ」と愉しそうに喉を鳴らして笑うと、「俺がバカだったわ。許してザザさん」と謝って、俺の頬にちゅっとささやかなキスをしてくれた。
    「あ、でも同僚に色仕掛けはダメか。忘れろ」
     サビは取り消しを求めたが、思わぬラッキーに俺は瞠目しながら離れゆく彼の腕を掴む。
    「……いや、すべきだ。もっとすべき。なんてったって俺、美人好きだし」早口になっていることを自覚しながら、しつこくサビに向かって頬を突き出す。するとサビは「人前」と小さく不満を漏らすと、「そうだったね。じゃあ今夜抱いていいよ」と悪戯っぽく続けた。
    「あ? 言われなくてもそのつもりだったんだが? いきなりご褒美にすんな」
    「は? いつでも抱けると思うなって。常日頃の挙動からセックス可否のジャッジはおこなわれてんだよ」
    「なら逆に今日は嫌ってときはなにがあるんだよ」
    「飲み物一センチ残すとかドア閉めねえとか部屋の明かり消さねえとかタバコが灰皿の外に落ちてるとかが積み重なってウワー! ってときだよ」「逐一言えよ」「言ってんだよ。聞いてねえみたいだけどな」「聞いてる。俺がお前の話を聞いていないとでも?」「じゃあさっきあそこにいたアンタに俺、なんて言った?」「……なんでしたっけー?」「ペットボトルの蓋開けっぱで台の端に置くなやボケナス、と言いました」「聞こ、え、てた、けど?」「嘘吐くなや。結局蓋閉めたの俺なー?」
     小突き合っているうちに徐々にどつき合いの雰囲気が出てきたので、お互いほぼ同時に両手を挙げて中断する。その瞬間、ステージから「これが最後の曲です!」と息切れしたリンリンの声が響いたので、ふたり笑いながらそちらに向き直った。瞬間、観客の中から「終わらないで!」とひと際大きな声が通ったが、今はその声の主について言及せず、静かにステージを見守ることにする。
    「ありがとう! それでは最後の曲って言い方やめます! 新曲、ぜひガッツリ聴いてください! 『真夏の恋はどつきあい!』」


     まずは、事実として処理されたことを。
     警察の捜査と取り調べの結果、すぐに美容師のビヴァリー・モントンが被疑者として検挙された。彼女はヘアメイクを担当していた接待飲食店の数店舗に出入りするなかで、たまたま美容師の仕事で客としてやって来たクラブの客に「意中の嬢の情報をなんでもいいから買わせてほしい」と持ち掛けられたことで、大金をちらつかせられるがままにその立場を利用し、店の盗聴や嬢との会話から得た情報を売るようになったそうだ。次第に裏の界隈で口コミが広まり、店の人気嬢や移籍してきた嬢を中心に彼女らの個人情報は飛ぶように売れるようになり、ビヴァリーは潮時を見極められないまま、今回逮捕されるに至った。そしてこの件を捜査する過程で、数年前にとあるキャバクラ嬢がストーカー男に殺害された事件との関連が認められたらしい。よって、量刑は重くなる見込みだ。
     それから、単なる憶測を。
     情報を売る生活の中で、ビヴァリーは昼の客であるセノイに恋心を抱いてしまい、それが燃え上がるがままにティアラの三人へのストーカー行為をするに至ったのだと考えられる。とはいえ、三人は週二回出勤するだけの普通の嬢だ。固定客もほぼいなければ、ネットの掲示板に名前が出ることもない、最も情報の収集が難しい相手。そんな彼女らの情報を、そのファンの男の気を惹く──或いは焦らせる──だけ集めるには、盗聴や雑談だけでは難しい。だからこそ彼女は物理的な手段に出たのだろう。三人を尾行し、更なる情報を集めたというわけだ。見た目が小柄な女性ということで、ティアラの三人も彼女がストーカーだと疑うことはなかった。もしかしたら、そもそも視界にすら入っていなかったかもしれない。
     その度にセノイは彼女たちの自宅アパートの玄関などに設置されていた盗聴器を都度撤去していたらしいが、その際に尾行するビヴァリーの姿をカメラに収めていたことは大きい。それら画像データの中から、尾行する側と被害者両方が写っており、見るからにストーカーと断定できそうな写真を俺たちから警察に提供したことも、迅速な逮捕の一助になったのだとか。
     と、以上のことを俺はサビからメディア発表の前に聞かされた。それはつまりあのタカギという男からサビに流された情報であるということを暗に示しており、サビが「一方的に言い寄られている」と言っていたのにも関わらず、彼と未だ繋がりがあることに思うところがないわけではなかったが、俺はそれを態度には出さなかった。なぜなら、俺も彼に一方的な恋慕を抱いているひとりだからだ。
    「結局、司法に頼るしかないのが痛いな」
     サビはそう漏らして残念そうにオフィスのソファでタバコを噴かす。その手元でスマホを弄くっているのは、きっとタカギとのやりとりを確認しながら話していたためだろう。
    「馬鹿。司法で裁ける社会のほうがいいんだよ。まあ、この国ではそれが行き届いているとは言えねえが」
     ストーカー被害をまともに取り合って貰えなかったサビにこれを言うのは酷な気もしたが、それこそが彼への慰めになると信じて、俺は言い切った。サビは「そだね」といつもの調子で頷き、「アンタも飲むっしょ」と言いながらドリップを終えたコーヒーを取りにオフィス内のカフェブースに向かう。一方の俺は懐からスマホを取り出すと、収納してあったメーヴェの店長とのやりとりのタブを開き直した。
    ──司法で裁いてくれる流れで、本当によかった。
     例のキッチンの男を、店長は粋な計らいでしばらく生かし、ある程度詰めてくれていたそうだ。その結果、メーヴェでの盗聴の『標的』は、サビだったことがわかった。あの男は一番街でたまたま見かけただけの美人な黒服……サビへの想いを拗らせ、働く店を特定して求人に応募し、噂で聞いていたヘアメの女からサビと嬢たちとの会話を買い取っていたらしい。
    「サビくんって女の子たちと親しく話してくれるからね。男がいけるとか恋人がどうとか、そういうのを聞いてヒートアップしちゃったみたい」
     そんな店長からのメッセージを俺は指でそっと撫でる。苦心しながら、スマホを壊さないように。
     男は向こうで『処理』されたようだが、ソイツを凶行に走らせるに至った女の存在を、この俺が許せるはずもない。ああ、逮捕されてくれてよかった。でなければ……俺はこの手で女を罰していたに違いない。きっと、できるだけ苦しんでもらえるよう努力したことだろう。人でなしなりに。
    「はい、どうぞ」
     俯かせていた視界の端に、サビの差し出してきたマグが映り込み、それで我に返った俺は顔を上げる。見れば笑顔のサビが「ほら」とコーヒーを受け取るよう促してくるので、俺はマグを受け取って礼を言うと、すぐに口をつけた。サビが用意したのにもかかわらず豆がケニアなのは、ここがオフィスで、両方の好みの品が置いてあるからだ。マイルドな苦味と華やかな酸味が舌を通って鼻腔に広がる。もし苦味の強いコーヒーであれば、俺はすぐに笑顔に戻れたかわからない。
    「つーことで、明日付き合ってね、事務局」
     正直コレが一番ダルい……と小声で付け足して肩を落とすサビを、俺は「上等。生きて帰ろうな」と励ます。これがタダ働きなのが一番堪えるが、サビだけに背負わせるわけにはいかない。罪も罰も善の切り売りも、ふたりで分ける。それがリーダーがふたりいる意義であり、俺なりの愛の実践である。


    ──官営アレゴリー『プロジェクト・ノド』管理事務局というものがある。
     俺たちはその末尾に『まあ最寄りのやつ』というのを付け足した意味合いで扱い、更に省略して単に『事務局』と呼んでいる。この組織はプライドの運営元であり、言ってしまえば俺たちプライドのリーダーはフランチャイズ店舗の個人事業主で、本部にはロイヤリティアガリを支払うことで存在を保障されているというわけだ。
     事務局には各プライドを担当するエージェントがおり、最低限これだけこなせという仕事は彼らから斡旋される。日々それらをこなし、それぞれのプライドも恙なく運営してメンバーを養ったうえで、ぜえはあ言いながら規定のロイヤリティを納めるために追加の事業を回すのだから、リーダーなんぞという管理職になんて誰もなりたがらない。なので、リーダーについては専ら事務局が任命する形式が取られていた。いうなれば、犠牲者選定の儀である。
     ということで、当然ながら事務局が好きな奴なんて誰もいない。自明も自明だ。しかも、全体会議や各種手続きで訪れなくてはならないことが頻繁にあるのだから最悪も最悪。この時代に対面オフラインで煩雑な手続きをするだなんて馬鹿らしいにもほどがある。こんなのはザ・ブラック企業だ……なんてのは、まあ全体会議後の飲み会くらいでしか愚痴れない。職場の飲み会だなんてやっている時点で俺たちも同じようなものなのだが。
     そして今日、俺とサビはセノイを伴って事務局を訪れていた。ストレイとして指名手配されていた彼を確保したということで、メンバー登録の申請をおこなうためである。しかしこれが非常に厄介。苦難も苦難。というのも、その申請が通るかどうかについては、現状ギャンブルであるからだ。
     督国の元騎士や元軍人たちは、『再教育』を受けてからプライドの人員として赴任先に派遣される。脱走兵はその教育を途中で放棄したということにほかならず、再び教育を受けることになるのか、それとも免除できるのか、はたまた『余地がない』と判断され、使途不明でこれっきりになってしまうかについては、この時点ではわからないのだ。だからこそプライドのリーダーは事務局に対し、当人がどれほど有用な人材であるのか、どれほど稼げる見込みなのか、どれほど人間界に馴染み、問題行動を起こさずにやってきたのかなどをプレゼンする必要がある。正直、これが有効なのかはたまた無駄な足掻きなのかについても不明だが、わからないからこそやるしかない。
     俺とサビは身体検査を受けさせるためにセノイを担当職員に預けると、その提案のために局長室を訪れた。どうして俺たちがこんなにも事務局が嫌いなのか。どうして申請がギャンブルなのか。その理由はなにを隠そう、ここの『局長』が厄介であるからにほかならない。
    「ふーん、無傷で確保してるんだあー。偉いねえー」
     俺たちがセノイをTEMPに迎え入れるための提案をし終えると、局長はまず場違いと言っていいほどの能天気さ──というより、関心のなさか──でそう言って、ソファの背凭れに預けていた脚を組み替えた。そう、座面に背をつけ、なんというか逆に腰を掛けているような、アクロバティックにやる気のない姿勢で、彼は俺たちの決死のプレゼンを聞き流したのだ。
     俺は顔色悪く愛想笑いを浮かべたまま固まっているサビの代わりに、印象がよくなるのかならないのかもわからないまま「ありがとうございます」と礼を言う。すると彼は座面から床に垂れた不気味なほど黒い髪をしゃらりと手の甲で鳴らしてから、資料が表示されているらしい手元のホログラム画面のページを送ったようだ。
    「ああこの子ねー。一応『指導』の後半には入ってたんだねー」
     その真っ黒な睛は間近のブルーライトすら反射せず、ただただ深淵の色をどぼどぼと溢れさせているかのようだ。顔立ちは極めて美しいのに人間性の感じられない目をしているのが恐ろしく、俺は彼の顔を数秒と直視できない。そしてこの間延びした話し方。気性が鷹揚としているとか、目下に優しいというよりは、人工知能がアミューズメント施設で子供向けの案内をするためにプログラムされた口調であるかのような、「ニンゲンってこうしとけばいいんでしょ」という意図が透けて見えいて、これがまた特別に不気味なのだ。以前の仕事で知り合ったタヤという上位種によく似た雰囲気ではあるが、あちらのほうがまだ親しみやすかった。理由はわからない。というより、局長のことなど理解できるはずがないと言ったほうが正しいか。
    「ふたりとも彼がそのまま欲しいって言ってるワケねー」
    「はい。ぜひお願いします」サビは硬い表情のまま首肯する。
    「ふーん。だからわざわざお話しにきてくれたんだねー。偉いねー」
     彼は人形のよう、というより、マネキンと称するのが妥当。なぜだかそう思えるのは、俺がサビの美貌との線引きをしたいからだろう。サビは人形のような美人という表現がよい意味で似合うが、局長に対するそれは、ネガティブな意味だ。顔の造形が精緻であるドールと、顔が『描いてあるだけ』のマネキンは違う。
    「私としては別に構わないかなー。今更アレ起動させる手間考えるとちょっとねー」
     その言葉に、サビはすかさず「ありがとうございます」と頭を下げた。俺も即座にそれに追従すると、局長は「なんでそんなに緊張してるのー?」と笑った。それは人格として破綻しているほどこの男が気まぐれだからである。一刻も早く言質を取って退散したい。それが俺たちの本音だ。そもそもこの男と対話なんてできるはずがないのだ。運よく同じ言語で会話できているだけの災厄……きっと誰もが彼と相対したその直後に、それを悟る。
    「でも私が面倒なだけで、実際彼は履修すべきものをしていないからねー。ふたりともそのぶんの『言い訳代』を納めてくれるんだよねー?」
    「はい」ふたりぶんの、緊張した声が揃った。
    「じゃあそれでいいよー。私としてはどうでもいいんだけどねー。じゃあ話は終わりねー。またきてねー」
     こうして彼が一度もこちらを見ることなく、その謁見とも呼ぶべき大仕事は終わった。
     局長室から出た俺たちは、まず階下の検査室に顔を出した。するとそこには顔を青白くして落ち着かない様子のセノイが、白衣の職員と言葉を交わしており、そこに俺は「終わったかー?」と声を掛ける。顔を上げたセノイは「終わりましたが……」と語尾を萎ませ、それから不安そうに俺たちの言葉を待つような姿勢を示した。それを見たサビは一切の溜めを作らず、「許可下りたよー」と微笑する。きっと彼には天使の笑みのように思われたことだろう。
    「じゃあ引き続きよろしくでーす」
     そう言って今度は職員を振り返るサビは、「拝受」と短く返事をしたその彼の背中がある程度遠ざかってから、安堵に祈り手を組んでいるセノイの肩を叩いた。
    「多分なんとなく聞いてたとは思うんだけど、このあと魔力を制限する処置があるから。俺たちは局の管理下にあるうちは一〇〇パーセントの力を使うこと……というか保持することが認められてないんだよね。平時は四〇パーセントで、有事の際は申請して制限を段階的に解除していくことになってる。今回はセノっちが人間界で魔力を使って暴れた形跡がないからすんなり申請が通ったともいえるね。長い間我慢してて偉かったよ、色々……」
     サビの説明と励ましに、セノイは一瞬複雑そうな表情をした。元々彼はプライドが嫌で命からがら逃げ出したのだから無理もないが、それはそれとしてサビや俺に恩義は感じているのだろう。背中を伸ばし欠伸を漏らすサビに「ありがとうございます」と静かに礼を言った。
    「どーいたしまして。だからこれからは鍛錬必須なー。ニンゲンより強いとはいえ、なんかあったときにプラメンじゃねえ制限ナシの同族と渡り合う必要があるからな。とりあえず喧嘩強くなってもらわねーと。勿論、プランは組んでやっからさ」
     サビがそう言い終わるや否や、処置の用意ができたらしい職員が顔を出す。彼にセノイを再び預けた俺たちは、「さてと」と顔を見合わせた。そして瞬時に苦笑いで意思疎通すると、ふたりして別フロアの通称『税務室』へと向かった。受付で名乗るとすぐに奥に通され、電動式のリクライニングチェアに座るよう促される。
    「えー、問答無用でコッチー……?」
     サビが不満の声を上げると、職員は「局長からの指定です」と感情を排した声で返事をしたが、すぐに笑って「運が悪かったですね」と肩を竦めた。「いやさ、別に銭がいいってワケじゃないんだけどさー、あるじゃん、半々で納めるとか」「すみません、金員での領収係が今昼食に出てて」「はあ? いやそんなら待つし!」「ですから局長からの指定なので」「ああ? じゃあ今のやりとり意味ある?」「ないですね」「んもー! イラつかせようとしてんだろー!」
     納得いかない様子のサビだが、局長の命令ならば逆らえないことは理解しているのか、渋々と椅子に保定される。一足早く別の職員の手で『納税』の準備を整えていた俺は「はあ、ホントヤだなあ……アンタらコレやらねーだろ? 羨ましいぜ」と溜め息を吐いたが、俺のほうの職員は相手をしてくれないつもりらしかった。
     文字通り、ここでは『血税』を納めることになっている。俺たち人外族の血液というのはエーテルと呼ばれる魔力の元を含んでおり、これを特有の器官で魔力に置き換えて魔術などの行使や回復機能の増幅などに利用しているのだが、同時にこれは資源としても扱われているのだ。祖国でもリシュヴェリ王の改革により低所得者向けの慈善事業として献血がおこなわれていたりしたのだが、ここでは局長のためにそのタックスを納める。使途については不明で、別に知ったところで得もないので調べようとも思わないのだが、人外族の血にはかなりの価値があると聞きつけた連中が人外族狩りなんかもしているというのだから最悪だ。売れるということは買う連中がいるということ。特にプライドのリーダー職というのは、仲間内から集めた魔力をその肉体に蓄えたうえで纏めて納税する仕組み(というより、金銭ではなく血を納める場合、罰金や追加徴収というニュアンスが強い)となっているので、価値が高く、狙われやすい。だから外では滅多にリーダーであることを名乗らないというわけだ。
    「おっえええええ」
     採血を終えたサビは、椅子から立ち上がるとまず嘔吐き、その場にしゃがみ込んでひいひいと肩を上下させた。今回はふたりで分納したとはいえ、かなりの量が採られてしまったので流石に気分が悪い。これがサビひとりでの納入だったらと思うとぞっとするが、今回そうはならなかったと思えば前向きに捉えられる。ふらふらのサビの肩を組んで助け起こし、「高額納税者なのに!」と職員らにキーキー威嚇する彼をどうどうと宥めすかして退室。すると下りのエレベーターの中、誰にも見られていない状況に切り替わったからか、サビは一変して「ホント、ごめんね……」とまたしても殊勝に謝ってきた。
    「だから謝んなって」
     その小さな頭を手で掻き回してやりながら、俺はその謝罪を拒否する。これで暫くは暴れ回れないが、それはそれとして休暇の取りどきだ。「お前、休み取るだろ? 俺も旅行連れてってくれよ」と請うてみれば、普段は断られるシチュエーションのはずなのに「……いいよ」と、どこか拗ねたような……希望的観測なら、照れたような返事があった。「たまには、ね。行きたいとこあったら教えて……」
    「考えとく」
     俺はそう頷いて返すと、次の瞬間開いたドアを潜って事務局のエントランスホールに出た。そこでは正式にウチのプライドのメンバーとして新生したであろうセノイが待っており、俺たちは彼に向かって同時に「おかえり」と声を掛ける。するとセノイは一瞬面食らった表情をちらつかせたものの、すぐに笑顔になって「ただいま、です」と照れたように頭を掻いた。その顔が見られただけで今回の任務は大成功といって差し支えない。俺とサビはゆっくりと離れると、それぞれ新しい家族の肩にどっさりと身体を預け、「なあ肉食おうぜ」と彼を促して、真昼の往来に一歩踏み出した。


     END.



    🚬次の一服へ


     
     
    お酒を飲んで楽しく書く! 太宰治賞最終候補2作(第40回、第41回) 創作大賞2025中間通過 など 小説/Web記事などのお仕事募集中です。 ⚠弊創作物は文章、イラスト、グッズ問わず無断転載、AI学習禁止です。AIに分析させたフィードバックについても固く禁じます。

    あなたへのおすすめ