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【Once Rainy, Now Rusty】Ember.02 蛾になりすませば【 #ORNR 】

    ⚠これら創作はフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
    ⚠弊創作には一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)
    🌹登場人物の性指向はなんでもアリですが、今作は特に男性同士の関係性にスポットを当てております。
    ⚠弊創作物は文章、イラスト、グッズ問わず無断転載、AI学習禁止です。個人、企業様問わずAIに分析させたフィードバックについても固く禁じます。





     かつて運命だった男へ。
     かつて、俺の運命だった男へ。


     当たりじゃん、と評されることには慣れている。
    「あ、きょうはサビくんなんだ? 当たりじゃん」
    「そ。きょうは俺だよ。お仕事がんばってね」
     開店前のキャバクラで、更衣室の掃除をしていた俺に声をかけてきた人気嬢にそう挨拶を返しながら、フロアブラシでゴミを集める。色とりどりの抜け毛とつけまとネイルのデコレーションパーツ。ウリモノの女の子たちの新陳代謝を埃で汚れたダストパンの中へ纏めて、あとは捨てるだけ。
    「ちょっと待っててね。すぐ出るから」
     そう断っているのにもかかわらず、背後でお構いなしに私服のシャツを脱ぎ捨てる女に対し、呆れ交じりの溜め息をサイレントで逃がす開店前。今日は『本業』だ。
     ヘアメイク担当の美容師と擦れ違いながら更衣室を出て、店の奥にあるキッチンでゴミを捨ててから清掃用具入れに手にしていたものを押し込むと、俺はトイレで手を洗ってから受付カウンター内で事務作業をしているらしい黒服に「更衣室終わりましたー」と声をかける。すると「ありがとー。開店まで好きにしてていいよ」と、顔を上げずに促され、俺は誰からも見られていない笑顔を崩さないまま、「はーい。ありがとうございますー」と礼を言って裏口から非常階段へ出た。……夜風が強い。煤けたそれにぎゅっと目を瞑りながら後ろ手に非常口ドアを閉め、一度ぶわりと巻き上げられた前髪を手で撫でつけてから、ふうとひと息。そうして計三秒ほど瞑った視界をひらくと、そこにはいて当然みたいな佇まいのあの人がいた。
    「お。お疲れ」
     きょうもきっと間違っている、俺が買ってきたタバコを咥えて、あの人……ザザさんは目許を綻ばせると、俺をそこに誘導したいのか、二歩ほど横にずれてくれた。
    「お疲れっすー」
     短い挨拶を交わして俺もタバコに火を点ける。唇に挟んだ直後は甘いフィルターが、唾液に湿って徐々に甘味を失っていくのを目を伏せ感じ入るこのひととき。鼻腔を通って眉間の裏みたいなところに響くヤニに、いくらか覚醒したつもりでぱちりと目を見開くと、手元にずいと缶飲料が差し出された。顔を上げれば、あの人が眉をちょっとだけ持ち上げて、俺にこれを飲むよう仄めかしてきたので、素直に受け取る。ゴリゴリフライハイ(通称ゴリフラ)の、ピンキッシュキューカンバー味。俺の好きなエナドリである。
    「……まだ冷たい。買って待っててくれたんです?」
     細かい結露の浮かぶ缶の表面を指で撫でれば、つっと意図もなにもないただの線が商品ロゴをきれいに磨いた。
    「お前って、そういうの気づいちまうよな。気づかねえでいいのによ」
     不満そうな声を上げる彼は、それでも次の瞬間にはふっと笑うと、眼下に広がるネオン群を見下ろして、目が痛そうに瞼を閉じる。俺はその横顔をちらと窺い、「どうも」と我ながら素っ気ない礼を口にすると、缶のプルタブを持ち上げた。ほんのすこし飛沫いて、俺の親指の付け根に散るピンク色の液体。それを舌先で舐めとってから、そのエナドリを傾ける。……ああ、いつ飲んでもわけのわからない味だ。好きではあるが、美味くはない。
    「きょうはするか?」
     そうして目を閉じたままの彼の口からさらりと放たれたのは、いつも通りのセックスのお誘い。というよりは『交渉』か。そこに色気や情感豊かな含みなどはない。
     それに対して俺は、「わかんない」と正直な心情を吐露する。「でもまあ、いいよ。帰りは、一緒で」
     街灯りが眩しくて、目が痛い。俺も彼とおなじくゆっくりと瞼を閉じると、残り五分ほどの休憩時間をザザさんとふたり、ただ無言で過ごした。


    「お、お前チンポ舐めたことありそうなツラしてんなあ」
     これも『当たり』の意らしい。
     開店後約一時間。そろそろ一回転目の客が帰るか延長するかを決めるころ。現時点での会計金額と、延長した場合の基本料金が加算された額が併記してあるインボイスを表示したタブレットを持って、客の前に跪いた途端、そんな言葉が吐き掛けられた。
     男の隣に座っていた指名嬢は「ねえやめなよ」と男の肘に手をかけるが、俺は彼女に気を遣わせないよう、「ありますありますー」とへらへら笑う。なんなら、もうずっと舐めている。
    「じゃあ俺のチンポも舐めてもらっていいですかあー?」
     まったく、小一時間飲んだだけでなんという酒気帯び、およびそれに因んだ醜態だろうか。男の挙措からして、注意したって仕方のない酩酊具合を察した俺は、「それじゃあ指名替えになっちゃいますよ。ご法度です」と流してタブレットの画面を男に見せる。
    「お帰りでしたらこちら。ご延長三十分がこちら、一時間ならこちらです。今ですと、一時間ご延長いただければお客様のドリンクを一杯サービスいたしますが」
     俺の提案に、すかさず指名嬢が「ねえヤマちんともうちょっと喋りたい」と甘い声を発する。すると男は「えー、明日午前出社なんだよおー」とテーブルに突いた拳に額を擦り付けて項垂れる。しかし嬢はめげずに「じゃあー、ヤマちんはサービスのドリンク、ノンアルにしてちょっと休んでから帰りなよー」と、上手い具合に客を誘導してくれた。「じゃあ……延長しちゃおっかな? しちゃおっかな?」ぐわんぐわんとまるで玩具のように揺れる客が、その爪の先まで真っ赤になった手で嬢にお触りをかます前に「五番卓様、ご延長いただきました!」と声を張れば、黒服一同から「ありがとうございます!」と唱和がある。
    「ご延長ありがとうございます。お飲み物はいかがいたしましょう」
     営業スマイルは楽だ。俺の顔つきは作り笑いがしやすい造形で、ちょっと口角を上げれば愛嬌とやらが滲んでくれる。ああお父様、可愛く生んでくれてありがとう!
    「じゃあ、ウイスキーをなんかいいやつ、ロックでくれよおー」
    「やあだヤマちん、結局飲むんじゃーん! じゃあ私も付き合っちゃう! サビくん、エリナはモスコミュール濃いめね!」
     濃いめ、とは『ノンアル』の意である。
    「ウイスキーロックとモスコミュール濃いめですね。お持ちします」
     俺は一礼して卓に背を向けると、そのままキッチンに入り、中にいた黒服に「ウイスキーロックとモスコ濃いめですー」と告げる。すると咥えタバコのその男は「サビくん、ガンガンドリンク取ってくるねー」と、やる気のなさそうなコメントをしながら棚からグラスを取り出した。
    「まあねー、女の子バックあるし」
     俺は業務用の冷蔵庫と一体型になったカウンターテーブルの上に無造作に置かれている酒瓶の群れのなかから、中価格帯のウイスキーを手に取り、彼から受け取ったロックグラスにほんの少し注ぐと、残りは一番安い業務用のウイスキーのディスペンサーから数プッシュしてかさ増しをした。そのあいだにジンジャーエールとライムジュースを混ぜてくれたらしい彼から嬢のぶんのドリンクを受け取って、銀色の盆に乗せる。それからキッチンペーパーでちょいちょいとグラスに散った飛沫を拭っていると、
    「なあサビくん、終わったら空いてる?」
     と、キッチン担当の彼が訪ねてきた。
    「あのさ、サビくんて男イケんでしょ? ヤんない?」
     これも、彼にとって俺が『当たり』であるという意味。俺がテメエらのジャックポットやラッキーストライクの報酬であると規定する、カジュアルな呪いだ。
     そんなクソみてえな価値観に迎合するなんて御免な俺は、顔を上げずに「ごめーん、先約あるんだー」と、笑顔の口角を更ににゅっと持ち上げて、しかし眉尻は下げて、適度に申し訳なさそうな顔を作る。するとこれまで三回仕事が一緒になっただけの男は、「なん、カレシ?」と追撃してきた。しかし俺は、いい加減うっせえんだよ! 死ね! とは言わずに、「いや、トモダチ? どーだろ」と首を傾げて、流れでキッチンを出る。そうしてさっきの卓にドリンクを提供すると、別の卓から「お願いしまーす」と夜の世界ならではの呼びかけがあったので、笑顔で「はいただいま」と手を挙げた。
     キャバクラとは、とある東の島国が発祥の接待飲食店である。一口に接待飲食店と言ってもその種類は多岐に渡るが、中でも時間制の料金体系、指名制、そして嬢が客の隣に座るものを指す。キャバレーや高級クラブ、ラウンジ、ガールズバー、コンカフェなどと混同されることもあるが、それらはそれぞれ別の業態だ。簡単に言えば、女の子が接客してくれる飲み屋で、中〜高価格帯の店というイメージで差し支えなく、ゆえにこの街にもその数が多かった。
     俺とザザさんのプライドは、通常業務としてそんな夜の店の黒服として駆り出されることが少なくない。なんせここは人間と人外族が共生する、いま最も新しい国である。当然、客には人外族もいるということで、それは万が一なにかあったとき人間の用心棒では役に立たないことを意味する。ゆえに俺たちに『奉仕活動』として仕事を斡旋するエージェントは、そんな仕事を惰性のように取ってきては押し付けてくるのだが、文句は言えない。はい喜んで。はいご随意に。はいありがとうございます。笑顔で受注。そして遂行。肉体労働も感情労働も、仕事は仕事だ。金さえ貰えれば、俺はなんだっていい。
     そしてこのキャバクラ店『クラブ・メーヴェ』の人員不足を補うため、俺たちのプライドがほぼ固定で担当するようになって久しい。週末はメンバーの誰かしらが黒服を担当している持ち回り制で、俺とザザさんも頻繁にここのシフトに入っていた。
     この街の黒服の仕事は大まかにエスコート業内勤と、用心棒業に分別され、俺たち人外族に求められるのは後者の場合が多いのだが、大抵は二人以上で任務に就くことが多いため、俺はザザさんと一緒にいるときにはエスコート業を担当しがちだ。あの人は立っているだけで威圧感があるから用心棒にはもってこいだし、俺は説明不要な接待向きのツラ。適材適所というわけだ。特にこの店では、ザザさんはオープンから閉店までを店が入っているビルの出入り口に待機し、新規客が来れば内勤スタッフにインカムでそれを報告するまでが主な仕事で、稀になにか『問題』があれば武力行使に駆り出される。対して俺は、店内業務を円滑に回し、頻繁にセクハラをかまされるのが仕事だ。これが我ながら向いている実感がある。作り笑顔は得意だし、ペコペコ頭を下げるのは苦でもなんともないし、セクハラはダルいものの、店内なので滅多なことは起こらない。それに、なにより女の子たちが俺に好意的だ。きっと、似たような雰囲気を感じ取って一方的に安心してくれるのだろう。感情労働も性の売買も、商品側の連帯が肝要なのだ。
    「じゃあこれ、今日の分ね。サビくんのお陰で結構ドリンク出たよ。そのぶん包んでおいたからまたよろしく」
    「はーい、ありがとうございますー。またお願いしますー」
     閉店後、送りのドライバーに嬢たちを任せて着替えたあと、俺は店長から今日の報酬を電子マネーで受け取った。その待機列にはさっきキッチンで誘ってきたあの男もいて、俺はすぐ後ろで順番を待っていたザザさんが受け取りを終えるのを事務所の外で待つと、出てきた彼の腕を引いて「行こ」と促す。すると彼は一瞬だけ事務所内を気にするように振り返り、「なんだ、またセクハラされたか?」と肩を竦めた。
    「いっつもされてる」
     声が不機嫌になっているのを感じながらそう漏らすと、ザザさんは優しい声で「メシは?」と問うてきながら、エレベーターの呼び出しボタンを押してくれた。
     メーヴェは七階建てテナントビルの一番上にあり、エレベーターを降りるとすぐに店内に繋がっている構造。嬢たちは一階まで客の見送りをするマニュアルとなっており、だからこそエントランスにも用心棒が必要というわけだ。俺もセクハラやストーカー被害に怯える彼女らと同じように、この用心棒の隣でいくらかほっとした心地になってゴンドラに乗り込むと、「ごめんけど、まだわかんない。最悪フェラでもいい?」と、今しがたの問いと、開店前の休憩時間にされた問いの返事を一度に済ませた。我ながら脈絡がないが、要は「このあとも一緒にいるけどセックスは保留」という意味だ。しかし彼は「お前フェラ好きじゃないだろ」と謎の指摘をしてきたかと思えば、「俺はポテト食いたい」と気にせず我を通した。
    ──ザザさんは、俺に対して当たりとか外れとか言わない。
    「またポテト。アンタ、揚げた芋ばっか食ってると太るぞ」
    「ご心配どうも。これでもセックスで消費してるんでな」
    「知ってっか? セックスは運動にならねえんだとよ」
     俺は溜め息交じりにスマホを取り出して、周辺の開いている店を検索する。辺りは既に朝の兆しをみせ、空の端のほうには優しいヴァイオレットが溶け込んでいた。
     この歓楽街は、都心部からメトロで南西に三駅ほど離れた場所にある。クリーンで風通しの良い街を謳い、住みよく観光客にも人気であることを誇示する都心から数駅離れただけで、まだ整備の行き届かないインモラルでディープな『地元』が待ち受けているのだから、ここの都市構造は愉快だ。治安の悪い地域には治安の悪いところで生きていけるだけの逞しさのある連中ばかりが巣食っており、つまり人外族が多く、また人間であれば悪知恵が働く個人ないし組織ばかり。よって、なにか問題があれば俺たちプライドの連中が鎮圧に駆り出されることも多い。人間たち……いや、種族問わず住民たちに、俺たちプライドがどれほど周知されているかは当事者として不明瞭だが、扱いからしてなんとなく『たまに公的な仕事やボランティアもする不良集団』と思われていることは伝わってくる。それもあながち間違いではないから、特にイメージを払拭しようとも思わない。彼らから好意的に見られているかどうかについては、体感として全体の三割。よくて四割。一応所属ははっきりとしているため、自警のための必要悪(完全に見た目由来)として容認されているようだ。まあ、ここいらの警察が住民にとって役に立つかといったら微妙なので、そういう考えになるのも仕方がないだろう。
     なんだかんだでこの時間の外食の選択肢は少ない。それぞれの自宅のおよそ中間地点にある二十四時営業のダイナーで食事を摂っていると、
    「お兄さんたち、プライドの人ですか? どこプラ?」
     と、不意に隣のボックス席からそんな声を掛けられて、俺は後ろを振り返った。ソファの背凭れに乗り上げるようにしてこちらを見ているのは若い女で、その派手なメイクにはどこか不釣り合いなカジュアルファッションの、「お仕事お疲れ様です」と声をかけるべきだろう身形をしていた。そちらのテーブルを挟んだ向かいの席には誰もおらず、なのに隣には小学生と思わしき少年がいる。俺はザザさんと一度顔を見合わせてから、「そうだよー」と、子どもがいる手前、なるべく優しく答えた。
    「所属はTEMPテンプだね」
     ふたりともリーダーであることは、この場では不要なので言わない。
    「え、マジ?」
     存外にも、俺の返答に食いついたのは少年のほうだった。数秒前まで大人しそうだと思っていたのに、今度は彼のほうがこちらに食らいつかんばかりに背凭れに乗り上げてくる。まるでチワワかポメラニアンだ。
    「俺、デカくなったらプライド入りたいんだ! いまTEMPって激アツじゃん!」
     それは初耳である。
     少年は女に「コラ!」と制止されるのを意にも留めず、背凭れを乗り越えるより、通路側からこちらに回り込む判断をしたらしい。なにやらカードデッキなどが入っていそうなプラスチックのケースを抱えて俺の隣に滑り込んでくると、「ねえ入るときなんか試験とかあんの? なに食ったらそんなデカくなれんの? 女の子にモテる?」などと矢継ぎ早に捲し立ててきた。なので俺はまず、
    「キミ、彼のお母さん? お姉ちゃん?」
     と背後の彼女に訊ねてみた。すると「姉です。なんかすみません。コイツ恥ずかしがりだから私が代わりに質問したんだけど、心開くと早くて」と、女は困ったように眉を下げる。彼女がこの少年の姉だということを考えると、派手なメイクで埋没してはいるが、予想よりかなり若そうだ。これはある程度の事情がありそうだぞ……と察せられはしたものの、この街にはそんな輩がごまんといる。だから特にこの時間に子ども連れであることについて言及はしないつもりだったのだが、そんな配慮は俺の向かいの席でチリフライを摘まんでいた男が、「ガキが夜更かししてんじゃねえぞ。ガッコで居眠りしちまうだろうが」と発言したことで台無しになった。
     これには俺も思わず「うわ」と非難の目線をかのノンデリ男に向け、「ごめんね、この人子ども苦……得意じゃなくて」とフォローする。この男は子どもの扱いが不得手なのだ。きっと自分の精神年齢が子どもだからだろう。
     すると少年は「子ども好きな大人の方が少ないじゃん」と、驚くほど冷静なコメントを口にして、ザザさんのチリフライに手を伸ばした。その発言にぞっとした俺は、咄嗟に「食うな」と言いかけたあの人の脛を蹴ると、「俺は子ども好きだよー」と少年に笑いかけ、チリフライの皿を彼の手元に寄せる。
    「子どもはみんな本能で可愛いなー。にーちゃんが祝福してやろうか」
     そう言って揚げた芋を咀嚼している彼に手を差し出そうとすると、ザザさんから「おい、人外しぐさ」と指摘され、俺ははっとして手を下ろした。
    「うわ、これそっか」「そうだろ。人外の中でもレア種しぐさだぞ」「わー、アタマ出る前でよかった。ビビらすところだった。なんせ人間の子どもと接点ないもんなー……」「子ども大人関係なく、アタマは常にしまっときなさい」「さーせーん。うわー、無意識でワレちゃんみたいにしてたわ。似ててショックー」「ああ、音に聞きしちっちゃい姉ちゃんな」「姉というか、うーん」
     暫し身内ネタに興じてしまったが、少年は気にせず「ねーちゃんいんの?」と俺を見上げてきた。それに「まあ、まあ……まあ」と曖昧な返事をすると、彼は途端に同胞意識を芽生えさせたであろう眼差しを向けてきた。「ねーちゃんいるとさ、大変だよな!」
     スパン、とその姉から小気味よく後頭部を叩かれている彼の姿に、俺は思わず笑ってしまいながら「まあ、そうかもね」と、引き続き濁して返す。もう『家族』の誰とも会えないであろうあの人の前で、『もし生きていたらまた会えるかも知れない家族』の話を深掘りするのは憚られた。
    「なんでプライド入りたいの、キミは」
     少年とザザさんが、どちらがポテトを先に食べ尽くすか無言で競っているなかそう訊ねてみると、少年は「金稼げるから」と芋で頬を膨らませたまま答えてくれた。これには個人的に不快な過去の経験の数々が、濁流のように脳内に横溢しそうになったが、理性で押しとどめて「へー。じゃあ強くなって、頭もよくならないとだ」と返す。
    「え、プライドの人たちって頭いいの?」
     若干失礼な物言いだが、これは世論的に仕方がない。プライドの連中はその多くがお世辞にも治安がいいとはいえない身形でいるからだ。今の俺たちだってジャージから彫り物を覗かせているし、俺に至っては素肌にトラックジャケットを羽織っている。
    「実はいいんだなー、コレが」俺はそう返す。
     なんせ、俺たちは元公職。ある程度ふるいにかけられ選抜されたエリートなのだ。……まあ『元』ではあるのだが。
     ポテト代を支払おうとする素振りの姉を手で制しながら、俺は少年の頭上に反対の手を翳す。そして小声で「あなたを賛美します」と、口先だけで祝福した。こんなのはただのお祈り。ただの自己満。子どもは皆、好き勝手に生きるといい。
     それに姉のほうも、俺からしてみればまだまだ子どもである。
    「お姉ちゃんもこっち来る? 一緒にゴハン食べよ」
     そう言って誘うと、俺の背後にいた彼女も躊躇いがちに食べかけのグリルドチーズの皿を持って、こちらに移動してきてくれた。しかし座った場所は弟の隣……つまり俺の側のシートで、ひとり向こう岸に取り残されたザザさんは焦ったように、「カモン、マイエンジェル、隣カモン」と俺を手招きするが、ここは無視だ。
     言葉だけで「あっちのデカくて怖そうなオジサンはね、ザザさん。実際のところはあんまり怖くないから怖がらなくていいよ」とフォローして、「俺はサビ。なんて呼んだらいい?」と、二人にも希望の呼び名を教えてくれるよう求めた。ここで本名を尋ねるニュアンスにしなかったのも、また自己満。俺たちプライドのメンバーは、全員本名ではない名前を使っているので、慣習に合わせただけといえばそうなのだが。
    「俺、シュウタ」
    「えーと、ヒナミです」
     姉のほうは濁そうとしたようだが、弟からこれといった否定の反応がないので、結局本名を名乗ったらしい。
    「シュウタとヒナミちゃんね。よろしくー」
     俺はちょうど席に届いたストロベリーパフェを「食べる?」と、手で姉弟に勧めながら改めて挨拶をする。するとシュウタが迷わずに添えられていたカクテルスプーンを手にして、またしてもヒナミが律儀に慌てる。そんな彼女を視線で制し、俺は「ほら、TEMPって激アツだし。稼いでるから」と、シュウタの受け売りを口にする。そのまま他の料理もシュウタに分け与えていると、弟の食欲を恥じ入っているらしいヒナミが、
    「サビさんとザザさんはお仕事帰りですか?」
     と、気まずそうに話題を変えてきた。
    「そうだよ」俺が答えて、ザザさんが頷きを添える。「この辺りの飲み屋で黒服やることも多くてねー。周りにいない? プライドから来てる黒服」
     するとヒナミは「夜働いてる店にはたまにいますね」と頷いて、それから少し躊躇うような素振りをみせたあと、「あの、そういうお仕事をプライドにお願いしたいときって、どうしたらいいんですか?」と訊ねてきた。その発言に俺がザザさんを見遣れば、メロンソーダを飲んでいた彼は、「手続きも報酬も、まあ内容による」とストローを口許につけたまま答え、そのままその端的な相槌の補足をしてくれる。
    「秘匿性の高い仕事をさせたいときは専用のルートがあるし、中長期的な案件ならプライドを統括する事務局があるから、そこに掛け合ってみればいい。単発や日雇いは……まあその合間を縫って受けることになるからそのぶん受注率は下がるが、直接交渉でも。報酬は危険度や使う人数、拘束時間、あとはどのプライドに依頼するかによるな。俺たちは力仕事が多めだが、メカニックの固まっているプライドもあれば医療系もいたりで、特色に合わせて……ってことになるだろうが、その辺の割り振りをやってくれるのが事務局だからな。問い合わせフォームでも送ろうか」
     その解説に、ヒナミは長考の沈黙を浮かべてグリルドチーズを齧っていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
    「来月の第一週の日曜、海浜公園でイベントがあって、それに出演するんですけど、スタッフ兼警護をしてくれる人を探しているんです。おふたりのプライドに依頼ってできませんか?」
    ──彼女の説明によると、こうだ。
     ヒナミは普段、三人組の地下アイドルグループ『キーカラー・ティアラ』のイエロー担当『ヒイナ』として、日々アイドルとして大成することを夢見て活動している。主な活動場所は、数多のライブハウスとオタクカルチャーの融合した、若者向けネオ・アンダーグラウンド界隈として有名な電気街。彼女らの下積み期間は長く、自分たちで作詞曲や衣装制作を分業しつつ、つい最近までビールケースをステージに、街の電子部品店のテーマソングを延々と踊って呼び込みをしたり、スナックの小さなカラオケスペースで歌ったり、はたまた居酒屋で二日酔い対策サプリの売り子をしたりして草の根活動を続けていたようだ。メンバーそれぞれが夜の副業で稼いで活動費を捻出しながら、少しずつやれることを増やして約五年。そんな地道な活動がとあるイベント主催者の目に留まり、彼の企画するイベントに参加したことでそれが『実績』となった。そのお陰で、いくらかキャパのあるライブイベントにも出演できるようになってきたのだとか。右肩上がりとは言えないが、少しずつファンも増え、とうとう来月頭の日曜、海浜公園で行われるクラフトビールフェスのステージで歌えることに決まった。けして大規模とは言えないが、今までを思えば大舞台である。しかし、会場スタッフはいても無所属である彼女たちが雇っているスタッフはゼロ。これまでは自分たちでグッズを制作・手売りし、宣材写真の撮影や営業だって三人(そしてシュウタ)でおこなってきた。これまで通りならば、その少数精鋭体制でも胸を張ってイベントに参加できたはずだ。だがしかし。
    「最近、なんか、ストーカーみたくなっちゃってるファン? の人がいて……」
     沈痛な面持ちでヒナミはそう漏らす。「なんか、身体の大きな男の人で。どの現場にも来てくれるからすごく嬉しかったんですけど、なんか……メンバーの自宅付近とか、職場とかに『あれそうじゃない?』って人が出没するようになってきて……でもなにもしてこないし、確証もないし、本当にあの人だったらどうしようって」
     その「どうしよう」には、件の男へ特別な対応を取ること──例えば、出禁などだ──自体への迷いが滲んでいた。彼女たちのように小さなグループであれば、悩むのも無理はないだろう。ストーカー疑いがあれど、客は客なのだ。きっぱり突っぱねられるだけの知名度も、守ってくれる事務所も、彼女たちにはない。
    「今は生活範囲内に出没するだけですけど、こう、なにかの拍子にグラグラって、ムラムラってヘンな気持ちを抑えきれなくなったりとかして、もしフェスのときになにか滅多なことを起こされたら……私たちはなにもできないというか。会場のスタッフさんや、他の参加グループ……なによりお客さんに迷惑をかけたらと思うと……考えすぎかもだけど、不安で。だからせめてフェスのときだけでも依頼できないかなって」
     後ろ盾のない不安。懸念を抱くことへの罪悪感。前へ進むしかないからこそ気になる足許。それら感情には、俺も身に覚えがある。俺は彼女の話を卑近に感じながら、傍らのシュウタに視線を向けた。彼は口を曲げ、むすっとした表情でとうとう俺のストロベリーパフェを食べ尽くしたところだ。「もっと食う?」と俺が問えば、彼は「きょうはごちそうさま」と手を合わせた。不安なときでも沢山食べられる男は信頼がおける。身近な女の話を静かに聞ける男もまた然りだ。シュウタに向けていた視線をそのまま相対する彼に向けると、その静かで大きな男は、俺を見て片方の眉を持ち上げた。これは俺の提案を受け容れてくれるときの顔である。


    「うーん、どうすっかな」
     俺の独り言に近い呟きに、俺の上に覆い被さっていたザザさんは「おい今はやめろや。集中しろ」とその太い眉を寄せ、眉間に皺を刻んだ。
     結局あのあと、彼の家に帰って即ベッドイン。しかし考えごとで身が入っていない俺の態度にザザさんは不満らしく、「お仕置きしちまうぞコラ」だなんて言いながら、本腰を入れるように体勢を変えてくる。カーテンの隙間から白い陽光が差し込むこの寝室は、どこか水の中を思わせ、軋むスプリングの音は思案に耽るこの耳には遠い。俺の反応が薄いことがよっぽど気に掛かるらしい彼は、かえって散漫だ。ふたりとも、同程度に、散漫。しかし俺が「それ好き」と教えてやれば、すぐに気をよくしたらしい彼が、「知ってる」と吐息で笑って、その甘いところを重点的に突いてくる。
     ザザさんとセックスするのは、楽だ。慣れた仲なので互いにヤリたいときは恥じらいなく交渉できるし、身体の相性は贔屓目なしに最高。ルールも明確にしてあるので、性欲の解消という点ではかなり優良な相手だ。しかしこの『楽』さと確実にトレードオフになっている部分──ある意味欠落──が俺の中にはあって、そこさえなければと思わなくもないが、今後俺の人生にこんな相手は二度と現れないのだろう。
     その歯痒いところを敢えて言葉にするなら、俺はこの人とセックスをしたくないのだと思う。だってこの人は、俺のセフレではない。ましてや恋人でもない。セックスしなくていいならセックスするのにいい相手……という矛盾が、男のかたちをしているかのようだ。いつも半分義務みたいに誘い誘われて、もう半分はその義務をぐちゃぐちゃに壊しつくしてしまいたいという欲に駆られながら、押し倒し押し倒される日常。こんな関係になんてなりたくなかった。でももうこんな関係でしかいられない。あのとき……再会したあと関係なんて持たなければよかった。諦めないで全力で断って、なんでもないただの同僚として傍にいたかった。
     ぐちゃぐちゃ考えて、思い出したようにぼうっとして、わけのわからないまま快楽に流されて、根こそぎ奪い合って。なのにいつも終わった後は「こんなもんか」と、どこか冷めてシャワーを浴びる。ピロートークもハグも一緒に眠ることもほんとうはしたくない。なのに彼の隣だけは空けておけなかった。……この人は、ひとりにするとだめになってしまうから。
     俺がいなくても生きてこられたくせに。俺を置いて勝手に死のうとしたくせに。なのにこの人は、『今』になって初めてベッドの上で俺を抱き締めたとき、俺なしではいられなくなってしまった。そのことが、なぜだか手に取るようにわかってしまったから。
    「ほんと、最悪……」
     今日も濡れた身体を拭きながら、タオルで口許を覆ってそんな弱音を消音する。そうして、なにごともなかったような顔で彼の隣に戻って、タバコを吸って、眠る。目を閉じたあとしばらくして、俺が眠ったと信じた彼が、惜しむように俺の唇に指で触れて、唇からわずかに逸れたところ……ちょうどほくろの位置にキスをしてくるのを、明確に知覚しながら、俺はとろめくように眠りに落ちる。
     夜仕事が詰まっているときは、昼夜逆転生活になりがちだ。セックスのあと五時間ほど眠り、午後の遅い時間にふたりでアジトに出勤した。
     俺たちのプライドのアジトは、都市の中央を流れる運河が海と合流する汽水域あたりの、倉庫街の一画に構えている。この物件は地下階のある地上四階建ての工場兼倉庫をリノベーションしたもので、幅広の一二階の上に、ひと回りコンパクトな三四階が乗っており、そこをハーフバルコニーが囲んでいるという構造だ。一階から二階はフリーアドレスの事務スペース兼屯所となっており、バーカウンターやビリヤード、ダーツ、ゲーセンの筐体やプロジェクターなどといった娯楽がカオスに配置されている。三階はジムで、各種トレーニング設備が集めてある。そして四階が俺とザザさん専用のオフィスで、秘匿性の高い事務仕事や打ち合わせなんかはここでおこなう。まあたまにここでセックスもしてるのだが、俺とザザさんで買い上げた物件なので、誰に見つかったところでとやかく言われはしないだろう。
     その四階のオフィスで俺は出勤早々、まずザザさんに「けさの件について話していいですか?」と切り出した。さっきは「今はやめろ」と言われたので、今度こそ考えを整理しようというつもりで。すると彼は「いいぞ」と頷いて、こちらにソファへ座るよう促すと、タバコに火を点けて俺の隣に落ち着いたようだ。そのまま視線で発言を求められ、俺は彼に膝を向ける。
    「フェス当日だけ対策しても無意味だと思うんだよね。根本的な解決にならないから」
     連絡先交換をしたヒナミから送ってもらったフェスのポスターのデータと、彼女たちのグループのオフィシャルサイトを開きながら俺は続ける。「フェスまでおよそ二週間。このあいだにヒナミちゃんたちは二回現場に出る。まずは電気街の歩行者天国デーの一画で予約客向けのチェキ会。そしてここの隣の区の土曜マルシェで、ミニライブとフェスに向けたグッズ先行販売会。ここで事前にターゲットへの探りを入れておくべきかなと俺は考えてる」
     するとザザさんは、「何人入れる? 追加日数分の請求は?」と、プライド運営側として当然の疑問をぶつけてきた。
    「それぞれあんまり多くても目立ちすぎるよね。アンタのことは頭数に入れていい? スケジュールはいけると思うんだけど」
     この要請に、彼は「いいぞ。元からそのつもりだしな」と頷き、テーブルの上の灰皿を手繰り寄せてそこに灰を落とした。俺は「ありがと」と短く返事をして、新しいタブでヒナミからのメッセージを開く。
    「チェキ会の予約はまだ締め切っていないけど、現時点で三十人ほど来る予定。顔ぶれからしてここから大幅に増えることはないらしいのと、大規模な設営もないみたいなので、準備から撤収まで三時間か三時間半くらいの想定らしい。だから俺とアンタ、それからできればもうひとりかふたり置いて、対外的にこのグループにもスタッフが出入りを始めたことをアピールして防犯込みの牽制をしようと思う。宣伝にもなるしね。それからマルシェのほう。これは隔週土曜日に……あのご老人多めのエリアあるじゃん? そこの公園前通りで開催されている市場なんだけど、イベントステージ近くのブースに、俺の知り合いの店が出店してるみたいなんだよね。軽食とかビール売ってる感じの。そこにうちの面子をプラス何人か従業員として派遣して、近くからステージ周辺を監視できないかなと。今から交渉するから採用できる人数の目途は立ってないけど、まあ、スタッフチーム含めて五六人かな」
     こうして人数についての意見をまず整理。それから俺もタバコに火を点けると、鼻から煙を抜き、一旦リフレッシュしてからまた続ける。
    「で、日数追加および人員追加で発生する依頼料についてなんだけど。……俺が払うわ」
     この発言に、ザザさんは口を曲げて僅かに瞠目すると、「は?」と疑問符を添えた戸惑いの吐息を俺に投げかけてきた。その反応は想定内なので、俺は更に続ける。
    「いやさ、払えないでしょ。昼職の合間にアイドルやって弟養って夜も週二でキャバしてる子に。そもそもフェス当日の人件費だって彼女らにしたらデカい額でしょ」
    「……お前、ボランティア嫌いだろ」ザザさんは怪訝そうだ。
    「嫌い。金貰えない仕事嫌い」俺は食い気味に頷く。「わかってる。矛盾してるしお人好しだって。でも、弟養ってるからって、存分に暮らせなくたって、夢は諦めなくていい。だから俺が投資する」
     それはハッタリを込めた断定系だったが、彼は否定しなかった。
    「まあ、お前んトコは元々投資やって稼いでたプライドだもんな……その目利きは疑っちゃいねえが」ザザさんは硬い動作で頷くと、「お前が決めたんならそれでいいさ」と俺の膝を叩いた。それから、
    「じゃあ俺はダチ枠として参加すっかな。シュウタと同じ皿のポテト食ったわけだし。ダチのねーちゃんも大枠でダチだわな。俺のぶん見積りから引いとけよ」
     と、いつもの懐っこい笑顔で嬉しい言葉をかけてくれる。
     彼のその想定の範囲内なのに、同時に想定外でもある優しい反応に、俺は苦笑を漏らしながら「ざす。メシ奢るわ」と返して、まずは店をやっている知人に連絡しようとチャットアプリを開いた。
     その後、俺たちは今の時間アジトにいる連中に声をかけ、緊急会議を招集した。
    「おーし、じゃあまずは『キーカラー・ティアラ』というアイドルグループを知っている奴、挙手しろー」
     俺の第一声がもたらしたのはざわめきだけで、それらしい反応がないことは想定済み。「おいー、それでもオタクかお前らー」と敢えて偏見を口にしながら、普段はサブスクでドラマや映画を鑑賞するのに使っているプロジェクターで彼女たちのプロモーション動画を流す。
    「カワイイだろー。ちなみに俺の推しは黄色のヒイナちゃんだ」そんな茶々を入れるのは、俺の隣に立っているザザさんだ。
    「小学生の弟がいる姉ちゃんだ。男はみんなお姉ちゃん属性が大好きだろ。妹派は彼女が年下だということで想像力を働かせろー」「ねえ、うるせえって」「ピンクの子はリンリンちゃん。ピンクでツインテで眼鏡という特盛属性で大変デラックスだ。デラックスが嫌いな男はいねえー。そんで青の子はハユンちゃん。高身長ショートカット女子が嫌いな男もいねえ。わかるか? 男ならアイドルを推せー」「うんありがとうもういいからちょっと静かにしてくれな」
     俺の制止もあえなく、彼は謎の推しポイントを語り切ってくれた。しかしザザさんの紹介で若干興味が出てきたのか、メンバーたちが若干前のめりになっているので、悪くないアシストなのかもしれない。その雰囲気に乗って、俺は続ける。
    「キーカラー・ティアラは長い下積みを経てこれからシンデレラ街道を突っ走らんとしているアイドルの卵だ。そんな彼女たちから俺たちは依頼を受けた。内容については今から話すからちゃんと聞けよー」
     そうして俺は任務の概要を説明すると、参加希望者を募った。真っ先に挙手したのは俺の副官であるベルとナルという名の双子だったが、すかさず「こういうアイドルのスタッフにこういうサーファーみたいなイケメンはまずいと思いますー」と、特にディープなオタク組から声が上がったのでその意見を採用。「まあ、それはそうだわな」俺が頷くと、双子は背後を振り返ってグルルと唸って発言者に威嚇を始めたので、「ベルとナルにはフェス当日組をお願いしようか。大勢いるところならバイトの大学生くらいには見えんだろ」と宥める。するとふたりはパッと笑顔になって「大学生やります!」と声を揃えた。些か的外れな返事だが、元気で結構だ。
    「他にいねえのか、アイドル詳しいのは」
     ザザさんがそう呼びかけると、元々俺のプライドだった面子が、「俺らのアイドルはサビさんなんで? よそ見はしないっす」と煽るような口調で主張するものだから、ザザさんのほうの面子が「なんだよザザさんはアイドルたりえねえってのかよ」と立ち上がり、秒で両者額を合わせて一触即発。
    「たりえねえに決まってんだろ。オッサンだぞ」
     と、ザザさん本人から指摘があったが、こうなるともうこの血の気の多い連中は聞く耳を持たない。胸倉を掴み合って、どちらかが手を出せば、まるで突沸するかのように乱闘が始まりそうな雰囲気だ。
    「おいー、ジェントルマン。ジェントルマンだぞお前らー」
     しかし俺はそれには付き合わない。申し訳程度に注意をして、続ける。「最悪俺とザザさんだけでもいいんだけど、でもやっぱり誰か手を貸してくれると助かるな。こういう依頼をしてもらえるってことは、俺たちを認めてくれる人がいるってことだからさ。そしてヒイナちゃんの弟くん曰く『TEMP激アツ』だそうです。大きくなったらプライドに入りたいそうです。我こそはTEMP背負っていいとこ見せちゃる、ってイカしたお兄さんはぜひ参加を表明してください」
     すると、途端に空気がいくらか和らぎ、ちらほら挙手をする者が現れた。ザザさんが「まったくこいつらは」と満更でもなさそうに苦笑するのに、俺もつられて肩を竦める。
    「ありがと。挙手した人たちはちょっと残って。他の奴らももし彼女たちのことを気に入ったら、友人知人に布教してくれると助かる。じゃあ、お時間どうも。解散」
     こうして、その場は一旦締めくくった。
    「あれ、ヲロさんいないんだっけ?」
    「今ちょっと遠出の任務があってな。まあいても目立ちすぎるしな」
    「それもそっか」
     ザザさんとそんな会話をしながら、立候補してくれた面子をミーティングに適した長机のあるエリアに誘導する。それから彼らに改めて礼を言ってから、作戦概要を共有しながら配置を練った。ホコ天のチェキ会は、俺とザザさんの他に刺青や柄の悪さが比較的目立たない、主に事務系の仕事を請け負っているイザと、ウェスという爽やか男の四人が担当。マルシェについては、例の知人の店はふたりほど借りたいということだったので、そちらには酒やメシを作れて調理師免許を持っているジェオと、彼と仲のいいロビ。それからグッズの販売スタッフとして先ほど額を突き合わせていたルタとゼン。フェス当日は先述のメンバーに加えて、ベルとナルの計十人であたるということに決まった。
     それから俺は、まずスタッフ用のTシャツを急ぎで用意することにした。まさか私服(残念なことに、全員治安が悪めのセンスなのだ)で集まるわけにもゆかないし、全員分のシャツ代を彼女たちに出させたくもない。その場でヒナミにロゴ使用の是非を問い合わせ、快諾してもらったことに、ひとり「よっし」と声を上げていると、それを聞いたらしいルタがシャツの用意を請け負ってくれると言い出した。
    「さっきはすみません。サビさんオタクとしての自我が漏れ出てしまって」……なんともまあ殊勝で律儀である。
     俺は「いいよ。いつものことだし。でもタイドの面子とも少しは打ち解けてくれると嬉しいなー」と返し、彼にデザインと発注を頼むことにした。「ヘヴンの皆がちゃんと優しいって、俺知ってるからさ。期待しちゃうな」


     TEMPは、ザザさんの担当していたプライド『TEMPEST TIDE』と、俺の任された『TEMPTER'S HEAVEN』が合併してできた、比較的新しいプライドである。
     しかし腕っぷしが自慢で力仕事が得意なタイドと、頭のキレと器用さで回していたヘヴンの噛み合わせはお世辞にもよいとはいえず、最初のほうは事務局はなんで合併なんてさせたのかと訝しんだものだが、なんだかんだもう十年目である。仲良くしろだなんて強制はしたくないが、職場の人間関係なんてものは円滑であることに越したことはない。時折釘を刺すことや、柔軟であれと言い含める手間を惜しむつもりはないが、仕方がないことなのかもしれないという諦めは常にあった。
     まず、俺とザザさんはそれぞれの部下からの信頼が非常に厚い。合併に伴いリーダーをひとりに絞らなかったことについては、事務局はよい采配をしたといえる。しかしそれはカリスマをふたり抱えることにほかならず、カリスマとは得てして混じり合うことがない。完全にスタンドアロンな存在であることに意味があるのだ。しかしヘッドがふたりいると、どうしても派閥が生まれ、合併後に加入したメンバーも、タイドかヘヴン、どちらかの色に染まりがちだ。俺もザザさんも、相手方プライドの面子には平等に接しているからか、互いの面子からも一定の信頼は得ているようなのだが、どうにもメンバー間の派閥意識は拭えないらしく、個々人では仲良くしていたとしても、群体となると小競り合いが絶えない。とはいえ、強い言葉で縛り付けても意味がないというのが、リーダー間の共通認識である。ガキみたいな対立をしようと、結局のところ皆いい大人なのだ。ある程度放っておく方針でここまでやってきたし、今後もそれを『いい緊張感』と称して容認してゆくことになるだろう。いつかゆっくり、融け込むそのときまで。……なんせ、時間なら有り余るほどあるのだから。


    「ご延長はいかがしましょうか」「延長ー? いくらよ」「こちらです。上から三十分、一時間です」「じゃあアンタも一杯付き合えよ」「ええ、喜んで」
     今日も今日とて黒服業。ホールを回しながら延長とドリンクを掴み取り、せっせせっせと売上を伸ばす。嬢に稼がせ、多少のおこぼれを貰って、客と同僚からのセクハラを笑って流す。嬢へのお触りは禁止と客を窘めれば、代わりとばかりに尻を触られ、テーブルセットを下げに入ったキッチンでは、またあの男がしつこく「フェラだけでもイケない?」と手を合わせてくる。
    「フェラて。俺気持ちよくないじゃん」鼻で笑って返せば、「じゃあシようよ」と、なんの保障にもなっていない言葉が返ってきて、これは知能に差がありすぎるなと軽く絶望する。
    「いや昨日したからなー。お腹いっぱいだよねー」
     そんな適当を並べてホールへ戻るさなか、しょうもな、と漏らしたくなるのを堪えるアンガーマネジメントの六秒。すぐに切り替えて、笑顔で次の会計確認へ向かう。「ご延長いただきましたー!」
     嬢だって売り上げがなければ延長なんて微塵も嬉しくないだろうに、俺みたいな笑顔で喜んでいる。ああお仕事お疲れ様です。これは、お仕事です。
     その日は、ザザさんは非番だった。
     次の日も、彼は別の現場でいなかった。
     黒服の仕事中にあの人がいないと、なんとなく心が楽で、なのに気は休まらなかった。「手コキだけでも」と、懲りずに、そしてコミカルに頭を下げるキッチンの男に「必死じゃん」と笑って返す流れ作業中。尻や腰を撫でられる通常業務中。ずっとずっと不快だったけれど、なんにも苛立ちはしない自分が立派で、愛したくなった。だけれど終業後、着替えようとロッカーを開けたら着てきたトラックジャケットの袖にべったりと白い粘液がかかっていて、俺はその場に崩れ落ちそうになった。でも今ここで崩れ落ちたら、二度と立ち上がれないような切迫感もあって、俺は下唇を噛み締めながら脱ぎかけていたシャツのボタンを留め直した。『当たり』であることなんて、罰でしかない。
    「しょうもな……」
     ロッカーの扉に額を押し当てて呟く。そうして腐していないと、俺は俺を営業できない。……もう、営業なんてしたくないのに。
     日当を貰って外に出ると、俺は店前に出してあった回収前のゴミ袋の山のうちひとつの結び目を解き、そこに汚されたトラックジャケットを突っ込んだ。俺は商品だ。傷や汚れなんてあってはならない。袋をキツく結び直して、笑顔を作って、歩き出す。するとスマホに着信があり、あの人かと思って即座に手に取ると、ディスプレイには『客17』という無機質な表記が浮かんでいた。俺は表情が無くならないように気を張りながら、「はーいラスティでーす」と、ウリのときの源氏名を明るく名乗る。「今夜ですかー? いいですよー。はい、じゃあ今近くにいるんでー、二十分後とかいいですー?」
     俺は商品だ。俺は娯楽品だ。俺は嗜好品だ。売ってナンボ。できるだけ高く売ってナンボ。でもどれほど高値がつこうが、一度売られると商品として流通してしまう。ウリモノとしての商魂が、性根が、存在にこびりついてしまう。
    ──でもあの人は俺を。俺に対して当たりとか外れとか、言わなくて。そのことが、どれほど……。
    「大丈夫か、お前」
     いきなり聞こえてきたあの人の声に、はっとして我に返った。そのはずなのに顔が上げられなくて、顔が上げられないことで自分がオフィスのソファで膝を抱えていたことを思い出す。
    「大丈夫です」
     はっきりとした口調を心がけるだけの余裕があることで、やっぱり俺は自分に自信を持つ。でも視界はトラックパンツのブラックに覆われて薄暗いまま。……動けない。いや、動ける。俺は動ける。大丈夫って言えたから、大丈夫なのだ。
    「すみません、なんでしたっけー」
     そのままの体勢で、明るく返す。すると隣にあの人が腰を下ろす気配がしたかと思えば、「休憩するか」という静かな声とともに、肩を抱き寄せられた。
    「いやー、きょうはもう疲れたわー。昨晩は解体作業でよ。夜中の作業だから急ぎなワケで……。抱き枕ちゃん借りるぞー」
     そんなことを言って彼は俺を無理くり抱き締めると、そのままソファに横になったようだ。視界は依然として薄暗いままだが、色調は黒からあの人の着ていたタンクトップのグレーに変わった。お互い向き合って横臥するかたちとはいえ、大の大人ふたりで座面に寝そべるのは極めて窮屈。しかしその身体的ストレスが、いまはほどよかったりして。
    「そのまま愚痴聞いてろな。……そんでよ、急いでるから皆煮詰まってきてさ、現場の監督が『なんかこう、人外パワーでえいってできないの?』とか言い出して。『いやそれ人外ハラスメントすっよ』なんつって……」
     俺の旋毛に頬擦りをして、握った手のひらを繰り返し揉んだりして、まるで俺を猫かなにかのように扱いながら、ザザさんは昨晩の仕事について話す。俺はそれにぼんやりと、自分でも聞いているのかいないのかわからないままに耳を傾ける。ああいい声だ。耳に残るそのすてきな声は、もういないあの人にそっくりで、やさしくて深いところに響く。このまま眠ってしまいたくて無理くり目を閉じると、「起こしてやるから」と背中をさすられたような気がした。


     俺は壊れない。そもそもそういう造りなのだ。騎士団での俺の仕事は同族殺しのミゼリコードだったが、ずっとずっと平気だった。あの人と別れたときもちゃんと慣れたし、あのときだって狂わなかったし、脚を一本失くしたときも、痛かったけれどすぐに順応した。だから絶対に俺は大丈夫なのだ。経験則だから、誰にも否定できない。──誰も否定しないで。
     大丈夫、大丈夫、と胸の内で繰り返し唱えながらスニーカーの靴紐を結び直す。義足の左は少しきつめに。立ち上がり、爪先で地面を蹴って履き心地を慣らす。大丈夫。「大丈夫」。顔を上げて、ちょうどレンタルしたバンの中から衣装に着替えて出てきたキーカラー・ティアラの三人に向かって、「じゃあ今日はよろしくお願いします」と声をかける。それぞれから返ってくる挨拶は礼儀正しく、ロマンティックにフリル満載な衣装と合わさると余計に「いい子たちなんだな」という印象が強まった。
    「じゃあ簡単に自己紹介します」
     仕事用のタブレット端末を片手に俺がそう宣言すると、荷物の確認をしていた他のプライドメンバーたちも寄ってくる。顔合わせの場所は今回の現場、歩行者天国近くのパーキングだ。
    「俺はサビです。今回の依頼の責任者ということになってます。自分で言うのもなんですが、たぶん一番とっつきやすいんで、なんでも話してください」
     笑顔で自己紹介をすると、俺は持参していたカラーサングラスをかけた。俺は良くも悪くも目立つ容姿なので、それをいくらか隠すためにキャップも被っている。
    「それで、こっちの一番大きいオジサンがザザさん。この優しそうな……優しそうだよな? えーと、見るからにインテリっぽい彼がイザくん。説明不要な爽やかお兄さんがウェスくんです。それからヒイナちゃんの弟、シュウタくん。今日はこの五人で皆さんのお手伝いをしますんで、どうぞよろしくお願いします」
     プライドのメンバーと一緒に、子どもサイズのスタッフTシャツを着させたシュウタのことも紹介する。彼は照れたように手を握ったり開いたりしながら、「よろしくお願いします」と、俺に倣って畏まった態度で頭を下げた。これには和やかな笑いが上がり、掴みとしては完璧。きっと子どもの力で以て、彼女たちの厳つい男たちへの警戒度や緊張感も下げられたことだろう。
     それから俺たちの配置についてティアラの三人に説明し、歩行者天国へと移動する。事前にホコ天の管理組合に申請して確保していたらしいチェキ会場は、大通り沿いにあるメトロの三番出口の脇のスペースで、俺たちはそこに手早く受付を設置した。レンタルした三台の長机をコの字型に並べ、そこに被せるようにイベント用のオーニング付きテントを置く。そうやって作った日陰にまずは彼女らを座らせて、休んでもらっているうちにポスターや装飾用のバルーンで周辺を賑やかしつつ、チェキフィルムの開封と受付の手順の確認をおこなう。客には予約コードを提示してもらい、スタッフ側は前払いの受付手数料とチェキの枚数分の金額の二項目が支払い済みになっているかをきっちり確認し、チェキの追加希望があればその場で購入してもらうという流れ。その後、ファンは順番にお目当てのメンバーとチェキを撮ることになるわけだが、撮影の場は歩行者天国内で五分程度で戻ってこられる範囲なら自由。そこに撮影スタッフとして一人が付き添うことになっていた。
     歩行者天国解放の時間まで、スタッフ陣にはとりあえずチェキの練習として、それぞれ一枚好きに撮影をさせてみたのだが、皆はメンバーを撮っていたはずなのに、ザザさんだけは俺のことを撮ったようだ。作業中にその不意打ちを食らった俺は、「おい盗撮すんな」と顔を顰めたが、彼は「これ貰っていいんだよな?」と構わず笑って、まだ現像しきっていないそれをスマホケースに挟む。「……好きにすれば」溜め息交じりにそう返し、俺はスピーカーに繋いだタブレット端末で彼女たちの新曲を流し始めた。そろそろ受付開始の時間である。
     チェキ会は滞りなく進行した。キーカラー・ティアラの客層は幅広く、学生と思しき少年少女もいれば、草の根活動で獲得したと思しき中年や、中には孫を応援しているノリであろう老人もいた。とはいえ、メイン層は二十代から三十代で、男七割女三割といった具合。ごく一般的なアイドルファンのイメージそのままで、彼らはまだまだインディーズな彼女らを応援しているという自負があるのか、公式、手作り問わず推しのグッズで自らを飾っていた。
    「ではリンリンさん二枚と、集合一枚ですね。ではもうすぐ全員揃うので、先に集合チェキを撮っていただきます。シュウタくん、メンバーに声かけてきてください」
    「はい。どうぞ、こちらで、お待ち、ください……」
     受付は俺とシュウタが担当。シュウタの存在はファンに認知されているのか、「Tシャツかっこいいね」などと褒められる度に彼は嬉しそうにする。そして俺は、『推し』がいる人々が当然俺のことを『当たり』なんて言わないことに、どこか得難い安らぎを得たような気になりながら仕事に集中した。見られないことの、なんと心身ともに穏やかなことか。
     予約客がほとんど捌けたあとは、ちらほらやってきた当日参加客や、その場で興味を持ってくれたらしい見物客に宣伝をし、乗り気であるようならチェキ撮影に参加してもらったりした。忙しくない時間はメンバーとスタッフが和やかに雑談しており、俺はそれを背中で聞きながら次のイベントについて考えを巡らせる。……こんなふうに平和なファン層ならば、グッズ販売のブースにももう少し置けるものが増えるかもしれない。何事も賑やかしは大事である。通りすがりの客にも足を止めてもらえるようにホログラムディスプレイを置いて、公式SNSにアクセスできるコードと共にパフォーマンスの様子を映し出せばいくらか集客に繋がるのではないだろうか。幸い機材はうちのプライドにあるし、今日ちょっと残業すれば映像も用意できそうだ。──そんなことを考えていると、不意に視界に影がさした。顔を上げると、長い前髪とマスクで顔を隠した長身の男が受付の前に立っていた。その瞬間、背後にいるティアラのメンバーに静かな緊張が走ったのを感じ、俺も彼こそが例のストーカー男であることを察する。しかし俺はなにも知らない臨時スタッフの顔で、「ご予約ですか?」と彼に相対した。この段階で、みだりに刺激することは避けたい。「あ、予約なくても今なら撮れるんですけどー」
     すると男は「予約です」と小さな声で言って、スマホの画面を差し出してきた。
    「はい、確認しますねー」タブレットでコードを読み取り、内容を確認。各メンバー五枚ずつと、集合が五枚。一人あたりの上限いっぱいである。「はい、じゃあスタッフが一人……いや、枚数多くご予約いただいているので、二人で交互に撮りますね」俺はそう言って他の客と同じように案内をし、しかし対策としてイザとウェスの二人に撮影を頼み、抑止力としてシュウタにも行かせる。そうして彼らが受付テントを離れたところで、俺は撤収の前準備をしているザザさんを振り返った。
    「……行ける? それとも、俺が行く?」
     事前の打ち合わせで、俺と彼は件の男が現れたらその素性を探りに尾行を開始することに決めていた。俺の問いに、ザザさんは「顔を見られていない俺が行く」と返事をして、作業にしゃがんでいたところを立ち上がり、手早くスタッフTシャツを脱ぐと、彫り物を隠すために着ていたインナーの上にトラックジャケットを羽織った。そして「後でな」と短く俺に告げてから、テントから抜け出てゆく。
     その背中を見送る俺は、心配はしていないが自分にだけ聞こえる声量で「気を付けて」と呟くと、引き続きポスターに興味を持ったのか、テントの前で立ち止まった通行人に声をかける。今すごく頑張ってる子たちなんですよ。よかったらチェックしてみてください……。そんなふうに宣伝をしてフライヤーを渡しながら、尾行をしやすいよう周囲に融け込んで待ち構えているであろうザザさんの気配が完璧に感じられなくなっていることを察する。あの人は身体は大きいが、気配を消すのはかなり上手かった。
     その後、撤収作業を済ませた俺は、すっかりティアラの三人に絆された様子のイザとウェスのふたりともその場で解散して、車でメンバーとシュウタをそれぞれの自宅付近まで送った。道中、後部座席で「すごい、今回あんまり疲れてない」だとか「友達じゃないスタッフがいるなんてプロみたい」などとわいわい喜ぶ彼女らの感想を聞きながら、ひとりひっそりと笑みを溢す。一方的な同情心を抱いて身銭を切るだなんて馬鹿馬鹿しいし、それはある意味彼女たちを『買っている』ことにも繋がりかねなかったが、今の俺にできる権利を行使すると、どうしてもこういうかたちに落ち着いてしまう。どうか、皆が皆、誰からも『売らされる』なんてことになりませんように……そう祈りながらハンドルを握った。
     その後アジトに戻って夜勤のメンバーらと一服していると、ザザさんが戻ってきた。一見して負傷などはしていないようで、俺はそのことに内心安堵しつつ、「首尾はどうですか」と問い、まずは彼を近場のソファに座らせる。すると彼はポケットからタバコを取り出したので、俺はすかさず火を点けてやった。ふう、と掠れた吐息に紫煙が絡んで、一瞬だけ彼の顔が隠れる。
    「……お前も見てわかったとは思うが、あれは同族だな。それで……たぶんストレイはぐれ者だろうよ」
    ──彼の報告によると、こうだ。
     尾行の結果、例の男は電気街の外れのほうの日雇い労働者向けの集合住宅に住んでいるらしいことが判明した。窓越しに窺った室内にはキーカラー・ティアラのポスターやグッズがひしめき、いかにも執心している様子だが、ここまでは一般的なファンの範疇。しかし男が帰宅後、もう一度外出した先へも尾けたところ、彼はフードデリバリーのアルバイトをしているようで、その届け先のうち一件がなんとメンバーのひとり、リンリンの自宅だったという。ここのところのストーカー行為に用心してフードデリバリーという選択肢を取ったであろう彼女の裏をかくような行動に、話を聞いた俺は思わず「キッツ。キッショ」と漏らしたが、ザザさんによると、特に料理や門戸に細工をしたような素振りや、配達以降の待ち伏せ等は見られなかったので、リンリンへの報告はしなかったという。
    「まあキショいわな」
     キショで共感のひと息を入れて、彼は続ける。
     デリバリーの仕事はしっかり数をこなしているらしいその男は、きょうのところは不審な動きはしていなかった。とはいえ住処が割れただけでは成果として不足だとして、ザザさんはその後、男の顔も割ろうとしたらしい。鬱陶しい前髪にバケットハットを被り、黒マスクで顔を覆っていた彼が、その装備を少しでも崩さないかと張ることしばらく。男は仕事帰り、カフェで女と待ち合わせをしていたらしい。女の顔は見えなかったものの、おそらくは恋人。彼女に会うなりマスクを外し、帽子を脱いだところをザザさんはスマホで撮影をして、すぐに事務局のデータベースに照合をかけた。
    「ストレイとして公開されてる顔写真のうちひとつに、似た顔があった。……コイツだな」
     彼が突き出してきたスマホの画面を見ると、さきほど撮ったらしい写真と、軍服を着た『過去の』男の顔写真が並んでいた。「へえ、イケメンじゃん」そんな感想を漏らしつつ、俺は腕を組んで口を曲げる。これは厄介だ。しかし、仕事にもなる。
     ストレイ……それは俺たちのあいだでは脱走兵を指す専門用語だ。祖国の騎士団と軍が解体され、その構成員の大部分が、『ノド・プロジェクト』という『再教育』を受けることになったわけだが、その途中で逃げおおせた個体がいくらか存在するという。そういった彼らは人間界での個体登録をしておらず、謂わば戸籍がない状態となっているわけだが、そういった彼らを捕縛してプライドのメンバーにするなり、事務局に突き出すなりするのも俺たちの仕事の内のひとつなのだ。場合によっては『処分』することも認められているが、基本的には捕縛することが推奨されている。
    「ストレイか。馬鹿だね……なんでまたこの国に。俺らに捕まるじゃん」
     俺は脱力してソファの背凭れに寄りかかる。一方のザザさんは、
    「他の国では公式には人外族の存在、もとい居住は認められていないだろ。いるのは人間として社会貢献や納税をしている品行方正な奴らだ。アウトローが暮らすに楽なのは、いつだってこういうカオスな場所だって相場が決まってるもんさ」
     と、一定の理解を示して、俺と同じように背凭れに沈んだ。そのままふたりで一服ぶんの沈黙を共有していたが、先に口を開いたのは俺だった。
    「まあ……俺も逃げたかったよ。逃げられなかっただけで」
     他の誰にも聞こえないように呟くと、ザザさんは「そうか」と短く相槌を打って、溜めていたらしい煙を大きく吐いた。彼のそういう、時たまやけに空気が読めるところを非難したいような、それに甘えたいような。しかし今はそんな嗜好品みたいな思考に囚われているわけにはいかない。俺は立ち上がり、「次の現場の準備するよ。お疲れ様」と彼に告げて、四階のオフィスへと移動した。そうして自分のデスクに着くと、まずは雑念を振り払いがてら、広告に使う動画の編集を始めた。


     メーヴェの男性従業員用のロッカーは、正社員以外に個人用が設定されているわけではない。ヘルプスタッフはその日空いているロッカーを使うことになっており、貴重品は持ち歩くことを推奨され、加えて不法占拠などを防止するためか、鍵などという大層なものはついていなかった。夜の世界ではウリモノ以外のスタッフの扱いもまた杜撰である。店のバックについている経営陣や怖い人たち、ならびに客からマトモに扱ってもらえるのは、店の運営をしている管理職程度で、ウリモノと一般的な黒服の扱いは正味同程度。ここに性別の割引があるかどうかは店や業態によるが、個人的にはほぼ差はないと観測している。
    「サビくんって恋人いるの?」
     この店でももう何度目かわからない問いを投げかけてくるのは、待機中の嬢のうちひとりだ。多くの店には出入口付近に嬢の待機シートがあり、客がウリモノを物色するショウ・ケースのような扱いになっているのだが、基本的にホールでの嬢の喫煙は禁止であるので、彼女らが一服する憩いの場として、主にキッチン内が提供されている。ここで彼女らは客を帰したあとに一休みして待機シートに戻ってゆくのだが、店が暇だとたまり場になりやすい。
     そしてきょうは非番のあのキッチン担当くんの代わりに、俺がホールとキッチンを兼任してグラスと灰皿をせっせと洗っているのだが、平日のためか客の出入り自体は穏やかだった。
    「恋人かー。いたりいなかったりだよね」
     嬢たちが分けてくれたメンソールの女タバコを吸い、作業の手を止めず俺は問いかけに答える。するとその場にいた三人の嬢は口々に、「今は?」「言っても途切れなさそう」「バツついてる?」などと言って、愉快そうだ。それに対し俺は、「今はいないし、セフレはいるし、バツはついてない」と一纏めに返事をして、キッチンペーパーで手を拭いた。その流れで腕時計を見てチェック間近の卓がないことを確認し、今度は積まれたビールケースから冷蔵庫に在庫を補充する作業に移る。
    「え、セフレって男? 女?」
    「んー、両方?」
    「男相手のときってどっちなの?」
    「えー聞きたい? ソレ。面白くなくない?」
     否、他人の性事情はいつだってエンタメになり得る。それをわかって、俺は一旦否定を挟む。個人的なスタンスなど、こんな口先だけの場所で示しても意味なんてないのに。
    「いや聞きたいじゃん? サビくん美人だもん」
     そして不細工よりは美人のほうがエンタメ消費されやすい。……これは、世界の掟だ。
    「んー、まあ正直ウケだよね」
     嘘だ。俺は両方やる。しかし夜の世界の掟として、黒服と嬢の惚れた腫れたはタブー。発覚したら最後、双方中々の額の罰金を支払わされる挙句、オトコ側はよくてクビか異動、悪ければ……まあ、湾に沈んだりゴミ捨て場で見つかったりする。
     なので、先手を打つつもりでポジションを詐称する器用さくらいは、俺も持ち合わせていた。彼女らは俺の返答に一度声を合わせてきゃあと湧き、それからうちひとりが「なんで女もイケるの?」と指摘してきた。
    「まあチンポ突っ込んだらね、ある程度気持ちいい……までいくかは場合によるけど、流れに乗れるからね。女の子とは感覚違うかもだけど、消化試合みたいなセックスあるじゃん? そういう感じ。モテるからたまにそういうイベントが発生しちゃってるみたいな」
     これはモテない奴には一生わからない悩みで、ゆえに攻撃対象ともなり、世間的には贅沢とされていることを、俺はとっくに学んでいる。
    「あーあんま気持ちよくないけど濡れてはいるから成立してる的な? 義務セックス的な感じか」
     しかし、女からは共感されやすい。きっと彼女らの多くが、義務セックスをしているのだろう。
    「それ。いや、わかんないけどね? 男ボディだから」
     このひと言でまたひと笑い起きたので、俺は微かに安堵する。人間関係は円滑に。そういう社会参加ができているという実感は、俺をヒトっぽく擬態させる。ああ、ヒトっぽいということは、バケモノじゃないということだ!
    「ミチルさん、フリーの卓お願いします。ほらトリビーちゃんもディアナちゃんも待機戻ってー」
     徐ろにキッチンに顔を覗かせた店長に促されて、嬢たちが渋々とキッチンを出てゆくのを、俺は「頑張ってねー」と見送る。すると一二分ほどして店長だけが戻ってきたかと思えばタバコを咥えだしたので、俺は私物のスティックライターでその先端に火を点けてやった。
    「サビくん大変でしょ、モテるから」
     埃と油で曇った窓を開け放ちながら、メーヴェの店長はそう言って煙を噴かす。かなり重ための缶タバコだ。ロマンスグレーの彼はそれでも人間だから、実年齢は俺より断然年下。しかし俺の認識年齢が二十代であるということは、五十半ばの彼は俺より成熟しているということになるのだろう。
    「モテるのは大変ですけど、まあ女の子の話し相手は苦じゃないですよ」
     ビール瓶をダスターで拭き上げては冷蔵庫に収めながら、俺はひとり頷く。手に余る暴力的な性欲を向けられたりしない限り、なんとも思わなくなってから久しい。
    「そっかー。それはありがたいな。女の子たちみんなサビくんのこと気に入ってるから助かるよ」
    「それはどうもです」
    「最近なにかこの仕事で困ったことない?」
     そんな唐突な問い掛けに、俺は顔を上げて店長を見た。彼は顔に傷があることを目立たせないほど優しい……いや、静かな眼差しで俺を見据えて、発言を促すように眉を持ち上げる。
    「……ない、すねー」
     だってまだ一度しか精液ぶっかけられてないし。
     俺の返事は想定外寄りだったのか、彼は眉根を寄せて数秒沈黙したあと、「そっかー。ザザさんとは仲いいの?」と謎に話題を変えた。「色々、相談とかできる?」
     その発言の意図がわからず、俺は「まあ同僚なんで、それなり? には」と答えて、なぜか傾いでしまった首の角度を元に戻す。すると彼はふたたび、「そっかー」と相槌の語尾を伸ばすと、「正直な話をするとね、人外族さんの扱い……というか、どこら辺までが俺たちと同じで、どこがそうでないのか、俺はまだ掴みかねてるんだよね。五十年ちょっと生きてきて、まあ今までも同僚とかにいたんだけれどね。なんというか、俺たちとちょっと雰囲気違うなーって遠巻きに眺めてるだけだったから」と、少し真剣な様子で一歩身を乗り出してきた。
     しかし俺は「はあ」と曖昧な返事をする他ない。変わらず、意図がわからないからだ。
    「たとえば人間にされて嫌なこととか、平気なこととかあるのかなって」
     その問いに俺は、「それは、あんまり差はないと思います」と答えて、今度は自分のタバコに火を点ける。「そこは……人間と人外って差というより、社会の話なので、誰にどうされるってことじゃなくて、社会を生きる仲間の一個体としてどこまで尊重されるかって部分が、大きいんじゃないかな……」……たったいま発したこの言葉が、心からこぼれ落ちているものなのか、それとも模範解答としてそれっぽいことを並べ立てているのか、判別がつかないことに漠然と不安になる。しかしその揺らぎを上手く隠したいという気持ちだけは本当で、俺はにっと笑顔を作ると、「店長、優しいですね」と彼を讃えた。
     すると店長はまた静かな眼差しで俺の視線を受け止めると「まあ店長だからね」と苦笑して、俺の肩を叩いた。「なにかあったら話してよ。恋バナでもラーメンの話でもいい」
    「そんな、子どもみたいな」彼のワードチョイスに、俺は思わず笑ってしまう。
    「うーん、正直、俺の目にはキミは子どもみたいに見えるんだよ。たったいま社会性を勉強するために走り出したばかりの、思春期の、ティーンエイジャー……かな」
    「え、ガキじゃないすか」
    「まあね。ひとりで我慢しているうちはガキだよ」
     そんな、俺にとっては不服なことを言い残して、店長もキッチンを出て行った。しかし俺はザザさんからも『ガキ』と称されることが少なくはないので、きっと芯を食った表現なのだろう。
    「……ガキか。ガキ、やってないな」
     ひとりきりそう呟いて、俺もホールに出る。そろそろ延長確認をしなくてはならない。
    「お前、内勤でなんかあったのか」
     中日なかびなので早めに閉店業務を終えた帰路、ザザさんは唐突にそう切り出して、道幅の関係で一歩前を歩いていた俺を振り向かせた。そうして俺の注意が引けたことになにか思うところがあったのか、彼はほんのすこし怖い顔で、「話せよ」と促してくる。
    「いや? なんもないけど」
     今日はセックスしないよ、と余計な一言を付け足しそうになったのを堪えて、俺は前を向く。すると彼は「話してくれないと困る」とわけのわからないことを言って、俺を苦笑させる。
    「なーにが困るだよ。困んねえよ」
     そう言って笑う声はきっとごく自然体。だから軽口に昇華されるに違いないと信じて祈ってしまっている時点で、真実として扱うには破綻している。でもそんなことは俺には関係ない。だからいつまでも茶化し続けるのだ。おのれの生業のことは、なんでも。
    「困る」しかし、なぜだか彼は諦めない。
    「なにが。てか、どうであれ今はアイドルたちのことに集中してくれると嬉しいな」俺は帰路を往く。ぐんぐんと、構わず往く。
    「困る。正直、俺にとっちゃアイドルのことより、お前がいま困っていることのほうが重要なんだ」
    「なんで。そんなん言ったら俺はいつも困ってるよ」
     困る、という抽象的な言葉が飛び交って、なんだか可笑しい。笑いながらもう一度振り返ると、あの人はいきなり俺の肩を掴んできた。
    「お前、あのジャケットどうした。青いラインのやつ。買ったばかりって言ってただろ」
     彼はさっきより怖い顔をしていた。
    「……洗濯」口だけが動く。
    「じゃあ明日着て来られるか」
    「……は。なんでだよ」
    「正直に言う。このあいだ解体現場に行った日、終わったあとメーヴェに顔出そうと思ったんだ。まだお前がいたら、新しくできた深夜営業の店でラーメン食おうってな」
    「そりゃあどうも。捕まんなくて申し訳なかったけど」
    「……店の前のゴミ置き場にお前のジャケットが入った袋があった」
    「ストーカーじゃん!」
     突沸するように、俺は叫んだ。なんでかわからないけど、彼を非難するような大声が出た。するとザザさんは、「うん。ストーカーだな。ごめん」と謝らないでいいのに謝って、掴んでいた俺の肩から滑り落ちるようにして今度は手首を掴んで、それから素早く手を握ってきた。そしてどうしてか彼が心細いみたいに、目を逸らす俺の側頭部にふらりと額をつけて、ずしんと寄りかかってくる。
    「……メーヴェ、辞めるか?」
    「やめない……」妙に小声になるのを感じながら、俺は唇の下で歯を食いしばる。「俺は逃げない……」やめることも逃げることも誰も許してくれなかった。……あなたの他には。そうだ俺は、自らあなたの婚約者であることをやめた落伍者だ。つまらない意地を張ったところで、生涯この筋は通らないというのに。
    「そういう綺麗なところに俺は惚れたんだったな」
     いきなりなにを。俺が彼を睨むようにして額を合わせると、ザザさんはそのまま、「でも」と続けた。
    「綺麗なままでいさせたからだめになっちまったんだよな」
     あの、その、関係が? と、彼は絶妙な部分を濁して、へにゃりと困ったように笑う。ああ、セックスのときの距離だ。俺たちはキスをしないから、抱き合うときは額を重ねて、ごりごりと反発し合う。しかし今は、彼の額がやけに柔らかい気がした。
    「……自惚れんな。あれは俺の腰が引けたってだけだ」
     意識的に不機嫌な声を発しながら、俺は彼の胸に触れる。ぶ厚くて、刺すには手こずりそうな胸板だ。
    「──ここに俺のスティレットを突き立ててやる勇気が出なかった。ただ、それだけだから。でももう俺は逃げない。絶対に逃げない。次殺せって言われたら、たぶんやれる」
     俺はかつてこの男を殺すという仕事を全うできなかった。いつだって乞われれば誇りを以て仲間たちを苦痛から解放していたはずなのに、あのときはどうしてもできなかった。俺は最後の最後で、愛したこの人を殺せなかったのだ。……俺たちの関係は、それっきりだった。そういう愛し方はできないと、俺は彼から逃げたのだ。
    「……もう言わない。言わないさ、サビ」
     しかし今のあの人は慈雨みたいな声でそう言うと、最後ぐいと食い込んでくるように額を押しつけて、それからゆっくりと離れた。そのセンター分けのうざったい前髪から、ほんのりピンクになった額が覗く。
    「ああそう。……そりゃあ、よかった」
     こうして未だに優しくされても、俺は自己開示が得意じゃないから、その気遣いに迎合できない。懲りずにそっぽを向いてしまう俺の肩に軽くぶつかって先を歩き始めた彼は、「ラーメン行くぞ」と笑いながら俺を促した。それに無言で従いながら、俺はあのトラックジャケットを捨てなきゃよかったとほんの少しばかり後悔をする。いや、きっとどう足掻いたって捨てることを選んだだろうけれど、もう少し迷えばよかった。


     マルシェ当日は小雨が降っていた。午後には止むという予報だったが、地域柄マルシェは朝から昼過ぎにかけての開催であるので、生憎の空模様ということになる。しかしキーカラー・ティアラの三人は迎えに来た俺たちにも朝から笑顔で接してくれたうえに、差し入れと言って手作りの弁当を渡してくれた。
    「うっ……惚れそう……」
     車の中でメイクや着替えをしている彼女らの警護がてら、シュウタを含めたその日のスタッフ全員で駐車場に座り込んで、傘を差しながらその弁当を食べていると、調理師を持っているジェオがそう言って目頭を押さえた。彼の口癖といえば「いくら料理人でも他人が作った飯が一番美味い」で、だからかこの弁当は彼の胸に深く刺さったようだ。
    「惚れんな。罰金のうえ追放だぞ」
     俺は笑いながらそう牽制して、シュウタの紙皿に豚の唐揚げを盛ってやる。弁当は彼女らなりに量を多めに用意してくれたらしいが、男七人には少なくて、それがなんだか可愛らしかった。
    「ねーちゃんはやめといたほうがいいと思う。こえーから」
     そう言って笑いを掻っ攫っていくシュウタに、俺は自分の諸々を譲ってもりもり食べさせてやりながら、先日参加者を募集した際にやりあっていたルタとゼンを気に掛ける。並んだ彼らは無言でライスボールを齧っているが、一緒にタブレットを覗き込んでグッズの値段を覚えようとしているらしかった。それを微笑ましく思いつつ、俺はシュウタとミートボールを取り合っているザザさんに「ちょっと一服」と場を任せて輪から外れた。そうしてパーキングの端でタバコに火を点けると、スマホを弄るフリをしながら、今日は起動していない精算機のそばにある自販機のほうに身体を向けた。そこに例の男がいたからだ。
     傘を差していないその男は当然俺のことも認識しているらしかったが、その注意は主にバンとスタッフのほうに向いているらしかった。朝からご苦労なことである。出店者向けに開放されているパーキングは全部で三カ所あったはずだが、すべて巡ってきたのだろうか。俺はそんな分析をしながら一本吸いきると、男がまだそこから動こうとしないことを確認して、近くに寄っていった。そして「ちょっとすみませーん」と手刀を切りながら、自販機で人数分のスポーツドリンクを買った。計十本。当然、見るからに抱えるのにコツが要る量だ。だから、一本くらい取り落としても不自然じゃない。俺は男のほうに転がるよう、ペットボトルを落としたフリをする。そして「あ、すみませーん」と声をかければ、男は爪先にぶつかったそれを拾ってくれた。
    「ありがとうございますー助かりますー」
     男が俺の小脇にボトルを挟んでくれるのに礼を言いつつ、間近で彼を分析する。やっぱり間違いなく同族だ。覚えのない瘴気からして元同僚でもないことも確実だから軍属か。そしてなにより……強い。そんな確信があった。
     俺は皆が待つところへと戻ると、「いたぞ、ホシが」と声を潜めて報告した。ザザさんとシュウタ以外の面子がこれに反応しそうになったのを目配せで窘め、スポドリを配る。
    「ワッペン付きの黒いバケハ、白いロンT、グローブをしててワイドパンツとサンダル。あと黒マスク。見える範囲では茶髪。身長は俺より少し高いくらい。覚えて気にかけといてくれ。なにか危険行為に及ぶようなら確保だ。いいな」
     そう共有しながら、俺はシュウタが不安にならないよう頭を撫でた。沢山撫で回されて育ったのだろう、形のよい丸い頭だ。俺のそれを皮切りに、スタッフ全員がシュウタの頭を円陣のように撫で回すものだから、可笑しくて堪らない。シュウタは最初こそ照れくさそうにその小さな手で僅かばかりの反発を示していたが、やがて得意げな顔になってその激励を享受し始めたようだ。
     子どもの存在で連帯するというのは、知性体の美徳だと思う。俺たち人外族はその低い出生率のせいか、幼体を大切にする習性があった。だから子どもが苦手なザザさんも、その習性──本人にとっては慣習と呼ぶのが相応か──に則って今回協力してくれたのだろう。これをどこかあざといと称したい心地はあれど、あとでしっかり感謝しておくべきだと留意する。
     そうして俺たちはマルシェ会場内に割り振られたブースへと移動すると、そこで各自の持ち場に散った。俺はまず物販の設置をザザさん含めたブース組に任せ、出張担当のジェオとロビを伴って友人の店へと顔を出す。友人のダオンは飲食店を三店舗ほど経営している兵役帰りの体格のいい男で、俺を見るとハグで挨拶をしてくれた。
    「彼らがウチの料理上手たちね。場合によっちゃ途中抜けするかもだけど、いい奴らだからよろしく」
     俺が二人を紹介すると、ダオンは「お、動けそうな連中だな。はいこれ着けてくれな」と彼らに店のロゴが入ったキャップとエプロンを渡してそう促した。そして二人がテント内に入り、店のスタッフたちに挨拶をするさまを遠巻きに眺めていると、不意にダオンに肩を叩かれた。そのままちょいちょいと手招きをされ、三ブースぶんの広さがあるテントの端の、その外側に移動する。
    「俺は伝言頼まれただけだけど」
     そんな前置きに、俺はなんとなくその内容を察しながら、頷いて腕を組む。
    「アイツがヨリ戻したいってさ」
     彼の申し訳なさそうな態度のお陰で、俺は声を上げて笑うことを抑えられた。
    「ハッ。それ伝言で済ます奴があるかよ。やらしーねー」俺は鼻で笑って、ダオンに差し入れのタバコをカートンで渡す。「いつもごめんね。あの男には流されたって言っていいよ。どうせヤリたいときは押しかけてくんだから……まったく」
     俺はあの男にとっての『当たり』だから。当たりというのは、どうやら手を離れた際に惜しむべきものらしいから。
     溜め息を吐く俺に、ダオンは同情の滲む眼差しを向けると、「サビくんも大変だね」と苦笑いを浮かべた。それに同調し、俺も眉を寄せる。共通の知人というのは交友関係を拡げるが、時折面倒ごとも引き寄せるものだ。俺は彼と拳を突き合わせると「アイツらよろしくね」と、それだけ言い残して自ブースへと戻った。
     雨のためか、会場後の客入りは穏やかだった。チェキ会に来ていた顔ぶれが殆どで、彼らは店頭で手ずからグッズ販売をするメンバーに差し入れをしてくれたり、楽曲の感想などを語ったり、または手紙にしてくれたりと、中々によい雰囲気でこちらの気が立つことなどなにもなかった。そして俺が用意したホログラムディスプレイも好評で、キーカラー・ティアラを知らない参加者もその写真を撮ったり、ブースを覗いたりしてくれたので製作者としては気分がいい。物販担当のルタとゼンも、滞りなく注文されたグッズを用意しては受付に立つメンバーに渡しており、先日の一触即発の雰囲気を引き摺っている様子は見られなかった。途中、休憩に立つゼン──元々ザザさんのプラメンだった男だ──に、コーヒーとタバコを渡して「ありがとね」と声をかけると、彼は「どうも」と落ち着かない様子で頭を下げた。
    「俺、別にサビさんが気に入らないとかじゃないですよ」
     不器用に舌を縺れさせながらそう言ってくれた彼に、俺は「わかってるよ」と微笑みかける。「面倒だよね、家族って」
     俺の言葉に彼は「そう、ですね。そうです」と二度頷くと、「あの、差し入れ、どもっす」とぎこちなく礼を言ってさっとブースを離れたようだ。その背中を見送っていると、不意に背後にザザさんの気配が。振り返ると、そこにいた彼は「なんだ、アイツやけに素直じゃねえか」と苦笑いで眉尻を下げたようだ。
    「アンタんとこの面子が素直じゃなかったことはねえよ」
     俺はそう言って、ゼンに笑顔を見せるために下げていたマスクを指で引き上げる。それからブース内のメンバーに向かって、「そろそろ控室に移動しましょうか」と声をかけた。そろそろ昼のステージの準備が始まる頃合いだ。
    「例の男がいた。俺は暫く控室前にいる」
     ザザさんからそんなメッセージが送られてきたのは、彼がティアラの三人を演者の更衣室兼控室のテントまで送り届けに発った数分後だった。
    「了解。頼んだ」
     既読になることは期待せずそう返信して、俺はメンバーの代わりに受付に立ったルタと、休憩から戻ってきたゼンにその旨を耳打ちし、友人のブースにいるジェオとロビにもメッセージで共有した。そしてスタッフ側で唯一そのことを知らせないつもりでいるシュウタに、「腹減ってない?」とまったく違う話題を投げかける。子どもをみだりに不安がらせても、よいことなどなにもない。
    「減った!」
     先ほどライスボールを三つも平らげたとは思えないほど素早い返事に、俺は「じゃあ兄ちゃんとメシ買いに行こう」と笑顔でシュウタに手を差し伸べた。すると彼は「そういうトシじゃないんだけど」と微かに頬を染めたが、それでも着いてきてくれるつもりなのか、皆の貴重品を纏めていた箱から自らのボディバッグを取り出して身につけてくれる。それに対し俺は、子どもに金を出させるつもりはないと内心笑いながら、彼の肩を促し、傘に入れた。
    「なに食いたい?」
    「肉!」
    「だよなー。えーと、肉系のブースは……」
     傘のせいで膨張した人混みのなかを、シュウタと離れないようにしながら、俺はスマホでマルシェの公式SNSを開いて店情報を探す。今のところ最新メッセージは誰からも入っていない。
    「えーと、ハンバーガーと、ステーキ弁当、ラップサンドに角煮丼……」
     俺が候補を列挙していると、シュウタはその途中で食い気味に、「ステーキ!」と迷いのない眼差しで俺を見上げた。そんな彼を堪らなく可愛く思いながら、俺は「よっしゃ、じゃああっちだ」とその店のほうに足を向ける。するとその瞬間、知り合いと擦れ違ったような気がして、俺は無意識のうちに足を止めた。
    「サビ?」
     シュウタが不思議そうな声で俺の裾を引く。俺は反射的に振り返った視界の中に、覚えのある後ろ姿を探そうとしたが、人の多さでままならなかった。並みの人より頭ひとつ視座が高い俺が追えなかったのは、気のせいだからか、はたまた関係が薄すぎて気づくのも無意味な相手だったからなのか。
    「サビ、どうかしたの?」
    「んー、いや、なんでもない……」
     不安そうなシュウタにそう返して、俺は再び歩き出す。なんだか嫌な感じがするのは、先程擦れ違ったのが『副業』の関係の誰かではないかと疑っているからだ。ウリモノは、日常生活にその仕事が侵食してくるのを恐れる。いつ身バレするか。いつあることないこと吹聴されるか。いつわけのわからない『リベンジ』を強行せんとする輩が現れるか。……いつだって、怖い。
     昼食にステーキ弁当を五人分買って帰ると、ザザさんはまだ戻っていなかった。ジェオとロビの一日の諸々の面倒はダオンが見てくれるというので、俺とルタとゼンは、交代でシュウタと一緒に食事を摂ることにした。職業柄、急いで飯を食うことには慣れている。シュウタに肉を半分ほど分けてやり、飲むように弁当を食べてゼンと交替。ルタと一緒に店頭に立って接客をしていると、ものの五分でゼンがルタと交代した。やはり皆、食うのが早い。苦笑しながら振り返ると、シュウタの弁当はいま食事を始めたばかりのルタと、先ほどのゼンも肉を分け与えたであろう、デラックス仕様になっていた。
     その後、シュウタの食事の面倒を最後まで見てくれたルタと交代すると、俺はシュウタとステージ近くに移動した。プログラムのトリ前に組まれたキーカラー・ティアラのステージを彼に見せてやるためである。俺が数少ない座席を逼迫するわけにもゆかないので、シュウタといるのに適した鑑賞位置に迷っていると、なにか愛好会でも企画されているのか、ティアラファンのグループがシュウタを手招きしてくれたので、会釈をして彼を行かせた。それから俺はステージで流れる幕間の音楽が、キーカラー・ティアラの登場BGMに変わったのを背中で聞きながら、ステージ裏の女子控室テント前に顔を出した。するとそこにはあの人がいて、俺は「おつー」と声をかけながら、持ってきた弁当とペットボトルの茶が入った袋を彼に渡す。
    「ん、ありがとな」
     それを受け取ったザザさんは、ステージ音楽が大音量のためか俺のパーソナルスペースに一歩踏み込むと、「まだいる」と俺に耳打ちしてから「会いたかったぞマイハニー」と言って俺を抱き締めてきた。即座にそれが演技だと察した俺は、彼の背を一瞬抱き返して「おいー、外ではやめろってー」などちょっと揉みあう素振りを挟みつつ、声量を落とした。「どこ」「俺の後ろの救急車両の脇」「あー、いる」「ずっとあそこにいるんだよな」「へえ……」
     彼の言う通り、テントから五メートルほど離れた位置に待機している救急車両の脇には、例の男の姿がある。スマホを弄っているようだが、もしかしたら向こうのそれも演技かもしれない。ザザさんがその場にしゃがみ込み弁当を開けるのに倣って俺も膝を折ると、「ステージ、観ないのかな」と疑問を口にした。
    「いやー、推し活より異端分子の監視のほうが奴にとって重要なんじゃねえか。もしかするとそれも推し活の一環なのかもしれねえが」
     そう分析する彼が弁当を食うのを見守りながら、俺はタバコに火を点ける。テント脇には演者のためかスタンド灰皿が置かれているので、喫煙可能エリアなのだろう。
    「異端分子、ねえ……やっぱ男が近くにいんのが気に入らねえか」
    「かもな。俺に下心がねえか見張ってんのかなんなのか」
    「下心あんの?」
    「ねーよ。可愛く思ってもガキにゃ興味ねえ。ましてや人間のガキなんざな」
    「そりゃあなにより」俺は手を伸ばして灰皿に灰を落とす。「つーか、ここはまだしも、どうして自宅含む生活範囲を知ってんのかな」
    「さあ……尾けたか、リークか」
    「リーク」その単語が妙に引っかかり、俺は首を傾げる。「誰が?」
    「知らねえよ。二択じゃねえかって意見でしかねえ」
     確かにそうである。念のため事前にメンバーのSNSをチェックしたが、投稿内容におけるリテラシーは充分だった。なにげないポストでも画像の背景は専用ツールで加工してあったし、食器などへの映り込みもしっかり消してあったのだ。ヒナミがあの男に「出没」という表現を使っていたことからして、彼女らがこれまで尾行されていると疑った可能性は低い。それはあれほど大きな男が尾行をするなど(成功するなど)有り得ないという先入観からくるものかも知れないが、感覚的に『出没』と『尾行』がリンクしないということならば、その表現の差が意味するところを信用してもいいのかもしれない。一方で、男が余程プロフェッショナルであるという見方もできるが、であればザザさんの尾行に寸分も気づかないものなのだろうか?
    「リーカー、ね……」俺は顎を揉む。やはり、そこが妙に引っかかるのだ。「今一度メンバーに話を聞いておこうかな」
     それから俺はザザさんと別れて観客席側に戻った。スタッフの一員として、ステージの感想をメンバーに伝えてやるべきと判断してのことだ。演目は四曲で、俺は最後の一曲しかきちんと観ることは適わなかったが、直前のMCや曲中の煽りも悪くないし、ステージ前に集まった二十人ほどのファンも行儀よく、そして迷惑にならない程度に目立つ盛り上がり方をしてくれていた。彼女たちの活動範囲を思うと、驚きの治安のよさである。なにより、メンバー全員に不足ない愛嬌がある。これは『発見』されるのも時間の問題だろうな、と分析しつつ、俺はキーカラー・ティアラの演目終了後、真っ先に物販に来てくれたファンのうちひとり(本日二度目の来店である)に、例の男の特徴を伝え、交流がないか訊ねてみた。するとそのファン歴四年という古参ファンは、
    「ああ、あの大きい人。ここ二年くらいで見るようになりましたね。一度声をかけてみたんですが、なんというか、人と関わるのが苦手なようでしたので、それ以降声はかけていないですね」と語った。「他の人もそうだと思いますよ。しかしまあ、推し方は十人十色ですから」
     終演後は雨が止んだこともあってか、思ったより客足が増えたので、完売するグッズが出てきた。元々そこまで数は作っていないようだったので想定内ではあるが、俺はその度に完売した旨を大声で宣言した。宣伝も兼ねて、どこかでこれを聞いた男が買い物をしに寄ってくることを期待してのことだったが、残念ながらその日はブース周りにあの男は姿を現さなかった。
     そして送りの車の中、俺はメンバーに「周りにアイドルやってるって言ってるんですか?」と訊ねてみた。すると彼女らは一様に、家族と仲のいい友達には言っている、と答えたので、俺は首を傾げる。流石に家族や友人を疑いたくはない。しかし感情論を排してみたところで、そこのみを疑うのも視野が狭いような気もした。
     であれば、彼女らの意識の外にいる人物を疑ってみるのもいいかもしれない。
     そう考えた俺は、今一度彼女らの職について訊ねてみた。全員が昼夜兼業。昼は事務や接客、夜は皆キャバクラ。以前聞いた内容と変わりはない。だがしかし。
    「……キャバやってるのって、皆さんどこです?」
     そう問うてみると、全員が「レコナーズ・ステップ」と揃ってあの歓楽街のある地元の区の名を口にした。
    「レコナーズ……」俺は繰り返す。ここは嬢たちから歯車と認識され、知人の頭数としてカウントされていないであろう黒服を疑うべきか。とはいえ、彼女たちは同じ店で働いているわけではない。であれば、出入り業者? いやしかし、出入り業者と嬢が会話する機会など普通はない。
    「複数店舗に出入りしていて、かつ嬢たちと雑談などができる立場……」
     俺の独り言に、ザザさんは「うお、びっくりした」と漏らして、それから「まーたずっと考えてんのか」と俺の頭を撫でた。それで俺は自分があの人の自宅のベッドの上で寝入る直前だということを思い出し──というより直感し、驚きに上体を起こした。俺はよくこうして意識が飛ぶことがある。……ぶっちゃけ、セックスしたかどうかも覚えていないが、まあ裸だし、なんならシャワーを浴びたばかりの気配もあるので、やることはやったのだろう。
    「お前、疲れてんな?」
     ザザさんはそう指摘して、タバコを咥えて火を点けてから、その一本を俺の唇に挟んでくれた。それをひと口吸った俺は、「べつに」と答えて、それから「なん、ぼーっとしてた?」と訊いてみる。ヘッドボードのリーディングライトに照らされた彼の顔にはしっとりした輪郭の陰影が差し、そのほんとうはしっかりと凛々しい面差しを際立たせて眩しかった。
    「いや、反応がやけによかった」
     彼はそう言うと、自身の背中を指した。それに促されるようにして、ニルヴァーナの姿勢でいる彼の背を覗き込めば、その隆とした背中には無数の赤い引っ掻き傷。俺は思わず「うげ」と声を上げながら、自身の爪を確認するが、身を清めたあとだからか、もうなんの痕跡もない。「ごめん……たぶん、うっかりしてた」
     正直に謝罪すると、ザザさんは「別に。興奮したしな。すごい声出してたし」などと、とんでもないことを言って俺の口からタバコを取り上げ、それを咥えて吹かした。
    「え? は? 揶揄ってる?」
    「いや? ハメ潮噴いてぐっちゃぐちゃ」
     確かに、シーツに真新しい折り目があるような。向こうで洗濯機が回っている音も、するような。
    「え、え」
    「ストレス発散になったならなにより」
    「うわー!」
     あまりの恥ずかしさに、俺は穴があったら入りたい、を体現しようとコンフォーターを被る。するとザザさんの大きな手が、その内側で俺の腰を掴んで。
    「やだためろ離せ」
     引き寄せられ、藻掻く。
    「なんだよつれねえな。さっきはすごかったのに。すんごかったのに」……二度言うな!
    「うううう」
    「まあそれよりその状態で誰か他の奴に捕まってるときが心配だな俺は」
    「心配しないでね!」
    「心配だろ。はいではさっき俺はゴムしてたでしょうか」
    「え……」その言葉にぞっとしてコンフォーターを捲り、彼を見上げれば、「ほらな」と不服そうに細められた視線とかち合った。
    「ヤバいぞお前、それは」
     それでも彼が「キスしたでしょうか?」とは問わない優しさみたいなものはなんとなく察しているから、今夜のところはいつもみたいに罵ることはできない。俺は「いやほんと……ごめん、です」と、思ったより小さくなってしまった声で謝りながら、謝意を示すためもう一度俺を抱き寄せようとする彼の腕をもう拒まなかった。
    「素直でよろしい」ザザさんはそう言いながら仰向けになると、俺を片腕で抱く。くやしい俺は彼の胸に腕を回し、消えてえ! と強烈に願いながら、その肩口で冷却しようとかっかと熱い頬を擦りつけた。そうしていると、彼は徐ろに「んで、さっきのはクイズか?」と、話題を変えて天井に向かって煙を吐く。
    「え?」
    「複数店舗に出入りしていて、かつ嬢たちと雑談などができる立場……っての」
     そこで俺はさっきまでの身を浸していた思考の、そのただなかの感覚に立ち戻る。そういえば、彼女らとシュウタを送る最中から、ずっとリーカーについて考えていたような気がする。
    「まあ、そうだね」
     俺の返事に、ザザさんは「簡単だろ」と言ってこちらを見た。つまり、彼を見上げていた俺と目が合ったのだが、その事実はなんとなく認めたくない。俺がずっと彼を見ていた、なんて。
    「簡単って……じゃあ、なに?」
     俺が促すと、彼は当然とでも前置きしたげな顔で片方の眉を持ち上げ、言った。
    「ヘアメイクだ」
     その解答に俺は、「くっそ……」と苛立ちの溜め息を吐く。こんなの、いつもだったらすぐに閃いていたはずなのに。


     夕方。メーヴェに出勤すると、俺はなにより先にひとりそろりと女子更衣室に入った。この店で俺は無害と思われているらしく、必要があれば店長と時間帯責任者の他に、唯一女子更衣室に出入りが許可されている黒服である。嬢たちの出勤はおよそ一時間後から始まるうえに、ロッカーは完全個人用の鍵付きなので、今のうちならば侵入がバレたところで角も立たない筈であると見込んだのだ。
     そうは思っていても、どこか息を殺したい心地になりながら、俺は細長い形をした更衣室の奥にあるドレッサーに近づいた。ここはドレスに着替えた嬢たちが、副業として出入りしている外部の美容師見習いなどの手により、希望のヘアスタイルに飾り付けてもらうスペースである。これは多くの店では有料のオプションとして扱われており、一回一律いくらという料金体系で『ヘアメ代』として嬢たちの給料から徴収され、それがスタイリストの懐に入る仕組みである。つまり、数をこなせばこなしたぶんだけ稼げるため、近隣の数店舗を同一人物が担当することも珍しくない。
     俺はドレッサーの抽斗をそっと開けると、中からヘアメイク用の帳簿を取り出した。この店の担当は二人。それぞれの名前の下に用意された表に、ヘアセットを受けた嬢たちのサインと日付が入っている。かなりアナログな記帳方法だが、今なおこれが主流だ。俺は担当二人のうち、ヒナミと初めて出会った日にこの店に出入りしていたであろうスタイリストに目星をつけることにして、その帳簿を遡った。そして該当する日付のサインを見つけると、その日の担当の名前を確認し、彼女が出入りする曜日を割り出した。彼女の欄にサインがあるのは火、金、土、日。……ティアラの三人が副業をしているという曜日と被る。
     それをメモすると、俺は念のためこの部屋に盗聴器が仕掛けられていないかを確認した。こういうのを探るのには慣れているため、さほど時間はかからなかったが──この店には、ない。いくらかの安堵とともに更衣室を出ると、俺は次に事務所を訪れた。
    「店長ー、サビですー今いいですかー?」
     ドアをノックしてそう声をかけると、中から「いーよー」となにか作業中なのか間延びした返事が返ってきたので、そのまま中に入る。奥の事務机でPCに向かっていた店長は「座ってー」と、指で面談用の椅子を持ってくるよう促したので、俺は壁際のそれを引っ張ってきて腰を下ろした。
    「はいはいなんでしょう」
     デスクチェアを回してこちらを振り返った彼は、人当たりよくそう切り出して笑みを浮かべる。年季として顔に刻み込まれたであろう、その嫌味のない営業スマイルに、俺は「いや、つかぬことなんですけど」と前置きしてから、用件を口にした。
    「知り合いにヘアメのバイトやりたいかもって子がいまして。この店は人が足りてるってわかってるんですけど……ほら、金曜とかにいるビヴァリーさん? 掛け持ちしてるっぽいじゃないですか。どの辺り掛け持ちしてんのかなーって。でも俺が訊くとセクハラになっちゃうかもだから訊けないなって」
     ほぼ即興だが、きっと怪しまれはしない内容のはずだ。店長も「なに、女の子?」と自然な反応である。
    「ですですー」俺は笑顔で頷く。
    「そっかー。ビヴァリーさんは『インテルメッツォ』とか『ローシャム』、あとはクラブだけど『渓谷』とかにも顔出してるって聞いたよ。シマの関係があるからその系統だと思って貰えれば。求人サイトにヘアメの項目あるからそこから探してもらうか、ヘアメさんからの紹介あればいけるんじゃないかなー」
     暗に反社の勢力図との関係を匂わされたが、そこは一旦置いて俺は彼に礼を言う。そうして部屋を出ようとすると「いやビビったよ」と、引き留められた。「辞めます、なんて言われるのかと」
    「……辞めないですよ」俺は振り返る。「俺は辞めないです」
    「……そっか。ありがとうね」
     店長に見送られながら事務所を出ると、俺は時間差で出勤予定のザザさんに例のヘアメイクの名前と、今しがた店長に挙げて貰った店の名前を送った。するとすぐに「きょうインテルメッツォと渓谷で稼働してるメンバーがいるな」と、人員派遣情報を確認してくれたであろう返事があった。
    「よし、じゃあヘアメについて探らせて。内容は掛け持ちしてる他の店について。その中にメンバーのいる店があったら、このヘアメがクロだ」
     そう送った直後、俺は真相へ近づいているという予感に、ドーパミンが分泌されている肌感覚を得て、ひとり強く拳を握る。これで事前に、ティアラの三人にとっての脅威が排除できたら……きっとなんの不安もなく歌って踊って、好きなことをして羽搏くための第一歩が踏み出せるはずだから。きっと俺が、助けてやれるはずだから。今度こそ、誰かを。
     意気に躍る胸を宥めつつ、俺は男子更衣室に入る。そのまま私服から制服に着替えていると、再びスマホが震えた。見るとザザさんから「今日のキッチンって誰だ?」というメッセージの通知が。俺は深く考えず、降って湧いた一抹の不愉快さを払拭するように「いや、知らん」と打とうとして、その瞬間、背後でドアがやけに勢いよく開く音を聞いた。
    「おはようござ……」
     振り返って挨拶をする。しようとする。しかしその語尾がたちどころに失せたのは、そこにあのキッチン担当が、真っ黒な目をして立っていたからだ。……これはかなり、よくない感じがする。
    「い、ますー……?」
     慌てて語尾を拾って声にして繕って。でもきっと、俺がどんな反応をしようと今までこの男には関係なかったはずで。
     彼は不機嫌を露わにした大袈裟な挙措でこちらに踏み込んでくると、どう反応したらいいかわからずにいる俺の肩を掴んで、ロッカーの扉に向かって突き飛ばしてきた。素肌に触れるスチールの冷たさが痛い。衝撃で手にしていたスマホが落ち、それが返信途中の画面のまま、手の届かない位置まで滑ってゆくのを絶望的な心地で視認すると、頭のどこかでザザさんが「不意打ち対策しろよな」と言っていた声が再生され、ぞっとする。「ねえ、なに……」尚も穏便にいけないかと期待する俺の声が、役立たずだと自覚できるほどに小さいのは。怖いくらい真っ直ぐ、いや、怖いくらいなにも見えていないぽっかりとしたこの目の前で、足が竦んでしまうのは。……俺がこの目を知っているからだ。性欲に駆られた、ありふれた、男オスの目。
    ──刺すべきだ。
     本能が告げている。
    ──即、処理しろ。
     経験則が訴える。
     その意見の合致に震える瞼。でも俺はやめないから。逃げないから。そう決めたから。……有耶無耶にして済ませたい。なにもかも穏便に流したい。だってそうしなきゃ、社会に参加できない。
    ──じゃあ、どうしたらいい?
     誰も彼も俺も、その問いには答えてくれない。徹頭徹尾孤独。やっぱり俺は罰の渦中。罰を受けたって、贖罪になんかならないのに。
     黒い目が間近に迫る。俺は救いの訪れを期待しない。できない。そんなの有り得ない。力ない手で押し返した男の胸は、ちっとも重くないはずなのにびくともしなかった。
     ああかつて運命だった男へ。
     かつて、俺の運命だった男へ。
     ……たすけてください。
     俺はあの日から、天使を騙った罰を受けている。


     TO BE CONTINUED



    🚬次の一服へ


     
     
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