
【Once Rainy, Now Rusty】Ember.04 Beat'Em Up Trip!【 #ORNR 】
⚠これら創作はフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
⚠弊創作には一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)
🌹登場人物の性指向はなんでもアリですが、今作は特に男性同士の関係性にスポットを当てております。
⚠弊創作物は文章、イラスト、グッズ問わず無断転載、AI学習禁止です。個人、企業様問わずAIに分析させたフィードバックについても固く禁じます。
趣味は一人旅だ。……ということにしている。
行き先は専ら国内。俺たちプライドの者が国外に出るには一般市民よりも煩雑な手続きが必須で、更には能力使用の制限なども受けるため、数泊、長くても一週間程度の旅行にそのような手間をかけるのはだいぶ馬鹿らしい。このこともあって、傷病休暇でもなければ長期の休みなんて取れないに等しい俺たちには、国外旅行なんぞ夢のまた夢。弾丸に近しい日取りでよくもまあ独りで旅行なんて──と、言われることには慣れている。恋人や家族という甲斐があってこその旅だと、しがらみで煤けた奴らは冷笑して憚らないが、否、前提が間違っているのだ。
そも、俺は旅先に寝に行っている。
だってぜんぶに疲れているんだもん!
普段の休みは予約でいっぱい。トモダチも客もあの人もみんなみんな俺のことを休ませてはくれないし、俺も俺で客から連絡があれば「折角なら稼いでおくか」と腰を上げてしまうし、なんだかんだトモダチやあの人の笑顔が見られるなら滅私に走ってしまう、そういう性分なのだ。魂のフッ軽くんともいえるだろう。だけれど俺はひとりでいることが好きだし、いまのうちにもっと孤独であることに馴染んでおきたいとも思っている。結局、死ぬときも死んだ後もひとりで、奈落には俺しかいない。そう思って生まれこの方生きてきた。なのにしっかり心めいたものを有している俺は、当然ながら人に揉まれていると疲弊する。だからこそ「ちょっと付き合っておくか」と誰かに忖度できてしまう範囲を超え、無理にでも日常の外側まで出て旅をするという体裁を作らないと休めないのだ。
普段の一人旅の頻度は二三ヶ月に一度くらい。行き先の決め方はずいぶん適当で、地図の上で棒を倒したり、ダーツで決めたり、たまたまネットで見かけたところだったりと、そういう作為もなければやる気もない方法で決める。以前の旅行先と被っても気にしない。往復のチケットと宿の予約だけして、少ない荷物で出発するのが常だ。旅行中の行動はパターン化している。移動中にざっとなにがあるか確認をして、旅先に関する調べ物はそれっきり。あとは残った仕事をするか適当にラジオを聞いたりして過ごし、現地に着いたら宿にチェックインして、荷解きもそこそこに外出する。そうして半日くらいかけて観光スポットっぽいところをざっと回るのだ。そこでの俺はなんの体験も食事もしない。ただ、スマホで写真を撮る。とにかく撮り溜める。ポイントは昼と夜を可能な限り跨ぐこと。こうして枚数やシチュエーションを稼ぎ、あとは宿に戻ってメッセージアプリのプライド全体グループチャットと、あの人とのチャットに予約投稿をする。……と、ここまでが仕事だ。誰にも心配なんかさせないための、ヒトとしての義務。これが終わったら俺は風呂に入って、以降はとにかく寝る。途中起きたらタバコを吸ったり水を飲んだり、食事の必要を感じたらコンビニ飯を食ったりはするが、最終日の帰りの便ギリギリまで寝るのが常だ。そうして帰りの駅なり空港なりで適当に土産を買って、帰路はひたすらぼんやり。誰からも話しかけられたくないからイヤホンをして帽子にマスク、それからサングラスで、外界をシャットアウトしてひとりきりの世界を目一杯味わう。
帰れば土産を渡して回って、必要に応じて適宜旅の感想を述べる。観光地には実際行っているのだから、感想を適当にでっちあげるくらいはわけもない。天気がどうで体験にどう響いたか。入場料や参加費がいくらで所感として高かったか安かったか。食べ物の味なんてのは大方が想像の範囲内だ。べらべらと嘘八百まではいかない創作を語って聞かせ、眠ることにかかる税金をそつなくペイする。これが俺の『一人旅』である。
だから前回の任務のあと、あの人が一緒に旅行にいきたいと言い出したときは、正直かなり困った。あの人だけでなく、色々な相手から俺の旅に着いていきたいと打診されることは一度や二度ではなかったが、都度「一人旅の意味ないじゃん?」と笑って断っていた。……俺って愛嬌あるなあ! 優しすぎもっと褒められるべき金も貰うべき! ああ、閑話休題。
──だけれど、そのとき俺はなぜだか彼の提案を受け容れてしまった。なんとなく、別にいいかなと思ってしまったのが、言葉に出てしまったのだ。
ということで、俺は休みを取ってザザさんと旅行にいくことになった。行き先は風光明媚な湖水地方として名高い、セス・スペキュラ・カウンティ(通称セス州)で、二泊三日の旅となる。
あの人が仕事以外で遠出したという話は滅多に聞かない。だから旅行の荷造りを手伝ってほしいと言い出すかと思いきや、彼は「いや、手伝わなくて大丈夫だ」と俺の心配を一蹴した。それもそうだ。普段の遠征での荷造りを手伝うことなどほぼないし、それと荷物が多少変わるくらいなのだから、余計なお世話だったというわけだ。俺は思ったよりも彼の面倒を見なくてよさそうだという予感に少し浮かれながら、当日を迎えた。そして……。
「いや保護者いるんかい」
初手、ツッコミを入れた。
待ち合わせ場所にやってきたザザさんは、副官であるヲロさんを伴って現れたのだ。
「おう。ヲロはパッキングの達人だからな」
悪びれもせずそう言って呑気な彼の隣で、ヲロさんはこちらに向かって軽く会釈をすると、その手に持っていた旅行鞄をザザさんの肩にかけた。そうして「おはよう、サビくん」と俺に挨拶をして、「天気がよさそうでよかったな」と絶妙な色っぽさで微笑する。
ヲロさんはフリージアン・ホース種の大柄な男性だ。夜闇のような肌や髪に、差し色として神が恩賜したに違いないと思わせるほど深い青の睛。獣型形態のときもはっとするほど美しい牡馬である。そして、ザザさんの愛馬でもあり、親友でもある。そう、騎士時代からのつき合いなのだ。そんな彼が今生になっても恣にしているのは、『ザザさんの保護者』という名誉なんだかなんだかよくわからない称号。まるで兄や父のような眼差しでザザさんの世話を焼き、俺の負担を軽くしてくれている、大変有難い存在だ。しかし俺と彼の仲は、けしてよいとは言い切れない。というのも、俺と彼も付き合いがそこそこ長いものの、お互いに『この男のことをよろしくお願いします』という態度が拭いきれず、なんとも絶妙な余白があるのだ。俺はザザさんと彼の仲を邪魔しないし、彼もそのように立ち回っている……そのことが、お互いに同じことを考えているからこそ理解できてしまう。だからこその距離感。だからこその他人行儀。気まずくはないが、未だにトモダチのトモダチという範疇を超えない相手だ。
「すみません……帰ってきたばかりなのに手間かけさせちゃって」
俺はヘコヘコと謝りながらザザさんの上腕を叩く。ヲロさんはつい最近まで遠征任務に出ており、二日ほど前に帰ってきたばかりなのだ。それなのにこの男は……と小言が二三漏れなくもなかったが、ぐっと堪えてすみやかにザザさんを引き取る姿勢を示す。
しかしヲロさんは「いや、丁度地方の情勢を掴んで帰ってきたところだからな。だから忠告も兼ねて出てきたわけだ」と、人差し指を立ててこちらの関心を引いた。
「なんでも今、首都近郊を荒らし回っている人外族の集団がいるらしくてな。地元住民は他所の人外にかなりの警戒心を抱いている。流石に観光客を邪険にはしないだろうが、くれぐれも羽目を外さないでくれよ。なんでも自警団組織による自力救済も横行しているらしいからな」
自力救済……この文脈で言えば、私刑だろう。
俺とザザさんはほぼ同時に顔を見合わせたが、彼は既にこの話を聞いていたのだろう、俺と目が合うと「お前が服着ててよかったよ」と肩を竦めた。俺は仕事中は上裸にトラックジャケットを羽織っただけの姿でいることが多いからか、なにか余計な心配をしてくれていたようだ。しかしこれでもTPOを弁えたうえで、普段は敢えて刺青を見せびらかしているのだ。そうでないときはきちんとしているし、今日だってハイネックのインナーにオーバーサイズのキューバシャツを着ているのだから、外見上の治安の悪さで絡まれる謂れはほぼない。
「流石に旅行に上裸はNGっしょ」俺は肩を竦めてふたりを見上げる。
「いや俺、お前がどんな服装で旅行してるか知らんし。だって全然自分が写ってる写真送ってくんねえんだもんよ」
「ん? ヘヴンのみんなには送ってるよ? 自撮りとか」
「はあ? お前、ソレ、さー。ソレ寄越せってー……」
「いやなんで? なんでアンタに自撮りを?」
「お前、それはさー。考えろって色々よー」
「いや、ソーワットなんだけど。マジなに?」
ザザさんと話の本筋から脱線し、やいのやいの言い合っていると、ヲロさんは「じゃあこれは持ち帰るよ」と、ザザさんの荷物の他に手に提げていた袋を軽く持ち上げた。それを見て俺は「なんです?」と首を傾げる。
「いや、仮にその、薄着すぎた場合に備えてインナーになるようなものを多少な」
つまり、その袋の中には衣類が入っているらしい。俺は彼に余計な出費をさせてしまったことに怯み、「いやっ、待ってヲロさんそれ俺のための服ですよね? お金、お金払います! いくらっすか!」と慌てて彼の側に寄る。案の定彼は「いや、いいよ。高いものでもないしな」と断る素振りをみせたが、流石に俺のサイズ感のものは彼には合わないどころか、袖すら通りはしないだろう。完全にデッドストックになることが目に見えている。「送って! いくらだったか送ってください! 後でいいから!」
すると彼は「また使うかもしれないからな。そのときでいいさ」と袋を肩に引っ掛けると、「そろそろホームに移動したらどうだ」と腕時計を指した。言われて俺も自らのスマートウォッチを見てみれば、もう発車十分前である。
「うわ、もうこんな時間……うーん、わかりました。あとはメッセージでやりとりしましょう。ほら、ザザさん行くよ。ヲロさんにバイバイして」
慌てて足元に置いていた荷物を持ち直す俺の隣で、ザザさんは「じゃ、後は頼んだぞー」とのんびりヲロさんに別れを告げる。それから「なんかメシ買いたい」などと呑気に続けるので、俺は「じゃあもっと急がねえとじゃんよ!」と彼の肩を小突いた。この男はどうにも緊張感がない。それはきっと人を率いる立場として、極力焦りを表に出さないという主義でもあるのだろうが、時として人を酷く苛つかせることもある。俺も俺でさほど焦ってはいないが、一応の礼儀として彼を急かし、かの親切な同僚に「じゃあヲロさんいってきます!」と出発の挨拶をして、ふたりで改札を抜けた。
それから俺たちはホームのキオスクで飲み物と軽食を買ってからリニアに乗り込んだ。
セス州は中央からリニアで一時間ほどで行ける人気の観光地でもあり、中央発のバスツアーなんかも豊富だ。しかし身長二メートル近くある男二人がバスで並んでの長旅は正直キツいと踏んで、時間と快適さを金で買うことにした。個人的には最上級車両の独立シートで悠々と過ごしたかったのだが、ザザさんから「一時間しか乗らねえならそこまで金かけなくてもいいだろ」と強く推されたため、予約したのは通常等級の車両。とはいえ平日であるので発着駅のわりに乗り込む客は少なく快適そうである。発車時刻二分前に乗車し荷物を整理したあと、俺は彼に窓際を譲ろうとしたが、それは「お前、通路側だと目立つだろ」と断られた。その謎の気遣いを否定するのも面倒で、大人しく車両最前列の窓側のシートに座った直後、リニアが動き出す。
「ちょっと値動き見ていい?」
まず俺はザザさんにそう断って、耳にイヤホンを挿した。そろそろ株式市場の前場の開始時刻である。普段の取引の多くは学習を施したバーチャルアシスタントに任せているし、毎日毎場張り付いているわけではないが、旅行中にのんびりするためにいまのうち自分の目で市場を見ておこうと思い立ったわけだ。ボディバッグにしまっていた色付きのスマートグラスをかけて、投資アプリを接視界に呼び出すと、スマホで経済ニュースを扱うラジオを流す。そうして値動きを見ながら今日のトピックについてパーソナリティが語るのを聴き始めて五分ほど。イヤホン越しにメッセージの着信音が連続して響いた。これはヲロさんからかと、俺は引き出した壁面テーブルに伏せていたスマホを慌ててひっくり返す。すると、
「愛してる」
スマホのポップアップには、ギカ──元カレからの、そんなメッセージがばっきりと表示されていた。
……しゃっくりが始まるかと思っただろ!
咄嗟に傍らのザザさんに顔を向けると、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で俺と同じ画面を凝視していた。その手の中には今まさに開けられようと、蓋を半端に捻られているらしいボトルコーヒー。きっと、なんとなしに向けた視線の先に『コレ』があったのだろう。直後、俺と目が合った彼は、ゲフンゲフンと咳払いで見てしまったことを誤魔化したようだ。しかしながら、俺の耳は経済ラジオの音声で塞がれていたので音が聞こえているわけではない。俺は動揺を隠しつつイヤホンを外し、なにか気の利いた一言を言おうとした。だが、焦りから手が滑り、右耳のイヤホンを床に落としてしまう。半分だけクリアになった聴覚の中、俺は更に焦りを重ねて「あっ、あー、なんなん、すか、ねー。どういう顔して打ってるんすか、ねー」と、浅く笑いながら身を屈めて落としたイヤホンを手で探る。別にこの男に繕うことなどなにもないのに、やけに心臓をバクつかせながら。「ほんと、ね。ザザさんもこういうこと、あるっしょ?」声が上擦っているのを感じながら床を手で掻き回していると、唐突にばきっとなにかを踏み潰す音がした。……俺だ。
見れば、俺の足の下で愛用のイヤホンが潰れていた。
「……もうヤダー!」
瞬間、パニックが突沸した。思わず大声を上げてしまったので、直後周囲に軽く謝罪をして、回収したイヤホンを握り込みながらテーブルに突っ伏す。なんて日だ! なんて旅行の始まりだ! なんらかの暗示ならやめて! 無事なほうのイヤホンをケースに収めて、「もうヤダ……」と小声で繰り返す俺の隣で、ザザさんは声を堪えておもっくそ爆笑していた。吐息だけでひいひい言って、腹筋を細かく痙攣させながら。
「ねー笑わないでくださいよー」
俺は羞恥に堪えながらザザさんの腹筋を軽く殴る。すると彼は今一度咳払いをして「イヤホン貸すか?」と問うてきた。
「いや、もういい……全部のやる気なくなったし……」
俺は接視界をちらりと確認したあと、取引アプリを閉じてスマートグラスを外す。ああ俺のイヤホン。ああ高級品なのに……。しかし次の瞬間には、それが去年の誕生日にあの男から贈られたものだったことを思い出し、急速に冷静になった。あの男から貰ったものをあの男のせいで壊した。……ざまあみろ! 絶妙に得意なような、モノに罪はないからモノには申し訳ないような。きっと表に出るぶんには苦い顔をしながら俺は改めてスマホを手に取ると、ギカとのチャットルームを開いて内容を確認した。彼からは「今日から旅行だろ。気をつけろよ」「愛してる」とふたつのバブル。この程度のメッセージで俺をビビらせやがって……という憤りのまま、俺は「ねえそれどんな顔して打ってんの?」と打ち込むと、送信ボタンをわざとらしく人差し指で強めに叩いた。そうして小声で「クソが」と吐き捨てると、不意に鼻先になにかを突きつけられた。見れば、ザザさんが先ほど買ったちいさいカツサンドを一切れ俺に差し出し、「ん」と受け取るよう促している。「ちょっと落ち着け」
「……ありがと」
いまはその気遣いを素直に受けるべきだと判断して、俺はカツサンドを受け取ると、シートに深く凭れた。そうして個包装を剥いたそれを控えめにひとくち齧ったところで、彼はペットボトルのアイスティーもテーブルに置いてくれる。こういうときの空気読みは上手いんだよなあと、どこか上の空で思っていると、ザザさんはスマホを弄りながら口を開いた。
「元カレか? あの怖そうな」
その声音には『差し支えなければ』という配慮が十二分に滲んでおり、俺はその優しさに半分報いるつもりで、愚痴ることにした。どうせ、隠すようなことでもない。
「そ。このあいだの。なーんか、復縁したいみたいで」
ギカとはもう十年はくっついたり離れたりを繰り返しているが、そのことは言わなかった。
「嫌そうな態度なのに、切らないんだな」真っ当な指摘だ。
「んまあー……立場が立場だから色々情報横流ししてもらえるし、共通のダチも多くてさ。どうせ切っても誰かから無理矢理連絡先聞き出すから……そのままにしてる」
「なんで別れたんだ?」
「浮気。向こうの」
初回はそうだった。今生になって、再会したザザさんにフラれた直後に付き合った相手だった。弱っているところに付け込まれた、ありふれたパターンである。
「当時は許せなかったんだよねえ……。今なら許すとは、思うけど。もうそういうの、どうでもいいし」
半笑いでそう言うと、ザザさんは「そうか」と静かに相槌を打った。
「アンタは? 元恋人にいきなり愛してるとか送ってこられたことある?」
「ままある、くらいか」
「だろうね。アンタってモテるもんね。じゃあ自分から送ったことある?」
「ない。つーか、こっち来て愛してるとか言ったことないしな」
ほんの一秒、食べ終えたカツサンドのフィルムを小さく握り込む手が止まった。すぐにそれを悟られないよう、「ゴミ袋ちょうだい」と視線で彼に頼んで、さっとアイスティーで後味を流す。
「へえ……案外奥手なんだ」昔からそうだったしね、とは言わない。
「いや。愛してるとか、思ったことがない」
そう言って俺からゴミを回収して、ザザさんは「ちょっとタバコ」と立ち上がる。喫煙室に向かうのだろう。俺もタバコを吸いたかったが、一緒には行かなかった。ひとり窓向こうに流れる景色を眺めながら「そういう相手、見つかるといいね」と、ひとり呟く。はやくどっかに、いっちまえ……。そう思った直後、ギカから返信が来た。「いつもの顔」と。
それから交代で俺もタバコを吸いに行き、戻ってきた頃にはセス州に入っていた。車窓に切り取られた景色は普段暮らしている中央とは対極にあるかのように自然の色彩が目に優しく、早くその空気を吸ってみたいと思えるほど透明に輝いていた。途中途中に点在する湖の周辺は豊かな緑に覆われているが、それ以外では茫漠とした丘陵や険しい山道が見え隠れしている。なるほど、バスツアーが多く、路線バスが発達しているわけだ。歩きやレンタカーでは厳しい。
そうこうしている内に、セス州の州都であるサーカディアン・バレーに到着した。この国では州ごとに行政庁が置かれており、ここの二代目長官は人間で、初代は人外族であると聞いている。リニアを下りたホームの、駅舎ドームの向こうに窺える州都の街並みは、なるほど俺たちの祖国である督国のエッセンスが漂うダイナミックな曲線美が目立ち、俺はほんの少しだけ郷愁を感じた。それは傍らのザザさんも同様らしく、彼は荷物を抱え直しながら「なんか懐かしいな」と目を細めていた。
改札を抜けると、清涼感溢れるメインエントランスが俺たちを出迎えた。ガラスの大屋根に守られたステップ広場には、噴水と色とりどりの植物。その合間には数多く用意されたベンチがあり、市民が思い思いに憩う姿が窺える。二十四時間開放されているはずのこのエントランスに、座って寛げる場所が豊富だということは、治安が良いことを示しているはずで、中央のように目立ったゴミや落書き、それっぽい見た目の若者の姿なんかは見られない。ヲロさんの言うような『首都近郊を荒らし回っている人外族の集団』の影すら感じられないわけだが……果たしてその噂の真偽は。
そのまま噴水前でザザさんの写真を撮ってやっていると、背後から「こんにちは」と声を掛けられた。振り返れば白い腕章をした作業着姿の男が立っており、俺は反射で「あ、こんにちは」と答える。するとその厳つい体躯に見合わず物腰柔らかな男は「この辺りの自警団の者です。お取込み中のところすみません」と頭を下げたので、俺はすっと襟を正した。これが例の自力救済をおこなう組織か。であれば、印象をよくしておくに越したことはない。
「いいえー、どうかしましたか?」
なるべく柔和な笑顔を心がけて応じると、男は目の奥に光らせた警戒心を解かないままに続けた。
「ここのところ、地元住民以外の人外族による治安悪化が問題となっておりまして。差し支えなければいくつか質問に答えていただいても?」
するとザザさんも傍に寄ってきて「噂のやつか」と肩を竦めた。これはこれで自然な態度である。男は「そうなんです」と目尻を下げると、俺たちにいくつか質問してきた。どこからの旅客なのか。宿泊予定のホテルはどこなのか。何日間滞在するのか。駅や役所といった公的な機関に要請されたわけではないので答える義理はないが、答えても差し支えなかったのでそうした。そうして最後に「その、お付き合い……されていらっしゃる……?」とおずおず訊ねられ、俺はぷっと噴き出した。そして「いや」と切り出そうとしたところ、ザザさんが「そうです」としれっと答えやがったので、俺は目を剥く。
「いやー、中々休みが被らなくて。久々に一緒に羽を伸ばせるっちゅうわけっすわ」
嘘しか言ってねえ! 副官の育成のため、アンタとは休みを適度に被せてあるし、一緒に過ごしすぎなくらいなのに──とは、口には出せずに苦笑いを浮かべると、男は俺の反応を『男同士だから』と勘違いしたようだ。一応、この国では同性間での結婚ができるが、それぞれの事情で隠そうとする者は少なくない。
「それは是非、楽しんでいかれてください」
無駄な嘘ほど保つのが難しいものだ。俺は引き攣りそうな笑顔で「どうもぉー」と答えると、「もう行っても?」と話を切り上げた。そうして男と別れたあと、俺はその顔のままで駅前のホテルに移動してクロークに荷物を預け、その顔のままでホテルのエントランスホールの奥にあった喫煙所に入り、その顔のままでのこのこ着いてきたザザさんの肩を強めに殴った。
「アンタ、馬鹿か? 謎の嘘吐くなやボケが!」
肩を擦って「いってー」と間延びした声を上げたザザさんは、「いーだろ、別に」とタバコに火を点けながら開き直った。「つうか、警戒されてんだから『ダチ』とか『同僚』とか答えたらそれこそ怪しまれてマークされんだろ」その言葉に一瞬、一理あると考えそうになった俺の腰を、ザザさんはさっと抱き寄せる。
「どうせヤリまくるしな? 詐称ってほどじゃねえ」
きらりと妖しい光をその目に一筋奔らせた彼にそんなことを囁かれ、俺は「やんねーよ!」と声を張り、その頬を手のひらで潰すように押し退けた。しかし離してくれない彼は、どうどうと宥めるように取り出しかけていたタバコを俺に咥えさせ、さっと火を点けてくるものだから、落ち着くほかない。まったく、言葉遊びが好きな男だ。普段もこうやって男なり女なりを口説いているのだろうが、俺にまでやらなくてもいいのに。そんなことを思いながらやんわりと彼から離れると、やけに機嫌のよさそうな笑顔が俺を威圧してきた。
チェックイン可能な時間まであと三時間はあったので、俺とザザさんは昼食がてら付近をぶらつくことにした。流石に中央には及ばないものの、州都なだけあって街は華やかだ。地方らしく道幅は広く、背の高い建物もそこまで多くはなくて、澄んだ青空がよく見える。朝晩は霧が濃くなることもあるらしいが昼空は爽快で、街全体にまったりとした時間が流れているように思われた。建築物には自然に溶け込むようなアースカラーや柔らかな白色が採用され、その多くには植物の蔦が這わせてあったり、植木や花で瀟洒に飾られている。景観維持の条例でもあるのだろう、街全体に統一感があり、緑の匂いが身近だ。繁華街に差し掛かっても汚れた雰囲気はなく、いっそのこと中央でいえば高級住宅地の風情すらある。俺たちはなにを決めるでもなく、なんとなく示し合わせるように駅前から放射状に伸びる三本の通りのうち、真ん中の目抜き通りを進むことにした。
「ん、生姜の香りがするな」
ふと、ザザさんが首を持ち上げる。確かに、生姜の爽やかな香りが漂ってきている。首を回してみると焼き菓子店やアロマを扱う店が立ち並んでおり、俺は「生姜が名産だからかな」と答えた。「多湿だから生姜が育つらしいんだけど、気温は高くないから甘味よりも清涼感が際立つんだって。だからそれを活かして色々なものに使ってるんだろうね」これは事前に調べていたことだ。普段なら移動中にさっと調べることだが、今回は旅慣れているとザザさんにアピールする必要があったので、予習していたというわけだ。
「へえ。あとなんか名物とかあるのか? ……あ、訊いてばかりで悪い」
「別にー? えーと、あとは湖で獲れる鱒が有名みたいだね。生姜と焼いたり和えたり、ジンジャークリーム煮にしたり……。それからビール。木樽熟成ビールが有名とかなんとか」
「へえ、飲みてえな」
「扱ってるところが多いのか少ないのかまではわかんないから、あとで調べてみよっか。他に食べ物以外の有名どころでいえば、詩人を多く輩出しているらしいね」
「へえ、詩か」
やはり食いついた。この男は今でこそこういう治安の悪いナリをしているが、騎士時代は文学を愛する男で、王立図書館にも足繁く通っていたのだ。未だに興味があるんだな……と感心しつつ、「自然が綺麗なところだしね。したためたくなるんでしょう」と続ける。そういえば、『あの人』も本を読むのが好きだったと、義母から聞いたことがある。
そのまままったり歩いていると、やがて目前に広い十字路が開けた。どうやら左右それぞれ他の二本の大通りに続いているらしいが、「こっちのほうが美味そうな匂いがする」というザザさんの嗅覚に従って、左に曲がった。位置関係でいえば宿泊するホテルの裏手の一帯である。歩道沿いに掲示されていたマップによると、どうやら役所やオフィスなどが固まっているらしく、であればランチの店には不便しなさそうなエリアのようだ。
「じゃあ、ザザさん店決めて」
「よしきた」
この男はイヌ科連中ほどではないが、嗅覚が鋭い。というより、勘の嗅覚といったほうが正しいか。なにげにこの男は家柄のしっかりした上位種であるので、そういう部分が冴えていてもおかしくはない。俺もその末端に名を貫ねている種族といっても過言ではないのだが、なにぶん失敗作だし、あまり外界に興味が向かないからか、そういうのはからっきしだ。
やがてザザさんが「ここだな」と笑顔で足を止めた先の店に決めた。昼どきだからか並んでいる様子だったが、店員にテラス席でもいいかと問われて頷くと、五分ほどで往来に面した二人席に通された。濃くも晴れやかなグリーンのオーニングの下の影は心地好く、なぜ順番をスキップできたのか不思議だったが、メニュー表の見返しに挟まれていた説明書きによると、二階席には著名な建築家によるステンドグラスがあり人気なのだという。とはいえこの男二人、あまり映えだの雰囲気だのを重視するタチでもないので席などどこでもよい。デートでもなし、普段路上飲みなんかを平気でおこなう男たちに、そのような風情は不要だ。
「あ、木樽ビールあるね。どうする?」
メニューを見ながらそう問うと、ザザさんは「じゃあ俺こっち」とバーボン樽で作られたというビールを指した。「じゃあ俺はこっち」俺はワイン樽のビールに決める。
そうして料理もおすすめから適当に選んで注文を済ませると、まず例の木樽熟成ビールが運ばれてきた。お互い軽く瓶を持ち上げ、「じゃ、おつかれ」と声を揃えて傾ける。
「あー、わかるわかるわかる」
ひと口飲んで俺はそう漏らすと、もうひと口舐めてみた。ワイン樽で熟成されているだけあって、ほんのりとサワービールのような風味がある。アルコール度数は高めのようだが飲みやすく、アルコールっぽい香りはほぼしない。一方のザザさんは「んん?」と首を傾げたあと、ワンテンポ遅れて「ああ、わかる。いる。そこにいる、バーボンが」と、すぐそこの歩道に生えている街路樹を指さしたので、俺は思わず笑ってしまう。「なにそれ、近いの、遠いの」「二秒で殺れるくらい」「わかんねー」ケラケラ笑っていると、そのビールの瓶が差し出されたので、俺も彼に自分の瓶を渡して口をつける。
「あー……いるわ、そこに。ジャストそこだわ」
「だろ? こっちは……あれだな」
俺のビールをひとくち飲んだザザさんは、今度は数メートル先で飼い主にリードを引かれて散歩しているダルメシアンを指さした。
「ちょ、動く動く。点Pすぎんだろ」
「いやでも動くだろこれ。移動してる」
「ごめん、それはわかんねーわ」
ふたりして声を堪えて笑いながらそんな話をしていると、まずは鱒とホワイトアスパラのジンジャーカルパッチョと、セットの黒パンが運ばれてきた。
「こちら地元産の生姜で作ったビネガーがかかっております。お好みでこちらのジンジャーペーストをかけてお召し上がりください」
地元民ではなさそうだと思われたのか、店員がそう説明をしてくれたので「はーい。どうもー」と礼を言う。それから取り分けているザザさんに「写真撮っちゃる」とスマホカメラを向けると、あたかも「私が作りました」もしくは「私が釣りました」みたいな自信満々な顔で皿を持ち上げるので、今度は「ゲハハ」と笑い声が漏れた。「何様のツラなん?」「捕食者」「はいはい。野菜もちゃんと食べなよ」写真を撮ってから、ザザさんが取り分けてくれた皿を受け取って、薄めにスライスされた黒パンに、カルパッチョと添えられたジンジャーペーストをすこし乗せる。かぶりつく。するとまずふわりと辛口の生姜の風味が鼻を抜けて、辛いと思った次の瞬間に濃い鱒の味が口に広がる。カルパッチョの野菜が白アスパラなのは珍しいと思ったが、これがしゃっきりとしていて甘く、酸味のある黒パンともベストな組み合わせだ。
「ふん」俺は感心して鼻を鳴らす。「うまい。でもペーストもっといったほうがいいかも」そんな分析をしていると、ザザさんが目を細めてこちらを見ていることに気がついた。「なん?」咀嚼をしながら問う。
「いや……なんでも……」そう言いかけた彼だが、妙に居住まいを正したかと思えば「いや。あ、いや……その、カワイーな、と」と、続けた。俺は疑問符を浮かべて背後を振り返る。先ほどのダルメシアンだろうか。
「いや、お前お前。いまこの状況でお前以外あるかよ」
「あ? ああ、俺?」俺は手についたパンくずを皿の上でちりちりと落としながら、首を傾げる。「え、いま気づいたん? おっそ」茶化して余裕を演じたが、内心すこし動揺していた。普段この男はふざけているときにしかそういうことを言わないからだ。きっと、旅行という非日常で言葉遊びに拍車がかかっているのだろう。
「可愛くねー……」
ザザさんは呆れたように、しかしいつものようにそんなことを言ってカルパッチョをそのまま口に運んだ。そして次の瞬間「お、うめーな」と口をもごもごさせながら顔を明るくする。そんな顔を見せられれば、こっちだって満更でもない。口内で笑みを適度に噛み殺しながら、ビールを傾ける。
「俺も撮っていいか、お前のこと」
ふと、そんな言葉を投げかけられ、俺は顔を上げながら「いいよ。てか許可要らないし。あとでTEMPのグループチャットにでも送ってあげて」と返す。そうしてくれれば、ウチのプライドのメンバーが喜ぶ。不可解なわりに言語化するなら、彼らの多くは俺の『オタク』で、内々で俺の写真や情報なんかをまとめた会報誌などを作っては喜んでいる。そんな熱意を恥ずかしげもなく披露し、俺を守るのだと息巻くのだから可愛い連中だ。……シャッター音がして、顔を上げる。サービスショットとしてギャルピースもキメてやる。写真の撮れ高を確認しているのか、ザザさんはスマホに視線を落としたまま「プラメンにはあとでアルバムにまとめたのを送るか。あんま通知鳴らしても鬱陶しいだろうし……とりあえずヲロと双子に送っとくわ」と宣言して、実際にそうしたようだ。
「ベルとナルはともかく……なんでヲロさん?」俺は首を傾げる。
「ん? アイツ、いつもお前の心配してっからな。迷惑かけてねえってアピールしねえと」
「ヲロさんが? 俺の?」確かにあの人は世話好きだ。「あの人、みんなに優しいでしょ。俺と同じで」大人なんだよ? という言外の意も込める。
「いんや。オンでもオフでも、話してるとなーんかお前の名前がよく出るんだよ。サビくんはいいのか、とか。サビくんは嫌がらないのか、とか。サビくんはこういうの好きなんじゃないかー、とか」
「へえ……意外。なんだろ、昔馴染みだから?」
てっきり彼は俺にはあまり興味がないものとばかり思っていた。……そんな感想は、口には出さないが。
「だろうな。昔のお前はヒョロいガキだったから心配なんだろ」
「ガキじゃねーやい。ちゃんと成体でしたー」
「まあ、お兄さんってのはいつまでもチビが心配なワケだよ。俺含めてな」
「アンタがガキだってこと? 同意」
「いや、今の文脈でそうはならねえだろ。俺とヲロが連名で心配してるってことですー!」
そんな話をしていると、ビールが無くなった。追加で日本酒樽のビールを一本追加し、グラスをふたつ頼む。
他にも地元産の放牧牛のハーブステーキと、近くの農園と提携しているという柿とゴルゴンゾーラのペンネも美味かった。いずれも一人前ずつだったが、移動中に軽食を摂ったのだからこのぐらいがちょうどよい。ほろ酔いを抜きつつに周辺を散策してからホテルに戻ることに決め、マップアプリを頼りに、来た道を戻らずぐるりと迂回する。
いくら俺が普段寝に行くだけだとはいっても、旅先の見知らぬ街を歩くことは嫌いではない。中央とは違った都市構造や植生、空気の匂いの違いなんかを楽しめる情緒くらいは持ち合わせている。途中見かけたスーパーマーケットの前では桃がワゴン売りにされており、ふたりして「やっす」と声を揃えた。「デザートに買うか? お前剥ける?」「たぶん。ヲロさんが剥いてたの見たことある。殺人ナイフでよければだけど」「構いやしねえよ」……結局スーパーでは桃の他にも飲料水や酒、軽いツマミなんかを買った。ここでもさっきの店でも、ざっと割り勘。今回は往復の移動費と各種アクティビティなどにかかるぶんは俺が負担し、宿代はザザさんの負担、それ以外は割り勘ということで話がついている。手配についても各々が担当していた。
そうしてホテルに戻ると、チェックインを済ませた。『二名様、ダブルルーム』と表示された自動受付機を見て、俺はつい声に上げそうになった不満を堪えてザザさんを睨んだ。彼は目を背けた。エレベーターの中、そして廊下でも、俺はザザさんのことをとにかく睨み続けた。しかし彼は目を背け続け、カードキーで部屋に入るや否や、クソデカい声で「ほら! ベッド広い!」と遅すぎるプレゼンをかます。「俺たちデケえから! ツインじゃはみ出るから!」
「言い分はわかるけど事前に言えやボケ。カップル詐称は予約時には既に始まってたのかよ。とんだどんでん返しだわ二度と観ねえよこんなクソ映画!」
俺はザザさんの額に強めのチョップをかますと、よろめく彼の横を擦り抜け、バッグを壁際のバゲージラックに置いて荷解きをする。溜め息は隠さず、しかしそこまで不機嫌でもないので、それはあまり滲ませないようにしながら。
「ごめんてサビ……事前に言ったら部屋別になるかと思って……」
しょぼくれながら、ザザさんも荷解きを始めたようだ。俺は「交渉せえや」と短く吐き捨てて、持ってきた着替えをクローゼットに掛ける。「つか普段仕事のときは大体部屋一緒だろ。今更断んねーよ。どーせセックスもするよ。どーせな」小言を漏らしながら、彼からも皺になったら嫌な服を預かってハンガーに掛けてやる。
「でも、これ仕事じゃねえし……」
そう言うザザさんは、やけに消極的だ。
「オフでも一緒に寝てんだろ。なにいきなり日和ってるんだよ」
指摘しながら、俺はスキンケア用品などが入ったポーチを脱衣所の洗面台に放る。あとはガジェットの類いを適当に設置すれば荷解きは終わりだ。
「……お前にしっかり休んでほしいって気持ちもあるし、せっかくなんだから一緒にいたいって気持ちもあってな。ぐるぐる悩んでいるうちに部屋埋まりそうになっちまって、つい」
その言葉に、俺は足を止める。
「あーそ……お気遣いありがとね。じゃあ一緒にいるから、休むときは休ませて」
ザザさんには、分離不安みたいになっているところがある。体調諸々にもよるが、人が近くにいないときは不安になって気分が落ちるところまで落ちてしまい、パニック発作を起こすことがある。他の条件でも発作が起こることはあるが、日常生活における懸念点は専らこれで、だからか彼には恋人やセフレを絶やさないようにして発作を未然に防ごうとしている部分があった。……今生になってから。
だから俺も、一緒にいたいと乞われたらなるべく応じるようにはしている。しかし、依存されないように顔色を見て誘いを適宜断ったりもしている。俺だって、彼のことでぐるぐる悩んでいるのだ。
「桃食べよっ。皿、ありそう?」
俺が話題を切り替えると、話の途中からぼんやりと立ち尽くしていたザザさんははっと我に返ったような挙動を見せたあと、ティーカップなどが収められている棚の中を確認してくれた。「皿は……あるな」「よっしゃ。一枚でいいから出して。フォークはある?」「ある」「じゃあおねがーい」なるべく柔らかく、穏やかに、なんの気なしに聞こえるように。きっと、ザザさんだって俺に対してそうやって気を遣ってくれていることがあるに違いないと信じながら。
腰に隠していたナイフで桃を剥いた。難しかった。ヲロさんみたいに器用につるりといかないのは、きっと力を込めすぎているからだろう。随分と優しく扱っているつもりなのに……。足りないのか。もっと、なのか。
ザザさんはいくらか不格好な桃でも、気にせず食べてくれた。俺は開き直って果汁に濡れた手で桃を摘まんだ。とても甘くて、でも爽やかな酸味があって、美味しかった。
「手、洗ってくる」
ベタベタになっている手を洗おうとしてソファから立ち上がると、同時にザザさんも立ち上がったようだ。「なに」……手、洗うの? と続けようとしたところ、いきなり手首を掴まれて指の腹をべろりと舐められた。そのぬめる熱が表皮から肉の奥まで響いたことに驚いて、喉から引き攣れた声が漏れる。「な、に。怖いんだけど……」いや、予感はしている。セックスの流れだ。
案の定、そのまま手のひらから肘までをねっとり舐められる。いつ嗜めようかと、もう少し踏み込んだアプローチを受けるまではと期を窺うつもりでいたが、俺の目を一瞥した彼の目の奥が甘い赤に光っているのが見えて、無意識のうちに「待って」と掠れた声が出た。「シャワー、浴びてからがいい、んだけど……」
しかし、要望は聞いてもらえなかった。俺もその点はあまり期待はしていなかった。
無茶苦茶に抱き締められ、押し潰さんばかりに腰を送り込まれながら、俺は彼なりの『一緒にいる』の実践を受ける。殺す気にでもなっているのか本気の体重をかけられており、圧迫された肺から情けない声が漏れるのを、どこか他人事のように聞く。けさ俺の足で潰れたイヤホンを想う。
──不安にさせてごめんって。
そう謝りたいのに苦しくて声は言葉にならないし、切実にそう思っているわけでもないので本気で押し退けるには至らない。そもそも俺は痛いのにも苦しいのにも慣れているし、それを伝手に興奮する術も身に着けている。だから好き勝手にさせてやる。本当はちゃんと止めて、目を見て言葉を向けてやるべきなのに、そこまではしてやる義理はないとどこかで意固地になっていた。
「んん」
断続的な圧迫のさなか、義足に繋がる腿に残った僅かな素肌を撫でられて、吐く息が上擦る。うっかり重なりかけた呼吸を、もうこれ以上逃げられないなか懸命に首を引いてずらしてやれば、舌で口許の黒子のあたりをつつかれた。……しかたがない。舌を出して応じる。舌先だけ絡ませあって、けして唇が触れあわない距離を保つ。そのぎりぎりの緊張感が伝わったのか、唐突に彼の舌が柔らかくなり、ふっと離れる。お互いに「これはノーカン」と、同時に視線を逸らすことで同意して、いくらか苦しくない交接へとほどけてゆく。どうせ、張りつめた舌先だけじゃ味なんてわからない。きっと桃の味がするってことはわかるけど、そんなのわからなくていい。
やっとのことでさみしがりの洪水からも情欲の炎からも解放されて、ふらつく足でシャワーを浴びて戻ると、ベッドの上に仰向けに寝そべっていたザザさんが天井に向かって左手を伸ばしているのが見えた。時折、彼はそのような挙動をすることがあるのだが、なにか俺には見えないものに触れようとでもしているのだろうか。タバコに火を点けながら彼に近づき、ベッドの縁に腰を下ろして「シャワー浴びなよ」と促せば、ブルードゥモネの睛がきらりとこちらに向かって輝いた。
「寝るか?」
短く問われ、「寝ないかな」と首を振る。「横になってダラダラしてるから、行ってきなよ。出て行ったりはしないから」もう一度、シャワーを浴びるよう促す。
すると彼は「ん」と喉だけで返事をしてベッドから起き上がると、散らばった衣類を拾わずに浴室へと消えた。俺は煙とともに長い溜息を唇の隙間からゆっくりと吐き切り、ベッドの縁やら床やらにうずくまっている衣類を拾い集めてあの人のぶんをソファに放った。バスローブを脱ぎ、下着だけ身に着ける。それから窓を軽く開けて風を呼び込み、タバコを灰皿で揉み消してからベッドに倒れ込んだ。潰れたコンフォーターからはあの人の肌の匂いがして、タバコを吸ったばかりだというのになににも邪魔されずありのままで鼻腔をくすぐる。その奥には『あの人』の匂いもする気がして、息を止めて胸の疼痛に堪える。このまま呼吸なんて止まってしまえばいいのに。……幾度この想いに焦がれては手放してきただろう。僕が楽になれるだなんてことはありえないのに、『あの人』が僕を迎えにきてくれるんじゃないかと夢想することがやめられない。
余韻に擦りつけた額が前髪をぐしゃぐしゃに崩したのを感じて、ひと思いに仰向けになる。天井の見慣れぬクロスの観察に時間を潰してしまう前に枕の合間に吹っ飛んでいたスマホを手繰り寄せ、周辺の観光情報をチェックする。初日は適当に過ごすと決めてはいたが、このままだとただ散歩をしてメシを食うだけだ。このあと身支度を整えて外出する頃合いには夕まぐれを迎えているはずだから、やれることは少なさそうだが、どうだろうか。
腰を据えて見学するスポットやアクティビティを探しているわけではないので、観光サイトなどのチェックは早々に諦めて、鍵垢しか動かしていないSNSを開いて『サーカディアン・バレー』と最新順で検索する。すると今夜と明後日の夜に開催される『ベリュルサイド・マーケット』という催しの公式ポストを見つけた。なにやら昼に左折した十字路を右に進んだ先にあるらしく、サーカディアンが州都に制定された年から続く伝統あるマーケットのようだ。開始時刻も丁度良い。
俺はさっそく浴室から戻ってきたザザさんに「どう?」とそのSNSの公式ポストを見せた。すると彼は「ん、いいんじゃねえか。近いし」と頷いて、のろのろと下着を身に着け始めた。しかしボクサーパンツを腿まで引き上げたところで「ん?」と動きを止め、「お前、プロスやってんの?」と俺のスマホをいま一度覗き込もうとした。
「ん? んー? どうだろうねー」
内心焦りつつスマホを胸元に抱え込んで彼を躱す。すると「前はやってねえって言ってたじゃねえか」と不満そうに俺を捕まえようとしてきたので、穿き途中の下着を足首まで下げてやった。「あっ、てめ、卑怯だろ!」足を縺れさせたザザさんが既のところでベッドに倒れ込んだので、俺はすかさずその尻を叩く。しかし次の瞬間、その手を掴まれてベッドに再び引き倒された。「離せー!」藻掻く身体に、下着を放ったあの人がのそりと乗り上げてくる。「サービーくーん。アカウントおーしえてー?」……妖怪か?
「ヤダ。すんごいエッチなやつだから」
言いながら膝で金的を食らわせようとして、流石にそれはやりすぎかと思い直す。
「エッチってなんだよ」「裏垢ってヤツ?」「……どんな?」「こういうの?」俺は履いていた下着を少し下ろして、挑発するように彼を見上げる。「……教えろ」「喉鳴らすな」「教えろ!」その大きな手に身体を擽られ、俺は身を捩る。「やだっ。教えないもん!」なぜなら、それでメンバーシップに誘導してがっつり稼いでいるからだ。俺は稼ぐための手段は問わないし、常に効率のよい方法を模索している。「けしからん! 先輩が指導してやる!」「うるせえ先輩だな! かかってこいや!」俺からも彼を擽る。ザザさんはくすぐったがりだ。まあ、俺もなのだが。
そのまま五分十分くだらない攻防をして、やがてお互いに息を切らしてベッドに這いつくばる。あまりにも平和で、それが可笑しくて、噎せながらも声を上げて笑うと、あの人もぜえぜえ悶えながら笑っていた。
それから二十分ほど休み、着替えてから外に繰り出した。薄暮へと傾きゆく空は青みの強い灰色で、霧濃い街だということが窺える。やがて昼に訪れた十字路までやってくると、向かって右の通りは車両の進入規制がなされて歩行者天国となっていた。そのままバリケード脇を誘導ロボットの促すまま進めば、白いテントで統一されたマーケットが向こう数百メートルに渡って連なっているのが見える。少し早めに灯りの用意がされており、軒先の暖色ランプがテントの白によって増幅され、通り全体が眩しくも柔らかく輝いていた。
「へえ、結構な規模だな」
そう呟くあの人に相槌を打って、並んで歩く。屋台の内容はざっと見た限り、グルメや食材の他にも工芸品やアート作品、土産物などがある。客層は幅広く、ファミリーの数がそれなりに目立ち、中には子どものみのグループなんかもいたりして、治安の良さが窺えた。道端にポイ捨てなんてこともなく、要所要所にゴミ箱が設置してある。地元とは大違いだ。
「治安がいいのは……自警団の人がいるから、かな」
白い腕章をした自警団員の姿もちらほら見えるということは、業務提携でもしているのだろう。俺がそのことを共有すると、ザザさんは「じゃあダーリンしないとな」と謎の動詞を口にしたあと、俺の手を握ってきた。咄嗟に「ヤダって」と振り払おうとするが、数メートル先にけさ職質紛いのことをしてきた自警団員がいるのを認めて諦める。余計な波風は立てたくない。あの人の手があたたかい。
「ねえダーリン、ダーリンって普段どんなデートしてんの」
呆れを滲ませた声でそう問うと、ザザさんは「え、セックス」と真顔で言い放ったので、繋いでないほうの手でその脇腹を殴った。「おうちデートって言いな? 恋人傷つけるよ?」
「おうち、デート、です」
「へー。外行かないの?」
「んー、まあ、メシ食うとかなら……」
「美術館とか水族館とか映画館は?」
「思うんだけどよ、その『館シリーズ』ってなんでデートスポットになってんだ? ふたりでするアクティビティがあるわけでもなし、行きたきゃ他人を巻き込まずひとりで行きゃいいだろ」
「うわ屁理屈くんだ。巻き込むって表現からして迷惑に思ってることが窺えるね! 歴代のハニーたちの苦労が偲ばれるぞオッサン」
まったく、人恋しがりのくせに、精神性が伴侶を迎えられるほど円熟していない。あんなものはサービス業で、割り切ってしまえば簡単なのに……そこまで考えて、俺も大概向いていないことを再確認し、自嘲の笑みを漏らす。過去のことがなくとも、似た者同士でつるんでいるのだから世の中は上手いことできている。
「あ、ダーリン。地ビール飲み比べだって」
ふと目に付いたブリュワリーの屋台の前で歩みを止めると、ザザさんは「いいな、分けるか」と言って飲み比べ三種セットを買ってくれた。カップホルダーに挿さったプラカップのビールを歩きながら飲み回し、どれが一番好きかを発表し合う。昼の店とは違ってこのブリュワリーのビールは木樽に使われている木材で種類分けをしているらしく、俺はホワイトオーク、ザザさんはヒノキを挙げた。やっぱり、こういうときに意見が合わないのが俺たちだ。
「小腹減ったな」そんなザザさんの言葉に、俺は「軽く食べちゃおっか」と応えてグルメ系の屋台がないか往来のなか首を伸ばす。すると俄かに子どもの高い声で「ああ!」と嘆くのが聞こえて、そちらを見遣れば、五六歳ほどの少年が風船を手放してしまったらしい。濃さを増した広い夕空に、黄色い風船がするっと吸い込まれてゆく。
俺は即座に「着地見といて」とザザさんに告げると、数歩の助走をつけ、風船に向かってジャンプした。十五メートルあったかなかったくらいかだろうか。この程度なら楽勝である。風船の紐を掴んで、案の定俺の行動に気づかずごちゃ混ぜになっている眼下の往来のなか、ザザさんに目掛けて落下する。すると彼は、俺を両手ですんなりと抱き留めてくれた。
「ほい、もう離さないでね」
下ろして貰ってすぐに少年に風船を手渡せば、ぽかんとした表情の彼は「あ、あ」と狼狽えた声を発する。まあ無理もないかと笑顔のまま去ろうとすると、母親と思しき乳飲み子を抱いた女から「ちょ、ちょっと待ってください!」と引き留められた。
「タダト! お兄さんになんて言うの?」
おお、誠に僥倖なことに教育の一端を担わせて貰えるようだ。俺は彼の前にしゃがみ込むと、笑顔で彼の言葉を待つ。すると少年は恥ずかしそうにしながらも、「ありやとごじゃまった」と身体を揺らしながら礼を言ってくれた。俺は笑いながら「どういたしましてー」と彼のちいさな頭を撫でる。
「あなたもボーっとしてないでそれ差し上げて!」
女に促されて、その傍らにいた男が慌てたようにその手に持っていた包みのうちひとつを「あ、あ、どうぞ。いや、どうもか。買ったばかりで手はつけてないです」と、少年によく似た狼狽えかたで以て手渡してくれた。咄嗟に受け取ってしまい、すぐに「えっ。お気になさらず」と遠慮して返そうとしたが、女が「余ってるんで!」と語気を強くしたので「じゃあ、どうも」と受け取った。しっかりしてそうな母親の率いる家族だ。絶対、余ってなんかいない。
あまり立ち止まっているのも通行の邪魔になるだろうと、少年らと手を振って別れると、数歩進んだところでザザさんが「お前、ホント子ども好きだよな」と眉を下げた。俺は「うん、好きー。超可愛いー」と頷いて、貰った包みの中を覗いてみる。中には揚げ物と思しき直径五センチほどのボールが六つ入っていた。
「なんだろう。匂いは……ラムかな?」
「お、丁度よかったじゃねえか。酒買ってどっかで食うか」
そう提案する彼に促され、近くにあったワイナリーの屋台で白と赤のカップワインを買って、マーケットの終着地点の、巨樹の周りを囲う広場に用意されていた休憩スペースのテーブルに着く。先ほど調べた内容によると、なんでもこの樹の愛称が『ベリュル・ツリー』というらしく、それでこの通りの名前が『ベリュルサイド・ロード』なのだとか。きっとこの巨樹の下が、市民の憩いの場なのだろう。
「あちっ」
まだ熱を持ったままのそのラムボールに齧りつくと、中から熱々のチーズとトマトソースが滲みでてきた。ハーブが効いており、なかなかに美味いのではないか。視線でザザさんにも気を付けるよう促したが、彼は気にすることなく丸ごと口に放り込み、案の定「ああっひい!」と叫んで目尻に涙を滲ませた。
「教えたじゃん。目で。つかあちって言ったじゃん」
「俺に、色目、つかってんのかと」
「なわけ」
テーブルの下で彼の脛を蹴り、白ワインを傾ける。よく冷えていて、キレがある。これはザザさんも好きだろうと、「はい」とグラスを彼に差し出す。するとまだぴいぴい熱い熱いと繰り返していた彼は、カップの脚を持っていた俺の手ごと掴んでワインを傾けた。「生き返った……!」……大袈裟である。
その後、マーケットの復路を歩いてから、軽く食べられる飯屋なり飲み屋なりを探そうということになった。来た道を戻りながらそのうち買うであろう土産物の目星をつけ、十字路まで戻ってきて駅の方面へ。とりあえずは奇を衒わず、駅前の店にしようと話していると、ザザさんがはたと立ち止まった。「美味そうな匂いだ」アンテナでなにかをキャッチしたかのように、彼は目を見開く。
「アンタ……やっぱほぼ犬だよな」
呆れながらも、彼に着いてゆく。駅前近いのでまだ安全そうだと判断して細い路地へ曲がり、こぢんまりとした飲み屋小路に入る。そうしてザザさんが再び立ち止まったのはまさかのラーメン屋の前で、俺は「ラーメンて」と笑ってしまったが、まあ異論はない。店内はカウンター席が七つあるのみで、客はふたり。カウンター内の厨房から奥に座るよう促してきたのは人間でいうところの三十代頃の女性で、その鍛えられた腕からしてきっと彼女が店主なのだろう。メニューを見ながらザザさんの横顔を見れば明らかに「いい女だな」と染み入っている様子だ。こういう嗅覚も鋭いのがこの男である。俺は彼の態度に特に横槍も入れず、「俺はこのスタンダードなやつにするけど?」と話を振れば、彼は「あ、ああ。俺はそれの大盛り」と意識をこちらに戻したようだ。
この店の売りはどうやら鱒の削り節で出汁を取り、身肉と骨をペーストにしたものと混ぜてスープにした鱒ラーメンで、俺は卓上調味料の横に貼ってあったその小さな説明書きを読みながら珍しいなと思う。確かにここの鱒はかなり味が濃かったので、出汁を取るのにもよさそうだった。そうして注文して十分もせずに、ラーメンが運ばれてきた。俺は卓上のケースから箸を取り出し、ラーメンの写真を撮っているザザさんを待ってから彼に一膳手渡した。なんとなく、日本食の店では両手を合わせて「いただきます」と言うことにしている。そうして一口啜り、傍らのザザさんを見遣ると目をキラキラさせていた。やっぱりそうだろうな、と俺も内心微笑みながらふたくち目を啜った。
そうして半分ほど食べたところで、新規の客がやってきた。大柄な男がふたりである。同族だろうなと思いながら、一旦置いていた箸を取ろうとすると、席に空きはあるはずなのに、彼らは店主の案内を待たずに俺の隣に座ってきた。しかしまあ奥から詰めるのが普通か、と気にせずにいれば、「お兄さん、観光客?」と声を掛けられた。「それともお姉さんかな?」すかさず店主から「お客さん、注文は?」と、牽制と思しき一言が飛ぶ。
「さあ」
俺は軽く流すつもりでそちらには視線を向けず、水の入ったタンブラーに手をかける。なにかあればこれで顔面をぶっ潰してやろうという魂胆だったが、それは男の手が俺の手に重ねられたことで防がれた。知らぬ体温に、ぞわりと鳥肌が立つ。
「お客さん、メニューはこっちです」
店主が真顔で傍にやってきて、卓上に立ててあったメニューを男たちの前に広げた。しかし彼らは気にした様子もなく「アンタ、お仲間だろ?」「同族のよしみで中央の話聞かせてよ」と絡んでくる。これに痺れを切らしたのは店主である。彼女が「お客さん」と怒気の滲んだ声でそう繰り返したそのとき。
「勘定頼むわ」
ザザさんが声を上げた。
「いやー、美味かった。悪いな、コイツ小食でさ」
彼は俺がまだラーメンの半分ほどしか食べていないことを店主に謝っているのだろう。それを受けた店主は「あ、ああ。じゃあ金額を確認して貰って……」と端末を操作し始めた。すぐに決済音が響き、ザザさんが「釣りは取っといてくれ」と言ったことで、余分に払ったことを察する。
「帰るぞ」
そうしてザザさんは俺の手を掴むと、なにも言わず男の手を振り払って俺を店外に引っ張り出した。茹で麺機の放つ湯気で湿度の高かった店内から、高原地帯のからりとした外気に晒され、思考がりんと明瞭になる。無言のザザさんに従い、ふたり来た路地ではなく、飲み屋横丁のメインゲートを通るかたちで駅前に戻ると、そのままホテルへと帰った。エレベーターの中でも引き続き無言でいる彼がすこし怖くて、顔色を窺うことすら躊躇われたが、それでも俺は心のなかで「謝らないでくれ」と祈っていた。あの店に行ったことをどうか謝らないで……。なぜだか無性にそういう気持ちになるおのれが不可解だったが、分析しきれるだけの時間はなかった。
部屋に入り、灯りをつけるとザザさんは暫く部屋の中央で立ち竦んでいた。俺の手を握ったまま。
──あんなの慣れてる。
そう切り出そうかと思ったが、なにか違う気がした。それは彼が謝るのと同等に不適格だと思った。とはいえ、じっくり悩んでも仕方がない。
不意に、ローテーブルの上に放置したままだった皿と果汁に濡れたナイフが視界に入り、俺はなんとなしに「桃。もう一個あったよね? 今度はザザさんが剥いてよ」と頼んでみる。するとザザさんは酷く頼りなさげな眼差しを俺に向けたかと思えば、ぎゅっと俺の肩をその胸に抱き込んだ。ぶ厚い骨格に支えられた張りのある筋肉が、力強く俺を離さないでいるはずなのに、どこか縋りつかれているような感覚もある。俺はどうしたものか迷ったが、彼が懸命に言葉を練っているのだとしたら、いくらでも待つべきだと思った。
壁の全身鏡に、溺れるように彼の肩口から鼻を突き出しているおのれの姿が見える。彼という奔流はいつも夜に在る。荒ぶって、冷たくて、涙みたいにしょっぱくて、暗くてなんにも見えやしない。底知れぬものに対する恐怖と、身を預けていればそのうち死ねるんじゃないかという期待が、潮流によって混ざり合う。着水に失敗した海鳥が脚を砕いて水面に飲み込まれゆくように、俺もこのままどこまでも、深みに。
──ああ、心中したいな。
ふと、そう思った。思えてしまった。おのれの機微が極めて奇怪で、そんな情緒が堪らなく怖くなった。……ともすると俺は、自分だけで死ぬのではなくとも、この男となら死んでもいいと思っている? いや、駄目だこんなのまちがいだ。
「サビ」
唐突に名を呼ばれ、束の間の夢想から生還する。「なあに」と無意識に口が動いたことに対し、誰に向けるでもなく驚いてみせる。そうして意識を無理くり別の座標へと移動させて、おのれの中に生まれてしまった『選択肢』を見なかったことにした。
「……ムカ、ついたなあ、アレ」
ぎこちないブレスをたっぷり吸い込んだその言葉は、俺の反応を思案へと射止める。散々考えてこれですか、と思うとなんだか余計に可笑しくて、次の瞬間には俺は堪えきれず、声を上げて笑ってしまいながら、
「そうだね、ムカついたわー、アレ」と、彼に同調した。「おかげでラーメン食べ切れなかったんだけど。マジ最低。美味しかったのに」
するとザザさんは「よし、桃剥くか」と笑って、俺を柔らかい動きで解放した。それからローテーブルの上のナイフを手に取ると、果汁でベタベタになっていることに気づいたのか、そのまま部屋据え付けのキチネットへと向かい、ナイフを濯ぎはじめる。そんな彼の背中を眺めながら、俺はこの人のいいところなんていくらでも他人にプレゼンできるのにな、とやりもしないことを想像する。きっと実際のところは「やめときな?」なんて彼の伴侶側を心配するに違いないし、今までだってそうしてきた。でもやっぱり誰かいい人と幸せになってほしい……なんて考えに囚われてしまうのは、さっきの『選択肢』のせいだろうか。きっと俺はこの男を心から愛する相手となら、彼のいいところを星座みたいに一粒ずつ繋げるようにして、穏やかに会話できることだろう。トモダチにだってなれるに違いない。
ザザさんは桃を剥くのが上手かった。「じゃあなんでさっき剥かなかったの」と甘酸っぱくなった口で問うと、「いや俺も初めてだし」と本人も困惑した様子だ。「とはいえヲロには劣るだろうな」という彼の言葉に同意して、俺は思い出したようにメッセージアプリを開いてヲロさんに例の服の代金についての内容を送る。また遠慮されるだろうが、そうしたら彼には多めに土産を買う予定だ。そんなことを考えながら、ふたりでゆっくりと桃を食べ切った。
メッセージの通知音で目が覚めた。首に絡んでいたザザさんの腕をまるで重装備かのように放り落とし、手を伸ばして余った枕の上に放ってあったスマホを掴む。そうして片目でブルーライトに耐えながら、無数に並んだポップアップの中から最新のものを叩いた。すると、ヲロさんからの「では今度一緒に飲みに行こう」というメッセージが。そこで寝惚けた意識がふわりと覚醒に傾いてゆくのを感じる。……ヲロさんに、飲みに誘われた。結果としてふたりで飲むことになったり、飲み会のなかで並んで飲んだりしたことがないわけではないが、サシは初めてだ。
「それってデートですか?」
いつものノリで、なんの気なしにそう送って俺はゆっくりと起き上がると、まずは遮光性に優れたカーテンを僅かに開けて外の天気を確認した。日光が柔らかいのは霧のせいか。とはいえ、予報通り晴れである。今日は午前からバスツアーの予約をしてあるので、ゆったりでも準備を始めないと……。そんなことをぼんやりと思いながら、浴室でシャワーを浴びる。歯を磨き、スキンケアをして、服を着る。そうして瞼に軽く色を塗っていると、「おはよう……」と掠れた声で挨拶をしながらザザさんが洗面所に顔を覗かせた。それから「朝勃ちなんとかしてくれ……」と続けるのに、「しねーよ元気ジジイが」と、その下半身を一瞥もせずにきっぱり返す。
「とっととシャワー浴びなー。朝食あるからー」
手を動かしながらそう促すと、ザザさんは眠そうな声で頷いて、身に付けていたタンクトップとボクサーを脱ぎ浴室へと消えた。
それからいつも通り、ある意味ノンデリカシーともいえる準備の速さを披露してくれたザザさんと一緒に朝食の会場を訪れた。ビュッフェ形式で地場産の食材が多く使用されているとのことで、宿泊客以外からも人気らしいが、俺は寝起きにそこまで食べられるほうではない。シェフがその場で作ってくれるタイプのオムレツとカットフルーツをいくつか、そしてコーヒーを持って席に戻ると、「クロワッサンがあったけえ」と笑顔のザザさんが迎えてくれた。
「あ、アメリカンなんだ」
俺はそう相槌を打ちながら、朝から盛りのいい彼の皿を眺める。緑はブロッコリーのみとはいえ野菜を食べて偉いし、しっかり食べられるなら加工肉の多さにも目を瞑るべきだ。……おのれが若干ヲロさん目線であることを自覚し、内心笑いたくなるのを抑えてさっと朝食を済ませると、一旦部屋に戻って外出の準備を整えた。今日はバスツアーでセス州の主要な湖を巡る予定だ。
用意を整え、駅前の観光用バスストップから予約していたバスに乗り込む。ザザさんと並ぶと些かシートが狭いが、湖水エリアへ続く鉄道の沿線はまだあまり発達していないのだから致し方ない。通路にはみ出したら悪いので、きょうはザザさんを窓際に押し込んだ。ガイドはアシスタント型アンドロイドで、腕章と首に入った刻印がなければ外見と挙動は人間と相違ない。しかし俺たち人外族からすると、オーラの違いとでもいうのだろうか、全身を包む生命活動の微細動のようなものが感じられないので、たとえ判断材料が目に見えなかったところで識別は容易だ。
ツアーの参加者は、正座席がほぼ埋まっているところからして四十五人前後程度だろうか。男性型アンドロイド『ハーディ』タイプの落ち着いた声質のガイドを聞きながら、窓の外を眺める。曰く、セス州は全体が国立公園に指定されており、人の手で開発できる領域が限られているらしく、それにより保護された動植物の計二十一種類が固有種と認められているのだとか。そのなかでもご当地キャラクターや土産物などのモチーフとして人気なのが『スペキュラ・ラビット』。白い靴下を穿いているかのような被毛が特徴で、睫毛も白い。ガイドが席のモニターに映してくれた画像を見るに、中々に美形なウサギである。
「かっわいいー……」
さっそく画像に食いついたザザさんに、「ぬいぐるみ、買う?」と笑いながら問いかければ、「なにかカワイイのがあったら」と前向きだ。
バスが出発して四十分弱。とっくに都市の街並みは過ぎ去って、辺りは山岳に囲まれた高原地帯へと塗り替わっていた。青々と茂る草木の緑が目に鮮やかで、高い空には密度のありそうな雲が濃い白色で漂っている。ガイドの「どうぞ窓を開けてみてください」という声の通りにしてみれば、ベリーっぽい果実の香りが風に混じっていた。
「そろそろ特産のスペキュラ・ベリーが旬を迎えるころでしょうか。これは名を同じくするスペキュラ・ラビットの好物でもあり、農園では背伸びをして低い位置の実を食べる彼らの姿が見られます……」
ベリーにウサギ。鉄板の可愛い組み合わせである。きっと土産物にもこの組み合わせが採用されまくって荒稼ぎをしているに違いないと邪推しながら、ポケットで震えたスマホを取り出す。するとヲロさんから「もちろんそのつもりだ」というメッセージが入っていた。ぱっと文脈を思い出すことができなかったので、アプリを開いて内容を確認すれば、けさ俺が「それってデートですか?」と送った形跡が見て取れた。……やべえ、なんも考えずに送ってた! 瞬間、羞恥に湧き上がった頭を掻き毟りたくなる衝動を堪える。寝起きは悪い。記憶もあまりない。ぼんやりしている自覚もさほどない。一応とはいえ俺は彼の上司という立場のため、これではセクハラになりうるのではないか……。
悶々としながらも、冷静にメッセージを読み返す。「そのつもりだ」ということなので、おそらくセクハラだとは思われていないし、彼はそういうことに目くじらを立てるタイプでもない。その優しさにあやかるように、俺はそろりと「ご希望の日時やお店があれば共有してくださるとありがたいです」と送った。すると即座に「任せてくれ。今日も楽しんで」と締めくくられた。これは、デート確定、なのだろうか。
しかしながら、ヲロさんが相手なら不安はない。彼は紳士だし、デートなんていうのも言葉遊びなのだろう。同僚と飲むくらいなら普通のことである。俺は謎に波立った心地を深呼吸で落ち着かせると、尚も画面に食らいついて「うさちゃん可愛い」モードに入っているザザさんに、「ヲロさんてさ、恋人いないの?」と話を振ってみた。
「ん? なんだいきなり」「いや、その。服のことでやりとりしてて、ふと気になって」「うーん、いないんじゃねえか? そういう話は聞いてない。俺に話してねえだけかもしれねえが」「ふーん……カッコいいのにね」「な。あんなにいい男はそうそういねえが……高嶺の花的なアレなのかもな」「ノンケだっけ」「いーや? ああ、いや、いーやっつーか。好きなタイプの話をしたときにこれどっちもだなって俺が察しただけというか」「アンタ、一番の親友なのにそういう深い話はしてねーのな」「まあな、不要だからな」
そうこうしているうちに、最初の目的地に到着した。セス州で三番目に大きなメルセンヌ湖である。バスを降りると、ぶわりと涼しい風が俺たちを出迎えた。駐車場の周辺は整備されており、観光事務局もある。湖面は静かな青緑に澄み渡り、魚影もしっかり見えるほどだ。ちょっと気の遠くなるほど巨大な湖だが、これより更に大きい湖があるというのだからおそろしい。セス州は十四の湖、それから数百の池などを擁しており、その情報だけでも肌が湿り気を帯びるかのようだ。
束の間の自由時間となり、俺たちはまず入水可能地帯へと駆けだした。いや、駆けているのはザザさんとかいう大きなガキだけである。ボート乗り場のすぐ側にある、ほんの足湯みたいな浅瀬に真っ先に突っ込んでいったザザさんに、他の参加者がくすくすと笑い声を上げるのにいたたまれなくなりつつも、彼の側に寄り、俺も靴を脱いで湖に足を浸す。水はひやりと冷たく、人間が遊泳するのは厳しいかなという水温だ。足元は小さな石や砂利で、滑りやすいということはない。
「ちょっと。膝下まで。膝下まででプリーズ」
俺の諫める声に、数歩先のザザさんは「大丈夫だ、エリア内だとそこまでいかねえ」と声を張り、堂々と水を蹴って遊んでいる。やはり犬だ。こっちの後始末なんててんで考えちゃいない犬だ。しかし俺も犬の扱いなら双子で心得ている。ある程度気前よく接し、ある程度は諦める。これが肝要だ。
案の定、捲ったカーゴパンツの裾を盛大に濡らし、「さっむ」と言って戻ってきたザザさんに「ばーか。ざまあみろ」と返してバッグに入れていたミニタオルを渡してやる。そうして俺の肩を支えに靴を履き終えた彼を伴って、バスへと戻った。
それから移動を挟んで、二番目に大きな湖──ベークマン湖の湖畔にある小さな村、コレス・ムジケへとやってきた。人口はおよそ三千人前後の長閑な村で、農業や酪農業、それから観光業の従事者が住民の七割を占める。サーカディアンのものとはまた雰囲気の異なる石造りの可愛らしい住居が特徴的で、街並みを写したポストカードなんかも人気らしい。そしてこの村出身のイース・イッソという詩人はこの国の社会科の教科書にも載っているほど有名らしく、村の所々には彼の紡いだ詩文が彫られた記念碑が点在しているのだとか。
そんなガイドの説明を聞きながら、俺たちはツアー客の最後尾をのんびり歩き、時折写真を撮ったりしながら昼食会場のレストランへと辿り着いた。石畳で整えられた坂の上にあるその店は、督国出身の人外族の多くが信仰している白架教のちいさな寺院と庭園を挟んだ隣にあり、人外族の婚礼の儀の際にもよく使われるのだそうだ。
「こんなところにもあるんだね、寺院」
窓辺の席から寺院を見渡しながら俺がそう言うと、ザザさんは「あとで見てみるか?」と提案してきた。俺たちプライドの連中はリシュヴェリ王への信仰こそ捨てさせられたものの、白架教や督国の関連施設に立ち入ることや、その文化に触れることは禁止されていない。
「そだね。ちょっと覗くくらいなら……」
そんな会話をしていると、ラムの内臓とミンチをつみれにしたものをハーブと生姜であっさり煮込んだスープと、ラム肉とキノコのパイが運ばれてきた。両方ともこの村の名物らしく。気温が低い地域だからかスープは胃がかっと温まる仕様の癖になりそうな味で、パイは肉がぎっちりしていたが水分をたっぷり含んだキノコのおかげで食べやすかった。デザートにはスペキュラ・ベリーを使ったアイスまで用意されており、ツアー料金に含まれているにしては豪華で、満足のいく内容だった。
食事のあとは一時間ほどの自由時間ということで、俺とザザさんはさきほど話していたとおり、レストランの隣の寺院にやってきた。白い石を彫って造られた花の門を潜り、よく手入れされた前庭へと踏み入る。
「花門だったから、リシュヴェリ陛下が祀られているのかな」
俺の言葉に、ザザさんは「だろうな」と些か緊張しているかのような声音で頷く。
白架教とは督国を納めてきた歴代の裁座督(統治者の称号である)を信仰する宗教で、督国は宗教国家ということになる。国を統治するのは『王種』と呼ばれる管理運営に特化した人造の神で、俺たちが仕えたリシュヴェリ王は一〇〇代目。その玉体は男性型と女性型の切り替えが可能だが、可憐な少女の外見でいることの多かった少年王だ。そして其は花を愛したとされているからか、其が祀られている寺院には花のモチーフが使われることが多く、外観からしてここにはリシュヴェリ王が祀られていると推測できるわけである。
開け放たれた寺院の扉の前で一度立ち止まり、ふたり顔を見合わせてから内へと入った。ドーム型をした内部には巨大な梁が花弁のように花開き、その隙間の天窓とも呼べる空隙には青いガラスが嵌め込まれている。青と白の、静かな対比。まさに督国の空気感である。しかし入口からまっすぐ行った先の天窓は、紫とピンクのグラデーションが美しい、督国の黎明時特有の空を模した色をしている。なんともまあ、懐かしいものだ。
けして大きくはないが吸い込まれそうな奥行きを感じる聖堂内を、どこか厳かな心地になるのを感じながら進む。勿論、黎明天のほうへ。聖堂内には信者もしくは観光客がちらほらおり、神馬属と思しき──或いは、その役割を担った偶蹄類か──法衣を纏った神官が案内をしていた。聖堂内に入ったときから薄ら輪郭が見えてはいたが、黎明天の前に祀られているのは予想通りにリシュヴェリ王だった。祭壇の上で花冠を頭に微笑を湛えて踊っている一瞬を切り取ったその像の、生の質感と躍動感は素晴らしく、今にもこちらに向かって「あら、あなたたちですか」と笑いかけてくるかのようだ。──そろそろご結婚なさるの? なんて。
その生態と背負った使命ゆえなのか、ちょっぴりデリカシーのないところのある、真面目でチャーミングな陛下。俺たちの、誇り。本当は騎士として跪礼をしたかった。しかしぐっと堪えて胸に手を当てるに留めると、俺は隣のザザさんを向いて「ここのは可愛い系の陛下だね」と、話を振った。
白架教の寺院では歴代のどの裁座督を祀るかは自由で、其のモチーフも様々。人気の型なんてものもある。我らがリシュヴェリ陛下は特に人気で、非礼を承知で言うなら、本当に愛らしい。そんな其は国民からも人気が高く、議会誌と称した写真集も飛ぶように売れていた。
「そうだな。俺たちの前にいきなり現れて、からかってくるときの陛下だ」
まるで俺の心に響いてきたのと同じ声でも聴こえているかのように、彼は目を細めて聖像を仰ぐ。その横顔に、かつて俺が愛した男のそれが重なって、目を逸らしたくなるが、堪えた。ここは日常の、今の生活の一頁だ。真新しい俺たちなのだから、おそれることなど、なにもない。
「ね。少し遅れてラドレ様が追っかけてくるときの陛下」
「たまにムカルナス様だったりするんだよな」
そうしてふたり笑い合う。一瞬に等しい思い出に身を浸しながら。
聖堂を出ると、庭園をぐるりと回ってこの小高い丘からベークマン湖を一望した。山間にするりと鏡面のように広がる静かな水面が、空の青をそのまま映して跳ね返しているかのようで、つられた心がひっそりと凪ぐ。
「なんでここに寺院があるんだろうな」ふと、ザザさんはそんなことを言って俺を見た。「どうせなら一番デカい湖のところに建てたほうがよかったんじゃねえか?」
「二番目だからじゃない?」
俺はそう答えて、視線が絡む前に湖に向き直る。……俺も二番目だ。
それから、残りの自由時間は土産物屋を覗いて買い物を済ませた。軽く話し合った結果、折角ならリシュヴェリ陛下を祀る村に金を落としていこうと、プライドの面子や身内に配るものはまとめ買いをしてアジトに配送手続きをした。ザザさんは個人的にイッソの詩集を買っていたが、そのことに今の俺が言及すると茶化すようなニュアンスが滲むような気がして、気にしていないふりをした。
最後に訪れたセス州最大の湖・クリスティーナ湖はとにかく圧巻だった。周辺では漁業が盛んだというだけあって海かと見紛うほどの広大さで、特産品の鱒の多くはここから出荷されるのだとか。湖面にせり出した展望デッキは、湖の周囲の一部に沿った十キロメートルほどの整備された散策路に繋がっており、利用するのに入場料がかかるが、岩肌の剥き出しになった周辺の環境を思えば妥当な内容だ。その中には遊覧船乗り場もあり、展望デッキでの撮影タイムを終えたあと、ツアー客全員で船に乗り込んだ。船内ではこの湖で獲れた鱒のジャーキーが配られ、ザザさんが「酒飲みてえ……こんなん酒ないとか拷問だろ……」とショボショボの顔で漏らしたところ、ガイドが無言で売店を指さしたのは面白かった。そこで少し割高の缶ビールを買い、意気揚々とデッキで酒盛りをしようとしたところ、「写真撮って!」とジャーキーとビールを掲げた彼の手から、突如現れた鳶がジャーキーだけを綺麗に掠め取ってゆき、俺は爆笑しながら地面に崩れ落ちるザザさんにムービーカメラを向ける。
「くっそお! こんなことってあるかよー! 自然界の野郎ー!」
駄々を捏ねてお菓子売り場で蹲る子どものように小さくなっているザザさん(スケールでいえば小さくはない)の背中を、「はいはいよしよし怖かったねー」と撫でる。その一部始終を収めた動画と、鳶にやられる瞬間の写真をヲロさんに送ってみれば、すぐに「面白過ぎるからメンバーに拡散したいな」と返ってきたので、「OK!」とキャラクターが言っているスタンプで許可を出した。
「いやあ、びっくりしたねえ……」俺は笑いすぎて目の端に滲んだ涙を指で拭きとりながら、子どもに対するような態度でなおも彼の背中を擦る。「俺の半分わけてあげる。ね?」
そう言ってジャーキーを渡してやると、ザザさんは口を曲げながらも立ち直ってくれたようだ。しかしまだご立腹らしい彼の写真を撮って、それをヲロさんからのリークで騒然としているプライドのグループチャットに「泣き止みました」と一文添えて送信する。すると「泣き止んで偉い」「ジャーキーなら俺が買う」「そのピースはにちゃいってことなんですか?」などと愉快なコメントでチャットは溢れ返り、俺はもう一度声を上げて笑ってしまう。
「サビさんが笑ってるの嬉しい」
ふと、そんなコメントが目に入り、画面をスクロールする手が止まった。さっきの動画に俺の笑い声が入っていたのだろう。しかし俺が笑っていると嬉しいとは、どういうことなのだろうか。いつも身内の前では笑顔でいるように心がけているのに……。そんなことを考えながら半ば無意識に自らの口許に触れていると、いきなりザザさんに頬を抓られた。
「なになになにー! チーク落ちんじゃんやめろ!」
その指を引き剥がして彼を睨めば、「お前、笑ってるときが一番可愛いもんな」と笑顔で返される。あまりの脈絡のなさに面食らうが、その妙に穏やかな表情の前ではなんとなく気が引けて、これ以上はなにも言えなくなる。俺は彼の手からビールをひったくると、残りを一気に飲み干して「ほら、もう一本買ってきてよ」と彼を促した。
その後、サーカディアンに戻ったころにはとっぷりと日は暮れていた。とはいえ徒歩移動は多くなかったし、体力は有り余っているうえに空腹にもなっていない。元々軽装だったこともあり、俺はすぐにホテルには戻らず、昨日のように周辺を散策しないかとザザさんに提案した。こうやって体力を発散する方向に誘導しないと、この人はすぐセックスばかりになる。彼とセックスするのは嫌いじゃないし、むしろ相性だけは抜群だし、そりゃあたまにはそれ三昧の日があってもいいが、せめて旅行中は勘弁してほしいところだ。
駅前の大通りを真っ直ぐ二・五キロほど行くと、三叉の道のどこを通ってもファウル・リバーという大きな河川にぶつかる。そこに架かる全長約六百メートルのポリビアス・ブリッジは、ここのランドマークのひとつだ。この督国のエッセンスが香る優美な大橋を超えれば、ザザさんのいう『館シリーズ』が多く点在する文化的なエリアが広がる。美術館に博物館に映画館、それから大きいことで有名な図書館……高原地帯なので水族館こそないものの、十分に文化資本に富んでいる。デートに最適かは不明だが、郷土資料館もあるらしい。
とはいえ、もう夜になろうとしているのでそれら施設に立ち寄ってもゆっくりはできないだろうと踏んで、向こう岸の堤防一帯に広がる若いアーティスト向けの芸術区をちょっとだけ覗くことにした。堤防周辺の古い倉庫や、州都創建当時に作業員たちのために設けられた宿泊施設などを改装して作られたそこは、治安面に著しい差はあったものの、俺たちのアジトのある地元になんとなく雰囲気が似ていた。この長閑な街にも確かに存在している『イマドキの若者』たちのたまり場にもなっているのだろう、どこかから持ってきた廃材らしき巨大なコンクリ壁にライブペインティングをしている派手なファッションの若者もいれば、そのすぐ近くで油絵を売っている、絵の具で汚れたツナギ姿の若者もいる。ジャンルは違えど芸術と地元を愛する仲間ということなのだろう。どこにも派閥めいた空気を感じず、上手く共存しているのが見て取れた。本当に、治安悪化が懸念されているとは思えない。
そしてここにも例の自警団の腕章をしている男たちがいた。若者の溜まり場ということで警戒をしているのだろうか。何人かが俺たちに不躾な視線を送ってきたが、余所者なのである程度は仕方がないことなのだろう。
キッチンカーでハイボールを買い、指定の喫煙所でタバコをふかしながら飲んでいると、不意にザザさんが一歩、それからまた半歩と距離を詰めてきた。「なに?」と問えば、「いいから」と体側に密着され、窮屈に思いながらも受け容れれば、今度は肩を抱かれた。「いや、だからなに?」「マーキング」そう答える彼の意味深な視線の先に、なにやらこちらをじっと見つめている男の集団がいることに気づき、俺は咄嗟に拒絶の姿勢を和らげた。「マーキングだあー? しなくてもいいでしょうが」プラカップをスタンド灰皿の縁に置き、親密さを敢えて声に滲ませながらその頬に触れてみせれば、ザザさんも甘い声を出す。「いんや。いっそ名前書いとくかな」「どうやってだよ。彫る?」「流石にそれは若すぎるな。指輪、嵌めとくか」
するとザザさんは左の小指に嵌めていた一等高そうな指輪を俺の指に嵌めようとしてきたので、それは流石に不味いと焦って手の甲で押し退ける。だってこれじゃあ『意味』が生まれてしまう……。するとザザさんは一瞬傷ついたような顔をしたが、すぐに「なんだよ、ほしくねえのか」と指輪を持つ手を引っ込めた。
「いや……ソレ、大事なんでしょ。いつも嵌めてるし」
「……そうだよ。大事だ」
「じゃあなおさらダメじゃん。てか、どうせならペアリングがいいなー?」
ザザさんが指輪を嵌め直したのを確認してから、視線で「なにか不安があるならこの場を離れるべきではないか」と訴える。ザザさんはすんなりと「そうだな」と頷き、俺の肩を抱いたまま喫煙所の外へと足を向けた。しばらくそのままの格好で歩いて、そろそろ演技はいいんじゃないかと彼の脇腹を押せば、「サビ」と名前を呼ばれる。「なあ……昨日から考えてたんだが、あのラーメン屋で声かけてきた連中、いるだろ」
「あーね……」まだそのことを気にしているのか、と呆れながら俺は頷く。
「アイツら、なんで俺たちが中央から来たって知ってたんだ?」
その言葉に、俺は息を飲んでザザさんを見上げた。身長差は五センチだから、間近でばっちりと目が合った。
「おかしいだろ……観光客っぽく見えたとして、どこから来たかなんてわかるか? 仮にどっかから尾けられていたとして、地元がわかるような会話なんてしてなかったはずだ。……最初に声かけてきた男の前以外では」
なるほど、不可解だ。あのときは面倒なナンパ野郎どもから一刻も早く解放されたいという気持ちが強くて深くは考えていなかったが、確かに「同族のよしみで中央の話聞かせろ」だのと言われた覚えがある。
「ここからは俺の推測なんだが……自警団と例の人外族の集団っつーのはグルなんじゃねえか?」
そう続けたザザさんの考えの続きを聞こうとしたそのとき、背後から「ちょっと待てよ兄さんたち」と、声を掛けられた。その抜群すぎる間の良さに、俺とザザさんは振り返る前に顔を見合わせて笑ってしまう。「冴えてんじゃん、アンタ」「まあリフレッシュ休暇中だし冴えもするだろ」……そんな会話をしながら振り返ると、明らかにガラの悪い……いや、ガラ悪く擬態しているような男たちが複数立っていた。背後からも足音が近づいてくるのを感じ、一瞬そちらも確認する。その中に、昨日のマーケットで白い腕章をして警邏していた男も混ざっていることに気づいたが、まあここまで来たらそんな些細な気づきを披露するまでもない。
「きゃーんダーリンこわーい」
棒読みでそう言いながらこの中のリーダーらしき赤毛の男を見据える。すると俺と同じくザザさんも棒読みで、「オヤジ狩りかもなハニー。有り金置いてくかー」と言いながら首を回した。向こうが臨戦態勢なのは濃く香る瘴気からも明らかだ。
「おい白いの。お前、有翼種だろ?」
俺たちが迎撃をするつもりでいるのをとっくに察していたのだろう、赤毛が藪から棒にそう問いかけてくる。俗称で呼ばれた辺り、種族バレはしていないと思いたいところだ。
「地であんな跳躍かませるのは翼のある連中くらいだ」
なるほど、少年の風船を捕まえたときのことを見られていて、それで目を付けられたのかもしれない。
この世界で『天使』というのは激レア中の激レアとされており、滅多に姿を見せない。人前にも、人でなしの前にもだ。それゆえ有翼種は『天使』と見紛われることがあり、だからこそ『天使』に近い権能を行使できる。ホンモノの存在を証明できなければ、ホンモノに近いモノがそれらしく成り替わることができるというわけだ。伝承や都市伝説を利用したブーストシステムである。よって、有翼種はエクスペンシブ。その血の単価も、兵力としての利用価値もだ。
「なーる……噂をネタに自警団として片っ端から個人情報引き出したり監視したりして、目を付けたのを半グレとしてボコして確保することで『最近流行りの半グレどもの仕業』『自警団の自力救済』の一環として被害者を巻き込み、日常に融け込ますわけねえ。マッチポンプだ。……上手いこと考えたモンだわ」
敢えてペラを回しながら状況を確認する時間を稼ぐ。敵の数は見える範囲二十人弱。武器はナイフ程度の威力・間合いのものが半数ほど。あとは徒手だろうか。さすがに人通りがゼロではない場所かつ夜が賑わう時間帯なので、銃器はナシと見ていいだろう。
「なんだよそっちばっか注目されて。俺の評価額がいくらかも是非聞いてみたいモンだな」
ザザさんはとっくに相手を潰す覚悟を決めたらしく、拳を構えて適度に力を抜いていた。つまり、殺しはしないという意志の共有。なので俺もひとまず得物は使わないことにする。向こうが動いたら反撃だ。
「アンタのほうがスプレッズよりよっぽどレアなのにな」
俺のコメントに、男たちの意識がザザさんに向く。これで向かってくる敵の数がおよそ半々になれば楽で嬉しいところだ。とはいえ、俺たちは魔力の源である血液を抜かれて日が浅い。無理はしたくないが、果たしてどうなるか。
そうして、まず悠長な俺たちの態度に焦れたひとりが躓くように半歩前に出た。ここで突進できる度胸がない時点でザコ確定である。俺はまず見せしめのつもりでそのナイフを握ったあわてんぼうさんの懐に一歩で踏み込むと、その鳩尾に拳底を叩き込んだ。勢いよく吹っ飛んだ男は先ほどの喫煙所のクリア素材の壁に叩きつけられ、そのままずるずるとノックダウン。それを合図にするかのように背後から飛び掛かってきた一団のうち、ひとりには回し蹴りを。その勢いでもうひとりの首筋に手刀を入れて落とす。ザザさんを振り返れば、彼が放り投げたと思しき相手が川面にざんぶと着水したところだ。俺はそのさまを口笛を吹いて囃しつつ、ナイフを手に飛び掛かってきた男をしゃがんで躱し、起き上がりついでにその下腹に肘を打ち込む。そうしてよろけた男の襟首を掴んで次の一団への盾代わりに使い、ダメージを軽減。やがて盾の意識が落ちると、一気に重くなったその身体をザザさんに死角から飛び掛かろうとした男にぶつけて勢いを相殺する。堤防側にいるザザさんはその身体の重さ、そして一撃の重さを利用してその場からほぼ動かず、小気味よいテンポで水ポチャを繰り返しており、俺に向かって「こっち回せ」と促す余裕すらあるくらいだ。まだ霧に烟るほどの時間帯ではないが、水気の多い場所なのが彼にとって相性がよく、普段よりいくらか元気なのだろう。
俺も運動不足解消にほどよいと思ってはいたものの、流石にまだ本調子ではない。最初のほうは泡を食ってバラバラの動きを見せていた連中が徐々に連携を取り戻しながら向かってくるとなると、ギリギリのところで攻撃を躱すという場面が増えてきた。しかも増援もあったらしく、単独で十人は片付けたはずなのにまだ立っている敵がいる。面倒に思っていると、あの赤毛の男のナイフが、俺の突き出した拳を抉った。一瞬、一撃を食らったのを認めたくないような、切れていないと信じたいような心地で思考が停止しかけたが、拳にかっと熱を感じたことで即座に現実を受け入れる。よく研いであったのか、作った拳の第三関節のと第二関節のあいだがばっくりと裂けているのが見えた。
「クソッ。たりーな……!」
俺はそう漏らしつつ、裂けた拳を相手の顔面にブチ込み、アドレナリンが湧くのに任せてそのまま数発殴って落としてから蹴り飛ばす。血のぬめりで拳がしっかり握れなくなりかけているのを察し、着ていたシャツで乱暴に拭うと、その刺激が骨に響いた。骨までいったか。なにか塗られてないといいんだけど……興奮にふわふわし始めた頭で苦々しく思いながら、足技に比重を置いて反撃していると、徐々に肉を切らせて骨を切る戦法に傾いてしまう。どうにも、気持ちいい。俺には戦いの最中に、相手から攻撃を食らうのが気持ちよくなってしまうという悪癖があった。俺は俺のプライドとも呼べるスティレットを構えていないと、すぐにこうなる。人外族が興奮した際に濃く分泌される瘴気に含まれるフェロモンにやられてしまうのだ。そう、主に俺自身の。謂わばこれは、自家中毒である。
「ははっ」本意ではないはずなのに、濡れた笑いが喉から漏れ落ちた。「殺す気で来いよー」
俺のスイッチが入ってしまったのを明敏に察したのか、ザザさんが「サビ!」と鋭く俺の名を呼ぶ。それに対し平常心でいることを主張しようとするが「邪魔しないでください」と、呂律の回りきっていない欲求がまろび出てしまう。「とっとと殺せっつってんだよ役に立たねえ男どもが!」あ、本音が。「ごめん先輩、俺のこと殴って! 俺ちょっと危ないかも!」咄嗟になけなしの理性でそう訴えると、直後に彼の大きな拳が頬に叩き込まれた。思い切りがよくて大変結構である……というか、嬉しい。あと、しっかり気持ちいい……。意識が赤黒く色づいてゆくような感覚。見開いた目の奥で、バチバチと花が咲く。
「馬鹿野郎が!」
よろけた俺の胸倉を、ザザさんが掴んで引っ張り起こす。つい「ゲハハ」と声を上げて笑えば、「俺にお前を殴らせんな!」と額に向かって頭突きをかまされた。舌を噛んだ。「お前、血ィ足りなくて余計に瘴気回りやすくなってんだろ! ハイの自覚あるんだろうな? ああ!?」凄まれても怖くないというか、もっと来いよと煽りたくなってしまう。しかし今は敵がいる状況で、そんな状況で俺を殴ってくれる相手にエロがっている場合ではない。それは、わかる。
「武器、武器、いいすか。このまま素手はヤバい勃起する」
喘ぐようにそう訴えると、ザザさんが「俺の使え」と彼が普段扱っているレザービリーを手渡してくれた。
「アタマは出すなよ。いいな」
グリップの効いたそれをしっかり掴み、俺は「わかった」と返事をする。語尾のほうは笑い声であやふやになった気がしないでもないが、いくらか意識が戻ってきた感覚があった。
「ああもう萎えてえなあ!」そんなことを口走りながら、若干引き気味の敵を殴りつける。「あ、待って。萎えてえってことは既に勃起している?」脳と口が直結してしまっているので、まだ若干おかしい。おかしいという自覚があるので、些かマシではあるが。
「してねえしてねえ! たぶん勃起してんのは心のチンポだ!」
呆れたようなザザさんの声に、俺は「そっか」と頷くと、真面目に敵を殴る。殴り続ける。「……ねえ心のチンポってなに?」「気にすんな! 手ェ動かせ!」「チンポだから?」「あーもう! そうです!」「おっけ!」そうしてたったいま殴り飛ばした男の顔が、あのラーメン屋で声をかけてきた男だということに気がついて、うっかり転がった先まで追いかけて踏みつけてしまう。
「やめてくれ」男が呻く。
「え、ヤダけど」蹴る。殴る、蹴る。
「サビ、それ以上は死ぬ。やめろ」
すかさずザザさんから制止が入るが、彼も男の顔を認めると「まあもう一発くらいはいいか」と許してくれたので、駄目押しでもう一度蹴った。動かなくなった。
そうして流石にこれ以上は増援はないだろうというところまで片付けると、俄かにサイレンの音が聞こえてきた。人通りのある場所で乱闘していたのだから、流石に誰かしらが通報したに違いない。
「ふう……さーてどうすっかな」
先ほど名推理を披露してくれたザザさんだが、後先については考えていなかったようだ。それが彼らしいというか、今の俺たちにはお似合いの顛末というか。警光灯の赤に頬を赤く染めた彼がTシャツの裾で顔を拭うのを眺めながら、俺は「まあなんとかなるよ」と頷いて、スマホを取り出した。そうして手指の動くままに任せ、通話を掛ければ、それはすぐに繋がった。
「あー、ギカ? ねえ俺のコト愛してるんだっけ」
相手は勿論……元カレだ。
「んん? ああ、愛してるな。……なんだお前。息荒いぞ。キメセクでもしてんのか?」
若干動揺しているらしい彼はすぐに取り繕って茶化してきたが、その点は無視をして「愛してるんならさ」と、すぐに本題を切り出す。押し通すつもりで。「ちょーっと助けてほしいなー?」
そう強請る背後で、「動くな!」と警官たちの声がする。俺は片手を挙げながら、「お願い、ギカ」と囁く。「一晩でどう?」
すると軽い舌打ちののち、「お前、ホントこういうときしか連絡して来ねえよな」と、不服そうな声が返ってきた。「……好きにしていいんだな?」
返事の代わりに、手にしていたスマホを近寄ってきた警官に手渡し、通話をするよう促す。隣のザザさんが凄い顔で俺を睨んでいる気がするが、気づかないフリをしてその肩に凭れかかった。なんてったって、俺はいまクラクラしている。アドレナリンはドバドバ。あちこち血もダラダラ。オマケにむちゃくちゃムラムラしている。絶対に怒られると理解しつつ、その俺を拒絶しているかのように硬い肩に「ねえあとで抜いて?」と額を擦りつけると、震えた溜め息だけが返ってきた。
「じゃあいきなり襲われて、怖くて無我夢中で反撃したってことでいいな」
「そゆことでーす。怖かったあー」
結局、ギカがリニアに乗ってサーカディアン・バレーまでやってきて、地元警察が俺たちにする予定だった聴取を代わってくれた。もうとっくに夜だというのにご苦労なことであるが、その点は交渉内容に含まれているものとして特に謝りはしない。彼も地元での退屈な仕事をちょっと抜けてきたくらいの感覚だろう。交通の便がよくてなによりだ。そしてギカがわざわざ来てくれた尤もらしい理由としては、俺たちが中央登録のプライド所属ということで、そのほうが警察内部で話が通りやすいとかなんとか。とはいえ、俺としては他所で暴れたことに対して、事務局から咎められさえしなければどうでもよかったし、ギカもそこは考慮してくれるつもりだろう。地元警察から事務局によからぬ報告をされ、これ以上血を抜かれたのでは堪ったものではないし、仕事があるから拘束されたくもない。なによりザザさんに負担をかけたくなかったので、面倒な手続きを可能な限りスキップできるならこれが最善だと判断し、俺はギカに助けを求めたというわけだ。
「んで、少なくとも前日から目を付けられていたと。証言はラーメン屋の女性店主がしてくれそうと」
「たぶんねー。防犯カメラあったし」
「自警団と最近流行りの連中の癒着についてはこれから捜査すっから、とりあえず半グレどもを拘束するに足り得る被害だけ届け出すぞ。また話聞かせろって連絡あるかもしれねーがそんときゃ受けてくれ」
「はーい。協力しまーす。……つうかこの件、ちゃんと捜査するんです? 汚職警官さんよ」
「馬鹿いうな。これでもプライドあるハイエナなんだよ。昇進に使えそうなモンはバッチリ使うに決まってんだろ」
ほぼ素みたいな態度のギカと便宜上必要なやりとりをしているあいだ、ザザさんは俺の隣でずっと黙っていた。話を振られれば適宜答えるといった塩梅で、それ以外では腕を組んでなんとなく前方を見ているといった様子。俺は不機嫌にさせちゃったかな、申し訳ないな、と思いながらもこれが一番手っ取り早いことなのだと己に言い聞かせる。速きことは最善への近道だ。別に俺が勝手に元カレを頼ることくらい、ザザさんになんの引け目も感じなくていいはずなのに、俺は俺にわざわざ言い訳をしている。
「とまあ……聴取はこんなもんか。おいヒナ、とりあえず傷を手当して貰ってこい。痛そうだ。つうか、感覚あんのか? 明日以降でいいから診断書貰ってこいよ」
手元のタブレット端末を弄りながら、ギカは顎で俺の負傷した右手を指す。確かにアドレナリンが切れるにつれて徐々に痛んできてはいたが、軽傷の域だ。
「あるね。大丈夫」俺は手を握ったり開いたりを繰り返しながら頷く。
「そうか。……ザザさんは? どこか怪我、してますか」
ギカはザザさんと話すときだけ事務的な態度に戻る。というより、俺だけがナメられているのだろう。いつもそうだ。問いかけられたザザさんは「いや」と首を振り、それから「付き添うか?」と、椅子から立ち上がった俺を見上げた。
「平気。すぐ戻ってくるから待ってて」俺はそう言ったあと、「ギカとは無理に話さなくていいから。性格悪いんだよソイツ」と付け足した。それにギカは「ハッ」と声を上げて笑い、「取って食いやしねーよ。さっさと行ってこい」と俺を促して椅子を引くと、勿体ぶった挙動で脚を組んだ。もう聴取は終わりだという表明だろう。
それから俺はサーカディアン署の医務室で手当てをして貰うと、取調室に戻った。
「余計なこと喋った?」
俺がそんなことを言いながら室内に顔を覗かせると、ギカは「喋ってねーよ」と呆れたように頭を掻き、ザザさんは「タカギさんのお仕事についてちょっとな」と、そのままの姿勢で首だけこちらに向けた。
「汚職警官の仕事ぶりなんて知っても面白くなかったでしょ」
俺がそう言うと、ザザさんは「汚職……って感じの話はしてねえな」と眉を持ち上げ、椅子に座り直す俺の手の包帯をちらりと一瞥した。この人は一緒にいるときの俺の怪我を、些か深刻に捉える癖がある。俺は平気であることを示すために手をぶらぶらさせながら、「ねえもう帰っていい?」とギカに訊ねた。
すると「それについてなんだがな。一応俺が出たからにゃあお前らをこっちで保護するってことになってる。明日で帰る予定なんだろ? 俺がお前らと同じホテルの同じフロアに泊まって、明日そのまま送る。そうしねえと色々面倒でな。言うこと聞けよ」だなんて、若干の圧が込められた声音で念を押され、つい口をついて「うへえ」と不満がこぼれ出た。元カレと元婚約者。ギカと部屋は別とはいえ、三人同じフロアに泊まるだなんて罰ゲームでしかない。
「うへえじゃねえの。今回の件についてはギカさんからのご厚意が多分に含まれてるって忘れんなよ。まったく、一晩じゃ足んねーよガキが。人の気持ちを弄びやがって」
「使えるモンは使えって教えてくれたのはアンタだろうがよ」
「おうおう、学んでくれてありがとよ! ほら、行くぞ」
立ち上がった彼に促された俺とザザさんは取調室を出ると、それなりに丁重に見送られながら警察署を後にする。なんだかんだ立場ある大人なんだな、と今更気づいたみたいに元カレの横顔を見上げていると、おもむろに「お前ら、メシは?」と訊ねられた。
「まだっすー。奢ってくれるんすかー?」
俺がウザ絡みであることを意識してそう答えると、ギカは一瞬ザザさんを振り返ったあと「いや、別に奢ってもいいがお前らデートなんだろ?」と、謎の空気読みを挟んだであろうコメントをしてきた。「わざわざ休み取ってイチャついてるとこ邪魔しちゃ偲びねえ」
なんて言いながらも、前提がどうであれ俺とセックスすることについては悪びれるつもりがないのがこの男だ。案の定「俺のターンは来週な。土曜空けとけよ」なんてアピールをして憚らない。これは牽制というより、自身の権利の主張だ。俺は盛大な溜め息を吐きながら「はいはい」と相槌を打ち、それから彼の勘違いを訂正しようと口を開いた。が、しかし。
「いや。デートでは、ないんで」
突としてそう答えたのは、ザザさんだった。
「ん? そうなのか?」
なぜザザさんの言葉に対する疑問を俺に向かって投げかけてくるのかは不明だが、ギカは首を傾げて俺を見る。
「えーと……まあ、うん。たまには旅行いこうかって、その、まあ、流れで……」
なぜだか胸の辺りがモヤモヤとするが、事実なので肯定した。そうしてさりげなくザザさんの様子を窺えば、彼はポケットに両手を突っ込んで、待ち明かりにぼんやりと視線を向けている。これは、なにかを回避しようとしているときの雰囲気だ。そう直感して、なぜだか彼の裾を引きたいような気持ちになって、俺は息を潜めてザザさんのほうに手を伸ばした。しかしそのとき、
「そうかー。じゃあメシ行くか。なに食いたい? とはいえ、この時間帯だと選択肢も限られてくるだろうが……」
と、ギカが途切れかけていた会話を拾い直す。それでいくらか冷静になった俺は咄嗟に手を引っ込め、一歩前を歩いていた彼に並んだ。そうだ、俺はザザさんとデートなんかしていないし、ましてや付き合ってもいない。もう不都合な相手に見られてはいないのだから、恋人ごっこで装う必要もない。ただのトモダチだから俺から踏み入ったことなんて訊かないし、気にかけないし、ザザさんだって俺に対して同じようにしてくれている。そういう気遣いは、普段から確かに感じている。こうして一定の距離を保つことが俺たちなりの、友情だから。きっと、そうだから。
なぜだかくやしいくらいに目頭がきらきら街明かりを吸い込んでゆくのを感じながら、俺は元婚約者ではなく元カレに向かって、「アンタの食べたいものでいいよ」と忖度する。
すると俺のために来てくれた元カレは「どこが開いてるか調べてくれよ」と言って、俺の肩に腕を回してきた。そうしてその手の指先で、なぜか俺の目許を擦って笑う。ラメでも散っていたのだろうか。それとも血か。その繊細な指の動きに促されるようにして俺は、あとでイヤホンのことを謝るべきだなと意思を固めると、前金を払うみたいな気持ちで「ありがとね」と呟いた。直後、「泣くなや」という囁きとともに唇に唇を押しつけられたが、もう誰の目も気にしなかった。
END.